10月3日、火曜日、朝。いつもの青空台。
前の日、僕は一睡もできなかった。一晩かけて、ようやく整理ができた。僕なりに。
里木さんはいてくれた。いつもの場所に。
僕たちはいつものように並んで歩いた。しばらくの間、僕は何も話さなかった。僕の雰囲気を感じたのか、里木さんも黙って歩いていた。
意を決して、僕は話し始めた。
「……先週のカラオケの後の話、慶野君から聞きました」
「え?」
里木さんは少し驚いた顔をした。
「……そうですか」
それから、うつむいてしまった。
「でも……」
里木さんは続けて何か言おうとしたけど、途中で口ごもってしまった。
僕は歩きながら、里木さんの方は見ないで、話した。
「あの……こうやって、二人で会うの、もう、やめませんか……」
「え?」
里木さんが顔を上げた。
「……慶野君に悪いじゃないですか」
「どうしてですか?」
「だって、慶野君は里木さんのこと、好きだから……こうして僕と里木さんが二人で会ってること知ったら、面白くないと思います」
里木さんはまたうつむいてしまった。
「でも……わたし、まだ、慶野さんと付き合ってるわけじゃありませんよ」
「だって、慶野君と、付き合うでしょう? 付き合わない理由、ないでしょ?」
「……どうして?」
「だって……慶野君はかっこいいし、楽しいし。いいやつですよ」
「倉田さんは、どうなんですか?」
「え?」
予想外の言葉だった。
「どう、て……」
「倉田さんは、わたしのこと、どう思ってるんですか」
僕? 僕なんかより……
「僕なんかより……慶野君がいいですよ。慶野君の方が、里木さんにお似合いだと思います」
そう。それが僕の結論。僕が一晩考えた結論だ。
「そうですか……」
それっきり里木さんは何もしゃべらなかった。
僕たちは、大学の正門まで黙って歩いた。正門からキャンパスに入ると、僕は、そのままなのも言わずに右に向かった。僕はもう、里木さんを、振り返らなかった。
10月6日、金曜日。マゾリーノのランチ会。
僕はランチ会に出ようかどうか迷っていた。正直、行きたくない、そう思っていた。
慶野君が里木さんに告白したという話を聞いた後、慶野君とはそのことについて話はしていなかった。慶野君も何も言わなかったし。
慶野君は、僕と里木さんが朝、青空台で会っていたことを知らない。もちろんそこで何を話していたかも。だから、いきなり僕がランチ会に行かない、て言ったら不自然に思うだろう。
仮病にしようか……そんなことも思った。でも、里木さんのことも気になっていた。僕はその日も、その前の日も、朝、青空台を通らなかった。駅前通りから大学通りを歩いて大学へ行っていた。当然、里木さんに会うことはなかった。
『僕なんかより……慶野君がいいですよ。慶野君の方が、お似合いだと思います』
自分が言った言葉を思い返していた。そう、その通りだ。それが僕の出した結論だ。でも、僕は……
考えが決まらないうちに午前の授業が終わっていた。
「行くぞ!」
慶野君が声を掛けてきた。僕は、慶野君といっしょに走り出していた。ほとんど反射的に。マゾリーノに向かって。
僕は、ひょっとしたら里木さんは来ないんじゃないかと思っていた。でも違った。それまでと同じように、里木さんは福波さんといっしょにマゾリーノに来た。
この日も、里木さんと福波さんはいつもと同じ席に座った。里木さんは四角いテーブルの、僕の向かい、慶野君の隣に。でも、里木さんと慶野君がいつもより少し近い、ような気がした。
いきなり慶野君が立ち上がった。
「え~、二人に言っておきたいことがあります!」
慶野君が切り出した。
「て言っても、福波さんはもう知ってるのかな?」
「うん、聖冬から聞いてる」
僕の隣にいる福波さんが答えた。
「じゃ、倉田に、てこと? ま、いいか。このランチ会のメンバーに改めて公式発表します!」
僕の心臓の音が大きくなった。
「オレ、慶野圭太と、こちらの里木聖冬さんは、お付き合いすることに、つまり恋人として交際することになりました!」
福波さんがパチパチと拍手した。僕は黙っていた。里木さんは……ただうつむいていた。僕の方は見ていなかった。
「あ~あ、正直悔しいけど、聖冬じゃしょうがないわね!」
福波さんが言った。
里木さんが顔を上げて、恥ずかしそうに笑った。
僕の頭は、早まる心臓の音と反比例するようにゆっくりと、ゆっくりと状況を理解した。
里木さんが、慶野君に返事をしたということだ。「yes」という返事を。
「でも、このランチ会、このまま続けてていいのかな? 私たち、おじゃまじゃない?」
福波さんが言った。「私たち」ていうのは、福波さんと僕、ていうことだ。
「いや、それはそれ。せっかく四人で始めたんだから、ランチ会はこのまま続けたいんだけどな。オレは」
慶野君が言った。
「でも、気を使うわよ。お二人に」
「気なんか使わなくていいから。そんな柄じゃないだろ、な、倉田」
慶野君が僕に振ってきた。
「あ……ああ」
僕はあいまいに答えた。
「聖冬もいいの?」
福波さんが里木さんに向かって言った。
「うん」
里木さんがうなずいた。
里木さんは、うれしそうに、幸せそうに、微笑んでいた、ように見えた。
里木さんがいいなら……僕も。
あんなにおいしかったマゾリーノのパスタだったけど、その日の僕にはその味がわからなかった。
これでいい……これでいいんだ。二人は、慶野君と里木さんは、お似合いだ。これが、僕の出した結論だ。これが、僕の望んでいたことだ……
パスタを噛みながら、僕はずっと自分に言い聞かせていた。
10月13日、金曜日。慶野君が里木さんとの交際を宣言してから一週間が過ぎた。
あれからも僕は、普通に毎日を過ごしていた。大学へは駅前通りから大学通りを歩いて通っていた。授業の合間には慶野君と雑談もした。ごく普通に。
授業が終わるとまっすぐにアパートへ帰って、ギターを弾いたり本を読んだりして、寝た。それまでの生活と大きな変化はなかった。
ただ、なんとなく、寂しかった。虚しかった。
いつの間にか僕は、金曜日を、マゾリーノのランチ会を、心待ちにしていた。里木さんに会いたかった。里木さんの顔を、見たかった。
里木さんは……慶野君と交際している。慶野君の「彼女」だ。それでも僕は……里木さんに会いたかった。
そしてこの日は、そのマゾリーノのランチ会の日だ。
この日も慶野君と里木さんは隣り合わせに座った。里木さんは、僕の向かいに。二人は、福波さんを入れると三人は、食べながら楽しそうに談笑していた。
僕は、ほっとしていた。安心していた。里木さんが楽しそうだったから。
そう……これでいい。これでいいんだ。里木さんは……幸せだ。
この日も僕は、味のしないパスタを、嚙みしめた。
その日、大学からの帰り道。僕は大学通りを一人で歩いていた。
正門から大学通りを百メートルほど駅に向かって歩いたところに「いつき庵」というお店があった。黒塗りの板塀に店の名前を木彫りにした看板がかかっていて、その脇にやっぱり黒塗りの板でできた引き戸の入り口があった。
小さいけれどいかにも高級そうな雰囲気のお店だ。店構えと店の名前からして、おそらく和食、それも高級な料理とお酒のお店、いわゆる「料亭」なのだろうと思った。もちろん学生が一人で入るような店じゃない。ただ何となく気になって、僕はその店の前で立ち止まっていた。
その時、「カラカラカラ」という音を立てて、引き戸が開いた。中からが着物を着た女の人が出てきた。年齢は……僕の母親と同じくらい、五十歳くらいだろうか。女性の年はよくわからないけど。
女の人は引き戸の上に暖簾を掛けて、それからまたお店の中に入って行こうとした。
「すみません!」
僕は後ろから声を掛けていた。
その人が振り返った。
「あの……ここで働かせてもらえませんか!」
どうしてそんな言葉が出てきたのか自分でもわからなかった。そんなこと考えていたわけでもなかった。ただ反射的に、僕はそう言っていた。
「まあ!」
女の人が驚いた顔をした。当然だろう。いきなりだったから。
「……取りあえず、中に入って」
その人が言ってくれた。僕はその人について引き戸からお店の中に入った。
入り口から奥に向かって真っ直ぐに石畳みが敷かれていた。室内なのに和風の庭園みたいだ。石畳みの両側は小上がりになっていて、その上が畳敷きの和室の客室になっていた。
「そこに座って」
その人が小上がりを示した。きれいな所作だ。
僕は言われた通りに小上がりに腰を下ろした。その人も僕の隣に腰を下ろした。
「景正大の学生さん?」
その人が訊いてきた。いきなり面接が始まったということだろうか。
「はい、そうです」
僕は答えた。
「どうしてうちで働こうと思ったの?」
どうして、て言われても……
「帰り道で通りかかって……働けたらいいな、て思って」
正直に答えた。
「まあ、偶然?」
女の人がまた驚いた顔をした。
「実はね、アルバイトの女の子が急にやめてしまって、次の人を募集しようと思ってたところだったの」
「え?」
今度は僕の方が驚いた。
「女の子、て思ってたけど、ま、男の子でもいいかな。せっかくだし。感じも良さそうだし」
「……お願いします!」
僕は頭を下げた。
「定休日の水曜日以外、できれば毎日、大学の授業が終わってから来てもらって、十時の閉店まで。料理やお酒の持ち運びと配膳、それに後片付けだけど、いい?」
「はい、お願いします!」
もう一度頭を下げた。
「それじゃ、さっそく、明日からでもいいかしら?」
「はい!」
僕は答えていた。
こうして、僕の「いつき庵」でのアルバイトが始まった。
僕を採用してくれた和服の女の人は、藤川さんといった。いつき庵は、藤川さんとそのご主人の二人で経営している。
僕は、藤川さんからご主人のことは「大将」と呼ぶように言われた。その呼び方がしっくりくる雰囲気の人だった。有名な和食のお店で板前の修業をして、それから独立してここにお店を構えたのだという。料理はすべて大将が一人で作っている。
「調理には手を出すな。ここで料理を覚えたいと思っているならお門違いだ。料理を教えるつもりはない」
大将からそう言われた。料理を覚えたいなんて思ってなかったけど。
ご主人が「大将」なら、藤川さんのことは「女将さん」て呼んだ方がいいかな、て思った。でも、藤川さんからは「恥ずかしいからやめて」て言われた。だから藤川さんは、「藤川さん」。
僕は青い作務衣を貸してもらった。作務衣を着ると気が引き締まった、ような気がした。
言われた通り、最初のうちは後片づけと食器洗いばかりしていたけれど、少しする藤川さんが配膳の仕方を教えてくれた。
「背筋を伸ばして、なるべくお皿から顔を離すこと。料理に自分の息がかからないようにね」
藤川さんは配膳だけでなく、姿勢、歩き方、襖の開け閉めから座り方、立ち方まで教えてくれた。少しずつだけど自分の立ち振る舞いが変わって行くのを、僕はうれしく感じていた。そうやって立ち振る舞いがきちんとしてくると、なんとなく自分に自信が持てるようになった、ような気がした。
閉店後には、夕食、ていうか、夜食をご馳走になった。「まかない」ていうやつだ。
おにぎりとみそ汁。おにぎりの中には焼き魚や小さな天ぷらが入っていた。料理の残りの材料を使っているのだろうけど、とってもおいしかった。それにみそ汁。これはもう絶品だった。
いつき庵の営業は夜だけで、昼間はやっていなかった。僕はマゾリーノのランチを思い出して、大将に言ってみた。
「昼も定食みたいなのやったらどうですか? 大学の目の前だし、絶対、流行りますよ」
「うちには五百円やそこらで作れる料理はない」
大将は不機嫌そうに答えた。
まかないのおにぎりとみそ汁だけでも十分なのに。そう思ったけど、口には出さなかった。
こうしていつき庵のおかげで、僕の虚しさ、寂しさは、紛らわされていった。
東京の秋は短い、ような気がする。9月にはまだ30度を超える日が何日もあって、東京の夏はいつまで続くのだろう思っていた。10月になってようやく涼しくなったと思ったら、11月にはもう、コートかジャンバーが欲しいくらいに寒くなった。
大学のキャンパス内にある銀杏の葉も黄色くなり始めていた。
人は寒いだけで、切なくなる。悲しくなる。なぜだろう?
僕は、いつき庵と、そして里木さんの笑顔のお陰でその悲しさ、切なさを感じないで過ごすことができていた、ような気がした。
マゾリーノのランチ会で、慶野君、福波さんと談笑している里木さんは、楽しそうで幸せそうだった。
そう、それでいい。僕はそう思っていた。僕は週一回、里木さんの笑顔を見ることができればそれでいい。そう思っていた。
前の日、僕は一睡もできなかった。一晩かけて、ようやく整理ができた。僕なりに。
里木さんはいてくれた。いつもの場所に。
僕たちはいつものように並んで歩いた。しばらくの間、僕は何も話さなかった。僕の雰囲気を感じたのか、里木さんも黙って歩いていた。
意を決して、僕は話し始めた。
「……先週のカラオケの後の話、慶野君から聞きました」
「え?」
里木さんは少し驚いた顔をした。
「……そうですか」
それから、うつむいてしまった。
「でも……」
里木さんは続けて何か言おうとしたけど、途中で口ごもってしまった。
僕は歩きながら、里木さんの方は見ないで、話した。
「あの……こうやって、二人で会うの、もう、やめませんか……」
「え?」
里木さんが顔を上げた。
「……慶野君に悪いじゃないですか」
「どうしてですか?」
「だって、慶野君は里木さんのこと、好きだから……こうして僕と里木さんが二人で会ってること知ったら、面白くないと思います」
里木さんはまたうつむいてしまった。
「でも……わたし、まだ、慶野さんと付き合ってるわけじゃありませんよ」
「だって、慶野君と、付き合うでしょう? 付き合わない理由、ないでしょ?」
「……どうして?」
「だって……慶野君はかっこいいし、楽しいし。いいやつですよ」
「倉田さんは、どうなんですか?」
「え?」
予想外の言葉だった。
「どう、て……」
「倉田さんは、わたしのこと、どう思ってるんですか」
僕? 僕なんかより……
「僕なんかより……慶野君がいいですよ。慶野君の方が、里木さんにお似合いだと思います」
そう。それが僕の結論。僕が一晩考えた結論だ。
「そうですか……」
それっきり里木さんは何もしゃべらなかった。
僕たちは、大学の正門まで黙って歩いた。正門からキャンパスに入ると、僕は、そのままなのも言わずに右に向かった。僕はもう、里木さんを、振り返らなかった。
10月6日、金曜日。マゾリーノのランチ会。
僕はランチ会に出ようかどうか迷っていた。正直、行きたくない、そう思っていた。
慶野君が里木さんに告白したという話を聞いた後、慶野君とはそのことについて話はしていなかった。慶野君も何も言わなかったし。
慶野君は、僕と里木さんが朝、青空台で会っていたことを知らない。もちろんそこで何を話していたかも。だから、いきなり僕がランチ会に行かない、て言ったら不自然に思うだろう。
仮病にしようか……そんなことも思った。でも、里木さんのことも気になっていた。僕はその日も、その前の日も、朝、青空台を通らなかった。駅前通りから大学通りを歩いて大学へ行っていた。当然、里木さんに会うことはなかった。
『僕なんかより……慶野君がいいですよ。慶野君の方が、お似合いだと思います』
自分が言った言葉を思い返していた。そう、その通りだ。それが僕の出した結論だ。でも、僕は……
考えが決まらないうちに午前の授業が終わっていた。
「行くぞ!」
慶野君が声を掛けてきた。僕は、慶野君といっしょに走り出していた。ほとんど反射的に。マゾリーノに向かって。
僕は、ひょっとしたら里木さんは来ないんじゃないかと思っていた。でも違った。それまでと同じように、里木さんは福波さんといっしょにマゾリーノに来た。
この日も、里木さんと福波さんはいつもと同じ席に座った。里木さんは四角いテーブルの、僕の向かい、慶野君の隣に。でも、里木さんと慶野君がいつもより少し近い、ような気がした。
いきなり慶野君が立ち上がった。
「え~、二人に言っておきたいことがあります!」
慶野君が切り出した。
「て言っても、福波さんはもう知ってるのかな?」
「うん、聖冬から聞いてる」
僕の隣にいる福波さんが答えた。
「じゃ、倉田に、てこと? ま、いいか。このランチ会のメンバーに改めて公式発表します!」
僕の心臓の音が大きくなった。
「オレ、慶野圭太と、こちらの里木聖冬さんは、お付き合いすることに、つまり恋人として交際することになりました!」
福波さんがパチパチと拍手した。僕は黙っていた。里木さんは……ただうつむいていた。僕の方は見ていなかった。
「あ~あ、正直悔しいけど、聖冬じゃしょうがないわね!」
福波さんが言った。
里木さんが顔を上げて、恥ずかしそうに笑った。
僕の頭は、早まる心臓の音と反比例するようにゆっくりと、ゆっくりと状況を理解した。
里木さんが、慶野君に返事をしたということだ。「yes」という返事を。
「でも、このランチ会、このまま続けてていいのかな? 私たち、おじゃまじゃない?」
福波さんが言った。「私たち」ていうのは、福波さんと僕、ていうことだ。
「いや、それはそれ。せっかく四人で始めたんだから、ランチ会はこのまま続けたいんだけどな。オレは」
慶野君が言った。
「でも、気を使うわよ。お二人に」
「気なんか使わなくていいから。そんな柄じゃないだろ、な、倉田」
慶野君が僕に振ってきた。
「あ……ああ」
僕はあいまいに答えた。
「聖冬もいいの?」
福波さんが里木さんに向かって言った。
「うん」
里木さんがうなずいた。
里木さんは、うれしそうに、幸せそうに、微笑んでいた、ように見えた。
里木さんがいいなら……僕も。
あんなにおいしかったマゾリーノのパスタだったけど、その日の僕にはその味がわからなかった。
これでいい……これでいいんだ。二人は、慶野君と里木さんは、お似合いだ。これが、僕の出した結論だ。これが、僕の望んでいたことだ……
パスタを噛みながら、僕はずっと自分に言い聞かせていた。
10月13日、金曜日。慶野君が里木さんとの交際を宣言してから一週間が過ぎた。
あれからも僕は、普通に毎日を過ごしていた。大学へは駅前通りから大学通りを歩いて通っていた。授業の合間には慶野君と雑談もした。ごく普通に。
授業が終わるとまっすぐにアパートへ帰って、ギターを弾いたり本を読んだりして、寝た。それまでの生活と大きな変化はなかった。
ただ、なんとなく、寂しかった。虚しかった。
いつの間にか僕は、金曜日を、マゾリーノのランチ会を、心待ちにしていた。里木さんに会いたかった。里木さんの顔を、見たかった。
里木さんは……慶野君と交際している。慶野君の「彼女」だ。それでも僕は……里木さんに会いたかった。
そしてこの日は、そのマゾリーノのランチ会の日だ。
この日も慶野君と里木さんは隣り合わせに座った。里木さんは、僕の向かいに。二人は、福波さんを入れると三人は、食べながら楽しそうに談笑していた。
僕は、ほっとしていた。安心していた。里木さんが楽しそうだったから。
そう……これでいい。これでいいんだ。里木さんは……幸せだ。
この日も僕は、味のしないパスタを、嚙みしめた。
その日、大学からの帰り道。僕は大学通りを一人で歩いていた。
正門から大学通りを百メートルほど駅に向かって歩いたところに「いつき庵」というお店があった。黒塗りの板塀に店の名前を木彫りにした看板がかかっていて、その脇にやっぱり黒塗りの板でできた引き戸の入り口があった。
小さいけれどいかにも高級そうな雰囲気のお店だ。店構えと店の名前からして、おそらく和食、それも高級な料理とお酒のお店、いわゆる「料亭」なのだろうと思った。もちろん学生が一人で入るような店じゃない。ただ何となく気になって、僕はその店の前で立ち止まっていた。
その時、「カラカラカラ」という音を立てて、引き戸が開いた。中からが着物を着た女の人が出てきた。年齢は……僕の母親と同じくらい、五十歳くらいだろうか。女性の年はよくわからないけど。
女の人は引き戸の上に暖簾を掛けて、それからまたお店の中に入って行こうとした。
「すみません!」
僕は後ろから声を掛けていた。
その人が振り返った。
「あの……ここで働かせてもらえませんか!」
どうしてそんな言葉が出てきたのか自分でもわからなかった。そんなこと考えていたわけでもなかった。ただ反射的に、僕はそう言っていた。
「まあ!」
女の人が驚いた顔をした。当然だろう。いきなりだったから。
「……取りあえず、中に入って」
その人が言ってくれた。僕はその人について引き戸からお店の中に入った。
入り口から奥に向かって真っ直ぐに石畳みが敷かれていた。室内なのに和風の庭園みたいだ。石畳みの両側は小上がりになっていて、その上が畳敷きの和室の客室になっていた。
「そこに座って」
その人が小上がりを示した。きれいな所作だ。
僕は言われた通りに小上がりに腰を下ろした。その人も僕の隣に腰を下ろした。
「景正大の学生さん?」
その人が訊いてきた。いきなり面接が始まったということだろうか。
「はい、そうです」
僕は答えた。
「どうしてうちで働こうと思ったの?」
どうして、て言われても……
「帰り道で通りかかって……働けたらいいな、て思って」
正直に答えた。
「まあ、偶然?」
女の人がまた驚いた顔をした。
「実はね、アルバイトの女の子が急にやめてしまって、次の人を募集しようと思ってたところだったの」
「え?」
今度は僕の方が驚いた。
「女の子、て思ってたけど、ま、男の子でもいいかな。せっかくだし。感じも良さそうだし」
「……お願いします!」
僕は頭を下げた。
「定休日の水曜日以外、できれば毎日、大学の授業が終わってから来てもらって、十時の閉店まで。料理やお酒の持ち運びと配膳、それに後片付けだけど、いい?」
「はい、お願いします!」
もう一度頭を下げた。
「それじゃ、さっそく、明日からでもいいかしら?」
「はい!」
僕は答えていた。
こうして、僕の「いつき庵」でのアルバイトが始まった。
僕を採用してくれた和服の女の人は、藤川さんといった。いつき庵は、藤川さんとそのご主人の二人で経営している。
僕は、藤川さんからご主人のことは「大将」と呼ぶように言われた。その呼び方がしっくりくる雰囲気の人だった。有名な和食のお店で板前の修業をして、それから独立してここにお店を構えたのだという。料理はすべて大将が一人で作っている。
「調理には手を出すな。ここで料理を覚えたいと思っているならお門違いだ。料理を教えるつもりはない」
大将からそう言われた。料理を覚えたいなんて思ってなかったけど。
ご主人が「大将」なら、藤川さんのことは「女将さん」て呼んだ方がいいかな、て思った。でも、藤川さんからは「恥ずかしいからやめて」て言われた。だから藤川さんは、「藤川さん」。
僕は青い作務衣を貸してもらった。作務衣を着ると気が引き締まった、ような気がした。
言われた通り、最初のうちは後片づけと食器洗いばかりしていたけれど、少しする藤川さんが配膳の仕方を教えてくれた。
「背筋を伸ばして、なるべくお皿から顔を離すこと。料理に自分の息がかからないようにね」
藤川さんは配膳だけでなく、姿勢、歩き方、襖の開け閉めから座り方、立ち方まで教えてくれた。少しずつだけど自分の立ち振る舞いが変わって行くのを、僕はうれしく感じていた。そうやって立ち振る舞いがきちんとしてくると、なんとなく自分に自信が持てるようになった、ような気がした。
閉店後には、夕食、ていうか、夜食をご馳走になった。「まかない」ていうやつだ。
おにぎりとみそ汁。おにぎりの中には焼き魚や小さな天ぷらが入っていた。料理の残りの材料を使っているのだろうけど、とってもおいしかった。それにみそ汁。これはもう絶品だった。
いつき庵の営業は夜だけで、昼間はやっていなかった。僕はマゾリーノのランチを思い出して、大将に言ってみた。
「昼も定食みたいなのやったらどうですか? 大学の目の前だし、絶対、流行りますよ」
「うちには五百円やそこらで作れる料理はない」
大将は不機嫌そうに答えた。
まかないのおにぎりとみそ汁だけでも十分なのに。そう思ったけど、口には出さなかった。
こうしていつき庵のおかげで、僕の虚しさ、寂しさは、紛らわされていった。
東京の秋は短い、ような気がする。9月にはまだ30度を超える日が何日もあって、東京の夏はいつまで続くのだろう思っていた。10月になってようやく涼しくなったと思ったら、11月にはもう、コートかジャンバーが欲しいくらいに寒くなった。
大学のキャンパス内にある銀杏の葉も黄色くなり始めていた。
人は寒いだけで、切なくなる。悲しくなる。なぜだろう?
僕は、いつき庵と、そして里木さんの笑顔のお陰でその悲しさ、切なさを感じないで過ごすことができていた、ような気がした。
マゾリーノのランチ会で、慶野君、福波さんと談笑している里木さんは、楽しそうで幸せそうだった。
そう、それでいい。僕はそう思っていた。僕は週一回、里木さんの笑顔を見ることができればそれでいい。そう思っていた。