呪い子と銀狼の円舞曲《ワルツ》

 がるるるる──

 銀の犬は、威嚇するように低く唸ると、黒い犬に飛び掛かった。
 そのしなやかな身体が描く軌跡は、鋭い白刃を振り抜いたよう──でも、尖った三日月のような牙は、虚しく宙を噛むだけだった。ほんのわずかな間に、黒い犬も体勢を立て直し、毛皮と同じ色の闇の中へ飛び退(すさ)っていた。

(どうして、ここに……!?)

 恐ろしい人喰い犬の牙は、とりあえずは遠ざかった。でも、宵子(しょうこ)が安心することなんてできない。
 この綺麗な銀の毛皮の犬は、医者のヘルベルトに飼われているはずだ。こんなところで怪我をしたり──まして死んでしまったら、あの人は悲しむだろう。
 いったいどうして助けてくれたのかは分からないけれど、どうにか逃がしてあげなければ。宵子は、そう思ったのだけれど──

「シャッテンヴァルト伯爵か!? これはまた──洒落た格好でお出ましですね!」

 夜空に高らかに響く春彦(はるひこ)の笑い声に、目を見開いた。

「伯爵、様……?」

 銀の犬が現れた時の風圧で尻もちをついていた暁子(あきこ)も、信じられない、といった調子で呟く。

 驚きを露にした双子に対して、春彦は得意げに教えてくれる。

「シャッテンヴァルト伯爵家は、狼の血を引いていると噂されていると言っただろう? あれは、宵子にだけだったかな──まあ、どうでも良いが。よく見てごらん。あの青年と同じ銀の髪──毛皮に、青い目だろう? 犬神(いぬがみ)を操る家があるなら、狼に化ける一族だっているだろうさ」
「嘘……そんな、化物……」

 暁子の声に、嫌悪と恐怖が混ざった。銀の耳の犬がぴくりと動いて、首から背にかけての毛皮がぶわりと逆立つ。

「──っひ」

 青い目に射るように貫かれて、暁子が小さく悲鳴を漏らした。そして、口元に手をあてたまま、ゆっくりと地面に崩れ落ちる。
 立て続けに危ない目に遭ったところに、大きな獣に()()()()のだ。精神が限界を迎えたのだろう。

 暁子が頭を打たないよう、慌てて支えながら、宵子は銀の犬──ううん、()をまじまじと見つめた。

(クラウス様、なの……?)

 二度も助けてもらった()()()のことを、どうして怖がったりするだろう。
 それに、以前は気付かなかったのが不思議なくらい、神々しいほどの美しい毛並みのその狼がまとうのは、クラウスとまったく同じ色彩だった。
 何より、()は暁子の化物、という言葉に反応して怒ってみせた。

(そうよ。あの時だって)

 宵子とヘルベルトのやり取りを理解していたとしか思えなかった。それは、とても賢いからではなくて──銀色に輝く毛皮の下に、人間の理性と知性を宿しているから、なのだろうか。

 銀の狼の青い目と見つめ合いながら。宵子はしばし、考え込んでしまっていた。

 鹿鳴館(ろくめいかん)円舞曲(ワルツ)を躍った時。
 地下室から助け出してもらった時。
 彼の屋敷で、間近にお互いの国の言葉を教え合った時。

 クラウスとは、もう何度も目を合わせている。彼の優しさ、頼もしさ、礼儀正しさ──それに、控えめな好意もあると、思う。
 色が同じだけでは絶対にない。銀狼の眼差しは、確かにクラウスと同じ感情を宿している。

 真夜中で、周囲は荒れた庭で。人喰い犬が闇の中に身を潜めていて、辺りには血の臭いさえ漂っているのに。
 宵子は、何もかも忘れて狼の──クラウスのほうへ駆け出そうとしていた。でも、彼女の進もうとした道筋を、音もなく飛び出した黒い犬が遮った。宵子の手が届く前に、クラウスも素早く跳躍して敵の爪と牙を避ける。

 二匹の大きな獣の動きが巻き起こした風圧で、宵子は軽くよろめいた。そこへ、春彦の嘲り笑う声が響く。

「怖がっては可哀想だろう、宵子。伯爵は君を助けに来たんだから。ずいぶん惚れられているじゃないか。……もしかしたら、(つがい)にでもしようと思ってたのかな」

 宵子が立ち竦んでいたのを、怯えているからだと決めつけているらしい。

(私の気持ちを、勝手に決めつけないで……!)

 はっきりと言ってやれないのを心底悔しく思いながら、宵子は春彦を睨んだ。

 この人のことを優しいだなんて思っていたのは、間違いだった。()()()()には気にかけてもらっていたと思っていたけれど、見せかけだった。
 春彦は、宵子のことを何も分かっていない。知ろうともしていない。
 兄のように慕っていたのが、こんな男だったなんて。

「僕としても、()を渡すつもりはないけどね。──やれ!」

 歯噛みする宵子に軽く微笑んでから、春彦は鋭く命じた。邪悪な計画がすでに成功したかのように、()(づら)するのも気持ち悪いし腹立たしい。
 それに、何より。春彦の声に応じて、黒い犬は再び牙を剥いてクラウスに襲い掛かっている。

(クラウス様……!)

 宵子の目の前で、すさまじい死闘が演じられていた。

 月光を纏って輝く銀の毛皮と、闇を凝らせたような漆黒の毛皮。
 宝石のように涼やかな青の目と、火のついた石炭を思わせて(おこ)る紅い目。

 対照的な色の二頭の獣が、ぶつかり合い、交錯する。どちらのものともつかない唸り声が響き、鋭い牙が闇に煌めく。
 争いに使われるのは、爪と牙だけではなかった。
 片方が身体で抑え込もうとしては、もう片方は素早く転がって避ける。黒い影が跳んだと思うと、銀の閃光が着地点を狙って走る。

 巨大な体躯(たいく)強靭(きょうじん)な筋肉を兼ね備えた二頭の攻防は一進一退で、宵子は息をすることも忘れていた。
 時おり、銀色の毛が雪のように宙に舞うたびに、彼女自身に牙が迫ったように身体が強張ってしまう。

 何度も地面に転がり、木の幹に叩きつけられるうち、クラウスの毛皮は汚れてしまっている。それは泥の汚れであって、流血ではないと信じたいけれど──暗い中、絶え間なく動く彼が無事なのかどうか、宵子の目では分からない。

(前も、あの犬を追い払ってくれたもの。負けたりしない……!)

 声を張り上げて、声援を送ることができないのがもどかしかった。
 宵子がこぶしを握り締めていること、必死の表情でクラウスを見つめていることに気付いて欲しいと切に願う。
 でも、いっぽうでは、彼女に注意を向けて黒犬に隙を見せてはいけない、とも思う。

 見守ることしかできない恐ろしい時間が、どれだけ過ぎたのだろう。とうとう、クラウスは黒い犬を自らの身体の下に組み敷いた。

 きゃいん!

 甲高い悲鳴は、黒い犬の口から漏れたもの。
 敗者の哀願さえ噛み砕こうとするかのように、クラウスは大きく口を開け、牙を剥き出した。

(やった……!?)

 一秒後には、忌まわしい人喰い犬は喉を食いちぎられている。そうなることを、宵子はほぼ確信していたのに──

 ぎゃん、がっ──

 突然、クラウスが()き込んだ。かと思うと、その口から黒っぽい液体が吐き出されて美しい毛並みを汚す。黒──あるいは、濃い、赤?
 色ははっきりとは見えなくても、どろりとした粘りつくような質感なのは、分かってしまう。

(何なの……!?)

 息を呑んだ宵子に、春彦がすかさず教えてくれる。彼女が驚きの表情を見せたのが、楽しくて堪らないとでもいうかのように。

「先日、伯爵が真上家を訪ねた時に、ね。出した茶に蟲毒(こどく)を入れておいたんだ。宵子──どうも君を探していたようだったからね、上の空で飲んでくださったよ!」

 春彦の愉悦(ゆえつ)と嘲笑は、黒い犬にも力を与えたようだった。先ほどまで地に這わされていた()()()は、身体を翻すと、血とも泥ともつかないものを吐き出して苦しむクラウスに飛び掛かった。
 クラウスは、辛うじて黒い犬の牙を逃れた。けれど、その動きに先ほどまでの俊敏(しゅんびん)さはない。

 銀の狼はよろめいて──すぐに黒い犬に追いつかれてしまう。黒い犬の牙が突き立てられて、眩いはずの毛皮を汚す染みは、傷口から溢れた血だ。
 噛みつかれたクラウスは、悲鳴の代わりにまたも黒っぽい粘液をごぼりと吐き出した。

 明らかに異様な光景を、クラウスの窮地を目の当たりにして、宵子(しょうこ)の肌は総毛(そうけ)だった。

蟲毒(こどく)って……!?)

 その言葉の意味は分からなくても、不吉な響きを帯びていることだけは嫌というほどよく分かった。
 宵子の疑問には、春彦(はるひこ)が答えてくれる。

「無数の毒蛇や毒虫を壺に閉じ込めて、食い合わせた後に残った毒と怨みを使った術だ。暗殺なんかに便利なんだが……ドイツ人にも効くんだな。良かった」

 微笑み掛けられたところで、宵子は何も言うことができないのを、よく知っているはずなのに。あるいは、非難も糾弾も返ってこないからこそ、だろうか。

「筋書きは、こうだ。僕と真上子爵は、帝都を騒がせた人喰い犬を退治する。子爵の()()()()のお陰で、犬──狼に手傷を負わせることに成功する。『人喰い犬』が退治されたと同時に、狼の血を引く伯爵が()()()死に方をしたら──まあ、そういうことだと思ってもらえそうだろう?」

 春彦はとても饒舌だった。父に従い、暁子(あきこ)の機嫌を窺ってきた年月、彼も鬱憤を溜めていたのかもしれない。相手の心の中を知ろうとしなかったのは、宵子も同じだったのかもしれない。

「 その()()が飛び込んで来た時は少々驚いたが──すべて、計画通りになりそうで良かったよ!」

 でも、許せなかった。

(そんなこと、させない……!)

 クラウスを害することも、たくさんの少女たちを襲った罪を、彼に押し付けることも。とても優しい彼のことを、化物だなんて呼ぶことも。

 だから宵子は、恐怖を振り払って躊躇(ためら)いなく走った。
 ちょうど、黒い犬はクラウスに()し掛かるべく、地に倒れた彼から身体を離したところだった。
 銀色と漆黒──二頭の獣の間にできた隙間に、宵子は素早く滑り込む。

(ああ、なんてひどい……!)

 クラウスの身体を抱き締めると、毛皮の下では心臓が恐ろしいほど速く脈打っていた。耳元に聞こえる息も荒いし、この距離に近付けば血の臭いも濃いのが分かる。
 こんなにも深手を負って、毒まで呑まされて。それでも、クラウスは宵子を案じてくれているようだった。

 ぐるるる……!

 銀の狼は、宵子の腕の中で低く(うな)り、もがき、逃れようとしている。かっ、と見開かれた青い目は、危ないから離れろと言葉より雄弁に語っていた。

「……どきなさい、宵子。君の身体に傷を残したくはない」

 でも。クラウスがどれだけ暴れても。春彦が、脅すように声を低めても。宵子は腕の力を緩めなかった。
 傷を残したくない、だなんて。宵子を思い遣ってのことではないのだ。()にするつもりの娘に醜い傷痕があるのは嫌だ、という勝手な魂胆(こんたん)に違いない。

(脅かされて、従ったりはしないわ……!)

 犬神(いぬがみ)様の(ほこら)真上(まがみ)家の庭の片隅にある。母屋からは、木々に隠れて見えないだろう。
 それでも、父や暁子の姿が見えないことを、誰かが不審に思ってくれるかもしれない。
 宵子が声を上げることはできなくても、野犬とは思えない遠吠えを聞き咎めて、様子を見にきてくれるかもしれない。

 たとえ儚い望みでも、諦めない。一秒でも長く、時間を稼ぐのだ。
 決意を込めて、宵子はクラウスを抱き締め、春彦を睨みつけた。

「悪い子だ。()が、必要なようだ……!」

 絶対に退いてはいけない。
 たとえ、春彦の声が剣呑に尖り、黒い犬が、燃える赤い目で宵子を捉えても。

(怖くない。怖くないわ……!)

 クラウスの危機に、何もできないこと。彼を目の前で失うこと。
 それに比べれば、春彦の怒りも黒い犬の牙も恐ろしくない。

 がるるっ!

 黒い犬は身体を低くして唸ると、矢のように突っ込んできた。
 巨体が跳んだ時の風が、髪を乱す。黒い影が、鋭い牙が、一秒もしないうちに宵子に届く。

 痛みと衝撃を覚悟して、宵子はぎゅっと目を閉じて身体を強張らせる。盾になってくれようとしているのだろう、腕から逃れようともがくクラウスを、身体全体を使って庇いながら。でも──

 宵子の首元で、何かがぴしり、とひび割れる音がした。ずっと嵌められていた()が、砕け散ったかのような。

(……何なの?)

 恐怖と緊張で強張っていた宵子の頬を、何か温かいものが撫でる。少し硬い、毛皮の感触。お日様の匂い。とても懐かしい気配。腕の中にいるクラウスとも違う、この温もりは──

犬神(いぬがみ)、様?)

 思わず目を開けると、宵子の視界をふさふさの白い尻尾が駆け抜けていった。
 幼いころに、毎日のように触らせてもらったものだ。機嫌良さそうにゆっくりと振られるのを、ずっと眺めていた。

 十年近く前に見たきり、もう二度と会えないと思っていたのに。最後に見たのは、宵子の喉に食らいつく恐ろしい姿だったのに。

 どこからともなく現れた、としか思えない()()()()()()()()()は、一直線に春彦を目指して跳ぶ。

 黒と白と。新旧の犬神、忌まわしい目的のために造られたものと、古くから崇められたものは空中で交差する。

「な──」

 白い犬神は、目を見開いて、立ち竦む春彦の首に噛みついた。先ほど、黒いほうが父にしたのと同じように、血しぶきが上がって満月を(かげ)らせる。

 ぎゃんっ!

 宵子たちに飛び掛かる黒い犬は悲鳴を上げて空中で身体をよじった。まるで、主である春彦の痛みを我が身にも感じているかのように。──その隙を、クラウスは見逃さない。

 宵子の腕をすり抜けて、銀の狼はしなやかに跳んだ。何度も身体をぶつけ合い、牙を剥き合った相手を、今度こそ捉えるために。

 クラウスの牙が、黒い犬の喉笛にしっかりと食い込み、巨体を地面に引きずり倒した。
 黒い犬は、クラウスに()し掛かられて地に縫い留められた後も、しばらくの間もがいていた。でも、みるみるうちに身体は小さくなり、しかも(しな)びていく。
 何度か瞬きをした後、そこに残っているのは干乾びた犬の死体だった。春彦(はるひこ)の術で動かしていただけで、実はもうとっくに死んだ犬が、無理矢理に動かされていたのかもしれない。

 ゥアオオーーーオォーン!

 敵を片付けても、クラウスの闘志はまだ収まっていないようだった。月を仰いでの遠吠えが、宵子(しょうこ)の肌をぴりぴりと震わせる。

 ひとしきり()えた後に、クラウスは宵子をきっ、と睨んだ。宝石のように澄んだ青い目が、今は荒々しい光を宿して燃えている。

 でも──宵子が()を恐れることは、やはり、ない。

 クラウスは、春彦が言ったような化物ではない。優しい()だと、信じているから。
 だから、興奮を現すように全身の毛を逆立てて(うな)る彼に、無防備にに歩み寄ることだって、できる。目の高さを合わせるために跪き、そっと手を差し伸べる。

(助けてくれて、ありがとうございました。無事で、良かった……!)

 血なのか、泥なのか、蟲毒(こどく)とやらの残滓(ざんし)なのか。
 クラウスの毛皮をべったりと汚す色々なものを手指で()き取りながら、宵子は彼を抱き締め、撫でた。
 いつかの夕暮れに助けられた後に撫でさせてもらってから、ずっとまたこうしたいと思っていたのだ。それが、思わぬ形で叶ったことになる。

(ヘルベルト先生は、きっと何もかもご存知だったのね……?)

 いずれまた会える、だなんて(とぼ)けていたに違いない。本当は、とっくに再会していたのに。

(落ち着いて。早く、怪我の手当てもしないといけません)

 美しい毛並みに触れる喜びと、激しい戦いの痕跡の痛ましさ。両方の想いに胸が締め付けられるのを感じながら、宵子はクラウスの目を見つめて、手を動かした。
 そうするうちに、気持ちが落ち着いたのだろうか。クラウスの呼吸は、段々と静まっていった。疲れや痛みも押し寄せたのかもしれない。銀色の大きな狼に(もた)れられて、宵子は危うくよろけそうになった。

 ──宵子。

 でも、そんな彼女の背を支えてくれる存在がある。
 鼻先で宵子に触れてきたのは、クラウスの眩い銀色とはまた少し違った色合いの、雪のような純白の毛皮の狼。ううん、より相応しい呼び方を、宵子は知っている。

犬神(いぬがみ)様……?)

 呪いで声を封じられた恐ろしさよりも、幼いころに遊んでもらった懐かしさが勝った。それに、どうして今、ここに、という不思議さが。

 首を傾げてぽかんとしてしまった宵子に、白い犬神は口を開いて笑ったような表情を見せた。

 ──ここにいる(われ)は影のようなもの。本体はとうに朽ちている。かりそめの肉体を失い、思念だけの存在になったからこそ、言葉を伝えることもできる。お前の頭に直接語り掛けている、とでも思えば良い。

 言われて(?)みれば、宵子は何の疑問もなく犬神様からの呼び掛けに振り向いていた。

(昔も、おしゃべりしたかったです……)

 何の憂いもなく幸せだったころを思い出すと、胸がつんと痛んだ。でも、犬神様の言葉によると、あの時は無理だった、ということなのだろう。

 宵子を(いたわ)わるように、犬神様は軽く下げた頭をこつん、とぶつけてくれた。
 大きい身体の割に伝わる感触が軽いのは、やはり()のような存在だから、なのかもしれない。

 ──お前には辛い思いをさせたな。だが、あの時、我には見えたのだ。我が命が長くないこと、真上(まがみ)家の跡継ぎと新城(しんじょう)家の末裔が良からぬことを企むこと。……お前が、異国の()に出会うこと。

 犬神様の金色の目が、クラウスを捉えて微笑んだ。獣の姿でも、思いや表情がはっきりと伝わるのが、不思議なほどだった。

 ──ゆえに、どんな形でもお前の傍にいてやらねば、と思ったのだ。我が死んでも、お前から声を奪うことになっても。今、この時まで、我が影をどうにか残してやらなければならなかった。

 犬神様の耳がしょんぼりと垂れるのを見て、宵子は慌てて首を振った。

(そんな。お陰で助かったんです。私も、クラウス様も……! 声のことだって──)

 呪われたと言われて。言葉を発することができなくて。
 辛い、寂しい思いをしたことは、確かにあった。
 でも、だからこそより強く、クラウスに想いを伝えたいと思えた。そもそも、彼と出会えたのも、暁子(あきこ)の言いつけがあってのこと。犬神様は、宵子とクラウスをひき合わせてくれたのだ。

 宵子の想いが伝わったのだろうか。犬神様の耳が、ゆっくりと立ち上がった。
 すりすりと首筋をすり寄せてくれるのは、すまなかった、ありがとう、の想いを込めてのこと。これも、言葉がなくても伝わってくる。

 ──異国の若い狼よ。

 と、犬神様の金の目がクラウスに向けられた。
 年長者に敬意を払うかのように、クラウスは(かしこ)まってちょこんと座っている。彼に対する犬神様の眼差しも、教師が生徒を見守るような、優しく威厳に満ちたものだった。

 ──我も、元は()()と似たようなものだった。人に殺された獣の霊が、血と怨みを糧にかりそめの姿を得て、操られるがままになっていた……。

 息絶えた黒い犬の残骸をちらりと見て、犬神様の毛並みが少し波立った。

(真上家のご先祖は、やっぱりひどいことを……?)

 宵子の強張った頬を、犬神様の舌が慰めるようにぺろりと舐める。──その、仕草をした。これもまた()だからなのか、濡れた感覚がしないのが寂しかった。

 ──だが、年を経るうちに変わったのだ。我を利用するだけでない、感謝する者も崇める者も現れて──だから、やがて理性も知性も得た。

 身体の軽さや舌の感触のなさだけではない。犬神様の白い毛皮を透かして、夜の庭園が見えることに気付いて、宵子は目を(みは)った。クラウスも、驚いたように三角の耳をぴくぴくさせている。

 ──だからその血を恥じることはない。ただの獣でも、やがて神と呼ばれるようになれたのだから。まして人として生まれたならば、心がけと──伴侶次第で、荒ぶる本能を抑えることもできるだろう。

 ひとりと一頭の視線を浴びながら語るうちに、犬神様の身体の色はますます薄く淡く、そして、透けて見える夜の闇は濃くなっていく。実体はもう朽ちていると言った通り、()が長くこの世に留まることはできないのだろうか。

(待って。行かないで……!)

 止めようと伸ばした腕は、けれど虚しく宙を抱くだけだった。
 宵子はきっと泣きそうな顔をしていたのだろう、犬神様は、今度は彼女の目元を舐めてくれる。

 ──悲しむことはない。自然なことだ。我にとっても……お前に声を返してやれるから……。

 頭に響く声さえ、次第に微かなものになっていって。そして、最後には消えてしまった。
 瞬きをすれば白い残像がちらつくけれど、それもすぐに薄れてしまう。
 気付けば、夜のただ中、月の光の下で、起き上がっているのは宵子とクラウスだけになっていた。

 少し視線を巡らせれば、父と春彦が無残な姿になっている。暁子も、早く介抱してあげなくては。でも──これはふたりきり、なのだろうか。

(えっと……どう、すれば……?)

 次の行動を決めかねて、思考停止してしまった宵子の傍らで、()()()()がぼそりと呟いた。

「貴女からは、同族の匂いがすると思っていたんだ。今の犬──狼? の気配だったんだな……」

 その声に応えようと彼に向き直って──宵子は、一瞬で頭が沸騰する思いを味わった。

「──ひゃ」

 だって、クラウスは完全な裸だったのだ。闇に浮かび上がる、彼の白く滑らかな肌。しなやかな筋肉を纏っているのは、踊った時には気付いていたけれど──何も着ていない時に見てしまうなんて、心の準備ができていない。

(毛皮も! とても綺麗だったけど!)

 慌てて背を向けても、はしたないと思っても、クラウスの裸の胸は目に焼き付いて離れてくれなかった。彼にとっても気まずい事態だったのだろう、背後から狼狽(うろた)える気配が伝わってくる。

「す、すまない。狼の姿でいるのも限界で……その、肩掛け(ストール)を貸してもらえると、助かる……」

 もちろん、絶対に必要なことで、願ってもないことだった。だから、宵子は黒い犬に攫われた時からどうにか羽織ったままでいられた肩掛け(ストール)を、肩越しにクラウスに渡した。

 しばらくごそごそと動く音と気配がして──たぶん、肩掛け(ストール)を腰に巻き付けるか何かして、安心したのだろう。クラウスが、明るい声を上げた。

「貴女の声を、やっと聞けたな」

 言われて、宵子はやっと気付く。クラウスの裸を見た時、思わず悲鳴を上げていたこと。
 九年振りに使った喉は、言葉にならないひと声だけで、もうひりひりと痛む気配がしていたけれど。最初に聞いてもらうにしては、とても情けない響きだったけれど。

 でも──宵子は、声を出せるようになったのだ。

 犬神様の呪いが解けたから。ううん、そもそも呪いなんかではなかった。あの方は、宵子を心配して、守れるように機を待っていただけだった。宵子は、嫌われてしまった訳ではなかったのだ。

「え、ええ。ええ……!」

 錆びついていた舌と喉を必死に動かして、宵子はどうにか頷いた。込み上げる涙を堪えながらだったから、掠れてひび割れて、それはひどい声だった。人魚の歌なんてとんでもない、蟇蛙(ヒキガエル)のようだとさえ思うのに──

「本当に良かった。貴女と語りたいことが沢山あるんだ……!」

 クラウスの声は喜びに満ちていた。宵子を背中から抱き締める腕も力強くて。薄い寝間着越しに感じる肌の熱さ、筋肉のしなやかさはあまりにも生々しい感覚で。宵子に、余計なことを思い出させてしまう。

(──あれ。私、狼の姿であんなに撫でたりして──あんなところ、も……!?)

 真っ赤になった彼女を腕の中に閉じ込めて、クラウスが耳元に囁く。

「どうか振り向かないで。その……裸だから。嫌だったら離れるが! でも……嬉しくて、離したくない。……嫌、か?」

 嫌なはずはない。でも、口に出すことはできない。声の出し方を、まだ完全に思い出した訳ではないし──何より、恥ずかしいから。

(いいえ! どうか……ずっとこのままで……)

 だから宵子は無言のまま、必死で首を振ることしかできなかった。
 あの後──真上(まがみ)家の住人たちは、突然泥と血に塗れて現れた宵子(しょうこ)の姿に仰天し、さらに彼女が声を取り戻したことを知って絶句していた。
 さらに、彼女の説明によって庭の片隅で起きた惨劇(さんげき)を知らされることになった彼ら彼女らの恐怖や衝撃、動揺は察するに余りある。

 何より、夫の遺体に取りすがって涙する子爵夫人──母の姿を見るのは、宵子にとっても辛かった。
 母にしてみれば、彼女は徹頭徹尾、忌まわしい呪いの子だっただろう。夫が亡くなったのは宵子のせいだ、と考えても無理もないことだった。使用人が持ってきてくれた着物を纏ったクラウスに支えてもらわなかったら、まともに立っていることはできなかったかもしれない。

 夜明けと共に駆けつけた警察に対して、どう説明するかも悩ましいところだった。使用人たちに聞いても、父と春彦(はるひこ)の企みを知っている者は誰もいなかったから。クラウスに蟲毒(こどく)入りの茶を呑ませた者も、そうとは知らされずにやっていた、ということらしい。

 でも、幸か不幸か、父たちは書斎の机に書付を残していた。
 恐らくは、()()が首尾良く運んだ後、(おおやけ)に報告する内容をあらかじめ準備していた、ということなのだろう。その内容は、次のようなものだった。

 帝都を騒がせる「人喰い犬」は、この世の存在ではない、怪異の(たぐい)である。
 真上家に伝わる術と犬神(いぬがみ)の力を使って居場所を突き止め、(ほこら)におびき出す算段を整えた。娘の暁子(あきこ)も、(おとり)としてその場にいることを了承してくれた。
 すでに数多(あまた)の命を喰らった怪異は強敵であり、真上子爵も春彦も、決死の覚悟で臨まなければならぬであろう。しかし、帝都の安寧を取り戻すためにも喜んで身命を投げ出すものである──

 ()()を知っている宵子とクラウスにとっては、図々しいことこの上ない偽り、建前の物語でしかない。
 でも、実際に起きた出来事は、()()()()()()は《・》父たちの書付に沿ったものでは、あった。

 つまり──父と春彦は、人喰い犬との激しい戦いの結果、相討ちとなって命を落とした。
 ふたりの無残な遺体と、干乾びた犬の死体を発見した警察は、そのように考えたのだ。
 もうひとりの()()も、その推測を裏づけた。気絶から目覚めた、暁子のことだ。

 暁子は、何があったかを問われても、こう繰り返すだけだった。

『言えないわ。言ってはいけないの。殺されてしまう。黙っているから! お願い、殺さないで……!』

 暁子は、春彦に脅された恐怖に心が捕らわれたままになってしまった。でも、それを知っているのは宵子だけ。
 聴取にあたった警官や母からすれば、人喰い犬に襲われて、目の前で父や婚約者が殺されて、さぞ恐ろしい思いをしたのだろう、としか見えなかっただろう。

 なお、宵子とクラウスの存在については、病弱な宵子をドイツの医学で診てもらうために彼に預けていた、ということになった。真上家を訪ねた時に彼自身が語ったことを、流用した形だ。
 そうして、彼の屋敷に滞在していたところ、宵子はあの黒い犬に攫われた、と──嘘と真実をほど良く混ぜると、とてももっともらしく聞こえるのだと、疑う様子のない警官たちを前に宵子は学んだのだった。

 とりあえず、世間が納得するであろう説明は、整った。
 そこで、本当のことを打ち明けるべきか否か──宵子とクラウスは、何度も密かに話し合った。

 何人もの少女を犠牲にしてきた父たちを、人喰い犬を退治した英雄として語られるままにして良いのかどうか。
 でも、真実を語ったところで、父も春彦もすでに命を落としている。死者を罪に問うことはできないし、そもそも術の(たぐい)を裁く法は明治の世にはない。
 父たちの計画を知らせる──あるいは思い出させることは、母や暁子の心にさらに負担をかけることになってしまうだろう。真上家の使用人たちも、世間から後ろ指をさされることになってしまうかもしれない。

 考えた末に、宵子は()()は秘めたままにしておく、と決めた。でも、それは父たちのせいで失われた命を顧みないということでは、ない。

「お父様と兄様の罪は、私が償おうと思います。真実を知る真上家の末裔としての責任です」

 宵子の決断に、クラウスは良いとも悪いとも言わなかった。彼女の決断を尊重すると、最初から決めていてくれたのだろう。
 だから、なのか──彼はただ微笑んで言っただけだった。

「ならば、俺は貴女を支えよう。いつまでも、ずっと」

 それはつまり、彼は祖国を捨てるということ。彼にとっての異国の地で生涯を過ごすということ。
 なのに、彼の笑顔は曇りなく、言葉には欠片の躊躇(ためら)いもなかった。
 信じられない。信じても良いのか、彼にそこまでさせて良いのかどうか。

(クラウス様……本当に……?)

 喜びよりも驚きと不安が勝って、宵子はすぐに頷くことができなかったのだけれど。

「俺が、そうしたいんだ。……貴女には、迷惑だろうか」

 青い目がわずかに(かげ)るのを前に、疑ったり遠慮したりすることこそクラウスへの非礼になると気付かされて。宵子は彼の胸に飛び込んだ。

「いいえ! とても……とても、嬉しいです。どうか、離れないで。わ、私の……傍にいて、ください!」

 長いことをしゃべるのにも慣れてきたころだったから、宵子はどうにかひと息に、つかえることなく言い切ることができた。

「……そうか。良かった……!」

 鍛えた肉体のしなやかさと逞しさは、彼女を苦もなく受け止めてくれる。あの夜に何も着ていないところを見ているからこそ、思い切り身体を預けることができた。

 クラウスの温もりと力強さに包まれて、宵子はこの上ない幸せを味わった。

      * * *

 今の真上子爵家は、どこか閑散としてしまっている。

 まず、住人の数がとても少なくなってしまった。
 父が亡くなっただけでなく、母も、暁子の療養に付き添って地方の別荘に移ったのだ。もちろん、ふたりの世話のために、それなりの人数の使用人が屋敷を離れることになった。
 世間には宵子がそうしている、と説明していた通りの境遇に、入れ替わるように暁子が収まったのは、皮肉なことかもしれない。

(お母様にとっては……暁子だけが娘なのかしら)

 宵子の胸を、一抹の寂しさがちくりと刺すけれど、深く思い悩む暇がないのが救いだった。

 何しろ、父が亡くなり、母と暁子が屋敷を離れた今、真上家の家政(かせい)に関する何もかもは宵子の肩にかかっている。

 母と暁子に従った者たちだけではない。庭で起きた惨劇に怯えて屋敷を辞した者もいれば、単純に父の死によって仕事がなくなり、退職してもらわなわなければならなくなった者もいる。
 彼ら彼女らに退職金や、できれば次の働き口を紹介したり。残ってくれた者たちに、改めて仕事を割り振ったり。
 ほかにも、警察に対する説明や、財産の相続の準備を整えたり。ここしばらくの宵子は、目が回りそうな忙しさだったのだ。当然のように人と話す機会も多かったから、長らく使っていなかった喉を鍛え直すことができたのは良かった、だろうか。

(でも、やっと一段落ついたわ……!)

 調度の類もずいぶん減ってしまって、広々とした応接間を見渡して、宵子は微笑んだ。

 宵子が多忙だったもうひとつの理由が、真上家の家財道具や衣装や収集品の処分の手配だった。
 真上家の家計が苦しいというのは間違いのない事実だということが分かったから、使用人たちの退職金などを捻出(ねんしゅつ)するために、価値のある品々を売り払わなくてはならなかったのだ。そのような品が残っていたのは良かったけれど、父は祖父から受け継いだ収集品などを手放すつもりはなかったことも判明したから、それはそれで情けないことではある。

(でも、これも償いの一環になるわ)

 家財を売ってできたお金は、「人喰い犬」に殺された少女たちの遺族にも渡した。
 早く事件を解決できなかったことのお詫び、としか言えないのがとても心苦しいけれど。その行動によって、真上家に世間から賞賛が寄せられるのも、正しいことではない気がするけれど。
 それでも、何もしないよりはマシではないだろうか。一応は名家と言われる真上家との関係を作っておけば、今後も宵子が手を差し伸べられる機会もあるかもしれないし。

(お父様もお母様も暁子も……みんな、ここを出て行ってしまったもの。そんなにたくさんのものがあったって──)

 寂しいような、すっきりしたような。不思議な気持ちで、宵子は何もない応接間を横切って窓辺に進んだ。警察が大勢出入りして、少し乱れてしまった庭を眺めようと。

 絨毯を踏む彼女の履物は、今日は西洋風の(かかと)の高い靴だった。纏う衣装も、やはり着物ではなく洋装だ。人に会う時は、このほうが気の強い女だと思われやすいから。
 知らない人、立場や年齢が上の人と会う機会が増えた宵子の、ささやかな戦略だった。

「宵子。ここにいたのか」

 と、彼女の背後で、こつ、と靴音が響いた。そして、ほかの誰のものよりも宵子の胸をときめかせる、低く優しい響きの声が。

「クラウス様……!」

 その人の名を呼びながら、宵子はスカートの裾を踊らせて、くるりと振り向いた。
 すると、部屋の入口にクラウスが佇んでいる。窓から入る陽光に銀の髪を煌めかせて。身体に合った仕立ての良い服で、すらりとした長身を引き立たせて。
 穏やかな笑みを湛えた青い目は、真っ直ぐに宵子を──特に、彼女の左手の薬指に嵌められた指輪を見つめていた。
 宵子(しょうこ)とクラウスはお互いに歩み寄り、ちょうど応接間の真ん中で対面した。

(いつまで経っても、恥ずかしい、かしら……?)

 クラウスを見上げる首の角度は、もうすっかり身体に馴染んだ。宵子が声を取り戻したことで、互いの国の言葉の上達もますます早くなって、会話にも不自由しなくなってきている。
 それでもなお、彼の端正な顔を間近に見ると、そして、彼に見つめられているのを意識してしまうと、宵子の頬は熱くなってしまう。
 真っ赤な林檎(りんご)のような顔になっているだろうと思うと、顔を伏せたくなるのだけれど──クラウスは、許してくれないのだ。

「貴女の顔を、隠さないで欲しい。《《婚約者》》なのだから」
「は、はい」

 両頬を彼の手で包まれて、顔を上向かせられる。
 クラウスの指や掌の温もり。少し硬い感触。
 青い目が間近に覗き込んで──形良い唇が微笑む時に漏らした吐息が、宵子の産毛をくすぐる。

(やっぱり、駄目……っ)

 宵子は、ふるふると首を振ってクラウスから逃れた。一歩、二歩、後ずさって、整い過ぎた顔と距離を取る。

「す、少し離れてくださいっ。まだ、慣れなくて……!」
「……では、これは? 指輪を並べて見せて欲しい」

 幸いに、クラウスは気を悪くした様子はなかった。
 でも、だからといって宵子を解放してくれる訳でもなくて。熱い頬を押さえる宵子の手が、そっと取られて彼の掌に包まれる。
 クラウスが言った通り──彼の長い指と、宵子の細いそれには、お揃いの金の指輪が輝いていた。

(これが、婚約の証……)

 指輪を飾る小さな青い宝石は、クラウスの目の色でもあり、陽が沈んですぐ、昼の色をまだ残した空の色──(よい)の色でもある。
 夫婦となるふたりが、指輪を交換する。
 欧州(ヨーロッパ)(なら)いを、宵子はクラウスに教えられて初めて知った。指輪を常に身につけること自体が彼女には慣れないことだけれど、彼が傍にいてくれると思えるのはとても素敵なことだと思う。

 そう、宵子はクラウスに求婚されて、それを受けたのだ。

 女に爵位を継ぐことはできないから、真上(まがみ)子爵家は父の代で断絶することになる。屋敷を去る使用人の中には、この家に未来がないと考えた者もいただろう。
 宵子も、犬神(いぬがみ)様の(ほこら)(まつ)ってひっそりと生きていくのを覚悟しようとしていた。父たちの罪を思えば、真上家の最後を見届ける存在になるべきではないか、と思ったから。クラウスが──ヘルベルトも、たぶん──時々訪ねてくれるなら、それ以上のことは望んではならないのだろう、と。

 でも、クラウスはこう言ってくれた。

『俺は──この血を恥ずべきものだと思ったこともある』
『そんな……』

 あんなに綺麗な毛皮で、風のように駆けられるのは素敵なことだと思うのに。クラウスの卑屈なもの言いは、宵子を驚かせた。

『だが、あの犬神の言葉を聞いて考えが変わったんだ』

 そんなことはない、と言おうとした宵子を遮って、クラウスは軽く笑った。そして、彼女の左手を捕らえて、薬指に素早く指輪を通したのだ。
 ずっと傍にいてくれる、と言われたのが、単なる友人という意味ではなかったことに、宵子はその瞬間まで気付いていなかった。思えばずいぶん大胆なこともしたけれど、外国の流儀はそういうものだと思っていた──あるいは、そのように思い込もうとしていたのかもしれない。

『少なくとも、狼の血のお陰で宵子を助けられた。俺の先祖も、獣の姿で民を守ってきたそうだ。真上家も、本来はそうだったんだろう。……古くから伝えられる思いまで絶えさせることはない。共に繋げていくことはできないか……?』

 クラウスの熱を帯びた声と眼差しは、宵子の思い違いを根底からひっくり返した。《《ふたりの》》将来を真摯に語ってくれたのだと分かった。だから──宵子は一も二もなく頷いたのだ。

 ──その時の記憶を噛み締めていたから、宵子がクラウスにずっと手を握られていることに気付いたのは、彼がくすくすという声を聞いてからやっと、だった。

「今度は逃げないんだな。良かった」
「お、思い出させないでください。意識すると、恥ずかしいから……」
「では、このまま少し話そうか」

 宵子の頬の熱は、いつまでたっても冷めてくれない。しかもクラウスは手を握ったまま離す気配もなく、広々とした応接間を見渡すのだ。

「ずいぶん綺麗に片付いたな。……これだけ広いと、円舞曲(ワルツ)を踊れそうじゃないか?」
「え、ええ。そうですね……?」

 訳が分からないまま頷くと、クラウスは嬉しそうに微笑んだ。そして、右手を宵子の背に回す。舞踏の時に、男女で組む格好だ。

「最初に会った時のように、踊らないか」
「構いません、けれど……音楽もないのに、ですか?」

 首を傾げながらも、宵子は右手を掲げてクラウスの左手を握る。すると、金の滑らかさが指に感じられた。

(クラウス様も、指輪……)

 お揃いなのだ、夫婦になるから。
 ときめきに燃える宵子の胸に、クラウスはさらに蕩けるような囁きで油を注ぐ。

「貴女の手を離したくないんだ。握り続ける口実なんだ、実のところ」
「……っ、は、はい! 喜んで……!」

 全身に火のついた思いで答えながら、宵子は左手をクラウスの二の腕に添えた。

 (アインス)(ツヴァイ)(ドライ)──

 口で拍子を数えながら、ふたりして踊る。鹿鳴館(ろくめいかん)の夜会で出会った時よりもさらに、心が通じ合った今は軽やかに滑らかに足を運ぶことができる。
 さすがに舞踏室よりは狭い室内だから、多少、控えめな動きではあるけれど──だからこそ、踊りながら言葉を交わす余裕もあった。

 くるくると回りながら、宵子はさりげなく切り出した。

「クラウス様。また、狼の姿も見せてくださいね。クラウス様はいつも素敵で、気後(きおく)れしてしまうのですもの。あちらのほうは──あの、可愛いですから」

 ゆるやかな波のような円舞曲(ワルツ)歩調(ステップ)に紛れさせるのでなければ、とても言えないような大胆なおねだりだった。

(あの耳……毛並み……尻尾……!)

 わくわくとした期待が、触れ合った手や身体から伝わったのだろうか。宵子をリードして、スカートの裾をふわりと舞わせながら、クラウスは苦笑した。

「そして、撫でてくれるのか? 可愛い姿でも中身は俺だが……それは、良いのか?」

 彼に身体をゆだねて、美しく首と背をしならせる姿勢(ポーズ)を取りながら、クラウスの顔を見上げながら。宵子は目を瞬かせた。
 彼女の視界に映るのは、彫刻のように整った容貌の、麗しくも凛々しい貴公子。でも──白磁や磨いた大理石もかくやの白皙の頬が、今は赤く染まっている。

(……まさか?)

 甘い言葉で赤面させられるのは、いつも宵子のほうなのに。

「もしかして、クラウス様も恥ずかしいのですか?」

 思い切って尋ねてみると、ぼそりと()ねたような早口が返って来る。

「好きな人に触れられたら、恥ずかしいし嬉しいに決まっている」

 次に踏み出した彼の足幅は大きく、回転は早く。宵子の軽い身体は動きの波に乗ってぐるんと回った。その速さに壁紙の模様が溶けて混ざって、宵子は歓声を上げて笑う。

「クラウス様……速い、です!」

 風に舞う花びらや雪片の思いで、宵子はしばし浮遊感を楽しんだ。
 円舞曲(ワルツ)とは、男女が互いに回ることで、ふたりの動きが組み合わさることで次の動きへと繋げるもの。
 クラウスと手を取り合って、彼の回転に身を任せることで、宵子はほとんど力を入れなくてもくるくると回ることができる。まるで、空を飛んでいるかのように。

 人生は、きっと舞踏のように楽しいだけのものではない。でも、ふたりで共に進むならきっと大丈夫。

(だって、こんなにも息が合って、心が通じ合っているんだもの……!)

 観客も音楽もない、ささやかな舞踏会だった。でも、楽しくて満たされる。
 このひと時は、宵子にクラウスと歩む未来の美しさと幸せさを確信させてくれた。

 そして回転が止まった時──余韻(よいん)でふらつきかけた宵子を、クラウスはしっかりと受け止めてくれた。彼女がちゃんと立てたのを確かめても、抱き留める腕は解けてくれなくて。青い目が宵子を覗き込み、形良い唇がそっと動く。

「──宵子。愛している」
「はい。私も」

 思ったことをそのまま相手に伝えられるのは、なんて幸せで大切なことなのだろう。胸に込み上げる温かな想いを、宵子は大きく息を吸って、吐いて味わった。そして、そっと目を閉じる。──クラウスの整った顔が近づいて来るのをじっと見つめるのは、あまりに恥ずかしくて耐えられそうにない。

(物語なら、めでたしめでたし、で終わるところね……?)

 クラウスの腕に力がこもるのを感じながら、宵子は夢のようなことをふと思う。

 欧州(ヨーロッパ)のお伽話では、愛する人の口づけが呪いを解くものなのだとか。
 宵子の呪いはもう解けたけれど、愛も口づけも不思議な力があるのは間違いない。

 唇に温かく柔らかな感覚が触れるだけで、こんなにも幸せな気分に浸れるのだから。

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