『キュンキュンキュン、 キュンキュンキュン』
聞き慣れない電子音が響いた。僕は階段を降りる足を止めて、ポケットからスマホを取り出した。音はスマホからだ。スマホが叫んでいる。
階段を昇りはじめていた里木さんも立ち止まった。里木さんの持っていたスマホも同じ音を発しているみたいだ。
『ジシンデス、ジシンデス』
スマホの声。そして。
グラッ。揺れた。地震だ。
僕は階段の手すりにつかまった。里木さんは、階段の途中にしゃがみ込んでいた。
「里木さん!」
僕は里木さんに向かって叫んだ。里木さんも僕の方を見て何か言おうとした。
グラグラグラ、グラグラグラ。大きく揺れた。
里木さんは両手で頭を押さえてうずくまった。僕は手すりから手を離すことができなかった。
グラグラグラ、グラグラグラ。
揺れは少しの間続いて、おさまった。
里木さんが立ち上がった。
「倉田さん!」
そう叫んで、階段を駆け登って来る。僕も立ち上がった。
二人の距離が縮む。あと三メートル、二メートル、一メートル。
その時。
再び、大きく揺れた。さっきより、大きく。突き上げるように。
僕は、左手で階段の手すりにつかまりながら里木さんに向かって右手を伸ばした。里木さんも僕に向かって右手を伸ばした。
里木さんの指。白くて細い指。あと三センチ、あと二センチ。
届かない。あと一センチ、届かない。
里木さんは、そのまま……
1 今日
アパートの狭い部屋は、温まるのも早いけど冷えるのも早い、ような気がする。エアコンの暖房を消すと、僕はフローリングの上に敷いた布団の中に潜り込んだ。
枕元を確認する。横置きに寝かせた黒いギターケース、その上に並べたスマホとデジタル表示の目覚まし時計、それにきれいな模様が入った紙袋が一つ。
ギターケースをそんな風に使ってはいけないのだろうけれど、ちょうどいい高さなのでつい。中に入っているのは僕が趣味で弾いてるアコースティックギター、いわゆる生ギター。
目覚まし時計は小学生の時から使っているもの。スマホのアラーム機能を使えば時計はいらないのかもしれないけど、僕は今でもそれを使っている。
時計の時刻を見る。「23:30」。
その下に表示されている日付は……「12/23」。そう、今日は、12月23日。そして明日は、12月24日。クリスマスイヴ。
たぶん明日、日本じゅう、いや世界じゅうでたくさんのカップルがデートなんかして、思いを告白したり、愛を語り合ったりなんかするんだろう。明日は、そういう日だ。
ぼくも明日、彼女と会う。
「彼女」、と言っても「恋人」という意味の「彼女」じゃない。いわゆる「She」だ。
彼女は僕と同じ大学に通う1年生、僕と同級生。学部が違うからキャンパス内で顔を合わせることはないけど。
彼女の名前は、「里木さん」。いつもそう呼んでいる。ちょっとよそよそしいかもしれないけれど、僕たちの関係はそんなところだ。今のところ。
下の名前は「聖冬さん」。「ミフユ」と読む。いい名前だと思う。きれいで、清楚で、凛としていて、でも暖かくて。里木さんの雰囲気にピッタリだ。ていうか、その名前通りに里木さんが育った、いや、両親が里木さんをそのように育ててくれた、と言った方が正しいのか。
明日、里木さんは19歳になる。そう、12月24日は里木さんの誕生日でもある。
「わたし、クリスマスイヴと誕生日が一緒でしょ。だから、両親からのプレゼント、いつも一緒にされちゃうんです。他の人は年に二回プレゼントもらえるのに。わたしは一回、なんか、損してる気分」
里木さんはそう言っていた。でもその表情からは「損してる」という不満は少しもも感じられなかった。むしろ、たとえ一回でも両親からプレゼントがもらえることがうれしくてたまらない、そんな気持ちが伝わってきた。
毎年、12月24日は両親と過ごすという。そして今年も。
『ですからその日は会えません』
里木さんからのライン。そりゃ、そうだろう。毎年の大事な行事だから。明日も、里木さんは両親といっしょに聖なる夜を祝福し、そして両親から自分自身の誕生と成長を祝ってもらえるのだ。
お昼からお母さんといっしょに買い物に行って、それから料理を作るという。ケーキも自宅で焼くのだという。正直、「すごい」と思う。けして悪い意味じゃなく。
里木さんは両親のことが大好きなんだと思う。言葉の端々からその気持ちが伝わってくる。
僕だって自分の両親のことは好きだ。人前じゃ言えないけど。
僕は……僕は倉田知春。「春」を「知る」と書いて「チハル」と読む。地方出身の大学一年生。
僕は地方の農業地帯の生まれで、家の周りは住宅よりも田畑の方が多いようなところで育った。うちは農家ではなかったけど。父親は役場に勤めていて、母親は近所のスーパーで働いていた。もちろん地方の農業地帯でも共働きの一般家庭でもクリスマスイヴのお祝いくらいはする。子供の頃は母親が勤務先のスーパーで買ってきてくれたケーキを一緒に食べたし、クリスマスのプレゼントにゲーム機を買ってもらったこともある。
今も、僕のわがままを聞いて東京の大学に行かせてくれたこと、学費だけでなく、アパートの家賃まで負担してくれていることに感謝している。僕だって、両親のことは大好きだ。
いや、今は僕のことじゃない。
『午前中じゃ、ダメですか?』
里木さんからのラインの続き。ダメなわけない。里木さんに会えるなら、いつだっていい。
朝9時に待ち合わせることにした。場所は里木さんの家の最寄りの駅。お昼からご両親と買い物だから、そんなに時間は取れない。
最悪、プレゼントを渡すことができればいい。
目覚まし時計の横にある紙袋は、僕から里木さんへのプレゼントだ。紙袋の中にはきれいに包装された小さな箱が二つ入っている。一つは誕生日の、もう一つはクリスマスのプレゼント、のつもりだ。
そして、できれば……僕の気持ちを、伝えられれば。
里木さんは両親のことが大好きだ。そしてたぶん、里木さんの両親も里木さんのことが大好きだ。あたり前だ。でも、僕だって里木さんのことが大好きだ。負けないくらい。いや、里木さんの両親の「好き」と僕の「好き」はちょっと意味が違う。僕のは、「愛してる」てことだ。ん? 両親のも広い意味で「愛してる」てことか? だったら、僕のは……「恋」。そう、「恋してる」。そういうことだ。
その気持ちが伝えられれば、それでいい。それだけでいい。
目覚まし時計の時刻を見た。
「23:45」。もうじき明日,12月24日だ。
里木さんにラインしておこうかと思った。『明日、よろしく』って。
考えてみると、明日を待たなくても今ここで、僕の気持ちを伝えることもできる。もっと前に伝えることもできた。でも……やっぱり明日だ。明日、12月24日、里木さんの特別な日に。会って、里木さんの顔を見て。だからやっぱり『明日、よろしく』だ。
ギターケースの上に置いたスマホを手に取って、ラインを打った。
「テロリン」
すぐにスマホが鳴った。里木さんからの返信だ。
『こちらこそ、よろしくお願いします。おやすみなさい』
ほっとした。ほっとして、涙が出てきた。どうして? うれしくて。里木さんが僕のメッセージを読んで、返信してくれたことが、うれしくて。
もう一度読み返して、返信した。
『ありがとう。おやすみなさい』
すぐに『既読』になった。
目覚まし時計の時刻を見た。「23:55」。
頭から布団をかぶった。朝まで眠れないんじゃないかと思ったけど、僕はいつの間にか、眠りに落ちてた。
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
うつ伏せの姿勢になって、手を伸ばす。ギターケースの上に乗せた目覚まし時計の上部にあるボタンを押して電子音を止める。暗闇の中に見慣れたデジタル表示の時刻が光っている。
「6:00」朝の6時だ。
里木さんとの約束は9時。待ち合わせた里木さんの家の最寄りの駅までは1時間で行けるから、まだ十分に時間はある。そもそもこんなに早く起きる必要もなかった。でも僕は普段大学に行く時と同じ時間に時計をセットしていた。習慣、かな。
目覚まし時計を使わなくても目が覚めていたと思う、きっと。うれしくて。今日のこと、里木さんと会うことを思うと、うれしくて。前の晩、僕は眠れないんじゃないかと思っていたけど、思いのほか熟睡できた、ような気がする。自分でもちょっと不思議だ。
ふと、違和感を覚えた。時計の、時刻の下に表示された日付。「6:00」の、その下。
「12」……「22」。
「えっ」
僕は起き上がって目覚まし時計を手に取った。「6:00」の表示のすぐ下にある日付は……「12/22」。12月22日。
そんなはずはない。今日は12月24日、クリスマスイヴ。里木さんの誕生日。の、はずだ。長年使っていた時計がとうとう壊れたか。
僕は起き上がって目覚まし時計を上下に振ってみた。時刻が「6:01」に変わった。その下にある日付は……
「12/22」のままだ。
ギターケースの上のスマホが目に入った。僕は目覚まし時計を置いてスマホを手に取った。スマホの画面に日付を表示させていた。その日付は……「12月22日」。やっぱり、「12月22日」。
僕はスマホのニュースの画面を開いた。僕の部屋にテレビはない。ニュースなどはいつもスマホで確認していた。
ニュースの見出しが並んでいる。ニュースがアップされた日付を見る。その日付は……やっぱり「12月22日」。
下の方のニュースは、アップされた日付が「12月21日」になっている。「23日」も、ましてや「24日」もない。
混乱してきた。確かめたい。誰かに確かめたい。
僕は手にしていたスマホで実家の母親に電話してみた。母親はすぐに電話に出てくれた。
「あら、知春? どうしたの? こんな早くに」
母親の驚いた声。
「いや、ちょっと確かめたいことがあって」
「なに?」
「今日……何月何日?」
「なに言ってるの? 12月22日だけど……」
「そう……」
やっぱり。やっぱり22日なんだ。
「それがどうしたの?」
「……いや、何でもない」
「それはそうと、年末はいつ帰ってくるの?」
「え? ああ、まだちょっと……」
そんなこと考えてなかった。ていうか、今はそれどころじゃない。
「風邪ひいてない? 寒いからね」
「うん……また連絡するから」
「あら、もう……」
「じゃ」
僕は電話を切った。母親の声を聞いて少し安心した、ような気がした。
でも、状況は変わってない。今日は、間違いなく12月22日なのだ。24日、ではなく。
僕は、僕はいったいどうなってしまったんだろう。「不安」が僕を覆ってくる。
僕は前の日、12月23日のことを思い出そうとした。土曜日で大学の授業はなかったから、部屋の掃除をして、ギターを弾いて、夕方からバイトに行って、夜遅くに帰ってから寝る前に里木さんにラインして……間違いない。僕は、僕は確かに、昨日、12月23日を生きていた。
それからその前の日、12月22日のことを考えようとした。そして……思い出した。
僕は部屋の灯りを点けた。
ない。里木さんのために買った、プレゼントの紙袋がない。枕元のギターケースの上に置いたはずなのに。
当たり前だ。僕があのプレゼントを買ったのは、今日、22日の日中なのだから。
「恐怖」が襲ってくる一歩手前で、僕は踏みとどまった。里木さんのおかげだ。
今日が22日なら、僕にはしなければならないことがある。この日、僕は里木さんと12月24日に会う約束をするんだ。それから、里木さんへのプレゼントを買いに行くんだ。
僕は身支度をして部屋を出た。
外はまだ暗かった。夜明けの直前の空の色は、濃い青色。知っている。僕はこの色を知っている。……ラピスラズリ。
僕は、「あの場所」をめざした。里木さんと初めて出会った、あの場所。僕は、里木さんと初めて出会った、あの日のことを思い出していた。
2 あの日
僕の通う景正大学は東京の郊外にある大きな駅からさらに少し離れた場所にある。駅から大学までバスも出ているけど、歩いても20分くらいで行けから大学まで歩いて通う学生も多い。
駅から真っ直ぐ北に延びる大通りを行くと大きな交差点があって、そこを左に曲がって西に歩けば道路の北側に大学がある。 大学までは緩い登り坂。道路沿いにバス亭があって、バス停の脇の横断歩道を渡ればすぐに大学の正門だ。
駅前の大通りは「駅前通り」、大学の前の通りは「大学通り」と呼ばれている。駅前通りは交通量が多い。通り沿いにはビルが並んでいて歩道を行き交う人も多い。だから歩いていてもけして快適とは言えない。僕の主観だけど。大学通りまで出れば交通量はそれほどではないけれど、それでも真っ直ぐな坂道は単調でつまらない。これも僕の主観だけど。
駅前通りから脇道に入ると商店街があって、全国どこにでもあるコンビニに混ざって昔からそこにあると思われる魚屋さんや和菓子屋さんなんかもある。
お店の並んだ狭い路を西に進むと商店街の終わりに公園があって、公園の先は高台になっている。1キロ四方くらいの広さだろうか。高台の上にはきれいに住宅が並んでいる。ちょっと高級な感じの住宅街。名前がある。「青空台」という。
青空台の中の住宅は皆、白い塀に囲まれている。家の壁の色も白。そして屋根は、どの家も、青い。多少の濃淡の違いはあるけれど。だから青空台というのだろう。いや、そもそもそういうコンセプトに統一してそれぞれの家が建てられたのか。
その中の道路は碁盤の目状にきれいに整備されていて、そこを通る人も車も多くない。だから「閑静」だ。
道路の両側の歩道には等間隔で街路樹が植えられている。歩道には所々に小さな花壇もあって、季節ごとにきれいな花を咲かせていたりする。だから、歩いていても気持ちがいい。駅前通りや大学通りよりはるかに。だからこの住宅街、青空台を通って大学まで行き来する学生もいる。知る人ぞ知る「秘密のルート」だ。
僕もまた、4月に入学してすぐにこの青空台を通る秘密のルートで大学に通うようになった。バスの中の混雑が苦手で、行き交う車を横目に見ながら単調な歩道を歩くのもイヤだったから。地図を見て目星をつけて歩いてみたのがきっかけだった。
僕の住むアパートは大学のある北口とは反対側、南口から歩いて15分くらいのところにある。住宅地、青空台みたいに「高級」ではないけれど、まあ普通の住宅地の中だ。
駅まで歩いて、南口から駅の中の改札の前を通って、北口を出てからまた大学まで歩くのが一番の近道だ。駅まで15分、駅を通り抜けるのに5分、駅から大学まで20分。全部で40分。僕は教科書やノートを詰めたバックパックを背負って歩いていた。
大学の授業は朝9時からだけど、僕は7時30分にアパートを出る。大学に早めに着いておきたいのと、朝の青空台をゆっくり楽しみたかったら。
アパートから駅までは同じ方向に向かって歩く人も多い。通勤や通学の人たち。駅の中は当然の混雑だ。駅を抜け、駅前通りから商店街に入ると人通りは少なくなるけれど、それでもまだ商店街を通って駅に向かう人はいる。朝からやってるコンビニの中には人が並んでいるのも見える。
公園まで来るとようやく一息つける。それから公園を通り抜け、青空台に入る。
青空台の中の道路は碁盤の目になっているから、道角を右左交互に曲がって北西へ向かえば大学通りに出る。だから歩く道は何とおりかある。2の何乗とおりだったか? きちんと碁盤の目に整備されているからどの道を通っても大学までの所要時間は変わらない。
僕は毎日少しずつ歩く道を変えてみた。4月に入学してから7月の夏休みまでに何通りかある道はほぼ全部歩いた、ような気がする。
少しずつ景色が違っていた。春には歩道の花壇に色とりどりの花が咲いていた。ピンクや黄色。この街は青と白が基調になっているから、それが一段と鮮やかに見えた。なんて言う花なのかは知らないけれど。僕は、花の名前には詳しくない。田舎育ちだけど。
梅雨のころには紫陽花が咲いていた。紫陽花くらいなら僕でもわかる。紫陽花の青はこの街に溶け込んでいた。初夏には街路樹が緑色の若葉に包まれて、真夏になるとそれがちょうどいい木陰を作ってくれた。なんて言う樹なのかは知らにけれど。僕は 樹木の名前にも詳しくない。田舎育ちだけど。
花や樹の名前には無知な僕でも、朝の青空台は十分に楽しめた。
田舎育ちの僕は、大学に入学してから5ヶ月、いや、夏休みの間は実家に帰っていたから、実質3ヶ月では、正直、都会に慣れた、とは、言い難かった。「都会」と言っても、高いビルが立ち並ぶ都心からだいぶ離れたこのあたりは、本当の都会の人たちにとっては「郊外」であって都会ではない、ということになるかもしれない。それでも僕にとっては、駅の中や歩道を歩く人の多さやその雰囲気は「都会人」であって、ここは「都会」だった。
大学のキャンパスの中はそれなりに広くて緑もあるけど、やっぱりいつも学生は多くて、僕にとって「くつろげる」場所ではなかった。そもそも大学はくつろぎに行く場所ではないけど。
青空台の手前の公園にも緑はあるけど、田舎育ちの僕には公園の緑は珍しくなかった。ていうか、そもそも僕は田舎にあるような緑を求めているわけじゃなかった。僕は田舎を思い出したいわけじゃない。僕は田舎が嫌いだった。だから東京に出て来たのだ。でも、東京に馴染めていない。都会に憧れながら都会に馴染めない。地方出身者にありがちな葛藤。
そんな僕にとって、青空台は違った。田舎にはないきれいな街並み。樹や花とのバランス。田舎じゃない。都会だけど都会じゃない。歩いていて、楽しかった。正直、癒された。
9月19日、火曜日。大学の夏休み明けの授業初日。朝。晴天。
僕はほぼ二か月振りに青空台にたどり着いた。二か月前、最後にここを歩いたのは猛暑の中だった。今日の景色はあの日と違っているだろうか。そんなことを思いながら僕は歩道を歩き始めた。すでに一通りすべての道を歩いたことがあったからどの道を歩いてもよかったのだけど、今日は右左、角ごとに曲がってみることにした。その方がいろんな景色を見ることができると思ったから。
二日前、帰省していた実家から戻った時の東京はまだまだ残暑の中だった。青空台の街路樹の葉もまだ緑色だ。でも街路樹の葉を揺らす風、そして僕の鼻孔の中に入ってくる空気には少しだけ「秋」が感じられた。僕は大きく深呼吸をして、それからゆっくりと歩き始めた。
三つ目の角を右に曲がった時、前方に人影が見えた。白い壁沿いの歩道の30メートルくらい先、街路樹の木陰を歩く後ろ姿。女の人だ。
白い上着と、白いスカート。対照的に黒くて長い髪。それが首のうしろあたりで一回束ねられてきれいな流線形を作っている。僕は八分音符を連想した。左肩には髪の毛と同じ黒い色のショルダーバッグ。
うちの、景正大の学生かな、と思った。朝、ここでうちの学生の姿を見かけることはめったになかったけど。時間が早いのと、何通りか行き方があるからなかなか同じ道を通ることがないからだろう。ここの住民の人かな、とも思った。後ろ姿だったけど、なんとなくその人の雰囲気がこの街にフィットしているように思えた。スマートで、上品。
その人は僕と同じように街路樹や周りの景色を見ながら歩いているようだった。ゆっくりと。僕よりもっとゆっくりと。自然に僕との距離が縮まる。もちろん近づいて声を掛けてみようとか思ったわけじゃない。そんなことできるわけない。
その時。
突然その人が立ち止まり、こちらを振り向いた。「振り向いた」と言ってもその顔は僕の方を見ていない。足元と、その周辺の地面を見回している。何かを探しているようだ。右手で左の手首を抑えている。
その人がしゃがみこんだ。地面に落ちた物を拾おうとしているようだ。
僕は走り出していた。あっという間に僕は、その人の目の前に立っていた。
僕に気がつくと、その人はしゃがんだまま顔を上げた。
かわいい。いや、きれい。その中間、いや、その両方。後ろ姿の印象通り、いやそれ以上。僕は一瞬見とれてしまった。
「ブレスレットが切れてしまって……」
鈴の音のような声がした。その人の左の手のひらに小さな青いガラス玉のような物が何粒か乗っているのが見えた。
そうだ、まずはこの人が直面している問題を把握しないと。
その人の周りの地面を見渡した。歩道の上に、その人の手のひらに乗っているのと同じような青い玉がいくつか散らばっていた。状況はすぐにわかった。この人はその青い玉を紐に通して輪にしたブレスレットを手首にはめていたのだろう。そしてその紐が切れて、玉が散らばってしまったというわけだ。
困っているのは明らかだ。困っている人がいれば、助けてあげるのは当たり前だ。
僕もしゃがみこんだ。僕もその人といっしょに、歩道の上の、直径一センチに満たないほどの玉を拾い集めた。それは、青かった。青はこの街の色。でも今まで僕が見た青色より、もっと深くて、輝いている。
空の色? いや、海の色? ガラス玉? いや、宝石?
僕は右手の人差し指と親指で青い玉を摘まみ上げて、お椀の形に丸めた左の手のひらに乗せていった。すぐに左の手のひらは青い玉でいっぱいになった。
全部拾えたかわからなかったけど、周囲に落ちている青い玉が見えなくなったので僕は立ち上がった。ほぼ同時にその人も立ち上がった。
「……ありがとうございました」
僕の顔を見ながらその人が言った。
その人の瞳は今拾い集めた青い玉より一回り、いや二回りは大きかった。瞳の色は、その玉よりずっと深い青に見えた。その目で見つめられて、僕は自分の心臓が「ドキッ」と鳴るのを感じた。
その人は自分の胸の前に両手のひらでお椀を作っていた。その中にはやっぱり十粒ほどの青い玉があった。
「それ……ここに」
その人が僕の顔から自分の両手のひらで作ったお椀に視線を移した。
僕は自分の左手に右手を添えて、その人と同じように両手でお椀を作った。それをその人の両手のひらのお椀の上に持って行って、手のひらの間から青い玉を落とした。すべての玉がその人の両手のひらに収まった。
「ありがとうございました」
その人がまたお礼を言ってくれた。
「ど、どう、いたしまして」
僕も答えたけど、なぜかうまくしゃべれない。
「助かりました」
その人はそう言いながら頭を下げようとした。
「危ない!」
思わず声が出た。青い玉がまた手のひらから落ちてしまうんじゃないかと思ったから。
「あ、はい」
気がついたようにその人が顔を上げた。
「……じゃ、僕はこれで」
急に恥ずかしくなって、僕はその場から立ち去ろうとした。しかしすぐにその人の様子に気がついた。困った顔をして自分の両手のひらと左肩に下げたショルダーバッグを交互に見ている。その人の考えてることがわかった。
「それ、いったん僕が持ってます」
僕はその人の両手のひらの下に自分の両手のひらを差し出して再びお椀を作った。
その人の白くて細くて長い指が花のように開いた。僕の手のひらの上に青い玉が落ちてきた。僕はそれを受け止めた。一瞬、 その人の小指が僕の手のひらに触れた。
「……すみません」
その人はそう言いながら肩に掛けていたショルダーバッグを自分の前に回してその中に両手を入れた。
「……祖母の形見なんです。ですから、いつも身に着けていたんですけど……」
バッグの中を見ながらその人が言った。
「……宝石ですが?」
僕は訊いた。
「ラピスラズリです」
その人が言った。
「ラピ……?」
リピートしようとしたけどうまく言えなかった。僕は花や樹の名前に詳しくないけど、宝石の名前なんてもっと知らない。
「瑠璃のことです」
瑠璃。それなら僕も知っている、ていうか、聞いたことはある。
「これでいいかな」
その人はそう言いながらバッグの中から白いハンカチを取り出して自分の両手のひらの上に広げた。
「ここに、お願いします」
僕は自分の両手のひらをその上に持って行って、少しずつ、落とさないように気をつけながら、その、ラピ……ラピス、ラズリ? の玉を落とした。
その人はそのまま手を閉じて、ハンカチの中に玉を包み込んだ。
「すみません……もう一度、持っていてもらえますか?」
その人がまた僕の顔を見ながら言った。瞳が真っ直ぐに僕の目を見ていた。
僕は両手のひらで包み込むようにしてハンカチの袋を受け取った。その人の指がまた、僕の手に触れた。
その人は自分の頭の後ろに両手を回して髪を止めていたヘアバンドをはずした。
首を左右に振って、それから両手で髪の毛をハラリと広げた。甘い香りがした。
「ありがとうございました」
そう言いながら、その人は僕が持っていたハンカチの袋を僕の手のひらから持ち上げた。それからそのハンカチの袋の上の方にヘアバンドを巻き付けた。
「これでよし」
そう言ってその玉の入ったハンカチの袋をショルダーバッグの中に入れた。
「ありがとうございました」
その人が何度目かのお礼を言った。
「あの……景正大の方ですか?」
続けて訊いてきた。
「あ、はい」
反射的に答えていた。隠す理由もない。そもそもこの時間にこの場所にいるのはここの住人かうちの学生くらいだろうし。
「わたしも景正の学生です。文学部一年のサトキ、ていいます」
やっぱりうちの学生だった。
「経済学部一年のクラタです」
また反射的に答えていた。
「同じ一年生なんですね!」
その人が笑顔になった。ちょっとだけ見えた白い歯がまぶしかった。
「あ、まだちゃんとごあいさつもしてなかったですよね。はじめまして。サトキ、ミフユです。」
その人は身体の前で両手を重ねて頭を下げた。黒くて長い髪がその人の肩の上を流れた。
「え? あ、はじめまして。クラタ、チハルです」
僕も思わず頭を下げていた。
急にまた恥ずかしくなってきた。自分の顔が赤くなっているのがわかった。今度こそその場を立ち去ろうと思った。
「僕、急ぐんで……これで!」
頭を上げると同時に僕は走り出した。真っ直ぐに走れば大学通りに出る、はずだ。方向を間違えていなければ。
後ろ姿を見られているような気がして、あえて角を左に曲がった。曲がる瞬間、僕はちょっとだけ振り返った。その人、サトキ、ミフユさんが、小さく右手を振っているのが見えた。
9月20日、水曜日。大学の夏休み明けの授業二日目。朝。この日も晴天。
僕は前の日と同じ道を通って大学に向かった。駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って……着いた。青空台。
夏休み前、青空台ではなるべく違った道順を歩くようにしていた。少しずつ違う景色を楽しみたかったから。でもこの日は違った。前の日と同じ道順を歩いた。あの人、サトキミフユさんに、また会えるかもしれないと思ったから。
黒くて長い髪。鈴のような声。ラピス……ラズリのような瞳。甘い香り。白くて細い指。
前の日と同じように、三つ目の角を右に曲がった。
いた。同じ街路樹の木陰に。あの人、サトキミフユさんが立っていた。こっちを、僕の方を向いて。
僕の姿を見つけると、姿勢を正してお辞儀をしてくれた。頭を下げる前に、ちょっとだけ微笑んだ、ような気がした。それから小さく右手を振った。前の日、別れ際にしてくれたのと同じように。
僕は平静を装って、わざとゆっくり歩いている、つもりだった。でもいつの間にか小走りになっていた。そしてあっという間に、その場所に到着していた。
「昨日は、ありがとうございました」
僕が止まるのと同時に里木さんがお礼を言ってくれた。お礼を言われたのは、前の日から数えて何回目だろう。
「ど、どういたしまして……」
僕が答えると、里木さんは目の前に紙袋を差し出してきた。
「これ、お礼にと思って。クッキーです」
「え?」
どうしていいのかわからなかった。記憶にある限りでは、僕は母親以外の女性から物をもらったことがない。だから、それを そのまますぐに受け取っていいものかどうかわからなかった。
「甘い物は嫌いですか? わたしが家で焼いたものですけど……」
「え?」
今度は「わたしが家で焼いた」という言葉に驚いた。
笑顔はちょっと困ったような顔に変わっていた。前の日、初めて見た時と同じ顔。
まずはその紙袋を受け取ることにした。甘い物は嫌いじゃない。
「……ありがとうございます」
初めて僕の方からお礼を言った、ような気がする。
「よかった」
僕が紙袋を受け取ると笑顔に戻った。
「経済学部の、クラタさん……でしたよね。これから授業ですよね? 大学までご一緒してもいいですか?」
「あ……はい」
何も考えられないまま僕は答えていた。そのまま僕たちは二人並んで大学の方に向かって歩き始めた。
「あの、サトキ……ミフユさん、でしたね」
「はい」
「漢字で書くと、どういう字ですか?」
歩きながら、前の日から思っていたことを訊いてみた。
「サトキは、人里の『里』に、樹木の『木』、ミフユは、聖書の『聖』に、季節の『冬』、て書きます」
その人、里木さんが答えてくれた。
「聖なる……冬、ですか」
「聖なる、ていうか、キヨい、くらいかな? でも『聖』ていう字、『ミ』て読みませんよね」
里木さんはニコニコと微笑みながら話してくれた。
「あ……そうですね……。でも『聖』ていう字、「美しい」の『美』とか、敬語に使う『御』ていう字とニュアンスが似てるから、『ミ』でいいんじゃないですか?」
「当て字ですよね」
そう言う里木さんが、なんだかとってもうれしそうに見えた。
聖冬。僕はそのイメージがピッタリだと思った。清楚で、上品で、美しくて。
僕は思い付くままに訊いてみた。
「里木さんの誕生日って、ひょっとして12月のクリスマスの頃ですか?」
「はい、大当たりです。12月24日、クリスマスイヴ、その日です。でも、わたしの名前聞いた人で、誕生日はずした人、今までに一人もいないです」
里木さんがまたうれしそうに笑った。
「でも、いいことないですよ。わたし、クリスマスイヴと誕生日が一緒でしょ。毎年12月24日には両親がプレゼントくれるんですけど、いつも一緒にされちゃうんです。他の人は年に二回プレゼントもらえるのに。わたしは一回。なんか、損してる気分」
そう言っている表情からは「損してる」という不満は微塵も感じられない。たとえ一回でも、両親からプレゼントがもらえることがうれしくてたまらない、そんな気持ちが伝わってくる。
「去年は……おばあちゃん……いえ、祖母も、プレゼントをくれて……」
里木さんは遠くを見るような目をした。
「そういえば、おばあさんの形見、て言ってましたよね……その、ラズ、ラピ……」
「あ、あのラピスラズリは、わたしの一歳の誕生日に祖母が買ってくれた物です。わたしの誕生石なんです」
誕生石……そんなものもあるのかと思った。
「わたし、生まれた時から身体が弱くて……祖母が、お守りに、って。石言葉は『幸運』と『愛』。わたしのこと、守ってくれるから、て」
石言葉……そんなものもあるのかと思った。
「でも、おばあちゃん……死んでしまって……」
里木さんが少し寂しそうな顔をした。
「あの……ブレスレットは直りましたか?」
話題を変えた方がいいかなと思って言ってみた。
「あ……家に帰ってから、直してみようとしたんですけど、うまくいかなくて……それで、これ」
里木さんが肩に掛けていたショルダーバッグを僕の方に向けた。バッグの取っ手に小さな水色の袋が下げられていた。
「前に作ったポーチがあったからちょうどいいやと思って。一粒だけ、この中に入れて、お守りにして持ち歩くことにしたんです。残りは家に置いておくことにしました」
ポーチを手に取って僕に見せてくれた。これも自分で作った……器用な人なんだと思った。感心した。女子なら当たり前なんだろうか?
「粒は全部で十九個あったはずなんですけど、一つだけ足りなくて……さっきも探してみたんですけど、やっぱり見つからなくて」
昨日のことを思い出した。もっとよく探せばよかった。
「それで、十七個の粒には、十七年間わたしを守ってくれてありがとう、てお礼して。これが十八個目、今、十八歳のわたしを守ってくれてる、そう思うことにしたんです」
「なるほど」
「ところで、クラタさんは、どういう字を書くんですか?」
今度は里木さんが訊いてきた。
「倉庫の『倉』に田んぼの『田』です」
「ええ……と、下のお名前は……」
「チハルです。春を知る。季節の『春』を『知る』、て書きます」
「いい名前ですね」
「そうですか?」
「誕生日は、三月か四月ですか?」
「三月です。僕の誕生日もわかりやすいですよね」
「はい」
里木さんが笑った。
「三月の、何日ですか?」
「三月五日、『啓蟄』の日です」
「ケイチツ?」
「はい。春分の日とか秋分の日とかと同じ季節の分かれ目の日で、土の中から虫がはい出てくる日です」
「ふ~ん」
里木さんが感心したような、ちょっと複雑な顔をした。僕が僕の名前と誕生日の説明をすると、たいがいの人はそういう反応をする。
「虫が土の中からはい出てくるって……想像すると気持ち悪いですよね」
いつも思っていることを言ってみた。
「そんなことないです」
里木さんが打ち消してくれた。でも、ちょっと微妙な感じだった。
「わたしたち、似てますよね」
取り繕うような感じで里木さんが言った。
似ている? 名前が誕生日に由来していることを言っているのだろうか? そう思ったけど口には出さなかった。僕は虫の話をしたことを後悔していた。
「では、わたしの方が少しだけお姉さん、ていうことで、いいですか?」
そう。その通りだ。なぜか僕は、励まされたような気持になった。
大学通りに出た。すぐ横に信号のある横断歩道があってその正面は大学の正門だ。すぐに信号が青になった。僕たちは並んで横断歩道を渡ってキャンパスに入った。
僕の行き先、経済学部の教室棟は正門から右側、里木さんが行く文学部の教室棟は左側にあった。
「それじゃ」
僕はがそう言うと里木さんはまた姿勢を正してお辞儀をした。僕はそのまま右を向いて歩き始めた。ちょっとだけ振り返ると、里木さんがまた、小さく右手を振ってくれていた。
9月21日、木曜日。大学の夏休み明けの授業三日目。朝。この日も晴天。
青空台。この日も僕は前の日と同じ道を通って大学に向かった。
前の日、里木さんはその前の日に会った場所にいてくれた。僕を待っていてくれた。もちろんそれは、ラピスラズリを拾ってあげたお礼のためだ。僕は里木さんの手作りのクッキーをもらった。それで終わりだ。もう里木さんが僕を待つ理由はない。
でも……僕は思っていた。ひょっとしたら、ひょっとしたらまた……里木さんに会えるかもしれない、いや、里木さんに会いたい。そう思っていた。
前の日のことを思い返した。大学まで里木さんと歩きながら話した。時間にすれば、五分くらいだっただろうか。青空台の真ん中あたりから正門までだから、きっとそれくらいだろう。
女の人と話すのは久しぶりだった。ていうか、大学に入ってから初めてだった、かもしれない。もちろん僕だって、中学、高校時代にはガールフレンド、ていうか、女友達、クラスメイト? くらい、いた。普通に話もしていた。大学にも女子学生はいる。でも、大学の女子は、高校のクラスメイトに比べるとずっとお洒落で大人? に、見えた。同じクラスにいても、自分とは別世界の人たちに思えた。だから、正直話しかけられなかった。向こうから僕に話かけてくることもなかったし。
でも里木さんは違った。楽しかった。たいした話はしなかったけど。もっと話したかった。だから……また里木さんに会いたい。そう思った。
街路樹が並ぶ歩道。僕は三つ目の角を右に曲がった。
いた。前の日と、その前の日と同じ街路樹の木陰に、里木さんが立っていた。こっちを、僕の方を向いて。
僕の姿を見つけると、里木さんは微笑んで小さく右手を振った。僕は小走りに走り出した、けど、いつの間にか、全速力に近いスピードで里木さんに向かって走っていた。
「おはようございます」
僕が里木さんの前に到着すると、里木さんがお辞儀をしてくれた。
「……おはようございます」
僕も息を切らせながらあいさつを返した。
「いつもこの道で通っているんですか?」
里木さんが訊いてきた。
「……はい」
「ここ、いいですよね。きれいな街並みで」
「はい」
はい、としか答えられない。言葉が浮かんでこない。
「前からですか? わたしも夏休み前からここを歩いているんですけど、今までお会いしませんでしたね?」
「はい……そうですね」
道順は何通りもある。だからなかなか会うことはない。2の何乗通りだったか? どうでもいいことが頭に浮かぶ。
僕たちはいつの間にか並んで歩き始めていた。
僕は里木さんの横顔を見た。
改めて思った。「聖冬」さん、ていう名前がよく似合う。きれいで、清楚で、どこか凛とした雰囲気があって、でも暖かい。 まさにクリスマスだ。
名は体を現す。そんなことわざが浮かんだ。自分で意識しているのかどうかわからないけど、里木さんは名前の通りの人だ。
「聖冬さん、て、いい名前ですね」
自然に言葉が出た。
「そうですか? 寒い冬ですよ」
そう言いながら里木さんはうれしそうに笑う。
「『知春さん』の方がいいな。温かい春の訪れ」
「いや、土の中の虫にとっての春ですから」
前日のやりとりを思い出して、また言ってしまったことを後悔した。
「でも、その虫って、きれいな蝶々になるかもしれないじゃないですか。きっとそうですよ」
里木さんが言った。ひょっとしたら、前の日からずっと考えていてくれたのかもしれない、そう思った。
「蝶々の幼虫は土の中にはいないと思いますけど……」
言ってしまってからまた後悔した。
「え、そうなんですね」
そう言って里木さんがまた笑った。温かい笑い声。
「でも……僕、早生まれじゃないですか。早生まれって、あまりいいことないんですよ」
「そうなんですか?」
「プロ野球選手も、サッカー選手も、四月、五月生まれの人が多くて、二月、三月生まれの人が少ないんです」
「……どうしてですか?」
「将来プロになって行くような人たちって、小学校の低学年くらいから地元のクラブとかでそのスポーツを始めるじゃないですか。でも、四月生まれと次の年の三月生まれって、ほぼ丸一年違いますよね。その頃の一年の体力差って大きいですから、早生まれの人はなかなかレギュラーになれないんです。で、結局、辞めちゃうんですよね」
「ふ~ん、なるほど」
里木さんが関心したようにうなずいてくれた。
「倉田さん、て、物知りですね。博学、ていうか」
里木さんの方から話してくれた。
「博学?」
「啓蟄のこととか、プロスポーツ選手のこととか」
「……そんなことないですよ」
そう、どっちも自分の誕生日にまつわることだ。けして色んな知識があるわけじゃない。
「そうですか?」
「そう、例えば、植物の名前とか、よく知りません。そこに生えている樹とか……」
僕はすぐそばの街路樹を指さした。
「あれは、ハクモクレン」
里木さんが即答してくれた。
ハクモクレン……聞いたことはある。
「ここの樹はみんな、その、ハクモクレンなんですか?」
「はい。そうです」
ということは、僕が里木さんと初めて会ったのは、「ハクモクレンの木の下」……そんなことを思った。
「ハクモクレンは白い花を咲かせますから、この街の色と調和してますよね。そもそも調和させるためにハクモクレンなのかな?」
僕がここを歩き始めた頃には確かに白い花が咲いていた、ような気がする。
「でも、花壇の花は色とりどり。それがまたよく映えて、いいですよね」
里木さんが道路の向こう側にある花壇を指さした。花壇にはピンクの花が咲いていた。
「あの花は何ですか?」
「あれはコスモス」
「へ~エ」
感心した。4月から7月まで三カ月も歩いていたのに、僕はここにある木や花の名前も知らなかった。
「あれはマリーゴールド」
里木さんがまた別の花壇を指さした。花壇には黄色い花が咲いていた。
僕は、ガイドさんについて行く修学旅行生のように里木さんの指さす方をきょろきょろと見回しながら歩いた。
「わたし、青い花が好きなんです」
里木さんが言った。
「青い花……」
「そう……梅雨の時期には紫陽花が咲いていたんですけど……秋だから、リンドウとか、モラエラとかかな。どこかにないかな」
「モラエラ、ですか?」
どんな花なのか、僕には想像もできなかった。
そんなことを話しているうちに僕たちは、大学通りに出ていた。正直、里木さんともっと一緒にいたい、そう思った。
「もう着いちゃいましたね」
正門前の横断歩道で信号を待ちながら里木さんが言った。里木さんも僕と同じ気持ちでいてくれているのだろうか、そう思った。
信号が青になった。僕たちは並んで横断歩道を渡ってキャンパスに入った。
「それじゃ」
そう言って僕は右の方へ歩き出そうとした。名残惜しかったけど、仕方ない。
「はい。それじゃ、また明日」
里木さんが言った。
え? 明日? 僕は立ち止まって振り返った。それは、明日また会いましょう、ていうこと? 明日もまた僕と会ってくれる、て、そういうこと?
いや、違う。僕はすぐに思い直した。僕と里木さんは、たまたま同じ道を歩いて大学へ来ていた。だからこうして少しの間いっしょに歩くことができた。でもそれはたんなる偶然だ。明日もお互い大学へ来る。そしてもしまた偶然、同じ道で会えたら……きっとその程度のあいさつだ。高校のクラスメイトの下校の時のあいさつと同じだ。そう思い直した。
でも、それでも。
うれしかった。なんだかとても、うれしかった。
「はい、また明日」
僕も里木さんにそう答えた。里木さんは、前の日と同じように、微笑みながら小さく右手を振ってくれていた。
3 昨日
12月22日。僕にとっては二回目の、12月22日。
今日は……12月24日、クリスマスイブ、里木さんの誕生日、の、はずだった。でも僕が目を覚ました時、今日は、12月22日だった。僕は、前の日、12月23日の一日後ではなく、一日前の日にいた。僕の時間は一日さかのぼっていた。
あの場所に着いた。青空台。白い塀沿いの歩道、街路樹、ハクモクレンの木の下。僕が初めて里木さんと会った場所。里木さんが、僕のことを待っていてくれた場所。
僕は里木さんを待った。わかっている。この日、里木さんは来ない。いつも通っているこの道を通らない。そのことを僕は知っている。それでも……僕は待った。寒さは感じなかった。
8時30分。やっぱり、やっぱり里木さんは来なかった。僕は大学へ向かった。最初の12月22日、僕にとっては二日前ほど落胆しなかった。二回目だから。いや、これからのことがわかっているから。
僕はこの前の12月22日に考えていたのと同じことを考えた。
昨日、というのは正常な時間の流れに沿った昨日、12月21日も、その前の日、12月20日も、里木さんは青空台に姿を見せなかった。
会いたい。里木さんに会いたい。会って、里木さんのために何かをしてあげたい。僕だけにできる何かを。
でもいつ? いつ会える? 会ってもらえる? 明日? いや。明後日、12月24日。そうだ。里木さんにとっての特別な日に。どこで? 場所はどこでもいい。もし会ってくれるなら、どこでも。そのためには……まず、里木さんと連絡を取らないと。
昨日、つまり21日も、その前の20日も、僕は里木さんにラインしようと思っていた。でもできなかった。「あのこと」があったから……「あのことに」について、どう話したらいいのか、わからなくて。でも……でも今日は。
僕はラインを開いた。
『大学来てますか? 心配してます』
すぐに返事は来ない。わかってる。返事が来るのは、昼休みだ。
一時限目。僕はほとんど授業を聞いていなかった。二回目だし。一回目も聞いてなかったけど。
階段式教室の前の方の席に髪を金髪に染めた長身の後ろ姿があった。慶野君だ。
慶野圭太。大学内では数少ない「友達」と呼べる存在。
僕が、僕にとって二回目の「12月22日」にいることを話したら、慶野君は信じてくれるだろうか? そう思った。でも今は慶野君とは話したくない。一度目の12月22日も僕は慶野君に声をかけなかった。そう、僕はまだ、慶野君のことを許していない。
午前の授業が終わった。学生がぞろぞろと教室を出ていく。慶野君も黙って僕の横の通路を通り抜けた。僕のことを無視して。
僕は学生がいなくなった教室に一人残っていた。
「テロリン」
スマホが鳴った。里木さんからの返信だ。
『体調が悪くて大学休んでました。でも、もう大丈夫です』
『それならよかったです』
ラインにそう打ってから、僕はすぐに次のメッセージを送った。弱虫の僕が、精一杯の勇気を振り絞って。二回目でもやっぱり。
『あさって、12月24日に会えませんか』
しばらくして、里木さんから返信がきた。
『ごめんなさい。その日は毎年両親と過ごすことにしてます。ですからその日は会えません。』
そう。わかっている。そうなんだ。でも。それでも。
『少しでもいいので時間取れませんか?』
しばらくして里木さんからまたラインが入る。
『お昼から両親と買い物へ行って、それからクリスマスの準備をしないといけなくて。でも、午前中なら時間が取れます。午前中じゃ、ダメですか?』
ダメなわけない。午前中だっていい。いいに決まっている。里木さんに会えるなら。
『大丈夫です。よろしくお願いします』
返信した。二回目だから悩むこともない。
『ありがとうございます』
うれしかった。わかっていたことだけど、やっぱりうれしかった。
『昨日も一昨日も、青空台にいてくれたんですか?』
続けて里木さんからラインが入った。
『はい』
『ごめんなさい。この前のことがあって、ちょっと倉田さんに会いづらくなってしまって』
この前のこと……里木さんが言っていることはすぐにわかった。「あのこと」だ。でもあの時、僕は、うれしかった。たまらなくうれしかったんだ。それなのに僕は……
『倉田さんに会うのが恥ずかしくなってしまって』
里木さんからのラインが続く。
恥ずかしがることなんてないのに……そう思った。むしろ、恥ずかしいのは僕の方だった。あの時、もっとましな対応ができたんじゃないか、そう思っていた。後悔していた。
『謝らなくちゃいけないですよね』
『謝ることなんてないですよ』
『でも、倉田さんに迷惑かけたんじゃないかと思って。余計な心配かけて』
『迷惑なんてこと、ありません』
迷惑なわけない。それに、里木さんに対する心配が、僕にとって余計なわけない。
『ありがとうございます。そう言ってもらえると』
ありがとう? 何もできなかったのに。僕は、何もしてあげられなかったのに……
会いたい。今すぐに里木さんに会いたい。そんな気持ちになった。でも……今日じゃない。今日はまだ、何の準備もできていない。あさって、12月24日、里木さんの特別な日に、僕は。
『場所は、どこにしますか』
そう。里木さんは昼には家に帰らなければならないのだから、あまり遠くじゃなくて。
『里木さんの家の近くにしましょう』
『ありがとうございます。うちの近くの駅でいいですか』
駅ならすぐにわかる。
『はい。そうしましょう』
『では、駅の改札前で。改札は一つですから。時間は、9時でいいですか? ちょっと早いですけど』
『はい、大丈夫です』
問題ない。朝ならいくら早くてもいい。
『クリスマスの準備って、料理とかですか』
訊いてみた。これも二回目だけど。
『はい』
『ケーキも自分で焼くんですか?』
『はい、母といっしょに』
そうなんだ。手作りのクッキーをもらったことがあったからそう思っていた。
『すごいですね』
『そんなことないですよ』
うれしかった。里木さんとラインでやりとりできたことが、たまらなくうれしかった。
二回目だったけど、里木さんがどんなメッセージを送ってくれるのか、わかっていたけど、それでもやっぱりうれしかった。
そう、そうだ。そして、これから僕は、里木さんへのプレゼントを買いに行くんだ。
午後の授業をパスして、僕は駅前通りの脇道の商店街にある雑貨店へ向かった。授業は一度聞いていたし。いや、聞いてなかったとしても。
その店のことは前から知っていた。中に入ったこともあった。自分用のコーヒーカップを買うために。僕には場違いなところだったけど。確かそこに、おしゃれなアクセサリーなんかもあった、ような気がした。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
僕がその店に入るとすぐに女性の店員さんが声をかけてくれた。僕にとっての一昨日と同じだ。
「プレゼントを」
「クリスマスのプレゼントですね」
この時期だから当然そう思うだろう。
「はい」
「どんな物をお考えですか?」
「ペンダントを」
僕は、僕自身がこの日ここで何を買うか、すでに知っている。
「石を一粒入れることができる、小さなカプセルのついたペンダントをください」
「でしたら……こちらはいかがでしょうか」
店員さんがペンダントを何本か持って来てくれた。その中の一本。鎖の先に、銀色の金属でできたしずくのような形の小さなカプセルが付いたペンダント。
「こちらはティアドロップのデザインになっています」
これだ。このペンダントだ。派手過ぎず、里木さんの雰囲気にピッタリだと思った。カプセルの大きさもちょうどいい。
「これを、これをお願いします」
「はい、かしこまりました……中に入れる石は、お決まりですか?」
「はい、大丈夫です」
そう、それはもう、決まっている。
僕は里木さんのショルダーバッグの取っ手についた水色のポーチを思い出した。里木さんはあの中におばあさんからもらったラピスラズリを一粒入れて持ち歩いている。このペンダントをポーチの代わりに使ってもらえればいいし、あるいはポーチと両方でもいい。里木さんのラピスラズリは一粒ではないのだから。
「では、こちらでよろしいですね」
店員さんがペンダントを持ってレジカウンターへ向かう。
待て。もう一つだ。
「あの、ブレスレッドも見せてください」
「はい?」
僕は思い出していた。いつか、里木さんが言っていたことを。
「他の人は年に二回プレゼントもらえるのに、わたしは一回、なんか、損してる気分」
そして、思いついた。僕だけにできること……プレゼントを、二つ。
「ブレスレッドも、お買い求めですか?」
「はい。ラピス、ラピスラズリのブレスレッドは、ありますか?」
「はい……こちらに」
そう。この店は宝飾品も置いていた。
店員さんがブレスレッドを持ってきてくれた。青色の、丸い玉をつなげて輪にしたブレスレッド。ラピスラズリの、ブレスレッド。あの、切れてしまったブレスレッドと同じもの。里木さんが、おばあさんからもらったと言っていたのと、同じもの。少しだけ石の粒が小さい、ような気がしたけど。
「あの、これもお願いします」
「……はい」
店員さんのちょっと不思議そうな顔。変な誤解をしているかもしれない。そう思って僕は言い訳した。
「彼女、12月24日生まれなんです。誕生日とクリスマスが、いっしょなんです」
店員さんは「まあ」という顔をした。それから、「かしこまりました」と言って微笑んでくれた。
店員さんはペンダントとブレスレッドをそれぞれ別の箱に入れてきれいに包装してくれた。そして一つにはピンクの、もう一つには緑色のリボンをつけてくれた。
二つの箱をきれいな模様の入った紙袋に入れて、それを僕に手渡しながら、店員さんが言ってくれた。
「彼女さんが、うらやましいです」
この言葉を聞くのも二回目だった。それでも、前の時と同じように、僕はてれた。
店員さんからプレゼントを受け取って、僕は雑貨店を出た。
その時。向かいの古いビルの壁にかかった看板が目に入った。
「占い 未来の窓」
占い。僕だって占える。今の僕なら、今日のことがわかる。明日のことがわかる。そう思った。でも今は占いどころじゃない。僕は、今自分がすべきことを考えた。
僕はいったんアパートの部屋に戻って里木さんへのプレゼントを置いてから、アルバイト先の「いつき庵」へ向かった。
「いつき庵」は大学通り沿いにある、小さいけれどちょっと高級な和食のお店だ。二か月ちょっと前、十月の半ばから僕はそこで働かせてもらっている。
「いつき庵」にはずいぶん助けられた。経済的にはもちろんだけど、僕の心も。大将はちょっと怖いけど、大将の奥さんの女将さん、「藤川さん」はとってもいい人で、本当の母親みたいに僕に接してくれた。
仕事は配膳や後片付け、食器洗い。僕はやっぱり、二日前と同じように働いた。仕事に集中していると、他のことを考えずにすんだ。
藤川さんに今の自分が体験していること、過去にさかのぼってしまったことを話してみようかと思ったけど、やめた。信じてもらえないだろうし、心配かけちゃいけないと思ったから。
「今日はなんか、元気ないわね」
藤川さんに言われた。やっぱり、変な心配をかけちゃいけない。
仕事が終わって、アパートの部屋に戻った僕はフローリングに布団を敷いてその上に寝転んだ。
今日のことをもう一度考えてみた。朝、起きると12月22日だった。ほんとうなら、12月24日、クリスマスイヴ、里木さんの誕生日、里木さんと会う約束の日、だったはずなのに。
昨日、というのは僕の感覚としての昨日、12月23日、僕は里木さんにラインして、12月24日のことを確認して、就寝した。ていうか、寝入ってしまった。あの日が夢、あるいは錯覚だったのか? 本当は前の日は12月21日だった? そんなことはない。そんなはずはない。
再び不安が襲ってくる。明日は、この次の日は、どうなってしまうのか。あんなことが起きたのは今日だけで、明日は23日になって、その次の日は24日になるのだろうか。それとも……
枕元に紙袋があることを確認する。今日、雑貨店で買った里木さんへのプレゼント。
思いついた。このまま、寝なければ。このまま起きていれば。
僕はスマホの画面を見た。そこに表示されている日付は「12月22日」。
枕元に置いた目覚まし時計を見た。日付はやっぱり「12/22」。
時刻は「23:31」。あと三十分待てば、日付は「12/23」、12月23日になる、はずだ。少なくとも、「昨日」ではなく、「明日に」になる。「明日」に、僕は行けるはずだ。
僕は、その時を待った。
「23:40」……「23:50」……「23:58」
目覚まし時計の時刻は進む。
いよいよだ。あと2分……あと1分……
数えながら、僕は眠りに落ちてた。
4 あの日
9月22日、金曜日。僕が里木さんに初めて会った日から四日目。朝。この日も晴天。晴れの日が続く。
僕はあの場所を目指した。里木さんと会った、青空台の、あの場所。
いた。里木さんはいてくれた。あの、同じ場所にいてくれた。
僕の姿を見つけると、里木さんは微笑んで小さく右手を振ってくれた。前の日と、そしてその前の日と同じように。
この日も僕たちは青空台を並んで歩いた。僕は何を話せばいいか必死になって考えていた。
「倉田さん、大学では、クラブとか、サークルとかやってないんですか?」
里木さんの方から話しかけてくれた。
「……いえ、特に」
正直に答えた。
「高校の時とかは? 昨日のお話だと、野球とかサッカーとかのスポーツはしていらっしゃらなかったみたいですけど……」
「はい……特に何も……」
実際僕は部活動をしていなかった。
「そうなんですか……それじゃ、何か、趣味とか……」
「……ええ」
趣味は、ある。でも即答できなかった。里木さんがどう反応するか、そっちの方が気になっていた。
「里木さんは、何か?」
逆に質問してみた。実際、興味もあった。
「わたし、高校は合唱部だったんです」
「へ~ぇ」
思わず声が出た。里木さんが讃美歌を唄っている姿がすぐに想像できた。やっぱり「聖冬」さんだ。
「大学では?」
訊いてみた。
「新勧の時に大学の合唱部をのぞいてみたんですけど、かなり本格的で……入るのやめちゃいました。ついて行けないかな、て思って。わたし、声量なくて、そもそもそんなにうまくないですし」
謙遜だと思った。きっと上手なんだろうと思った。
同時に、音楽、それも合唱をやっていたのなら、わかってくれるかもしれない、そう思えた。
「実は僕、クラッシックギターが好きなんです」
クラッシックギター。そう。それが僕の趣味だ。
「へ~、倉田さん、ギター弾くんですか?」
「はい。ギター、て言っても、アコースティックギター、いわゆる生ギター、ていうやつですけど」
「聞いてみたいです」
里木さんが関心を示してくれたことがうれしかった。でもまさか、里木さんに聞かせるなんて……
「いや……僕こそ、へたくそですから」
「そんなことないんじゃないですか?」
「いや……それにつまらないですよ。僕が好きなのは、なんていうか、アップテンポな乗りのいい曲じゃなくて、スローテンポで、あまり明るくなくて……」
「いいじゃないですか。わたしもゆったりした静かな曲、好きですよ」
励まされた。里木さんに励まされた。そう思うとまたうれしくなった。
「大学にも、サークルとかもありそうじゃないですか?」
「さあ……」
上向いていた僕の気持ちがまた下を向いた。内心、クラブに入ろうとか、そんな気はなかった。アパートで一人で弾いていれば十分だと思っていた。
「きっと同じ趣味の人、いると思いますよ」
「そうですね……探してみます」
僕はあいまいに答えた。
いつの間にか大学通りに出ていた。
「もう着いちゃいましたね」
里木さんが言った。もっと僕といっしょにいたい、里木さんもそう思ってくれているのだろうか。そう思えた。
「次は……来週ですね」
里木さんが続けて言ってくれた。そうだ。明日は土曜日。僕は土曜の授業は取っていない。そしてその次は日曜日。その間里木さんに会えない。でも、来週になれば、また会える。会って、くれる? 『次は、来週』それは……約束? 僕にはそう聞こえた。そう思えた。
前の日も里木さんは言ってくれた。「また明日」。そして今日、里木さんはその通り、いてくれた。あの場所にいてくれた。
ひょっとして里木さんは、僕を待っていてくれたのではないだろうか。偶然じゃなくて。そして来週も、僕を待っていてくれる、そう言っているのではないだろうか……
うれしさが込み上げてきた。口角が上がっているのが自分でもわかった。同時に、なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「はい。また来週」
そう言って僕は、速足で正門から右の方にある経済学部棟へ向かった。この日も里木さんは、小さく右手を振って、僕を見送っていてくれた。
ところで僕は、里木さんに会うまで大学の女子学生とはほとんど口もきいたことなかったけど、つまりそれは、大学に女性の友達はいなかった、ていうことだ。では、男の友達ならたくさんいたか、というと、実はそんなこともなかった。入学して半年近くになるけど、クラブにもサークルにも入っていなかったし、僕は積極的に人に話しかけるタイプではないし。
唯一、一人だけ、友達、に近い存在がいた。
慶野圭太。大学の入学式の後、学部学科ごとのオリエンテーションがあり、僕たちは氏名の五十音順に小クラスに分けられた。その教室で、慶野君は僕の隣に座っていた。五十音順で、「ケイノ」は「クラタ」のすぐ後だからだ。
「君、東京の人?」
慶野君はいきなり話しかけてきた。金髪だったから、僕は留学生なのかと思った。でも、話し方は日本人だった。後で聞いたのだけれど、髪は入学前に染めたのだそうだ。
「違いますけど……」
僕がそう答えると、慶野君は「僕も。仲よくしよ」と言ってきた。
それ以来、慶野君は僕を見つけては頻繁に話しかけてくるようになった。僕は自分から人に話しかけるタイプではないから、必然的に、慶野君だけが、「友達」に近い存在になった。
背が高い。はっきり訊いたことはないが、百七十センチ台の僕よりも十センチは高いから、百八十センチ台の後半くらいはあるだろう。スマートだ。顔の彫りが深くて、少し日本人離れした印象を受ける。金髪のせいもあるだろうけど。軽音楽部でロックバンドを組んでボーカルとギターをしている。ギターはもちろんエレキ。僕の弾く生ギターとは違う。おまけに明るい。メチャクチャ明るい。面白い。男の自分から見ても、女の子にもてそうなタイプだと思う。
一時限目の授業の後、その慶野君が声を掛けてきた。
「大学通りにあるイタリアンのレストラン、知ってるか?」
そういえば、大学通り沿い、大学の向かい側には何軒かレストランやカフェなんかもあった、ような気がする。僕が思い出そうとしているのに構わずに慶野君は話を続けた。
「『マゾリーノ』ていう店。高級そうで値段も高そうだったから敬遠してたんだけど、最近、学生向けにランチを始めたらしいんだ」
そういえばそんな店もあったかな……僕は大学通りを通っていないからよく知らない。昼ご飯はいつも大学の学食を利用していた。一人きりか、慶野君と二人で。
「それがなかなか評判がいいらしい。行ってみようぜ」
「うん……いいけど」
特に断る理由もなかった。
「よし。じゃ、次の授業、教室の一番後ろに座るぞ。出口の一番近く」
「え……なんで?」
「その店がかなり人気らしいんだ。席数もそう多くない。で、昼休み一番で行かないとすぐに満席になる。そうなると店の外で順番待ちだ。だから一番で行く」
「……今日行くの?」
「そう。早いに越したことはない。だから、授業が終わったらすぐに教室を出て、走るぞ」
そこまでしなくても……そう思ったが、慶野君はすでに階段式教室の一番後ろの席を目指して歩き始めていた。仕方なく僕も 慶野君の後を追った。
昼休み。その店、「マゾリーノ」に着いた時、僕も慶野君も思いっきり息を切らせていた。教室から全力で走って来たのだから無理もない。
ヨーロッパのお城のような石の壁に重そうな木製のドア。慶野君が言っていたようにいかにも高級そうなお店だ。店内に入ると白いテーブルクロスのかかった四角いテーブルがきれいに並べられていた。お客さんは近所のご婦人とおぼしき二人組だけ。走った甲斐があった。
ウエイトレスさんが僕たちを奥のテーブルに案内してくれた。四角いテーブルの四方に椅子が一つずつ。僕が奥の席に、慶野君が僕の向かい、入り口側を背にした席に座った。僕たちはまず、ウエイトレスさんが持って来てくれた冷水を飲みほした。
ランチのためかメニューは単純。何種類かあるパスタを選んで、それにサラダとスープのセット。これで税込み六百円。人気の理由がわかった。僕は慶野君が選んだのと同じパスタを注文した。僕はパスタの種類にも詳しくない。
改めて店内を見回してみた。天井が高い。白い壁の所々に風景画がかけられている。落ち着いた雰囲気だ。人気の理由の二つ目がわかった。
そうこうしているうちに次々と学生とおぼしきお客さんが入ってきて、テーブル席はあっという間にいっぱいになった。入り口あたりでウエイトレスさんがお客さんの応対をしているのが見える。
「申し訳ありませんが、ただいま満席ですので、こちらでお待ちください」
「どうする?」
「午後の授業、間に合うかな?」
そんなやりとりをしているのがわかった。
「な、走った甲斐があっただろ?」
慶野君が言った。悔しいけれどその通りだった。
その時。女性の二人組が入って来るのが見えた。一人はショートカットの背の高い女性。その後ろから入って来たのは……見覚えのある黒い髪、大きな瞳。里木さんだ。里木聖冬さんだ。
僕は思わず立ち上がった。店内を見回していた里木さんも僕に気がついたみたいだ。驚いた顔をして、それから小さく微笑んだ。
慶野君が後ろを振り返った。
「知り合いか?」
「……い、いや」
里木さんとの思いがけない再会に僕は戸惑っていた。
『次は、来週ですね』。里木さんの今朝の言葉を思い出した。
「ここなら座れる。呼んでこい!」
慶野君が言った。
「でも……」
「すみません! そちらの二人、知り合いです! ここで相席お願いします!」
僕が躊躇している間に、慶野君が手を挙げて大きな声を出していた。
ウエイトレスさんはすぐに気がついてくれた。二人を案内してこちら向かって来る。慶野君は立ち上がって僕の隣に席を移した。
僕たちのテーブルの前まで来た里木さんがあの鈴の音のような声で言った。
「……いいんですか?」
「どうぞどうぞ」
慶野君が答えた。
「ありがとうございます」
そう言いながら、里木さんが僕の向かい、連れのもう一人の女の人が慶野君の向かいの席に腰を下ろした。
「倉田、紹介しろよ」
すかさず慶野君が言ってきた。
「あ……こちらは、里木さん……それと……」
連れの人のことは僕も知らない。
「福波彩香です。よろしく!」
その人が自分で名乗った。里木さんと対照的なショートカットの髪が、いかにも活発そうな印象だ。
「里木聖冬です。はじめまして」
里木さんが慶野君にあいさつした。
「オレは慶野圭太。倉田と同じ経済学部の一年」
自己紹介もそこそこに慶野君が続けた。
「しかし倉田に女子の知り合いがいるとはな……しかもこんな美人の。驚きだ!」
慶野君が大げさに手を広げて見せた。
「どういう知り合いだ?」
「……」
隠すつもりはなかったけどどう説明していいか、すぐにはまとめらなかった。僕は里木さんの顔を見た。里木さんは黙って微笑んでいる。
「ま、いいや。で、そちらのお二人は?」
「はい。同じ文学部の一年です!」
連れの女の人、福波さんが答えた。
「それに私たち、高校も同じ女子高で、しかも同じ部活!」
福波さんが続けた。印象通り活発な話し方。
「部活って、何部?」
「合唱部です!」
「へ~エ、合唱部か。オレね、軽音のバンドでギターとボーカルやってるの」
「軽音? すごいですね!」
僕には何がすごいのかよくわからなかったけど。
「オレの名前、慶野圭太でしょ? ケイケイ。で、景正大の経済学部で軽音部。オールケイ」
確かにそれはずごい、ような気もする。考えたことなかったけど。
「キャハハハ!」
福波さんが大きな声で笑った。やっぱり活発な人だ。
僕と里木さんは黙って二人のやり取りを聞いていた。意識してなかったけど、僕はたぶんずっと里木さんを見ていた。里木さんも微笑みながら僕を見ていてくれた、ような気がした。
四人分のランチセットが一緒に運ばれてきた。
「よし、食おうぜ」
慶野君が言った。
「いただきます」
そう言って里木さんは目を閉じて手を合わせた。
僕たちは四人で一緒にフォークを手に取った。
この日三回目、僕はこの店の人気の理由を知った。おいしかった。
「うまい!」
慶野君が言った。
「おいしい」
福波さんが言った。
「これなら毎日でもいいな。明日も来ようかな」
慶野君が続ける。
「私もそう思う!」
福波さんがすぐに反応する。
「じゃ、また一緒に食べません?」
「いいですね!」
二人の間で会話が弾む。
「……わたし、土曜は授業、取ってないよ」
里木さんが福波さんに向かって言った。
「あ、私もだ」
福波さんが笑う。そう、僕もだ。
「そっか。オレは土曜もバンドの練習あるから大学来てるけど……じゃ、来週の月曜は?」
「いいですね!」
「……でもここ、ランチタイムはすぐにいっぱいになっちゃいますよね?」
里木さんが言った。
「大丈夫。オレと倉田で走るから。先に四人分の席、キープしておきます!」
僕も走る? そう思って慶野君の顔を見た。慶野君は僕の方なんか見てなかった。
里木さんの顔を見た。里木さんは微笑みながら僕の顔を見ていた。
里木さんとまたランチできるなら……仕方ない。そう思った。
「じゃ、また来週の月曜。わかったな、倉田!」
慶野君がようやく僕の方を見た。里木さんは、やっぱり、僕の顔を見ながら微笑んでいてくれた。
9月25日、月曜日。朝。曇り空。
この日も僕は青空台のあの場所を目指して歩いていた。前の週、イタリアンレストラン「マゾリーノ」で里木さんに会えたのは予想外だった。そして今日もまた里木さんとランチができることになった。二人で、じゃないけど。
もちろん、うれしくはあった。うれしくないわけない。里木さんと会って話ができる機会が増えたのだから。でもなぜか…… 僕は素直に喜べなかった。なぜだかわからない。この気持ちは……不安感。そう、僕は不安なのだ。でも、何が? 慶野君と福波さんを含めた四人のグループ、仲間ができてしまったから? 今までは友達らしい友達は慶野君しかいなかった。まして女性の友達なんていなかった。友達が増えてしまったから……それが不安? わからない。でもなぜか、不安だった。僕はずっと、そんなことを考えていた。
いた。あの場所に、里木さんはいた。こっちを向いて、小さく右手を振ってくれていた。
「おはようございます」
里木さんが会釈してくれた。
「おはようございます」
僕もあいさつを返した。
「今日はまた、『マゾリーノ』ですね」
里木さんがうれしそうに言った。
「そうですね……でも、いいんですか? 慶野君、強引だから。迷惑だったんじゃ……」
「そんなことないです。マゾリーノのランチ、楽しみです」
「……ほんとですか?」
「はい!」
僕の漠然とした不安を跳ね返すように里木さんが明るく答えた。
「うまいし、値段も手ごろですよね……」
僕は自分自身にも言い聞かせていた。
「ほんと、おいしいですよね! でも、それだけじゃなくて」
里木さんが首をかしげて僕の方を見た。
「わたし、中高と女子校だったんで、男子の友達って、いなかったんです」
「え?」
「ですから、倉田さんや慶野さんと、お友達になれたらいいな、て思って」
少し意外な気がした。
「慶野さん、て、面白いですよね」
「……そうですね」
やっぱり慶野君か……僕の不安の正体が少しわかったような気がした。
大学通りに出た。
「それじゃ、ランチに」
キャンパスに入ると、僕はそう言って右に向かった。
「はい、楽しみにしてます」
里木さんはそう言って、右手を振りながら僕を見送ってくれた。
午前最後の授業、僕と慶野君は教室の一番後ろ、出入り口の一番近くの席に陣取った。そして授業が終わるのと同時に、教室を飛び出して、走った。マゾリーノを目指して。前の週の金曜日と同じように。
マゾリーノには、ランチ目当ての学生の中では一番乗りで到着した。ウエイトレスさんに四人連れだと言って、前回と同じテーブル席に通してもらった。
店内が学生でいっぱいになる頃、里木さんと福波さんもやって来た。慶野君が手を振って合図した。
「こんにちは」
「ありがとうございます」
そう言いながら二人も席についた。
「悪いですね! 席取りさせちゃって!」
福波さんが言ってくれたけど、あまり「悪い」という気持ちは感じられなかった。
間もなく注文したランチが運ばれてきた。パスタ、スープにサラダ。やっぱり、おいしかった。
食べながら僕は、里木さんを見ていた。里木さんも食べながら、顔を上げるたびに僕の方を見てくれた、ような気がした。
一番に食べ終わった慶野君が言った。
「明日はどうする?」
これから毎日走るのか? そう思って僕は慶野君を見た。
「私は食べたい!」
福波さんが反応する。
「毎日席取りさせちゃ、悪いですよ」
里木さんが言ってくれた。
「オレはいいけど。な、倉田」
僕は黙っていた。
「う~ん……さすがに毎日、ていうわけにはいかないかな?」
福波さんは僕の気持ちを察してくれたみたいだ。
「そうだな……それじゃ、週一回、ていうのはどう? 週一のランチ会」
「うん、それいい」
「何曜日にする?」
「やっぱ週末。金曜日がいい!」
慶野君と福波さんの間で話が進む。
「じゃ、そういうことで! 次回は今週の金曜日!」
「聖冬もいいよね」
僕は里木さんを見た。里木さんも僕の方を見ていた。僕は里木さんに向かってうなずいた。
「……うん」
里木さんも同意した。
「それじゃさ、グループライン、作っておかない?」
慶野君が続けて提案した。
「いいね!」
すぐに福波さんが答える。
「急な用事とかもあるかもしれないし。すぐに連絡取れるようにしておいた方がいいよね。お互い」
慶野君が続けた。
「そうだね!」
またしても慶野君と福波さんの間で話が進む。
「いいよね!」
福波さんが里木さんに声をかける。
「うん、いいけど」
里木さんはいつもの笑顔。里木さんがいいなら……僕もいいけど。
「じゃ、さっそく」
慶野君がスマホを取り出した。続いて福波さんと里木さんも。
「じゃ、まずオレと福波さんで」
慶野君が立ち上がって福波さんの横に移動した。二人はお互いのスマホを近づてけて何か操作し始めた。
「よし、できた」
慶野君が言った。
「聖冬、招待したから参加して」
里木さんも自分のスマホを操作しはじめた。
「倉田、お前も」
もたもたしている僕に慶野君が言う。
「……どうするの?」
僕もスマホを取り出したけど、どうしていいのかわからなかった。
「貸してみろ」
慶野君が僕のスマホを取り上げた。
大学に入学して慶野君と知り合ってすぐ、やっぱり慶野君に言われて二人のラインはつなげていた。その時も慶野君にやってもらった。でも実際ラインで連絡し合ったことはほとんどなかった。ほぼ毎日大学で会っていたし。
「できたぞ」
慶野君が僕にスマホを返してきた。
里木さんは相変わらず微笑みながらスマホの画面を見ている。僕はまた、理由のわからない漠然とした不安を感じていた。
里木さんが顔を上げて僕を見た。あの笑顔で。僕の不安は、少しだけ和らいだ。
その日の夜。
僕は布団の上に寝転んでスマホを見ていた。マゾリーノで慶野君に設定してもらったグループライン。タイトルは「マゾリーノランチ会」。そのまんまだ。
画面に次々にメッセージが飛び込んでくる。送っているのは慶野君と福波さん。自己紹介の応酬だ。
『もうじき大学祭でしょ。ホールでやる軽音の合同コンサートに俺たちのバンドも出演するんだ』
『すごいね! 絶対見に行くから!』
『ありがとう! 彩香ちゃんも聖冬ちゃんも元合唱部でしょ? 大学ではやらないの?』
いつの間にか下の名前、それも「ちゃん」付けになってる。
『大学の合唱部って本格的すぎてちょっとついて行けない感じ』
『そうだよね。でも二人とも歌うまいんでしょ?』
『そう思う?』
『もちろん』
僕は里木さんのことが気になっていた。里木さんは少しも入ってこない。僕もだけど。
『そうだ! 今度四人でカラオケ行こうよ!』
え?
僕の生の声。
『いいね!』
『倉田さんもいいかな?』
『倉田、いいよな?』
僕は返事しなかった。
『聖冬ちゃんはどうかな?』
『聖冬もいいよね?』
里木さんのメッセージが入った。
『はい。いいですよ。行きましょう』
僕は……僕だけは、決められずにいた。
9月26日、火曜日。朝。この日も曇り。
青空台の、いつものあの場所。里木さんはいてくれた。いつもの、あの笑顔で。
「おはようございます」
いつものあいさつに続けて里木さんが言った。
「夕べ、ライン、見てました?」
予想していた問いかけだ。
「あ……は、はい」
「よかった! カラオケ、行きましょうね」
里木さんがうれしそうに続ける。
「でも僕、最近の歌とか、あまり知らないし……」
「大丈夫ですよ、きっと倉田さんが得意な歌もありますよ!」
「……」
即答できなかった。
僕の様子を見て里木さんが話題を変えてきた。
「そういえば、学内にクラッシックギターのサークルとか、ありましたか?」
「いや……」
正直、そんなもの探してもいなかった。
「倉田さんが入ったら、わたしもそのサークルに入ります!」
「……どうして?」
「わたしも興味あります、クラッシックギター」
「……ほんとですか?」
信じられなかった。
「それに……」
里木さんが僕の顔を覗き込んでくる。
「わたし、倉田さんのギター、聞いてみたいんです」
「え?」
何で? そう思ったけど、口には出さなかった。
「サークルに入ったら、聞かせてくださいね」
正直に言っておいた方がいいと思った。
「入らないかもしれない……サークルには。たぶん入らないと思います」
「そうですか……」
里木さんの声は少し残念そうに聞こえた。
「じゃ、せめて……ね、カラオケ、行きましょうよ」
話題がカラオケに戻った。僕は黙っていた。黙って歩きながら考えていた。
僕が今感じているこの気持ちは……不安感。抵抗感。
この前からそうだ。マゾリーノのランチ会、グループライン、そしてカラオケ。そのすべてに僕は不安と抵抗を感じている。 なぜだろう? 自分でもわからなかった。今だって、せっかく里木さんが誘ってくれているというのに……
里木さんに自分の歌を聞かれるのが恥ずかしいのか? 確かにそれもある。僕だって歌くらい歌えるけど、けしてうまくはない。それに最近の歌はほとんど知らない。里木さんだけじゃなくて、みんなをシラケさせてしまう、そんな思いもある。でも、それだけじゃない。四人で集うこと、四人が親しくなること、それ自体に対する不安感と抵抗感……
「……わたしの歌も、聞いてほしいな」
里木さんが言った。
ドキッとした。そうか、カラオケに行けば里木さんの歌を聞くことができる。元合唱部。鈴の音のような声。どうしてそのことに思い至らなかったのだろう。
僕は横を歩く里木さんを見た。里木さんは恥ずかしそうにうつむいていた。
里木さんの一言が僕の心に勇気をくれた。里木さんにそこまで言わせて断るわけにはいかない。
「うん……行きましょう」
僕は言った。里木さんが顔を上げて、笑った。うれしそうに笑った。
「里木さんの歌、聞かせてください」
「はい!」
里木さんの笑顔がまぶしかった。
「そのかわり……僕の歌、笑わないでくださいね」
「もちろん!」
里木さんが元気に答えてくれた。それからすぐ、しまった、という顔をした。
「その、笑うのを我慢する、ていう意味じゃないですよ」
僕も笑った。苦笑、ていうのかな? でも笑った。里木さんも笑った。
「ところで……」
僕は前の日から気になっていたことを訊いてみた。
「僕たちが……こうして朝、会っていること、福波さんは知っているんですか?」
会っている、という表現が正しいのかどうかわからなかったけど。僕たちがこうしていっしょに歩いているのは、あくまで偶然、たまたま同じ道を通って大学に行く、それだけのことなのだし。
「え?」
里木さんはちょっと驚いた顔をした。
「……話してません」
そうか、やっぱり。なんとなく、そんな気がしていた。
「倉田さんは、慶野さんに話してますか?」
「いや、僕も話してない」
また少しの間、沈黙してしまった。
「話しておいた方がいいのかな?」
里木さんが言った。
「……あえて話す必要はないと思うけど」
そう。これはあくまで「偶然」なのだから。
「そうですよね……」
またしても微妙な沈黙。
「あの、これからもこの時間、こうして会ってもらえますか?」
里木さんが言った。予想外だった。里木さんの方から、そんなことを言ってもらえるなんて、思ってもいなかった。
「毎週、マゾリーノで四人で会うことになりましたけど……それとは別に……」
里木さんが続けた。
僕は確信した。「偶然」じゃない。里木さんは、意志を持って、僕に会いたいという意志を持って、あの場所で僕のことを待っていてくれたんだ。そして、これからもそうしてくれる、そうしたいと言ってくれている。
「はい、もちろん」
僕は答えた。
「ありがとうございます」
また里木さんが笑った。
お礼を言いたいのは僕の方だった。僕は、こうして毎朝、里木さんに会えることを楽しみにしていた。里木さんに会いたいと思っていた。そしてこれからも会いたいと思っている。
約束。間違いない、これは「約束」だ。僕は、里木さんと毎朝会う「約束」をした。
僕たちは青空台を抜けて大学通りに出ていた。
この、朝の「デート」、時間にすれば、そう、五分くらいだろう。この五分間の「デート」。僕は、この毎日が永久に続けばいいと思った。そしてこの日、里木さんが「約束」してくれたことで、この日々は本当に永久に間続く、その時僕には本当に、そう思えた。
9月29日。金曜日。曇り。
里木さんと、それにと慶野君、福波さんと四人でカラオケに行く約束の日がきた。
この日も僕は里木さんと朝の青空台を歩いた。5分間のデート。
「今日ですね、カラオケ」
里木さんが言った。
「はい」
答えたけど、やっぱり不安な気持ちは消えてなかった。
「僕の歌、笑わないでくださいね。この前も言いましたけど」
「いえ、わたしの歌こそ、下手でも笑わないでくださいね」
「笑うなんて、とんでもないです。里木さんの歌、楽しみにしてます」
「ありがとうございます!」
里木さんの屈託ない笑顔。
「それじゃ……よろしくお願いします」
「はい! こちらこそ!」
少しだけ、不安が消えた、ような気がした。
その日の昼休み。マゾリーノでの三回目のランチ会。
「それじゃ、5時半に正門前で。駅前通りのカラオケ、予約しておくから」
慶野君が言った。
「お願いします!」
福波さんが元気よく答える。
「倉田も忘れるなよ! ま、いやでもオレが引っぱって行くけど」
「ああ、わかってるよ……」
三日前、里木さんに誘われて僕もカラオケに行くことにした。あの後、グループラインにも『行きます』と返事した。元合唱部の里木さんと福波さん、バンドでボーカルをしている慶野君。きっと三人とも上手なんだと思う。もちろん三人に対抗しようなんて思ってない。せめてみんなをシラケさせないように……いっそウケ狙いで……でもどうすればウケるのかもわからないけど……そんなことを考えていた。僕は黙ってただみんなの歌を聞いていようか。そんなことも考えていた。
里木さんを見た。里木さんは、いつものように微笑みながら、僕の方を見ていてくれた。
午後の授業が終わった。僕たちは正門前で落ち合った。
四人で駅に向かうバスに乗った。僕はいつも、大学からの帰り道も青空台を歩いていたけど、この日はみんなにつきあった。
そういえば、里木さんは帰り道はどうしているのだろう。そんなことを思ったけど、口には出さなかった。
僕たちは、駅の一つ手前のバス亭で降りて、駅前通りにあるカラオケ店に入った。
カラオケ店に着くと、さっそく慶野君が最初の曲を入れてマイクを握った。
「じゃ、オレから」
慶野君が立ち上がって歌い始めた。有名なアイドルグループのアップテンポな曲だ。里木さんと福波さんが曲に合わせて手拍子を始めた。
僕も聞いたことのある曲だった。まずはみんなが知っている乗りのいい曲で場を盛り上げようということだろう。慶野君の配慮、ていうか、場離れ感? に関心した。
バンドのボーカルをしているだけあってうまい。
「倉田、これ!」
曲の合間に慶野君が僕にタンバリンを手渡してきた。僕は曲に合わせてリズムを取ろうとしたけど、なかなかうまくできなかった。
そんな僕を、僕の向かいに座った里木さんは手拍子しながら笑顔で見ていてくれた、ような気がした。暗くてよくわからなかったけど。
慶野君の曲が終わった。里木さんと福波さんはパチパチと拍手。僕も合わせて手をたたいた。
「よかった!」
「どういたしまして!」
福波さんと倉田君が声を掛け合っている。
「次、私!」
そう言いながら福波さんがマイクを持って立ち上がった。有名な女性ボーカルのこれもアップテンポな曲だ。福波さんも元合唱部だけあってうまい。
「倉田、次お前」
慶野君が選曲ナビを僕の前に置いた。里木さんがまた僕の方を見ている。
しかたない。僕はナビの画面で曲を探した。僕だってカラオケが初めてのわけじゃない。自分でギターを弾きながら歌を歌うこともある。最近の歌を全然知らないわけでもない。歌ったことはなかったけど。
福波さんの歌が終わった。
「いいぞ!」
慶野君が拍手しながら声を掛けた。
僕の番だ。緊張する。たかがカラオケなのに。
曲が始まった。僕は座ったまま歌い始めた。僕が選んだ曲は、クラッシックギターの定番。有名な映画音楽にも使われた曲。 もともとはスペインの民謡だけど、日本語の歌詞が付いていた。ヨーロッパの、美しい風景を歌った歌詞。
福波さんは手拍子をしようとして、すぐにあきらめた。手拍子をするようなノリの曲じゃない。慶野君は最初から僕の方は見ないで選曲ナビを操作していた。里木さんは……僕を見ていてくれた。じっと、僕を見ていてくれた。
僕の歌が終わった。次は里木さんの番だ。
前奏が始まると里木さんが立ち上がった。静かな、きれいなメロディーの曲。僕に合わせてくれたのかな……そう思った。思い過ごしかもしれないけど。
あの鈴のような声がマイクで増幅されて響いてくる。僕はその声にうっとりと聴き入った。そういえば、里木さんは合唱部ではどのパートだったんだろう? このきれいな高音はやっぱりソプラノかな? 今度、青空台で会った時に訊いてみよう……僕はそんなことを考えていた。
歌い終わると、里木さんはみんなに向かって恥ずかしそうにお辞儀をした。
その後、慶野君と福波さんが二曲目を歌った。僕は「ちょっとまた後で……」と言って二曲目をパスさせてもらった。
里木さんは二曲目に、テンポのいい明るい曲を歌った。やっぱり、上手だった。やっぱり、きれいな声だった。全身でリズムを取る姿が愛らしかった。
慶野君が三曲目を歌った後、里木さんと福波さんがデュエットで歌った。
「さすが! 元合唱部!」
慶野君が大きな声を掛けていたけど、その通りだった。
その後も、慶野君と福波さんは何曲か歌っていたけど、僕と里木さんは手拍子をしながら二人の歌を聴いていた。
やがて、予約の終了時間を知らせるコールが入った。
最後に慶野君がエンディングにふさわしい曲を歌って、ソフトドリンクで乾杯して、お開きになった。
僕たちは駅まで歩いた。
「楽しかったね!」
「またやろうぜ!」
慶野君と福波さんが楽しそうに話しながら前を歩いている。僕は里木さんと並んで歩いた。朝の青空台と同じように。僕は何もしゃべらなかった。里木さんは、いつもの笑顔で。
駅の入り口の階段を登り、改札の前まで来た。
「ありがとうございました」
「それじゃまた!」
別れのあいさつ。
「家は、どっちの方?」と、慶野君。
「私、こっち」
福波さんは下り方向の電車で帰るという。
「オレはこっち。聖冬ちゃんは?」
「わたしも、こっちです」
慶野君と里木さんは、同じ上り方向の電車で。
僕は……僕はこのまま、反対側の南口からアパートへ帰る。一人で。
僕たちは改札の前で手を振って別れた。
福波さんが下り電車のホームへ続く階段を降りて行くのが見えた。
慶野君と里木さんは、上り電車のホームへ続く階段へ。
二人が寄り添うように並んで、何か話しながら階段を降りて行く。僕は改札の外側から、ただ黙って、二人を見送った。
僕たちがカラオケに行った9月29日の翌々日、10月1日の日曜日、関東地方に台風が直撃し、東京も激しい風雨に見舞われた。
10月2日、月曜日。台風一過の朝は、雲一つない快晴となった。台風は残暑を吹き飛ばし、いっきに秋が来た。
いつもの青空台。
「台風、すごかったですね。大丈夫でした?」
いつもの場所で待っていてくれた里木さんが心配そうに言ってくれた。
「はい……里木さんは?」
「大丈夫です。ずっと家にいましたから」
僕もずっとアパートにいた。部屋に寝転んで、里木さんの前でカラオケを歌ったことを思い出していた。恥ずかしくて、後悔もしていた。歌わなければよかった。
「いっきに秋になっちゃいましたね。今朝は少し寒いくらい」
快晴の空を見上げながら里木さんが言った。
「そうですね……」
僕はまだ夏服のままで、そうやって歩いていても実はちょっと寒かった。
「カラオケ、楽しかったですね」
「はい……」
そのことには触れてほしくないと思っていた。でも、里木さんの歌は良かった。歌声がよかった。すごく良かった。そのことは伝えておこうと思った。
「里木さん、歌、やっぱり上手ですね。声が、とっても良かった……」
「そんなことないですよ。声量なくて」
里木さんが恥ずかしそうに笑う。
「高校の合唱部の時は、やっぱりソプラノですか?」
カラオケで里木さんの声を聞きながら思ったことを訊いてみた。
「いいえ、メゾソプラノ。高音はやっぱり苦しくて」
「……そうですか」
どの程度違うのか僕にはわからなかったけど。
「倉田さんの歌もよかったですよ」
「そうですか……」
気を遣ってくれている、そう思った。
「あの……前にクラッシックギターのサークルの話、したじゃないですか」
里木さんが言った。
そうだ。大学内にサークルを探して入ったらどうか。里木さんはそう言っていた。
「倉田さん、サークルには入らない、て言ってましたけど……」
そう。僕にはそんな気はなかった。
「でしたら、二人でサークル、始めちゃいませんか?」
「え?」
里木さんが何を言っているのか、僕にはわからなかった。
「二人きりでもいいじゃないですか! 倉田さんが会長で、わたしが会員第一号」
二人で……サークル……心の中で反復した。僕はゆっくりと、里木さんの言っていることを理解した。
「教えてください、ギター」
「い、いや、そんな……」
何て答えればいいのかわからなかった。僕が里木さんにギターを教える? それも二人で? そんなこと、想像もできなかった。自分の顔が赤くなるのがわかった。
「だめ、だめですよ! そんなこと」
僕の口は僕の意志とは関係なく勝手にそう言っていた。
「やっぱりだめですか……わたしとじゃ……」
里木さんががっかりした表情をした。
わたしとじゃ? いや、そういうことじゃなくて。
そう思ったけど、言えなかった。
僕が返事をしないでいると、里木さんはうつむいてしまった。なんとなく気まずい雰囲気になった。
「ちょっと寒いから、僕、大学まで走って行きます」
そう言って、僕は走り出していた。いたたまれなくなって。
里木さんはまた手を振ってくれているだろうか。一瞬そう思ったけど、僕は振り向かなかった。
午前の授業中、授業の内容はまったく頭に入ってこなかった。
僕は朝の里木さんの言葉を思い出していた。二人でサークル……二人きりで……
僕が里木さんにギターを教えている場面を想像してみた。
まずはコード。どうやって教えればいいんだろう? 手本を見せて、それから里木さんにマネしてもらって……
里木さんの白くて長い指を思い出した。きっときれいにギターを押さえるんだろうな……
でも、僕はギターを一本しか持っていない……交代で、交互に弾くか……
場所はどこで? 僕のアパート? まさか! 青空台の手前の公園? これからの季節じゃ寒いかな……大学内の教室を借りられるだろうか? でも、二人でいるところを誰かに見られたら……
授業中、僕はずっとそんなことを考えていた。
昼休み。授業が終わるといつものように慶野君が声を掛けてきた。
「学食行こうぜ」
「マゾリーノランチ会」といオプションが加わったものの、それ以外の日は、それまでと同じように僕は学食で昼食を食べていた。一人きりか、慶野君と二人で。
僕は慶野君と二人で学食へ向かった。
「カラオケ、楽しかったな」
慶野君がラーメンをすすりながら言った。
「しかしお前の歌、暗いぞ」
「いいだろ、好きなんだから」
「まあいいけど……実はな、お前に言っておきたいことがある」
慶野君が箸を持ったまま話し出した。
何だろう。少しだけ胸騒ぎがした。
「先週のカラオケの後、オレたち電車で帰っただろ?」
「……ああ」
僕は、アパートまで一人で歩いて帰ったけど。
「たまたまだけどな、オレ、聖冬ちゃんの家と同じ方向の電車だったんだ」
そう。そうだった。僕はホームへ向かう階段を降りる二人を見送ったんだ。
「オレ、聖冬ちゃんのこと家まで送って行ったんだ。もう夜だったし、危ないと思って」
「……うん」
胸騒ぎが大きくなった。
「実はオレ、聖冬ちゃん、初めて見た時からタイプだったんだ」
呼吸が止まった。
「で、別れ際に言ったんだ。『オレとつきあわないか?』って」
つきあう? それは、つまり…… それって、まさか……
「……で、何て……」
かろうじて声が出た。
「聖冬ちゃん、ビックリしてた。きっとそういう経験とかあまりないんだろうな。女子校だったって言ってたし」
一呼吸おいて、慶野君が続けた。
「困った顔してたから、『本気で好きだ』て言ってやったんだ。遊びだと思われないように」
まさか……慶野君が、里木さんのこと……
「いや、もちろん遊びじゃないよ、本当に。で、本気度最高で訴えたわけだ。そしたら、『少し考えさせて』って」
今朝の里木さん、そんなこと一言も言ってなかった……
「でも、まんざらでもない感じだったな。オレの印象としては」
「そ……そうなのか?」
信じられなかった。
「というわけで、返事待ちの状態だけどな。お前には言っておこうと思って。これからのランチ会のこともあるし」
「そ……そうか」
そう答えるのが精一杯だった。気持ちの整理がつかなかった。ていうより、混乱していた。
僕は右手に持ったままだった箸を置いた。
「何だ、もうごちそう様か? まだだいぶ残ってるぞ」
「いや、急にお腹が痛くなって……」
言い訳した。
「……顔色悪くなってるぞ。大丈夫か?」
「……いや、大丈夫」
僕は顔を上げてテーブルの向かいに座る慶野君を見た。慶野君は、本当に心配そうに、僕の顔を覗き込んでいてくれた。
慶野君は……友達だ。慶野君は……いいやつだ。ほんとうにいいやつだ……
僕は心の中でつぶやいていた。
10月3日、火曜日、朝。いつもの青空台。
前の日、僕は一睡もできなかった。一晩かけて、ようやく整理ができた。僕なりに。
里木さんはいてくれた。いつもの場所に。
僕たちはいつものように並んで歩いた。しばらくの間、僕は何も話さなかった。僕の雰囲気を感じたのか、里木さんも黙って歩いていた。
意を決して、僕は話し始めた。
「……先週のカラオケの後の話、慶野君から聞きました」
「え?」
里木さんは少し驚いた顔をした。
「……そうですか」
それから、うつむいてしまった。
「でも……」
里木さんは続けて何か言おうとしたけど、途中で口ごもってしまった。
僕は歩きながら、里木さんの方は見ないで、話した。
「あの……こうやって、二人で会うの、もう、やめませんか……」
「え?」
里木さんが顔を上げた。
「……慶野君に悪いじゃないですか」
「どうしてですか?」
「だって、慶野君は里木さんのこと、好きだから……こうして僕と里木さんが二人で会ってること知ったら、面白くないと思います」
里木さんはまたうつむいてしまった。
「でも……わたし、まだ、慶野さんと付き合ってるわけじゃありませんよ」
「だって、慶野君と、付き合うでしょう? 付き合わない理由、ないでしょ?」
「……どうして?」
「だって……慶野君はかっこいいし、楽しいし。いいやつですよ」
「倉田さんは、どうなんですか?」
「え?」
予想外の言葉だった。
「どう、て……」
「倉田さんは、わたしのこと、どう思ってるんですか」
僕? 僕なんかより……
「僕なんかより……慶野君がいいですよ。慶野君の方が、里木さんにお似合いだと思います」
そう。それが僕の結論。僕が一晩考えた結論だ。
「そうですか……」
それっきり里木さんは何もしゃべらなかった。
僕たちは、大学の正門まで黙って歩いた。正門からキャンパスに入ると、僕は、そのままなのも言わずに右に向かった。僕はもう、里木さんを、振り返らなかった。
10月6日、金曜日。マゾリーノのランチ会。
僕はランチ会に出ようかどうか迷っていた。正直、行きたくない、そう思っていた。
慶野君が里木さんに告白したという話を聞いた後、慶野君とはそのことについて話はしていなかった。慶野君も何も言わなかったし。
慶野君は、僕と里木さんが朝、青空台で会っていたことを知らない。もちろんそこで何を話していたかも。だから、いきなり僕がランチ会に行かない、て言ったら不自然に思うだろう。
仮病にしようか……そんなことも思った。でも、里木さんのことも気になっていた。僕はその日も、その前の日も、朝、青空台を通らなかった。駅前通りから大学通りを歩いて大学へ行っていた。当然、里木さんに会うことはなかった。
『僕なんかより……慶野君がいいですよ。慶野君の方が、お似合いだと思います』
自分が言った言葉を思い返していた。そう、その通りだ。それが僕の出した結論だ。でも、僕は……
考えが決まらないうちに午前の授業が終わっていた。
「行くぞ!」
慶野君が声を掛けてきた。僕は、慶野君といっしょに走り出していた。ほとんど反射的に。マゾリーノに向かって。
僕は、ひょっとしたら里木さんは来ないんじゃないかと思っていた。でも違った。それまでと同じように、里木さんは福波さんといっしょにマゾリーノに来た。
この日も、里木さんと福波さんはいつもと同じ席に座った。里木さんは四角いテーブルの、僕の向かい、慶野君の隣に。でも、里木さんと慶野君がいつもより少し近い、ような気がした。
いきなり慶野君が立ち上がった。
「え~、二人に言っておきたいことがあります!」
慶野君が切り出した。
「て言っても、福波さんはもう知ってるのかな?」
「うん、聖冬から聞いてる」
僕の隣にいる福波さんが答えた。
「じゃ、倉田に、てこと? ま、いいか。このランチ会のメンバーに改めて公式発表します!」
僕の心臓の音が大きくなった。
「オレ、慶野圭太と、こちらの里木聖冬さんは、お付き合いすることに、つまり恋人として交際することになりました!」
福波さんがパチパチと拍手した。僕は黙っていた。里木さんは……ただうつむいていた。僕の方は見ていなかった。
「あ~あ、正直悔しいけど、聖冬じゃしょうがないわね!」
福波さんが言った。
里木さんが顔を上げて、恥ずかしそうに笑った。
僕の頭は、早まる心臓の音と反比例するようにゆっくりと、ゆっくりと状況を理解した。
里木さんが、慶野君に返事をしたということだ。「yes」という返事を。
「でも、このランチ会、このまま続けてていいのかな? 私たち、おじゃまじゃない?」
福波さんが言った。「私たち」ていうのは、福波さんと僕、ていうことだ。
「いや、それはそれ。せっかく四人で始めたんだから、ランチ会はこのまま続けたいんだけどな。オレは」
慶野君が言った。
「でも、気を使うわよ。お二人に」
「気なんか使わなくていいから。そんな柄じゃないだろ、な、倉田」
慶野君が僕に振ってきた。
「あ……ああ」
僕はあいまいに答えた。
「聖冬もいいの?」
福波さんが里木さんに向かって言った。
「うん」
里木さんがうなずいた。
里木さんは、うれしそうに、幸せそうに、微笑んでいた、ように見えた。
里木さんがいいなら……僕も。
あんなにおいしかったマゾリーノのパスタだったけど、その日の僕にはその味がわからなかった。
これでいい……これでいいんだ。二人は、慶野君と里木さんは、お似合いだ。これが、僕の出した結論だ。これが、僕の望んでいたことだ……
パスタを噛みながら、僕はずっと自分に言い聞かせていた。
10月13日、金曜日。慶野君が里木さんとの交際を宣言してから一週間が過ぎた。
あれからも僕は、普通に毎日を過ごしていた。大学へは駅前通りから大学通りを歩いて通っていた。授業の合間には慶野君と雑談もした。ごく普通に。
授業が終わるとまっすぐにアパートへ帰って、ギターを弾いたり本を読んだりして、寝た。それまでの生活と大きな変化はなかった。
ただ、なんとなく、寂しかった。虚しかった。
いつの間にか僕は、金曜日を、マゾリーノのランチ会を、心待ちにしていた。里木さんに会いたかった。里木さんの顔を、見たかった。
里木さんは……慶野君と交際している。慶野君の「彼女」だ。それでも僕は……里木さんに会いたかった。
そしてこの日は、そのマゾリーノのランチ会の日だ。
この日も慶野君と里木さんは隣り合わせに座った。里木さんは、僕の向かいに。二人は、福波さんを入れると三人は、食べながら楽しそうに談笑していた。
僕は、ほっとしていた。安心していた。里木さんが楽しそうだったから。
そう……これでいい。これでいいんだ。里木さんは……幸せだ。
この日も僕は、味のしないパスタを、嚙みしめた。
その日、大学からの帰り道。僕は大学通りを一人で歩いていた。
正門から大学通りを百メートルほど駅に向かって歩いたところに「いつき庵」というお店があった。黒塗りの板塀に店の名前を木彫りにした看板がかかっていて、その脇にやっぱり黒塗りの板でできた引き戸の入り口があった。
小さいけれどいかにも高級そうな雰囲気のお店だ。店構えと店の名前からして、おそらく和食、それも高級な料理とお酒のお店、いわゆる「料亭」なのだろうと思った。もちろん学生が一人で入るような店じゃない。ただ何となく気になって、僕はその店の前で立ち止まっていた。
その時、「カラカラカラ」という音を立てて、引き戸が開いた。中からが着物を着た女の人が出てきた。年齢は……僕の母親と同じくらい、五十歳くらいだろうか。女性の年はよくわからないけど。
女の人は引き戸の上に暖簾を掛けて、それからまたお店の中に入って行こうとした。
「すみません!」
僕は後ろから声を掛けていた。
その人が振り返った。
「あの……ここで働かせてもらえませんか!」
どうしてそんな言葉が出てきたのか自分でもわからなかった。そんなこと考えていたわけでもなかった。ただ反射的に、僕はそう言っていた。
「まあ!」
女の人が驚いた顔をした。当然だろう。いきなりだったから。
「……取りあえず、中に入って」
その人が言ってくれた。僕はその人について引き戸からお店の中に入った。
入り口から奥に向かって真っ直ぐに石畳みが敷かれていた。室内なのに和風の庭園みたいだ。石畳みの両側は小上がりになっていて、その上が畳敷きの和室の客室になっていた。
「そこに座って」
その人が小上がりを示した。きれいな所作だ。
僕は言われた通りに小上がりに腰を下ろした。その人も僕の隣に腰を下ろした。
「景正大の学生さん?」
その人が訊いてきた。いきなり面接が始まったということだろうか。
「はい、そうです」
僕は答えた。
「どうしてうちで働こうと思ったの?」
どうして、て言われても……
「帰り道で通りかかって……働けたらいいな、て思って」
正直に答えた。
「まあ、偶然?」
女の人がまた驚いた顔をした。
「実はね、アルバイトの女の子が急にやめてしまって、次の人を募集しようと思ってたところだったの」
「え?」
今度は僕の方が驚いた。
「女の子、て思ってたけど、ま、男の子でもいいかな。せっかくだし。感じも良さそうだし」
「……お願いします!」
僕は頭を下げた。
「定休日の水曜日以外、できれば毎日、大学の授業が終わってから来てもらって、十時の閉店まで。料理やお酒の持ち運びと配膳、それに後片付けだけど、いい?」
「はい、お願いします!」
もう一度頭を下げた。
「それじゃ、さっそく、明日からでもいいかしら?」
「はい!」
僕は答えていた。
こうして、僕の「いつき庵」でのアルバイトが始まった。
僕を採用してくれた和服の女の人は、藤川さんといった。いつき庵は、藤川さんとそのご主人の二人で経営している。
僕は、藤川さんからご主人のことは「大将」と呼ぶように言われた。その呼び方がしっくりくる雰囲気の人だった。有名な和食のお店で板前の修業をして、それから独立してここにお店を構えたのだという。料理はすべて大将が一人で作っている。
「調理には手を出すな。ここで料理を覚えたいと思っているならお門違いだ。料理を教えるつもりはない」
大将からそう言われた。料理を覚えたいなんて思ってなかったけど。
ご主人が「大将」なら、藤川さんのことは「女将さん」て呼んだ方がいいかな、て思った。でも、藤川さんからは「恥ずかしいからやめて」て言われた。だから藤川さんは、「藤川さん」。
僕は青い作務衣を貸してもらった。作務衣を着ると気が引き締まった、ような気がした。
言われた通り、最初のうちは後片づけと食器洗いばかりしていたけれど、少しする藤川さんが配膳の仕方を教えてくれた。
「背筋を伸ばして、なるべくお皿から顔を離すこと。料理に自分の息がかからないようにね」
藤川さんは配膳だけでなく、姿勢、歩き方、襖の開け閉めから座り方、立ち方まで教えてくれた。少しずつだけど自分の立ち振る舞いが変わって行くのを、僕はうれしく感じていた。そうやって立ち振る舞いがきちんとしてくると、なんとなく自分に自信が持てるようになった、ような気がした。
閉店後には、夕食、ていうか、夜食をご馳走になった。「まかない」ていうやつだ。
おにぎりとみそ汁。おにぎりの中には焼き魚や小さな天ぷらが入っていた。料理の残りの材料を使っているのだろうけど、とってもおいしかった。それにみそ汁。これはもう絶品だった。
いつき庵の営業は夜だけで、昼間はやっていなかった。僕はマゾリーノのランチを思い出して、大将に言ってみた。
「昼も定食みたいなのやったらどうですか? 大学の目の前だし、絶対、流行りますよ」
「うちには五百円やそこらで作れる料理はない」
大将は不機嫌そうに答えた。
まかないのおにぎりとみそ汁だけでも十分なのに。そう思ったけど、口には出さなかった。
こうしていつき庵のおかげで、僕の虚しさ、寂しさは、紛らわされていった。
東京の秋は短い、ような気がする。9月にはまだ30度を超える日が何日もあって、東京の夏はいつまで続くのだろう思っていた。10月になってようやく涼しくなったと思ったら、11月にはもう、コートかジャンバーが欲しいくらいに寒くなった。
大学のキャンパス内にある銀杏の葉も黄色くなり始めていた。
人は寒いだけで、切なくなる。悲しくなる。なぜだろう?
僕は、いつき庵と、そして里木さんの笑顔のお陰でその悲しさ、切なさを感じないで過ごすことができていた、ような気がした。
マゾリーノのランチ会で、慶野君、福波さんと談笑している里木さんは、楽しそうで幸せそうだった。
そう、それでいい。僕はそう思っていた。僕は週一回、里木さんの笑顔を見ることができればそれでいい。そう思っていた。