【8】二日前

「四季宮茜との結婚に最も必要なのは」
 銀山さんは言う。
「親の同意だ。本人の意志じゃない」
 それは紛れもない事実だった。
 そして、事実というのは決して優しいものではない。
 ただそこにあるだけで、想いも感情も伴わず、無機質で冷たい。
「法律は変わった。男女は共に十八歳から結婚できるようになり、親の同意は必要なくなった。だけどそれが何だって言うんだ? 根本的なことは何も変わらないさ。なぜなら、成人するまでの間、子供は大人の庇護下にあるからだ。そして時にそれは、支配下と言い換えることもできる。残念なことにね」
 それも事実だった。
 どうあがいたところで変えることはできず、僕たちは抗う術も持たないままに、蹂躙される。
「たった十数年生きただけの人間が、倍以上生きている生物に太刀打ちできるはずがない。ましてや、相手は自分の価値観を作り出した存在だ。勝負の土俵にすら立っていない」
 事実、だった。
 大きく開いた怪物の口のような醜い穴が、べったりと張り付いた闇と共に僕を飲み込もうとする。
「そう考えると、世の中というのはとても不条理にできていると思わないかい? この人と結婚しなさいと幼い頃に強要され、そうして成人する前に準備を進められてしまえば、本人は何もすることができない。何もだ」
 思えば僕たちの世界というのは、随分と性善説に基づいて作られている。
 そんなことをするはずがない。人としてあってはならない。
 自分たちの理解をはるかに超えたところで生じる行為には、対抗策すら用意されていない。
 致命的なバグだ。度し難い欠陥だ。
 そう恨みつらみを重ねたところで、どうなるわけでもないけれど。
「可哀そうだとは思う。同情すらするよ。生まれながらにして傀儡で、そのまま変わる機会も得られずに人生を終えてしまうなんて、僕なら耐えられないね」
 より恵まれた環境にいる者だけが、弱者を憐れむことができる。
 時に弱者は、自分の不憫さを認知する事すらできない。
 そんな関係のないことを、思った。
「だけど悪いけど、僕はこの件に関しては口を挟まないことにしてるんだ。しょうがないだろう? 僕は争いごとが嫌いなんだ。そんなことに無駄なエネルギーを割くくらいなら、もっと楽しい事に貴重な時間を費やしたい。今更この生き方を変えるつもりはないんだよ。たった一人の、僕とは何の関係もない女子高生のためなんかにね。だからね、藤堂君。あえてもう一度言わせてもらうよ。僕は彼女を哀れに思う。だけど決して助けようとは思わない。だから――」
 銀山さんは言う。
「――僕は明日、四季宮茜と結婚する」

 クリスマスパーティーの会場は、僕たちの住んでいる街から電車で約三十分、繁華街近くにある帝桜ホテルで行われた。
 大理石で出来た床の上をこつこつと歩くと、質の良い絨毯がその音を吸収する。きらびやかなシャンデリアは吹き抜けのホールを品よく照らしていて、少し背伸びをしなければこの場にそぐわないのではないかと、変にそわそわした。
「俺たち絶対浮いてるよな」
「そー? 小さい子も結構いるし、考えすぎなんじゃん? 誰も私達のことなんて見てないってー」
「誰もかれも、お前みたいにずぶとい訳じゃないっての」
「ほっほーん? 失礼なことを言うのはこの口かなー?」
「いてぇいてぇ! ぐりぐりすんな!」
「お願いだから二人とも静かにして……胃が痛い……」
 そんな豪華絢爛なホテルに三者三様な反応をしつつ、僕たちは会場に足を運んだ。
 受付で名前を言うと、すんなりと通してもらえて、ようやく一心地ついた気分になった。
 どうやらパーティーは立食形式らしく、既に何人もの人たちが飲み物片手に歓談していた。壁際には美味しそうな食べ物が所狭しと並んでいて、すきっ腹を刺激する魅力的なにおいを漂わせていた。
「あ、きたきた! 待ってたよ、みんな!」
 四季宮さんの声に振り向いて――そして言葉を失った。
 ドレスコードがあるという話を聞いて、僕をはじめ、御影も織江さんもフォーマルな服を身に着けて来た。
 御影はベストと黒ネクタイが良く似合っているし、織江さんのドレス姿もとても綺麗だった。しかし、どこか着慣れていない雰囲気というのは隠しきれないもので、「背伸びした高校生」を逸脱することはできなかった。
 それなのに――
「ん? どうしたのみんな?」
 四季宮さんは着こなしていた。
 浅葱色のワンピースタイプのドレス。飾りは少ないながら、花柄の網模様が胸元にあしらわれ、控えめについたリボンが腰の高い位置についていて、スタイルの良さを強調している。
 腕の傷を隠すためなのだろう、肩から巻かれた紺色のショールも、それと分からないように完璧に彼女の体を覆っていた。
 端的に言って……美しかった。
「やー、似合ってるなぁと思って。茜ちゃん、めちゃくちゃきれいだね!」
「そ、そうかな? ありがと。織江ちゃんも、とっても可愛いよ」
「ありがとー! 私もこのドレス気に入ってるんだー」
 女の子同士でドレスの話を始めたので、僕と御影はノンアルコールの飲み物をもらって、壁際にこじんまりと収まった。
「いいのかよ、四季宮さんと話さなくて」
「後でいいよ。今はこの場の雰囲気に慣れるので精いっぱいだ」
「気持ちはわかるけど、お前、そんな調子でよく来ようと思ったな」
「……まあ、色々あってさ」
「ふーん。ま、俺はなんでもいいけど。折角だし、飯でも取りに行こうぜ」
「ああ」
 段々と緊張も解け、空腹を感じ始めていた僕は、御影の後について行こうとした。
 その時だった。
「和夫君。博士号取得おめでとう。これで全ての条件は整ったわけだね」
 ふと、隣で話している男性二人の声に意識を取られた。
 一人は六十半ばくらい、もう一人は四十くらいの、身なりのいい成人男性だった。
「はは、気が早いですよ先生。審査はもう少し先じゃないですか」
「なに。あれなら問題ないさ。私の口添えもあることだしねぇ」
「何もかも、先生のお力添えあってこそです」
「堅苦しい事は言いっこなしだ。今日はぱーっと飲もうじゃないか!」
「ありがとうございます。しかし……茜のこと、本当によろしいんですか?」
 足が止まる。
「構わん構わん。君の異動のこともある。総合的に考えれば、今のタイミングがベストだろう」
「本当に申し訳ないです……妙な病気を発症してしまって」
「気に病むこたぁない。そもそも、うちのバカ息子がさっさと原因を突き止められないのが問題なんだ。私からも、きつく言っておくよ」
「お心遣い、痛み入ります。それで――」

「おい」
 はっと顔をあげると、御影が怪訝な目で僕を見ていた。
「早く行こうぜ? 腹減ったよ」
「あぁ、ごめん……」
 ちらりと視線を横に向けると、二人は僕たちなんて全く気にかけないまま話し続けていた。
 僕はあの人たちのことを知っているけれど、あの人たちは僕のことなんて知りもしない。こうして数メートルしか離れていない場所にいても、目には見えない、透明の分厚い壁が邪魔をしている。
 向こうの世界に僕は干渉できない。
 何も、できない。
 分かっている、それが現実だ。
 例え言いたいことが山ほどあるとしても、苦々しい味がするそれを飲み込まなくてはならないことくらい、分かっている。
 ぐっとこぶしを握りこんで。
 僕はその場を後にした。

 三十分もすると、パーティー会場にはかなりの人が集まってきて、部屋の温度が少し上がったようだった。
 襟付きシャツの第一ボタンを外しながら会場を見渡すと、いくつものグループができていて、みな思い思いに歓談していた。自己紹介から入るグループもあれば、旧知の知り合い故に、親交を温め直しているところもある。
 御影と織江さんはといえば、いくつか年下の女性に絡まれていた。なんだか大変だな、と遠目に見つつ、僕は会場から少し離れることにした。少し人酔いしたようだ。
 廊下に出ると、空気が澄んでいる気がして、ほっとした。
 見れば、廊下に置かれたソファーで談笑している人たちもいる。僕と同じように人ごみに疲れたのか、あるいは静かな場所で話がしたかったのか。どちらかは分からないけれど、僕もその人たちに溶け込むべく足を向け――少し歩いたところで、見知った人に出会った。
「あら、あなたは――」
 四季宮さんのお母さんだった。
 黒を基調とした上品なドレスに身を包み、手にはシルクの手袋をつけていた。
「今日は茜のわがままを聞いてくれて、ありがとうございます。あの子、すごく喜んでました」
「とんでもないです」
 お母さんは顔色が優れないようだった。僕と同じく、人酔いをしたのだろうか。
 パーティー会場でもたびたび見かけてはいたけれど、旦那さんと思しき人の横で控えめに笑うだけで、心底楽しんでいるようには見えなかった。体調が芳しくないのかもしれない。
「人が多くて大変かもしれませんが、良かったら茜とたくさん話してやってくださいね」
 そう言ってお母さんは少し疲れた笑み浮かべた。
 ふと、右手首の辺りに巻かれた包帯が手袋の隙間から垣間見えて、僕は口を開く。
「右手の怪我、大丈夫ですか?」
「え?」
「いえ、その……前に伺った時も包帯を巻かれてたので、つい」
 しまった、余計なお世話だっただろうか……。
 四季宮さんのお母さんは、そっと隠すように手袋を引っ張りあげながら、控えめに笑った。
「お気遣いありがとうございます。大した怪我じゃないんですけど、この年になると治りが遅くて……」
「す、すみません。踏み込んだことを聞いてしまって」
「いえ、いいんですよ。それに――」
 すっと、整った顔に影が差す。光の加減だろうか、一気に歳を取ったように錯覚した。
「これは自業自得ですから」
 深く追求する間もなく、四季宮さんのお母さんは去っていった。最後のつぶやきは、僕にぎりぎり聞こえるくらいの、本当に小さな声量だった。
 自業自得……一体どういう意味だ?
 しばらく考えてはみたものの、ついぞ答えは出なかったので、僕は考えるのをやめて歩き出した。
「真崎君」
 少し歩くと、ぽんと後ろから肩を叩かれた。今度は四季宮さんだった。誰かからもらったのであろう小綺麗な紙袋を後ろ手に持ち、「やあ」と片手を挙げた。
 相変わらずひときわ突き抜けて美しいドレス姿に、僕は一瞬目が泳いでしまう。
「今、お母さんと喋ってなかった?」
「ええ。ちょっと挨拶しただけですけど。なんだかお疲れみたいでした」
「あはは……。お母さん、こういうパーティーちょっと苦手だからね。いつも途中で一回抜けるんだー。真崎君は大丈夫? 疲れちゃった?」
「少しだけ。僕もこういう場には、あんまり慣れてないみたいで」
 四季宮さんが綺麗な形の眉をハの字にしたので、慌てて付け加える。
「でも、楽しいです。誘ってくれて、ありがとうございます」
 瞬間、ころっと表情が変わって、嬉しそうに頬を緩ませる。
「ならよかった。私も、真崎君が来てくれて嬉しいよ」
「そんなこと言ってくれるの、四季宮さんくらいですよ」
「だって、真崎君のそういう恰好見るの初めてだし……」
 四季宮さんの声に釣られて目線を落とす。
 無地のカッターシャツに深緑色のカーディガン。ちょっとフォーマルは意識しているとはいえ、会場にいる人たちに比べれば地味なもので、取り立てて注目するほどのものでもないと思うけど……。
「うん、とってもカッコイイよ」
「ありがとう、ございます……」
 直球で褒められると照れてしまう。
 僕は意味もなく前髪を触ったりしながら、何か違う話題を切り出そうと目線を宙にさまよわせ――

 目の奥で線香花火が散った。

 僕たちに――いや、四季宮さんに話しかけている銀山成明の姿が視えた。
 銀山さんは、僕には一瞥もせず、ただ四季宮さんだけに目を向けていた。
 四季宮さんも、少し困ったような顔をしながらも彼に応えていた。
 僕はただ、その様子を眺めていた。
 眺めていることしか、できなかった。
 セピア色の世界の中で、僕という存在は爪弾きにされていた。
 その光景に胸の奥が鈍く傷む。鼻の奥がツンと引きつった。
 改めて知る。
 僕は、彼女たちの世界に干渉できない。
 僕の住む世界と、四季宮さんが住む世界の間には大きな隔たりがあるのだ。
 僕たちは同じ高校のクラスメイトで、偶然にも秘密を共有していて、それが奇跡的に二人をつなげてくれてはいるのだけれど。
 家柄が、身分が、年齢が、見えない壁となって二人の間にそびえたっている。
 だから僕は何もできない。
 クラスメイトの一員以上の何かを、求めることはできない。
 分かっている、分かっているんだ。
「それでね、真崎君。私――っ⁉」
 四季宮さんのほっそりとした手首をつかんで、僕は足早に歩き出した。
「ま、真崎君、どうしたの?」
「すみません、ちょっとだけ、付いて来てください」
 行く当てがあったわけじゃなかった。
 とにかくここでなければ、銀山成明が来ない場所であればどこでも良かった。
 くだらない意地を張っていた。
 ここで四季宮さんと銀山さんを会わせなかったからといって、何かが変わるわけじゃない。だけど――ほんの少し先。六十秒後の未来に、あらがいたくなったんだ。
 少し進んだ先に、テラスに出る場所があったので、僕は空いた手で扉を開いて、外に出た。
 扉が閉まって、パーティー会場から聞こえる喧騒は、くぐもった音になってほとんど聞こえなくなった。
「真崎君、あの、手……」
 冷たい空気が急速に頭と体を冷やして、僕はあわてて手を離した。
「ご、ごめんなさい……」
「ううん、ちょっとびっくりしちゃっただけだから、気にしないで?」
 四季宮さんは急な僕の行動に、疑問を挟まなかった。
 夜空を見上げて「風、気持ちいいね」と静かに言った。
「あ、あの、すみません。突然こんなところに連れてきて……。さ、寒いですよね」
「大丈夫。ほっぺた火照ってるから、ちょうどいい感じだよ」
「なら、よかったです」
「それに、私も真崎君と二人きりになりたかったから」
 え? と声と視線をあげると、四季宮さんが後ろ手に持っていた紙袋を持ち上げた。
 誰かからもらったものとばかり思っていた、上品な紙袋。
 それが今、僕に差し出されている。
「こ、これは?」
「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼント。よかったら、もらって欲しいな」
「く、クリスマス⁉」
「プレゼント」
 頷きながら、四季宮さんは笑った。僕の反応が面白かったらしい。
 僕は彼女の笑顔に目を奪われそうになりつつも、あわてて口を開いた。
「え、と。その、でも僕なんかが貰うのは悪いと言うかというかそもそも僕何も用意してないですしお返しできないのでもらうのも悪いというかその……」
「もー、真崎君!」
 もごもごと喋っていた僕にもたれかかるように、四季宮さんはきれいにラッピングされた袋を押し付けた。
「わっ……」
「はやくもらってよ! せ、せっかく、選んだんだから……」
 四季宮さんは目をそらしながら呟いた。頬がわずかに上気している。
 これ以上断るのは失礼だと言うことに、さすがの僕も気付いた。
「ありがとう、ございます……」
 僕はお礼を言いつつ、そっと袋を開けた。
 中から出てきたのは、青藍色のマフラーだった。
「ど、どうかな……?」
「う、嬉しいです……すごく」
 試しに巻いてみると、とても暖かく、肌触りも素晴らしかった。
 僕の言葉を聞いて、四季宮さんの表情はぱっと華やいだ。
「よかったぁ! うん、すっごく似合ってるよ! その色、絶対真崎君に合うと思ってたんだ!」
「その……大切に、します」
「ふふ、とーぜん! 擦り切れるまで使ってね?」
「擦り切れるような使い方はしませんよ」
「えへへ、そっかそっか」
 弾むような足取りで、四季宮さんはテラスの端に向かった。
 手足の傷を隠すため、四季宮さんは肌の露出が少な目だ。腕にはショールが、足元はタイツが、それぞれ防寒の役割を果たしてはいるだろうけれど、それでもやはり、十二月の寒空の下にいるには心もとない。
 ここで僕の上着をかけたり、それこそマフラーを巻いてあげたりするのが、紳士的な行為なのだろうと思いはする。だけど「これは真崎君に使って欲しいの!」と四季宮さんには怒られてしまいそうだから。
 僕は黙って隣に並ぶにとどまった。
 心臓がバクバクと鳴る。
 渡すなら……今しかないだろう。
「あ、あの!」
 情けないことに裏返ってしまった声を必死に咳払いで戻しながら、僕はポケットの中から箱を取り出す。
「一日早いですけど、お誕生日おめでとうございます」
「……え?」
 四季宮さんはぽかんと口を開け、僕と、僕の手の上にある箱を交互に見た。
「これ、私に……?」
「はい」
「開けてもいい……?」
「はい」
 かぽっと、スライド式の箱が開く。
 シンプルな、シルバーのブレスレット。
 御影と織江さんに何度も相談して、ようやく決めたものだった。
 女性の意見も聞いているし、デザインは問題ないはずだけど……。
 四季宮さんは、箱を開けたまま、動かない。
 やばい、もしかして失敗した……?
「え、えっとその、形に残るものと残らないもの、どっちがいいかなあって悩みはしたんですけど、すぐなくなっちゃうのも味気ない気がして、ブレスレットって、多分四季宮さん持ってないんじゃないだろうかなあと思ったり……思わなかったり、つまり、そのぉ……」
 間が持たなくなって。
 僕は正直に、言う。
「……手首の傷が消えた後も、僕のことを思い出してもらえたらな、なんて……」
 おそるおそる。
 様子を伺う。
 はっとした。
「四季宮、さん……?」
 音もなく。
 四季宮さんの両目から、涙があふれていた。
「だめ、だよ……こんなの……」
 桜色の唇が、細やかに震える。
「今日は、ずっと笑ってようと思ってたのに……最後だから、明るく振舞ってようと思ったのに……」
「……あ」
 最後、と言った。
 その言葉を、僕は聞き逃さなかった。
「真崎君にマフラー渡して、今までのお礼を言って、今までのお詫びもして、それできっちり、ケジメをつけようと思ってたのに……っ」
 やがて、その美しい声すらも震え始めて。
 頬の上を流れる透明な涙は、止まる気配すらなくて。
「真崎君……嬉しいよっ……君のくれたプレゼント、すごく嬉しい。嬉しいっ……嬉しいよっ……! こんなに……こんなに嬉しいのにっ……」
 やがて四季宮さんは、僕の胸に、額を付けた。
「苦しいよ……真崎君っ……!」
 それはもしかしたら。
 僕が彼女に出会ってから初めて聞いた。
 四季宮さんの弱音だったかもしれない。

 そして、僕は知る。
 僕は聞く。
 銀山成明の口から、その言葉を聞く。
「――僕は明日、四季宮茜と結婚する」

「……随分、急な話ですね」
 あれから。
 泣き晴らした四季宮さんが、手洗い場に向かい。
 それと入れ替わるようにして入ってきた銀山さんが、僕に告げた。
「僕と彼女は、現在婚約状態。婚約というのは、法的な拘束がない。ただの口約束みたいなものだよ。破棄しようが踏みにじろうが、別になんの罰も受けやしない。だけど、今度のはわけが違う」
 銀山さんは、スマートに着こなしたスーツに見合わない、スナック菓子を片手で開けながら、気だるげに柵に寄り掛かった。
「籍を入れる。高校生の君にだって、これが何を意味するか、分からないわけじゃないだろう」
 僕は、言う。
「どうしてそんなに急ぐんですか」
 銀山さんは答える。
 他人事、みたいに。
「父さんが茜ちゃんにえらくご執心でね。僕たちの家の近くに引っ越させて、秘書業務をやらせようって魂胆みたいだよ」
「秘書、業務……」
 なんだよ、それ……。
 この人たちは、四季宮さんの人生を何だと思っているんだ……?
 地元から離され、友人たちとの関係性を絶たれ、大学にも行かせてもらえず、好きな人も作れずに、ただ薄汚い大人の思うがままに弄ばれる。
 そんな……そんなことが……!
「許されるわけ、ないじゃないですか……っ!」
「ま、そう思うのが普通の感性だよな」
 シニカルに笑う。
 何が面白くて笑っているのか理解できなかった。
「残念なことに、僕の家族も彼女の家族も普通じゃない。父親はそろってクズ。茜ちゃんの母親に至っては気弱すぎて話にならない。僕の方の母さんは既に他界しているし、当の茜ちゃんは、小さい頃からの教育で、父親に逆らうことすらできない状態だ」
 盤面は詰んでるよね、と対岸の火事を眺めるように言って、スナック菓子を噛んだ。
 静かな夜に響く、さくさくとスナック菓子を消費する音が、僕の神経を逆なでする。
「あなたは、どうなんですか……」
「なに?」
「あなたが拒否すれば、四季宮さんは助かるじゃないですか……? この状況が狂ってると、一番わかっているはずなのに……なのにどうして……どうしてそんなに、のんびりしてられるんですか!」
 熱が入って、最後の方は声が荒くなった。
 それでも銀山さんは、眉一つ動かさない。
 手に着いたスナック菓子の粉を払いながら、僕とは正反対に、静かな声音で言う。
「残念ながら、僕は医者としての才能があまりなくてね。父さんの威光を笠に着ないと、生きていくために相当頑張らなくちゃいけないんだよ」
「……は?」
 ……何を言っている?
「僕は楽に、楽しく生きていたいんだ。頑張るのは好きじゃないし、争いごとなんてもっとごめんだね。このまま順当にいけば、金持ちの僕と遊びたいだけの、結婚願望のない、都合のいい女の子をはべらせながら、適当に仕事をこなして生きていくことができるんだよ」
 この人は一体……何を言っているんだ?
「父さんに逆らうってことは、その人生を捨てるってことだ。たった一人の女子高生のために、どうして僕がそこまでしなくちゃいけないんだ? さっきも言ったろう? 同情はするさ。だけど手を出しはしない。それが僕の結論だよ」
 ふざけるな……。
 ふざけるな……ふざけるな、ふざけるな!
 ふざっけるなよ!
 あなたならこの状況を変えられるはずだ!
 あなたなら四季宮さんを救えるはずだ!
 あなたがその気になれば、この狂った盤面をひっくり返すことだってできるかもしれないのに!
 なのにそんなくだらない理由で!
 そんなちっぽけな理由でっ!
 四季宮さんを見殺しにするのかよっ!
 四季宮さんが、どんな気持ちでいるか……

『苦しいよ……真崎君っ……!』

 あの言葉を言わないように、どれだけ我慢してきたか、あんたに分かるのかよ!
 目の前が真っ白になり、後頭部がかっと熱くなって、僕は足を踏み出した。
 次の瞬間、
「暴力はよくないね」
 涼しい顔をして、銀山さんは僕を見下ろして言った。
 掴みかかろうとした僕を、片足一つで転ばせて、両手にはスナック菓子の山を抱えたまま、微動だにしていない。
「……くしょう……っ」
 自分の無力さに、反吐が出そうだった。
 腹が立って仕方がなかった。
 怒りとやるせなさで、体が小刻みに震えている。
 それでもなんとか片足をついて立ち上がりながら、僕は声を絞り出した。
「……病気のことはどうなるんですか」
 銀山さんは形の良い眉をぴくりと上げた。
「なんだ、やっぱり知っていたのか。ずいぶんと好かれているんだね、君」
 違う……僕はたまたま知っただけだ。
 信用されたから、話してもらったわけじゃない。
「どうやら簡単に治る病気じゃなさそうだからね。脳波の測定や、カウンセリングも含めて、最先端の治療を用意するつもりみたいだよ。自分の近くに置くのは、それも一つの理由なのかもしれないね」
「四季宮さんは、あの病気があれば、自分はしばらく結婚しなくて済むって――」
「ああ。父さんはあれで小心者だからね。世間体を気にしたほうがいいって理由で、しばらくは抑えられてたけど……それも限界みたいだ」
「……抑えられていた?」
 妙な言い回しだ。
 それじゃあまるで、本心では四季宮さんのことを心配しているみたいじゃないか。
 一瞬思考を乱されて、次の言葉につなげるのが遅れた。
 その隙に、銀山さんが口を開く。
「しかし君――藤堂君、だっけ。さっきからごちゃごちゃと、まるで言い訳がましい男だね」
「言い訳がましい……?」
 僕の思考を遮るように、銀山さんは続ける。
「家族も婚約者も、自病すらも、彼女を救うことはできない。状況はどうしようもないくらいに詰んでいて、馬鹿みたいに時代錯誤な話が、馬鹿みたいに本気で進められている。一人の少女が犠牲になることで、歪な舞台の上で汚らしい大人が笑っている。ふざけてると思わないか? はらわたが煮えくり返るくらい、憎いと思わないか?」
 思う。
 思うさ。
 だからこそ僕は、あなたに四季宮さんを助けてもらいたいと――
「だったらもう、答えは一つしかないじゃないか」
 銀山さんは言う。
 
「君が助けなよ」

「……は?」
「は、じゃない。君しか残ってないだろう、彼女を助けられるのは。四季宮家と銀山家は明日の十八時に、このホテルで両家の顔合わせやらの手続きを進める。そのまえに、彼女を連れて逃げればいい」
「ち、ちょっと待ってくださいよ!」
 思考の整理がつかなくて、僕は銀山さんを制止した。
「急にそんなこと言われても、頭回りませんし……。そ、そもそも銀山さん、言ってることが無茶苦茶ですよ……。四季宮さんを助ける気はないとか言いながら、自分が結婚を遅らせていたみたいな言い方したり、僕に明日の予定を教えてきたり……わけ、分かんないですよ」
「くだらないね」
 実にくだらない、と銀山さんは繰り返した。
「僕が何を考えていようが、僕がいいやつだろうが、悪いやつだろうが、度し難いクズ野郎だろうが、君には関係のない話だろう? ……なあ、藤堂君。いい加減目を背けるのは止めにしないか」
「……僕が、何から目を背けてるって言うんですか」
「彼女を助けられるのは、君しかいないという事実からさ」
「助けるって、だからそんなの――」
「なに、簡単だよ。逃避行ってやつをすればいい。駆け落ちの一つや二つ、昔はよくあったことさ。現代でだって、まあできないわけじゃない」
「そんな、こと……」
 そんなこと、できるわけないだろ……!
 握りしめたこぶしで柵を殴りつけて、僕は苛立たしく口を開く。
「無理ですよ。だって僕たちはまだ高校生だし、そもそも逃げるって言ったってどこに行けばいいんですか。両家とも血眼になって探すだろうし、財力だって権力だってけた違いじゃないですか。そんな人たち相手に、僕たちがどうやって――」
「はあ。御託が長いね。どうやら君も、重症なようだ」
 銀山さんは、やれやれ、と首を横に振った。
 まるで、聞き分けのない子供に手を焼いているように。
 僕は奥歯をかみしめる。
 あんたは他人事だから、そんな無責任なことが言えるんだ。
 逃避行? 駆け落ち? バカなことを言わないでくれよ!
 相変わらずぼりぼりとのんきにスナック菓子を食べ続ける銀山さんに、無性に腹が立った。
 いらいらと頭をかきむしる僕の視界に、銀山さんが両手に抱える、スナック菓子の容器が映った。赤いフェルトでできた容器は靴下の形を模していて、可愛らしいリボンがくっついている。まるで誰かにもらった、プレゼントみたいだった。
「……プレゼント?」
 はたと気付く。
 そういえば、僕は四季宮さんからマフラーのプレゼントをもらったけれど。
 彼女は立場上、僕なんかよりも優先してプレゼントを贈るべき相手がいるのではないだろうか?
 そしてその人物は、今両手に大量のスナック菓子を抱えていて――
 僕の視線に気づいた銀山さんは、赤い靴下型の容器を軽く持ち上げた。
「ん? ああ、これ? お察しの通り、茜ちゃんからのクリスマスプレゼントだよ。なかなか強烈だと思わないか?」
 山盛りのスナック菓子。
 あれが銀山さんへの、クリスマスプレゼント……?
「くくっ……このプレゼントを見た時の茜ちゃんの父親の顔ったら、傑作だったな。『高校生のお小遣いだと、これくらいが限界で……』だってさ。あの一幕を見られただけで、十分すぎるくらいのプレゼントだ。いや、愉快愉快」
 そう言って銀山さんは、からからと笑った。
 僕は、首に巻いたマフラーにそっと手を当てた。
「……なんだい、その目は。あげないよ?」
「いりません」
「結構美味いのに。あげないけど」
 だからいらないって。
 四季宮さんからもらったスナック菓子を、大切そうに食べる銀山さんは……僕にとっては憎むべき相手のはずなのに――事実、はらわたが煮えかえるくらいにむかっ腹が立っているのに、どこか嫌いになりきれなくて、それがまた腹立たしかった。
「茜ちゃんは面白い子だよ。自分の運命に逆らえないことを知りながらも、それでも懸命にあがいてる。ただ僕がみるに、もう一つピースが足りない」
「だったら――」
「そこで君だよ」
 銀山さんはまっすぐ僕を見つめた。
「さっき君が茜ちゃんの手をひいて、このテラスに移動した時、僕は思ったんだよ。この子なら、もしかしたら茜ちゃんを救えるんじゃないかってね」
「……話が飛躍しすぎてます」
 たしかに僕はさっき、四季宮さんをテラスに連れてきた。
 だけど、その理由は決して褒められたものではない。
 ただ、銀山さんと彼女を鉢合わせたくなくなかっただけ。
 爪弾きにされた世界にいる自分を見たくなかっただけ。
 そんな稚拙で、利己的で、矮小な気持ちでしか動けない僕に、四季宮さんを助ける資格があるとは思えない。
「いや、飛躍してなんてないさ。茜ちゃん一人なら無理だった。だけど、誰か彼女に寄り添うことができる子がいるなら――可能性はゼロじゃない。だから僕は君に、明日の予定を話したんだよ」
「やめてください……僕は……僕なんかが……」
 何かが落ちる音がして、次いで体に衝撃が走る。
 僕の両肩を銀山さんが掴んでいた。
「聞くんだ」
 銀山さんの目は本気だった。
 本気で僕を説得しようとしていた。
 その力強い声音をうらやましく思った。
 あなたほど自分に自信が持てるスペックがあれば、どれだけよいかと思った。
 そうすれば僕だって。
 僕だって……っ!
「もう一度言うよ、藤堂君」

「君が、四季宮茜を助けるんだ」