駅前通りの脇道の商店街、あの古いビル。あった。あの看板、「占い 未来の窓」。僕は階段を登った。
四階。薄暗い廊下。一番奥のドア。開けてみた。今日も、カギはかかっていなかった。
薄暗い。ほのかな灯り、蝋燭の火だ。
「お待ちしてました」
声がした。年配の、女の人の声。同じだ。この前と同じだ。
僕は部屋の中に進んだ。アンティーク調の立派なテーブルと椅子。テーブルの上の二本の蝋燭。その間に見える、ベールを被った女性らしき姿。
「お願いです。僕の話を、聞いてください」
占い師さんが微笑んだ、ような気がした。
「そこに、おかけください」
優しそうな声。僕は椅子を引いて、そこに座った。
「どうぞ、お話しください」
「あ……ありがとうございます」
そう答えた途端、わけのわからない感情が押し寄せて来た。うれしいのか、悲しいのか、安心したのか、不安なのか。
僕は泣いていた。泣きながら、いっきにまくしたてた。今までの出来事の、すべてを。
それから、一番心配なことを、占い師さんに訊いてみた。
「里木さんはどうなってしまったんですか? 無事なんでしょうか」
これから起こることを過去形で訊くのはおかしいかもしれない。でも僕にはそんなことを考えている余裕はなかった。
占い師さんが話し始めた。
「12月24日ですね。その日、確かに大きな地震がありました」
ありました? 過去形? やっぱりこの人も……
「あなたも、あなたも未来から過去に、さかのぼっているんですか?」
訊いてみた。僕はまだ泣いていた。泣きながらしゃべっていた。
「さあ、どうでしょう……」
答えてくれない。占い師さんが続けた。
「その地震で、どこかの駅で、女子大生が階段から落ちた、ということがあったような気がします」
「そ……それで、その人は?」
「確か……亡くなったと……」
ああ、やっぱり、やっぱり里木さんは……
「どうすれば……どうすればその人を、里木さんを助けることができるんですか?」
待ち合わせの時間を変えようとしたことは話していた。
「前に、過去も未来もすでに存在していて、人間の心、魂が、過去から未来へと進む時間の流れを感じている、というお話をしましたね」
そうだ。よく理解できなかったけど、前に来た時、占い師さんはそんなことを言っていた。
「はい、聞きました。でも、未来がすでに存在しているなら、その未来を変えることはできないということですか?」
「……そうかもしれません」
やっぱりダメなのか。僕は里木さんを救えないのか。
「結果というのは……」
占い師さんが話を続けた。
「結果というのは、原因があっての結果です。過去、未来ということではなく、結びつき、そう、原因と結果の結びつき……」
占い師さんがまた微笑んだ、ような気がした。
「その、結びつきを変えれば……」
結びつきを変える?
「時間の流れを感じるということは、電車に乗っているようなものだというお話をしましたね。同じ例えを使うなら、電車を乗り換えるのです。乗っている電車が違えば、到着する駅も違ってきます」
やっぱり、よくわからない。でも、でも未来は変えられる、つまり里木さんを助けることはできる、そう聞こえた。
「……あるいは、その結びつき自体を、断ち切らなくてはならないかもしれません。それができれば……」
結びつきを断ち切る?
「春の訪れは、冬の終わりを意味します」
春は……僕? そして冬は里木さんのこと? ということは、僕のせいで?
「結びつこうとした春と冬の、その結びつきを、断ち切ることができれば……」
「具体的に、どうすればいいんですか?」
「さあ……私にできることは、ここまでです。あとは、あなた次第です」
同じ言葉を前にも聞いたような気がする。
「一つだけ言っておきますと、結びつきとは、心と心、魂と魂の結びつきのことです。現象のことではありません」
やっぱりわからない。
蝋燭の明かりが消えて真っ暗になった。
「もう一つだけ訊いてもいいですか」
「はい」
声だけ聞こえた。
「里木さん、いえ、その女子大生以外に……」
「大丈夫です。その女子大生以外に、お亡くなりになったり、大きなけがをなさった方は、いません」
「え? は、はい。あ……ありがとうございました」
僕の言いたいことがわかったのか。
「さあ……お行きなさい」
声がした。僕は立ち上がってドアに向かった。ドアを開けながら奥のテーブルを振り返った。真っ暗で、やっぱり、占い師さんの姿は見えなかった。
ビルから表へ出た。もう大学へ行く気にはなれなかった。そのままアパートへ戻って、敷きっぱなしになっていた布団の上に寝転んだ。
占い師さんの言葉を思い出した。
「電車を乗り換えるのです。乗っている電車が違えば、到着する駅も違ってきます」
電車を乗り換える……僕は、どうすればいい? どうすれば里木さんを助けられる?
待ち合わせの時間を変えて、駅の階段の下で待っているくらいじゃ、電車を乗り換えたことにはならないのだろうか?
「あるいは、その結びつき自体を、断ち切らなくてはならないかもしれません」
そもそも会わなければいい、ていうことか? 里木さんと会う約束をしなければ……
今日、ていうのは、僕がすでに通過してきた今日、12月22日の朝、僕は里木さんにラインをした。
『大学来てますか? 心配してます』
大学の昼休みに返信がくる。そして、里木さんと24日に会う約束をする。
今日、僕にとっての今現在の今日、僕は里木さんにラインはしていない。ということは当然、里木さんからの返信もない。里木さんと24日に会う約束をすることもない。
目覚まし時計を見た。時計の表示は「11:55」。もうじき大学の昼休みの時間だ。
これでいいんだろうか……このまま僕が何もしなければ、24日の朝は、里木さんは自分の家にいて、駅の階段から落ちてしまうこともないのだろうか……
12時。大学の昼休みの時間になった。
「テロリン」
スマホが鳴った。僕は起き上がってスマホを手に取った。
里木さんだ。里木さんからのラインだ。
『ごめんなさい。ここのところ体調が悪くて大学を休んでました』
どういうことだ? 今日、僕は里木さんにラインをしてないのに。
続けてラインが入る。
『ひょっとして、青空台で待っていてくれたんじゃないかと思って』
そういうことか。里木さんの方も、僕を気にしてくれてたんだ。でも……
僕は答えなかった。どう答えればいいのか、わからなかった。
しばらくして、またラインが入った。
『明後日、24日にお会いできませんか?』
え? 里木さんの方から? どうして……
『この前は、ご迷惑をおかけしてしまったと思います。それで、お詫びをしたいと思って。ちょうど、クリスマスイヴですし』
お詫び? クリスマスイヴ?
『午後は予定があるので、午前中にお会いしたいのですが』
里木さんが……里木さんが誘ってくれている。僕のことを、誘ってくれている。でも……
『だめでしょうか?』
だめな……わけない。わけない、けど。
僕は、駅の階段から落ちた里木さんの足元にあった紙袋からこぼれ出ていたクッキーを思い出していた。あれはきっと、里木さんが僕のために焼いてくれたのだろう。僕のために、朝早く起きて……
僕は、くちびるを噛みながら、メッセージを打った。
『だめです。会えません』
そう打った。
里木さんからメッセージが入った。
『この前のこと、怒ってますか? あんなことしてしまって、ほんとうにごめんなさい』
謝ることなんてない……でも、どうすれば……どうすればいいんだろう。
しばらくしてまた、里木さんからのラインが入った。
『私のこと、嫌いですか?』
そんなことない。そんなことないけど……どうしよう。どうすればいい……
「結びつき自体を、断ち切らなくてはならないかもしれません」
占い師さんの言葉を思い出した。
「結びつきとは、心と心、魂と魂の結びつきのことです。現象のことではありません」
そうか……そういうことか。
僕は布団の上に正座しなおした。そして、大きく深呼吸をした。
『慶野君に振られたから、次は僕ですか? 僕は慶野君の代わりですか?』
そう打った。指か震えた。でも。それでも。
『そんなつもりはありません』
里木さんからの返信が入る。
里木さんの表情が目に浮かぶ。あの時の、僕の肩に額をあてて、泣いていた、あの時の表情が……
泣いてた。僕は泣いてた。里木さんも、きっと。
僕はもう一度、大きく息を吸い込んで、ラインを打った。
『誰でもいいんですか? 僕は、そういう里木さんが嫌いです』
里木さんからの返信はない。
僕はもう一度、ラインを打った。
『僕は、里木さんが嫌いです。だから、会いたくありません』
里木さんから、最後の、たぶん最後の、ラインが入った。
『わかりました』
泣いていた。僕は思いっきり、泣いていた。
僕はもう、雑貨店へは行かなかった。里木さんへのプレゼントを買う必要もなくなったから。
いつき庵へ電話して、バイトも休ませてもらった。
「その女子大生以外に、お亡くなりになったり、大きなけがをなさった方は、いません」
占い師さんはそう言っていた。きっと藤川さんも、大将も、雑貨店の店員さんも、それに慶野君も福波さんも、無事でいられるんだろう。そう思った。でも……それでも、僕の涙は止まらなかった。
夜、23時55分。
僕は布団の上に正座した。ケースからラピスラズリの粒を取り出す。そして手のひらの上に乗せて、願った。改めて願った。
「里木さんが無事でありますように。藤川さんも、大将も、慶野君も、福波さんも、雑貨店の店員さんも、みんな、無事でありますように」
間もなく僕は、眠りに落ちた。
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で目を開けた。手を伸ばして目覚まし時計の電子音を止める。時計の表示は「6:00」。
その下の日付は……「12/21」。
12月21日に……戻った。また一日、戻った。そうか……やっぱりそうか。遠ざかる。僕は、12月24日から遠ざかっている。
ラピスラズリの粒を入れたケースも、ない。あのラピスラズリの粒を買ったのは、二回目の12月21日、今日だ。だから今は、あのラピスラズリの粒も、ない。
あの粒がなければ、僕はもう未来へ向かうことはできないかもしれない。
それでもいい。そう思った。僕はこのまま、過去に向かい続ける。
思い出していた。あの、12月19日のこと。後悔した。どうしてあんな対応しかできなかったのか。里木さんを、受け止めてやることができなかったのか。
そして、そのもっと前のことも、思い出した。後悔することばかりだった。
あの日々に、僕はもどって行くのか……
それなら。それならそれでいい。もう一度、もう一度やりなおせるなら。
僕の中に、ある「思い」が生まれていた。ぼんやりとしたその思いは少しずつ形になってゆく。結晶してゆく。そしてとうとう、僕はそれを明確に認識した。それは、「決意」と言ってもいいかもしれない。
僕は、大きく息を吸い込んだ。そして、起き上がった。
7 昨日
12月19日、火曜日。朝。僕にとっては二回目の12月19日。僕は時間をさかのぼり続けている。
僕は、普段よりも10分早くアパートを出た。吐く息が白い。でも寒さは感じない。
そして……着いた。青空台の、あの場所。白い壁沿いの歩道、ハクモクレンの木の下。僕が初めて里木さんと会った場所。里木さんがラピスラズリを落とした、あの場所。里木さんが僕のことを待っていてくれた、あの場所。
しばらくして、こっちに向かって歩いてくる人の姿が見えた。青いマフラーを巻いて、うつむき加減に歩く、黒い髪。里木さんだ。僕は走った。そして、里木さんの目の前に立った。
「……え?」
里木さんが顔を上げた。
「実は昨日、慶野君から聞いたんです」
僕はいきなり話し始めた。里木さんの驚いた表情。
「慶野君と、福波さんのこと」
里木さんは、僕から目を逸らすように、またうつむいてしまった。
「ひどいですよね」
僕は続けた。
「……ごめんなさい。倉田さんにも迷惑かけちゃいましたよね……」
里木さんが言った。うつむいたまま。僕の方は見ないで。
「迷惑だなんて、全然思ってません」
里木さんが顔を上げて僕を見た。
「でも……わたしのせいで、ランチ会、解散になってしまったから……」
里木さんがゆっくり歩き出した。僕は里木さんの右側に並んで歩いた。
「里木さんのせいじゃないですよ。僕もランチ会、なくなってよかったと思ってます」
「……どうしてですか?」
「だって、この前のランチ会の時、里木さん、笑ってなかった。悲しそうに見えた」
「そうですか……でも、倉田さんには、関係ないことだから」
関係ない? いや、そうじゃない。これは僕と里木さんの話だ。
「この前、どうしてランチ会に来たんですか? 僕なら行かない。無理することない」
里木さんは黙ったまま答えない。
「慶野君は、里木さんも了解してる、て言ってたけど、そうなんですか?」
僕の左横に並んでいた里木さんが立ち止まった。僕も立ち止まった。
「僕は、そんなことないと思う。そんなこと、できないと思う」
里木さんが僕の方に身体を向けた。
里木さんが目をつぶった。ぎゅっと、つぶった。そして、額を僕の左肩に押し当ててきた。
泣いていた。里木さんは、泣いていた。
「だって……恋人無くして、そのうえ、友だちまで無くしちゃったら、わたし……」
泣きながら、里木さんはつぶやいていた。
里木さんの声は、僕の肩の骨から直接、僕に伝わってきた。
里木さんの黒い髪、甘い香りのする髪が目の前にあった。
僕は一度、大きく深呼吸した。
それから、自由に動かすことの右手を上げて、その手で里木さんの左肩を、やわらく、つかんだ。
里木さんが顔を上げた。僕は自分の身体を里木さんに向けた。そして、左手を里木さん背中に回して、力を入れた。里木さんの身体を、僕の方に押し倒すように。
力を入れる必要はなかった、かもしれない。里木さんはそのまま僕の方に倒れ込んできた。僕は僕の身体で里木さんの身体を受け止めた。
心臓が鳴った。僕の心臓の音は、僕の胸から直接、里木さんの胸に響いていた。
もう一度、深呼吸してから、僕は言った。
「大丈夫……僕が、僕がいます。僕が、いるから」
泣いていた。里木さんはまだ、泣いていた。泣きながら、うなずいていた。僕の胸の中でうなずいていた。
「うん……うん……」
そう言いながら、うなずいていた。僕は、僕の両手で、里木さんを抱きしめた。
そのままどれくらい時間が経っただろうか。しばらくして、里木さんが顔を上げた。僕は両手の力を弱めた。里木さんが僕から離れて、一歩、後ろに下がった。
「ごめんなさい」
里木さんが言った。
また謝っている。どうして僕に謝るのだろう。
「大丈夫、もう、大丈夫だから」
里木さんが言った。里木さんが、少しだけ笑顔を見せてくれた。
里木さんが、歩き始めた。ゆっくりと、歩き始めた。僕もまた、里木さんと並んで歩いた。
「ありがとう」
里木さんが言った。
「……はい」
僕は答えた。
「あの……」
僕は、続けて言いかけた言葉を飲み込んだ。
「いや、なんでもありません」
なぜなら、僕に、明日はないから。今、ここで言おうとしていることを、僕は明日、実行することはできない。もう、できないのだから。
僕にあるのは……明日じゃなくて、昨日だ。
12月18日、月曜日。大学の教室。
一時限目の授業が終わるとすぐに、僕は席を立とうとしている慶野君を捕まえて話しかけた。慶野君の座っている場所はわかっていた。
「慶野君」
「おう」
慶野君はいつもと変わらない笑顔で片手を上げた。僕はそれを無視して切り出した。
「昨日、バイトの帰り、夜、駅前通りを歩いてて、見たんだ」
「何を?」
「慶野君が、福波さんと歩いてるとこ」
「……」
慶野君は何も言わなかった。
「どうして福波さんと一緒にいたんだ?」
僕は慶野君の目を見た。
「……ま、そういうことだ。今オレは、彩香と付き合ってる。よくあることだろ」
慶野君は僕から目を逸らした。
「里木さんは、知ってるのか?」
「ああ、話した」
「話したって、何を話したんだ?」
「……彩香と付き合うって。だから、聖冬とは別れたいって。聖冬も、納得してくれたよ」
「納得? 納得なんかできるはずないだろ?」
「……でも、納得したんだ」
「どうしてそんなことできるんだ?」
「……正直、聖冬といても、あんまり面白くないんだ。無口だし。彩香の方が、楽しいし」
「そういう問題じゃないだろ?」
「じゃ、どういう問題なんだ」
「里木さんの気持ちを考えろよ!」
僕は少し声を大きくした。
「だから、聖冬も了解したんだって! 三人で了解してることなんだから、倉田には関係ないだろ!」
慶野君の声も大きくなった。
周りにいた何人かの学生がこっちを振り向いた。
「わかった……それで、ランチ会はこのまま続けるのか?」
「ああ……聖冬が、そうしたいって言ってた」
「それは、僕を含めたみんなに気を遣ってのことだと思う。みんなが、気まずくならないように、て」
「……」
慶野君は黙り込んだ。
「慶野君と福波さんが一緒にいるのを見てるの、里木さん、つらいと思う」
「……」
慶野君は黙ったままだ。
「僕は、ランチ会はもう、やめるべきだと思う」
「わかった……彩香から、聖冬にもう一回訊いてみてもらうよ」
慶野君が答えた。
「そろそろ授業始まるぞ。オレ、軽音の練習があるからこの授業、パスする」
そう言って慶野君は教室の出口の方に向かって歩き出した。
僕は黙って、慶野君の後ろ姿を見送った。
その日の夜。アパートに帰った僕は、布団の上に座ってランチ会のグループラインを開いた。
ラインにメッセージが入った。
『次回、12月22日のランチ会は中止します』
慶野君からのメッセージ。
しばらくするとまたラインにメッセージが入った。それも慶野君からだ。
『ランチ会は解散します』
短い一言。
すぐに『ケイタが退出しました』というメッセージ。
少しして、『彩香が退出しました』というメッセージが入った。福波さんだ。
僕は、二人が退出したグループラインにメッセージを書き込んだ。このメッセージを見ることができるのは、里木さんだけだ。
『倉田です。里木さん、見てくれてますか? もうこのラインを見る必要はないと思っているかもしれないけど』
『ランチ会、なくなってしまいましたね。実は慶野君にランチ会を解散しようと言ったのは僕です。なぜなら、慶野君から福波さんとのことを聞いたからです。そのことについて僕が口を出す立場ではないことはわかっています。でも僕は、ランチ会はやめた方がいいと思いました』
『里木さんがランチ会を続けたいと言っていたことも聞きました。でも、里木さんは優しいから、慶野君と福波さん、それに僕にも気を遣って、そう言ってくれたのではないかと思いました。もしそうなら、無理をすることはないと思います。自分の気持ちを優先すべきだと思います』
『あるいは福波さんとの関係を壊したくないと思ってそう言ったのかしれません。もしそうなら、僕は余計なことをしたかもしれません。ごめんなさい』
『でも、この前のランチ会の時、里木さん、笑っていませんでした。悲しそうな顔してました。僕は、僕の方が、里木さんの悲しそうな顔を見るのがつらいと思いました。だから、慶野君にランチ会はやめよう言いました』
『このライン、慶野君と福波さんは退出してしまいましたね。ランチ会がなくなってしまえばもうラインを続ける必要はないかもしれません。でも僕は退出しません。僕はここに残ります。僕では頼りないかもしれません。でももし僕でよければ、何でも 相談してください。僕は、いつでも里木さんの味方です』
僕のメッセージはすぐに「既読」になった。
しばらくしてから、メッセージが入った。里木さんからだ。
『ありがとうございます』
一言だけ。でも、十分、十分だ。僕の気持ちは伝わったはずだ。
僕は、布団の上に寝転んで、目を閉じた。
12月17日、日曜日。夜。いつき庵からの帰り道。
この日僕は、カラオケ店から慶野君と福波さんが二人で出て来るのを目撃する、はずだ。だから僕は、駅前通りを通らなかった。二人の姿を見たくなかった。
僕が見ていなくても、きっと二人は……
それでも……それでも。
12月16日、土曜日。
僕はアパートで里木さんのことを考えていた。里木さんはもう慶野君と福波さんのことを知っているはずだ。里木さんは今、どうしているのだろう。どんな気持ちでいるのだろう。
夕方になって、僕はいつき庵へバイトに行った。仕事が終わった後、いつものようにまかないの夜食をご馳走になった。
厨房の隅の業務用の机で藤川さんと向かい合ってまかないを食べた。おにぎりとみそ汁。おいしい。いつもと同じように、とってもおいしい。
その時、僕はあることを思いついた。
「大将!」
僕は包丁の手入れをしていた大将に呼び掛けた。
「なんだ?」
大将が僕の方を振り向いた。
「……いえ、なんでもありません」
そうだ、今ここで、大将に言ってもしかたないんだ。僕は思い直した。
大将はまた包丁の手入れを始めた。
「困ったことがあったら、なんでも言ってちょうだいね」
藤川さんが言ってくれた。
「はい、ありがとうございます。でも、大丈夫です」
僕は答えた。
今日じゃない。明日だ。いや、明日じゃなくって、昨日。でも、僕にとっては明日、明日だ。
12月15日、金曜日、マゾリーノのランチ会の日。この日にはまだ、ランチ会は続いている。この日のランチ会で、僕は里木さんの悲しそうな顔を見る、はずだ。
朝。青空台。あの場所。
来た。里木さんだ。少しうつむき加減に歩いてくる。その様子は、やっぱり悲しそうに見えた。
僕は里木さんに向かって歩き出した。里木さんが僕に気づいて立ち止まった。
「おはよう」
里木さんの前まで行って、僕の方からあいさつした。精一杯の笑顔を作って。
「……おはようございます」
里木さんがあいさつを返してくれた。でもやっぱり、元気がない。
「……久しぶりですね……ここで会うの」
里木さんが言った。
「そうですね」
僕たちは並んで歩き始めた。
「今日、ランチ会ですね」
僕は言った。
「……そうですね」
里木さんが答える。やっぱり、悲しそうな声。
「あの、提案なんですけど」
僕は極力明るい声で話しかけた。
「実は僕、この近くにとってもおいしい和食の店を知ってて、今日のランチ、そこで食べませんか?」
「え?」
里木さんが少し驚いた顔をした。
「わたしはかまいませんけど、彩香たちが、何て言うか……」
「いや、今日は里木さんと、二人で食べたいんです」
「え?」
「あの二人は、放っておきましょうよ」
「どうして……」
里木さんの戸惑った表情。そうだろう。突然だから。
「慶野君から、聞きました」
嘘をついた。僕が慶野君から福波さんとのことを聴くのは、もう少し後だ。でも里木さんは、その一言でわかったみたいだ。
「……そうですか」
里木さんがまた歩き始めた。
「僕が口を出すことじゃないかもしれませんけど……今日は、慶野君と福波さんと、いっしょにいない方がいいと思います」
「……」
里木さんは答えなかった。
「慶野君には僕から言っておきます。福波さんにも伝えてもらいます」
「……でも」
「大丈夫。そんなに高い店じゃありませんから」
「そうじゃなくて……」
「昼休み、そうだな、正門の前で待っていてください」
「は、はい……」
里木さんが答えた。僕に押し切られた格好だ。
「それじゃ、よろしくお願いします!」
そう言って僕は大学に向かって走り出した。振り返ると、里木さんは立ったまま僕を見ていた。その顔は、困ったように、でも、少しうれしそうに、僕には見えた。
バス通りに出ると、僕は大学の正門の方には向かわずに、そのまま駅前通りの方向に走った。僕の目指す先は大学ではなく、いつき庵だ。
いつき庵は昼の営業はしていないから、大将と藤川さんがお店の準備を始めるのは昼過ぎからだ。でも大将は定休日の水曜日以外は毎日、朝早く市場に魚などの食材を仕入れに行く。その後、仕入れた食材を格納するためにいったんいつき庵に行く。でも、大将が何時頃いつき庵に着いているのかはわからない。その日の仕入れ具合や交通の状況によって違うだろうし。だから、今いつき庵に行っても大将がいるかどうかはわからない。でも、いるかもしれない。いてください。そう思った。いなかったら、大将が来るまでいつき庵の前で待つ。そう決めていた。
いつき庵に着いた。店の脇に車一台分の駐車スペースがある。大将が店にいる時には、そこに大将のバンが停めてある。僕は駐車スペースに回った。
あった。大将のバンだ。駐車スペースの奥には厨房に直結する通用口があった。開けてみた。鍵は掛かっていなかった。中には明かりが点いていた。僕は厨房に入った。冷蔵庫に食材をしまい込んでいる大将の姿が見えた。
「大将!」
僕はいきなり呼び掛けた。
「なんだ、倉田君か」
大将が振り返った。
「こんな時間になんだ。仕入れの手伝いは頼んでないぞ」
「お願いがあります!」
僕は頭を下げた。
「なに? お願い?」
「はい!」
「なんだ?」
「今日の昼、食事を、いつも夜食に作ってくれるおにぎりとみそ汁を作ってほしいんです」
「昼? なんでだ?」
「あのおにぎりとみそ汁を、食べさせたい人がいるんです!」
「だめだ!」
大将の声が大きくなった。
「代金は僕が払います!」
「だめだ! 昼の営業はしないと前にも言っただろう!」
「営業じゃなくて、今日だけでいいんです。そうだ、今夜の僕の分を、先に作ってください! お願いします!」
僕は両ひざを厨房の床に着けた。
「大将! お願いです!」
両手をついて、それから額を床に着けた。
「ばか! やめろ!」
慌てた大将が駆け寄ってきた。
「男がそんなことでいちいち土下座なんかするな!」
「お願いします! お願いします!」
僕は言い続けた。
「わかった! 今日の昼だな!」
やった! 大将が了解してくれた。
「ありがとうございます!」
僕は立ち上がって、もう一度大将に頭を下げた。
「で、何人前だ!」
「……一人前、一人前だけでいいんです!」
「一人か?」
「はい、お願いします」
「なんだ、それだったらお安い御用だ。で、誰に食わせるんだ?」
「僕の……僕の、とっても大切な人です」
「彼女か?」
「いえ、そんなんじゃ……」
「ま、訊かないでおいてやる。そのかわり、夜はしっかり働けよ!」
「はい!」
「心配するな、夜食もちゃんと作ってやる!」
「ありがとうございます!」
僕はまた、大将に頭を下げた。
いったん大学へ行った僕は、授業中、一番後ろの席から教室の中を見回した。
いた。金髪の長髪。慶野君だ。授業が終わるとすぐに、僕は席を立とうとしている慶野君を捕まえて話しかけた。
「慶野君ごめん! 実は、今日のランチ会、急用があって行けないんだ」
僕は両手を合わせた。
「なんだ、しょうがねえな……」
慶野君が渋い顔をした。
「それから、今朝偶然、里木さんに会って、里木さんもランチ会、行けないって」
「ん……どういうことだ?」
慶野君が不思議そうな顔をして僕を見た。
「だから、福波さんにもよろしく言っておいて。今日はランチ会、お二人で」
「おい! それ、どういうことだよ」
慶野君が少し声を大きくした。慶野君には心当たりがある、はずだ。でも、僕が慶野君と福波さん、それに里木さんとのことを聞くのは、もう少し後だ。この時点では、僕は何も知らない、ことになっている。
「いや、別に……じゃ、僕、ちょっと用事があるから」
そう言って僕は教室の出口に向かった。
大学の午前の授業が終わった。僕は大学の正門の前で里木さんを待った。
来た。里木さんだ。文学部の教室棟の方から歩いてくる。一人だ。福波さんは一緒じゃない。
僕は里木さんに向かって走った。そしてすぐに里木さんの目の前に立った。
「ごめんね、急に。慶野君には言っておいたから」
「はい……わたしも彩香にことわってきました。今日は行かないって」
里木さんが笑った。でもやっぱり、少し悲しそうに見えた。
僕たちは正門前の信号を渡って、大学通りの歩道を歩いた。
着いた。黒塗りの板塀に木彫りの看板。いつき庵。
「ここです」
「素敵なお店ですね」
暖簾は掛かっていない。引き戸を引いた。「カラカラカラ」と音をたてて引き戸が開いた。僕の後について、里木さんもお店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは藤川さんだった。きちんと着物に着替えている。
「こちらへどうぞ」
藤川さんが僕たちを奥の個室に案内してくれた。いつもお客さんにしているように。
僕たちは掘りごたつの席に向かい合って座った。席にはおしぼりが二つ用意されていた。
思いついて立ち上がった。
「藤川さん! 食事、僕が持ってきます!」
僕たちはお客さんじゃないのだ。
「いいのよ、今日は座ってて」
藤川さんが言ってくれた。
「でも……すみません」
恐縮する僕を見て、里木さんが不思議そうな顔をした。
「……どういうことですか?」
「あ……実は僕、ここでバイトしてるんです」
僕は座り直しながら言った。
「それで今日は、お願いして、特別にお昼ご飯、作ってもらってて」
「特別に……わたしのために?」
「……はい」
急に恥ずかしくなった。やっぱりよけいなお世話だっただろうか。
「……ありがとう」
里木さんがうつむきながら言った。
襖を開けて、藤川さんが入ってきた。
「おまたせしました」
そう言いながら藤川さんが里木さんと僕の前に漆塗りのお盆を置いた。
少しも待ってない。それに、大将に「一人前」てお願いしたのに、食事は二人分あった。
それぞれのお盆の上に、おにぎりが二つ乗った竹製の篭。それにおみそ汁と漬物。
藤川さんが説明してくれた。いつもお客さんにしているように。
「こちらのおにぎりの中には、シソの葉で包んだウニが入っています。こちらのおにぎりには、焼いてほぐした鯛の身と白ゴマを混ぜこんであります。おみそ汁は豆腐となめこの赤みそです」
「わ~、すごい!」
里木さんが言った。今度は本当にうれしそうに見えた。
「シソやウニは大丈夫ですか? 苦手でしたら他の物とお取替えいたしますよ」
「いえ、大好きです!」
里木さんの笑顔。久し振りに見る笑顔。
「ありがとうございます」
僕は藤川さんに頭を下げた。
「あの、大将にもお礼を……」
「それが、いったん帰ってしまって……いいんですよ。気にしないで」
僕がまた立ち上がろうとすると、藤川さんがそう言ってくれた。
「それじゃ、お礼を言っておいてください。もちろん今晩、僕も直接お礼しますけど」
「はい。ごゆっくり、どうぞ」
藤川さんは笑いながら襖を閉めた。
個室に二人きりになった。向かいに座る里木さんと目があった。急に恥ずかしくなった。
「……それじゃ、いただこうか」
僕はそれを隠すようにおにぎりに手を伸ばした。
一口食べただけでわかった。これはいつものまかないの夜食じゃない。きちんとお客さんに出すものだ。もちろんまかないの 夜食も十分においしいけど。
「いただきます」
里木さんもおにぎりを手に取った。
僕はおにぎりを手に持ったまま、里木さんを見ていた。
里木さんは、ゆっくりと、味わいながら食べていた。ゆっくりと。でも、おいしそうに食べていた。おいしそうに、そして、幸せそうに、僕には見えた。
大将、藤川さん、本当に、ありがとう。
心の中で改めてお礼を言いながら、僕も、おいしい食事をいただいた。
食べ終わった後、藤川さんが持って来てくれたお茶を飲みながら、僕は里木さんに話しかけた。
「こんなところでいきなり、こんな話をするのはどうかと思うんだけど……」
「え?」
少し驚いた里木さん顔。言葉に詰まった。でも、言わないと。言っておかないと。
「実は僕、知ってるんです。慶野君と、福波さんのこと」
里木さんは、温かいお茶の入った湯飲みを置いて、それを両手で包むように握った。
「……そう」
里木さんが湯飲みに視線を落とした。
「ひどいですよね……」
「ううん、きっと、慶野さん、わたしといても楽しくなかったんだと思います」
「でも……僕は楽しいよ。里木さんといると」
「え?」
里木さんが顔を上げた。
「楽しいっていうか……落ち着くっていうか、安心できるっていうか……」
何言ってるんだ? 自分でそう思った。
「……ありがとう」
里木さんが言った。
「ランチ会、無理に続けることないと思う」
話を変えた。
「うん……それで今日、誘ってくれたんですね」
「余計なことでしたか?」
「いいえ、ありがとう」
里木さんがうつむきながら言った。
「ほんとは、つらかった。でも、彩香とは中学からの友だちだから、彩香と気まずくなりたくなかったから……」
そうか……やっぱり。僕じゃなくて。
「……ランチ会のことは、今度、彩香ともちゃんと話してみます」
「そうだね、それがいいと思う」
「倉田さんとは……こうやってまた、いっしょに食事ができたらいいな」
「え?」
ちょっと驚いた。里木さんの方からそんなこと言ってくれるなんて……
「でも、お店の人に迷惑ですよね。今日は、無理にお店開けてもらったんですよね」
「あ……はい」
どうしよう。大将にまた頼んでみようか。でも、それができるのは、明日じゃなくて……
「そうだ! 倉田さんとは、また青空台で会えますよね」
「そう、そうだね」
そうだ、そうだった。青空台があった。青空台でまた……でも、それも……
「……そろそろ戻らないと、午後の授業、始まっちゃいますね」
里木さんが言った。確かにそうだ。
僕たちは席を立った。
里木さんは自分の食事代を払いたいと言ったけど、僕は断った。僕が払うつもりだった。でも結局、藤川さんが代金を受け取らなかった。バイト代から差し引いておく、て言ってたけど、きっとそんなこともしないだろう。
藤川さんも大将も、本当にいい人だ。
いつき庵を出てから、思い出した。そうだ、もう一つ、確認しておかないと……
「もう一つだけ、訊いてもいいですか?」
僕は横を歩く里木さんに話しかけた。
「はい?」
「里木さんは、慶野君から……その、福波さんとのこと、聞いたのはいつですか?」
「……昨日です。慶野さんに呼ばれて……大学の帰りに、待ち合わせた喫茶店に行ったら、彩香がいっしょにいて……」
「わかりました。昨日ですね」
「……はい」
昨日……ということは、12月14日。次にすべきことを、僕は考えていた。
12月14日。いつき庵の仕事が終わった後、アパートに帰った僕は、布団の上に正座してスマホを開いた。
今日、里木さんは、慶野君に呼び出されて、大学の帰りに喫茶店へ行って、そこで慶野君と福波さんとのことを聞かされているはずだ。
きっと、ショックだったと思う。悲しかったと思う。それでも、優しい里木さんは、慶野君と福波さんを責めたりしないで、黙って受け入れて。そのうえ福波さんと、それに慶野君とも、友だちのままでいたいって、ランチ会も続けたいって、きっとそんなことを言って。
今、里木さんは、何をしているんだろう。どんな気持ちでいるんだろう。
僕はランチ会のグループラインを開いて、メッセージを打ち込んだ。
『これは倉田から里木さんへのメッセージです』
『いきなりですが、告白させてもらいます。僕は、里木さんが好きです。お願いです。僕と付き合ってください』
『もちろん慶野君と福波さんもこのラインを見ているのはわかっています。ですからここで返事をしてくれなくてもかまいません。でも、僕の気持ちは伝えておきます。よろしくお願いします』
すぐに3件の「既読」が付いた。里木さんも見てくれたということだ。
もちろんメッセージはない。
ひょっとしたら、困っているかもしれない。迷惑だと思っているかもしてない。今は僕のことどころじゃないのかもしれない。かえって混乱させてしまったかもしれない。それでも……それでもこれで、里木さんの気持ちが、少しでもまぎれたら……
僕は布団に倒れ込んで、そのまま目を閉じた。
11月になった。
僕は時間をさかのぼり続けていた。ただ流れのままに。何も願わず、何かに祈ることもなく。
里木さんは10月の初旬から慶野君と付き合い始めた。それから、12月14日に慶野君から福波さんとのことを告げられるまでの間は、里木さんは慶野君と、幸せに、楽しく過ごしていたはずだ。だからその間、僕がすべきことは、何もない。僕は何もしない方がいい。そう思った。
僕はただ、すでに一度受けている大学の授業を受け、いつき庵で働いた。大将と藤川さんには精一杯のお礼をしないといけない、そう思っていた。仕事に集中していれば、僕自身も余計なことは考えないでいられるし。
11月12日、日曜日。景正大の大学祭。慶野君のバンドが学内コンサートで演奏する日。
僕もその会場に行った。会場は学内のコンサートホール。僕が入った時にはもう慶野君のバンドの演奏が始まっていた。
場内は暗くて、バンドが演奏しているステージだけがライトアップされていた。大きな音が響く中、前の方では何人かの学生が立ち上がって声援を送っていた。
僕は里木さんを探した。客席を一列ずつ確認しながら、客席の脇の通路を前に進んだ。
いた。里木さんは、前の方の席に福波さんと並んで座っていた。僕は里木さんの姿を横から見る形で壁際に立った。場内は暗かったし、ステージの方を見ていればきっと僕には気がつかないだろう、そう思った。
慶野君には悪いけど、僕はステージの方は見ていなかった。僕はずっと、里木さんのことを見ていた。
福波さんは大きな声で声援を送ったり手を振ったりしていたけど、里木さんただ胸の前で小さく手拍子を打っていた。でもその視線はずっとステージの上の慶野君を追いかけていた。里木さんは、笑顔だった。その表情を見て、安心できた、ような気がした。
慶野君たちの演奏が終わるのを待つことなく、僕は、ホールの出口に向かった。
10月になった。10月13日、金曜日。マゾリーノのランチ会。
僕は、ただ里木さんの様子を確認するだけのためにランチ会に出席していた。この日も里木さんは、慶野君と話しながら、楽しそうにしていた。あの笑顔で。
これでいい。そう、今日、この日は、これでいいんだ。僕はパスタを食べながら、一人でうなずいていた。
大学からの帰り道。僕はいつき庵の前にいた。
この日、僕は偶然お店から出て来た藤川さんに声を掛けて、いつき庵で働くことになる。
僕は考えていた。もし今、僕がこのままこの場を立ち去ってしまったなら、藤川さんに声を掛けなかったら、この「今」に続く未来はどうなってしまうんだろう。僕の代わりに、他の誰かが働くことになるのだろうか。藤川さんはいい人をみつけることができるだろうか。その人は、大将とうまくやって行けるだろうか。
「カラカラカラ」という音を立てて引き戸が開いた。着物を着た女の人が出てきた。藤川さんだ。藤川さんは、引き戸の上の方に暖簾を掛けると、またお店の中に入って行こうとした。
どうしよう。僕が今、藤川さんに声を掛ける意味はあるのだろうか……
でも……それでもやっぱり。
「すみません!」
僕は後ろから藤川さんに声をかけた。
藤川さんが振り返った。
藤川さんにも、大将にも、さんざんお世話になった。いや、これからお世話になるのだ。
二人には精一杯のお礼をしたい。いつき庵で、目いっぱい働きたい。そう思った。
「ここで働かせてください!」
僕は藤川さんに向かって頭を下げていた。
10月6日、金曜日。マゾリーノのランチ会。
「え~、二人に言っておきたいことがあります!」
立ち上がった慶野君が切り出した。
「て言っても、福波さんはもう知ってるのかな?」
「うん、聖冬から聞いてる」
「じゃ、倉田に、てこと? ま、いいか。ランチ会のメンバーに改めて公式発表します!」
大丈夫。もう、わかっている。
「オレ、慶野圭太と、こちらの里木聖冬さんは、お付き合いすることに、つまり、恋人として交際することになりました!」
福波さんがパチパチと拍手する。
里木さんは、うれしそうに、幸せそうに、微笑んでいる。
これでいい……これでいいんだ。今は、この瞬間は、このままでいい。
僕はただ黙って、里木さんを見ていた。
10月3日、火曜日。朝。久し振りの青空台。
久し振り、というのは、僕にとって久し振りということ。僕がここに来るのは12月以来だから。
やっぱり、里木さんは、いてくれた。あの場所に。僕たちが何度も会っていた、あの場所に。
僕たちは並んで歩いた。それまでと、里木さんにとってのそれまでと同じように。
僕は少し緊張していた。僕にとっては、里木さんとこうして歩くのはものすごく久し振りのことだ。でも理由はそれだけじゃない。里木さんに、きちんと言わないと。言っておかないと。そう思っていた。
この日、僕にとってこの前のこの日、僕は里木さんに、こうやって会うのはやめよう、て言う。慶野君に悪いから、て。慶野君と里木さんはお似合いだから、て。でも、でも今の僕は。
僕は一度深呼吸して、里木さんに話しかけた。
「里木さん、お話があります」
「え?」
里木さん驚いた顔をした。
僕は里木さんの前に進み出て、里木さんと向きあった。
「あの……僕と、付き合ってもらえませんか?」
「え?」
大きな里木さんの目が一層大きくなった。
「僕は、里木さんのことが、好きです」
里木さんが口に手を当てた。
「お願いします!」
僕は頭を下げた。
「でも……あの……わたし……」
「返事はすぐでなくても構いません。お願いします!」
僕は里木さんの言葉を遮った。慶野君のことは聞きたくなかったから。
里木さんは、前の週、カラオケの帰りに慶野君から付き合ってほしいと言われている。でも里木さんはまだ慶野君に返事をしていない、まだ決められないでいる、はずだ。
前回、ていうのは、僕にとっての前回、12月にラインで里木さんに「好きだ」、て告白したのは、里木さんが慶野君から慶野君と福波さんのことを聞かされた直後だった。だから僕の告白は、里木さんの慰めになったかもしれない。
でも、このタイミングで僕が里木さんに告白することは、かえって里木さんを悩ませてしまうかもしれない。苦しめることになってしまうかもしれない。里木さんは、僕と慶野君、二人のどちらかを選ばなくてはならなくなってしまうから。里木さんは優しいから、二人のどちらも傷つけたくない、きっとそう思うだろう。きっとそう思って、苦しんでしまうだろう。
でも……それでも……それでも僕は、里木さんのことが好きだ。僕が里木さんからこの日の返事を聞くことは、ない。でも……それでも。
何か言おうとしている里木さんをそのままにして、僕は大学通りに向かって走り出した。
僕は、里木さんの方を振り返らずに、ただ全速力で、走っていた。
10月2日、月曜日。里木さんと慶野君、福波さんと四人でカラオケに行った次の週の月曜日。台風一過の、雲一つない快晴の朝。
青空台。この日も里木さんは、あの場所で、僕のことを待っていてくれた。
「台風、すごかったですね。大丈夫でした?」
「はい。里木さんは?」
「大丈夫です。ずっと家にいましたから」
「いっきに秋になっちゃいましたね。今朝は少し寒いくらい」
「そうですね」
そう、寒かった。
「カラオケ、楽しかったですね」
「そうですね。里木さん、歌、やっぱり上手ですね。声が、とっても良かった」
「そんなことないですよ。声量なくて」
里木さんが恥ずかしそうに笑う。
「高校の合唱部の時は……メゾソプラノでしたっけ?」
「はい、そうです。どうしてわかったんですか?」
「いや……何となく」
そのことは前に訊いていた。
「倉田さんの歌もよかったですよ」
「そうですか?」
そう言われるとやっぱり照れた。
「あの……前にクラッシックギターのサークルの話、したじゃないですか」
里木さんが言った。そう。その話だ。
「倉田さん、サークルには入らない、て言ってましたけど……」
里木さんが言う前に僕の方から切り出した。
「僕、自分でサークル、作っちゃおうと思います」
「え?」
里木さんが驚いた顔をした。
「よかったら、里木さんも参加してくれませんか? 僕のサークルに」
「わたしも同じこと考えてたんです。サークル、作ったらどうかって……」
「じゃ、決まりですね。二人でサークル、始めましょう!」
「はい! それじゃ、倉田さんが会長で、わたしが会員第一号ですね」
「ま、そういうことで」
「教えてくださいね、ギター」
「はい、もちろん。僕でよければ」
「よろしくお願いします!」
里木さんが頭を下げてくれた。うれしそうだった。僕もうれしかった。
「活動の場所は……どこにしますか?」
里木さんが言った。そう。そこだ。思い切って言ってみた。
「……僕のアパートじゃ、だめですか? ギター、部屋に置きっ放しですし」
「……はい!」
少し考えてから、里木さんが答えてくれた。笑顔で。
「いつから始めますか?」
笑顔のまま里木さんが続ける。
「……今日は、だめですか?」
言ってみた。そう。僕には今日しかないのだから。
「……はい!」
また少し考えてから、答えてくれた。
「それじゃ、授業が終わった後、いっしょに……」
「はい。帰りが少し遅くなるって、母に連絡しておきます」
「ありがとうございます」
「……こちらこそ」
僕たちは、大学まで並んで歩いた。まるで、恋人同士みたいだって、僕は初めて思った。
昼休み。授業が終わるといつものように慶野君が声を掛けてきた。
「学食行こうぜ」
「いや、今日はちょっと用事があって」
僕は答えた。
「珍しいな」
慶野君が怪訝な顔をした。
「ごめん」
「いや、実はな、お前に言っておきたいことがあって……」
知ってる。慶野君が何を話したいのか、僕はわかってる。先週のカラオケの帰り、慶野君は里木さんを家まで送って、そこで里木さんに交際を申し込んだんだ。
「悪いけど、今日はだめなんだ」
僕はその話を聞きたくなかった。
「それじゃ」
僕は、不満そうな顔をしている慶野君をそのままにして、教室の出口に向かった。
この日の授業が終わった。僕は正門に向かった。里木さんとは正門の前で待ち合わせていた。二人でいつき庵へ行った、いや、行く日と、同じ場所で。
来た。文学部の教室棟の方から、里木さんが歩いて来た。僕を見つけると、里木さんは小走りに駆け寄ってくれた。
「よろしくお願いします」
里木さんは僕の目の前まで来て言ってくれた。笑顔で。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
僕はそう答えた。
僕たちはバスに乗って駅まで行き、そこから歩いた。僕のアパートへ向かって。
僕のアパートへ着くまでの間、僕は何もしゃべらなかった。しゃべれなかった。緊張していた。里木さんは、黙って僕についてきてくれた。
僕のアパート。一階の一番奥が、僕の部屋だ。
「ここです」
僕は部屋の鍵を開けて、中に入った。
「どうぞ」
部屋に母親以外の女の人を入れるのは、もちろん初めてだ。
「おじゃまします」
里木さんはそう言いながら、僕に続いて部屋に入ってきてくれた。いつもの笑顔で。
僕の部屋はワンルーム。申し訳程度の玄関を入ると短い廊下があって、その奥がフローリング敷きの洋室になっている。
壁際にテーブルを置いていた。食卓兼勉強机。テーブルには椅子が二つ。一人暮らしだけど。セットで売っていたから。ベッドは置いていない。狭くなるから。
防音はしっかりしていた。借りる時から部屋でギターを弾くことを想定していたから。
ギターはケースには入れずにそのまま壁に立てかけてある。ギターケースは部屋の隅に置いたまま。寝る時はそのケースを枕元に持ってきて、その上に目覚まし時計やら何やらを置く。
僕はテーブルの二つの椅子を部屋の中央に向い合せに置いた。
「どうぞ」
里木さんに座るように勧めた。里木さんが椅子に腰を下ろした。
「それじゃ、始めましょうか」
僕は壁に立てかけてあったクラッシックギターを持って、里木さんの向かいの椅子に座った。
「まずは……僕が見本を見せますね」
僕は、ギターを抱えた。
「こんな風に抱えて、左手の指で弦を押さえて、コード、つまり和音を作る。元合唱部だから、コードはわかりますよね?」
「……はい」
「これが『C』、これが『D』、これが『E』。」
僕はギターを持った左手で順番にコード押さえて見せた。
「そうして、右手で音を出す」
『ジャラン、ジャラン』
僕は右手の親指で音を出した。
「こうやっていっぺんに和音を出すのが『ストローク』ていう弾き方。一音ずつ弦を弾くのが『アルペジオ』ていう弾き方」
『ティン、ティン、ティン、ティン、ティン』
僕はゆっくりと弦を弾いた。里木さんは目を細めて、僕を見ていた。
「それじゃ、里木さんもやってみてください」
僕は立ち上がって、両手で持ったギターを里木さんに差し出した。
「ちょっと……待ってください」
里木さんが言った。
「え?」
「あの……まず、実際にギターで曲を弾いてみせてもらえませんか?」
「曲?」
「はい」
里木さんがまた微笑んだ。
そうか、そういうことか。そうだ。そもそも里木さんは、自分がギターを弾きたいというよりも、僕のギターを聴きたいと言っていた。こんな僕の演奏を。
僕は椅子に腰を下ろしてギターを抱え直した。
「……それじゃ」
僕は、アルペジオでゆっくりと音を出した。
僕は、僕の大好きな、優しい、とっても優しい曲を弾いた。
雪が舞う、冬の情景を現した曲。聖なる冬。里木さんの曲だ。
里木さんは、目を細めて、僕の曲を聴いていてくれた。
僕が弾き終わると、里木さんは、小さく拍手してくれた。小さく、でも、微笑みながら。
それから、もう一曲。カラオケで僕が歌った曲。クラッシックギターの定番。有名な映画音楽に使われた曲。
『ティン、ティン、ティン、ティン、ティン、ティン』
切ない調べが部屋の中に響く。
里木さんは、黙って、僕の弾くギターを聴いていてくれた。
曲が終わった。二人は沈黙した。里木さんは少し、涙ぐんでいた、ような気がした。
「……そろそろ、里木さんも弾いてみますか?」
里木さんに言ってみた。
「……はい」
里木さんが微笑んだ。
僕は立ち上がって、里木さんにギターを差し出した。里木さんも立ち上がって、ギターを受け取ってくれた。
「それじゃ、まず左手でコードを押さえてみて」
僕はイスに腰を下ろした里木さんの後ろに回った。
「まずは『C』。こうです」
僕は里木さんの後ろから左手を回してギターの弦を押さえてみせた。
「やってみて」
僕がギターから手を離すと、里木さんは同じ場所に左手の指を置いた。
「……こう?」
「もっと強く押さえないと、音が出ない」
僕は、弦を押さえる里木さんの指の上に自分の指を重ねた。僕の左手が、里木さんの左手を握るような形になった。
里木さんは、そのまま動かない。何も言わない。
僕も、そのまま動かなかった。動けなかった。
しばらくの沈黙の後、里木さんが上を向いた。里木さんは微笑んで、なかった。その目には涙がたまっていた。
里木さんが、後ろに立つ僕に頭部をあずけるように、首を反らせた。里木さんが僕に寄りかかるような形になった。僕は、僕の身体で、里木さんを受け止めた。
里木さんの左手はもうギターを握っていない。でも僕の左手は、里木さんの左手を握ったままだ。
里木さんが、目を閉じた。里木さんが何を求めているのか、僕にもわかった。
僕は、静かに、僕の顔を里木さんの顔に近づけた。
二人の唇が、重なった。
さっきまで弾いていたクラッシックギターの音が、余韻として耳の中に残っていた。きっと里木さんにも同じ音が聞こえている、そう思った。
しばらくして、僕が顔を離すと、里木さんが目を開けた。
「わたし……慶野さんから……」
「知ってます」
僕は里木さんの言葉を遮った。
「それなのに、こうして、倉田さんと……」
「はい」
僕はうなずいた。
「わたし、どうしていいか……わからなくて……」
里木さんの目から、涙がこぼれた。
「僕には……僕には決められない。でも、僕は……僕も、里木さんのことが、好きです。慶野君に負けないくらい。いや、慶野君よりも、ずっとずっと、絶対に僕の方が、ずっと、里木さんのことを好きです」
そう言って僕は、もう一度、里木さんと、唇を重ねた。
僕は思っていた。
もし、この今日に連続する明日があったら、明日がやってきたら、その日、僕たちは恋人同志でいられるかもしれない……そう思った。
できることなら……このまま里木さんと……そう思った。
いや、だめだ。願っちゃだめだ。
意識を明日に向けちゃだめだ。時間がまたそっちの方向に向かって動き出してしまう。このまま未来に向かったら……きっと僕は、里木さんを救うことができない……
結びつきを断ち切る……占い師さんの言葉がよみがえる。
……それならば、そう、今が、この瞬間が、ずっと続けばいい。いっそうのこと、このままここで、時間が止まってしまえばいい。
里木さんと唇を重ねたまま、僕はそう思っていた。
10月1日、日曜日。
朝起きるとまず、目覚まし時計の日付を見るのが習慣になっていた。その日が「いつ」なのか確認するために。
この日は……10月1日。そう、やっぱり、10月2日の前の日。10月3日じゃない。僕の時間は過去に向かったままだ。
今日は……台風が来て、暴風雨になる。
前の日、というのは僕にとっての前の日、10月2日、僕は、里木さんと二人で幸せな、とっても幸せな時間を過ごした。もし、あの日が続けば、あの日の次の日がやってくれば、僕と里木さんは恋人同志になっていたかもしれない、そう思った。
でも……やっぱり、この日は10月1日。あの、10月2日の次の日はやって来なかった。そう、これでいい。これでいいんだ。
今日、里木さんは僕の気持ちを知らない。9月29日、前の週の金曜日、カラオケの帰り、里木さんは慶野君に告白された。 きっと里木さんはこの土曜日と日曜日の間、慶野君のこと考えている。そして慶野君に、気持ちが傾いて行くんだ。
里木さんには、僕なんかより慶野君の方がお似合いだ。そう思っていた。僕は、あきらめていた。慶野君には勝てないと思っていた。でも……でも、今の僕は。
9月29日、金曜日。
里木さんと、それに慶野君、福波さんと、四人でカラオケに行く日。
この日も僕は里木さんと朝の青空台を歩いた。5分間のデート。
「いよいよ今日ですね、カラオケ」
僕の方から切り出した。
「はい、楽しみにしてます」
「僕もです。でも、僕の歌、笑わないでくださいね」
「いえ、わたしの歌こそ、下手でも笑わないでくださいね」
「笑うなんて、とんでもないです。里木さん、上手ですから」
「そんなことないです」
知っている。僕は知っている。里木さんが歌の上手なこと。とっても素敵な声をしていること。
でも、今日、カラオケの後……
「あの……」
「はい?」
僕は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「よろしくお願いします!」
僕は思い直して、笑顔でそう言った。
「はい! こちらこそ」
里木さんも笑顔で答えてくれた。
昼休み。マゾリーノでの三回目のランチ。
「それじゃ5時半に正門前で。駅前通りのカラオケ、予約しておくから」
慶野君に任せる。
「倉田も忘れるなよ! ま、いやでもオレが引っぱって行くけど」
午後の授業が終わった。正門前で落ち合った僕たちは、駅に向かうバスに乗る。
カラオケ店に着くと、さっそく慶野君が最初の曲を入れてマイクを握った。
「倉田、次お前」
慶野君が選曲ナビを僕の前に置く。僕は迷わず曲を選んだ。
僕は、僕の部屋で、里木さんの前で、ギターを弾きながら歌った曲を歌った。クラッシックギターの定番の曲。
福波さんは、手拍子をしようとしてあきらめた。慶野君は最初から僕を見ないで選曲ナビを操作していた。そんなことはかまわない。僕は里木さんのために歌っているのだから。里木さんは……僕を見ていてくれた。僕の歌を聴いていてくれた。
次は……里木さんの番だ。里木さんが立ち上がった。静かな、きれいなメロディーの曲。
あの鈴のような声がマイクで増幅されて響いてくる。きれいな高音。里木さんの合唱部でのパートは……メゾソプラノ。そう言っていた。
歌い終わった里木さんがみんなに向かってお辞儀する。恥ずかしそうな様子が初々しい。
里木さんの二曲目は、テンポのいい明るい曲。やっぱり上手。やっぱりきれいな声。全身でリズムを取る姿が愛らしい。
そして、里木さんと福波さんのデュエット。歌っている里木さんと目が合った、ような気がした。里木さんが笑った。僕も里木さんに、笑顔を返した。
カラオケが終わった後、僕たちは駅まで歩いた。
「楽しかったね!」
「またやろうぜ!」
慶野君と福波さんが楽しそうに話しながら前を歩いている。僕は里木さんと並んで歩いた。
駅の入り口の階段を登り、改札の前まで来た。
「ありがとうございました」
「それじゃまた!」
別れのあいさつ。
「家は、どっちの方?」
「私、こっち」
「オレはこっち。聖冬ちゃんは?」
「わたしも、こっちです」
慶野君と里木さんは、同じ上り方向の電車。そして、慶野君は里木さんを家まで送って、そこで里木さんに……
「慶野君! ちょっと待って!」
僕は改札に入ろうとしている慶野君を呼び止めた。慶野君が振り返った。
「なんだ?」
「お腹が減って! ラーメン食って行かないか?」
「ラーメンか……」
「うまいラーメン屋、知ってるんだ!」
僕は嘘をついた。
「どうする?」
慶野君は里木さんたちに向き直った。里木さんと福波さんは顔を見合わせた。
「女の子にはちょっと重いよ。時間も遅いし。二人で行こう!」
里木さんたちが答える前に僕はそう言っていた。里木さんが一緒じゃ意味がない。その後また、慶野君が里木さんを送って帰ることになってしまう。
「うん……わたしは、帰ります」
里木さんが答えた。
「じゃ、私も」
福波さんが続いた。ほっとした。
「そうだな。じゃ、行くか。オレもチョット、腹減ったかな」
慶野君が合意してくれた。
「よし! 行こう!」
僕は慶野君の腕をつかんだ。
里木さんと福波さんは改札の中に入って行った。僕は、二人に向かって手を振っている慶野君を引っ張るようにして、駅の出口に向かった。
僕と慶野君は商店街へ戻った。商店街にラーメン屋があるかどうかわからなかったけど、幸いにしてラーメン屋はすぐに見つかった。
「ここ、ここのラーメンが美味いんだ」
僕はまた嘘をついた。
僕と慶野君はカウンターに並んでラーメンをすすった。
「ほんと。このラーメン、うまいな」
慶野君が言った。よかった。僕の嘘は嘘にならなかった。
僕は思い切って切り出した。
「慶野君に、言っておきたいことがあるんだ」
「……なんだ?」
「……実は僕、里木さんのことが、好きなんだ」
「え?」
箸を持ったまま慶野君の動きが止まった。僕は続けた。
「だから……交際を申し込もうと思う」
「いや、実は、オレも聖冬ちゃん、タイプなんだ。可愛いもんな」
慶野君は少し困った顔をした。
「僕は本気なんだ。慶野君、頼む。里木さんことは、あきらめてくれないか」
僕は慶野君の目を見た。じっと見た。僕の本気を伝えようと思った。
慶野君はしばらくの間、黙っていた。僕は目を逸らさなかった。
「そうか……わかった。ただし、一つだけ条件がある」
慶野君が言った。
一瞬、息が止まった。
慶野君が続けた。
「このラーメン、倉田のおごりだ」
それからも僕は時間をさかのぼり続けた。
僕は、日々の、一つ一つの出来事を、僕の思い出として心に刻みつけようとしていた。
例えば、マゾリーノランチ会でできたグループライン。
明日になれば消えてしまう、いや、昨日は存在しなかったライン。
『彩香ちゃんも聖冬ちゃんも元合唱部でしょ?』
『大学の合唱部って本格的すぎてちょっとついて行けない感じ』
『そうだ! 今度四人でカラオケ行こうよ!』
『いいね!』
例えば、マゾリーノランチ会の発足。
「悪いですね! 席取りさせちゃって!」
「明日はどうする?」
「毎日席取りさせちゃ、悪いですよ」
「それじゃ、週一回、ていうのはどう? 週一のランチ会」
慶野君と走ったマゾリーノで里木さんと福波さんと会ったこと。
「大学通りにあるイタリアンのレストラン、知ってるか? 『マゾリーノ』ていう店」
「よし。じゃ、次の授業、教室の一番後ろに座るぞ。出口の一番近く。授業が終わったらすぐに教室を出て、走るぞ」
「すみません! そちらの二人、知り合いです! ここで相席お願いします!」
「福波彩香です。よろしく!」
「慶野圭太、ケイケイ。で、景正大の経済学部で軽音部。オールケイ」
「大丈夫。オレと倉田で走るから。先に四人分の席、キープしておきます!」
いとおしかった。大切だった。こういうやり取りが全部、いとおしかった。大切にしなければならない、いや、大切にしよう。そう思った。
そして何より、青空台での、里木さんとの5分間のデート。
「そういえば、学内にクラッシックギターのサークルとか、ありましたか?」
「倉田さんが入ったら、わたしもそのサークルに入ります!」
「わたし、倉田さんのギター、聞いてみたいんです」
「……わたしの歌も、聞いてほしいな」
「その、笑うのを我慢する、ていう意味じゃないですよ」
「あの、これからもこの時間、こうして会ってもらえますか?」
この、朝の青空台の僕と里木さんだけの時間が、永久に続けばいい。あの頃、そう、僕にとってはもう6ヶ月も前の、あの頃、僕はそう思っていた。
あと……あと何日だろう。こうして里木さんと二人で歩けるのは。僕は心の中でその日を数えながら、笑顔の里木さんと並んで歩いていた。
9月21日、木曜日。僕が里木さんに初めて会った日から数えて、三日目。朝。青空台。
僕は思い返していた。僕と里木さんが初めて会ったのは9月19日。ぼくは里木さんが落としたラピスラズリを拾ってあげた。
翌日の9月20日、里木さんは僕を待っていてくれた。ラピスラズリを拾ってあげたお礼のため。僕は里木さんの手作りのクッキーをもらった。それで終わり、のはずだ。この日、9月21日、里木さんにはもう僕を待つ理由はない、はずだった。それでも里木さんは、この日も僕を待っていてくれた。それからしばらくの間、僕たちは朝の青空台を二人で歩くことになる。
里木さんはこの日、いったいどんな気持ちで僕を待ってくれていたのだろう。この頃から僕に興味を持ってくれたのだろうか……
だったら……いや、だからこそ、僕は。
「いつもこの道で通っているんですか?」
「ここ、いいですよね。きれいな街並みで」
僕は里木さんの横顔を見ていた。
「聖冬」さん。「名は体を表す」。きれいで、清楚で、凛としていて、でも暖かい。まさにクリスマス。
「聖冬さん、て、いい名前ですね」
「そうですか? 寒い冬ですよ」
里木さんがうれしそうに笑う。
「『知春さん』の方がいいな。温かい春の訪れ」
「いえ、土の中の虫にとっての春ですから」
「でも、その虫って、きれいな蝶々になるかもしれないじゃないですか」
里木さんの言葉が、温かい。
「そうかもしれませんね……」
温かい。本当に温かい笑い声。でも、春は冬を……
「この街路樹、何ていう樹なんですか?」
「あれは、ハクモクレン」
そう、僕が里木さんと初めて会ったのは、ハクモクレンの木の下。
「ハクモクレンは白い花を咲かせますから、この街の色と調和してますよね。そもそも調和させるためにハクモクレンなのかな?」
「そうだ、里木さん、青い花が好きなんですよね」
「はい、そうなんです。でも……どうしてわかるんですか?」
「いや、なんとなく……」
知ってる。知ってるよ。
僕たちは、大学通りに出た。
「それじゃ、また明日」
里木さんが言った。明日。そう、「明日」。
「はい。また明日」
僕も、里木さんにそう答えた。
その日、大学の授業が終わった後、僕は駅前通りの脇道の商店街へ行って花屋を探した。そして、花の鉢植えを買った。
僕が買った花は……「モラエラ」。青い花。小さくて、かわいくて、でも清楚で、きれい。里木さんみたいな花だ。
僕は青空台のあの場所、里木さんがラピスラズリの粒を落としたあの場所、ハクモクレンの木の下に戻った。そしてそこに、そのモラエラの鉢植えを置いた。
わかってる。僕に、この日の未来はない。僕にはこの日の明日はやってこない。だから、里木さんがこの花を見てくれるのかどうか、僕にはわからない。でも……それでも。
9月20日、水曜日。僕が里木さんに初めて会った、僕が里木さんのラピスラズリの粒を拾ってあげた、あの日の翌日。
僕は同じ道を通って大学に向かっていた。アパートから駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って……青空台へ。
ハクモクレンが並ぶ歩道。僕は同じ角を曲がって、同じ道順を歩いた。あの人、里木聖冬さんが待っていてくれるあの場所をめざして。
この日も僕は里木さんに会える。この日、里木さんから、前の日のお礼として手作りのクッキーを持って僕を待っていてくれる。
三つ目の角を右に曲がった。
いた。ハクモクレンの木の下に、里木さんが立っていた。こっちを、僕の方を向いて。
僕はじっと里木さんを見た。少し距離があったけど。少しでも長く里木さんを見ていられるように。里木さんのちょっとした仕草も見逃さないように。
僕の姿を見つけると、里木さんは姿勢を正してお辞儀をしてくれた。里木さんは頭を下げる前に、ちょっとだけ微笑んでくれた。確実に、微笑んでいた。僕を見て、微笑んでいてくれた。
里木さんはそれから小さく右手を振った。僕は、わざとゆっくり歩いた。里木さんの目の前まで、そこまで歩く、その時間さえもいとおしかった。
里木さんも待っていてくれた。じっと待っていてくれた。里木さんは僕を見つめていてくれた。微笑みながら。
「昨日はありがとうございました」
僕が里木さんの前で立ち止まると里木さんがお礼を言ってくれた。
「どういたしまして」
里木さんが僕の前に紙袋を差し出した。
「これ、お礼にと思って。クッキーです」
そう、クッキー。里木さんが自分で焼いてくれた、クッキー。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言って、迷わずにその紙袋を受け取った。
「よかった」
里木さんが微笑む。まぶしい笑顔。
「経済学部の、クラタさん……でしたよね。大学までご一緒してもいいですか?」
僕たちは二人並んで大学に向かって歩き始めた。里木さんにとっては初めての、僕との、朝の五5分間のデート。そして僕にとっては……
「サトキ、ミフユさん、でしたね」
「はい」
「漢字で書くと、どういう字ですか?」
知っている。でも、それでも訊いた。
「サトキは、人里の『里』に、樹木の『木』、ミフユは、聖書の『聖』に、季節の『冬』、て書きます」
里木さんが答えてくれた。
「聖なる冬、ですね」
「聖なる、ていうか、キヨい、くらいかな? でも『聖』ていう字、『ミ』て読みませんよね」
里木さんはニコニコ微笑みながら話してくれる。
「そうですね……でも『聖』ていう字、「美しい」の『美』とか、敬語に使う『御』ていう字とニュアンスが似てるから、『ミ』でいいですよ」
「当て字ですよね」
そう言う里木さんは、とってもうれしそうだ。
僕はまた知っていることを訊いた。
「里木さんの誕生日って、12月のクリスマスの頃ですか?」
「はい、大当たりです。12月24日、クリスマスイヴ、まさにその日です。でもわたしの名前聞いた人で、誕生日はずした人、今までに一人もいないです」
里木さんがまたうれしそうに笑う。
「でも、いいことないですよ。わたし、クリスマスイヴと誕生日が一緒でしょ。毎年12月24日には両親がプレゼントくれるんですけど、いつも一緒にされちゃうんです。他の人は年に二回プレゼントもらえるのに、わたしは一回。なんか、損してる気分」
里木さんの表情から「損してる」という不満は微塵も感じられない。たとえ一回でも、両親からプレゼントがもらえることがうれしくてたまらない、そんな気持ちが伝わってくる。里木さんは両親のことも大好きなのだ。
「そういえば、ブレスレットは直りましたか?」
「あ……家に帰ってから、直してみようとしたんですけど、うまくいかなくて……それで、これ」
里木さんがショルダーバッグを僕の方に向ける。バッグの取っ手にあるのは、そう、水色のポーチ。
「前に作ったポーチがあったからちょうどいいや、て思って。一粒だけ、この中に入れて持ち歩くことにしたんです。残りは家においておくことにしました」
里木さんがその小さな水色のポーチを手に取って僕に見せてくれる。
「そうですね。そのポーチとってもかわいいですし。きっとおばあさんも喜んでますよ。大事にしてもらって」
きっとそうだ。そうに決まっている。
「ありがとうございます。そう言ってもらえるとうれしいです」
大学通りに出た。そして、僕たちは並んで横断歩道を渡って、正門からキャンパスに入った。
「里木さん」
僕は立ち止まった。
「はい?」
里木さんも立ち止まる。
「いきなりこんなことを言うと、変に思うかもしれないけど」
僕は里木さんの正面に立った。
「里木さんに会えてよかった」
「はい? あ……はい」
里木さんは少し驚いたような表情をした。
「でも、ひょっとしたら、僕が里木さんに会うことは、もう、ないかもしれない」
僕は里木さんの目を、ラピスラズリのような、いや、もっと大きくて深い色の、里木さんの目を見ながら話した。
「え? どういうことですか」
里木さんが戸惑っている。それはそうだろう。でも、僕は続ける。
「里木さんはきっと、僕のことを忘れてしまう」
「そんなことは……」
言いかけた里木さんの言葉が止まった。驚いたのだと思う。僕が、僕が涙を流していたから。
「大丈夫ですか?」
里木さんが心配そうに声を掛けてくれた。
「……大丈夫」
そう言って、僕は下を向いていた。里木さんの顔を見ることができなくなっていたから。
「……でも」
僕は顔を上げた。
「でも僕は、あなたのことを、忘れない」
里木さんは何も答えない。何て答えたらいいのかわからないのだろう。
「忘れないから」
そう言って、僕はそのまま右を向いて歩き始めた。
里木さんはきっと、僕を見ている。僕を見送ってくれている。そう思った。でも僕はもう、振り返らなかった。
9月19日、火曜日。
やってきた。とうとう、とうとうやってきた。この日。僕が里木さんに初めて会った、あの日。あの最初の日。この日は大学の夏休み明けの授業初日、のはずだ。でも、冬から秋に時間をさかのぼってきた今の僕に「夏休み明け」という感覚はない。
僕はアパートを出た。駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って……着いた。青空台
歩道の街路樹、ハクモクレン。冬にはすっかり枯れて茶色くなってた葉は、今は緑色だ。
僕の時間の中で、今の青空台は「秋」から「夏」に向かっている。ハクモクレンの葉を揺らす風には、わずかながら「熱気」が感じられる。少し前にはあんなに冷たかったのに。
大きく深呼吸をして、僕は青空台を歩き始めた。
三つ目の角を右に曲がると、前方に人の姿が見えた。白い壁沿い、歩道の30メートル先、ハクモクレンの木陰を歩く後ろ姿。
白い上着、白いスカート。黒くて長い髪。流線形の、そう八分音符の髪。里木さんだ。
里木さんは、周りの景色を見ながらゆっくりと歩いている。
僕は……僕は動かなかった。立ち止まったまま、里木さんの後ろ姿を見ていた。
もうすぐだ。もうすぐあの場所、あの、ラピスラズリを落とした、あの場所だ。
僕は歩道の角の白い塀の陰に身を隠した。
来た。その時が、来た。
里木さんが立ち止まり、こちらを振り向いた。「振り向いた」と言ってもその顔は僕の方を見ていない。足元と、その周辺の 地面を見回している。右手で左の手首を抑えて。そう、ブレスレットが切れて、ラピスラズリの粒が散らばってしまったのだ。
里木さんがしゃがみこんだ。そして散らばったラピスラズリの粒を拾い集めはじめた。
僕は、動かなかった。そのまま塀の陰にいた。
しばらくして、里木さんが立ち上がった。周りの地面を見回している。残った粒がないか確認しているのだ。
里木さんが自分の手のひらと肩に掛けたショルダーバッグを交互に見る。里木さんの困った顔を思い出す。僕は里木さんに駆け寄りたい衝動を抑えた。
里木さんが再びしゃがみ込んだ。集めたラピスラズリの粒を一旦地面に置いたようだ。それからショルダーバックを下ろして、中から何かを取り出した。白いハンカチだ。それを地面に広げて、その上にラピスラズリの粒を移している。
僕がいれば……あの時僕は、いったん僕の手のひらの中にラピスラズリの粒を受け取ってあげて……でも、僕は動かない。動いちゃいけない。いけないんだ。
里木さんが立ち上がって、うしろに束ねていた髪の毛をほどいた。ラピスラズリの粒を包み込んで袋にしたハンカチを留めるためにヘアバンドをはずしたのだ。ハラリと広がる黒い髪。首を振る仕草。あの時の甘い香りを思い出す。
里木さんがまたしゃがみ込んだ。ヘアバンドでラピスラズリの粒の入ったハンカチの袋を留めようとしているのだ。時間がかかっている。うまくできないのだろうか。心配になる。
ようやく里木さんが立ち上がった。ショルダーバッグの中にハンカチの袋を入れている。もう一度あたりを見回して、それから、歩き出した。大学の方に向かって。僕に背を向けて。何度か、心配そうに振り返りながら。
里木さんの姿が見えなくなってから、僕も歩き出した。里木さんが、ラピスラズリの粒を落としたあの場所に向かって。
僕はその場所に立った。さっきまで里木さんがいた場所。ラピスラズリの粒を拾い集めていた場所。
念のため僕は周囲の歩道を見回してみた。ハクモクレンの植え込みを囲むブロックと白い塀の間のアスファルトの上には、もう何もなかった。そう、これでいい。これでいいんだ。僕はうなずいた。自分に言い聞かせるために。
その時。
植え込みの中のハクモクレンの根元に、青い葉が一枚、落ちているのが見えた。僕は気になって、しゃがみ込んでその葉をどけてみた。
あった。灰色の木の根に挟まれるように、青い粒が一つ。あの、ラピスラズリの粒が、一つ。
僕はそれを右手の指で摘まみ上げた。立ち上がって、左手の手のひらにその粒を乗せた。
しばらくの間、僕はその青い粒を見つめていた。
それから、願った。ラピスラズリの青い粒に向かって、僕は願った。
8 明日
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
うつ伏せの姿勢になって、手を伸ばす。ギターケースに乗せた目覚まし時計の上部にあるボタンを押して電子音を止める。
見慣れたデジタル表示の時刻が光っている。
「6:00」
時刻表示のすぐ下にある日付は……「9/20」。9月20日。9月19日の次の日。
僕の時間がまた、未来に向かって流れ始めたということだ。
僕はこの前の日、青空台で里木さんがラピスラズリの粒を落としたのを見ていながら、里木さんに近づかなかった。そう、僕は里木さんと、出会わなかった。
僕は、一粒だけ残っていたラピスラズリの粒を拾った。そして、願った。ラピスラズリの粒に、願った。
「明日」がやってきますように、「未来」に向かって、時間が進みますようにと。
今、目覚めた僕は9月18日ではなく、9月20日にいる。僕が願ったとおりに。
僕はいつもより少し早く部屋を出た。そして……着いた。青空台。
あの場所、里木さんがラピスラズリの粒を落とした場所、僕が里木さんと最初に会った、そしてそれからも、里木さんが僕を待っていてくれた場所は、三つ目の角を右に曲がった先の歩道だ。
僕はその一つ手前、二つ目の角に立った。そしてそこで、里木さんを待った。そこからなら三つ目の角を通る里木さんの姿を横から見ることができるはずだ。
前の、そしてその前の9月20日、里木さんは僕のことを待っていてくれた。ラピスラズリを拾ってあげたお礼の、手作りのクッキーを持って。
でも昨日、今の僕にとっての昨日、僕は里木さんに出会っていない。ラピスラズリを拾ってもいない。今日が、その「昨日」の次の日なら……
残暑の中に、秋の気配を含み始めた空気を吸って、僕は待った。
来た。里木さんだ。
里木さんは前を向いて、でも時々周囲に視線を移しながら、そして微笑みながら、まるで笑いかけているように歩いていた。 僕は塀の陰に身を隠した。
里木さんが三つ目の角を通り過ぎた。僕は走って三つ目の角に移動した。角の先の歩道に里木さんの後ろ姿が見えた。
里木さんがあの場所に差し掛かる。あの、ラピスラズリの粒を落とした場所に。
里木さんは、少しだけ周囲の地面に目を落としたように見えたけど、それでも足を止めずにあの場所を通り過ぎた。
僕は里木さんを見送った。遠くからだったけど、肩に掛けたショルダーバッグの取手に小さな水色の袋が揺れているのが見えた。ラピスラズリの粒を一粒入れた、お守りの、手作りのポーチ。
里木さんの姿が見えなくなった。
僕は歩き出した。そして、あの場所に立った。
大丈夫。この日は、僕が里木さんに出会った、里木さんが落としたラピスラズリの粒を拾ってあげた、あの日の次の日じゃない。僕が里木さんに出会わなかった昨日の、次の日だ。
ほっとした。安心した。でも……でも、寂しかった。僕は里木さんに出会わなかった。だから、里木さんも僕に出会わなかった。里木さんは、僕を知らない。そう、僕たちは、出会わなかったんだ。
次の日は、9月21日。そう、9月20日の次の日。その日もやってきた。目覚めてすぐに時計を見た。日付は確かに9月21日だった。
僕は部屋を出た。駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って、青空台へ。
僕は前の日と同じ二つ目の角で里木さんを待った。
いつもの時間。来た。里木さん。
里木さんは前の日と同じように、時々周囲に視線を移しながら歩いている。
里木さんが三つ目の角を通り過ぎると、僕もまた三つ目の角に移動した。
里木さんがあの場所に差し掛かる。里木さん足を止めない。里木さんはもう、地面に目を落とすこともない。すぐそばにあるハクモクレンの樹を見上げながら歩いている。
里木さんの姿が見えなくなった。
大丈夫。大丈夫だ。時は流れ始めている。僕はすぐそばにあったハクモクレンの枝のまだ緑色の葉と、そしてその遥か上の澄んだ空を見つめた。
その次の日、9月22日。僕はもう青空台には行かなかった。駅を抜けると駅前通りを真っ直ぐ北に歩いて交差点を左に曲がり、大学通りの坂を登って大学へ行った。大学には8時ちょうどに到着した。里木さんはまだ青空台を歩いている頃だろう。
僕はもう、里木さんに会わない。里木さんとは関わらない。そう決めていた。
1時限目の授業の後、慶野君が僕に声をかけてきた。大学で学唯一、友達に近い存在の慶野君。
「大学通りにあるイタリアンのレストラン、知ってるか?」
知ってる。よく知ってる。
「『マゾリーノ』ていう店。高級そうで値段も高そうだったから敬遠してたんだけど、最近、学生向けのランチを始めたらしいんだ。それがなかなか評判いいらしい。行ってみようぜ」
「いや、やめておくよ」
僕はそう答えた。
「なんだ。倉田なら乗ってくると思ったんだけどな……」
慶野君が残念そうに言う。
「だって、人気の店ならきっと混んでるよ。せっかく行っても入れないかもしれない」
「だから、授業終わったらすぐに走って……」
「そこまでしたくない」
「……そうか」
「それに、男二人でイタリアンでもないだろ。昼はいつもどおり学食行こう」
「うん……」
慶野君はまだあきらめきれない様子だ。
「そうだ、今日は学食のラーメンおごるよ」
「なんで?」
「……慶野君にはいろいろ世話になってるし。まあ、たまにはいいだろ?」
「そうか……そういうことなら……」
慶野君が了承してくれた。この日、僕と慶野君はマゾリーノへ行かない。だから、マゾリーノで里木さんと福波さんに会うこともなくなった。里木さんと福波さんはきっと、マゾリーノに行っても満席で入れない。可愛そうだけど、仕方ない。
僕と慶野君は、教室の席を出口の近くに移動することもなく、同じ席で授業を受けた。そして授業が終わると、二人で歩いて、学食へ向かった。
9月25日、月曜日。僕は駅から駅前大通りを歩き、バス通りの坂を登って大学へ行った。もう青空台は歩かない。
この日も昼休みは慶野君と二人で学食へ行った。マゾリーノへは行かない。当然、四人の「ランチ会」が発足することはない。グループラインも作らない。カラオケへ行こうという話も起こらない。
これでいい。そう、これでいいんだ。
大学の授業が終わってアパートへ帰ると、僕は一人、クラッシクギターを弾いていた。誰に聞かせるわけでもなく。
9月26日の火曜日も、次の水曜日も、木曜日も何事もなく過ぎた。
そして、9月29日の金曜日。この日は里木さんと、そして慶野君と福波さんの四人でカラオケに行った日。でも今の僕は、カラオケになんか行かない。
授業が終わった後、慶野君は軽音のバンドの練習に行った。だから、慶野君が里木さんを電車で送って行くこともない。
里木さん、そして福波さんが、どうしているのかは、知らない。わからない。
10月になった。1日の日曜日、台風が来た。僕はアパートの部屋で、一人で窓の外を見ていた。
台風は残暑を吹き飛ばし、秋が来た。
2日の月曜日、そして3日の火曜日が過ぎた。
僕は里木さんと出会っていない。だから、里木さんとクラッシックギターのサークルの話をすることはない。もちろん里木さんがアパートの僕に部屋に来ることも、里木さんにギターを教えてあげることもない。里木さんの前でギターを弾くことも、下手な歌を聴かせることも、里木さんの手を握ることも、そして里木さんと、キスをすることも……ない。
10日が過ぎた。10月13日、金曜日。
大学からの帰り道、僕は大学通りを一人で歩いた。
いつき庵の前に来た。覚えている。この日僕は、店から出てきた藤川さんに頼んで、いつき庵で働かせてもらうことになったんだ。
僕はいつき庵の前で立ち止まった。
「カラカラカラ」という音がして引き戸が開いた。中からが着物を着た女の人が出てきた。藤川さんだ。
どうしよう。一瞬、迷った。僕が藤川さんに話しかけて、いつき庵で働くことになったとしても、それは里木さんとは関係ないことかもしれない。でも……今の僕が、このままずっといつき庵で働き続けることはできない。働き始めたとしても、遠からず僕は、いつき庵を辞めることになる。そうなればかえって迷惑をかけることになるだろう。だから……
僕はそのまま歩いた。藤川さんに背を向けて。藤川さんはきっと、僕のことなど見ていない。
「カラカラカラ」という音がした。暖簾を掛けて、店の中に戻った藤川さんが引き戸を閉めた音だ。
藤川さん、大将、いろいろ、ありがとうございました。僕は心の中で、改めてお礼を言った。
さらに3週間が過ぎた。大学のキャンパス内にある銀杏の葉は黄色くなり始めていた。
11月12日、日曜日。景正大の大学祭。慶野君のバンドが軽音部のコンサートで演奏する日。僕も会場のコンサートホールに行った。
ステージの上では慶野君たちのバンドの演奏が始まっている。僕は客席の脇の通路を前に進んだ。
前の方、里木さんと福波さんが声援を送っていた席。いた。福波さんだ。立ち上がって手拍子を打っている。でも、里木さんは……いない。里木さんの姿は見えない。里木さんは、コンサートに来ていない。
慶野君には申し訳なかったけど、そのことだけ確認して僕はコンサートホールを出た。冷たい風が吹いていた。黄色くなった銀杏の葉が、それでもまだ必死にしがみついているように見えた。
さらに1か月が過ぎた。キャンパス内の銀杏の葉は散り落ちてしまった。もうしがみついていることもできない。
今の僕の世界にはマゾリーノのランチ会は存在しない。だから、ランチ会で、笑わない里木さん、我慢して、悲しそうにしている里木さんを見ることもない。もちろん、笑ってる里木さんも。
12月17日、日曜日。夜。いつき庵のバイトの帰り道。駅前通り。いつか、四人で、僕と、慶野君と、福波さんと、そして里木さんと行ったカラオケ店の手前。
カラオケ店から二人の男女が出てくるのが見えた。二人はそのまま駅に向かって歩いて行く。寄り添って、腕を組んで。慶野君と、福波さんだ。
僕が里木さんと出会わず、マゾリーノにも行かなかったから、慶野君もまた、里木さんとも福波さんとも出会うことはなくなった。その結果、里木さんが慶野君と付き合うことも、里木さんが傷つくこともなくなった。
でも、慶野君は里木さんの後、福波さんと付き合っていた。二人の、慶野君と福波さんの未来は、どうなってしまったのか? そのことも気になっていた。
翌日、12月18日、月曜日。
大学の教室。一時限目の授業が終わるとすぐに、僕は慶野君を捕まえて話しかけた。
「慶野君」
「おう」
慶野君の、いつもと変わらないさわやかな笑顔。
「あのさ、前から聞きたかったんだけどさ、慶野君て、もてるだろ?」
「なんだ、急に」
慶野君は少し怪訝な顔をした。
「背も高いし、かっこいいし、バンドやってるし」
「……まあな。自分で言うのもなんだけど。それがどうした」
「で、彼女とか、いないのかな、て思って」
「……」
慶野君が不審そうに僕を見る。
「彼女ができんたんじゃないかな、て思って」
「……なんでだ?」
「実はさ、昨日、バイトの帰り、夜、駅前通りを歩いてて……見たんだ。慶野君が女の人と歩いてるの」
「なんだ、そういうことか。別に隠すつもりはない。できたよ。彼女」
「そうか、よかった。おめでとう」
よかった。本当によかった。心からそう思った。
「……あ、ありがとう」
慶野君にすれば僕から祝福されることでもないのだろうけど。
「で、どんな人」
念のため訊いてみた。
「うちの文学部の一年。この前の学祭のコンサート見て好きになったって、軽音の部室にオレのこと訪ねてきた」
「……そうなんだ。積極的な子だね」
「ああ。明るくて活発な子。彩香、福波彩香、ていう」
「ふ~ん」
知ってる。よく知ってる。
僕は里木さんのことも気になっていた。
「それで、その子、いつも友だちいっしょにいない?」
「友だち? いや」
「髪の長い、おとなしめの子とか」
「いや、知らない。それがどうした?」
「いや、何でもない」
僕は笑ってごまかした。
「お祝いに、昼ご飯おごるよ。学食のラーメン」
「そうか、悪いな」
慶野君が笑って答えた。
「倉田、お前……いいやつだな」
慶野君が言った。慶野君も、いいやつだ。ほんとに、いいやつだ。
12月19日、火曜日。あの日。あのことがあった日。
一度目、傷ついた里木さんに何もしてあげられなかった日。二度目、里木さんを抱きしめた日。そして今日、三度目。
朝。久しぶりの青空台。僕が最後に青空台へ来たのは9月21日だから、3か月ぶりだ。
僕はこの前に来た時と同じ場所、里木さんの姿を横から見ることのできる二つ目の角に立った。そして待った。里木さんを待った。
来た。青いマフラー、黒い髪。里木さんだ。僕が里木さんの姿を見るのも三カ月ぶりだ。
里木さんが三つ目の角を通り過ぎると、僕もまた三つ目の角に移動した。里木さんの後ろ姿が見えた。
里木さんが立ち止まった。あの場所、いつか、ラピスラズリの粒を落としたあの場所で。
里木さんはハクモクレンの樹を、そして空を見上げた。そらからゆっくり、ぐるっ、と一回りして、周囲を見回した。景色を堪能している様子だ。
こちらを向いた時、少しだけ里木さんの表情が見えた。その顔は……微笑んでいた。楽しそうに微笑んでいた。そうやって、この日も里木さんは朝の青空台を楽しんでいるのだ。
大丈夫。大丈夫だ。里木さんは幸せだ。
里木さんが再び歩き始めた。僕は塀の陰から出て歩道の角に立った。そして里木さんのうしろ姿を見送った。
里木さんの姿が見えなくなるまで、ずっと、ずっとずっと、その後ろ姿を見送っていた。
12月20日、火曜日。朝。僕は青空台を歩かない。そして12月21日の朝も。
いつか、あの最初の時間の中で、12月20日、21日、そして22日、里木さんは体調を悪くして朝の青空台に現れなかった。僕と会いたくなかったからかもしれない。
今、僕が生きているこの時間の中では、里木さんはいつものように朝の青空台を笑顔で歩いているのだろうか。そうあってほしい。いや、きっとそうだ。僕はそう思った。
12月22日になった。この日も僕は青空台へは行かない。里木さんにラインをすることもない。だから、里木さんと12月24日に会う約束をすることはない。僕と里木さんは、知り合いでも何でもないのだから。
そうして、12月22日が、23日が、通り過ぎて行く。
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
うつ伏せの姿勢になって手を伸ばす。ギターケースの上に乗せた目覚まし時計の電子音を止める。デジタル表示の時刻は「6:00」。
時刻表示の下にある日付は……「12/24」。
来た。12月24日。クリスマスイヴ。里木さんの誕生日。
僕はすぐに部屋を出た。快晴。空の色は、濃い青。ラピスラズリ。風が強い。
駅から電車に乗って、里木さんの家の最寄りの駅へ。
着いた。時刻は7時20分。
改札を出ると住宅街側の階段を降りた。ロータリーとクリスマスツリー。ロータリーと歩道の間には車除けのポールが並んでいる。僕はそのポールの前に立った。
それから、待った。その時が来るのを。
里木さんは来ない。来るはずない。僕は、里木さんが来ないことを確認するために、そこにいた。
日曜の朝のせいか、駅に向かう人はそれほど多くない。僕は、僕の脇を通り過ぎる人たち一人ひとりの顔を見た。
あと一時間もすると、この人たちも皆、地震に巻き込まれる。無事でいられるだろうか。占い師さんは、里木さん以外に亡くなった人や、大きな怪我をした人はいないと言っていた。信じよう。その言葉を信じよう。
そして里木さんも、無事にその時をやり過ごせる、はずだ。
スマホで時刻を確認する。8時になった。8時30分、8時40分。42分、43分。
僕はロータリーの周りの歩道を見回した。里木さんの姿はない。
僕はポケットの中からラピスラズリの粒を取り出した。あの日、青空台で里木さんが落とした、そして僕が拾った、一粒のラピスラズリ。
僕は祈った。一粒のラピスラズリに、願いを込めて。里木さんが……里木さんが無事でありますように。
8時44分、そして……8時45分。
地震は……起こらない。何も起こらない。
8時46分、8時47分……時間は進む。何も……起こらない。
僕の……僕の祈りが通じた。
9時……10時……
何も起こらない。
そういうことか。僕が里木さんとの結びつきを断ち切ったことで、世界が変わってしまった。
そもそも、あの日から世界は変わっていた。マゾリーノランチ会は存在しないし、僕はいつき庵で働いていない。
だから……地震も起こらない。
それでも僕は、そこにいた。里木さんの住む街の、駅の前に、いた。
夜になった。
住宅街の家々に明かりが灯っている。きっと今頃、里木さんは、両親から19歳の誕生日を祝ってもらっている。
「メリークリスマス。そして、お誕生日、おめでとう、里木さん」
僕は、星空のような街に向かって、小さな声で、そう呼び掛けた。
9 今日
聖冬はまた、夢を見ていた。
「十九個目のラピスラズリ、倉田君が拾ってくれたよ」
「そうだね。そしてそれを、ここまで持ってきてくれた」
ソファに並んで座る祖母が答えた。
「わたし、十九歳になれるの?」
「ああ、そうだよ。あの子が、石といっしょに聖冬をここまで連れてきてくれたから。そのために、あの子には少し辛い思いをさせてしまったけど……」
「でも、二十歳のわたしは? 二十一歳のわたしは?」
「……大丈夫。あの子がずっと、守ってくれる」
「わたし……行ってもいい?」
「ああ、もちろんだよ。お行きなさい……あの子のところへ」
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
うつ伏せの姿勢になって、手を伸ばす。ギターケースの上に乗せた目覚まし時計のボタンを押して電子音を止める。
暗闇の中に見慣れたデジタル表示の時刻が光っている。
「6:00」朝の6時だ。
そしてその下に表示された日付は……「12/25」。12月25日、クリスマス。
そう、今日は、12月24日の翌日だ。
仰向けになって考える。これからの僕がすべきことを。
僕は明日、実家へ帰る。そして両親に僕の思いを話すつもりだ。
景正大を、辞める。東京のアパートを引き払って、実家へ戻る。そして来年、地元の大学を受験しなおす。
そうすれば……そうすればもう、僕が里木さんと会うことはない。里木さんの運命が、僕のせいで悪い方向へ向かうことはない。
きっと両親は驚くだろう。反対するかもしれない。それでも……それでも僕は。
ギターケースの上のスマホを手に取る。何気なく開いたニュース画面。そこに表示されていた記事の見出し……
『地震による建物の被害は甚大ながら犠牲者なし。防災対策の成果か」
「えっ」
僕は起き上がった。スマホのニュース履歴を確認する。
「12月24日午前8時45分 首都圏に地震発生 最大震度……」
やっぱり、やっぱり地震はあったんだ。ということは……
電話の履歴を確認する。実家の母親と何度も通話している。どういうことだ……僕には、僕には記憶がない。
すぐに通話してみた。
「知春? 大丈夫? 昨日はたいへんだったね」
母親の声。安心する。
「昨日も言ったけど、手伝うことがあったらすぐに飛んで行くからね!」
「あ……ありがとう」
昨日、地震があった昨日、僕は母親に連絡しているということだ。
電話を切って、ラインを確認する。
『生きてるか?』
慶野君だ。
『僕は大丈夫。福波さんは?」
『彩香も無事だ』
そのやりとりにも、僕は記憶がない。
里木さん……里木さんは?
スマホを確認する。スマホには、「マゾリーノランチ会」のグループラインも、里木さんのラインも電話番号もあった。
改めて思う。今日は、僕が里木さんと出会った、そして慶野君と福波さんと過ごしたあの日に連続する「今日」なんだと。
ということは、昨日、里木さんは、僕と待ち合わせた駅の階段で……
電話にもラインにも、昨日から里木さんとのやり取りの記録はない。
そのままスマホで里木さんに電話する。
繋がらない。
ラインを打つ。
『大丈夫ですか』
返事は……ない。「既読」にならない。
もう一度枕元のギターケースの上を確認する。置いてあったはずの、一粒のラピスラズリが、ない。
あの日、青空台で里木さんが落としたラピスラズリ。その後、僕が拾ったはずの、ラピスラズリ。
僕はそれを……拾っていないんだ。
僕はすぐにアパートを出た。まずは……駅だ。里木さんと会った、里木さんの家の最寄りの駅だ。
電車は動いていた。電車の中で思い出した。
藤川さんは? いつき庵は?
藤川さん個人の電話やラインは知らない。いつき庵に電話する。出ない。まだ朝の7時前だ。誰もいないのだろう。
駅に着いた。駅員さんを見つける。
「里木さん、いや、昨日、ここの階段から落ちた人はどうなりましたか!」
「いや……大きな地震でしたが、お陰様で大きな怪我人は出さずに済んで……」
僕の勢いに怯みながら駅員さんが答える。
だとしたら……駅の階段を降りて駅前に出る。駅前から住宅街を見た。
どこだ……里木さんの家は、どこだ。わからない。僕は知らない。
そうだ、あの占い師さんなら……
僕はまた電車に飛び乗った。
電車の中で、僕のスマホに電話が入った。里木さん、ではなかった。いつき庵からだった。
「電話くれた? 昨日は余震が怖くて店に行けなかったから、今日は朝から片づけで……」
藤川さんだ。
「すみません。今日は手伝いに行けそうもありません」
「いいのよ、倉田さんもたいへんだろうから……」
「あの、大将は?」
「一緒よ。文句を言いながら片付けを始めてる」
よかった。藤川さんも大将も無事だ。でも、里木さんは……
駅から駅前大通り、そして脇道の商店街へと走った。
あの雑貨店が見えた。シャッターが閉まったままで、中の様子はわからなかった。あの店員さんも、どうか無事でありますように。
向かいのビルを見た。「占い 未来の窓」の看板……が、ない。ビルの中には入れたので、階段で四階へ上がった。
「未来の窓」が、ない。あの占い師さんのいた「未来の窓」のドアがあった場所は、非常口だった。ドアを開けてみると、そこはビルの外側の非常階段だった。
どういうことだろう。不思議だった。でも……仕方ない。きっと、そういうことなんだろう。僕はなぜか、「未来の窓」がないことに納得していた。
でも、それなら僕は、どこへ、どこへ行けばいい? どうすればいい? どうすれば、里木さんに会える?
青空台……
頭に浮かんだ。青空台。僕が初めて里木さんに会った場所。何回も、デート、朝の5分間のデートを重ねた場所。青空台。
でも、こんな日に? こんな時間に? でも……それでも。
僕は、青空台へ向かった。
商店街からその先の公園を走り抜けて……着いた。青空台。
三つ目の角。角の先は、あの場所。里木さんと初めて会った、そして里木さんが僕のことを待っていてくれた、あの場所。白い塀沿いの歩道、ハクモクレンの木の下。
僕は、角を右に曲がった。
前方に後ろ姿が見えた。30メートル先。白いコート。黒くて長い髪。それが首のうしろあたりで一回束ねられて、きれいな流線形を作っている。そう、八分音符だ。
まさか……
心臓が高鳴った。走って、早くなっていた鼓動が、さらに。
そんな……そんなことって。でも、やっぱり……やっぱり、里木さん。里木さんだ。
里木さんが振り向いた。僕の方を振り向いた。そして微笑んだ。微笑んで、小さく右手を振った。
走った。僕は里木さんに向かって走った。
間もなく。僕は里木さんの目の前に立っていた。
「……ありがとう。倉田さん」
里木さんが言った。
何が……何がありがとうなんだろう。僕は……僕は何もしてないのに。いや、それよりまず、里木さんが無事だったことを……
声が出なかった。ずっと走っていたせいで、息が切れていた。
「ずっと、見てましたよ」
里木さんが言った。
「あなたが、わたしのためにしてくれたこと」
僕が……僕が何を?
「ここで、この場所で、わたしを抱きしめて、慰めてくれたこと」
え? それは……いつのこと? 無くなってしまったはずの、あの日のことでは……
「いつき庵で、おいしい和食を食べさせてくれたこと」
そうだ……でも、それも……
「ここに、わたしの好きな青い花、そう、モラエラを置いてくれたこと」
そんな……あの日のことも知っているのか?
「あなたの部屋で……あなたにギターを教えてもらって……それから、あなたとキスをしたこと……」
そう。そうだ。消えてなかった。消えてなかったんだ。あの日のことも、あの日々も、里木さんの中から消えてなかったんだ。
「そしてあなたはいつも、わたしのことを見つめていてくれた」
その通りだ。だって僕は……
「あなたはわたしを助けてくれました」
助けた?
「大地震があった時、駅の階段から落ちそうになったわたしの手をつかんで、あなたはわたしを抱きとめてくれた」
え? あの手は……あの手は里木さんに届かなかったのでは……
「地震が治まるまでずっと、わたしを抱きしめていてくれた」
そんな……そんなことが……知らない。僕は……そのことを知らない……
「倉田さんいてくれなかったら、きっとわたしは助からなかった」
いや、そうではなくて、僕のせいで、僕がいたせいで、里木さんは……
泣いていた。いつの間にか、僕は泣いていた。
そして、いつの間にか里木さんも、涙を流していた。
「地震の後、あなたはわたしのことを家まで送ってくれました」
里木さんが続けて言った。
「それからあなたは、わたしにプレゼントをくれた……二つ。わたしのお誕生日と、クリスマスのプレゼント」
里木さんが、首に掛けたペンダントを手に取って見せてくれた。鎖の先に、銀色の金属でできたしずくの形、そう、ティアドロップの形の小さなカプセルが付いたペンダント。
「あなたに言われたとおり、祖母の形見のラピスラズリを一粒、この中にいれています」
そうだ。商店街の雑貨屋さんで、僕が買ったペンダントだ。
「それから……これも」
里木さんが左手を上げた。里木さんの左の手首には……青い粒、ラピスラズリの粒を輪にした、ブレスレット。僕が雑貨屋さんで、ペンダントといっしょに買った、ブレスレット。
「このブレスレットが、これからのわたしを守ってくれる」
違う。そう思った。違う、そうじゃない。
あの占い師さんも言っていた。
「水晶自体に魔力のようなものがあるわけではありません。水晶に向かって願うことで、自分の意志をそこに集中できるのです」
ラピスラズリのブレスレットが里木さんを守るんじゃない。そう、里木さんを守るのは、僕だ。この僕だ。
「わたしにこのプレゼントを渡しながら……あなたは、言ってくれました……」
里木さんが言った。
わかる。僕がその時、なんて言ったのか、僕にはわかる。
「それは……僕に言わせてください。もう一度、ここで、僕に言わせてください」
ようやく声が出た。
里木さんが、うなずいた。泣きながら、うなずいてくれた。
僕は、里木さんの目を見た。ラピスラズリの粒の、それよりももっと大きくて、もっと深い色の瞳を見た。
「里木さん! 里木聖冬さん! 僕は、あなたのことが好きです! 大好きです! 愛してます!」
(完)