その日は、とても肌寒かった。そして降り積もる雪と比例して、わたしの体調はここしばらくの好調の反動のように急激に悪化した。
生まれてこの方、体調が良い期間は数える程度しかないものの、ここ数ヶ月かつてないほど絶不調のこの身はもはや、布団を生涯の伴侶とする他なさそうだ。
万年床と化した布団に寝たまま見えるのは、幼い頃から変わらぬ古びた天井の木材と、雪見障子から覗く庭の景色の一部。
もう何年も見続けた、わたしの狭い世界の全て。
「……飽きたわ」
ぽつりと呟く声は、やけに静かな部屋に響いて消えた。
春乃は買い出しにでも出ているのだろうか。家の中に人の気配はない。
一人立ちを目論んでいたにも関わらず、体調が悪い時にはやはり心細くなるものだ。
寝転んでいるだけなのにぐるぐると回る目を閉じて、わたしはそれでも目蓋の裏に浮かぶ飽きるほど見た庭の景色に想いを馳せた。
一番大きく見えるのは、雪見障子の正面に生えた立派な松の根。そのすぐ近くに、わたしの名前の由来となったらしい桜の木がある。早咲きの桜はもうすぐ薄紅の花を咲かせて、散りゆく折には美しい吹雪を見せてくれることだろう。
他にもわたしのためにと植えられた花がたくさんあるが、冬の帳の降りた今は、彩り一つない。
「……桜、かぁ」
何年か前に、少し体調が良いからと駄々をこね、春乃とまだ冷える庭先で花見をしたことを不意に思い出す。
その時彼女が買ってきてくれたラムネは甘く、からんと鳴る涼やかなビー玉の音や、傾け日に透ける美しい瓶の煌めき。しゅわしゅわと口の中で弾ける楽し気な感触が今でも忘れられない。
上品ぶらずに瓶に口を付け仰ぎ飲むと、瓶越しに桜の花弁が天から舞い落ちるように見えた。
「今年はお花見、出来そうにないわね……」
咳に混ざるラムネとは程遠い血の味に、美しい記憶に蓋をして、諦めの言葉が溢れる。自分の身体のことは、自分が一番よくわかっていた。
もう都会に出ることは叶わない。けれどわたしが居なくなるのなら、どちらにせよ春乃はこの家から解放されるのだ。
たったそれだけで、何も持たないわたしが、何も出来ずこの先遠くない未来消えてしまうわたしが、何だか無敵になったような気さえしてくる。
死への恐怖がない訳ではない。けれど天国には、愛する両親が待っているのだ。それを想えば寂しくはなかった。
もしかすると、病弱で散々迷惑と心配をかけた挙げ句、家や会社を立て直すことも出来ず潰してしまうわたしは、地獄行きかも知れないけれど。
未練がない訳ではない。それでも、自由の身となった春乃がいつか、わたしの代わりに全て叶えてくれるのではないかと、独り善がりな空想をする。
桜の木に生まれ変わって、春の度に花弁を飛ばして彼女の行く末を見守るのもいいかもしれない。
気付くとすっかり渇いた唇は、幸福な空想に笑みを象り、少し切れてしまった。ぴりつく痛みと仄かな血の味に、わたしがまだ生きているのだと理解する。
そして桜の花弁に乗ったようにふわりふわりとした意識が布団の上に戻ってきて、春乃がいつからか傍らに居ることに気付いた。
「春乃、帰ってたの……?」
「はい、今戻ったところです……、お嬢様、血が」
彼女の袖口が、わたしの唇を拭う。白いブラウスに染みた花弁にも似た血の赤が、やけに鮮烈に目に映る。
いつかこの身が朽ちたなら、もう血を流すこともない。
春乃に生きた証を残せたようで、何故だかやけに満足した心地がした。
「ねえ、春乃。わたしが死んだら、春乃は何処に行く?」
「……縁起でもないことを言わないでください」
「いいから、教えてちょうだい。わたし、春乃の自由の先を知りたいの」
「自由、ですか……」
困ったように微笑む春乃は、やはり美しい。一つに結った絹のような手触りの長い黒髪も、化粧っ気がなくとも目を惹く整ったかんばせも、どこか品のある所作も、この死の匂いのこびりついた薄暗い屋敷に置いておくには勿体無かった。
それでもこの弱く浅ましいわたしは、これまでどうしても、彼女を手放すことが出来なかったのだ。
彼女はそろそろ三十になると聞く。その見目から度々持ち上がる縁談も、わたしの世話があるからと断り続けていたのだ。今から結婚相手を探すのは難しいだろうか。もっと早く解放してあげられたらよかったのにと、それだけが心残りだ。
「私は……お嬢様が居なくなられても、お嬢様のお側に居ります」
「……どういうこと?」
「自由を手にしたとして、私が自らの意思で選ぶのは、お嬢様のお側に居ることですから」
「……それって、変だわ。春乃は、わたしと違って健康で、美しくて、賢くて……幾らだって幸せになれるのに」
正直、春乃のことが妬ましかったこともある。わたしにはないものばかり、わたしの欲しいものばかり持っていたから。
なのに、当然のようにその全てをわたしのために擲つ彼女に、同じだけ申し訳なさを感じていた。
だからこそ、体調が少しでも回復した際に思ったことが、彼女を解放しようというものだったのに。
「私は、今でも幸せですよ」
「嘘よ。ここには何もないわ。お金も、自由も、未来も、何もないの。あるのは、中古で買った立派だけど古い家と、庭の木々と、死にかけのわたしだけ。春乃が幸せになれるものなんて何もないのよ」
掠れた声で吐き捨てるように告げた言葉は、絶望的な事実でしかなかった。けれど春乃は、それでも緩く首を振る。
「……古いお屋敷にはたくさんの思い出が、庭の木々には新たな芽吹きが、そしてここには、私が十五年お仕えした大切なお嬢様がいらっしゃるではありませんか。……それだけで、春乃は世界一幸せなのですよ」
春乃は心からそう想っているように、うっとりとした表情で今ある幸福を噛み締めている。無欲で献身的にも程がある。
「……、わたしが死んだら、どうするの?」
「そうですね……私も黄泉路をお供致しましょうか」
「それは駄目よ!」
「……何故ですか?」
「何故って……あなたには、もっと素敵な未来があるはずなの」
「ですが、その未来に桜子お嬢様はいらっしゃらないのでしょう……? だとしたら、それは不幸に他なりません」
わたしよりも年上で、わたしの欲しいもの全て持っている彼女が、迷子の子供のように酷く心細そうに表情を歪める。
彼女の幸せは、きっと自由になった先にあると思っていた。わたしが居なくなった後、きっと一人で達者に暮らしてくれると信じていた。
けれどそれこそが、わたしの独り善がりだったのだろうか。理想の押し付けに過ぎなかったのだろうか。
「お嬢様、私は……孤児でした。はじめから、家族なんて居りません。それでも、あなたは私を時には姉のように、時には母のように頼り、お側に置いてくださいました」
「春乃……」
春乃はぽつりぽつりと語りながら、わたしの手をそっと握る。熱に火照った掌を包む、彼女の冷えた指先が心地良い。
「以前もお話ししたでしょうか……幾人かの候補の中から使用人を選ぶ面談の際に、旦那様に抱き抱えられた幼いお嬢様が、私を指差しお選びくださったのです」
「そんなの……」
「偶然かもしれません、気まぐれかもしれません。それでもあの時から、私は生涯、花宮家の使用人なのです……お嬢様に尽くすと決めたのです。……花宮桜子様。私はずっと、あなたのお側に居ります」
「……」
花宮家に来て十五年。ずっとわたしの隣に居てくれた春乃。時には姉のように、時には母のように、時には友として、時には師として、わたしに全てを与えてくれた人。
生涯の半分以上をわたしのために費やしてくれた彼女は、今さら他の生き方なんて出来ないのかもしれない。
彼女なら、どんなに苦しい熱の夜も側に居てくれたように、死の淵に立つわたしを一人にさせないでいてくれるのかも知れない。
「……、わかったわ」
「お嬢様……!」
春乃の表情が明るくなる。わたしの許しを得て、心から喜んでいるのだろう。
そんな顔を見るのは、わたしも嬉しい。最期まで付き添ってくれるのだって、嬉しくない訳がない。……けれど。それでも。
「ただし、後を追っては駄目よ」
「えっ……ですが、それでは……」
「あのね。わたし、桜の木に生まれ変わる予定なの。庭にあるのより立派な桜によ」
「……はい?」
わたしは不思議そうにする春乃の手を、そっと握り返す。わたしの熱が伝わって、彼女の指先もじんわりと温まるのが嬉しい。
彼女を温められるのは、生きている今しか出来ないことだ。
「あのね、わたし、本当は、桜が嫌いだったの……ふふっ、わたしの名前の由来ですもの、お父様とお母様には内緒よ? でもね、うちの桜の木は、わたしが庭にすら出られない時にもずっと外で素敵な景色を見て、春にはお父様とお母様……それに春乃の視線を奪って、笑顔にするの。わたしは、困らせたり悲しませたりするしか出来ないのに……ずるいわ」
「お嬢様……」
「それに、すぐに散ってしまう様はわたしの命のように儚くて……物悲しくなる。けれど、美しい薄紅は確かにわたしの狭い世界に彩りを与えてくれて……また春を迎えられたって、安心をもたらしてくれる。……だからね、本当に……大好きで、大嫌いなのよ」
その安心を、今年はもう得られないことを、わたしは誰よりよくわかっている。
けれど春乃には悟られぬよう、わたしは極力笑顔で言葉を紡ぐ。
「だからわたし、あの木よりも、うんと素敵な桜になるの。これだけ想いがあるんですもの、今世で何も叶えられなかった分、きっとなれるわよね」
たくさん話して、喉が痛んだ。声は掠れて、時折咳き込んで、春乃が慌ててわたしの背を擦るけれど、わたしは言葉を続けた。今話さないといけない気がしたのだ。
「それで、あなたがどうしているかなって、春になる度花弁に乗って会いに行くわ。きっと身体も軽くて、春風を操って自由に飛び回れるのよ。素敵でしょう?」
「お嬢様……」
「……だから、会いに行く度に、あなたの幸せな顔を見せてちょうだい。いいわね? 必ずよ」
そう言って、返事を待つ前に一方的な約束を交わす。小指を絡めると、春乃の指先が幾分温まったのを感じる。
それだけのことで、ひとつ何かを成し遂げたように誇らしい。
けれど春乃は、眉を下げて双眸を伏せ、悲しげに俯いた。
「……、いいえ。幸せになんかなれません……寂しいです。お嬢様と言葉を交わせないのは……お嬢様と触れ合えないのは、一人残されるのは、寂しいです」
小指を絡めたまま離そうとせず、幼子のように寂しいと繰り返し首を振る春乃。こんな弱々しい彼女は初めて見た。
「一人、残される……?」
幼い頃から家族の居ない春乃。ずっとわたし達の家族だった春乃。
わたしの両親が亡くなった悲しみも辛さも、一緒に乗り越えてくれた春乃。
そうだ、わたしが居なくなれば、彼女は一人残されてしまうのだ。
両親が居なくなった時、わたしには春乃が居てくれた。彼女には、もう悲しみを分け合える人が居ないのだ。
彼女の未来を幸福なものとして想像したのは、わたしの都合の良い夢だった。置いていってしまう罪悪感を誤魔化すためのまやかしに過ぎない。
残される側の辛さは、わたしだって知っているはずなのに、それを彼女に強いてしまった。
彼女はきっと、わたしの押し付ける自由な未来ではなく、ひとり抱えるしか出来ない孤独を感じてしまうのだろう。
「……ごめんね、春乃。わたしはどうしたって、あなたを置いていってしまう。もう長くないって、自分でもわかるの」
「嫌です……お嬢様……」
「ねえ春乃。ならもし、あなたがわたしを置いていく立場だったら……わたしに心中して欲しい?」
「……!? まさか! 寧ろ、残りの時間の一分一秒でもお嬢様に差し出して、末永く幸せに……、……あ……」
「ええ。わたしも、同じ気持ちよ」
それがエゴだとしても、どうしようもないと知りながらも、どちらの立場でも同じことを願う。大切だからこそ、悲しみよりも幸せを祈りたい。
わたし達は、抗えない別れの足音に耳を澄ませて、目を背けずに言葉を重ねる。
「お嬢様……無事桜になった暁には、必ず、会いに来てくださいますか?」
「ええ、もちろんよ」
「春乃のことを、見守ってくださるのですか?」
「当然でしょう? 桜の木は、きっとわたしよりも長生きするわ。だから今度はあなたの最期を、わたしが見届けるの」
わたしの言葉を聞いて、春乃は泣き笑いのようにくしゃりと顔を歪める。そして一呼吸おいて、頷いて見せた。
「……わかりました。お約束していただけるのなら、春乃は、お嬢様をお待ち申し上げます。軽くなったお身体で、春の度に、一緒に庭をお散歩しましょう」
「ええ……必ず。約束するわ。……その時は、またラムネをご馳走してちょうだいね」
先程思い出した、何年も前の、朧気な記憶。それでも春乃はしっかり覚えていたようで、僅かに目を見開く。
そうして、あの日のラムネよりも綺麗な涙を溢しながら、何度も頷いてくれた。
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