11月になった。
 僕は時間をさかのぼり続けていた。ただ流れのままに。何も願わず、何かに祈ることもなく。
 里木さんは10月の初旬から慶野君と付き合い始めた。それから、12月14日に慶野君から福波さんとのことを告げられるまでの間は、里木さんは慶野君と、幸せに、楽しく過ごしていたはずだ。だからその間、僕がすべきことは、何もない。僕は何もしない方がいい。そう思った。
 僕はただ、すでに一度受けている大学の授業を受け、いつき庵で働いた。大将と藤川さんには精一杯のお礼をしないといけない、そう思っていた。仕事に集中していれば、僕自身も余計なことは考えないでいられるし。
 
 11月12日、日曜日。景正大の大学祭。慶野君のバンドが学内コンサートで演奏する日。
僕もその会場に行った。会場は学内のコンサートホール。僕が入った時にはもう慶野君のバンドの演奏が始まっていた。
 場内は暗くて、バンドが演奏しているステージだけがライトアップされていた。大きな音が響く中、前の方では何人かの学生が立ち上がって声援を送っていた。  
 僕は里木さんを探した。客席を一列ずつ確認しながら、客席の脇の通路を前に進んだ。
 いた。里木さんは、前の方の席に福波さんと並んで座っていた。僕は里木さんの姿を横から見る形で壁際に立った。場内は暗かったし、ステージの方を見ていればきっと僕には気がつかないだろう、そう思った。
 慶野君には悪いけど、僕はステージの方は見ていなかった。僕はずっと、里木さんのことを見ていた。
 福波さんは大きな声で声援を送ったり手を振ったりしていたけど、里木さんただ胸の前で小さく手拍子を打っていた。でもその視線はずっとステージの上の慶野君を追いかけていた。里木さんは、笑顔だった。その表情を見て、安心できた、ような気がした。
 慶野君たちの演奏が終わるのを待つことなく、僕は、ホールの出口に向かった。

 10月になった。10月13日、金曜日。マゾリーノのランチ会。
 僕は、ただ里木さんの様子を確認するだけのためにランチ会に出席していた。この日も里木さんは、慶野君と話しながら、楽しそうにしていた。あの笑顔で。
 これでいい。そう、今日、この日は、これでいいんだ。僕はパスタを食べながら、一人でうなずいていた。

 大学からの帰り道。僕はいつき庵の前にいた。
 この日、僕は偶然お店から出て来た藤川さんに声を掛けて、いつき庵で働くことになる。
 僕は考えていた。もし今、僕がこのままこの場を立ち去ってしまったなら、藤川さんに声を掛けなかったら、この「今」に続く未来はどうなってしまうんだろう。僕の代わりに、他の誰かが働くことになるのだろうか。藤川さんはいい人をみつけることができるだろうか。その人は、大将とうまくやって行けるだろうか。
「カラカラカラ」という音を立てて引き戸が開いた。着物を着た女の人が出てきた。藤川さんだ。藤川さんは、引き戸の上の方に暖簾を掛けると、またお店の中に入って行こうとした。
 どうしよう。僕が今、藤川さんに声を掛ける意味はあるのだろうか……
 でも……それでもやっぱり。
「すみません!」
 僕は後ろから藤川さんに声をかけた。
 藤川さんが振り返った。
 藤川さんにも、大将にも、さんざんお世話になった。いや、これからお世話になるのだ。
 二人には精一杯のお礼をしたい。いつき庵で、目いっぱい働きたい。そう思った。
「ここで働かせてください!」
 僕は藤川さんに向かって頭を下げていた。

 10月6日、金曜日。マゾリーノのランチ会。
「え~、二人に言っておきたいことがあります!」
 立ち上がった慶野君が切り出した。
「て言っても、福波さんはもう知ってるのかな?」
「うん、聖冬から聞いてる」
「じゃ、倉田に、てこと? ま、いいか。ランチ会のメンバーに改めて公式発表します!」
 大丈夫。もう、わかっている。
「オレ、慶野圭太と、こちらの里木聖冬さんは、お付き合いすることに、つまり、恋人として交際することになりました!」
 福波さんがパチパチと拍手する。
 里木さんは、うれしそうに、幸せそうに、微笑んでいる。
 これでいい……これでいいんだ。今は、この瞬間は、このままでいい。
 僕はただ黙って、里木さんを見ていた。

 10月3日、火曜日。朝。久し振りの青空台。
 久し振り、というのは、僕にとって久し振りということ。僕がここに来るのは12月以来だから。
 やっぱり、里木さんは、いてくれた。あの場所に。僕たちが何度も会っていた、あの場所に。
 僕たちは並んで歩いた。それまでと、里木さんにとってのそれまでと同じように。
 僕は少し緊張していた。僕にとっては、里木さんとこうして歩くのはものすごく久し振りのことだ。でも理由はそれだけじゃない。里木さんに、きちんと言わないと。言っておかないと。そう思っていた。
 この日、僕にとってこの前のこの日、僕は里木さんに、こうやって会うのはやめよう、て言う。慶野君に悪いから、て。慶野君と里木さんはお似合いだから、て。でも、でも今の僕は。
 僕は一度深呼吸して、里木さんに話しかけた。
「里木さん、お話があります」
「え?」
 里木さん驚いた顔をした。
 僕は里木さんの前に進み出て、里木さんと向きあった。
「あの……僕と、付き合ってもらえませんか?」
「え?」
 大きな里木さんの目が一層大きくなった。
「僕は、里木さんのことが、好きです」
 里木さんが口に手を当てた。
「お願いします!」
 僕は頭を下げた。
「でも……あの……わたし……」
「返事はすぐでなくても構いません。お願いします!」
 僕は里木さんの言葉を遮った。慶野君のことは聞きたくなかったから。
 里木さんは、前の週、カラオケの帰りに慶野君から付き合ってほしいと言われている。でも里木さんはまだ慶野君に返事をしていない、まだ決められないでいる、はずだ。
 前回、ていうのは、僕にとっての前回、12月にラインで里木さんに「好きだ」、て告白したのは、里木さんが慶野君から慶野君と福波さんのことを聞かされた直後だった。だから僕の告白は、里木さんの慰めになったかもしれない。
 でも、このタイミングで僕が里木さんに告白することは、かえって里木さんを悩ませてしまうかもしれない。苦しめることになってしまうかもしれない。里木さんは、僕と慶野君、二人のどちらかを選ばなくてはならなくなってしまうから。里木さんは優しいから、二人のどちらも傷つけたくない、きっとそう思うだろう。きっとそう思って、苦しんでしまうだろう。
 でも……それでも……それでも僕は、里木さんのことが好きだ。僕が里木さんからこの日の返事を聞くことは、ない。でも……それでも。
 何か言おうとしている里木さんをそのままにして、僕は大学通りに向かって走り出した。
 僕は、里木さんの方を振り返らずに、ただ全速力で、走っていた。

 10月2日、月曜日。里木さんと慶野君、福波さんと四人でカラオケに行った次の週の月曜日。台風一過の、雲一つない快晴の朝。
 青空台。この日も里木さんは、あの場所で、僕のことを待っていてくれた。
「台風、すごかったですね。大丈夫でした?」
「はい。里木さんは?」
「大丈夫です。ずっと家にいましたから」
「いっきに秋になっちゃいましたね。今朝は少し寒いくらい」
「そうですね」
 そう、寒かった。
「カラオケ、楽しかったですね」
「そうですね。里木さん、歌、やっぱり上手ですね。声が、とっても良かった」
「そんなことないですよ。声量なくて」
 里木さんが恥ずかしそうに笑う。
「高校の合唱部の時は……メゾソプラノでしたっけ?」
「はい、そうです。どうしてわかったんですか?」
「いや……何となく」
 そのことは前に訊いていた。
「倉田さんの歌もよかったですよ」
「そうですか?」
 そう言われるとやっぱり照れた。
「あの……前にクラッシックギターのサークルの話、したじゃないですか」
 里木さんが言った。そう。その話だ。
「倉田さん、サークルには入らない、て言ってましたけど……」
 里木さんが言う前に僕の方から切り出した。
「僕、自分でサークル、作っちゃおうと思います」
「え?」
 里木さんが驚いた顔をした。
「よかったら、里木さんも参加してくれませんか? 僕のサークルに」
「わたしも同じこと考えてたんです。サークル、作ったらどうかって……」
「じゃ、決まりですね。二人でサークル、始めましょう!」
「はい! それじゃ、倉田さんが会長で、わたしが会員第一号ですね」
「ま、そういうことで」
「教えてくださいね、ギター」
「はい、もちろん。僕でよければ」
「よろしくお願いします!」
 里木さんが頭を下げてくれた。うれしそうだった。僕もうれしかった。
「活動の場所は……どこにしますか?」
 里木さんが言った。そう。そこだ。思い切って言ってみた。
「……僕のアパートじゃ、だめですか? ギター、部屋に置きっ放しですし」
「……はい!」
 少し考えてから、里木さんが答えてくれた。笑顔で。
「いつから始めますか?」
 笑顔のまま里木さんが続ける。
「……今日は、だめですか?」
 言ってみた。そう。僕には今日しかないのだから。
「……はい!」
 また少し考えてから、答えてくれた。
「それじゃ、授業が終わった後、いっしょに……」
「はい。帰りが少し遅くなるって、母に連絡しておきます」
「ありがとうございます」
「……こちらこそ」
 僕たちは、大学まで並んで歩いた。まるで、恋人同士みたいだって、僕は初めて思った。

 昼休み。授業が終わるといつものように慶野君が声を掛けてきた。
「学食行こうぜ」
「いや、今日はちょっと用事があって」
 僕は答えた。
「珍しいな」
 慶野君が怪訝な顔をした。
「ごめん」
「いや、実はな、お前に言っておきたいことがあって……」
 知ってる。慶野君が何を話したいのか、僕はわかってる。先週のカラオケの帰り、慶野君は里木さんを家まで送って、そこで里木さんに交際を申し込んだんだ。
「悪いけど、今日はだめなんだ」
 僕はその話を聞きたくなかった。
「それじゃ」
 僕は、不満そうな顔をしている慶野君をそのままにして、教室の出口に向かった。