9月20日、水曜日。大学の夏休み明けの授業二日目。朝。この日も晴天。
 僕は前の日と同じ道を通って大学に向かった。駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って……着いた。青空台。
 夏休み前、青空台ではなるべく違った道順を歩くようにしていた。少しずつ違う景色を楽しみたかったから。でもこの日は違った。前の日と同じ道順を歩いた。あの人、サトキミフユさんに、また会えるかもしれないと思ったから。
 黒くて長い髪。鈴のような声。ラピス……ラズリのような瞳。甘い香り。白くて細い指。
 前の日と同じように、三つ目の角を右に曲がった。
 いた。同じ街路樹の木陰に。あの人、サトキミフユさんが立っていた。こっちを、僕の方を向いて。
 僕の姿を見つけると、姿勢を正してお辞儀をしてくれた。頭を下げる前に、ちょっとだけ微笑んだ、ような気がした。それから小さく右手を振った。前の日、別れ際にしてくれたのと同じように。
 僕は平静を装って、わざとゆっくり歩いている、つもりだった。でもいつの間にか小走りになっていた。そしてあっという間に、その場所に到着していた。
「昨日は、ありがとうございました」
 僕が止まるのと同時に里木さんがお礼を言ってくれた。お礼を言われたのは、前の日から数えて何回目だろう。
「ど、どういたしまして……」
 僕が答えると、里木さんは目の前に紙袋を差し出してきた。
「これ、お礼にと思って。クッキーです」
「え?」
 どうしていいのかわからなかった。記憶にある限りでは、僕は母親以外の女性から物をもらったことがない。だから、それを  そのまますぐに受け取っていいものかどうかわからなかった。
「甘い物は嫌いですか? わたしが家で焼いたものですけど……」
「え?」
 今度は「わたしが家で焼いた」という言葉に驚いた。
 笑顔はちょっと困ったような顔に変わっていた。前の日、初めて見た時と同じ顔。
 まずはその紙袋を受け取ることにした。甘い物は嫌いじゃない。
「……ありがとうございます」
 初めて僕の方からお礼を言った、ような気がする。
「よかった」
 僕が紙袋を受け取ると笑顔に戻った。
「経済学部の、クラタさん……でしたよね。これから授業ですよね? 大学までご一緒してもいいですか?」
「あ……はい」
 何も考えられないまま僕は答えていた。そのまま僕たちは二人並んで大学の方に向かって歩き始めた。
「あの、サトキ……ミフユさん、でしたね」
「はい」
「漢字で書くと、どういう字ですか?」 
 歩きながら、前の日から思っていたことを訊いてみた。
「サトキは、人里の『里』に、樹木の『木』、ミフユは、聖書の『聖』に、季節の『冬』、て書きます」
 その人、里木さんが答えてくれた。
「聖なる……冬、ですか」
「聖なる、ていうか、キヨい、くらいかな? でも『聖』ていう字、『ミ』て読みませんよね」
 里木さんはニコニコと微笑みながら話してくれた。
「あ……そうですね……。でも『聖』ていう字、「美しい」の『美』とか、敬語に使う『御』ていう字とニュアンスが似てるから、『ミ』でいいんじゃないですか?」
「当て字ですよね」
 そう言う里木さんが、なんだかとってもうれしそうに見えた。
 聖冬。僕はそのイメージがピッタリだと思った。清楚で、上品で、美しくて。
 僕は思い付くままに訊いてみた。
「里木さんの誕生日って、ひょっとして12月のクリスマスの頃ですか?」
「はい、大当たりです。12月24日、クリスマスイヴ、その日です。でも、わたしの名前聞いた人で、誕生日はずした人、今までに一人もいないです」
 里木さんがまたうれしそうに笑った。
「でも、いいことないですよ。わたし、クリスマスイヴと誕生日が一緒でしょ。毎年12月24日には両親がプレゼントくれるんですけど、いつも一緒にされちゃうんです。他の人は年に二回プレゼントもらえるのに。わたしは一回。なんか、損してる気分」
 そう言っている表情からは「損してる」という不満は微塵も感じられない。たとえ一回でも、両親からプレゼントがもらえることがうれしくてたまらない、そんな気持ちが伝わってくる。
「去年は……おばあちゃん……いえ、祖母も、プレゼントをくれて……」
 里木さんは遠くを見るような目をした。
「そういえば、おばあさんの形見、て言ってましたよね……その、ラズ、ラピ……」
「あ、あのラピスラズリは、わたしの一歳の誕生日に祖母が買ってくれた物です。わたしの誕生石なんです」
 誕生石……そんなものもあるのかと思った。
「わたし、生まれた時から身体が弱くて……祖母が、お守りに、って。石言葉は『幸運』と『愛』。わたしのこと、守ってくれるから、て」
 石言葉……そんなものもあるのかと思った。
「でも、おばあちゃん……死んでしまって……」
 里木さんが少し寂しそうな顔をした。
「あの……ブレスレットは直りましたか?」
 話題を変えた方がいいかなと思って言ってみた。
「あ……家に帰ってから、直してみようとしたんですけど、うまくいかなくて……それで、これ」
 里木さんが肩に掛けていたショルダーバッグを僕の方に向けた。バッグの取っ手に小さな水色の袋が下げられていた。
「前に作ったポーチがあったからちょうどいいやと思って。一粒だけ、この中に入れて、お守りにして持ち歩くことにしたんです。残りは家に置いておくことにしました」
 ポーチを手に取って僕に見せてくれた。これも自分で作った……器用な人なんだと思った。感心した。女子なら当たり前なんだろうか?
「粒は全部で十九個あったはずなんですけど、一つだけ足りなくて……さっきも探してみたんですけど、やっぱり見つからなくて」
 昨日のことを思い出した。もっとよく探せばよかった。
「それで、十七個の粒には、十七年間わたしを守ってくれてありがとう、てお礼して。これが十八個目、今、十八歳のわたしを守ってくれてる、そう思うことにしたんです」
「なるほど」
「ところで、クラタさんは、どういう字を書くんですか?」
 今度は里木さんが訊いてきた。
「倉庫の『倉』に田んぼの『田』です」
「ええ……と、下のお名前は……」
「チハルです。春を知る。季節の『春』を『知る』、て書きます」
「いい名前ですね」
「そうですか?」
「誕生日は、三月か四月ですか?」
「三月です。僕の誕生日もわかりやすいですよね」
「はい」
 里木さんが笑った。
「三月の、何日ですか?」
「三月五日、『啓蟄』の日です」
「ケイチツ?」
「はい。春分の日とか秋分の日とかと同じ季節の分かれ目の日で、土の中から虫がはい出てくる日です」
「ふ~ん」
 里木さんが感心したような、ちょっと複雑な顔をした。僕が僕の名前と誕生日の説明をすると、たいがいの人はそういう反応をする。
「虫が土の中からはい出てくるって……想像すると気持ち悪いですよね」
 いつも思っていることを言ってみた。
「そんなことないです」
 里木さんが打ち消してくれた。でも、ちょっと微妙な感じだった。
「わたしたち、似てますよね」
 取り繕うような感じで里木さんが言った。
似ている? 名前が誕生日に由来していることを言っているのだろうか? そう思ったけど口には出さなかった。僕は虫の話をしたことを後悔していた。
「では、わたしの方が少しだけお姉さん、ていうことで、いいですか?」
 そう。その通りだ。なぜか僕は、励まされたような気持になった。
 大学通りに出た。すぐ横に信号のある横断歩道があってその正面は大学の正門だ。すぐに信号が青になった。僕たちは並んで横断歩道を渡ってキャンパスに入った。
 僕の行き先、経済学部の教室棟は正門から右側、里木さんが行く文学部の教室棟は左側にあった。
「それじゃ」
 僕はがそう言うと里木さんはまた姿勢を正してお辞儀をした。僕はそのまま右を向いて歩き始めた。ちょっとだけ振り返ると、里木さんがまた、小さく右手を振ってくれていた。

 9月21日、木曜日。大学の夏休み明けの授業三日目。朝。この日も晴天。
 青空台。この日も僕は前の日と同じ道を通って大学に向かった。
 前の日、里木さんはその前の日に会った場所にいてくれた。僕を待っていてくれた。もちろんそれは、ラピスラズリを拾ってあげたお礼のためだ。僕は里木さんの手作りのクッキーをもらった。それで終わりだ。もう里木さんが僕を待つ理由はない。
でも……僕は思っていた。ひょっとしたら、ひょっとしたらまた……里木さんに会えるかもしれない、いや、里木さんに会いたい。そう思っていた。
 前の日のことを思い返した。大学まで里木さんと歩きながら話した。時間にすれば、五分くらいだっただろうか。青空台の真ん中あたりから正門までだから、きっとそれくらいだろう。
 女の人と話すのは久しぶりだった。ていうか、大学に入ってから初めてだった、かもしれない。もちろん僕だって、中学、高校時代にはガールフレンド、ていうか、女友達、クラスメイト? くらい、いた。普通に話もしていた。大学にも女子学生はいる。でも、大学の女子は、高校のクラスメイトに比べるとずっとお洒落で大人? に、見えた。同じクラスにいても、自分とは別世界の人たちに思えた。だから、正直話しかけられなかった。向こうから僕に話かけてくることもなかったし。
 でも里木さんは違った。楽しかった。たいした話はしなかったけど。もっと話したかった。だから……また里木さんに会いたい。そう思った。
 街路樹が並ぶ歩道。僕は三つ目の角を右に曲がった。
 いた。前の日と、その前の日と同じ街路樹の木陰に、里木さんが立っていた。こっちを、僕の方を向いて。
 僕の姿を見つけると、里木さんは微笑んで小さく右手を振った。僕は小走りに走り出した、けど、いつの間にか、全速力に近いスピードで里木さんに向かって走っていた。
「おはようございます」
 僕が里木さんの前に到着すると、里木さんがお辞儀をしてくれた。
「……おはようございます」
 僕も息を切らせながらあいさつを返した。
「いつもこの道で通っているんですか?」
 里木さんが訊いてきた。
「……はい」
「ここ、いいですよね。きれいな街並みで」
「はい」
 はい、としか答えられない。言葉が浮かんでこない。
「前からですか? わたしも夏休み前からここを歩いているんですけど、今までお会いしませんでしたね?」
「はい……そうですね」
 道順は何通りもある。だからなかなか会うことはない。2の何乗通りだったか? どうでもいいことが頭に浮かぶ。
 僕たちはいつの間にか並んで歩き始めていた。
 僕は里木さんの横顔を見た。
 改めて思った。「聖冬」さん、ていう名前がよく似合う。きれいで、清楚で、どこか凛とした雰囲気があって、でも暖かい。 まさにクリスマスだ。
 名は体を現す。そんなことわざが浮かんだ。自分で意識しているのかどうかわからないけど、里木さんは名前の通りの人だ。
「聖冬さん、て、いい名前ですね」
 自然に言葉が出た。
「そうですか? 寒い冬ですよ」
 そう言いながら里木さんはうれしそうに笑う。
「『知春さん』の方がいいな。温かい春の訪れ」
「いや、土の中の虫にとっての春ですから」
 前日のやりとりを思い出して、また言ってしまったことを後悔した。
「でも、その虫って、きれいな蝶々になるかもしれないじゃないですか。きっとそうですよ」
 里木さんが言った。ひょっとしたら、前の日からずっと考えていてくれたのかもしれない、そう思った。
「蝶々の幼虫は土の中にはいないと思いますけど……」
 言ってしまってからまた後悔した。
「え、そうなんですね」
 そう言って里木さんがまた笑った。温かい笑い声。
「でも……僕、早生まれじゃないですか。早生まれって、あまりいいことないんですよ」
「そうなんですか?」
「プロ野球選手も、サッカー選手も、四月、五月生まれの人が多くて、二月、三月生まれの人が少ないんです」
「……どうしてですか?」
「将来プロになって行くような人たちって、小学校の低学年くらいから地元のクラブとかでそのスポーツを始めるじゃないですか。でも、四月生まれと次の年の三月生まれって、ほぼ丸一年違いますよね。その頃の一年の体力差って大きいですから、早生まれの人はなかなかレギュラーになれないんです。で、結局、辞めちゃうんですよね」
「ふ~ん、なるほど」
 里木さんが関心したようにうなずいてくれた。
「倉田さん、て、物知りですね。博学、ていうか」
 里木さんの方から話してくれた。
「博学?」
「啓蟄のこととか、プロスポーツ選手のこととか」
「……そんなことないですよ」
 そう、どっちも自分の誕生日にまつわることだ。けして色んな知識があるわけじゃない。
「そうですか?」
「そう、例えば、植物の名前とか、よく知りません。そこに生えている樹とか……」
 僕はすぐそばの街路樹を指さした。
「あれは、ハクモクレン」
 里木さんが即答してくれた。
 ハクモクレン……聞いたことはある。
「ここの樹はみんな、その、ハクモクレンなんですか?」
「はい。そうです」
 ということは、僕が里木さんと初めて会ったのは、「ハクモクレンの木の下」……そんなことを思った。
「ハクモクレンは白い花を咲かせますから、この街の色と調和してますよね。そもそも調和させるためにハクモクレンなのかな?」
 僕がここを歩き始めた頃には確かに白い花が咲いていた、ような気がする。
「でも、花壇の花は色とりどり。それがまたよく映えて、いいですよね」
 里木さんが道路の向こう側にある花壇を指さした。花壇にはピンクの花が咲いていた。
「あの花は何ですか?」
「あれはコスモス」
「へ~エ」
 感心した。4月から7月まで三カ月も歩いていたのに、僕はここにある木や花の名前も知らなかった。
「あれはマリーゴールド」
 里木さんがまた別の花壇を指さした。花壇には黄色い花が咲いていた。
 僕は、ガイドさんについて行く修学旅行生のように里木さんの指さす方をきょろきょろと見回しながら歩いた。
「わたし、青い花が好きなんです」
 里木さんが言った。
「青い花……」
「そう……梅雨の時期には紫陽花が咲いていたんですけど……秋だから、リンドウとか、モラエラとかかな。どこかにないかな」
「モラエラ、ですか?」
 どんな花なのか、僕には想像もできなかった。
 そんなことを話しているうちに僕たちは、大学通りに出ていた。正直、里木さんともっと一緒にいたい、そう思った。
「もう着いちゃいましたね」
 正門前の横断歩道で信号を待ちながら里木さんが言った。里木さんも僕と同じ気持ちでいてくれているのだろうか、そう思った。
 信号が青になった。僕たちは並んで横断歩道を渡ってキャンパスに入った。
「それじゃ」
そう言って僕は右の方へ歩き出そうとした。名残惜しかったけど、仕方ない。
「はい。それじゃ、また明日」
 里木さんが言った。
 え? 明日? 僕は立ち止まって振り返った。それは、明日また会いましょう、ていうこと? 明日もまた僕と会ってくれる、て、そういうこと? 
 いや、違う。僕はすぐに思い直した。僕と里木さんは、たまたま同じ道を歩いて大学へ来ていた。だからこうして少しの間いっしょに歩くことができた。でもそれはたんなる偶然だ。明日もお互い大学へ来る。そしてもしまた偶然、同じ道で会えたら……きっとその程度のあいさつだ。高校のクラスメイトの下校の時のあいさつと同じだ。そう思い直した。
 でも、それでも。
 うれしかった。なんだかとても、うれしかった。
「はい、また明日」
 僕も里木さんにそう答えた。里木さんは、前の日と同じように、微笑みながら小さく右手を振ってくれていた。