(……あ。もしかしたら、同じようにお花を供えにきたのかもしれない。だとしたら邪魔だよね……)


 そう思い。優恵は今度こそその場から逃げるように下を向いて歩き出す。
――しかし。


「──ゆえ」

「……え?」


 すれ違う時に手首を掴まれ、見上げる。


「……優恵、だよな?」


 優恵の手首を掴む彼は、うっすらと目に涙を溜めているようにも見えた。


(なんで……私の名前……)


 彼は、明らかに他校の制服を身に纏っている。
その顔にも見覚えはない。
それなのに、どうして名前を知られているのか。
しかも呼び捨てにされるだなんて。

 恐怖心が浮かび上がり、今すぐこの手を振り払って逃げたくなる。
だけど、振り解こうとしたその手は驚くほどに震えていた。

 よく見るとほとんど力は入っておらず、身体の線が細いのと同じで指や手首も優恵と同じかそれ以上に細くも見える。
ただ、その震えを見たら何故かそれを無理矢理振り解いて逃げることはできなかった。


「あ、の……」

「っ……優恵」

「あの、どうして私の名前……」


 優恵の声を聞いてついにその目から涙が一筋こぼれ落ちる。
同年代の男の子が手を震わせながら泣いている。
高校生にもなると、そんな場面に出くわすことなんてほぼ皆無だ。

 優恵は驚いて息を呑み、彼が話すのを待った。


「……どうしてだろうな。俺は"優恵"なんて知らないはずなのに。一目見てあんたが優恵だってわかっちまうんだから……」

「なに、どういう……」

「……龍臣(タツオミ)。そう言えばわかるか?」


"龍臣"


 その名前を聞いた瞬間、優恵の心臓がドクンと大きく鳴り響く。


「い……ま……なんて言った……?」

「龍臣。知ってるだろう? 優恵」


 涙を流しながらそう言う少年に、優恵は信じられないという表情を向けた。

 いつのまにか少年の手の震えはおさまっていた。
しかし今度は優恵の手が、足が、全身が震え始める。


(どうしてこの人が、その名前を知ってるの?)

(どうして、私のことまで知ってるの?)


「なんで……」


 どうして、なんで、そんな言葉ばかりが頭の中を巡り、目の前で起こっていることが理解できない。


「なんで、か。まぁ、そうなるよな」

「なんで……! あなたがその名前を知ってるの!? なんで私のことまで知ってるの!?」


 はやる気持ちは声となって外に飛び出ていき、いつのまにか怒鳴るように叫んでいた。

 少年はそんな優恵に


「落ち着けって、ちゃんと話すから。まず、自己紹介させてくれ。俺は佐倉 直哉(サクラ ナオヤ)


 と優しく声をかけてから


「――龍臣の代わりに、君に会いにきた」


 そう、切なさが溢れるような笑顔を優恵に向けた。


「オミの、代わり……?」

「あぁ。信じられないかもしれないけど……。俺の中には今、龍臣がいるんだ」

「……なに、言って……」

「今俺の身体の中には、ここで事故にあった藤原 龍臣の心臓が入ってる。それ以来、生きていた頃の龍臣の記憶が俺の中に共存しているんだ」


 胸にそっと手を当てた直哉に、優恵は言葉を失う。


「優恵。あんたをずっと探してた。龍臣の記憶を頼りに今日ここに来れば絶対に会えると思ったんだ」

(……これは、夢? それとも、騙されてる?)


 わけがわからなくて、そんなこと言われても"はいそうですか"と信じられるわけがない。


「あ、おい!」


 優恵は、その場から一目散に逃げ出した。
とにかく直哉というあの人物から離れたかった。
頭の中を、整理したかった。


(だって、そんなわけない。そんなわけないんだ。だって龍臣は確かにあの日――)

(――私を庇って、確かに死んでしまったんだから)


 後ろから響く直哉の声を背に、優恵は一度も振り返ることなく走り去っていった。