2 あの日

 僕の通う景正大学は東京の郊外にある大きな駅からさらに少し離れた場所にある。駅から大学までバスも出ているけど、歩いても20分くらいで行けから大学まで歩いて通う学生も多い。
 駅から真っ直ぐ北に延びる大通りを行くと大きな交差点があって、そこを左に曲がって西に歩けば道路の北側に大学がある。 大学までは緩い登り坂。道路沿いにバス亭があって、バス停の脇の横断歩道を渡ればすぐに大学の正門だ。
 駅前の大通りは「駅前通り」、大学の前の通りは「大学通り」と呼ばれている。駅前通りは交通量が多い。通り沿いにはビルが並んでいて歩道を行き交う人も多い。だから歩いていてもけして快適とは言えない。僕の主観だけど。大学通りまで出れば交通量はそれほどではないけれど、それでも真っ直ぐな坂道は単調でつまらない。これも僕の主観だけど。
 駅前通りから脇道に入ると商店街があって、全国どこにでもあるコンビニに混ざって昔からそこにあると思われる魚屋さんや和菓子屋さんなんかもある。
 お店の並んだ狭い路を西に進むと商店街の終わりに公園があって、公園の先は高台になっている。1キロ四方くらいの広さだろうか。高台の上にはきれいに住宅が並んでいる。ちょっと高級な感じの住宅街。名前がある。「青空台」という。
 青空台の中の住宅は皆、白い塀に囲まれている。家の壁の色も白。そして屋根は、どの家も、青い。多少の濃淡の違いはあるけれど。だから青空台というのだろう。いや、そもそもそういうコンセプトに統一してそれぞれの家が建てられたのか。
 その中の道路は碁盤の目状にきれいに整備されていて、そこを通る人も車も多くない。だから「閑静」だ。
 道路の両側の歩道には等間隔で街路樹が植えられている。歩道には所々に小さな花壇もあって、季節ごとにきれいな花を咲かせていたりする。だから、歩いていても気持ちがいい。駅前通りや大学通りよりはるかに。だからこの住宅街、青空台を通って大学まで行き来する学生もいる。知る人ぞ知る「秘密のルート」だ。
 僕もまた、4月に入学してすぐにこの青空台を通る秘密のルートで大学に通うようになった。バスの中の混雑が苦手で、行き交う車を横目に見ながら単調な歩道を歩くのもイヤだったから。地図を見て目星をつけて歩いてみたのがきっかけだった。
 僕の住むアパートは大学のある北口とは反対側、南口から歩いて15分くらいのところにある。住宅地、青空台みたいに「高級」ではないけれど、まあ普通の住宅地の中だ。
 駅まで歩いて、南口から駅の中の改札の前を通って、北口を出てからまた大学まで歩くのが一番の近道だ。駅まで15分、駅を通り抜けるのに5分、駅から大学まで20分。全部で40分。僕は教科書やノートを詰めたバックパックを背負って歩いていた。
 大学の授業は朝9時からだけど、僕は7時30分にアパートを出る。大学に早めに着いておきたいのと、朝の青空台をゆっくり楽しみたかったら。
 アパートから駅までは同じ方向に向かって歩く人も多い。通勤や通学の人たち。駅の中は当然の混雑だ。駅を抜け、駅前通りから商店街に入ると人通りは少なくなるけれど、それでもまだ商店街を通って駅に向かう人はいる。朝からやってるコンビニの中には人が並んでいるのも見える。
 公園まで来るとようやく一息つける。それから公園を通り抜け、青空台に入る。
青空台の中の道路は碁盤の目になっているから、道角を右左交互に曲がって北西へ向かえば大学通りに出る。だから歩く道は何とおりかある。2の何乗とおりだったか? きちんと碁盤の目に整備されているからどの道を通っても大学までの所要時間は変わらない。
 僕は毎日少しずつ歩く道を変えてみた。4月に入学してから7月の夏休みまでに何通りかある道はほぼ全部歩いた、ような気がする。
 少しずつ景色が違っていた。春には歩道の花壇に色とりどりの花が咲いていた。ピンクや黄色。この街は青と白が基調になっているから、それが一段と鮮やかに見えた。なんて言う花なのかは知らないけれど。僕は、花の名前には詳しくない。田舎育ちだけど。
 梅雨のころには紫陽花が咲いていた。紫陽花くらいなら僕でもわかる。紫陽花の青はこの街に溶け込んでいた。初夏には街路樹が緑色の若葉に包まれて、真夏になるとそれがちょうどいい木陰を作ってくれた。なんて言う樹なのかは知らにけれど。僕は 樹木の名前にも詳しくない。田舎育ちだけど。
 花や樹の名前には無知な僕でも、朝の青空台は十分に楽しめた。
 田舎育ちの僕は、大学に入学してから5ヶ月、いや、夏休みの間は実家に帰っていたから、実質3ヶ月では、正直、都会に慣れた、とは、言い難かった。「都会」と言っても、高いビルが立ち並ぶ都心からだいぶ離れたこのあたりは、本当の都会の人たちにとっては「郊外」であって都会ではない、ということになるかもしれない。それでも僕にとっては、駅の中や歩道を歩く人の多さやその雰囲気は「都会人」であって、ここは「都会」だった。
 大学のキャンパスの中はそれなりに広くて緑もあるけど、やっぱりいつも学生は多くて、僕にとって「くつろげる」場所ではなかった。そもそも大学はくつろぎに行く場所ではないけど。
 青空台の手前の公園にも緑はあるけど、田舎育ちの僕には公園の緑は珍しくなかった。ていうか、そもそも僕は田舎にあるような緑を求めているわけじゃなかった。僕は田舎を思い出したいわけじゃない。僕は田舎が嫌いだった。だから東京に出て来たのだ。でも、東京に馴染めていない。都会に憧れながら都会に馴染めない。地方出身者にありがちな葛藤。
 そんな僕にとって、青空台は違った。田舎にはないきれいな街並み。樹や花とのバランス。田舎じゃない。都会だけど都会じゃない。歩いていて、楽しかった。正直、癒された。

 9月19日、火曜日。大学の夏休み明けの授業初日。朝。晴天。
 僕はほぼ二か月振りに青空台にたどり着いた。二か月前、最後にここを歩いたのは猛暑の中だった。今日の景色はあの日と違っているだろうか。そんなことを思いながら僕は歩道を歩き始めた。すでに一通りすべての道を歩いたことがあったからどの道を歩いてもよかったのだけど、今日は右左、角ごとに曲がってみることにした。その方がいろんな景色を見ることができると思ったから。
 二日前、帰省していた実家から戻った時の東京はまだまだ残暑の中だった。青空台の街路樹の葉もまだ緑色だ。でも街路樹の葉を揺らす風、そして僕の鼻孔の中に入ってくる空気には少しだけ「秋」が感じられた。僕は大きく深呼吸をして、それからゆっくりと歩き始めた。
 三つ目の角を右に曲がった時、前方に人影が見えた。白い壁沿いの歩道の30メートルくらい先、街路樹の木陰を歩く後ろ姿。女の人だ。
 白い上着と、白いスカート。対照的に黒くて長い髪。それが首のうしろあたりで一回束ねられてきれいな流線形を作っている。僕は八分音符を連想した。左肩には髪の毛と同じ黒い色のショルダーバッグ。
 うちの、景正大の学生かな、と思った。朝、ここでうちの学生の姿を見かけることはめったになかったけど。時間が早いのと、何通りか行き方があるからなかなか同じ道を通ることがないからだろう。ここの住民の人かな、とも思った。後ろ姿だったけど、なんとなくその人の雰囲気がこの街にフィットしているように思えた。スマートで、上品。
 その人は僕と同じように街路樹や周りの景色を見ながら歩いているようだった。ゆっくりと。僕よりもっとゆっくりと。自然に僕との距離が縮まる。もちろん近づいて声を掛けてみようとか思ったわけじゃない。そんなことできるわけない。

 その時。
 突然その人が立ち止まり、こちらを振り向いた。「振り向いた」と言ってもその顔は僕の方を見ていない。足元と、その周辺の地面を見回している。何かを探しているようだ。右手で左の手首を抑えている。
 その人がしゃがみこんだ。地面に落ちた物を拾おうとしているようだ。
 僕は走り出していた。あっという間に僕は、その人の目の前に立っていた。
 僕に気がつくと、その人はしゃがんだまま顔を上げた。
 かわいい。いや、きれい。その中間、いや、その両方。後ろ姿の印象通り、いやそれ以上。僕は一瞬見とれてしまった。
「ブレスレットが切れてしまって……」
 鈴の音のような声がした。その人の左の手のひらに小さな青いガラス玉のような物が何粒か乗っているのが見えた。
 そうだ、まずはこの人が直面している問題を把握しないと。
 その人の周りの地面を見渡した。歩道の上に、その人の手のひらに乗っているのと同じような青い玉がいくつか散らばっていた。状況はすぐにわかった。この人はその青い玉を紐に通して輪にしたブレスレットを手首にはめていたのだろう。そしてその紐が切れて、玉が散らばってしまったというわけだ。
 困っているのは明らかだ。困っている人がいれば、助けてあげるのは当たり前だ。
 僕もしゃがみこんだ。僕もその人といっしょに、歩道の上の、直径一センチに満たないほどの玉を拾い集めた。それは、青かった。青はこの街の色。でも今まで僕が見た青色より、もっと深くて、輝いている。
 空の色? いや、海の色? ガラス玉? いや、宝石? 
 僕は右手の人差し指と親指で青い玉を摘まみ上げて、お椀の形に丸めた左の手のひらに乗せていった。すぐに左の手のひらは青い玉でいっぱいになった。
 全部拾えたかわからなかったけど、周囲に落ちている青い玉が見えなくなったので僕は立ち上がった。ほぼ同時にその人も立ち上がった。
「……ありがとうございました」
 僕の顔を見ながらその人が言った。
 その人の瞳は今拾い集めた青い玉より一回り、いや二回りは大きかった。瞳の色は、その玉よりずっと深い青に見えた。その目で見つめられて、僕は自分の心臓が「ドキッ」と鳴るのを感じた。
 その人は自分の胸の前に両手のひらでお椀を作っていた。その中にはやっぱり十粒ほどの青い玉があった。
「それ……ここに」
 その人が僕の顔から自分の両手のひらで作ったお椀に視線を移した。
 僕は自分の左手に右手を添えて、その人と同じように両手でお椀を作った。それをその人の両手のひらのお椀の上に持って行って、手のひらの間から青い玉を落とした。すべての玉がその人の両手のひらに収まった。
「ありがとうございました」
 その人がまたお礼を言ってくれた。
「ど、どう、いたしまして」
 僕も答えたけど、なぜかうまくしゃべれない。
「助かりました」
 その人はそう言いながら頭を下げようとした。
「危ない!」
 思わず声が出た。青い玉がまた手のひらから落ちてしまうんじゃないかと思ったから。
「あ、はい」
 気がついたようにその人が顔を上げた。
「……じゃ、僕はこれで」
 急に恥ずかしくなって、僕はその場から立ち去ろうとした。しかしすぐにその人の様子に気がついた。困った顔をして自分の両手のひらと左肩に下げたショルダーバッグを交互に見ている。その人の考えてることがわかった。
「それ、いったん僕が持ってます」
 僕はその人の両手のひらの下に自分の両手のひらを差し出して再びお椀を作った。
 その人の白くて細くて長い指が花のように開いた。僕の手のひらの上に青い玉が落ちてきた。僕はそれを受け止めた。一瞬、 その人の小指が僕の手のひらに触れた。
「……すみません」
 その人はそう言いながら肩に掛けていたショルダーバッグを自分の前に回してその中に両手を入れた。
「……祖母の形見なんです。ですから、いつも身に着けていたんですけど……」
 バッグの中を見ながらその人が言った。
「……宝石ですが?」
 僕は訊いた。
「ラピスラズリです」
 その人が言った。
「ラピ……?」
 リピートしようとしたけどうまく言えなかった。僕は花や樹の名前に詳しくないけど、宝石の名前なんてもっと知らない。
「瑠璃のことです」
 瑠璃。それなら僕も知っている、ていうか、聞いたことはある。
「これでいいかな」
 その人はそう言いながらバッグの中から白いハンカチを取り出して自分の両手のひらの上に広げた。
「ここに、お願いします」
 僕は自分の両手のひらをその上に持って行って、少しずつ、落とさないように気をつけながら、その、ラピ……ラピス、ラズリ? の玉を落とした。
 その人はそのまま手を閉じて、ハンカチの中に玉を包み込んだ。
「すみません……もう一度、持っていてもらえますか?」
 その人がまた僕の顔を見ながら言った。瞳が真っ直ぐに僕の目を見ていた。
 僕は両手のひらで包み込むようにしてハンカチの袋を受け取った。その人の指がまた、僕の手に触れた。
 その人は自分の頭の後ろに両手を回して髪を止めていたヘアバンドをはずした。
 首を左右に振って、それから両手で髪の毛をハラリと広げた。甘い香りがした。
「ありがとうございました」
 そう言いながら、その人は僕が持っていたハンカチの袋を僕の手のひらから持ち上げた。それからそのハンカチの袋の上の方にヘアバンドを巻き付けた。
「これでよし」
 そう言ってその玉の入ったハンカチの袋をショルダーバッグの中に入れた。
「ありがとうございました」
 その人が何度目かのお礼を言った。
「あの……景正大の方ですか?」
 続けて訊いてきた。
「あ、はい」
 反射的に答えていた。隠す理由もない。そもそもこの時間にこの場所にいるのはここの住人かうちの学生くらいだろうし。
「わたしも景正の学生です。文学部一年のサトキ、ていいます」
 やっぱりうちの学生だった。
「経済学部一年のクラタです」
 また反射的に答えていた。
「同じ一年生なんですね!」
 その人が笑顔になった。ちょっとだけ見えた白い歯がまぶしかった。
「あ、まだちゃんとごあいさつもしてなかったですよね。はじめまして。サトキ、ミフユです。」
 その人は身体の前で両手を重ねて頭を下げた。黒くて長い髪がその人の肩の上を流れた。
「え? あ、はじめまして。クラタ、チハルです」
 僕も思わず頭を下げていた。
 急にまた恥ずかしくなってきた。自分の顔が赤くなっているのがわかった。今度こそその場を立ち去ろうと思った。
「僕、急ぐんで……これで!」
 頭を上げると同時に僕は走り出した。真っ直ぐに走れば大学通りに出る、はずだ。方向を間違えていなければ。
 後ろ姿を見られているような気がして、あえて角を左に曲がった。曲がる瞬間、僕はちょっとだけ振り返った。その人、サトキ、ミフユさんが、小さく右手を振っているのが見えた。