真上家の応接間から、少女たちの高い笑い声がいくつも聞こえてくる。
「暁子様、鹿鳴館の夜会に出席なさったそうですわね」
「羨ましいわ、皇族や外国の貴族の方もいらっしゃったのでしょう?」
鳥のさえずりのような、軽やかで賑やかな声の主は、暁子の学友の令嬢たちだ。
暁子は、華族の令嬢に相応しく学習院の女子科に通っている。
もちろん、卒業まで売れ残ったりせずに、良いころ合いを見て春彦と結婚するために退学するだろう。色とりどりの美しい振袖をまとった令嬢たちも、きっと同様のはずだ。良家の令嬢は、家柄に相応しい婚約者が決められているものだから。学校は見聞を広げたり友人を作ったりするためのものであって、勉学に打ち込む方はとても珍しい。
彼女たちはみんな、近い将来、夫のために社交に励むことになる。だから、婚約者のエスコートで夜会に出た暁子の話を聞こうと興味津々なのだ。
「ええ。お父様が、子爵家の娘たるもの、淑女のお手本にならなければいけないとおっしゃるから。今の時代、ドレスでの社交くらいこなせなければいけませんわね?」
「ご立派ですわ、暁子様……!」
宵子は、令嬢たちの会話を扉越しに聞いている。高い声が頭の上を通り過ぎていくのは、彼女が床に這いつくばって拭き掃除をしているからだ。
だって、「真上家のもうひとりのご令嬢」は遠方で療養中ということになっている。暁子の学友たちの誰も、宵子のことなんて知らないのだ。暁子と同じ顔がもうひとつ現れたら、さぞ驚かせてしまうだろう。
だから宵子は、冷たい水で雑巾を絞りながら、応接間の様子を思い浮かべるだけだ。
(皆様、仲が良いのね。暁子も楽しそう……)
洋風の造りの室内に、令嬢たちがまとうのは日本の振袖。出される茶器は、おじい様が収集した明国時代の磁器。いっぽうで茶請けの菓子は、卵と乳脂と砂糖をたっぷりと使った西洋の焼き菓子。真上家の厨房で、料理人が苦労して研究して焼き上げたものだという。
色々な国と時代の綺麗なものが集められてた豪奢な一室で、装いを凝らした若々しい令嬢たちが歓談する光景は、きっととても華やかなものだろう。宵子も、呪いさえなければ一緒に笑っていられたかもしれない、だなんて。考えてもしかたないことが、つい頭を過ぎってしまう。
(いけないわ。社交は暁子のお仕事なんだから。私も、私の仕事をしないと)
いつもの絣模様の着物で、宵子は床の雑巾がけをする。真面目に掃除を、と思ってはいるけれど、暁子たちのやり取りに、耳を傾けずにはいられない。
「夜会には外国のお客様もいらっしゃったのでしょう?」
「ええ。晩餐ではお箸を使おうとする方もいたのですけれど、下手くそだからお芋が上手くつかめないの。テーブルの下まで転がしてしまった方もいて、おかしかったわ」
「舞踏はいかがでした? 私もいずれ、とは思うのですけれど。殿方と抱き合うような格好なんて、恥ずかしくて」
「そうですわね、殿方も年配の方ばかりだし、外国の方は香水がきついし、拷問のようでしたわ!」
宵子にさせたことなのに、見てきたように語るものだ。不躾に手を握られたり腰を抱かれたりする気持ち悪さ、強い力で振り回される恐ろしさを、暁子は知らないのに。
それに、不愉快な思いをしただけでは、なかったのに。
(クラウス様との円舞曲はとても素敵だったのよ、暁子)
妹とはまるで違う、地味な着物を着ていても、優雅なお茶会とは無縁で水仕事に手を荒れさせていても。あの夜踊った貴公子を思い出すと、宵子はまたドレスで着飾ったように晴れがましい気分になった。
上手で思い遣りがある方が相手なら、舞踏は楽しいものなのだ。暁子がそれを知らないままなのは、可哀想でさえあるかもしれない。
クラウスの輝くような銀の髪と青い瞳、あの夜差し伸べてくれた手を思い出して、宵子は宙に手を伸ばした。あの方の手を取るかのように。そうして、踊り出そうとするかのように。
その時──暁子の無邪気な声が、扉の向こうから聞こえてきた。
「ああ、でも。外国の貴賓にも素敵な殿方はいらっしゃいましたわね。確か──シャッテンヴァルト伯爵クラウス様と仰る、とても綺麗な青年でしたわ」
思い浮かべていた方の名が不意に呼ばれて、宵子の心臓は跳ねた。行儀が悪いとは知りながらも息を詰めて、耳を澄ませる。屋敷にいる間は足首に結ばれている鈴は、屈んでいると音が響きにくいのが幸いだった。
「まあ。どちらの国の方でしょうか」
「ドイツからいらっしゃったということでした。春彦兄様に通訳していただいたのですけど、私のことを気に入ってくださったそうですの!」
「さすがは暁子様ですわね」
「外国の方から見ても、暁子様はお美しいのですわ」
「まあ、お上手ね──」
和やかに笑い合う暁子たちの声を聞きながら、宵子は両手で口を押えていた。呪いで喉を封じられた彼女が、うっかり声を出してしまうことなんてない。でも、驚きのあまり心臓が口から飛び出すのではないか、というくらいどきどきしていた。
(クラウス様が暁子を気に入った……それとも、私を? まさか、そんな)
一緒に踊った縁で、晩餐会でもまた話したのだろうか。春彦は話を合わせただろうし、クラウスのほうでは宵子と暁子が別人だと気付いていないはずだ。
急に言葉数が増えた娘のことを、いったいどう思ったのだろう。打ち解けたからだと思っただろうか。黙りこくったままの宵子よりも、好ましく見えただろうか。
「あの方なら、またお会いしたいですわね。次に夜会にお呼ばれするのが、楽しみになってきましたわ!」
暁子がそんなことを言い出すから、宵子の心臓の鼓動は、速いだけでなく痛みを伴い始めた。
(あの方と、またお会いできる? でも、暁子として、だけよね……言葉を交わすことも、できない……)
クラウスにまた会えると思えば、嬉しい。
でも、宵子の名前をあの方が知ることはない。身振りで伝えた夜、という意味の名前も、暁子と話すうちに忘れてしまうだろう。暁子があの方と親しくなっていくのを、宵子は黙って見ることしかできないのだ。
ううん、見ることもできないかもしれない。
(……あの方と踊るために、暁子が代役は要らないと言い出したら……!?)
そうしたら、宵子は二度とクラウスと踊れない。それどころか、会うことさえできないだろう。
宵子の目の前が絶望に暗くなった時──不意に、背中から強く押された。
(きゃ……!?)
暁子の声に意識を集中させていた宵子は、あっけなくその場に倒れてしまう。手をついたはずみで桶が倒れて、廊下に水たまりができる。
汚れた水で袂を濡らした宵子に、低く抑えた、けれど険しい声が降ってくる。
「手が止まっていますよ、宵子。それに、盗み聞きのような格好でみっともない」
声の主、そして宵子を突き飛ばしたのは、母だった。品の良い小袖をまとった上品な華族夫人の姿には似合わず、宵子を見下ろす視線は冷たく、親子の情愛など欠片も見えない。
「暁子のお友だちに見られてはいけないと、分かっているでしょう?」
父も母も、迷信だと思っていた家の言い伝えが本物で、呪いをかけるような存在が間近にあったということが、恐ろしくて気味悪くてしかたないと思っているのだろう。
だから、今の両親にとって、真上家の娘は暁子だけ。呪いを受けた宵子は、恐怖と嫌悪の対象でしかない。
それに、まともに育っていれば政略結婚の駒にできたのに、と思うから悔しいのだろう。だから、せめて女中に混ざって働かせたり、暁子の代役で踊らせたりしているのだ。
(ごめんなさい、お母様。宵子は分を弁えています)
声にならない言葉まで叱られることはないから、宵子はまだこっそりと心の中でお父様、お母様と呼んでいる。
濡れた着物で床に座って土下座する姿は、女中よりもひどかったとしても。この屋敷は宵子の家で、この方たちは宵子の家族のはずだった。
たぶん、母のほうではそう思ってはいないのだろうけれど。宵子が従順に頭を下げたことで、とりあえず満足してはくれたようだった。
「……こぼした水を拭いたら、お使いに出なさい。決して人目についてはいけませんよ」
次に言われたのは、お仕置きではなく単なる命令だったから。これでも母は、さほど怒っていないほうだった。
格子縞の着物に着換えてから、宵子は真上家の門を出た。
ほんの何枚かしか持っていない着物は、どれも何度も身丈を直して何年も着古したものだ。女中同然の呪われた子は、暁子のように季節ごとに振袖を仕立ててもらうという訳にはいかない。
だから、貴重な一枚を汚してしまったのは困ったことではあるのだけれど。宵子がどんくさいのが悪かったと思うしかないのだろう。
(絹の着物じゃない、丈夫な木綿だもの。洗って乾かせば良いのよ)
宵子は、自分に言い聞かせながら歩く。ざり、ざり、と。下駄が土を踏む音に混ざって、足首に結ばれた鈴が規則正しくりん、りんと鳴る。
母に命じられたお使いは、味噌が減っているから新しい樽をもらってこい、というものだった。今日明日にでもなくなってしまう、というものではないだろうから、 たぶん、暁子の友人たちに宵子が見られないように念を入れる、という意味合いなのだろう。盗み聞きのようなことをしていたのは事実だから、母が心配したのも無理はない。
(あの方の話が気になるからって、無作法だったわ……)
恥ずかしさに頬を染めつつ、宵子は目的の商店に辿り着いた。真上家御用達の味噌屋だ。
「真上様の女中さんか。いつものだね、ちょっと待ってくれよ」
鈴の音で宵子が来たのが分かったのだろう、前掛けをした味噌屋の主人はすぐに店先に顔を出した。と思うと、すぐに奥に引っ込んだ。
質素な着物を纏った娘が、まさか真上家の令嬢のひとりだなんて誰も思わない。真上家に出入りする商店の者は、みんな、宵子のことを女中だと思っている。
そして、口が利けない娘を雇ってくれる真上様は優しいとか、無言ながらお使いをこなす宵子は頑張っているとか、感心してくれるのだ。
「ほら。重いから気をつけてな。お代は、今度お屋敷に伺う時にいただくから」
今日も、主人はすぐに味噌樽を宵子に渡してくれた。重いといっても、宵子が抱えられるていどの小さな樽だ。水を汲んだり薪を運んだりするのに比べたら、何でもないのに。
それでも気遣いは嬉しいから、宵子は味噌樽を抱えて頭を下げた。
(いつもありがとうございます。美味しくいただいています)
言葉で伝えられない分、丁寧に、深く──と、伏せた宵子の鼻先に、香ばしい焼いた味噌の香りが届く。
「そんなに細くちゃお勤めも大変だろう。あり合わせだけど、良かったら──」
味噌屋の主人が、竹皮に包んだ焼おにぎりを差し出してくれたのだ。この店の賄いを、さっと包んでくれたのだろう。仕事の合間に残り物を急いで口にする宵子にとっては、とても嬉しいおやつだった。
「ご主人たちに見つからないように食べな」
目を輝かせて、再び、今度はより勢い良く頭を下げた宵子に、主人は照れたように笑った。そして、すぐに真剣な表情になって、声を潜める。
「あと──気をつけろよ。最近、妙な事件が続いているからな」
事件とは、と。宵子が目を瞬かせて首を傾げると、主人はぎゅっと顔を顰めた。
「若い娘の無残な死体が幾つも出てるんだよ。野犬か何かに襲われたみたいな、ひでえ傷痕でな。狼みたいにでかい犬を見たって噂もあるが……」
言いながら、主人はきょろきょろと辺りを見渡した。その視線は、死体が見つかった路地や空き地を指しているのだろうか。
だとしたら、確かにあちこちで、しかも近くでひどいことが起きていることになる。宵子も急に肌寒さに似た不安を感じた。
(大きな犬……犬神様、みたいな……?)
犬神様は、宵子を乗せられるくらいに大きかった。口も、牙も。
あの鋭い牙が目の前に迫った記憶が蘇って、宵子は思わず喉元を押さえた。
宵子怯えた様子を見て、味噌屋の主人はすまなそうに眉を下げた。
「そんなにでかい野犬なら、早く捕まると良いんだけどな。──そういう訳だから、明るいうちに帰りなよ。引き留めて悪かったな」
気を付けて、と重ねての忠告を背中に聞きながら、別れの挨拶代わりに何度も頭を提げながら。宵子は真上家への帰り道を急いだ。
(暁子のお友だちは、もうお帰りかしら)
令嬢たちがちょうど退出する時に帰宅しては、よろしくないから、勝手口から入ろう。そのほうが、すぐに味噌を届けられるし。
味噌樽を抱えて、もらった焼きおにぎりは懐に入れて。鈴の音を響かせながら宵子が足を急がせていると──
「死体だ! 誰か来てくれ! またやられた……!」
男の人の悲鳴が響き渡った。宵子は足を止めたし、通行人や、通りの左右に並んだ商店の人たちの間にもぴりりとした緊張が走る。
(またって……誰かが野犬に襲われたの!?)
話を聞いたばかりで、しかもまだ明るいうちだというのに。
(嫌だ、怖いわ……!)
味噌屋の主人の忠告を思い出して、宵子は悲鳴に背を向けようとした。
でも、多くの人は彼女とは逆のことを考えたらしい。恐ろしい現場を見ようという野次馬があちこちから押し寄せてきて、宵子は思ったように進めない。
「どっちから聞こえた!?」
「あっちだろう」
「例の狼騒ぎだよな。もう何件目だ……?」
それどころか、人の波に流されるようにして、遠ざかりたいほうへと押しやられてしまう。
(帰りたい、のに……!)
狭い路地に押し込まれた瞬間に、嫌な臭いが鼻を突いた。
生臭い、鉄錆のような──血の臭いだ。お腹の底がぐるぐると動く感覚に、宵子は口元を押さえる。集まった人たちの、羽織や着物の合間から、恐ろしい光景が見えてしまったのだ。
望んで見に来たはずの野次馬たちも、怯えたように後ずさり、引き攣った声を漏らす。
「ひどいな」
「やっぱり、若い娘か」
「可哀想に……」
地面に倒れているのは、赤い着物を纏った少女だった。
ううん、違う。こんな鮮やかな赤い生地は、普段着にできない。
着物が赤いのは、少女の首を引き裂いた傷口から流れた血によって染め上げられたからだ。それに、血を失った彼女の肌が青いほどに真っ白で、血の赤が映えるから。
宵子も、ざあっと音を立てて血の気が引くのが分かった。きっと、死人さながらの真っ白な顔色になっているだろう。
頭がぼうっとして、ふらついて。立っているのもやっとの彼女の耳に、野次馬の不安そうな囁きが届く。
「医者は?」
「もう遅いだろう。呼ぶなら警察だ」
「ま、まだその辺にいるんじゃないか? 人喰い犬が……!」
誰かの呟きが引き起こした恐怖は、瞬く間に伝染した。悲鳴のようなどよめきが聞こえたかと思うと、人垣が揺れて、宵子の身体も引きずられる。
(怖い、転んでしまう……!)
事件現場に押しかけた野次馬は、今や我先にその場から逃れようとしていた。
抱えた味噌樽を庇いながら、人の身体とぶつかってもみくちゃにされながら。宵子はどうにか身体の均衡を保とうとした。
頭を上げて、一歩一歩を、ちゃんと地につけて。押されても、突かれても、呼吸を忘れてはいけない。
味噌樽は絶対に落としてはいけないから、手を使って周囲の人や塀なんかに縋ることができないのが難しいけれど。
それでも──しばらくの間もがいた結果、宵子はどうにか人混みから逃れて息を吐くことができていた。髪も息も乱れているし、着物もしわくちゃになってしまったけれど、味噌樽は無事だ。
(お屋敷は──大丈夫、道は分かるわ)
普段使わない通りに出てしまって、不安はあるけれど。首を伸ばして辺りを見れば、洋館の瀟洒な屋根が連なる──つまりは、華族のお屋敷が立ち並ぶ一角は、見て取れた。
(遅くなったら、叱られてしまう……!)
まずは見慣れた場所に出なくては、と。方角に当たりをつけて、宵子が足を踏み出した、その瞬間だった。
ぐるるるるる──
低い獣の唸り声が耳に入って、宵子は飛び跳ねた。恐る恐る辺りを見渡しても、獣どころか人影さえ見えないけれど──先ほどの野次馬の声が、蘇ってしまう。
(人喰い犬が、まだ近くにいるかもしれない……!?)
恐怖と不安に高鳴り始めた胸を押さえて、宵子は帰路を急ごうとしたのだけれど。前を向こうとした彼女の視界の端に、黒く疾い影が放たれた矢のように躍った。
(何なの……!?)
はっきりと考えることもできないまま、宵子はとっさに跳びのいた。彼女がいた場所を、黒い疾風が駆け抜ける。がちり、と。鋭く不吉な音が耳元で聞こえた。
それは、巨大な犬が顎を閉じた音だ。宵子が動いていなかったら、喉元を食いちぎられていただろう。恐怖に目を見開く彼女の前に、恐ろしい姿が立ちはだかる。
ぐるるるるる──
黒い犬が身体を低くして唸っていた。大きさだけなら、犬というより子牛や仔馬のほうが近い──犬神様と同じくらいに巨大な獣。
目は、燃える石炭のように爛々と輝いて、鋭い爪の生えた前足が、しきりに地面を引っ掻く。もう少しのところで宵子を逃がしたのを、悔しがるかのように。
(嫌。来ないで……!)
巨大な犬の後ろ脚に力がこもったのに気付いて、宵子は激しく首を振った。でも、獣が彼女の懇願を聞いてくれるはずもない。
むしろ、怯えを見せたことで良い獲物だと思われてしまったのだろうか。黒犬は、四肢に力を溜めて、飛び掛かる気配を見せた。
このままでは、ひと跳びで食いつかれてしまう。宵子は、黒犬に背を向けて駆け出した。
(誰か! 助けて!)
心の中で叫んでも、もちろん誰も駆けつけてはくれなかった。声が出せたところで、巨大な犬を見たら誰だって隠れるか逃げ出すかしてしまうだろうけれど。
背中からは、黒犬の荒く獰猛な息遣いが聞こえる気がした。
犬の脚力なら一瞬で追いついても不思議はないのに、距離を詰めようとしないのはいたぶっているつもりなのだろうか。怖くて振り返ることなんてできないから、宵子は走り続けることしかできない。
(狭いところに入れば……!?)
路地を見つけて入り込んで──そして、すぐに無駄なことに気付く。
鋭い爪が地面をける音が、追いかけてきている。いくら巨大な犬でも、宵子が通れる幅の道なら問題なく入って来られるのだ。
角を曲がって撒くことも、できそうにない。宵子の足首につけられた鈴が、うるさいほどに鳴り響いて、彼女の居場所を教えてしまっている。
りんりんりんりん、りんりんりんりん
鈴の音は、宵子自身をも追い立てるようで、訳が分からなくなっていく。息が苦しくて、目の前も霞み始めて。いまだに胸に抱えている味噌樽を投げつけようか、だなんて馬鹿げた考えも頭を過ぎってしまう。
(あ──)
下駄の爪先が、何かにつまづいた。足もとを気にする余裕なんて、とうになくなっていた。
何もかもが、ゆっくりに感じられた。
迫る地面。走ってきた勢いのまま、叩きつけられる衝撃。痛み。視界を翳らせる、黒犬の影。嬉しそうな唸り声。牙で引き裂かれるのを覚悟して、ぎゅっと身体を縮めて、目を閉じる。
何も見えない中で、恐ろしい唸り声が聞こえた。なぜか、ふたつ。威嚇するような低いものと、悲鳴のような高いもの。
さらには、何か大きなものがぶつかり合う音と気配を感じて、宵子は身じろぎした。
(……え?)
恐る恐る身体を起こして、振り返る。全身を襲う、じんじんとした痛みに堪えながら。そして──宵子は驚きに目を瞠った。
二頭の巨大な犬が、もつれ合っていた。互いに相手を組み伏せようと、牙を突き立てようと、激しく争って。
一頭は、夜の闇のような漆黒の毛並み。先ほどまで、宵子を追いかけてきたほうだ。
もう一頭は、月の光のような輝く銀色の毛並み。どこからか現れて──宵子を助けてくれた、のだろうか。
(怖い……けど、綺麗……)
鋭い爪と牙が、目の前で閃いている。それは、恐ろしいと同時に美しい光景でもあった。黒いほうの巨犬は、まだ宵子を狙っている。炎のような赤い目が、飢えによってか怒りによってか、荒々しく燃え盛っている。
でも、銀色のほうは、黒犬の攻撃をことごとく跳ねのけてくれていた。牙を剥こうとすれば体当たりして。跳躍しようとすれば、のしかかって邪魔をして。
動く度に、銀の毛並みが陽光を反射して眩しい煌めきを放つ。その美しさは、どんな宝石や細工ものも適わないと思えた。だから宵子は、息をすることも忘れて見蕩れてしまった。
黒と銀──決して溶け合わない色の二頭は、どれくらい争い合っていたのだろう。宵子にはとても長い時間に感じられたけれど、実際はどうだったか分からない。とにかく──悔しそうな、苦し紛れの遠吠えを上げたのは、黒いほうの犬だった。
アォーーーーーン
ゥアァアォーーーン
そして、銀色の巨犬の遠吠えは勝ち誇るようで、敗者の声を圧倒した。その猛々しい声に追い払われるように、黒犬は現れた時と同じく素早く駆け去って行った
黒い尻尾が視界から消えると、狭い路地に取り残されたのは宵子と銀の毛並みの犬だけだった。
宵子はまだ立ち上がることができていなかったから、のしのしと近づいて来る巨犬とは、ちょうど目線が合うか、下手をすると見下ろされるのでは、という格好だった。
間近に見れば、銀の犬は宝石のような青い目をしていた。黒犬と激しく争ったところを見たばかりだけど──その目は深い湖のように静かに凪いでいたから、不思議と怖いとは思わなかった。
(あ、ありがとう……?)
怖がるよりも、どうすれば感謝を伝えられるのか、がさしあたって宵子が直面する難題だった。
人間に対するようにぺこりと頭を下げてみたけれど、果たして分かってくれるだろうか。恐る恐る顔を上げてみると、銀の犬は、やはりというか怪訝そうに首を傾げている。
(じゃ、じゃあ──撫でても、良い?)
犬の大きさと輝くような毛並み、それに理知的な眼差しは、犬神様を思い出させた。
呪いによって声を封じられる前、両親とも暁子とも家族として笑い合うことができた、幸せな日々。新雪のように汚れのない毛並みがあの頃のことを思い出させて、宵子の胸は切なく痛んだ。
手を差し伸べてしばらく待ってみても、銀の犬は吼えたり牙を剥いたりしなかった。だから許可をもらえたのだろう、と解釈して、宵子は銀の毛並みに触れた。
(うわあ……柔らかい……!)
見た目の硬質な印象と裏腹に、指先に伝わる感触は胸がときめくほど優しくてふわふわだった。
最初はおずおずと表面だけを撫でていた宵子も、次第に大胆になって毛をかき回したり、ぴんと立った三角の耳に触れたりし初めてしまう。お礼をしているのか自分の楽しみのためなのか、よく分からないほどだ。
(人に懐いているの? どこかのお屋敷で飼われている子なのかしら)
この銀の犬が、人を襲った犯人であるはずはない。美しい毛皮には、一点の血の染みもないのだから。でも、首周りを探っても、首輪をしている様子はない。
(『人喰い犬』と間違えられたら大変。早くご主人様に返してあげたいけど……)
倒れたところから半身を起こした姿勢のまま、宵子は銀の毛皮を撫で続けた。困ってはいるのだけれど、いつまでも触りたくなる心地良い感触だから止められない。
と、銀の犬が前足を一歩進めて、宵子に近付いた。彼女の首元に顔を近づけて、ふんふんと匂いを嗅ぎ始める。湿った鼻先が肌に触れるとくすぐったい。
(わ、ど、どうしたの……?)
首筋に、鎖骨の辺りに、項に。宵子の周りをぐるぐると回りながら、銀の犬はしきりに彼女を鼻先でつつく。
青い目は相変わらず落ち着いているし、牙を見せている訳でもないから怖くはない。でも、どうして──と考えたところで、宵子は閃いた。
(……これ?)
幸いに、というか。宵子はまだ味噌樽を大事に抱えていたし、懐の焼きおにぎりも無事だった。
もしかしたら、香ばしい香りは犬にも魅力的なのだろうか、と思って、竹皮を剥がして犬の鼻先に差し出してみる。
すると、犬の青い目が少し見開かれて、驚いたような表情になる。もちろん、人間の宵子が勝手にそう思った、というだけだけれど。
(……違った?)
的外れだったのかと思うと、犬相手でもちょっと恥ずかしかった。気まずさを呑み込んでおにぎりを包み直そうとした時──温かく湿ったものが、宵子の手に触れた。
銀の犬が、そっと口を開いておにぎりを咥えたのだ。牙が宵子を傷つけることがないよう、気を付けてくれた気配がする。とても優しい子だ。
(良かった。美味しい?)
美しい毛並みと佇まいに相応しく、銀の犬の食べ方は上品だった。おにぎりを地面に落としたり米粒をこぼすこともなく、とても綺麗に平らげていく。これで、お礼ができたことになるだろうか。
(後は、どこの子か分かると良いんだけど……)
満足そうな表情でぺろりと舌を出す犬の頭を撫でて、微笑みながら。宵子は残る問題をどうしようかと首を傾げた。
「やっと見つけた! ずいぶん探したんだぞ」
そこへ、異国の言葉を紡ぐ男の人の声が彼女の耳に届いた。
慌てて振り向くと、そこには金の髪の殿方が佇んでいた。外国の方の例に漏れず、背が高い。転んだ格好のままの宵子からすると、首が痛くなるほど見上げなければならない。
纏っているのは、完全な和風の着物だった。
墨色の紬が、白い肌にも金の髪にもとてもよく映える。気取らず、けれど品の良い着こなしは、和装に慣れている風情があった。外国の方にしては、とても珍しいことだと思う。
けれど、彼が口にしたのは宵子には理解できない音の連なりだった。
(どこの国の言葉かしら。この子の、ご主人なの……?)
その方の翡翠色の目は、宵子の隣にちょこんと座った銀の犬を見ている、ような気がする。
犬の大きさに驚いたり怖がったりしていないようだから、飼い主だと思って良いのかどうか──宵子が困って眉を寄せていると、金髪の殿方は一歩、二歩、彼女のほうに近づいてきた。足もとも、当然のように下駄を履いているのが目につく。
その方が目の前に立つと、長身からくる威圧感はますます強まった。宵子は身体を強張らせたけれど──
「あー……ありがとう、お嬢さん。私はその狼の、主人でね。飛び出してしまったから探していたんだ」
流暢な日本語で話しかけられて、目と口をぽかんと開けてしまう。
ぱちぱちと、瞬きすることしか宵子に、不思議な外国の方は大きな手を差し伸べた。
「立てるかな? 女の子に噛みつく奴じゃないはずなんだが。怪我はない?」
恐る恐る、その方の手を借りて立ち上がりながら、宵子はふるふると首を振った。
転んだ時のすり傷で、あちこちにぴりぴりとした痛みを感じるけれど、どれも大したことはないと思う。
(大丈夫、です……)
軽く頭を下げたことで、気持ちは伝わっただろうか。金髪の殿方は、晴れやかに笑った。
夜会で会ったクラウスとはまったく違う砕けた雰囲気の方だけれど、間近に顔を合わせると端整な容貌であることに気付いてしまう。しかもその方が、宵子の手を握ったまま、にこやかに語り掛けてくるのだ。
「私は、ヘルベルトという。ドイツ人だ。日本に来て長いから、言葉は分かるよね? 君の家はどこ? 送って行ったほうが良い?」
宵子は、問われたことに対して激しく頷き、次いで、また首を振った。
(言葉は、分かります。でも、送っていただく訳には……)
呪いで声を取り上げられても、何とかなると思っていた。頷くか首を振るかで、だいたいの場面はどうにかなる、と。
でも、クラウスといい、このヘルベルトという人といい、どうして外国の方は宵子から答えを引き出したがるのだろう。
(ううん。私からも伝えなければいけないことがあるのに……!)
銀の犬に助けてもらったこと、飼い主である方にお礼を言いたいということ、ついさっき、近くで死体が発見されたこと。──だから、誤解を招く前に、こんな大きな犬は早く家に帰してあげなければ。
宵子は、犬の頭を撫でて、それから、ヘルベルトの顔をじっと見上げた。目で、思いが伝われば良いと思って。でも、翡翠の目は怪訝そうに彼女を見下ろすだけだ。
(あとは──どうしよう……!)
手ぶりで、三角の屋根をなぞって「家」を示して、犬を連れて入る仕草をしてみても、無駄なようだった。ヘルベルトだけでなく、犬までもが首を捻った気がして、宵子は頭を抱えたくなってしまった。
「……そいつが気に入ったの? 連れて帰りたい、とか?」
ヘルベルトは、宵子の主張を精いっぱい汲み取ろうとしてくれたようだけれど──まだ、違う。
申し訳なさを感じながら小さく首を振る宵子の頭に、苛立ち混じりの溜息が降って来る。
「黙っていられると困るな。攘夷とかいって刀を振り回すのは、もう何十年も前のことなんだろう? 怪しい外国人とは話したくないって訳かな?」
ヘルベルトの綺麗な色の目に、険が宿った。
皮肉っぽく問われたのは、宵子が思ってもいないこと。でも、そう思われてもしかたのないことでもある。
(ごめんなさい。違うんです)
激しく首を振っても、声が出なくては説得力がないだろう。ヘルベルトの唇がうっすらと弧を描く──けれど、目は笑っていないし、声も冷え切っている。
「では、何とか言ってくれるかな。手当は不要なのか、礼をすべきなのか。口が利けないってことはないだろう?」
刺々しい問いかけも、宵子にとっては天からの救いに思えた。
(そうなんです。しゃべれないの……!)
満面の笑みで大きく頷いてから、宵子は念を押すように口を指さし、首を振る。口を、針で縫い留める動作をしてみる。
そうやってひとり芝居を演じるうちに、ヘルベルトも理解してくれたらしい。髪と同じく金色の眉が、ぎゅっと寄せられた。
「……すまなかった。そんなつもりじゃ、なかったんだ」
真摯に謝ってもらうことこそ申し訳なくて、宵子は首も手もぶんぶんと振った。
(そんな。私が悪いのに……!)
外国の方が日本にいると、色々と言われることがあるのだろう。……暁子を傍で見ているから、分かってしまう。
こんなに自然に着物を着こなしている人でも、きっとそれは例外ではないのだろう。
「そんな顔をしないで。──ほら、そいつも怒ってる」
気遣う目で見上げる宵子に、ヘルベルトは困ったように微笑んで肩を竦めた。
(そいつ……?)
宵子が不思議に思うのとほぼ同時に、彼女の横を銀色の煌めきが駆け抜けた。
美しい毛並みの犬が、飼い主であるはずのヘルベルトに頭突きをしたのだ。さらには、大きな口を開けて、彼の腕を咥える。
(え!?)
人間に対しては吼えも唸りもしない、とてもお行儀の良い犬だと思っていたのに。
突然の行動にうろたえる宵子に、でも、ヘルベルトはあっさりと笑ってみせた。
「大丈夫、大丈夫。お嬢さんに失礼なことをするなって言ってるだけだから」
銀の犬は、本当に軽く、そっと、開いた口で彼の腕を咥えているだけだった。鋭い牙も、紬の生地に穴を空けたりしていないようだ。
着物の高価さや繊細さを分かっているような──とても賢い犬、なのだろうか。
「分かってくれただろう? 私とこいつは仲良しだ。綺麗な犬を盗もうとか、そんな悪党じゃない」
外国の殿方と銀色の犬、ふたりの関係は、人間の友達同士のようでとても不思議だった。
でも、ヘルベルトの言葉は真実なのだろうと分かったから、宵子はこくりと頷いた。
「怪我は、大したことはないんだね? 私は医者だ。家に来てくれれば手当もできるが」
今度は、首を振ってから頭を下げる。ありがたいけれど大丈夫です、の意味だ。
「時間がないのかな。それとも、人目が気になる? 若い娘が男について行く訳にはいかないか……」
日本の暮らしが長いからか、ドイツでもそうなのか。ヘルベルトの気遣いは的を射ている。宵子は、頷いてから、また頭を下げた。厚意を断るのを、申し訳ないとは思っているのだ。
「……こいつが飛び出すなんて、滅多にないことだ。何があったか聞きたいところだが──まあ、こいつに聞くとしよう」
ヘルベルトが銀の犬の首筋を軽く撫でたので、宵子は首を傾げた。……まるで、犬が言葉を話せるように聞こえたから。
宵子の視線を浴びても、銀の犬は素知らぬ顔でちょこんと座っているだけだ。とてもお利口で、賢そうな様子では、あるのだけれど。
「これは、私の連絡先。日本の若いお嬢さんには難しいかもしれないが、良ければ訪ねてくれ。君の声帯──ええと、何て言ったかな。喉とかを、診てあげたい」
と、ヘルベルトが差し出した紙片を、宵子は慌てて受け取った。
しっかりとした厚紙に、描かれているのは蔦のような繊細な模様。それに、宵子には読めないアルファベットの綴り。ヘルベルトの名前が印字されているのだろう。
(名刺というものね。これが、ドイツ語なのかしら……)
アルファベットの下には、幸いに日本語で住所が書かれていたけれど、宵子はどこにあるのか考えようとは思わなかった。
家の者に知られずに屋敷を出るなんてできそうにない。外国のお医者にかかるのも、父や母は良い顔をしないだろう。
何より、宵子がしゃべれないのは病気ではなく呪いのせいだ。いくらドイツの医学が進んでいても、どうにもならないと思う。でも──初めて会ったばかりの娘のことを、案じてくれるのは嬉しかった。
もらった名刺をしっかりと帯に挟んでから宵子が頭を下げると、ヘルベルトは満足そうに頷いた。
「気を付けてお帰り。もうすぐ暗くなってしまう」
言われて初めて、宵子は空が濃い赤に染まっていることに気付いた。黒い犬から逃げて、ヘルベルトと話している間に、思いのほかに長い時間が経っていたのだ。
(早く帰らないと……!)
また叱られてしまう、と。宵子は身体を翻して慌てて走り始めた。もちろん、去り際にヘルベルトにお辞儀するのを忘れない。
夕闇に紛れるように、ヘルベルトと銀の犬が視界の端を過ぎていく。彼は、犬の頭を撫でて宵子とは逆の方向に歩き出したようだった。
「行くぞ、クラウス」
犬に話しかける音の連なりの中に、忘れられない名前が聞こえた気がしたけれど──立ち止まることも、まして戻ることもできなかった。
クラウスが念じると、毛皮に包まれていた前足が人の手指に戻っていく。
四つ足の狼の姿から、二本足で立つ人の姿に戻って──人の言葉を話せるようになったところで、彼は不機嫌に呟いた。
「……誰が誰の主人だって?」
言いながら、屏風というらしい衝立にかけられた浴衣を手に取る。彼にはまだ慣れない日本の伝統的な衣装だが、さっと羽織るだけでとりあえず形になるというのは便利かもしれない。
屏風の向こうでは、彼に浴衣の着方を教えた悪友のヘルベルトが軽く笑っている。
「日本語をよく聞き取れたじゃないか。やはり現地に滞在すると上達が早い」
「お前の言葉はドイツ語の響きがあるからかな。日本人相手だと、そうはいかない」
少し苦労して帯を結んだクラウスは、屏風の影から出た。
そこは、純日本風の畳の部屋になっている。
もともとは商人の家だったのを、ヘルベルトが借りて住まい兼診療所にしているのだ。ただでさえ怪しい外国人の医者が洋館に住んでいたのでは、日本の一般の民衆は訪ねてはくれないだろう。
(だが、一室くらい洋風にしても良いのではないか?)
頭の隅で思ったことは、客の身で言うには立ち入ったことだろう。だからクラウスは大人しく畳に腰を下ろした。
草の香りは彼には新鮮だが、嫌いではない。ヘルベルトが用意した緑色の茶も、甘く煮て潰した豆を固めたゼリーも、そうだ。
ただ、座布団があるとはいえ、床に直接座るのだけはどうだろう、と思う。無作法だと感じる以上に、日本人がするような組み方をするには彼の脚は長すぎるのだ。
来日してもう長いヘルベルトは、とても自然に胡坐というらしい姿勢で寛いでいる。
「東京は長閑だろう。ヨーロッパほど明るくない。人々も素朴だ。──我々が潜む余地もある」
ヘルベルトが言う「我々」というのは、普通の人間とは少し違う存在、という意味だ。
クラウスのシャッテンヴァルト伯爵家は、狼の血を引いている、と伝えられている。
月の満ち欠けに応じて猛るその血は、かつては戦いで役に立った。彼のように狼の姿に変じることができる者が一族の中にはたまに現れたが、狼の爪と牙は常に敵のためにふるわれた。だからだろう、守られた民たちは教会に訴えないでいてくれた。
ヘルベルトも、吸血鬼の末裔だ。
とはいえ伝説ほどの恐ろしい怪物ではなく、クラウスの家のようにコウモリになれる者がいるとか、夜目が効くとか、そのていどの能力だ。吸血については、食糧がなければ人や獣の血でも生き長らえられる、とのことだから、非常食の選択肢がすこし多いということでしかないらしい。
むしろ、日光に弱い分、並みの人間よりもひ弱なくらいでは、ということで──ヘルベルトが医学を修めたのも、一族の体質を解き明かそうとしてのことだとか。
「そうだな……鹿鳴館の煌めきは例外なんだな。街を見れば、まだまだ古くからの暮らしも信仰も残っている……」
クラウスの一族もヘルベルトの一族も、教会の弾圧に怯えるいっぽうで、近しい民を守り、尊敬を受けることでどうにか生き延びてきた。
だが、最近の科学の発展によって事情が変わった。人狼だの吸血鬼だのという存在は、愚かな迷信と断じられるようになったのだ。ガスや電気の灯りによって、ヨーロッパ諸国の夜は次第に明るくなっていっている。
それはつまり、クラウスたちのような人ならざる存在が生きられる影が小さくなっていくということだ。
ヨーロッパで息を潜めて生きるか、それとも新天地に活路を見出すか──ヘルベルトが賭けたのが、日本だった。
開国したばかりで、技術の進歩の度合ではヨーロッパに及ばない。人々は勤勉で善良だと聞いたし、何より、信仰する神が大勢いるというのが良い。唯一にして絶対の教えがあるという訳ではないなら、クラウスたちも迫害を恐れる必要がないかもしれない。
「そして、我々の同類も生き残っているのかもしれない」
変わった味の茶を飲みながら、クラウスは指摘した。
狼の姿になった彼は、ヘルベルトの案内で東京の街並みを見学したところだったのだ。外国人のふたり連れよりは、犬の散歩を装ったほうがまだしも目立たないかもしれない、と考えてのことだ。
「鹿鳴館の夜会の後でも言っていたな。さっき飛び出したのも、それで、か?」
「あの夜とは……また別なような、繋がっているような」
ヘルベルトに問われて、クラウスはそっと溜息を吐いた。
夜の貴婦人──声を聞かせてくれなかった貴婦人のことを、彼女の、神秘的な眼差しを思い出しながら。
(さて、何と説明すべきか……)
ヘルベルトの翠の目が、促すようにクラウスを見つめている。
「……例の、『夜の貴婦人』。彼女の匂いを感じたからだ。あの女性は、どこか狼のような匂いをまとっていたから、すぐ分かった」
多くの着飾った人々が行きかう舞踏室で、だから彼女はとても目立ったのだ。
遠い異国で、古くからの友人に出会ったような気分で、クラウスは黒い髪と目の愛らしい令嬢をワルツに誘った。舞踏の経験が浅かったのか、最初はぎこちなかった彼女の足の運びが、次第に滑らかになっていくのは彼にとっても楽しく幸せなひと時だった。
「運命的な再会、という訳か。お前がそんなことを言い出すとはな。あの後も、ずいぶん気にかけていたようだし」
「そういう訳では──ただ、あの夜は奇妙なことが起きたから」
ヘルベルトにからかわれたのを誤魔化すべく、クラウスは豆のゼリーに手を伸ばした。竹でできた小さなフォークも、彼の手指の大きさには合わなくて扱いづらい。
とはいえ、クラウスが顔を顰めるのは、異国のカトラリーの厄介さだけが理由ではなかった。
(俺が会った『夜の貴婦人』は何者で、本当は何て名前なんだ?)
「夜」という名前だと身振りで伝えてくれた神秘的な日本の令嬢とは、晩餐会で再会できた。名前も、婚約者だという青年が教えてくれた。
(真上子爵令嬢暁子──あの少女は、別人だ。高慢な目つきも、出しゃばった振る舞いも。匂いも違う。顔だけはそっくりだったが)
彼が運命を感じた女性は、ほんのわずかな間に、まったくの別人に入れ替わったとしか思えなかった。立ち居振る舞いがまったく違うのは、一度会っただけのクラウスにもよく分かったから。
名前についても、「アキ」という音に夜に関する字が当てはまるとは考えづらいと、ヘルベルトが教えてくれた。
夜の間しか見えない小さな星のように、捉えがたく消えてしまった不思議な女性。
彼女のことは確かにずっと気になっていた。東京の街中で匂いを感じた時に思わず飛び出したのも、いつものクラウスならしないことではあった。
だが、それどころではない事態が起きたのだ。
「……飛び出した後、すぐに強い血の臭いも感じたんだ。しかも、彼女のほうに近づいているようだったから、急いだ」
忌まわしい血と死の臭いを纏った黒い犬──のようなものを撃退したことを話すと、ヘルベルトの表情も真剣なものになった。
「近ごろ、野犬が人を襲っているという事件は、確かにあった。だが、ただの獣じゃない──ということか?」
「ああ。……厳密には、俺のような存在でもないとは思う。つまり、人が変身したのではないし、理性や感情がある訳でもない。何というか……闇を捏ねて作り上げた人形のような」
あの黒い犬に牙を突き立てた感触を思い出すと、クラウスの口中に苦い唾が湧く。
普通の生き物の鼓動や血の流れは感じず、代わりにおぞましい何かが、毛皮の奥で蠢いている気がした。
「私が言うのも何だが、冒涜的だな」
「ああ。東京の人々が人外のものへの警戒を強めると困る。こちらでも調べたほうが良いかもしれない」
「そうだな。私がコウモリになれれば良かったんだが。患者さんからそれとなく話を聞いてみるか……」
クラウスとヘルベルトは、それぞれ狼と吸血鬼の末裔だ。信心深い人々からは恐れられかねないからこそ、同類の凶行は放っておけない。
「──そういえば」
頷き合ったところで──ヘルベルトがにやりと笑った。
「つまり、さっきの少女が君の夜の貴婦人で良いんだな?」
「……っ、そ、そうだ……」
そこは、濁せるものなら濁しておきたかったのだが。真っ直ぐに聞かれては嘘を吐くこともできず、クラウスは仕方なく頷いた。
(くそ、あんなところを見せるつもりじゃなかったのに)
当然のことではあるが、彼女にとってはクラウスはただの大きな犬だった。
あちこち触れられるのは気まずくて気恥ずかしくても、吼えたり牙を剥いたりして怖がらせることはできなかった。──だが、彼の正体を知るヘルベルトが見れば、さぞ面白い場面だっただろう。
事実、ヘルベルトは実に楽しそうに笑っている。
「運命の女性に撫でてもらって良かったじゃないか。口が利けないというのは気の毒だが、嫌われていた訳ではなかったようだし。名刺も渡したから、ここに来てもらえると良いな? 日本語の勉強も頑張らないとな?」
「……そう、かな……」
彼女とまた会う。どうにかして意思疎通をする。その想像は楽しく嬉しいものだった。耳や頬が熱い。ヘルベルトに見せるのは癪だが、きっと真っ赤になっているだろう。
だが、無邪気に期待するだけで良いものだろうか。
彼女に纏わりつく同族の──狼のような匂いの正体は。特に、首周りに絡みつくように感じ取れたのだが。
さらには、彼女と真上子爵家の関係は何なのか。令嬢とよく似た姿は、近しい血縁だからだろうか。それにしては、どうして今日はあんな質素な着物を着ていたのだろう。
あの少女に関する疑問は幾つも湧き上がって、しかも答えはまったく分からない。
(手も、荒れていたし……)
彼を撫でた手、丸めた米を差し出した手を思い出すと、クラウスの頬はますます熱くなる。
厚意でくれたものを断るのは無礼だろうから、ありがたく握り飯をもらうことにしたのだ。でも、犬の姿では上手く受け取ることができなかった。
少女の指先に舌を触れさせてしまったのは、決して彼の本意ではない。人の姿だったら──と考えるのは、とても失礼なことだ。
それでも、想像せずにはいられない。盛装した姿で、彼女の手を取って口づけるところを。ほんのわずかな触れ合いでも、とても優しいと分かったあの少女が、心からの笑顔を見せてくれるところを。
「……彼女の正体や境遇も気になる。真上子爵家のことも、調べなければいけないな」
頬の熱さを冷ますべく、クラウスは首を振った。
日本が、彼にとって平和な安住の地になれば良いのに──そうなるまでには、考えることが多すぎるようだった。
宵子が真上家の屋敷に戻った時には、辺りはすっかり暗くなっていた。味噌を取りに行くだけのお使いにかかる時間ではないから、当然、台所を任された女中は良い顔をしなかった。
「ずいぶん長いお使いでしたねえ、宵子様。いったいどこまで行ってたんだか……!」
ひったくるように味噌樽を受け取った女中の不機嫌な声が、頭を下げた宵子のつむじに振って来る。
(暗いから、汚れは見えていないみたい。良かった……)
黒い犬から逃げまどって、地面に倒れて。着物の汚れも手足の擦り傷も、見咎められたらきっと面倒なことになる。
心配してもらえることはたぶんなくて、着物を汚したことや、真上家の者としてみっともない振る舞いをしたことに対して、叱られるだけだろうから。
(早く部屋に戻って、身体を拭きたいわ)
いくら機嫌が悪くても、呪われた宵子と長く話していたい者はいない。だから、女中の小言が途切れた隙を狙って、宵子は深くお辞儀して台所を抜け出そうとした。
いつもなら、背中に聞えよがしの溜息を聞くだけだっただろうけれど。今日は、尖った声が追ってきた。
「ああ、お客様が来ているんですよ。客間の前を通る時は、どうかお静かに」
意外な言葉に、宵子は思わず足を止めて振り向いた。
(暁子のお友だちが、まだいらっしゃるの?)
こんな時間までお茶会が続いているなんて。それぞれに名のある家の令嬢たちだから、暗くなる前にそれぞれの家に帰っているものだと思っていたのに。
首を傾げた宵子に、女中は軽く顔を顰めた。呪われた娘とまだ話さなければならなくなったことに気付いて、内心で舌打ちしているのだろう。
「お嬢様がたはもうお戻りですが、偉いお方がお見えとかで。旦那様と、春彦様がお相手をなさっています。だから、くれぐれも気を付けてくださいね!」
言うだけ言って、女中は宵子に背を向けた。
客人をもてなす茶のための湯を沸かしたり、春彦のために軽食か何かを用意したり。きっと、ふだん以上に忙しいから苛立っているのもあるのだろう。
(分かったわ。鈴の音にも気を付けるから……)
だから、それ以上の小言を避けるために、宵子はこくこくと頷いてから──女中は見ていなかったけれど──今度こそ台所を後にした。
廊下に出た宵子は、足首の鈴を鳴らさないためにも、できるだけすり足で進むことにした。でも、それは、歩くのが遅くなってしまう、ということでもあった。
(お客様に失礼のないように……!)
閉ざされた客間の扉の前を通る時も、どうしても神経が研ぎ澄まされてしまう。鈴の音を気にする耳が、聞くべきでない室内の声を拾ってしまう。
「──真上家の力を頼りにしている。かつて犬神を使役した貴家ならば、帝都を襲う怪異を祓えるかもしれぬ」
犬神、という言葉を聞き取って、宵子は思わず足を止めた。
(盗み聞きなんていけない、けど)
でも、真上家の犬神様を最後に見たのは宵子なのだ。父も母も暁子も、犬神様なんていないと言っていた。春彦も、迷信に過ぎないと笑っていた。
(お父様は、何てお答えになるのかしら)
低く厳めしい声の主は、女中の言うところの偉い人、なのだろう。爵位のある方なのか、政府の高官なのかは分からないけれど──そんな方に対しても、父たちは同じことを言うのだろうか。
少し──ほんの少しだけ、宵子はその場にとどまることにした。すると、父の朗らかな声が聞こえる。
「お声がけいただき、光栄のいたりです。明治の御代といえど、我が家の力は健在ですからな」
朗らかな──そして自信に満ちたもの言いに、宵子は目を瞠った。父が、犬神様の存在を認めるようなことを言ったのも驚きだし──
(犬神様はもういないのに)
真上家の犬神様は、たぶんとても年を取っていた。そこへ供物も少なくなって、どんどん弱ってしまったのだ。そして最後の力を振り絞って、宵子に呪いをかけた。その、はずなのに。
息を呑んで立ち竦む宵子の耳に、春彦の声も入ってくる。父と同じく明るい声で、彼の爽やかな笑顔が目に浮かぶようだ。
「件の怪異も野犬のような姿をしているとか。真上家の犬神とは相性が良いかもしれません」
春彦の言葉を聞いて、「偉い人」の依頼は例の人喰い犬に関することだと分かった。
宵子もつい先ほど襲われたばかりの、恐ろしい獣。若い娘ばかり何人も襲われているという──確かに、一刻も早く解決しなければいけないことだとは思うけれど。
(どういうことなの……? 怪異……あれは、普通の犬ではなかったということなの……?)
東京の街中で、捕らえられることなく何人も襲っていること。
人ひとりを噛み殺した後で、すぐに宵子を襲った──つまりは飢えてやむを得ず、ではないのかもしれないこと。
それに──爛々と燃える、あの恐ろしい目。
すべてはただの獣ではない、化物の類だからだと言われれば納得できる……だろうか。
(……嫌だ。怖いわ)
でも、それを認めるということは、宵子は化物と対峙したということになってしまう。
ずきずきとした傷の痛みが急に激しく感じられた気がして、宵子は身震いした。そして、それ以上嫌なこと、怖いことを聞いてしまう前に、客間の前から離れることにした。
宵子の部屋は、屋根裏部屋にある。
天井が斜めになった狭い部屋だし、今のように怪我をしていては階段を上るのは辛いけれど、ひとりきりで寛げる場所は貴重だった。
ずきずきと、擦り傷が痛む。
りんりんと、足首の鈴が鳴る。
鈴の音に、傷をちくちくと刺激される思いで、宵子が一段ずつ階段を上っていると──もうすぐ二階に辿り着く、というところで、華奢な人影が立ちはだかった。
「遅かったじゃない、宵子。野犬に襲われたかと思ってたわ」
数段高いところから宵子を見下ろすのは、暁子だった。友人たちを見送って、夕食も終えたころだからだろうか、振袖ではなく身軽な小袖に着替えている。
(……暁子も、事件のことを知っているのね)
幅の狭い階段で立ち往生することになって、手すりに縋りながら。宵子は頬を強張らせた。
外出には馬車や人力車を使う暁子は、野犬に襲われる心配はないだろう。父や春彦も、恐ろしい事件のことをわざわざ教えたりはしないはず。
そんな暁子でも知っているくらい──恐らくは、令嬢たちの間でも噂になるくらい、「人喰い犬」の影は帝都を騒がせているのだろうか。
「なんだ、知ってたの? そんな顔して……宵子の癖に怖いの? 子供のころは犬神とか変なこと言ってたのに!」
宵子が怯えた様子を見せたのを嘲るように、暁子は軽やかに笑った。宵子の着物の汚れや、手足の細かな傷にはまったく気付いていないらしい。
(私……本当にその犬に襲われたのよ。すぐそこで……)
声を出せなくてもしかたがない、と。宵子はずっと思っていた。暁子に何を言われても、言い返せないのが当たり前なのだ、と。
でも、ヘルベルトという外国人に対して、何も思いを伝えることができなかったのが心に凝っている。気まずいだけでなく、外国人だから話したくないのかと思われかけてしまったし、犬のことももっとちゃんと伝えてあげたかった。
(私に、声を出すことができたら……!)
何年かぶりに、妹にはっきりと言ってやりたい、という思いがこみ上げて、宵子は口を開いた。
怖かったし、危ないところだったこと。助けてくれた銀の犬の美しさ。犬神様は確かにいたのだということ。良いことも悪いことも、怖かったことも綺麗なことも、言葉で伝えられたら──
(いいえ。望んではいけないわ。犬神様は真上家に怒っていたのだもの)
犬神様の呪いがある限り、宵子の声は封じられたまま。そして、真上家が犬神様にひどい仕打ちをしてきた以上、宵子が不満に思うなんていけないこと。
宵子がきゅっと唇を結んだこと──というか、そもそも口を開いていたことにも、暁子は気付かなかった。横を向きながら、指先で宵子に階段を上るように命じてくる。
「お父様と春彦兄様が、お祓いをするんですってよ。明治にもなって、ばかばかしいけど! だから余計な心配はしないでよ。それより──」
宵子が上がり切るのを待たず、暁子はぱたぱたと軽い足音を響かせて廊下を数歩、駆けた。
扇と花を散らした着物の裾が消えたのは、暁子の部屋だ。宵子のそれとは違って広々として、両親に送られた綺麗なものや可愛いものがいっぱいの部屋。
そして暁子が再び扉から姿を見せた時、彼女は本や帳面を何冊も抱えていた。重そうな紙の束が、遠慮なく宵子に押し付けられる。双子の姉が文句を言わずに受け取ることを、暁子は疑っていないのだ。
「学校の宿題、やってくれるわね? いつも通りに! こんなに帰りが遅いってことは、遊んでたんでしょ? 埋め合わせをしなさいよね」
どうせ、卒業を待たずに結婚するのだから。
どうせ、女には学問なんて必要ないから。
どうせ、宵子にやらせれば良いのだから。
そう言っては、暁子はほとんどの宿題を宵子に押し付けている。昼間、遊びに来ていた令嬢たちは想像さえしていないだろう。
宵子がやっている家事なんて簡単なことばかり、毎日学校に行く暁子のほうがよほど苦労している──そう言われれば、拒むことなんてできはしない。父も母も、知っていて何も言わないのだ。
いつもなら、仕事が終わった後、ひとりの自由な時間を削って机に向かうのは苦痛だった。間違えば叱られ、正解を綴っても褒められることもない、疲れるだけの作業だから。
でも──今は、違う。ある一冊の背表紙に目を留めて、宵子は口元をほころばせた。
(ドイツ語の、辞書! 教科書もある……!)
暁子は嫌がっているけれど、華族の令嬢は、外国の貴賓とも卒なく会話ができなくてはならない。鹿鳴館の夜会も、華やかなだけの席ではない。日本の文化を見せる場なのだ。
だから、当然のことながら外国語の授業もある。
これまでは、呪文を書き写すつもりで、訳が分からないままアルファベットとかいう文字をなぞっていたけれど──言葉とは、文字とは、本来は思いを伝えるためのものだった。
(そうよ。手紙なら伝えられるわ)
簡単なことなのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
声が出せないなら、文字で伝えれば良い。
外国の方なら、その国の言葉を学べば良い。
ヘルベルトなら、もらった名刺で住まいが分かるだろう。そして、クラウスには──また、夜会で会えるかもしれない。
(その時までに、手紙を書いておかないと……!)
そう思うと、一秒たりとも無駄にしてはいけない気がした。
ひったくるような勢いで教科書類を受け取った宵子に、暁子は不思議そうに目を瞬かせている。
「……どうしたのよ。にやにやしちゃって。変な子ね!」
暁子はきっと、宵子の困った顔が見たかったのだろう。
この双子の妹は、いつもそうだ。言い返せない宵子に好き放題言って。そして、次第に宵子が俯いて反応を見せなくなったら、どうにか怒ったり泣いたりさせようとして、言葉も態度もどんどんきつくなっていった。……ずっと昔は、仲良く遊んだこともあったのに。
(あてが外れたのね。おあいにく様!)
心の中でだけとはいえ、強気に舌を出した宵子は、少しだけかつての活発さを取り戻していたかもしれない。
クラウスに手紙を書こう、という思い付きは、それくらい素敵で浮かれてしまうようなものだった。
機嫌を損ねた暁子に突き飛ばされたりする前に、宵子は屋根裏に続く狭い階段を駆け上がった。
傷の痛みも、もう気にならない。りんりんと鈴の音に囀らせて、心も足取りも軽やかに。
(そうだわ、お夕飯をいただくのを忘れていたわ)
台所では小言をもらったから、それどころではなかった。
一瞬だけ、味噌屋でもらった焼おにぎりがもったいなかったな、と思う。
(でも、あの子へのご褒美だったもの。しかたないわね)
あの銀色の綺麗な犬の、ふわふわとした毛並みの感触を思い出して、宵子の頬は緩んだ。宵子が自分で食べるよりも、危ないところを守ってくれたあの犬へのお礼ができて良かったのだろう。
それに──
(ひと晩くらい、食べなくたって大丈夫よ!)
今夜は、空腹なんて気にならないくらい夢中になれるだろう。そんな気がした。
屋根裏部屋にこもった宵子は、暁子に押し付けられた学校の宿題を机に広げた。
部屋の隅にはめ込んだ机に向かうと、斜めに傾いた天井が頭のすぐ上に迫って息苦しさを感じる。まるで洞窟の中にでも閉じ込められたような狭さと暗さだ。
でも、狭い部屋だからこそ。屋根の形に影響される、屋敷のてっぺんに位置するからこそ。顔を上げれば、周囲の建物に遮られることのない星空が間近に見える。
(あの夜と同じね……星は、どこから見ても綺麗……)
星の輝きに励まされる思いで、宵子は蝋燭を点し、硯で墨を磨った。
女中とほとんど変わらない宵子にとって、蝋燭は好きなだけ使えるものではない。でも、今夜に限っては良いだろう。暁子の宿題のためだと言えば、嫌な顔はされても叱られることはないだろう。
(あの方に伝えたいこと──まずは、日本語で書き出してみよう)
宵子は、学校に通ってこそいないものの、勉強の量では女学生に負けていないはずだ。暁子の命令に応えるためには、何も分からないままではいられないから。
だから、帳面に文字や数字を綴る時も、考え込むことはほとんどなかった。
計算や書き取りをすらすらと進めながら、頭の隅ではクラウスの眩しい銀の髪や、煌めく青い目を思い浮かべることだって、できる。
たった一度の夢のような時間、異国の美しい人と踊った夜を心の中に蘇らせて、あの方の手の温もりや、控えめな気遣い、ややぎこちなく紡がれた日本語の響きを何度でも大切に味わうのだ。
そんなことだから、勉強のほうこそ頭の片隅でしか考えていないかもしれない。
自分の思いをクラウスに伝えられるかもしれない、というひらめきはとても素敵で、けれど簡単なことではないと分かっていたから。
辞書を使っても、教科書があっても、思ったことを外国の言葉で伝えるのは難しいだろう。クラウスにとっては訳の分からない下手くそな文章に見えるのかも、と思うと込み入ったことは書けないと思う。
(長々と書いても読んでいただけるか分からないし。……呪いのことなんて、お伝えしてもしかたないし)
犬神、なんて言葉はたぶん辞書には載っていないだろう。外国の方には理解できないだろうし、何より気味が悪いと思われたら悲しすぎる。
だから──伝えたいのは、もっと別のこと。もっと、根本的なことだ。
(私が──真上宵子という娘がいたことを、知ってください。暁子とは違う人間なんです。たとえ、私としてはお会いできなくても……!)
宵子は、暁子の影として生きていく定めなのだろう。
人前に出るのは、暁子を演じる時だけ。暁子が嫌がることを押し付けられるだけで、自分のやりたいことなんてできはしない。思ったことを文字で伝えようとしても、暁子なら笑って破り捨てそうだ。
(それは、どうにもならないこと。諦めるしかないことよ)
「真上家のもうひとりの令嬢」のことなんて、誰からも忘れられていくのだ。遠くで療養中だなんてことになっているけれど、いずれ死んだことにでもされるのかもしれない。
呪いを別にしても、口の利けない娘なんて外聞が悪いものだ。両親も、だから宵子を疎ましく思っている。
暁子に、両親に、宵子という存在は押しつぶされて消されてしまうのだろう。そして、誰も悲しんだり惜しんだりしてくれない。──だからせめて、クラウスに覚えていて欲しいのだ。
(あの夜お会いしたのは、私です。暁子ではなかったんです。本当は、もっとちゃんとお話したかった……!)
一度会っただけの異国の人に、どうしてこうも大それた願いを抱いてしまうのか、自分でも分からない。
踊ってくれたから? 名前を聞いてくれたから? そんなこと、誰にでもすることなのかもしれない。でも──宵子にとっては初めてのことだった。
ひな鳥が、最初に見たものを親だと思ってしまうようなもの。あの方は、宵子の人生に初めて輝いた太陽のような存在だった。あまりに明るくて温かくて──だから忘れられないし、慕わずにはいられない。
蝋燭の芯はもう短くなって、小さな炎は危うく揺らいでいた。帳面を焦がさないように気をつけながら、疲れた目を瞬かせながら、宵子は思いを綴っていった。
──貴方様とお会いできたことは私の人生でもっとも嬉しく楽しい、そして幸せなことでした。
子爵家の娘が、何をおかしなことを申すのだと思われるでしょうか。貴方様がお話になった「真上暁子」は自信に満ちた生意気な娘だったでしょうから、意外に思われるかもしれません。
私がお伝えしようとしていることは、我が家にとっては醜聞にもなります。知っていただいたところで、お困りになるだけでしょう。
何をしていただきたいということではございません。ただ、貴方様のお心にしまっておいていただきたいだけなのです。
以前の夜会で踊ってくださった私。
あの夜、露台に連れ出してくださった私。
名前を尋ねてくださった私。まともにお答えできなくて、さぞ無礼な女だと思われたことでしょう。
あれは、真上暁子ではありません。暁子は私の双子の妹。私は、妹の名前を着せられてあの場にいたのです。私は口が利けない役立たずですので、暁子が外国の殿方と踊るのが嫌だと言えば、家のためにも従うほかはありませんでした。
貴方様が会った私は、宵子といいます。
宵、は日本語では夕暮れや夜という意味です。
私の名前の時間に、星空の下で貴方様と会えたことは運命のように思います。だから、困らせてしまうことを承知で、このように立ち入ったことをお伝えしてしまうのです。
名前の通り、私は夜の闇の中でひっそりと生きる存在でしかありません。私という人間がいたことを知る者は家族以外にはほとんどいません。それは、とても悲しくて寂しいことです。
あの夜の舞踏のご縁に縋って、貴方様にお願いしたく存じます。
私という者、真上宵子という娘がいたということを、どうかお心の片隅に留めておいてくださいますように。
美しく装って楽しく踊ったあの夜の私を覚えていただけたなら。貴方様の心の中には幸せな私がいると思えたなら。
そうすれば、何が起きても構わないと思えるでしょう。
手紙の文章を考えているうちに、宵子は眠ってしまったらしかった。
気が付くと、彼女はドレスを着てシャンデリア煌めく大舞踏室で踊っていた。
相手は──銀の髪に青い目の、美しい貴公子。宝石のような目が微笑んで、整った唇が彼女に何かを囁く。
異国の言葉の意味は分からなくても、優しく気遣ってくれているのは伝わって、宵子の心は喜びに満たされる。足の運びは軽やかで、あのお方と手を取り合って、飛ぶように、波に乗るようにくるくると回る。
それは、とても綺麗で幸せな夢。目が覚めてしまえば恥ずかしくて堪らなくなるとしても、眠っている間は気付かないでいられる。
朝日が目蓋に刺さる眩しさに覚醒した時、宵子は広げた帳面に顔を突っ伏していた。蝋燭の灯は、とうに燃え尽きていた。
(……お腹が、空いたわ)
墨が顔についているかもしれない、と頬をこすりながら、宵子はお腹がきゅう、となるのを聞いた。思えば、昨日からろくにものを食べていない。
夜遅くまで根を詰めたからだろう、頭は重いし、不自然な体制で眠りに落ちてしまったから身体の節々がきしんで痛い。
でも──夢の名残のお陰か、不思議と心は軽やかだった。
宵子は、何日もの間、暁子のドイツ語の辞書と教科書を借りっぱなしにしていた。でも、双子の妹が文句を言ってくることはなかった。
これが帯や着物だったら、盗むつもりかと責め立てられていただろう。というか、そもそも宵子に貸してくれはしなかっただろうし、宵子のほうでも身につける機会なんてないからあり得ないことかもしれない。
それが、勉強に関する本だと存在自体が忘れられているようなのは不思議なことだった。
(学校では使わないのかしら……?)
この間に、ドイツ語に限らず暁子の宿題を押し付けられているから、預けたままのほうが楽で良い、と思っているのかもしれない。妹の真意はともかく、宵子としては空いた時間を見つけては手紙の翻訳に励むことができるので、都合が良かった。
(次はいつ夜会があるか分からないもの。早く完成させておかないと……!)
ドイツ人からはどう見えるかはさておき、宵子なりに日本語をドイツ語に置き換える作業は夜ごとに進んでいる。
筆でアルファベットを綴るのは難しいから、清書する時間も見込まなければいけないだろうけど。もう少しで、とにかくも人に渡せる手紙の形にはできそうだった。
問題があるとしたら──
「お行儀が悪いわね、宵子。春彦兄様の前でそんな眠そうな顔をして!」
ふわあ、と。小さく欠伸を噛み殺そうとした宵子を、暁子は見逃してはくれなかった。鋭く咎める声を浴びて、宵子は首を竦める。
春彦が、婚約者の暁子の機嫌伺いに真上家を訪ねたので、茶菓子を出すところだったのだ。身内同然の彼でなければ、宵子が応接に出ることはない。令嬢に瓜二つの女中──宵子はそうとしか見えない──なんて、お客様には不審でしかないのだから。
(ご、ごめんなさい)
相手がお客でも身内でも、人前で欠伸をするのはとても失礼なことは分かっている。お盆を持っていたから、口元を隠すことができなかった──なんて言い訳にしかならないだろう。
(昨日も、気付いたら寝ていたから、つい……)
蝋燭の灯りのもとで、異国の文字と表現に取り組んでいる間は、時間なんて気にならない。
たくさんの用例を眺めるうちに、このほうが上手く伝えられそうだ、と気付いた時は本当に楽しいし、単語の組み合わせによって、もとの意味とかけ離れた熟語ができるのは日本語にもあることで面白い。
ドイツ語をまともに聞いたこともほとんどない癖に、最近の宵子は夢でもドイツ語の綴りを覚えようとしているくらいだ。
でも、だからといって目が覚めた時に疲れや寝不足をまったく感じずにいられる訳ではない。水を汲んだ重い桶を抱えた時なんかに、目眩を感じてしまうこともあったし──ほどほどにしたほうが良いのかもしれない。
気まずい思いで、宵子は暁子と春彦の前に茶器とお菓子の乗った皿を並べた。もちろん宵子の分はない。上等の白小豆を使った練り切りは、見た目にも瑞々しくて美味しそうだけれど。
美しい花をかたどった練り切りを切なく眺めながら、宵子はぺこりとお辞儀をして退出しようとした。その耳に、春彦と暁子のやり取りが届く。
「宵子は、暁子の代わりに宿題をしていると聞いたが? 君のせいで夜更かしをしているなら、咎めるのは気の毒だろう」
「あら、兄様。でも、宵子だって仕事ができて嬉しいと思うわ? 口が利けないんですもの、ろくな仕事ができないでしょう? 黙って手を動かせば良いんだから大したことではないでしょうに。社交をしなければいけない私のほうがよほど大変よ!」
「……ああ。君も頑張っていると思うが」
「でしょう? お兄様は分かってくださるのね!」
春彦は、暁子を窘めようとしてくれたのだろう。でも、分家の立場ゆえか、声の冗談めかした軽いものでしかない。だから、暁子にはまったく伝わっていないようだった。
暁子の無邪気な笑い声が響く中、春彦がちらりと宵子にすまなそうな視線を向けた。気にしないでください、の意味を込めて、宵子は小さく首を振る。
(春彦兄様は、お婿に入るんだもの。暁子に強く言えないのは当然よ……)
黒文字を取って練り切りを口にしようとしている暁子は、婚約者と双子の姉の無言のやり取りにも気を留めていない。
そんなことより、暁子には考えることがたくさんあるのだろう。弾んだ声が、春彦に語り掛ける。
「お父様もね、また夜会だか晩餐会だかにお招きされるかもって仰ってたわ。ドレスを着て外国の方のお相手なんて──また振袖を仕立てていただかないと。今度はどんな模様にしようかしら」
暁子は、夜会のたびに着物をねだるつもりらしい。ただでさえドレスも仕立てなければならないのに、真上家はそんなに裕福なのだろうか。
(お父様は、暁子を可愛がっているけれど……)
ねだったのは宵子ではないのだから、心配する必要はないのかもしれないけれど。着る機会もないのだから、私にも、なんて思ったりはしないけれど。
(兄様は、何か言ってくださるかしら?)
暁子の我が儘も贅沢好きも、さすがに限度を超えている気がして。宵子は、部屋を出る前に一瞬だけ振り向いた。──すると、春彦と目が合ってどきりとする。
「思い切り豪華なのをおねだりすると良い。例の人喰い犬事件では、真上家が頼りにされているからね。解決すれば、たっぷりと褒賞をいただけるだろう」
暁子は、甘えるように春彦の胸にしなだれかかっている。だから、彼が宵子のほうを向いているのは目に入っていないようだった。宵子を見る春彦の目はどこか皮肉っぽくて──盗み見しようとしたのを揶揄われている気もするし、何も気付かない暁子を嗤っているのではないか、という気もした。
何だか見てはいけないものを見てしまった気がして、宵子は慌てて扉を閉めた。暁子の高い笑い声は、分厚い木材越しにもよく聞こえたけれど、少なくとも、これで春彦の視線を感じずに済む。
空いた盆を抱え込んで、宵子はどきどきと高鳴る胸を押さえた。
(あの犬のこと……そんなに大事になっているの? でも、それならどうして兄様は必ずご褒美がいただけるような言い方をなさったの……?)
真上家が犬神の力で栄えたのは、もう昔のことだ。父も春彦も、不思議な力なんてないはずなのに、どうしてあんなに自信たっぷりなもの言いだったのだろう。
何だか、嫌な予感がして堪らなかったけれど──それを払いのけるべく、宵子はふるふると首を振った。
(私は……私にできることをやるしかない……)
暁子が夜会に出るということは、宵子が舞踏の代役を務めるということだ。クラウスとまた会える──会えるかもしれない──機会が、近づいているということでもある。
(……早くお仕事を終わらせないと)
そして、あの方への手紙を書きあげるのだ。
そう決意して、宵子は足早に歩き始めた。