10月1日、日曜日。
 朝起きるとまず、目覚まし時計の日付を見るのが習慣になっていた。その日が「いつ」なのか確認するために。
 この日は……10月1日。そう、やっぱり、10月2日の前の日。10月3日じゃない。僕の時間は過去に向かったままだ。
 今日は……台風が来て、暴風雨になる。
 前の日、というのは僕にとっての前の日、10月2日、僕は、里木さんと二人で幸せな、とっても幸せな時間を過ごした。もし、あの日が続けば、あの日の次の日がやってくれば、僕と里木さんは恋人同志になっていたかもしれない、そう思った。
 でも……やっぱり、この日は10月1日。あの、10月2日の次の日はやって来なかった。そう、これでいい。これでいいんだ。
 今日、里木さんは僕の気持ちを知らない。9月29日、前の週の金曜日、カラオケの帰り、里木さんは慶野君に告白された。 きっと里木さんはこの土曜日と日曜日の間、慶野君のこと考えている。そして慶野君に、気持ちが傾いて行くんだ。
 里木さんには、僕なんかより慶野君の方がお似合いだ。そう思っていた。僕は、あきらめていた。慶野君には勝てないと思っていた。でも……でも、今の僕は。

 9月29日、金曜日。
 里木さんと、それに慶野君、福波さんと、四人でカラオケに行く日。
 この日も僕は里木さんと朝の青空台を歩いた。5分間のデート。
「いよいよ今日ですね、カラオケ」
 僕の方から切り出した。
「はい、楽しみにしてます」
「僕もです。でも、僕の歌、笑わないでくださいね」
「いえ、わたしの歌こそ、下手でも笑わないでくださいね」
「笑うなんて、とんでもないです。里木さん、上手ですから」
「そんなことないです」
 知っている。僕は知っている。里木さんが歌の上手なこと。とっても素敵な声をしていること。
でも、今日、カラオケの後……
「あの……」
「はい?」
 僕は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「よろしくお願いします!」
 僕は思い直して、笑顔でそう言った。
「はい! こちらこそ」
 里木さんも笑顔で答えてくれた。
 
 昼休み。マゾリーノでの三回目のランチ。
「それじゃ5時半に正門前で。駅前通りのカラオケ、予約しておくから」
 慶野君に任せる。
「倉田も忘れるなよ! ま、いやでもオレが引っぱって行くけど」

 午後の授業が終わった。正門前で落ち合った僕たちは、駅に向かうバスに乗る。
カラオケ店に着くと、さっそく慶野君が最初の曲を入れてマイクを握った。
「倉田、次お前」
 慶野君が選曲ナビを僕の前に置く。僕は迷わず曲を選んだ。
 僕は、僕の部屋で、里木さんの前で、ギターを弾きながら歌った曲を歌った。クラッシックギターの定番の曲。
 福波さんは、手拍子をしようとしてあきらめた。慶野君は最初から僕を見ないで選曲ナビを操作していた。そんなことはかまわない。僕は里木さんのために歌っているのだから。里木さんは……僕を見ていてくれた。僕の歌を聴いていてくれた。
 次は……里木さんの番だ。里木さんが立ち上がった。静かな、きれいなメロディーの曲。
 あの鈴のような声がマイクで増幅されて響いてくる。きれいな高音。里木さんの合唱部でのパートは……メゾソプラノ。そう言っていた。
 歌い終わった里木さんがみんなに向かってお辞儀する。恥ずかしそうな様子が初々しい。
 里木さんの二曲目は、テンポのいい明るい曲。やっぱり上手。やっぱりきれいな声。全身でリズムを取る姿が愛らしい。
 そして、里木さんと福波さんのデュエット。歌っている里木さんと目が合った、ような気がした。里木さんが笑った。僕も里木さんに、笑顔を返した。

 カラオケが終わった後、僕たちは駅まで歩いた。
「楽しかったね!」
「またやろうぜ!」
 慶野君と福波さんが楽しそうに話しながら前を歩いている。僕は里木さんと並んで歩いた。
 駅の入り口の階段を登り、改札の前まで来た。
「ありがとうございました」
「それじゃまた!」
 別れのあいさつ。
「家は、どっちの方?」
「私、こっち」
「オレはこっち。聖冬ちゃんは?」
「わたしも、こっちです」
 慶野君と里木さんは、同じ上り方向の電車。そして、慶野君は里木さんを家まで送って、そこで里木さんに……
「慶野君! ちょっと待って!」
 僕は改札に入ろうとしている慶野君を呼び止めた。慶野君が振り返った。
「なんだ?」
「お腹が減って! ラーメン食って行かないか?」
「ラーメンか……」
「うまいラーメン屋、知ってるんだ!」
 僕は嘘をついた。
「どうする?」
 慶野君は里木さんたちに向き直った。里木さんと福波さんは顔を見合わせた。
「女の子にはちょっと重いよ。時間も遅いし。二人で行こう!」
 里木さんたちが答える前に僕はそう言っていた。里木さんが一緒じゃ意味がない。その後また、慶野君が里木さんを送って帰ることになってしまう。
「うん……わたしは、帰ります」
 里木さんが答えた。
「じゃ、私も」
 福波さんが続いた。ほっとした。
「そうだな。じゃ、行くか。オレもチョット、腹減ったかな」
 慶野君が合意してくれた。
「よし! 行こう!」
 僕は慶野君の腕をつかんだ。
 里木さんと福波さんは改札の中に入って行った。僕は、二人に向かって手を振っている慶野君を引っ張るようにして、駅の出口に向かった。
 僕と慶野君は商店街へ戻った。商店街にラーメン屋があるかどうかわからなかったけど、幸いにしてラーメン屋はすぐに見つかった。
「ここ、ここのラーメンが美味いんだ」
 僕はまた嘘をついた。
 僕と慶野君はカウンターに並んでラーメンをすすった。
「ほんと。このラーメン、うまいな」
 慶野君が言った。よかった。僕の嘘は嘘にならなかった。
 僕は思い切って切り出した。
「慶野君に、言っておきたいことがあるんだ」
「……なんだ?」
「……実は僕、里木さんのことが、好きなんだ」
「え?」
 箸を持ったまま慶野君の動きが止まった。僕は続けた。
「だから……交際を申し込もうと思う」
「いや、実は、オレも聖冬ちゃん、タイプなんだ。可愛いもんな」
 慶野君は少し困った顔をした。
「僕は本気なんだ。慶野君、頼む。里木さんことは、あきらめてくれないか」
 僕は慶野君の目を見た。じっと見た。僕の本気を伝えようと思った。
 慶野君はしばらくの間、黙っていた。僕は目を逸らさなかった。
「そうか……わかった。ただし、一つだけ条件がある」
 慶野君が言った。
 一瞬、息が止まった。
 慶野君が続けた。
「このラーメン、倉田のおごりだ」

 それからも僕は時間をさかのぼり続けた。
 僕は、日々の、一つ一つの出来事を、僕の思い出として心に刻みつけようとしていた。

 例えば、マゾリーノランチ会でできたグループライン。
 明日になれば消えてしまう、いや、昨日は存在しなかったライン。
『彩香ちゃんも聖冬ちゃんも元合唱部でしょ?』
『大学の合唱部って本格的すぎてちょっとついて行けない感じ』
『そうだ! 今度四人でカラオケ行こうよ!』
『いいね!』

 例えば、マゾリーノランチ会の発足。
「悪いですね! 席取りさせちゃって!」
「明日はどうする?」
「毎日席取りさせちゃ、悪いですよ」
「それじゃ、週一回、ていうのはどう? 週一のランチ会」

 慶野君と走ったマゾリーノで里木さんと福波さんと会ったこと。
「大学通りにあるイタリアンのレストラン、知ってるか? 『マゾリーノ』ていう店」
「よし。じゃ、次の授業、教室の一番後ろに座るぞ。出口の一番近く。授業が終わったらすぐに教室を出て、走るぞ」
「すみません! そちらの二人、知り合いです! ここで相席お願いします!」
「福波彩香です。よろしく!」
「慶野圭太、ケイケイ。で、景正大の経済学部で軽音部。オールケイ」
「大丈夫。オレと倉田で走るから。先に四人分の席、キープしておきます!」

 いとおしかった。大切だった。こういうやり取りが全部、いとおしかった。大切にしなければならない、いや、大切にしよう。そう思った。
 そして何より、青空台での、里木さんとの5分間のデート。
「そういえば、学内にクラッシックギターのサークルとか、ありましたか?」
「倉田さんが入ったら、わたしもそのサークルに入ります!」
「わたし、倉田さんのギター、聞いてみたいんです」
「……わたしの歌も、聞いてほしいな」
「その、笑うのを我慢する、ていう意味じゃないですよ」
「あの、これからもこの時間、こうして会ってもらえますか?」
 この、朝の青空台の僕と里木さんだけの時間が、永久に続けばいい。あの頃、そう、僕にとってはもう6ヶ月も前の、あの頃、僕はそう思っていた。
 あと……あと何日だろう。こうして里木さんと二人で歩けるのは。僕は心の中でその日を数えながら、笑顔の里木さんと並んで歩いていた。

 9月21日、木曜日。僕が里木さんに初めて会った日から数えて、三日目。朝。青空台。
 僕は思い返していた。僕と里木さんが初めて会ったのは9月19日。ぼくは里木さんが落としたラピスラズリを拾ってあげた。
 翌日の9月20日、里木さんは僕を待っていてくれた。ラピスラズリを拾ってあげたお礼のため。僕は里木さんの手作りのクッキーをもらった。それで終わり、のはずだ。この日、9月21日、里木さんにはもう僕を待つ理由はない、はずだった。それでも里木さんは、この日も僕を待っていてくれた。それからしばらくの間、僕たちは朝の青空台を二人で歩くことになる。
 里木さんはこの日、いったいどんな気持ちで僕を待ってくれていたのだろう。この頃から僕に興味を持ってくれたのだろうか……
 だったら……いや、だからこそ、僕は。

「いつもこの道で通っているんですか?」
「ここ、いいですよね。きれいな街並みで」
 僕は里木さんの横顔を見ていた。
「聖冬」さん。「名は体を表す」。きれいで、清楚で、凛としていて、でも暖かい。まさにクリスマス。
「聖冬さん、て、いい名前ですね」
「そうですか? 寒い冬ですよ」
 里木さんがうれしそうに笑う。
「『知春さん』の方がいいな。温かい春の訪れ」
「いえ、土の中の虫にとっての春ですから」
「でも、その虫って、きれいな蝶々になるかもしれないじゃないですか」
 里木さんの言葉が、温かい。
「そうかもしれませんね……」
 温かい。本当に温かい笑い声。でも、春は冬を……
「この街路樹、何ていう樹なんですか?」
「あれは、ハクモクレン」
そう、僕が里木さんと初めて会ったのは、ハクモクレンの木の下。
「ハクモクレンは白い花を咲かせますから、この街の色と調和してますよね。そもそも調和させるためにハクモクレンなのかな?」
「そうだ、里木さん、青い花が好きなんですよね」
「はい、そうなんです。でも……どうしてわかるんですか?」
「いや、なんとなく……」
 知ってる。知ってるよ。
 僕たちは、大学通りに出た。
「それじゃ、また明日」
 里木さんが言った。明日。そう、「明日」。
「はい。また明日」
 僕も、里木さんにそう答えた。

 その日、大学の授業が終わった後、僕は駅前通りの脇道の商店街へ行って花屋を探した。そして、花の鉢植えを買った。
 僕が買った花は……「モラエラ」。青い花。小さくて、かわいくて、でも清楚で、きれい。里木さんみたいな花だ。
 僕は青空台のあの場所、里木さんがラピスラズリの粒を落としたあの場所、ハクモクレンの木の下に戻った。そしてそこに、そのモラエラの鉢植えを置いた。
 わかってる。僕に、この日の未来はない。僕にはこの日の明日はやってこない。だから、里木さんがこの花を見てくれるのかどうか、僕にはわからない。でも……それでも。