一湊湊という男子は、その名前と容姿から、入学してすぐ有名になった。
なかなかに、すごい字面だな、とわたしも思った。きっと、親がとんでもなく海が好きだったんだろう。
でも本人は、海というより湖とか泉とか、そういうイメージがある。森の中にひっそりと存在していて、時折吹く風に小さく水面を揺らされる、そんな静けさ。にぎやかな男子の中に囲まれると、その静けさが際立つ。どうやったって、注目を集めてしまう男子だった。
しかも肌は白いしキメ細かいし、まつ毛長いし、瞳は澄んでるし……、とにかく、女子がうらやむ容姿なのだ。そりゃあ、有名にもなるってものだろう。
ただ、彼には残念なことに、美人な彼女がいる。女子たちは、ひそかにため息をつく日々を送るしかない。
「のどか。はい、短冊」
美里が廊下に設置されている長机から、細長い短冊を渡してくる。
「ありがと。毎年毎年よくやるよね。小学生みたい」
「ほんとだよねー。まあ、季節感あっていいんじゃない?」
「でも、どうせまた文化祭になったら、願いごと祭りやるんでしょ。あのー、なんだっけ、願いごとの木?」
玄関に模造紙でつくった木の枝をはって、そこに生徒の願いを込めた花のカードを付け足して満開にしよう、とそんな趣旨の催しが、文化祭の恒例行事。小学生か、ともう一度つっこみたい。
「いいじゃんか、願いごといっぱいできて。うわさだと、七夕も文化祭も、生徒会のお眼鏡にかなったお願いごとは、生徒会総出で叶えてくれるらしいよ」
「うちの生徒会にそんな権力ないでしょ」
「わっかんないよー? 実は持ってたり!」
「ないない」
二年生になって同じクラスになった美里とは、席が近いこともあってすぐ仲よくなった。おちゃらけているけど、やさしい子だ。
廊下には、笹竹が飾られている。もちろん造花。近づいてみると、ほこりを被っていて、汚れが目立つ。去年の七夕に使われてから、ずっと倉庫に保管されていたんだと思う。
この高校では、毎年七月になると笹竹を飾って、願いごとを吊るす。参加は自由。でも意外とみんなおもしろがっているみたい。わたしたちも、せっかくだしやっとくか、と立ち寄ったわけなんだけど、
「美里、なに書く?」
「恋愛成就とか? ○○君とつき合えますように! なーんて」
「全校生徒に好きなひとばれるじゃん。はずいって」
「こっちの名前書かなければ問題なし!」
騒ぎながら、けっきょく美里は『期末テスト、赤点回避!』と書いた。
「のどかは?」
「んー、どうしようかな」
もし願うとすれば――目立たずに生きられますように、なんだけど。そんなこと書けるわけもないから、無難に『文化祭、成功しますように』と書いた。
「うわ、さすがのどか。優等生」
「なにも書くことなかったから、適当に書いただけなんだけど」
肩をすくめれば、美里はニヤッと笑った。嫌な予感。
「えー、あるでしょ、書くこと」
「ないよ」
「あるって。のどかが恋愛成就書かなくてどうすんのよ!」
瞬間、ぽっと頬に熱が集まりそうなのを気合いで引っ込めて、笑顔で首をふる。
「恋愛? ないない! なんでそうなるの」
「だって、湊といい感じじゃん」
出された名前に、心臓が妙な動きをした。でも、我慢。
「湊もさ、のどかにだけはなーんかやさしいし。いけるんじゃない?」
「いけるって……、湊、彼女いるからね」
それに湊がわたしにやさしいのは、わたしの体調が悪くならないよう気づかってくれているだけだ。わたしが彼の前でだけ呼吸が楽になることを、伝えたことはない。だけど、きっと湊は察しているんだと思う。でもそんなことを知らない美里は、瞳を輝かせた。
「彼女いるなら、奪っちゃえばいいじゃん」
「ダメですー。わたし、そんな悪女にはなりませーん」
「いやいや、悪女上等でしょ。というかさ」
美里の口の端が、にっと持ちあがる。
「彼女いなかったら、狙ってたってこと?」
わたしは無言で、デコピンをお見舞いしてやった。
「さーて、今年はみんな、どんなお願いごとしてるのかなぁ」
「いたたぁ……もう! 逃げるんじゃない! 白状しなさいよー!」
女子高生、みんな恋愛話は大好物なんだ。しかもその話が一湊湊という男が絡んでいるのだから、なおさら盛り上がる。ぶうぶう言っている美里のことは無視させていただいて、わたしは短冊を見上げた。
『彼女をください、神さま!』
『学校に隕石がぶち当たりますように。授業中止!』
『受験成功しますように……! まじで……!』
『わたしを見つけてください』
ぴたっと、目が止まった。
わたしを、見つけてください?
「のどか? どうかした?」
「なんか……中二病だなと思って」
「どれどれ? おお、なんというか……マジっぽい感じ。メンヘラ臭やば」
きれいな字だった。癖はなくて、お手本みたいな字。でも書いてあることが中二病。なんだこれ。どういう意味?
「なんか、これは、アレだね……」
「うん。見なかったことにしよう」
「そうしよう」
わたしたちは顔を見合わせてから、あははと笑った。冗談まじりの口調の陰に気まずさをにじませながら、わたしたちは笹竹の前を去る。たぶん、美里もわたしも、同じことが頭をよぎった。
わたしは、彼女の筆跡は知らない。だけど、なんとなく、あの言葉を見たとき彼女の顔が浮かんだ。だから見ないふりをする。
教室の中はみんな平等、なわけがない。上下関係ははっきりしていて、強者は須川さんたち。じゃあわたしはと言えば、中間層だ。傍観者とも言う。強者に近づかず、怒らせなければ、何事もなく生活できるだろう、という立ち位置。
さて、それなら弱者は?
クラスの人間ならだれもがこう答える。
遠藤彩、と。
文化祭の劇で、ジョバンニ役を押しつけられた女の子。ショートカットで、運動が得意。一年生の体育祭のときは、選抜リレーのメンバーにも選ばれていた。でも、彼女が輝いていたのは、そのときまでだったと思う。
残念ながら、いまの彼女は、須川さんたちに喰われる側の人間だ。
なかなかに、すごい字面だな、とわたしも思った。きっと、親がとんでもなく海が好きだったんだろう。
でも本人は、海というより湖とか泉とか、そういうイメージがある。森の中にひっそりと存在していて、時折吹く風に小さく水面を揺らされる、そんな静けさ。にぎやかな男子の中に囲まれると、その静けさが際立つ。どうやったって、注目を集めてしまう男子だった。
しかも肌は白いしキメ細かいし、まつ毛長いし、瞳は澄んでるし……、とにかく、女子がうらやむ容姿なのだ。そりゃあ、有名にもなるってものだろう。
ただ、彼には残念なことに、美人な彼女がいる。女子たちは、ひそかにため息をつく日々を送るしかない。
「のどか。はい、短冊」
美里が廊下に設置されている長机から、細長い短冊を渡してくる。
「ありがと。毎年毎年よくやるよね。小学生みたい」
「ほんとだよねー。まあ、季節感あっていいんじゃない?」
「でも、どうせまた文化祭になったら、願いごと祭りやるんでしょ。あのー、なんだっけ、願いごとの木?」
玄関に模造紙でつくった木の枝をはって、そこに生徒の願いを込めた花のカードを付け足して満開にしよう、とそんな趣旨の催しが、文化祭の恒例行事。小学生か、ともう一度つっこみたい。
「いいじゃんか、願いごといっぱいできて。うわさだと、七夕も文化祭も、生徒会のお眼鏡にかなったお願いごとは、生徒会総出で叶えてくれるらしいよ」
「うちの生徒会にそんな権力ないでしょ」
「わっかんないよー? 実は持ってたり!」
「ないない」
二年生になって同じクラスになった美里とは、席が近いこともあってすぐ仲よくなった。おちゃらけているけど、やさしい子だ。
廊下には、笹竹が飾られている。もちろん造花。近づいてみると、ほこりを被っていて、汚れが目立つ。去年の七夕に使われてから、ずっと倉庫に保管されていたんだと思う。
この高校では、毎年七月になると笹竹を飾って、願いごとを吊るす。参加は自由。でも意外とみんなおもしろがっているみたい。わたしたちも、せっかくだしやっとくか、と立ち寄ったわけなんだけど、
「美里、なに書く?」
「恋愛成就とか? ○○君とつき合えますように! なーんて」
「全校生徒に好きなひとばれるじゃん。はずいって」
「こっちの名前書かなければ問題なし!」
騒ぎながら、けっきょく美里は『期末テスト、赤点回避!』と書いた。
「のどかは?」
「んー、どうしようかな」
もし願うとすれば――目立たずに生きられますように、なんだけど。そんなこと書けるわけもないから、無難に『文化祭、成功しますように』と書いた。
「うわ、さすがのどか。優等生」
「なにも書くことなかったから、適当に書いただけなんだけど」
肩をすくめれば、美里はニヤッと笑った。嫌な予感。
「えー、あるでしょ、書くこと」
「ないよ」
「あるって。のどかが恋愛成就書かなくてどうすんのよ!」
瞬間、ぽっと頬に熱が集まりそうなのを気合いで引っ込めて、笑顔で首をふる。
「恋愛? ないない! なんでそうなるの」
「だって、湊といい感じじゃん」
出された名前に、心臓が妙な動きをした。でも、我慢。
「湊もさ、のどかにだけはなーんかやさしいし。いけるんじゃない?」
「いけるって……、湊、彼女いるからね」
それに湊がわたしにやさしいのは、わたしの体調が悪くならないよう気づかってくれているだけだ。わたしが彼の前でだけ呼吸が楽になることを、伝えたことはない。だけど、きっと湊は察しているんだと思う。でもそんなことを知らない美里は、瞳を輝かせた。
「彼女いるなら、奪っちゃえばいいじゃん」
「ダメですー。わたし、そんな悪女にはなりませーん」
「いやいや、悪女上等でしょ。というかさ」
美里の口の端が、にっと持ちあがる。
「彼女いなかったら、狙ってたってこと?」
わたしは無言で、デコピンをお見舞いしてやった。
「さーて、今年はみんな、どんなお願いごとしてるのかなぁ」
「いたたぁ……もう! 逃げるんじゃない! 白状しなさいよー!」
女子高生、みんな恋愛話は大好物なんだ。しかもその話が一湊湊という男が絡んでいるのだから、なおさら盛り上がる。ぶうぶう言っている美里のことは無視させていただいて、わたしは短冊を見上げた。
『彼女をください、神さま!』
『学校に隕石がぶち当たりますように。授業中止!』
『受験成功しますように……! まじで……!』
『わたしを見つけてください』
ぴたっと、目が止まった。
わたしを、見つけてください?
「のどか? どうかした?」
「なんか……中二病だなと思って」
「どれどれ? おお、なんというか……マジっぽい感じ。メンヘラ臭やば」
きれいな字だった。癖はなくて、お手本みたいな字。でも書いてあることが中二病。なんだこれ。どういう意味?
「なんか、これは、アレだね……」
「うん。見なかったことにしよう」
「そうしよう」
わたしたちは顔を見合わせてから、あははと笑った。冗談まじりの口調の陰に気まずさをにじませながら、わたしたちは笹竹の前を去る。たぶん、美里もわたしも、同じことが頭をよぎった。
わたしは、彼女の筆跡は知らない。だけど、なんとなく、あの言葉を見たとき彼女の顔が浮かんだ。だから見ないふりをする。
教室の中はみんな平等、なわけがない。上下関係ははっきりしていて、強者は須川さんたち。じゃあわたしはと言えば、中間層だ。傍観者とも言う。強者に近づかず、怒らせなければ、何事もなく生活できるだろう、という立ち位置。
さて、それなら弱者は?
クラスの人間ならだれもがこう答える。
遠藤彩、と。
文化祭の劇で、ジョバンニ役を押しつけられた女の子。ショートカットで、運動が得意。一年生の体育祭のときは、選抜リレーのメンバーにも選ばれていた。でも、彼女が輝いていたのは、そのときまでだったと思う。
残念ながら、いまの彼女は、須川さんたちに喰われる側の人間だ。