「聞いたわよ。競りで負けて泣いて帰ったって。あんまり恥ずかしいこと、しないでくれる?」
「あなたとは、全く関係ありませんけど」
「あぁ、それもそうだったわね。だけど、三上恭平の孫がお金に苦労してるなんて、あまり聞こえのいい話しじゃないでしょ。いつまでもあの人の名前で金になる男漁りしてるだなんて。恥を知りなさい」
「あなたの価値観だけで、勝手な話をしないでもらえます?」
「やってることを外から見れば、そうだと言ってるのよ。分かってやってんでしょ」

 吐き捨てるように言われ、拳に力が入る。
なんて言い返せば、分かってもらえるのだろう。
そもそも私の存在を自分にとっての害悪としか思っていない相手に、話なんて通じるの?

「あら、怖い顔。やっぱり可愛くないわね。声かけるんじゃなかった」

 彼女の指には他のおばさま方と同様に、ぎったぎたに大粒の宝石をはめた指輪がいくつもつけられていた。
だけど唯一、右手の薬指にだけはなにもつけていないことに、何かが引っかかる。

「ねぇ、どうしてその指にだけ、指輪をしてないの?」
「え? なんですって?」

 急に不機嫌を顕わにした彼女の背後から、見知らぬ若い男女が顔をのぞかせる。

「あら、おばあさま。珍しいのね。誰とお話ししていらっしゃるのかしら」

 現れたのは私より年下の、まだ大学生っぽい二人組だった。
お揃いで仕立てたような白とグレーのスーツを着ている。
おばあさまは私と接触している現場を本気で見られたくなかったのか、それまでと打って変わってにっこりと愛想笑いを浮かべ、私に紹介を始めた。

「彼女は豊橋紅。この子は想よ。よろしくね」

 二人のツンとした雰囲気が、いかにも意地の悪そうな感じだ。
指輪の話、そらされちゃったな。

「二人とも、私のかわいい孫なの」

 そう言うと彼女は、彼らの肩を愛おしそうに抱き寄せた。
目の前に私というもう一人の孫がいるのに、穏やかに微笑んでみせる。
だけど私だって、この人と血のつながりがあることを、他の誰にも言いたくないし、知られるのも不愉快だ。
それは彼女にしても同じ考えだったらしく、私たちは一番大切なことに口をつぐむ。

「紅。この子はね、佐山商事の息子さんと一緒にこの会場に来てるのよ。あなたも少しは見習いなさい」

 紅と呼ばれた女の子は、肩まで伸びた明るい栗色の髪をふわりとなびかせた。

「佐山商事? あぁ、あの軽そうな男か。次男でしょ。会社継ぐわけじゃないし」
「そこから人脈広げなさい。あれくらいの最低ラインは維持してほしいわね」

 紅を一瞥し、おばあさまは立ち去る。
その背中に彼女はボソリとつぶやいた。

「そんなこと、言われなくても分かってるって」

 隣にいた想はフンと鼻で笑う。
イヤな感じ。
いずれにしても、関わりたくない。

「じゃ、私はこれで」

 おじいちゃんの絵を前にして、なんて展開だ。
ムカムカする。
紅と想の姉弟を残して、私も足早にそこを立ち去った。
オークション開始時間には、まだ少し時間がある。
私は入場制限のある特別会場から、一般会場へと足をのばした。
ここなら佐山CMOもいないだろうけど、あのバアさんと孫たちもいない。

 アートフェス一般会場の即売品を、ゆっくりと見て回る。
到底手の出せないような高額品から、手ごろな値段のものまでずらりと並んでいた。
それぞれのギャラリーが取り扱う作品の雰囲気から店の個性や得意分野が分かって、見ているだけでも面白い。

 一階展示場に比べ、人の少ない二階展示場をゆっくりと見て回る。
二階会場は宝石や海外からの出展で、自由に出入り出来るとはいえ、賑やかな一階会場とは随分と雰囲気が異なり落ち着いていた。
ふと視界に入ったギャラリーの受付に、白磁の置きものを見つけた。
丸く平らな作りのペーパーウェイトで、白地に大きく花の模様が型押しされ、鮮やかに彩色されている。

 おじいちゃんの作品だ! それも2つ! 
私は勢いに任せ、それに飛びついた。

「これ! これ、どうしたんですか!」

 受付に座っていた女性は、びっくりして顔をあげた。

「これ! これ下さい。2つともです。青とオレンジの両方、全部! いくらです? 他にも在庫ありますか? いくらで譲っていただけます?」
「あ、あの……。申し訳ございませんが、こちらは売り物ではございませんので……」
「じゃあ、これください。これが欲しいんです。買います。売ってください」

 受付の女性二人は、困ったように顔を見合わせた。

「あの、こちらは売り物ではないので……」
「どなたにお願いすればよろしいですか? どうしてもこれが欲しいんです」

 受付のお姉さんたちが困っているのも分かるし、自分だって無茶言ってるのも分かってる。
だけどここで引き下がってしまえば、もう絶対に手に入らない。
男性の営業マンが間に入って、別の作品をすすめてくれたりしたけど、私だって、簡単に引き下がるわけにはいかない。

「お願いします。どうしてもこれが欲しいんです!」

 作品としては日の目をみることのない代物だ。
しばらく押し問答をくり返していたら、奥から人が出てきた。
あの紅と想だ。

「何を騒いでいるのかと思ったら、一体なんなの」
「ここ、あなたたちのブースだったの?」
「そうよ。ここはおばあさまが趣味で始めたギャラリーなの」

 最悪だ。
冷静さを取り戻した私は、ようやくギャラリーの中を見渡す。
アンティークの雑貨や食器、宝飾品などが並ぶ、よくある店だ。
だけどそれならば、なおさらこの作品は取り戻さねば。
私は背筋をピンと伸ばすと、改めて交渉に入った。

「これが売りものでないんだったら、私にくださらない? どうしても手に入れたい品なの」

 紅はフンと笑うと、髪色と合わせたようなミルクティー色のカラーでネイルされた爪を伸ばし、二つのうちのオレンジが主体で色づけされた方を手に取った。
「ねぇ、あなた。あのおばあさまとどういう関係? あの人、自分の利害と関わりのない人間とは、一切口をきかない主義なのよ。時間の無駄だとか言っちゃって。それなのに自分からわざわざ話しかけにいくなんて、とっても珍しいことなの」
「そうなんだ。悪いけど、理由は分からないわね。あの人の興味があるのは、私の彼氏じゃないの?」
「彼氏って、佐山商事の次男のこと?」

 ピクリと反応した紅に、私は腕組みして、思いっきり上から目線でにらみつける。
こんな年下の小娘に喧嘩売られて、大人しく引き下がるような私じゃない。

「さぁね。私は別にあの人のことなんて、なんとも思ってないんだけど。今日もね、彼に無理矢理誘われて、ここに連れてこられたの。そうそう、今着てるこのワンピースもね、ここにくる直前に、彼にお店に連れていかれて、そのままプレゼントされたものなのよ。ホント、困った人ね」
「あぁ、そうですか。よかったね」

 紅は興味なさげに視線を横に流した。
嘘はついてない、嘘は。

「あなたには、そんな素敵な恋人はいらっしゃらないのかしら?」

 紅はそんな挑発には乗らず、首を傾けた。

「こんなゴミみたいな作品の、どこがいいのかしら。正直言って、出来損ないだわ。三上恭平の名前がついてなければ、せいぜい千円か2千円程度の、どこにでもあるような、ただの重しよ」
「えぇ、そうかもね。あなたの目には、それはゴミのように見えるかもしれないけど、私にとってはそうじゃないの。れっきとした価値のある作品よ」
「自分には、その価値が分かるって言いたいの?」

 紅はオレンジのウェイトを口元に当てると、にやりと笑った。

「じゃあ、あなたはもし、私がこのペーパーウェイトをゴミ箱に捨てたら、あなたはそのゴミを漁って持ち帰るのかしら?」

 隣でずっと退屈そうに聞いていた想が、くすくす笑った。 

「それいいね、紅。捨てちゃえば?」
「だよね」

 紅は受付台のすぐ横に置いてあったゴミ箱に、ウェイトを持った手を大きく振りかざした。

「捨てたければ、捨てればいいじゃない! 例えそれが無名作家の作品であっても、誰かが作った大切な作品をゴミ箱に捨てるような人間は、美術商にはむいてないわ!」

 紅は振り上げた手を下ろすと、ふわりと巻いたミルクティー色の頭を傾け、じっと私を見つめる。

「そうね、分かったわ。あげるわよ。でもね、ただそのままあげるんじゃ、面白くないじゃない? ゲームをしましょう。この会場のどこかに、このペーパーウェイトを隠すのって、どう? 見つけたら、あなたのものよ」

 紅は自分の思いつきに満足したのか、フッと笑った。

「私たちが手に持っている間は、そこから奪いとっちゃダメ。同時に見つけた場合は、先に取った方が勝ち。どう?」
「ずいぶんとあなたたちに有利な条件ね。それをずっと手に持っていたら、意味ないじゃない」
「そんなずるいマネは、さすがにしないわよ。どうする? 私たちは別に、あなたにこれを譲っても譲らなくても、どっちだっていいのよ」

 ここで引き下がったら、もう二度とこのペーパーウェイトは手に入らない。

「わかった。やる」

 姉弟は示し合わせたように目を合わすと、にやりと微笑んだ。

「じゃ、俺はこっちね」

 想はテーブルに置いてあった、もう一つの青を基調としたウェイトを手にとる。
紅と想の二人がおじいちゃんのウェイトを手に、私の前に立ちはだかった。

「目をつぶって、ゆっくり30秒数えてちょうだい。そこからがスタートよ」

 覚悟を決める。
ぎゅっと目を閉じて、ゆっくりと心の中で秒を刻む。
1、2、3……、28、29、30!

 目を開けると、こぢんまりとしたブースに、困惑した表情のままの受付のお姉さんと、従業員らしき数人しか残っていなかった。
私はそこを抜け出すと、二階会場の通路から階下に広がる広大な会場を見渡す。

 ゲームの始まりだ。
あいつらはオークションの行われる特設会場にも入れるし、業者専門の一般参加者立ち入り禁止区域にも入れる。
よく考えてみれば、とんでもなく不利な条件だ。
それでも、やるしかない。
おじいちゃんの作品を撮り戻すためだ。
展示会場ののべ床面積は7万㎡。
壮大な宝探しが始まった!
 吹き抜けとなっている中央階段脇の二階通路から、階下を見下ろした。
会場の賑わいは、午後に入っても衰えていなかった。
一般展示会場となっている一階会場はもちろん、二階の入場制限のかかったオークションルームと、それをぐるりと取り囲む二階一般会場の通路にもブースがある。
どこをどう探そう。

 一階西側の展示場は、個人商店や、アーティストの団体とか、サークル的な要素の強いブースも並んでいた。
美大や、地方団体の工芸品なんかも展示販売されていて、大変な賑わいだ。
いくらあの生意気そうな姉弟でも、さすがに他人のブースに侵入していくことは考えられない。
ごちゃごちゃと混雑した所に放置したとしても、落とし物として届けられるか、心ない誰かが勝手に持って行ってしまうだろう。
この状況下で、事情を知っている自分たちのブース内に隠すとも思えないし……。

「よし。決めた」

 見下ろす一階会場に背を向ける。
私は捜索場所を、特設会場に絞った。
通路を進み、オークションルームと、その展示場になっている広間へ向かう。
チェックを受け人通りの減った連絡通路の向こうに、くるくると巻いた短い茶髪を見つけた。
弟の想だ! 
見つからないようしっかりと距離を取りながら、こっそり後をつける。
彼はグレーの細身のスーツに、すらっとした足と腕で、軽快な足取りで歩いていた。
抜群にスタイルはいい。
このままバレないよう後をつけ、彼の手からウェイトが離れた瞬間手に入れれば、条件クリアだ!

 想はおじいちゃんの大切な青のウェイトを片手に、ふらふらとあちこちを物色しながら歩き方をしている。
どうやら彼なりに、隠し場所を考えているようだ。
時々立ち止まってウェイトを口元に押しつけたり、手に持ったままぶらぶらと振り回してみたり、とにかくウェイトの扱いが雑な上に危なっかしい。
私は彼の後をつけながら、その様子にずっとハラハラしていた。
割れ物なんだから、もっと大事に扱ってよね!

 その想は展示会場前のロビーで、どうやら知り合いと鉢合わせたようだ。
ウェイトを片手にすっかり話し込んでいる。
想と同級生か、もしくは同じくらいの年齢の男の子たちだ。
私は彼らの視界に入らないよう、おつまみ程度の簡単な軽食と飲み物が振る舞われているロビーで、いつでも動けるよう気を遣いながら、人混みに紛れ想の監視を続けた。

 しばらくして、ようやく彼らと別れ、また一人で歩き始めた。
携帯を取りだし、しゃべり始めたと思ったら、すぐにそれを切ってポケットにしまう。
そこから彼は、特設会場の展示室内でじっと立ち止まったまま、動かなくなってしまった。
何を考えているんだろう。
どうでもいいけど、早く何とか動いてくれ。
私はもう一つの、紅の持つオレンジのウェイトも追いかけなくちゃいけないんだから。

 どうしたものかと思った瞬間、その想がパッと動き出した。
彼は間違いなく、隠し場所に検討をつけた。
足取りが速い。
それまでのふらふらした歩き方とは打って変わって、迷うことなく進む彼は、オークション出品作品の展示場になっている特設会場を抜けだし、自分たちのギャラリーブースへ向かっている。
表の受付は無人となっていたその中に入ると、パーティションの向こうに姿を消した。

 え? ここなの? 
こんなところに、あの手の平サイズのウェイトを隠そうっていうの? 
ちょっとズルくない? 

 白く薄い壁の向こうは、彼ら専用の荷物置き場だ。
パーティションの向こうをのぞき込まなければ、想の様子は分からない。
だけどそんなことをすれば、私が彼の後を追い、ここまで来たことが当然ばれてしまう。
だけど……。

 薄い仕切りの向こうで、ごそごそと何かをしている物音が聞こえる。
奥には他に誰かいるのか、会話をしているのは分かるが、その内容までは聞き取れない。
ここで私が顔をのぞかせれば、彼はいま隠そうとしているウェイトをルールに従い確実に手に取るだろう。
それはこの追いかけっこが、振り出しに戻るということなんだけど……。

 キッと顔を上げる。
覚悟を決めると、奥へと突き進んだ。
そんな所に隠されても、私には絶対に見つけられない。
だったらたとえ嫌がられても、顔を見せるしかない。

「すみません!」

 勇気を振り絞り、その中をのぞき込んだ。
奥の狭い空間は、やはり彼らの荷物置き場になっていた。
他の従業員の上着や鞄などの荷物、文具類や書類、梱包材なんかが並んでいる。
想と荷物番らしき男性が、私を振り返った。
「なんでここが分かったの!」

 想は栗色の髪にくりくりした丸い目で、驚いた顔を上げる。

「なんでって、後をつけてきたのよ」
「なにそれ、ずるくない?」
「ルールには入ってなかったでしょ。それに、こんなところに隠そうってのも、卑怯だと思うけど」

 私がにらみつけたら、想は声を出して笑った。

「あのね、さすがに僕だって、こんなところに隠そうとは思ってないよ」

 彼はにやりと笑って、手に持った青い花柄のウェイトをちらつかせる。

「おばあさまに頼まれてね、ちょっと荷物を取りにきただけなんだ。ほら、ちゃんとまだ手に持ってるでしょ」

 ムッとした私に、彼はにこにこと笑みをこぼす。

「いやだなぁ。そんな怖い目で見ないでよ」

 想は何か言いたげな従業員の男性に、「じゃ」と軽く挨拶を残して、パーティションの奥から抜け出した。
私は慌てて彼の後ろをついて歩く。

「あーどうしようかなぁ! こうやって後をつけられてると分かった今、ウェイトを隠そうにも隠せなくなっちゃったよねー」

 想は私を下から見上げるようにして目を合わせると、人懐こい笑顔を向けた。

「ねぇ、お姉さん。どうせなら二人で並んで、一緒に歩こうよ」

 彼は無邪気な笑顔を浮かべたまま、私の隣に並んだ。
指先が偶然かそうでないのか接触し、手を握られそうになって、それを振り払う。

「ふふ。冷たいなぁ。こう見えて僕も、女の子からは結構モテるんだけどね。まぁ佐山商事の御曹司とつき合ってるんなら、僕なんか目に入らないか」

 今日の私はヒールのある靴を履いているせいか、想と視線の位置はほとんど変わらない。
彼をひとにらみしてから、1歩先に出た。

「彼氏とデートで来たっていうわりには、一緒にいないよね。だって今この瞬間も、どっちかっていうと、僕とデートしてるみたいじゃない?」

 想はワザとなのか天然なのか、幼さの残るあどけない笑みをにっこりと浮かべた。
彼がからかってきてるのなんて、百も承知だ。

「想は、歳はいくつなの?」
「俺? 19」

 じゅ、19か。5つも下じゃないか。

「ねぇ、お姉さんの名前は? なんて呼べばいいの」
「紗和子。紗和子よ」

 勘の鋭いような子には見えないけど、名字は伏せておく。
三上恭平の孫だと知れたら、私とあのバアさんの関係にも、気づかれるかもしれない。

「紗和子ちゃんか。じゃあ、紗和ちゃんでいいよね」

 彼はそれはそれは可愛らしい、屈託のない笑みを見せると、上機嫌で歩き始めた。
この人懐こい感じは、お坊ちゃま特有の性質なんだろうか。
そういえば佐山CMOも、初めからやたらフレンドリーだったな。

「あ。ねぇ、見てこの作品。僕さ、この人の作品、好きなんだー」

 そんなことを言いながら、楽しそうにしゃべってるけど、私は想の好きな作品なんかに興味はない。
おじいちゃんの作品だけだ。
彼の話を完全に無視していたら、想はぷぅっと頬を膨らませた。

「もう、紗和ちゃんったら。そんなに怒ってばっかりじゃつまらないでしょ。せっかくなんだからさ、この状況を楽しもうよ」

 想はにっと笑って、また私を下からのぞき込む。

「それとも、他の男と並んで歩いてるのが見つかったら、カレシに怒られちゃう?」

 彼のワザと誇張した「カレシ」という言い方に、私の方が恥ずかしくなる。

「な、そ、そんなことないって!」
「あはは。紗和ちゃん、おもしろーい」

 想はこれ見よがしにウェイトをチラつかせたまま、一人で私とのデートを楽しみ始めた。
あのおばあさまの孫とだけあって、アートに関する知識は私より豊富だ。
楽しそうに美術品について語る彼を、きっとこんな状況じゃなければ、かわいらしいと思っただろう。
にこにこと笑顔を絶やさず、明るく振る舞うその仕草は、あどけなさの中にもちゃんと知性と教養を感じさせる。
色白のスラリとした抜群のスタイルで、顔も悪くない。
根はいい子、なんだろうな。
そんな想が、不意にクスリと微笑んだ。

「紗和ちゃんってさ、三上恭平の孫なの?」
「え? なにそれ」
「噂になってたよ。佐山の御曹司が連れてきてるって」

 やっぱり見た目だけで、人を判断しちゃいけない。
私は慎重に言葉を選ぶ。

「知らないから」
「僕も聞いたことがあるんだ。この業界じゃ有名だよね。オークション会場に現れては、三上作品の値をつり上げるだけつり上げて、結局落札できないって」

 想はキラキラな笑顔を見せた。

「いや、ギャラリーとしては、ありがたい存在なんだよ。ヤラセで値をつり上げてんじゃないかって思われがちだけど、紗和ちゃんは本気だもんね」

 ギロリとにらみつけた私に、想は相変わらず人懐こい笑みを浮かべる。

「だけどさ、お金持ちの彼氏、捕まえちゃったんだったら、今後はますます仲良くしておいた方がいいよね。三上恭平作品なら、必ずお買い上げしてくれるいいお客さんになるんだから。だからうちのばあさんも、話しかけたんだろ?」
「私はそんな風に、誰かを思ったことないんだけど」
「だって現に今も、コレを欲しがってるじゃないか」

 想はおじいちゃんの青いペーパーウェイトを片手に微笑む。

「コレ、三上恭平作品なんでしょ?」

 分かってやっていたのか。
やっぱり侮れない。
私が黙りこむと、彼はまたにこっと微笑んだ。
「三上恭平の自宅アトリエから作品が放出された時に、出てきたものだって。陶器の焼き加減を確認するための試作品だって言われてるけど、きれいだよね。一見落書きみたいにも見えるけど、丁寧に花が描かれてる。老成に達してもなお、新しい表現を模索していた様子がよく分かる作品だよ。まぁ確かに、値を付けられるような完成度ではないけど。こういうのって、全庫出品セールならではの放出品だよね」

 私は彼をおいて、先を歩き始めた。
最初から分かってやっているなら、彼らにウェイトを譲る気なんてさらさらない。
時間を無駄にして、その分私が傷ついただけ。
彼から離れようと、さらに足を速める。

「あ、ちょっと待ってよ」

 前を向けず、うつむいて歩いていた肩が、誰かとぶつかった。
「すみません」と顔を上げると、それは佐山CMOだった。

「こんなところにいたのか。探したじゃないか」

 私はその場で立ちすくみ、じっと彼を見上げた。
そうやって顔を上げていないと、あふれてくる涙がこぼれ落ちそうだ。

「ん? どうかした?」

 想はそこへ、すかさず割り込んでくる。

「あ、初めまして。僕は『les œuvres heureuses』の豊橋想といいます。祖母の経営するギャラリーの、手伝いをさせてもらっている者です」

 彼は爽やかな笑顔を浮かべ、とても丁寧な挨拶を続けた。

「すみません。偶然三上画伯のお孫さんである紗和子さんとお会いして、うれしくてつい長い間お借りしてしまいました」

 にっこりと笑うその洗練された姿は、どこから見ても好青年だ。

「いえいえ。こちらこそ彼女の相手をさせてしまって申し訳ない。大変だったでしょ?」
「はは。そんなことはありませんでしたよ。とっても素敵な方ですので」

 想の差し出した手を、佐山CMOはすぐに握り返した。

「もうすぐオークションが始まる。想くんは見に行かないの?」
「あぁ、もう時間ですね。行きましょうか」

 先に歩き出した想の背に、気分はずっしりと重くなる。
なにやってんだろ、私。
きっと今日この会場でペーパーウェイトを見かけたことだけで、幸せだったと思わなきゃいけなかったんだ。
奇跡みたいなことなんだから。
結局彼らに振り回されただけで終わってしまった。

「紗和子さん、なにかあった? 大丈夫?」
「平気です。何でもないので」

 彼には頼れない。
自分で立て直さなくちゃ。
想が一瞬だけ振り返り、にこっとしてすぐにまた背を向けた。
そんな彼に、佐山CMOはムッと眉を寄せる。

「紗和子さんが嫌なら、今すぐにでも出て行くけど」
「いいえ。行きましょう。私もおじいちゃんの作品の、行く末がみたいです」

 薄暗い通路を抜け、特設会場のオークションルームに入る。
びっしりと並べられた椅子は、そのほとんどが埋め尽くされていた。
壇上には巨大なスクリーンが設置され、その脇にオークショニアの立つ台と作品の実物を乗せるステージが用意されている。
私は佐山CMOと並んで腰を下ろしたが、想はここからよく見える前方の席に、おばあさまと並んで座った。
オークションが始まる。

「皆さま。本日はご来場いただき……」

 あれ、紅は? 
オレンジの花が絵付けされたウェイトを持っているはずの、紅の姿が見えない。
私はそっと周囲を見渡した。
もしかしたら、想とおばあさまから離れたところに座っているのかもしれない。
そう思ったのに、座ったままチラチラとのぞく程度のことでは、びっしりと埋まった会場で彼女を探し出すことは不可能だった。

「どうかした?」
「いえ……」

 佐山CMOに気をつかわせてしまっている。
私はまっすぐに座り直した。
ここに連れてきてくれたのは、彼なのだから。
今だって私は、この人からプレゼントされた服を着て隣に座っているのに、自分のことばかりで、なにもしていない。

「……。あの、さっき想が言ってた、れぞーぶる・ずるーずって、どういう意味ですか」

 目の前で次々と競り落とされていく作品たちを見ながら、私は佐山CMOに声をかけた。

「あぁ。フランス語で、『幸運な作品』という意味だよ」

 幸運な作品……。
おじいちゃんと駆け落ちまでして産んだ父を捨て、その父から生まれた私を孫と認めない人が扱う作品のギャラリーが、そんな名前だなんて笑える。
おじいちゃんが死んでから、私にとって幸運なんて何一つなかった。
思い出は全てなくなり、残ったのは呪いのようなものだ。

「彼とは、知り合いだったの?」
「いえ。今日ここで初めて、会いました」
「そうなんだ」

 同じあの人の孫なのに……なんて、そんなことを考えても仕方ないのは分かってる。
私には私の人生があるのだから。
きっとあのおばあさまにも、あの人のなりの苦労はあったんだろうと思う。
隣の佐山CMOがもそりと動いた。
「その……。ずいぶんと熱心に、彼を見ているんだね」
「えぇ、まぁ。やっぱり見ちゃいますよね」

 おばあさまの真っ白な髪はくるくると巻いていて、少しぽっちゃりとしているものの、キリッとした表情は彼女の活動的な性格をよく表している。
おじいちゃんはあの人の、どこに惹かれたのだろう。
おじいちゃんと過ごした日々は、あの人にとって「幸運な時間」だったのだろうか……。

「へー、そうなんだ。紗和子さんは、ああいうのが好みなんだ」
「は? 何がですか」
「想くんみたいな、かわいらしい感じの年下」

 すねているような、からかっているような、佐山CMOの言葉に、私は急速に理性を取り戻した。

「違いますよ。なに言ってるんですか」
「俺もさ、結構悪くないと思うんだけど」

 そう言うと、佐山CMOはムスッと顔をそらした。

「なにがですか?」
「いや、俺がモテすぎるから、遠慮しちゃうのは分かるけどね」

 彼は不満そうに愚痴をこぼし始める。

「大体さぁ、俺と一緒に来てんのに、すぐにどっか行っちゃて、そのまま帰ってこないし。探したんだよ? そもそも君が俺と一緒にいてくれないと、邪魔者避けに誘ったのに、意味がないじゃないか」

 CMOは、いなくなった私を探してくれてたのか。
便利な魔除け扱いだとしても。
そう思うと、急に申し訳なくなってくる。

「……そうですね。すみません」
「ちゃんと俺の側にいて」

 ざわついたオークションルームで、ロット番号は進んで行く。
佐山CMOは受け取ったパドルを手に、時折私に作品情報をささやきながら、あーだこーだとしゃべり続けていた。
それに相槌を打ちながらも、私は想のくるくる巻いた栗色頭の動向に注視している。

 その想が不意に体を傾け、おばあさまに何か耳打ちをした。
彼女はそれにウンとうなずくと、想は立ち上がる。
会場を抜け出す気だ。
その気配を察した私は、勢いよく立ち上がった。
せめてもう一度、ちゃんとあのウェイトが欲しいとお願いしてみよう。
ここで逃がしては、もう絶対に手に入らない!

「すいません、ちょっと抜けます」

 動き出した私の腕を、佐山CMOはぐっと掴んだ。

「ちょ、離してください。想を追いかけなくちゃいけないんです」
「僕を残して?」

 ちょっぴり怒っているような、すねたような目で見上げられても、そう簡単に引き下がってはいられない。

「佐山CMOは、オークションを見てればいいじゃなですか」
「ねぇ、ずっと気になってたんだけどさ。仕事で来てるんじゃないんだから、いつまでもそのCMOって呼ぶのやめない?」
「あの、すみません。今めっちゃ急いでます」
「名前で呼んで」

 くっ。今はそんなこと言ってる場合じゃないのに!

「すいませんが颯斗さん。私は彼を追いかけたいので、行ってきます」
「どうしても行っちゃうの? まだ君のおじいさんの、絵の落札結果も見ていないのに? そのために今日は、僕とここへ来たんじゃなかったっけ」

 顔を上げ会場を見渡す。
想のオークションルーム出て行く後ろ姿が見えた。
このままでは、彼を見失ってしまう!

「お願いします、私を行かせて下さい。大事な用が出来たんです」

 私がこれほど焦っているのに、彼は何かを考え、少し間をおいてから言った。

「君は、このアートフェスをちゃんと楽しんでる?」
「もちろんです!」
「ふーん。そうなんだ。なら行ってもいいよ」

 助かった!

「じゃ、ちょっと行ってきます」
「でもさ、なにか困ったことがあったら、いつでも僕に相談することを、約束してくれ。分かった?」
「はい!」

 こんなことをしている間にも、想は行ってしまうのに! 
佐山CMOがのんびり小指を差し出すから、私はすぐに自分の小指を彼の指に絡める。

「約束ね。じゃあ、行ってもいいけど、ちゃんと帰ってきて」
「分かりました!」

 指が離れた瞬間、走り出す。
どこに行った、想! 
そして、おじいちゃんのペーパーウェイト! 
私は彼の後を追って、オークションルームを飛び出した。
 扉の向こうにすでに想の姿はなく、特設会場の中も閑散としていた。
当然だ。
ここに並んでいたのは、オークション出品予定の作品たちで、それが始まってしまえば、決まった落札者のもとに次々と搬送されてゆく。
空っぽになった会場の中で、いくらちっぽけな手の平サイズのものとはいえ、こんなところにおじいちゃんの作品が残されていれば、目について仕方がない。
ということは、ウェイトを持ったままの想は、一般会場の方だ!

 私は可能な限りの早足で駆けるように廊下を進み、一般会場へと繋がる階段へ向かった。
西側の展示場では、特設会場に入れない一般参加者のために、オークションの様子を配信していて、多くの人々がそれを見上げていた。
今日はフェア最終日。
すでにあちこちで片付けが始まっていた。
どこに行った、想!

 ぐるりと見渡した人混みのなかに、明るい栗色のくるくる頭を見つけた。
アイツだ! 
想はエントランスに向かっている。
アートフェス会場から抜け出す気だ。

「待ちなさい、想!」

 人目も気にせず、私は大声を張り上げる。
ここで逃がすわけにはいかない。
居並ぶ人たちをかき分け走りだした私は、振り返った想の腕にがっしりと抱きついた。

「うわっ、なに!?」
「どこへ行く気?」
「あんたには関係ないだろ」
「じゃあ、あのペーパーウェイトは、どこにやったの!」
「はぁ? あんたもしつこいな」
「どこに置いたのか白状するまで、この手は離さないわよ!」
「えぇ~。直接聞いちゃうとか、そんなのアリ?」

 私を振りほどこうとする想の腕を、放されないよう必死でつかむ。

「ルールには、なかったでしょ!」
「俺、急ぐんだけど」
「私だって急いでるわよ!」

 何かを気にしているのか、想は二階会場を見上げた。
そこにはおばあさまが従業員たちと顔をのぞかせている。

「げっ。あのばあさ……。あぁもう、分かったよ。じゃあそれ貸して!」

 彼は私の持っていたバッグを奪い取った。

「何するの?」
「ほら。もういいから、あげるよ」

 想はポケットからおじいちゃんのペーパーウェイトを取り出すと、それをバッグに突っ込んだ。
おじいちゃんの作った、青いお花の型焼きされたペーパーウェイト。

「ね、これでいいでしょ?」
「ほ、本当にいいの?」
「いいよ。だからもう離して」

 抱きつくように掴んでいた想の腕から、私は手を離す。

「あ、ありがとう」
「じゃ。僕はもう行くから」
「う、うん」

 彼はせわしなく手を振ると、そそくさとエントランスへ向かった。
なんだよアイツ。
終わってみれば、結構いい奴だったじゃないか。
拍子抜けしてしまった私は、そっと小さく彼の背に手を振り返す。
意地悪なだけかと思っていたけど、そうじゃなかった。
からかったりされたのも確かだけど、もしかしてはじめから、私に渡すつもりもあった?

 バッグに加わったわずかな重みが、私の気持ちを軽くしてゆく。
やっぱり諦めずに、最後まで追いかけてきてよかった。
自分の顔がどんどんにやけていくのを止められない。

「やった! やったよ、おじいちゃん!」

 ペーパーウェイトの入った鞄を、鞄ごとぎゅっと抱きしめる。

「ちょっと待ちなさい!」

 突然の声に、ぱっと振り返った。
想と紅の祖母である豊橋良子が、全身の毛を逆立て、怒りに震えながら迫ってくる。
「え、なに?」
「待ちなさい、想!」

 あ、想のことか。
おばあさまの声に、まだエントランスから抜けきっていなかった想は、ビクリとして立ち止まった。

「想! あんた没収した家族会員のクレジットカード、私の鞄から勝手に抜き出したわね!」

 おばあさまはもの凄い勢いで想を追いかけると、慌てふためく彼の腕をがっしりと捕まえた。

「返しなさい! 私はまだ、あんたを許したわけじゃないよ!」
「もういいでしょ。どれだけ我慢させるんだよ、もう一週間だよ」
「あんたがちゃんと反省するまで!」
「反省したって!」
「反省した人間が、どうして黙ってカードを抜き取るの!」

 想は自分の腕を掴んで揺り動かす祖母の手を、突き飛ばすように振り払った。

「俺じゃないって。盗んだのは!」

 よろけた彼女は、すぐにボディガードらしき男性陣に支えられる。

「見張りに立てといた黒田さんから聞いたわよ。あんたが鞄を漁っていったって!」
「違うし」

 想と目があった。
その瞬間、彼の指がビッと私を差す。

「この女に頼まれたんだよ。あんたの大事な指輪をとってこいって!」
「なんですって?」

 え? 突然なに? 大事な指輪って? 
白髪のおばあさまが、私を振り返る。

「こいつ、三上恭平作品を集めてるだろ? だから俺に、あんたのペーパーウェイトを譲れって、しつこく迫ってきたんだ」

 ちょっと待って。
確かに私はあんたにしつこくつきまとってはいたけど、ペーパーウェイトのことしか知らない。

「それでさ、あんたの大事にしてる指輪の話しをしたんだ。そしたら逆にそっちに興味持っちゃってさ。実物を見て鑑定したいから、取ってこいって言うんだ」
「大事な指輪? なにそれ!」

 彼の言葉に、おばあさまの顔色がサッと変わった。

「想。あんたは、あの指輪まで持ち出したの?」
「だから! この女にしつこく頼まれたんだよ。その証拠に、コイツのバックの中に、あんたの大事な指輪とペーパーウェイトが入ってるよ」

 彼女はすかさず、私からバッグを奪い取る。

「ちょ、待って下さい!」

 彼女は乱暴に鞄をあけると、それを逆さにして全てを床にばらまいた。

「やめて!」

 カランと音を立て、おじいちゃんのペーパーウェイトが転げ落ちる。
スマホや化粧品だなんてどうでもいい。
真っ先にそれを拾い上げた。
よかった、割れてない! 
それでもおばあさまは、執拗に鞄を揺すり続けていた。
最後に古ぼけた小さな指輪が、そこから転げ落ちる。

「ほら、ね。俺の言ったこと、嘘じゃないでしょ?」
「ち、違います! 私が盗ったんじゃないんです。想が、想が勝手に私の鞄に入れたんです!」

 あの時だ! 
想が私の鞄にウェイトを入れた時、一緒にこの指輪を忍ばせたんだ! 
彼女は黙って、床に転がった石も入っていない質素な古い指輪を拾い上げる。

「あなた、この指輪に見覚えがあるの?」

 彼女が差し出したそれは、細く繊細な作りで、確かに古い品ではあったけれども、色あせたシルバーの細やかな装飾で絡み合うツタと葉が表現された見事な作品だった。
「見せてもらっても、いいですか」

 彼女は私の手の平に、それを置いた。
初めに指輪の内側を見る。
そこに刻印は何もなかった。
祖父の三上恭平が、宝飾品関係の作品を作っていたなんて話は聞いたことがないし、実際に見たこともない。
少なくともこの指輪は、おじいちゃんのアトリエに置かれていたものではなかった。

「いえ、見覚えはありません」
「そう。ならいいのよ」

 私は彼女の手に、その指輪を返す。
だけどこの作風は、おじいちゃんのものだ。
それだけは私にも分かる。
彼女はその指輪を、ぎゅっと握りしめ目を閉じた。

「はぁ? ばあさん。あんたこの指輪は、三上恭平からもらったって、いつもさんざん自慢してるじゃないか! だったら、コイツに証明してもらったらいいだろ。ちゃんとした鑑定書作ってさぁ! その方が価値も上がるし、売りやすくなるだろうが。それとも、三上恭平からもらったってのは、嘘だってことか?」

 なにそれ。
この人があんな質素な古い指輪を、大切にしてるってこと?

「うるさい。余計なことを言うんじゃない!」

 彼女は想の頬を、思いっきり平手で打ち付けた。 

「持ち出したカードも返しなさい!」
「イヤだね! なんで俺があんたなんかの言うこと聞かなくちゃいけないんだ! じいちゃんが死んだとたん、急にでかい顔しやがって!」

 おばあさまが合図を出す。
すぐ後ろに控えていたボディガードらしき男性二人が、想の両腕をガッチリと掴んだ。
彼は大声で何かをわめきちらしながらも、どこかへと引きずられゆく。
おじいちゃんのかつての恋人だった女性が、私を振り返った。

「見苦しいところを、晒してしまったわね」
「いえ、大丈夫です」

 彼女は自分の手の平に転がる、小さな指輪を見つめた。
これは、おじいちゃんがまだ若かった頃、恋人であったこの人のために作り、贈ったものなんだろうか。

「この指輪の価値を知っているのはね、私とあの人だけなのよ。だから、その価値を知らないあなたが盗み出すなんて、そもそもありえない話なの。想が勝手に盗みだした。どうせ私の目を盗んで、どこかに売りつけるつもりだったのね」

 もし本当にそうだとすると、彼女は太くなった指に入らなくなってしまった古い指輪を、今も大切に持っているということになる。

「私には、その指輪の価値は分かりません」

 彼女はフンと高らかに鼻をならした。

「そうね。それを知らないあなたが盗るなんて、ありえないわ。あの子が私を困らせようとしてやったことよ」
「それでも、あなたがこれを大切にしていることは伝わりました」

 じっとこちらをにらむように見つめる彼女の目から、何を考えているのか何一つとして読み取れるものはなかった。
それでもきっと、この指輪は彼女にとって大切なものなんだと思う。

「迷惑かけたわね。安心して。私もあなたが犯人だなんて、思ってもないわ。あなたが犯人になりえるなんて、ありえないのよ」
「ありがとうございます」

 それは彼女にとってはイヤミのつもりだったのかもしれないけど、私にはそんな風には受け取れなかった。
そんなおばあさまのの視線が、白磁の型押しに移る。

「そのペーパーウェイトは、お詫びに差し上げるわ。あの人の作品なんでしょう? そんなものでよかったら、大切にしてちょうだい」
「あ、ありがとうございます」

 私はそれをぎゅっと握りしめたまま、立ち去る彼女の背を見送る。
彼女だって知らないんだ。
この作品の、本当の価値を。