茹だるような暑さが夜まで続くある夏の日。
堅苦しく結ばれたネクタイを少し緩めて、身体に空気を通す。

先程までの煌びやかな空間に対し、自分の足音しか聞こえない閑散とした路地の温度差に我ながら苦笑いが零れた。

優しそうな新婦の傍らで満面の笑顔を浮かべる友人を思い出す。もうこれで、結婚式に参列したのは何度目だろうか。数えるのも嫌になるくらい溜まってしまった引き出物の山が今日も更新されると思うと溜息しか出ない。

これでもかと幸せオーラを浴びた後に、一人きりの家に帰るのはいささか切ないものだ。
こんな寂しい夜を乗り越える為の物資を調達すべく、俺は近場のコンビニへと向かっていた。


やけに明るい蛍光灯に目を細めて、店内の涼しい空気に息を飲んだ。
さて、今日はどのお酒にしようか。
そんなことを考えながら巡回していると、レジの方から焦ったような声が聞こえた。


「す、すいません…!あるはず、なんですけど…!」


こっそりとそちらを見やると、明らかに冷や汗をかいて鞄を激しく漁る女性がいた。


「ICカードなどでもお支払い頂けますが」

「今日チャージギリギリで全然なくて…待って下さい、多分あると思うので…!」


状況から察するに、彼女はカウンターに置かれたのり弁とお茶を買うお金がないらしい。さしずめ、財布を家に忘れたといったところだろう。

幸いこのコンビニにいる客は俺と彼女だけ。後ろに待つ人はいないものの、店員は僅かな望みに賭けて鞄をまさぐる女性に対し若干の呆れを滲ませていた。


財布くらい取ってからまた来れば、という野暮な提案は俺でも却下する。疲れて帰路についてそのまま夕飯を買って帰るというのはよくある流れだが、一度家に帰ってしまえばその疲労が根を張って、立つことすら億劫になってしまう。

残り少ない体力を振り絞ってやっと買い物にありつけたというのに、それを二度も繰り返すことがどれだけ辛いかは、それなりに多忙な職種に就く俺も十分分かっていた。

だから、手を差し伸べたくなってしまった。


「これで、お願いします」


困り果てる彼女の脇から、千円札を差し出す。
驚き目を見開く顔に気付かないふりをして、淡々と会計をこなす店員からお釣りを受け取った。


「ありがとうございましたー」


やる気のない声を背中に受けながら、先導するように出口へ向かうと未だ現状を把握出来ていない様子でありながらも着いてくる姿が見えた。


「あの、これ」


再び温い空気に晒されたコンビニ前。

弁当が傾かないよう慎重に袋を手渡すと、パクパクと口を何度も開閉しながらもそっと細い手がそれを掴んだ。


「…あ、あの、ありがとうございました…!!」


暫くの沈黙の後、深呼吸した彼女は噛み締めるようにそう告げた。
ご丁寧に頭まで下げられてしまって、俺は焦りを顕にする。


「そ、そんなそんな…!本当に気にしないで下さい。財布がなかった時の焦り、俺も経験あるし、分かるんで」


何とか気を緩んで貰おうと笑いかけるが、顔こそ上がったものの目線は変わらず下に、申し訳なさが溢れた表情をしている。


「本当にすみません……」

「大丈夫ですって!これくらい、気にしないで。それより、貴女が今日無事に夕飯を食べれそうで良かったですよ」


あまり女性の身体をまじまじと見るのは良くないが、彼女は一見しただけでも華奢で2日3日の間に1食でも抜いたら倒れてしまいそうなほどの体型でこっちが心配になってくる。
そんな人の助けになれたのだから、これほど誇りに思うことはない。


「あの、何かお礼をさせて下さい!」

「へ?いやいや!本当に大丈夫なんで!」


言わばこれは、俺のエゴなのだ。
ある種の劣等感を抱いた結婚式の後に、自分の必要価値を見出したかった。一般的な幸せを掴めない自分が誰かの力になって、露ほどの優越感に浸りたかった。そんな、最低なエゴ。
故に感謝されるのは、むしろ罪悪感すらある。


「でも……」

「俺がしたいからした…ってだけじゃ、納得出来ませんか…?」

「え…?」

「俺自身が、貴女を助けたくて動いたんです。だから、俺の為でもある…っていうか」

「………」

「す、すいません。何か変なこと言ってますねー、俺……つまり、その、お礼をされるようなことじゃないってことで」

「……そ、そうなん、ですか…?」

「はい、そうなんです」

「……そこまで、仰るなら……本当にありがとうございます……!」


ようやく納得してくれた彼女はもう一度深々と頭を下げ、少し困ったようにはにかんだ。

この人、笑うと結構可愛いな…。


(………って、俺は何を考えてるんだ…!?)


初対面の人に邪な気持ちを抱いてしまったことを猛省する為、勢いよく首を横に振った。


「………優しい、ですね」

「え?な、何か言いました?」

「いえ……!今後は気をつけます!ありがとうございました…!」

「…は、はい、ではこれで。あ、遅いので送っていきましょうか?」

「え!?いえ!流石にそこまでして頂く訳には…!それに、家すぐそこなので!」

「そう、ですか。じゃあ、ここで」


コツリと軽やかな音を響かせて踵を返した彼女に、気づけば小さく手を振っていた。
しまった、つい園児達と別れる時の癖が出てしまったと我に返ると、それは控えめな彼女の手によって返事を受けていた。


「……っ」


少し恥ずかしそうに、けれど微笑んで手を振り返す彼女をまじまじと見つめる。
細い足が僅かな街灯が照らす住宅街を歩き出しても、俺の手は上がったままだった。

先程言われた「すぐそこ」というのはどうやら本当のようで、コンビニ前からでもマンションの入口に入っていく様を見届けることが出来た。

あの子が美味しくのり弁を食べられますように。

そんな願いを心に秘めて、反対方向へと足を踏み出す。


「………あ」


お酒、買い忘れたな。
数分前まで目当てだった物は、手元にない。
彼女との一件ですっかり忘れていたようだ。


「………」


しばし悩んだ末、そのまま歩を進めることにした。
もう足取りは重くない。

そういえば、家に開けてない缶が残っていた気がする。
今日はそれを飲むとしよう。


息苦しいスーツを生温い空気が通過する。

寂しさで空いてしまった穴は、少しだけ埋まったようだった。