【5】五十二日前
 
 銀山成明(ぎんやま・なりあき)という人物に出会った時、僕は世界の不条理さというものを、改めて感じることになった。格の違いというものを、具現化して、人の形にして、それをまざまざと見せつけられている気分になった。
 銀山成明は医者だった。高身長だった。スリムだった。猫の目のように悪戯っぽく、犬のように人懐っこい瞳の中には、理知的な光が宿っていた。顔立ちは整っていた。仕立ての良い服を着こなしていた。身に着けている全ての物が高級そうで、全身から品の良さを感じた。
 いや……違う、こうじゃない。
 いくら言葉を並べ立てても、どの言葉も正鵠を射ているような気がしない。
 ただ単純に、一言。
 たった一言で言い表した方が、しっくりくる。
 銀山成明は勝者だった。
 おそらく何事においても、あらゆる勝負事や障害といった、人生の中で横たわっている困難を目の前にして、彼はことごとく勝ってきたのだろう。
 勝負に負け、あるいはそもそもリングの上にすら立たなかった僕とは、対照的に。
 比較対象にするのもはばかられるほどに。
 そう、思わされた。
「茜ちゃん。迎えに来たよ」
 放課後、僕と四季宮さん、そして八さんの三人は、駅近くのファミレスに向かうべく、学校を後にしていた。今日はそこで、四季宮さんの婚約者について、話を聞く予定だった。八さんもあの場にいたので、一緒に説明をしてくれることになっていたのだ。
 けれど。
「近くに車を止めてある。家まで乗せて行ってあげるよ」
「銀山、さん……。どうしてここに……?」
 四季宮さんが彼の名前を読んだ瞬間、僕はこの人が婚約者なのだということを、半ば本能的に察した。
「父さんたちからの呼び出しだよ。聞いてない?」
「私のところには、何も……」
「そうか。まあ、二人とも忙しいからね。伝え忘れたのかもしれない」
「あの、今日はこれから用事があって――」
 四季宮さんの言葉を遮るように、男は首を横に振る。
「残念だけど重要な話があるらしくてね。今日は来てもらわないと困るんだ」
 そうして、理知的な光をたたえた目を僕らに向けて、続ける。
「お友達かな? 初めまして、銀山成明といいます。申し訳ないんだけど、今日のところは予定をキャンセルしてもらえないかな?」
 僕と八さんが何か言う前に、声をあげたのは四季宮さんだった。
「そ、そんな勝手な……!」
「勝手なのは父さんたちの方さ。そして君も、こういう事態には慣れた方がいい。僕も今日は、もともとあった予定を断って来てるんだよ」
「それは私とは、関係ないじゃないですか」
「茜ちゃん……それを今、僕に言われても困るよ。文句があるなら、直接、父さんたちに言った方が効果的だし、生産性もあるだろう? 僕の方が言いやすいし、責めやすい気持ちは分かるけどさ」
「せ、責めるなんて、そんなつもりじゃ……」
「ごめんごめん。少し、意地の悪い言い方だったね。とにかく、ここで僕たちだけで話をしていても、解決しない問題だと思わない?」
「それは……」
 四季宮さんは終始、歯切れ悪く答えていた。
 僕がこれまで四季宮さんに抱いていた印象は、自由、だった。
 何事にも縛られず、死に至ろうとする病を相手取っても、明るく生きる。ポジティブという名の翼を背中にはやして、大空を自由に飛び回る、そんなイメージ。
 だけど今、四季宮さんは、まるで鎖に縛られているかのように、歯切れ悪く、不自由そうに言葉をつないでいた。
 やがて四季宮さんは、視線を地面に落としながらつぶやいた。
「分かりました……。先に駐車場に向かっていてください。私は少しだけ、二人に話があるので」
「了解、準備しておくよ」
 それじゃあ。とさわやかな笑みを残して、銀山さんは去っていった。
 すらりとした後ろ姿が曲がり角の向こうに消えると、四季宮さんは口を開いた。
「あ、はは……。ごめんね、急に。びっくりさせちゃったよね」
「やはー。話には聞いてたけど、実物は初めて見たなー。やっぱり、あの人が……?」
 八さんの問いに、四季宮さんは頷いた。
「うん、私の婚約者。銀山成明さん。私のかかりつけの病院で働いてる、お医者さん」
「ハイスペックだねえ……。前世でどんな善行積んだら、あんなふうに生まれ変われるんだろ」
 八さんの軽口には付き合わず、四季宮さんは僕の方を向いた。
「今日、説明するって言ったのに、ごめんね。明日は大丈夫だと思うから、また放課後に――」
「いいですよ、気にしなくて」
 僕は答える。
 自然と、笑っていた。
 脳裏にこびりついた、銀山さんの笑顔が離れなかった。
「そもそもわざわざ機会を作って説明をしてもらう方がおかしい話なんですよ。婚約者がいます、はいそうですかって、ただそれだけのやり取りで済む話じゃないですか。むしろ四季宮さんに無駄な時間を使わせずに済んでよかったって気持ちでいっぱいですよ」
「真崎君……」
「すごくいい人そうですね、なんだか安心しました。いや安心しましたなんて言う立場じゃないですよね、あはは、すみません。お医者さんでお金持ちでスマートで背が高くてセンスが良くて笑顔が素敵で。うん、四季宮さんにぴったりじゃないですか」
「真崎君……お願い、少しだけ話を――」
「それに」
 止まらない。
 言葉が、止まらない。
 自分を守るためのくだらない言葉が。
 現実逃避をするための無意味な言葉が。
 膿を絞り出すみたいにあふれて仕方がなかった。
「ぼ、僕たちは最近ちょっと一緒に遊んだだけの仲じゃないですか。そりゃあ僕は友達がいませんし、四季宮さんくらいしか遊ぶ相手はいませんでしたけど、四季宮さんはそうじゃないでしょう? たくさんいる友達のうちの一人。それが僕です。だから……だから僕にそんなプライベートなことをいちいち説明する必要ないですよ」
 どれだけ科学が発展しても。
 いまだに開発されていない技術がある。
 一度口にしてしまった言葉を、取り消す方法。
 相手に届く前に、相手が理解する前に、なかったことにする方法。
 いかなる事情があったとしても、口から出た言葉は空気をふるわせ、相手の耳に届き、鼓膜をゆさぶり、電気信号となって脳内を走り回った末に、僕の意図を相手に届ける。
 今日日(きょうび)、メッセージアプリですら削除機能があるというのに、まったくもって、口頭でのやりとりというのは原始的でしょうがない。
 どれだけ取り消したいと願っても、心の底から後悔しても、一度口にしてしまった言葉には責任が伴うなんて、やり直しがきかないなんて、ちゃんちゃらおかしいじゃないか。
 そんな余談に。
 現実逃避に。
 僕がふけっている間に、四季宮さんは姿を消していた。
 最後の僕の言葉に、彼女はなんて返したのか、まったく記憶になかった。
 もしかしたら、何も言わなかったのかもしれないけれど。
 だけどせめて、彼女の顔くらいは、見ておくべきだった。
 相手の目すら直視せずに、一方的に言葉を投げかけるなんて……どこまでも僕は、卑怯者だ。
「えー、っと。藤堂君?」
 ぽんと肩を叩かれる。八さんだった。
 てっきり、もうとっくの昔に帰ってしまったと思っていた。
「な、なんでしょうか……」
「ぐーって、奥歯噛んで?」
「おくば……?」
「そ、ぐーって。うん、そっそ、そんな感じ。しばらくそのままでいてねー。いくよー! せーのぉっ!」
 肺から空気が抜ける音がした。
 衝撃と、次いで思い出したように鳩尾に走る痛み。
 なるほど、奥歯を噛ませたのは、反動で舌を噛んでしまわないようにするためか。優しいんだかそうじゃないんだか、いまいち判断に困る行為だ。
 痛みと吐き気に悶えながらも、頭のどこかの一部は冴えているようで、そんな毒にも薬にもならないことを考える。
「がはっ……はっ……ぁっ……げぁ……」
「藤堂君。私はねえ、今、大変に怒っています」
 ……でしょうね。
 怒ってないのに人を殴るような人じゃなくて、逆に安心しました。
 依然、えづいてまともに会話できない僕を見下ろしながら、八さんは、
「つーわけで、反省会するよ! ファミレスまでちょっと面貸せやー、だよ!」
 四季宮さんもなかなか強引だったけど、この人も強烈だな……。
 まだ完全に回復していない僕を、半ば引きづるように、有無を言わさず歩かせる八さんの姿を見て、そう思った。

 ※

「なーんか藤堂君って、サバの味噌煮って感じの顔してるよねー」
 絶妙に反応に困るセリフをありがとうございます。
 ドリンクバーから戻ってきて早々、なかなかいいパンチを放ってくれる。
「はあ……」 
「えー、反応薄くなーい? こんなに褒めてるのに」
 褒めてたのか。分かるか、そんなもん。
「そ、そんなことより、八さん――」
「次、私のことを苗字で呼んだら、藤堂君の体中にハチミツ塗りまくって山の中に放り出して、裸一貫男のカブトムシ祭りを開催する準備がこっちにはあるけど、どう?」
「すみません、こっちには準備がないです」
「ふっ、なら次から私のことは、織江ちゃん、と呼ぶことだな。もしくは織江さん、でもギリギリ可。じゃないと……この先の宇宙戦争で生きていけないぜ、藤堂将軍?」
 世界観が全然分からない。せめて統一して欲しい。
 女子を下の名前で呼ぶのには抵抗があるけど……仕方がないか。
 八さんが自分の苗字を好きでないことは有名だった。なんでも、犬っぽいから嫌なのだそうだ。猫派なのだろうか。
「ちなみに私は、藤堂君のこと、苗字で読んだらいい? 名前で呼んだらいい?」
「どっちでも大丈夫です」
「んじゃ、藤堂君で。いいよね、かっこいい苗字。私の結婚したい苗字ランキング第二十三位くらいにランクインしそー」
 また微妙な順位だな……。
「ちなみに、私が結婚したくない苗字、堂々の第一位はポチ。次いでぺス」
 そんな苗字の日本人がいてたまるか。
 どうにも、ツッコみどころの多い人だ。話す言葉の一つ一つが独特な感性で形作られていて、絶妙なバランスで仕上がっている、現代アートみたいな印象を受ける。
 猫毛なボブヘアーをくりくりといじりながら、八さん……もとい、織江さんは言う。
「なかなかツッコんでくれないね」
「すみません」
「だけど心の中ではツッコんでくれてると見た」
「……」
「しかも割とキレキレの言葉で」
 キレがあるかどうかは置いとくとして、その他はまあ、当たりだ。
 そんなに顔に出ていただろうかと、頬をかく。
「ま、ぜーんぶ茜ちゃんの受け売りなんだけどー」
「四季宮さんの……?」
「そっ。『真崎君って普段はあんまり喋らないんだけど、でも実は結構お喋りだと思うんだよね。最近は段々と素の部分が出てきてる気がして嬉しいんだー』ってさ」
 心臓を。
 わしづかみにされたような気がした。
 四季宮さんが、そんなことを……。
 荒れた呼吸を整えつつ、織江さんの話に耳を傾ける。
「最近の茜ちゃんったら、藤堂君のことを話す話す。まったく、私ってば柄にもなく嫉妬しちゃいそうになるくらいだったぜー」
 あ、嘘だよ? 勢いで言っただけだから気にしないで? とすかさず織江さん。反応に困ったので、僕はメロンソーダに口をつけた。
 そうか、四季宮さんが僕の話を……。
「家で服装をほめてもらった話とか、プールで一緒に遊んだ話とか、その他もろもろまとめて全部、すっごい楽しそうに話してくれたんだよ。へい、思い出の活け造り盛り合わせ一丁あがりぃ! って感じ」
 織江さんは、一セリフに一回ボケないといけない縛りでも自分に課しているんだろうか。
 いちいち反応しているとキリがないので、適度にスルーすることにした。
「だからさ」
 一転。
「あんな風に言われたら、茜ちゃん、きっとショックだったと思うんだ」
「……はい」
 それまでのセリフとは打って変わって、飾らない、ストレートな言葉は、僕の胸をざくりと貫いた。じんじんと熱を持っているみたいにうずく気がして、思わず手を当てる。
「だからまあ、なんていうか、ほら、あれよ。そういう、茜ちゃんのピュアピュアで可愛いところを見てたから、ちょっと藤堂君に腹が立ったというか、焼きを入れたくなっちゃったというか……。つまり何が言いたいかというと――」
 乾いた音を立てて、織江さんは両手を合わせて頭を下げた。
「殴ってゴメン!」
 なんで謝られているのか一瞬理解できず、そういえばさっき鳩尾を殴られたなと思い出した。
 反応がなくて不安に思ったのか、合わせた手の脇からちらちらとこちらの様子をうかがってくる織江さんの仕草が面白くて、思わず笑ってしまいそうになる。
 この人も、いい人なんだな。
 色々と強烈だし、エネルギッシュだし、僕とは全く相容れない性質の人だとは思う。
 それでも、裏表のない真っすぐな人だということは、この短時間でも嫌と言うほど伝わってきた。
「いえ……謝らないでください。正直、あの時殴られて、少しほっとした自分がいたのも事実なので」
「え、真崎君って殴られるのが好きなの?」
「はっ倒しますよ」
「きゃはは! ツッコまれたー!」
 やっぱり苦手だ、この人……。
 でも……さっきの言葉に嘘はなかった。自分の言葉で四季宮さんを傷つけてしまった僕を、織江さんは咎めてくれた。それだけで少し、救われた気がしたんだ。
「うーん。私が言うのもあれだけど……ダメだよ? ちゃんと本人にも謝らないと」
「分かってます……。ちゃんと、いつか……折を見て……絶対……」
「うわー、だめそー」
「言わないでください……。自分でも分かってます……」
「だいたいさー――っと、失礼」
 テーブルの上に置いていた織江さんのスマホが震えた。
 ぽちぽちとスマホを弄ったのち、織江さんは何とも言えない表情で、唇をぐにっと曲げた。
「芳しくないなあ」
「何がですか?」
「これ、茜ちゃんからメッセなんだけどさー」
 くるっとひっくり返して見せてくれた画面には「婚約者のこと、真崎君に説明しといてくれないかな」とあった。
「お前が自分で言うんだよっ! って、本当なら返したいところだけど……まあこればっかりは仕方がないかあ」
 当然だけれど、僕の方にはメッセは来ていなかった。あんな別れ方をしたのだから、当たり前だ。分かってはいても、心は沈む。どこまでも自分勝手だな、僕は……。
 すっくと織江さんは立ち上がり、空になったコップを掴んだ。
「藤堂君、ちょっと長い話になるから、ドリンクバーお代わりしようぜ。二杯目以降の代金は、私が奢るからさ」
 ドリンクバーはいくら飲んでも一杯目の代金だろうと思ったけれど、僕は何も言わずに黙って彼女に従った。

 結論から言えば、四季宮茜と、彼女の婚約者、銀山成明の関係は、筆舌に尽くしがたいほどにふざけていた。時代錯誤も甚だしく、現代日本でそんなことがまかり通っていい物なのかと、誰かを責め立てたい気分になった。
「気持ちは分かるよ、藤堂君。でも、本当のことなのさ」
「あり得ないでしょう……そんな、四季宮さんを、道具、みたいに……」
 要約すれば、以下の四点にまとめられる、非常に単純で不愉快な図式だった。 一、四季宮家は代々個人病院を経営していた。
二、今の経営者である四季宮和夫(しきみや・かずお)、つまり四季宮茜の父親は四季宮家に婿入りし、若くして病院長となったが、本当は大学病院で研究がしたかった。しかし今からではポストにつくことも難しく、また病院を手放すこともできなかった。
三、そんな時、南浜大学病院の病院長である銀山匠永(ぎんやま・しょうえい)は、四季宮父に目を留め、ポストを用意すること、四季宮病院との移転統合を持ち掛けた。
四、その契約の代価として、銀山総合病院院長の息子、銀山成明と四季宮茜は結婚することになった。
「結婚って……僕たちはまだ、未成年で……」
「そ、だから婚約状態。法的な拘束力は無いけど、ゆるーく縛り付けられてるって感じかな」
「いったいその契約で、向こうにどんなメリットがあるって言うんですか……」
「どうにも、今の院長が茜ちゃんのことをいたく気に入ってるらしくってさー。孫息子の嫁にすることで、手元に置きたがってるんじゃないかって話らしいよ」
 織江さんは淡々と語った。
 努めて、淡々と語った。
「んで、あの銀山成明って人は……まあ悪人じゃないらしいんだけど、事なかれ主義っていうのかな。あんまり院長に反発したりはしないみたいなんだよね」
「だからって……」
「それにあの人、今他にお付き合いしてる人もいるらしくてさ。プレイボーイって感じ」
 聞けば聞くほどに頭痛がしてきた。現実でそんなことが起こっているという事実が信じられない。強要している銀山家も、許容している四季宮さんの家族のことも、まったくもって理解できなかった。
「四季宮さんは、どうして反発しないんですか?」
「私も一回聞いてはみたんだけどね」
「なんて言ってたんですか」
「『お父さんの言うことには逆らえないから』『お母さんたちも歩んできた道だから』って。それだけ」
 どうやら四季宮家は代々、病院を維持・拡大するために、他の病院の後継ぎと自分の息子や娘を政略結婚させてきたらしかった。
 家系的に、それが当たり前だから。幼いころからずっと、そう躾けられてきたから。だから、抗うだけ無駄だと、四季宮さんは感じているのだろうか。
「そんな……」
「それ以上は私も深く突っ込めなかったけどさ、茜ちゃんも……あんまり踏み込んで欲しくなさそうだったし。もしかしたら、昔は反発、してたのかもしれないね」
 それは、想像するだけでも恐ろしい仮定だった。
 もし四季宮さんがあがいて、抵抗して、それでも抑圧された末に今の彼女があるのだとしたら。それでもあんな風に、屈託なく、明るく笑っているのだとしたら……。
「ただ幸い、今はその話も、雲行きが怪しいみたいなんだ」
「え……?」
「なんかね、婚約の話が決まってしばらくして、茜ちゃんが何かの病気にかかっちゃったらしくて。元々は高校を転校して銀山家の近くに引っ越す予定もあったみたいだけど、それもキャンセル。今は病気の治療に専念しようって話になってるらしいよ」
 あ、これ絶対に秘密だよ? と神妙に言う織江さんに無言でうなずきつつ。
 僕はその病名に心当たりがあった。
 自遊病。
 寝る度に彼女を死に向かわせる、奇病。
 確かにそんな病気にかかっている女性には、何よりも先に治療を施すべきだ。
 恐らく、病気の原因は心因性、過度なストレスから来るものだろう。そして、ストレスの原因は明らかだ。
 強要された婚約。許容してしまった婚約。
 仮に本当にそれが、自遊病の根となっているのだとしたら。
 四季宮さんの自遊病は、永遠に治らない。
 そして、婚約計画が進められることもない。
 自遊病。
 自由病。
 なんて……なんて皮肉な構図。
「ん、どうしたの、真崎君?」
「いえ……教えてくれて、ありがとうございます」
 医者の家系は、何かとしがらみも多いと聞く。四季宮さんの自遊病は、あまりにも特殊で、それゆえに注目を浴びてしまうだろう。ふとした瞬間にバレてしまう可能性や、変な噂が立つことを恐れて、自遊病が完治するまでは結婚の話は進められないのかもしれない。それでも結婚の話が破談にならないところに、この話の後ろ暗いところが透けて見えるが。
 四季宮さんがすぐに結婚するわけではないと知り、正直少し安心した自分がいる。
 その一方で、改めて事の大きさを知り、茫然としてしまっているのも事実だった。
 彼女を今の状況から救い出したいと言う気持ちは、少なからずある。
 けれど、具体的にどうすればいいのかについては、まったく見当がつかなかった。
 ただの一介の高校生。その中でも別段なんの取り柄もなく、非力で口下手で、臆病な僕に、一体何ができるというのだろうか。
 唯一の特技と言えば――

 刹那、視界がセピア色に染まり、織江さんがグラスを倒して、ジュースを思いっきりこぼしてしまう光景が目に映った。

 ……ちっぽけだよな、ほんとに。
 自嘲しつつ、グラスの位置をさりげなくずらして、小さな危機を回避することにした。
 一分後、さっきまでグラスがあったところに織江さんの腕がぶんと振り下ろされて、僕はほっと胸をなでおろす。
 僕にできることなんて、この程度のものだ。
 ジュースがこぼれるのを回避させるくらいの、本当につまらない能力。
 どうせ不可思議な能力が宿るなら、もっと強力で凶悪な、それこそ、四季宮さんを一瞬で危機から救い出せるくらいの力が良かったのに。
 この件に関して、僕は無力だ。それだけは分かる。
「というわけで、藤堂君!」
 ネガティブな思考を叩ききるように振り下ろされた手は、人差し指がぴんと立っていて、僕の眉間をまっすぐ指していた。
「君は早急に、茜ちゃんと仲直りする必要があるのだよ!」
 どういうわけでその結論に至ったのかは謎だけど……。
 早めに謝って、少しでもいい関係に戻りたいとは思っている。
 つい先日までと同じようにとまではいかなくとも、それに近いくらいには。
「しかし君は臆病だ」
「面と向かって言われたのは初めてです」
「そして残念なことに、この件に限っては茜ちゃんも及び腰なのだ……」
 それは僕のあずかり知らぬところだ。だけど、確かに婚約者の話を、織江さんという代理を立てて僕に説明したのは、彼女らしくないといえば、らしくない。
「つまり、二人が仲直りするためには、何かしらのイベントが必要なわけですよ」
 一理ある……のか?
 確かに何かしらのイベントがあれば、話しやすくはあるかもしれない。
「んでもって、もうすぐ修学旅行の班決めイベントがあるわけです」
「ちょっと待ってください。まさか――」
 ここに来てようやく織江さんの言いたいことが分かった僕は、思わず立ち上がる。織江さんはそんな僕の心中なんて察しないみたいに……察しているくせに、言い放つ。
「つまり、一緒の班になっちゃえば、万事解決って感じじゃない? にゃっはー! 私ってあったまいい!」