「さっきの、なに」
遠藤さんはうつむいたまま、つぶやいた。
場所は司書室。図書室内の、いつも委員会の子が座っているカウンターの奥にあった扉を越えた場所。そこは棚に収まりきらない本が詰め込まれた、小さな倉庫のような部屋だった。草本先生のものらしいノートパソコンが置かれた小さな机を挟んで、わたしと湊は、遠藤さんと向き合っている。
担任の先生には、草本先生から事情を説明してくれるそうだ。ほかの生徒たちは授業中だから、図書室には草本先生とわたしたちしかいない。
その草本先生は、「なにかあったら声をかけてね」と司書室の外に出て行ってしまった。カウンターにつづく扉も閉めていってくれたせいで、ここは密閉されている。
さっきの、なに。
空き教室からこの部屋に移っても、ずっと沈黙していた遠藤さんの、はじめての言葉。
――いまさら、なんで助けに来たの、とか言わないんだ。
ずっと見捨てていたくせに、大事なところで邪魔をしにくるなんて、とわたしを責める言葉が出てくると思っていたから、すこし驚いた。
いまの遠藤さんは、《悲しみ》にあふれていた。その感情をまともに受ければ、きっとわたしは溺れてしまう。だから、なるべく意識を湊のほうに集中させた。司書室に窓はない。海を見つめて気を紛らわすことはできなかった。
わたしはどう答えるべきか迷った。あんな取っ組み合いをしたあとだったから、わたしも、あまり余裕がなかったんだと思う。
「感情が、わかるの」
いつのまにか、口からは、うそでもごまかしでもない、真実がこぼれ落ちていた。
「他人の感情が、わかるの」
ぽつりぽつりと、自分のことをふたりに話した。ひとに話すのははじめてで、たぶん、わかりにくい説明になっていたと思うけど、湊も遠藤さんも静かに聞いていた。他人の感情がわかるなんて突飛な話を聞かされたのに、ふたりとも「なにそれ」と疑いはしなかった。
「そうなんだ」
遠藤さんはそれだけ言った。湊はふっと息をついて、「俺は?」と首をかしげる。
「俺といるときは、平気そうな顔してた」
「湊は……感情が読めないんだよ。ほら、湊、ポーカーフェイスだから」
どうしてわたしが、他人の感情を知ることができるのかはわからない。それは魔法みたいな力なのかもしれない。だけど、もしかしたら、わたしが無意識のうちに他人の表情や声色、仕草なんかを観察して、そこから相手の感情を察しているだけなのかもしれない。
共感性羞恥心とか、そういうものは、ふつうのひとにだってある。だれかがした恥ずかしい体験を見て、自分のことのように恥ずかしくなること。
だれかの感動話を聞いて、泣けるひとだっている。
わたしのこの体質は、そういうものと同類なのかもしれない。まあ、くわしいことなんて、わからないけれど。とにかく湊は、いつだって静かな表情をしている。だから、彼の感情はわたしにもわからないのかもしれなかった。
「――ごめんね、遠藤さん」
わたしのつぶやきにも、遠藤さんは顔をあげない。じっと膝の上に乗せた自分の手を見つめている。
「遠藤さんが怖がっていることとか、つらいと思っていることとか、わたし、知ってた」
「……流れこんで、くるから?」
「うん」
その力がなかったとしても、あの教室にいたら、だれでもわかることだ、とは言えなかった。
「そっか。ごめんね三糸さん」
え、と口を開けたわたしに、あいかわらずうつむいたまま遠藤さんが言う。
「迷惑かけて、ごめん」
そんなの、遠藤さんが謝ることじゃないのに。
それにわたしは、自分がつらいからって理由だけで、遠藤さんを避けてきたわけじゃない。遠藤さんを助けて、須川さんたちに目をつけられるのが嫌だったんだ。ごめんなさい、とわたしはもう一度つぶやいた。だってそれ以上に言えることがなかったから。
会話が途切れると、司書室にはひたすら静寂が満ちた。
「さっき、三糸さんが止めに来たとき」
無音を、遠藤さんが破る。
「なんでいまさら、って思った」
「……うん」
「でも、ほんのちょっと、うれしかった」
遠藤さんの声は平坦だ。
「だれも、あたしのことをわかってくれないって、思ってたから。あたしのことなんて、どうでもいいんだって」
空は青い。海も青い。自分とは関係なく。
遠藤さんの感情は、まだ脳の裏側にはりついている。
「でも、いたんだね、わかってくれるひと」
それは決して《うれしい》とか、そんな感情ではなかったけれど。
「必死で止めに来てくれるひと、いたんだね」
教室で感じた、あの燃えたぎるような感情ではなくて。すこし、ほっとした。だれにもわかってもらえないということが、彼女が命を断とうとしたきっかけになったのなら、一応はこれで、死ぬ理由はなくなったのかもしれない。
――ずっと見ないふりをしてきたわたしが、死ぬのだけは止めるなんて。
自分勝手だろうか。
でも、遠藤さんはなにも悪くないんだ。死ぬ理由なんてない。死んでほしくはないと思う。
「逃げたっていいんじゃない」
湊の声は静かだけど、いまの遠藤さんとはまたちがった平坦さだった。
「そんなにつらいなら、学校なんて来なければいい」
「でも……」
遠藤さんの言葉はつづかなかった。彼女の気持ちは、わかる。いじめられていることなんて、親には言いづらい。自分が弱者であることなんて、言えないんだ。休むにしたって、転校するにしたって、迷惑をかけるだろうし。
それに、「なんで」「なにがあったの」なんて訊かれたら、どう答えていいのかわからない。聞かないでほしいと思う。傷をえぐらないでほしい、と。
「でも無理して、自分がつぶれたら、意味ない」
遠藤さんが、すこしだけ顔をあげた。
「逃げるのは、悪いことじゃない。死ぬのは駄目だけど」
湊はゆっくりとまばたきをして、遠藤さんを見つめる。
「逃げていいよ」
遠藤さんの瞳に涙の膜がはった。ぷっくりと目のふちにたまった涙が、頬を伝う。けれど遠藤さんはぼんやりとしていて、涙をぬぐうこともしなかった。
しばらくして、とんとん、と小さなノックの音がして草本先生が顔をのぞかせた。わたしと湊は教室にもどることにしたけど、遠藤さんは司書室に残った。司書室の扉をぱたんと閉めて、わたしは息をつく。だけどなかなか動きだせずに、扉の外に立ち尽くした。
――遠藤さんは、これから、どうしたい?
――あたし、は……。
扉越しに、そんな会話が聞こえる。
逃げてもいいよ、遠藤さん。たぶん、須川さんたちは変わらない。わたしたちを取り巻く世界は、そう簡単に変えられないし、いままでの苦しさがなかったことにはならない。それなら、教室という世界を抜け出してしまったほうが早い。
わたしたちなんて、無力なんだから。
「のどか、行くよ」
「……うん」
遠藤さんはうつむいたまま、つぶやいた。
場所は司書室。図書室内の、いつも委員会の子が座っているカウンターの奥にあった扉を越えた場所。そこは棚に収まりきらない本が詰め込まれた、小さな倉庫のような部屋だった。草本先生のものらしいノートパソコンが置かれた小さな机を挟んで、わたしと湊は、遠藤さんと向き合っている。
担任の先生には、草本先生から事情を説明してくれるそうだ。ほかの生徒たちは授業中だから、図書室には草本先生とわたしたちしかいない。
その草本先生は、「なにかあったら声をかけてね」と司書室の外に出て行ってしまった。カウンターにつづく扉も閉めていってくれたせいで、ここは密閉されている。
さっきの、なに。
空き教室からこの部屋に移っても、ずっと沈黙していた遠藤さんの、はじめての言葉。
――いまさら、なんで助けに来たの、とか言わないんだ。
ずっと見捨てていたくせに、大事なところで邪魔をしにくるなんて、とわたしを責める言葉が出てくると思っていたから、すこし驚いた。
いまの遠藤さんは、《悲しみ》にあふれていた。その感情をまともに受ければ、きっとわたしは溺れてしまう。だから、なるべく意識を湊のほうに集中させた。司書室に窓はない。海を見つめて気を紛らわすことはできなかった。
わたしはどう答えるべきか迷った。あんな取っ組み合いをしたあとだったから、わたしも、あまり余裕がなかったんだと思う。
「感情が、わかるの」
いつのまにか、口からは、うそでもごまかしでもない、真実がこぼれ落ちていた。
「他人の感情が、わかるの」
ぽつりぽつりと、自分のことをふたりに話した。ひとに話すのははじめてで、たぶん、わかりにくい説明になっていたと思うけど、湊も遠藤さんも静かに聞いていた。他人の感情がわかるなんて突飛な話を聞かされたのに、ふたりとも「なにそれ」と疑いはしなかった。
「そうなんだ」
遠藤さんはそれだけ言った。湊はふっと息をついて、「俺は?」と首をかしげる。
「俺といるときは、平気そうな顔してた」
「湊は……感情が読めないんだよ。ほら、湊、ポーカーフェイスだから」
どうしてわたしが、他人の感情を知ることができるのかはわからない。それは魔法みたいな力なのかもしれない。だけど、もしかしたら、わたしが無意識のうちに他人の表情や声色、仕草なんかを観察して、そこから相手の感情を察しているだけなのかもしれない。
共感性羞恥心とか、そういうものは、ふつうのひとにだってある。だれかがした恥ずかしい体験を見て、自分のことのように恥ずかしくなること。
だれかの感動話を聞いて、泣けるひとだっている。
わたしのこの体質は、そういうものと同類なのかもしれない。まあ、くわしいことなんて、わからないけれど。とにかく湊は、いつだって静かな表情をしている。だから、彼の感情はわたしにもわからないのかもしれなかった。
「――ごめんね、遠藤さん」
わたしのつぶやきにも、遠藤さんは顔をあげない。じっと膝の上に乗せた自分の手を見つめている。
「遠藤さんが怖がっていることとか、つらいと思っていることとか、わたし、知ってた」
「……流れこんで、くるから?」
「うん」
その力がなかったとしても、あの教室にいたら、だれでもわかることだ、とは言えなかった。
「そっか。ごめんね三糸さん」
え、と口を開けたわたしに、あいかわらずうつむいたまま遠藤さんが言う。
「迷惑かけて、ごめん」
そんなの、遠藤さんが謝ることじゃないのに。
それにわたしは、自分がつらいからって理由だけで、遠藤さんを避けてきたわけじゃない。遠藤さんを助けて、須川さんたちに目をつけられるのが嫌だったんだ。ごめんなさい、とわたしはもう一度つぶやいた。だってそれ以上に言えることがなかったから。
会話が途切れると、司書室にはひたすら静寂が満ちた。
「さっき、三糸さんが止めに来たとき」
無音を、遠藤さんが破る。
「なんでいまさら、って思った」
「……うん」
「でも、ほんのちょっと、うれしかった」
遠藤さんの声は平坦だ。
「だれも、あたしのことをわかってくれないって、思ってたから。あたしのことなんて、どうでもいいんだって」
空は青い。海も青い。自分とは関係なく。
遠藤さんの感情は、まだ脳の裏側にはりついている。
「でも、いたんだね、わかってくれるひと」
それは決して《うれしい》とか、そんな感情ではなかったけれど。
「必死で止めに来てくれるひと、いたんだね」
教室で感じた、あの燃えたぎるような感情ではなくて。すこし、ほっとした。だれにもわかってもらえないということが、彼女が命を断とうとしたきっかけになったのなら、一応はこれで、死ぬ理由はなくなったのかもしれない。
――ずっと見ないふりをしてきたわたしが、死ぬのだけは止めるなんて。
自分勝手だろうか。
でも、遠藤さんはなにも悪くないんだ。死ぬ理由なんてない。死んでほしくはないと思う。
「逃げたっていいんじゃない」
湊の声は静かだけど、いまの遠藤さんとはまたちがった平坦さだった。
「そんなにつらいなら、学校なんて来なければいい」
「でも……」
遠藤さんの言葉はつづかなかった。彼女の気持ちは、わかる。いじめられていることなんて、親には言いづらい。自分が弱者であることなんて、言えないんだ。休むにしたって、転校するにしたって、迷惑をかけるだろうし。
それに、「なんで」「なにがあったの」なんて訊かれたら、どう答えていいのかわからない。聞かないでほしいと思う。傷をえぐらないでほしい、と。
「でも無理して、自分がつぶれたら、意味ない」
遠藤さんが、すこしだけ顔をあげた。
「逃げるのは、悪いことじゃない。死ぬのは駄目だけど」
湊はゆっくりとまばたきをして、遠藤さんを見つめる。
「逃げていいよ」
遠藤さんの瞳に涙の膜がはった。ぷっくりと目のふちにたまった涙が、頬を伝う。けれど遠藤さんはぼんやりとしていて、涙をぬぐうこともしなかった。
しばらくして、とんとん、と小さなノックの音がして草本先生が顔をのぞかせた。わたしと湊は教室にもどることにしたけど、遠藤さんは司書室に残った。司書室の扉をぱたんと閉めて、わたしは息をつく。だけどなかなか動きだせずに、扉の外に立ち尽くした。
――遠藤さんは、これから、どうしたい?
――あたし、は……。
扉越しに、そんな会話が聞こえる。
逃げてもいいよ、遠藤さん。たぶん、須川さんたちは変わらない。わたしたちを取り巻く世界は、そう簡単に変えられないし、いままでの苦しさがなかったことにはならない。それなら、教室という世界を抜け出してしまったほうが早い。
わたしたちなんて、無力なんだから。
「のどか、行くよ」
「……うん」