長く蓄積した疲労か、重い精神的なダメージからか、あるいはその両方か。俺は五感の全てを欠落したような感覚に陥って、置物のように無表情で教室の席に座っていた。
 味覚障害という単語が、味に関する全ての感覚を奪うという意を持つのならば、さながら今の俺は生命感覚障害だ。
「――――――――」
 世界が色褪せていて、水の中にいるみたいに周りの音がノイズにしか聞こえない。体はヘドロみたいに重くて黒いものを纏っている。触れるものも目に見えないぶ厚い手袋を被せているみたいに不確かで現実と自分との距離を示しているみたいに曖昧だった。
 このままだと、有瀬碧という人間の形がバラバラに分解して目に見えない塵となって霧散してしまうんじゃないか。
 いや、世界には映っていないだけでもう心の99%はそうなっている。
 ――未愛は、もうじき死ぬ。
 人生の目的を失った俺にとって、未愛と同じ途を辿ることなど今更怖くもない。
 むしろ望んですらいるのかもしれない。
 そんなことが当然のように頭をよぎるようになっていた、夕暮れの放課後。
 お化け屋敷みたいに人気のない真っ赤な教室で、聞き慣れた機械音が突如頭上に鳴った。
 意識の大部分を手離していたから、別段放送に耳を傾けてなどいなかったが、掠れた声色で俺の名前が呼ばれたことだけはかろうじて耳に届いた。
 現時刻、既に授業を含め全学年全クラスのホームルームは終了していた。生徒会、運動部を除いて在校生は残っていない。
 その周知の事実の上でなぜ、俺が未だ教室に残っていることを知っているのか?
 そしてなぜ俺一人しかいないこの教室ではなく、わざわざ進路指導室を指定してきたのか?
 また、なぜ性別が判別できないほどに放送の声質は濁っていたのか?
 俺の脳が自動的思考を行って生んだ数々の疑問に気持ちの悪い奇異感が募った。
 時計の長針が数度動いた音がした。
 カーテンが風に揺られて衣擦れの音がした。
 黒板横の掲示板に張られていた時間割が捲れる音がした。
 黒板――。
 ふと目に留まったのは、薄っすら消し残しがある黒板の、日直と記された右下隅の文字だった。
 丸一週間、学校に全く姿を現していないにも関わらず、その名前は刻まれていた。
 時雨ミライ。
 筆跡からして、生徒のいたずら等ではなく担任教師の書き違いによるもの。
「……」
 俺がわざわざ間を置いてまでその名前から目を離さなかったのは、さっきの放送の意図に思い当たる可能性があったから。
 奇妙なタイミングでの呼び出し。性別不明の声色。
 表情を変えるほどの気付きではなかったが、多分放送の主は時雨ミライなんだろうと遅れて察した。
 今更考えるまでもなく、あんな最低な奴に会う理由はないし、仮に謝罪か何かをするために呼び出したのだとしても、俺の感情が変わることは万に一つもない。
「……ははっ」
だが、そうだな。
もう何をしてもこの絶望を掻き消すことができないんなら、最後にこれまでの怒り全てを込めて罵倒の限りを尽くすのも悪くないかもしれない。
 この日、俺は初めて口を開けて笑った後、半日ぶりに教室の席を離れた。

 卒業生を含めた学校の生徒が受賞した賞状、トロフィーが立ち並ぶ一階の突き当りに、進路指導室はあった。
 俺の頭は、一体どんな手段を用いてあの女に復讐をするか、それだけに終始していた。
 もはやどんな制裁、言葉を下そうともこの絶望が終わらないことは確定している。だけど、俺を騙したことを出来るだけ後悔するような目に遭わせてやりたいとは思った。
 何やら廊下一帯に陰がかかり、今にも一雨きそうなのが目に見えた。
手早く済ませよう。そう思いながら、俺はガラガラガラ、と小規模の雷が鳴ったような音を立てて中へ踏み入った。
廊下の薄暗さと室内の蛍光灯の明度の差に一瞬、目がくらんで顔を認識することができなかった。扉を閉めて前を向き直すと、一人の男が窓際に佇んで構えていることが辛うじて分かった。
「突然呼び出してしまって申し訳ありません。少し、あなたとお話がしたかった」
 シルエットの後に発せられた声色が担任の天乃先生だとすぐに認識できて、俺の口から重い息がこぼれた。
「……帰ります」
 長机に並べられた成績表と大学一覧表の冊子を見て、俺は呼び出しを受けた理由を瞬時に悟ると、間髪入れずに背を向けた。
「おや、私とは話す気分にはなれませんか?」
 考えてみれば、既に俺の持っている全てのライフ№を騙し取って目的を遂げているあの女が、今更会いになんてくるはずがなかった。本当馬鹿だな、俺。
俺は心底来るんじゃなかったと辟易しながら、部屋を出ようと足を前に出した。
 明色の空間から、再び暗然とした廊下へ。躊躇なく踏み越えようとしたそのとき、
「やっぱり、あなたをこの場に留めるにはミライさん本人を呼ぶべきでしたかね」
 ……何?
 おかしい、とすぐに違和感がよぎった。
 だってそうだろう。
 俺はまだミライのことを一言も口にしていない。にも拘らず、なぜこのタイミングであの女の名前を出してきた?
 ビタッと足を止めて半身を捻ると、俺は口を噤んだまま担任教師の顔を睨みつけるように凝視した。
「まぁ、とりあえずお掛けください」
 クラスの担任として着任した当初から、俺はこの掴みどころのない笑顔が気に入らなかった。
一拍置いてから、先生に聞こえないくらいの舌打ちを鳴らすと、俺は眉を顰めたまま仕方なくパイプ椅子に腰かけた。
 受験、進路、就職と様々な類の書類が生徒別、項目別にファイリングされて足元の鞄に規則的に整頓されているのが見えた。実にこの教師らしい。
 腕を組んで警戒心を募らせる俺が顔を上げたのを確認すると、天乃先生はにこりと笑って会話を切り出した。
「それでは、進路相談を始めましょうか」
「そんなものどうでもいい。さっき、なんであの女の名前を口に出したんですか?」
 渋々席にはついたものの、担任教師と更々会話などする気などなかった俺は気になったことを無遠慮に尋ねた。
先生は、その問いかけに対して一度間を置いた。
体感にして、ほんの二呼吸ほどの沈黙だったが、明らかに異常な重みを纏っていた。
 無意識に、俺が椅子に深く座り直してその反応を窺っていると。クラス全員の名前が載っている真っ黒な綴込表紙をトントンと机上で叩いた。
 そして、天乃先生は俯き加減のまま少し低いトーンでこう言った。
「有瀬くん、人の話は最後まで聞くものです。もしも私が本当に受験や就職に関する一般的な二者面談を行おうと考えていたなら、生徒の大半が下校を終えた今の状況を狙ってわざわざ呼びつけたりなどしません」
 何だ……?
 穏やかで澄み切った青空に、突如炭のような色をした雨雲が立ち込めたような。
俺は室内の雰囲気が一変したことに息を呑みつつ、受験の話じゃないんだとしたら一体何のために呼び出したのかと眉をひそめた。
天乃先生は、伏せていた顔をおもむろに上げると静かに口を開いた。
「今から行う進路相談は、あなたと、有瀬未愛さんの人生の進路についてのお話です」
 思いがけず飛び出した未愛の名前に、俺の肩がぴくりと揺れた。
 学生としての俺の進路じゃなく、俺と未愛――二人の人生の進路、だと?
 さっきのミライの名を出したのも明らかにおかしいし、何か……俺の身に起きたことをこの人は知ってるってのか?
 いや、だけどそんなことはあり得ない。
 一ヶ月前に未愛が倒れたという最低限度の情報は知っているだろうが、心臓病で余命宣告されたこと、そしてその命が後ほんの僅かで尽きてしまうことは全く伝えていないのだから。
 俺が反応に窮して返事をできないでいる中、先生は続けてこう述べた。
「まずは、申し訳なかったと一言謝罪をさせていただきたい。立場上、今の今まであなたに何一つお伝えできていなかったことを、私も大変心苦しく思っていました」
 何だ?
 この人はさっきから、一体何を喋っている?
 まさか……と迫りくる感情を、あり得ないという理性が堰き止める。
「いやいや。何でただの担任でしかないあんたが、俺に謝る必要があるんですか? 病院から何の連絡を受けたのか知らないですけど、俺に干渉して勝手に同情するのはやめてください。何も……知らないくせにっ」
俺の吐露する発言に、依然表情を崩さない担任教師は手を組みなおしてから仕切り直すような口調で言った。
「端的に現在の状況と私という人間の役柄を理解していただくには、改めて正式な自己紹介を行った方が良さそうですね」
「何を、言ってるんですか。自己紹介ならクラス発表があった日、教室で一度聞いてます」
「ええ、確かに。ですが、あれでははまだ不完全。半分なんです」
 半分?
 奇妙な単語を口にしたことで、俺の片眉がピクリと微動する。
「私は――」
 時間軸が一時的に緩やかに変遷し、不要な生活音が空気上から消失した。一切の澱みがないハッキリとした音声が、その場に流れた。
「私は私立煌翠高校教諭兼、転生委員会の天乃零と申します」
 転生委員会。
 驚きに目をしばたたかせながら、直後途方もない憤怒の蓄積が溶岩流の如く込み上げてきた。
嫌な予感と胸中のざわつきの正体が図らずも明らかとなって、幾つかの絡まっていた紐が解けていくのが分かった。
「……そうか。あぁ、そういうことか。じゃああんたは、時雨ミライの嘘を初めから知っていたって、そういうことか」
 仮に知らなかったとしても、もう俺の中で転生委員会に対する負の感情は収まらない。
 だが、それでも聞かずにはいられなかった。
「立場上、はいと言わざるを得ないでしょうね」
遂に告げられた核心的な言葉に、俺はポツポツと声の粒を返した。
「あんた……じゃあ一体、どこまで知っているんだよ」
「そうですね。君が知っていることは全て。そして、君が知らないことも全て知っています」
「…………ぐっ、このクソ野郎が!」
 それはつまり、俺がミライに受けた裏切りも含めて全て知っていたということだよなぁっ!?
 刹那、俺は力を込めすぎて小刻みに振動した右腕を振り上げて天乃先生の眼前に突き出していた。
 避ける素振りすら見せない先生の挙動を見て、無意識に繰り出した拳を寸前で止めると、そのまま直下の机に振り下ろした。
 拳銃でも発砲したような打音が轟き、俺はそれがリングゴングとでも言わんばかりに積りに積もった感情を爆発させた。
「お前ら転生委員会の……あの女のせいで、俺は一体どれだけのものを壊されたと思ってるんだ! 偽物の希望を見せられ、未愛との最後の時間を妨害され、家族としての唯一の関係性までも失った! 何が……来世だっ! 人の現在を台無しにする、ただの悪魔じゃないか! 俺と未愛の人生を滅茶苦茶にしておいて、あんたは何とも思わないのかよっ!」
 叫びながら、動悸の早さと体温の高さが尋常じゃないことになっていることが辛うじて感じられた。
 でも、分かっているんだ。
 真夏に走って外から冷房のある家に帰ると、最初の数分は気持ち良いが、すぐに汗が引いて肌寒くなる。
俺の中の怒りも、惜しみなく出し切ったことでみるみる萎んで凪へと変じていくのが分かる。
感情の比率が恨みから虚しい、哀しいに逆転して胸が苦しくなっていく。
 俺は、馬鹿か。
 もう何をしても無駄だって分かっているだろ。
 ライフ№を奪われ、手術も失敗して、希望は完全に絶たれた。
 無理なんだよ、もう。
 これ以上は出来ない。
頑張れない。
「もう……いいです。これ以上、俺に関わらないでください」
 椅子を引き、机に手のひらを付けながら掠れる声で吐いた後、俺はおもむろに立ち上がった。
 喉が渇いているわけでもないのに、不思議と呼吸が擦れていた。
 結果が変わらないと分かっていてこれ以上みっともなく喚き散らすのは、空虚を通り越して無様だ。
 鞄を勢いをつけて掴み、椅子を蹴るようにして端に退けながら、俺は鴨居を跨ごうとした。
「分かりました。約束します。担任教師としても転生委員会としても、私はこの先あなたがどんな選択、行動をとろうとも一切関わりを持たないと」
 その返答を聞いてようやく溜飲を下げると、俺は一瞬止めかけた足を再度踏み出そうと足を上げた。
「ですが、その約束を守る代わりに私からも一つ、最後のお願いを聞いていただけませんか」
 これ以上、まだ何かあるのか。
 俺は厭悪の感情を隠そうともせずに天乃零に対して視線でぶつけると、彼も椅子から立ち上がってこう言った。
「あなたがこれから取ろうとしている行動については、おおよそ想像がつきます。だから、その前の僅かだけ、最後にあなたの時間を私にください」
 言うと、天乃零は深々と頭を下げて懇願した。
「もし、先生に差し上げた時間がひどく無駄なものだと……俺が感じたときはどう責任をとりますか」
「そのときは、私を好きなだけ殴って貶めていただいて構いません」
「……ふっ。はははっ」
 だから、今さらそんなことをしたところで何も変わらないんだよ。俺の怒りも、虚しさも、この一ヶ月も。
 でも、俺は敢えてその担任教師らしからぬ直情的な誘いに乗ることにした。
 元凶の転生委員会に対して少しでも復讐したいという気持ちが、やはり心のどこかに残っていたらしい。怒りのままに力任せで行動してもいいかもしれないと、思うようになっていた。
 乾いた笑みを浮かべながら革製のソファに鞄を雑に放り、俺は再び天乃零の前に腰を下ろした。
 指で机をノックしながら、俺はこれから天乃零が如何なる行動を取ろうとも無駄宣告を突きつけて復讐を遂げることを心で固めていた。
 だからこそ、結果が決まりきっている時間にいちいち勿体ぶろうとしている担任教師の所作に苛ついた。
 しかし、そんな俺の急き立てる音を気に留める素振りすら見せず、天乃零はゆっくりと座り直した。
 まるで、これまでの進路指導室でのやり取りを一度リセットしましょうと言わんばかりに表情を緩めると、数度深呼吸を繰り返した。
「これから私が話すのは、夢でもなければ創作でもないただの現実に起こった出来事です」
 そうして、天乃零は語り始めた。
一人の女の子にまつわる――長い人生の物語を。






























 時雨未来は、愛を知らない子供だった。
 父親は熱しやすく冷めやすい性格が故、計六度の転職を繰り返し、家には滅多に帰らなかった。
 安定した収入を得られない家計を助けるため、必然的に母も朝から夜まで働きに出た。
 三人家族で兄弟もいない。親戚とも疎遠な関係にあった彼女の家に来訪するような人間もおらず、時雨未来はいつも一人だった。
 学校に行けば自分に話しかけてくれるクラスメイトはいたのだが、放課後一緒に遊ぶことは許されなかった。
 理由は、月に何度か母の仕事が早く終わって夕方前に帰ってくることがあるのだが、以前未来の帰宅が母よりも遅かった時、平手打ちと一時間にも及ぶ説教を受けたことがあったから。
「私は必死の思いをしてあんたが生きていけるように頑張っているのに、なんで呑気に遊んだりしていられるの? もっと私に感謝して謙虚でいなさいよ!」
 母の口から出る言葉の大部分は、そんな内容で占められていた。
 それからというもの、未来は学校が終わると脇目も振らずに走って帰り、気を抜いてしまうことがないように家の中から一歩も出ず愚直に母の帰りを待つようになった。
しかし、それでも母の未来に対する理不尽は止まらなかった。
 帰宅するや玄関の郵便受けを爆竹にも近い音を鳴らして蹴り上げ、深い溜息と共に地震みたいな足音を鳴らして居間の扉を押し開ける。
 未来が恐る恐る発する「おかえり」の声に返事もせず、半額のシールが貼られたスーパーの総菜を二つ放って渡すだけだった。
 未来は疲れた母の邪魔にならないよう部屋の隅で三角座りをしながら、膝の上に総菜の容器を乗せて静かに食べる。母は手荷物を床に撒き散らし、ソファにどっかりと腰を掛けながら弁当と総菜をかきこむようにものの数分で平らげる。
 食べ終わった母は片付けもせずに隣の畳部屋へ行き、敷きっぱなしの布団の上に横になる。
 これが、平日のいつもの光景だった。
 休日も一日中寝室にこもっていて体を起こすのは夕方になってから。二週に一回くらいは手料理を作ってくれることもあったが、大抵はコンビニやスーパーの総菜、弁当だった。
 そんな生活が物心ついた時から何年も続いていたのだが、時雨未来は母親のことが嫌いではなかった。
 なぜなら、父親はたまに帰ってきても、不機嫌な顔でお酒を飲みながらぼうっとテレビを観るだけ。まるで透明人間のような扱いをして、目さえろくに合わせようとしない徹底した無関心ぶり。
 それに比べると、ちゃんとご飯を与えてくれて自分が悪いことをしたら面と向かって説教をしてくれる母親は父親の何倍も優しく見えた。
だから、あるときから未来はただ家でじっと待つことができなくなった。家で荒れた態度をとるほどいつもたくさん仕事をしてくれている母親に褒めてもらえるくらい、自分にできることでせめて……何かに取り組みながら待っていたいと思ったから。
元から勉強に関してはいつも満点を取っていたし、それを見せても母親が褒めてくれないことは知っていた。
だったら……と、未来は唯一の好きな物といえるキーホルダー作りに時間を使うことを選んだ。
今日は帰ってきて叱られたりしないだろうかとドキドキしながら時計とにらめっこして待っていた時より、ずっと時間が経つのは早くて、出来たものはお母さんにプレゼントすることができる。
それに、何度も何度も際限なく作り続けることで、両親が頑張って仕事をしていることへの申し訳ないという罪悪感を少しだけ払拭することができた。
こうして、手作りのキーホルダーを完成させては母親に見せてを繰り返し続けたが、一度も褒められることはなく、大抵は目の前でゴミ箱に捨てられた。
それでも――。
一生懸命作り続けて、見せ続けて、いつかこの家のお金に余裕が生まれるようになるまで頑張って耐えることが出来れば、空いたお母さんの時間はきっと私に使うようになってくれる。私のことをいっぱい褒めてくれる。たくさん構ってくれるようになるはずだと、信じて疑わなかった。

 ……しかし、未来が小学校を卒業して中学生になったある日、突如母は失踪した。
 いつも仕事が終わって決まった時間に総菜の入ったビニール袋を片手に帰ってくるのに、その日は夕陽が沈んで外が真っ暗になっても帰ってはこなかった。
 偶然昨夜から家に帰っていた父親に、未来は恐る恐る聞いた。
「あの……お母さんが、帰ってこないんだけど。何か、知りませんか」
 ビール缶をあおりながらギロリ、と威圧的な視線を送ると、ひどく冷めた低い声でこう答えた。
「知らねぇよ」
 その一言だけで、目の前の男がどれだけ自分と母に対して興味を持っていないのかが残酷なほどに理解できてしまった。
 結局何も分からないまま、未来はただただ母の帰りを信じて待ち続けた。
 月日は流れ、失踪から実に半年が経過した頃。
 未来はこれまで以上に、家の中で心の休まる場所を失っていた。体重は減り、精神はもはや限界を迎えようとしていた。
 しかし、そんな状態になっても未来は警察に届けを出すこともせず、ひたすら母の帰りを待ちわびた。
 未来が警察に届けを出そうと考えなかったのは、そもそも頭にそのような考えが微塵もなかったから。
 とある日のこと。
 その日の母はいつも以上に機嫌が悪く、八つ当たりからの殴打を何発も浴びていた。
 そして、未来が床に伏して起き上がれなくなるまで痛めつけた後、母は吐き捨てるようにこう言った。
「私とまた話したり、ご飯を食べさせてもらいたいんなら、警察や児童相談所に告げ口なんかしたりするんじゃないわよ」
 結果としてその言葉は、現在でも未来の胸の奥に深く刻まれていて、警察に届けなんて出してしまったら余計にお母さんが家に帰ってこなくなると、そう思っての行動だった。
 とはいえ、これだけ長い時間電話の一つもないまま待たされ続けると、心は掠れて生気が失われていくのもひしひしと感じていた。
 未来はその日、とぼとぼと虚ろな面持ちで歩きながら、せめてもの気分転換をしようと自宅から離れた公園に向かっていた。
 広々とした見晴らしのいいその公園には、時間帯もあってか二人の親子しかいなかった。
 自分より一回り小さな女の子が父親にブランコを押してもらってキャッキャと幸せそうに笑っているのが見えて、未来は何となく目を伏せた。
 羨ましい。
 自分とあの女の子は、何が違うんだろう。
 どこで人生の岐路が決まってしまったんだろう。
 小銭が入った赤いポーチに水滴がポタリ、と降る。手の甲で何度も力任せに拭うが、それでもすぐに壊れた蛇口みたいに涙が溢れて止まらなかった。
 いや、ダメだ。
 もしかしたら今、母親も同じくらい辛い目に遭いながら頑張っているのかもしれない。
 踏ん張って。
 頑張ろう。
 きっと、あとほんの少しで今の辛い生活から救いの手を差し伸べてくれるはず――。
 そう自分を奮い立たせて笑顔を作りかけた時、離れた場所から近づいてくる一人の足音が聞えた。
「ごめんね〜お待たせ。お店すごい混んでて、時間かかっちゃった」
 それは、先ほど見たブランコで遊ぶ父と女の子の母親の声のようだった。
「え……」
 私は何気なく再び公園の中に目を向けた。
 そして、呼吸が止まった。
「もう、遅いぞ〜。花が待ちくたびれちゃったじゃないか」
「ママおそ〜い!」
「あはは! ごめんね〜。さ、みんなでお家に帰りましょ♪」
それは一見、何の変哲もない幸せそうな家族の画。
 ……しかし。
 そこにいた女性は、未来が長い間ずっと耐えて待ち続けていた人と同じ顔をしていた。
「お母……さん?」
 力なく放たれた声は空を切り、目が眩むほど楽しげにする母親の姿は、今まで自分が一度たりとも見たことのない表情をしていた。
 そして、未来の希望は闇に消え去った。

 それから未来は、母親を含めた見知らぬ家族が公園を去った後も、しばらく呆然と立ち尽くした。辺りは薄暗さに包まれて街灯の明かりも照り始めていたが、家に帰ることもせずにそのまま街を徘徊した。
 俯いて足元だけに視線を送りながら、とぼとぼと歩いた。
 とにかく両親と過ごした街から離れたくて仕方がなかった。
 線路伝いにひたすら歩いて三駅先に辿り着いたとき、大粒の雨が降り出した。
 もはや走る余力すらなく、靴下や下着までぐっしょりの状態で駅前のロータリーの屋根の下でしゃがみ込んだ。
 長い間我慢してきた唯一の支えを失い、未来の中で何かが壊れた気がした。
何もかもがどうでもよくて、このまま誰にも見つからずに凍死でも餓死でもいいからこの世界から存在を消してしまいたいと思った。
 髪から垂れた雫なのか涙なのかはっきりしない水滴が乾いた地面に痕を作る。
 体を丸くして膝に顔を埋めると、周囲の音との距離が遠ざかって自分の呼吸音がよく聞こえた。そうすると、両親の現実と寒さから意識を逸らすことができるような気がした。
「君、そこで何してるの?」
 未来の世界から音が消え、思考が消え、自らの存在さえも消えそうになっていたとき、そんなハキハキとした大きな声が振り下ろした。
未来は自然とパトロール中の警察官に見つかったんだと思った。
さすがに無視をするわけにもいかず、目を細めて力なく面を上げた。
するとそこに立って覗き込んでいたのは制帽をかぶった警察官、ではなく20歳そこそこの私服の男だった。
「ずぶ濡れじゃないか。親御さんはどうしたの? もしスマホ持ってないんだったら俺が貸すけど?」
何だ……と緊張感を解いた未来は再び俯いて無視を決め込んだ。
こんな姿の女の子に声を掛けてくる人間なんて、まともなはずがない。
そう、考えるまでもなく思ったから。
 すると、大きなため息の音が聞こえた後で体に何かが被せられたことに気付いた。
 未来が驚いて肩元を見ると、それは男性が身に纏っていた白いダウンジャケットだった。
「ちょっと! こんなのいらないっ」と言おうとして慌てて立ち上がると、既に男はその場を立ち去っていた。
 一応、悪い人ではなかったんだ。
 無視をしてしまったことに僅かな罪悪感を感じながら、再び小さくしゃがみこんだ。
一方的に着せられたダウンジャケットをどうしようか迷ったが、時間が経つにつれて体温の低下も著しかったから大人しく袖を通すことにした。
 息を手に当てかけ、再びうずくまりながらひどく鈍った頭で今後のことを薄ぼんやりと考える。
 家には絶対に帰りたくない。父親の顔も、母親の私物が残った部屋も、両親の匂いがする家も、何もかもが嫌悪感で溢れていた。
 ただ、さっきの男の人は運よく勘違いで事なきを得たが、もしも本物の警察官に見つかって父親に連絡でもされてしまったら、強制的に連れ戻されることは回避できない。
もう……戻りたく、ない。
 結論が出ないまま悩んで考えたが、結局ロクな答えは出てこなくて、寒さに耐えかねた挙句、その日は買い物代として渡されていた僅かなお金でネットカフェに素泊まりした。
 翌日、店内で1番安いホットドッグを何口にも分けて食べた後、あらかじめパソコンで調べておいた近くの図書館に向かって歩き出した。本を読んで楽しむことができるような精神状態じゃないことは分かっていたけど、お金を使う必要がない場所の心当たりが他になかった。
 それから、入り口付近に設置された冷水器の水だけで空腹を凌ぎつつ、椅子に根が生えたみたいに閉館時間まで座り続けた。
 図書館から出てしばらく歩いていると、あっという間にどっぷりと陽は暮れていき、再び身震いするほどの寒さが全身を襲った。
「…………」
 無言で立ち止まってポーチの中身を確認してみると、既にネットカフェで数時間滞在するだけのお金すら残っていなかった。もはや、未来には打開策を考える気力すら残ってはおらず、昨日と同じ駅に立ち戻った後目を瞑って膝を丸くした。
 家に帰らなくて心配してくれる人間も、命が消えて悲しんでくれる人間も、いない。
 寒さと孤独感と所持金が尽きたひもじさと――。
 未来の中で色々な感情が弾けては全身に毒がゆっくり回っていくみたいにダメ―ジを負っていく。
 やがて空気中に手を出しているのさえきつくなってジャケットのポケットに突っ込んだ。
「……えっ」
 そのとき、ポケットの中に二つ折りの紙みたいなものが入っていることに気付いて、未来は恐る恐る取り出した。
 それは、驚くことに一万円札だった。
 もしかして、昨日ジャケットを被せてくれた男の人が間違って入れたままにしちゃったんじゃ……。
 そう思った未来が動揺しながらどう本人に返すべきかを考えていると、ふとお札と一緒に挟み込まれていたメモ紙の存在に気が付いた。
『そのお金はお前の自由に使っていい。その代わり、気が済んだらちゃんと今後のことを考えるように』
 殴り書きのような雑な文字で、そう書かれていた。
 未来は生まれてから今日まで、まともに贈り物をもらったことがなかった。
 誕生日を迎えてもいつもと全く変わらないスーパーの総菜を二つ渡され、お小遣いと呼ばれるものも手にしたことがなかった。
 この世で一番近しい存在の両親にさえ貰えなかったお金を、見ず知らずの人間が上着と共に授けてくれた。
 だから、困惑と驚きが同居する感情がいっぱいに込み上げてきて本気で戸惑った。
 雨に濡れて生乾きしている服に代わる新しい服、ネカフェにもう一泊する宿泊代、夕食代。すぐに思いつくお金の使い道は無意識にいくつか頭をよぎった。
 でも、結局未来はそのお金を使うことができなかった。
 知らない人からもらったお金を使ったりしたら騙されるかもしれない、なんてことを考えたからじゃない。
 ただ、見ず知らずの自分のためにここまでしてくれたあの男の人に、ジャケットのことも含めてまともなお礼の言葉も言わずに使うことは、どうしても未来にはできなかった。
「……んっ!」
 未来は重い体を持ち上げて立ち上がった。
 昨日の男性の特徴を思い返し、手にビジネスバッグと思われる物を持っていたことから毎日仕事でこの駅の電車に乗り降りしているのではないかと推察した。
 だから、駅構内に入っていく人、逆に出てくる人を一人として見逃すことのないよう目を皿にしてあの男の人を探した。
 ただ立っているだけなのに、息が荒くなって手すりに体を預けなければよろけてしまいそうになっていたそのとき、
「…………いた」
 昨日と同じ鞄。同じ革靴、同じ腕時計。
 違うのは、ジャケットの色だけ。
 未来は一万円札を握りしめて、男を見失う前に必死に追いかけた。
「あのっ!」
 寒さで上手く声が出ない。名前も知らないから特定して呼ぶこともできない。
 走りながら考えた末、未来は再び叫んだ。
「そこの……一万円の人!」
 その発声で体力を使い切り、未来が膝に両手をついて肩で息をしていると、
「おいこら。誰が福沢諭吉だ」
 そんな声が降ってきて顔を上げると、ようやく存在に気付いた男が不満げな顔で未来のことを見下ろしていた。
「あっ、えっと……ジャケットと、それにこの一万円、ありがとう……ございました」
 声が届いていたとは思わず、未来は焦りからたどたどしく礼の弁を紡いだ。
 男は未来の言葉に一拍を置いて視線を上下させると、少し驚いたような声で尋ねた。
「もしかして、それを言うために昨日からお金を使わないでいたのか?」
「あ……いや、お金に気付いたのはついさっきだから、昨日からってわけじゃ――。でも、私昨日のジャケットの時からお礼を言えてなかったから、何となく言わないと気持ち悪いと思って……」
「そっか。お前、家出少女の割には礼儀正しいんだな。立派なもんだ」
「いや、そんなっ……!」
 普段人から褒められることが皆無だったせいか、未来は意表をつかれて顔を真っ赤に染めた。
「それで、これからどうするのかはちゃんと考えたのか?」
 未来の視界に、一万円札と一緒に挟み込まれていたメモ紙の文字が映りこむ。
「このままじゃダメだってことは、分かっています。家出してたった一日で、もうこんなに疲れてくたびれちゃいましたから。……でも、家には。……っ。家にはっ……帰れないんですっ」
 言いながら、未来の目からはボロボロと大粒の涙がこぼれ出していた。
 人前で泣くなんて恥ずかしい。まだろくに名前すら知らない人に、何言っちゃってるんだろう。
 脳内ではわかっているはずなのに、体の方は言うことを聞かなくて、涙と嗚咽が止まらなかった。
 そんな未来に、男は藍色のハンカチを手渡すと「ついてこい」と言ってどこへともなく歩き出した。
 数分ほど歩いて着いた先は、『有瀬』と書かれた表札の構える大きなアパートだった。
まるで意図が分からなかった未来は、色々と尋ねようと頭の整理をしている最中、男はあるものを先に差し出した。
「……えっ」
 未来が短い声を漏らした先にあったのは、家の鍵だった。
 ますます訳が分からず未来が困惑の色を表情にだしていると、男はさらに耳を疑うことを口にした。
「俺は有瀬愛碧衣。今日から、この家を自由に使っていい。しばらくの間俺はビジネスホテルで寝泊まりして、朝出勤する前だけ着替えと荷物を取りにくるから。君は、気持ちの整理がつくまで好きなだけここで考えればいい」
 未来は、その発言があまりにも突飛すぎて鍵を手のひらの上に乗せたまま固まっていた。
 男はそんな未来をよそに、本当に宣言通り家に背を向けると、平然とホテルに向かって歩いて行ってしまった。
 もはや何が何やら分からない未来だったが、男が立ち去ってから気が抜けたのか、急激に疲労と眠気の波に襲われた。
 考える余地もなく、受け取った鍵を使って恐る恐る家の中に入ると、男の一人暮らしとは思えないほど清潔で整頓された部屋が広がっていた。
 キョロキョロと首を左右に振りながら、リビングの隅の方に荷物を下ろす。
家を出たきりずっと同じ制服を着続けていたから床に座ることも何となくはばかられた。
とはいえ、勝手にクローゼットを開けて着れる服を探すのは申し訳ないし、そもそも男の人の服ではサイズが合わない。
どうしようかとスカートの前で手を揉んでいた時、ハンガーにかかった一着のサッカーユニフォームが目に入った。
「……ごめんなさいっ」
それからシャワーを借りて髪を乾かした後、そのユニフォームに手を通してから倒れこむようにソファに体を預けた。
 奥に寝室らしき部屋もあるみたいだったが、さすがにベッドを借りるわけにはいかないと思い、リビングにあった毛布だけ借りて横になった。
 蓄積した疲労ももちろんあったが、知らない家とは思えないほどに未来はすぐに眠りに落ちた。それはネカフェの時とはまるで違う、穏やかな眠りだった。

 翌日から、有瀬愛碧衣は当然のように早朝にだけ帰宅すると着替えと荷物だけ手早く準備を整えて仕事に赴いた。
家の物は何でも自由に使っていい。悩みごとの目途が立ったらいつでも好きなタイミングで家に戻ればいい。助けてほしいことがあったら出来る限りのことはする。そう、言ってくれた。
 次の日も、また次の日も、家に帰ってくるのは朝の一瞬で、必要な分の食費だけ置いていくと颯爽と仕事に向かった。
「ねぇ、ちょっと待って!」
 ある朝、とうとう未来は有瀬愛碧衣に向かって積みあがった疑問を投げかけることにした。
「どうした? 生活費でも足りなくなったか。それだったら追加の金を……」
「なんでなんですか!? 私みたいな、見ず知らずの人間に、ジャケットを渡してお金を渡して、家まで使わせてくれて……。どうして、ここまでしてくれるんですか。何か私に見返りを求めているんだったら、早めにはっきりと教えておいてください。じゃないと……私は馬鹿だから、うっかり喜んでしまいそうになっちゃいます」
 他人からはもちろん、家族からすら優しくされたことのない未来にとって、有瀬愛碧衣の行動は何一つ理解ができなかった。だから、理由の分からない優しさは素直に享受することが困難だった。
 すると、男は重々しく尋ねる未来とは対照的に一笑してから言った。
「そういえば、まだ俺の職業言ってなかったっけ。俺は、消防署に勤める消防隊員なんだ。災害や事故に遭った人を助ける仕事。……だから、申し訳ないけど君が求めるような理由は特にないんだ。あのとき雨の中で一人しゃがみこんでいる君を見たとき、本能的に助けなきゃって思っただけだから」
 その瞬間、未来の中で偏見と狭い視野の中に存在していた世界の色が変わった。
 これまで気を遣うことしか、我慢をすることしか知らなかった未来がそのとき初めて、他人に対して一点の曇りもない善意を向けることが出来る人の存在を知った。
 世界は、ただ残酷で満ちているわけではなかった。
 歪んだ常識で覆われた未来の視界に光が差し込んだ時、実に生まれて初めてのお願い事が口をついて出た。
「こんなことを言うのは、本当に……恥知らずだと、重々承知しているんですけれど。お願いします。何度も、何度も、考えましたが、私はもう……あの家、親がいる場所には戻ることができません。だから、私が自分でお金を稼ぐことができるまで、ここに……置いてくれませんか。家事でも、雑用でも、何でもします。だから――」
 言っている途中で、有瀬愛碧衣の大きな手が未来の頭を包み込んだ。
「わかった。その代わり、親にはきちんと今の自分の気持ちとこの住所を書いて手紙を送ること。そして、出来る限り学校には卒業するまで通うこと。お前のこれから続く長い人生のためにも、そういう最低限のことはした方が絶対良いからな」
 未来は、ゆっくりと首を縦に振って了承の意を示した。そして、三度泣いた。

 それからは、頑なに現在の生活スタイルを変えないと言って聞かない有瀬愛碧衣を未来が必死に説得して、一緒の家で生活することを受け入れさせた。
 未来は約束を守るため、時間をかけて手紙を書き、きちんと家出を決意した理由と今抱いている正直な気持ち、そして放浪していた自分を救ってくれた愛碧衣の存在も包み隠さず綴って父親に送った。
 正直、怖かったし書きたいことも小一時間思いつかないくらいには父親のことを嫌悪していた。
 でも、それ以上に未来は愛碧衣の嬉しそうな顔が、「よく頑張ったな。偉いぞ」という誉め言葉が欲しかった。
 未来は少しずつ、でも着実に変わっていった。
 高校生になると自分の意志で面接の予約を取り付け、バイトを始めることもできた。これまでのお金を少しずつ有瀬愛碧衣に返して、改めて感謝を伝えた。
 辛い気持ちを呑み込んで根気よく送り続けた父親への手紙にも、長い間を経てようやく短い了承の文面が届き、胸を撫で下ろした。
 目に見えない檻の中に囚われていた時間を取り戻すように、未来は感情に色を灯して穏やかな時間を進んでいった。
 ――こうして、当初未来が愛碧衣と約束をしていた瞬間。一人で自立することができるようになる高校卒業のタイムリミットを迎えようとしていた。
すっかり見慣れた愛碧衣の家の中をぐるりと見渡しながら、未来は何度も深呼吸を繰り返す。
手には、学校で配布された進路希望用紙が握られていて、未だ記入欄は空白のまま。
 ……未来には、以前から考えていたことがあった。
 自分の中にいつの間にか芽生えていたある感情。
 日に日にその気持ちは膨らんで強くなってきていることに気付いて、どう向き合っていくことが正解なのか、探していた。
 これまでずっと、身近な人に笑ってほしくて、話してほしくて、一緒にいたくて。目に見える顔色と見えない感情を気にして生きてきた。
 感情を隠して、働いてくれているお母さんの気分を害さないように、迷惑にならないようにあらゆる自分を押し殺す。それが当たり前で、世界のすべてだった。
 そんな人生の中で、愛碧衣と出会うことができた。
 少し前の自分では想像もできないくらいに今、分不相応なほど幸せに溢れた生活を送らせてもらっている。
 ……だからこそ、考えてしまう。
 涙が出そうなくらい幸せな生活を享受しておいて、これ以上を望むなんてことは有り得ないんじゃないかって。夢を見るにも限度があることくらい知っておけって。心の声が警告する。
「どうしたんだ、未来? 急に話したいことがあるって。もう残り半年で高校も卒業だろ? もしかして、これからどうしていくのか具体的な進路が決まったのか?」
 でも……いけない私は、この人の顔を見てしまうとどうしようもなく感情が込み上げて抑えきれなくなってしまう。
 もしも、望みすぎのわがままな時雨未来に最後の願いが許されるのだとしたら。
 あの頃の塞ぎ込むだけの自分を今この瞬間、完全に消滅させることができるのだとしたら。
「……はい、そうです。私がこれからどうしたいのか、家出の終止符をどう打つのか、ようやく気持ちがはっきりと決まりました」
「おぉ、そっか。それで、これからどうするつもりなんだ? 何かやりたいことがあるんなら大学や専門学校へ行けばいいし、就職して一人暮らしを始めれば自由に人生を送ることだってできる」
「……もちろん、受験や就職を含めた学業面については私なりに考えて行動に移そうと思っています。でも、その前に。どうしても聞いてほしい話があるんです」
 口元が震えても、心臓の鼓動音がうるさくても、私はもう逃げない。
 ありのままの……本音を、伝えたいっ!
「愛碧衣が、私のことを未だに子供として見ているのは知っています。出会った時から、もう随分体つきも髪の長さも、きっと心も……。たくさん変わったっていうのに、愛碧衣は私に対する態度がこれっぽっちも変わってない。こういうことのために助けたんじゃないっていう愛碧衣の気持ちも、十分すぎるくらい分かってるけど。……でも、私はもう愛碧衣に拾ってもらったときとは違う。甘え方も、わがままの言い方も、優しくすることも、されることも、いっぱいの初めてを愛碧衣にもらったんです。だから、だからまっすぐにこの気持ちを……伝えたい」
 愛碧衣の体から一歩離れて、呼吸を整えてから顔を上げる。
「好きです。私は、愛碧衣のことがたまらなく好きなんです。だから、私の進路をかなえさせてください。愛碧衣の――お嫁さんになることが、私の望む一番の進路です」
 長い間閉じ込めていた本音を言い終わった直後、心臓がきゅうっと縮んで震えた。
 駅で出会ってから何度も何度も、この顔を見てきたはずなのに、別人に見えてしまうくらい緊張してる。
 あっさりと断られて、卒業まで何事もなかったみたいに元に戻って過ごすことになってもいい。でも、これまでのかけがえのない関係性まで壊れるほどに引かないでほしい。
 それだけが、本当に怖い。
 そう、思いながら祈るように薄目を開けると、愛碧衣はこれまで見せたことのない嬉しさと迷いが交じり合ったような表情をして腕を組んでいた。
 そして、たっぷりと時間をとって悩んだ末に微笑みながら言った。
「わかった。設けていたタイムリミットまではどのみちまだ時間があるわけだしね。何よりも、あの未来が……自分の気持ちをこうして正直に言うことができるようになってくれたことが、俺は一番うれしいよ」
 じわぁっと、全身から不安の強張りが綻び、冷たくなっていた手のひらに温度が戻った。多分、跳びあがるような嬉しさというよりは、心の底からほっとした気持ちが大部分だったと思う。
固結びみたいにギュッと結んでいた口をようやく控えめにほどいた後、未来は愛碧衣の顔を見返しながらささやかな言葉をもってこう応えた。
「……うんっ」
 それから半年後の未来の卒業式の日。二人は正式に付き合うことになり、その三年後、未来のお腹には新たな命が宿った。


――そして二人の、いや三人の運命が大きく変わる日が訪れる。
 その日は、前からずっと楽しみにしていた旅行に出かける予定を組んでいて、県外で連泊するのは結婚してから実に初めてのことだった。
 普段多忙な愛碧衣が珍しく連休をもらうことができて実現したこともあって、二人は何週間も前から観光場所や食事処を調べて綿密な準備をしていた。
 出産日のことを考えると、二人きりで旅行できる最後の機会になるかもしれない。
 そう考えると、未来の思い入れも一際大きく特別なものとして募っていた。
「うわぁ~っ!」
 そんな期待の念が通じたのか、玄関の扉を開けると雲一つない澄み渡った青空が二人を迎え入れた。
 興奮は最高潮に高まり、未来と愛碧衣は弾んだ足取りで車に乗り込むと、あらかじめ予定していた時間通りに家を出発することができた。
 持ち物も薬も車のメンテナンスも道順も、あらゆる万全を期した中でたったひとつ。当初の予定とは違うところがあった。
「なぁ、やっぱり俺が運転変わろうか? もう随分治ってきた気がするし」
「大丈夫ですよ。今日は普段お仕事を頑張ってくれてる愛碧衣に羽を伸ばしてもらうための旅行でもあるんですから! 大人しく私に任せてナビをしててください。ちなみに今日の私は、機嫌だけじゃなく体調もすごく良いんだからっ」
 ひと月前に起きた火災現場での救助活動中に右腕を怪我した愛碧衣を気遣って、未来は車の運転を代わりに引き受けていた。
 幸い高速道路の渋滞はほとんどなく、サービスエリアで昼食を済ませた後も交通状況が変わることはなかった。
 車内では、音楽やラジオを流すこともせず家にいるときと変わらない調子で他愛のない会話を楽しんだ。
 今日の宿泊先の旅館のこと。お土産を買って渡す知人のこと。最近家の近所に新しく建ったショッピングモールのこと。これから生まれてくる子供のこと。
 数時間もの道中があっという間に感じられるほど会話はいつも以上に弾んだ。窓から見える青い海と白い陽射しを受けた木々の枝葉の鮮やかな緑という景観も見事に非日常感を高めてくれていた。
 カーナビの画面に、目的地まで残り5kmの表示が灯る。間もなくして、高速道路を降りて一般道に合流した後、赤信号に差し掛かったところで思わず安堵の息を漏らした。
 愛碧衣も同じようにほっとした顔を見せながら、「運転引き受けてくれてありがとう」と気遣ってくれた。
 それが嬉しくて、さぁラストスパート頑張ろうと前方の赤信号を見た時、未来は一瞬息を止めながら何気なくお腹をさすった。
 違和感……というには大袈裟な感覚だったから、すぐに手はハンドルに戻した。
 先日病院に行ったとき、予定日まではまだ先だと聞いていたから少しひやりとした。でも、すぐに気のせいだと思ってアクセルを踏んだ。
「未来、お腹大丈夫か?」
「あ、うん。ごめんなさい。大丈夫。私の気のせいだったみたいだから」
 言いながら顔を綻ばせてみせると、愛碧衣も目配せで応じながら信じてくれた。
 旅館まではあと1km。
 ハンドルを握り直して背筋を伸ばす。
 これまで以上にゆっくり慎重に走ることを意識して、未来は前方を凝視した。
 トランクの荷物がごとりと音を鳴らして、タイヤが木の枝を踏んだパキッという音が聞こえた。その直後のことだった。
 お腹の中の赤ちゃんが数度、足で蹴ったのをはっきりと感じた。
「っ……!」
 そっか。
さっきのは気のせいじゃ、なかったんだ。
 私、本当にもう……お母さんになるんだ。
 愛碧衣と私と、もうひとり家族が増えるんだ。
 不思議だった。
 今までの長い人生でこの瞬間、何よりも強く生きているという実感を得た。
 新しい生命の尊さを噛みしめた。
 自然と頬が緩んで、お腹を見つめながら目を細めた。
 だから、決して――注意が散漫になっているつもりはなかった。
 前は気にしているつもりだった。
 お腹に気をとられたのはほんの瞬きほどの間で、危険が迫っているなんてこれっぽっちも想像していなかった。
「っおい! 未来、前っ……前見ろっ!」
 愛碧衣の叫び声が届いた時、もう取り返しのつかない至近距離に、フロントガラス全面に広がる車の影が暗く覆ってしまっていることを初めて認識した。
 1秒にも満たない時間の狭間の中で、隣にいる最愛の人と過ごしてきたこれまでの記憶が花火みたいに弾け散って、思考が断線した。
 頭が……痛い。
 身体が……痛い。
 心臓が……痛い。
 全身のあらゆる箇所が鉄のように重くて、僅かでも動かすと激痛が走った。
……トクン。……トクン。
 朦朧とする意識の中、咄嗟に左腕をお腹の前へと持っていくと、お腹の子はまだ無事だと直感で認識することができた。
 愛碧衣はっ――。
 首と眼球をめいいっぱい動かして、煙が立ち込める現場を右に左に視線を散らしながら懸命にその姿を探した。
 …………いない。
 もしかしたら、消防士として既に応援を呼びに行っているのかもしれない。
 いつも仕事のために体を鍛えていたから、きっと無事。大丈夫。
 そう思って一度視線を切ろうとした時、真っ黒に燃え焦げた車が視界に入った。
「――――――――――えっ」
 世界から、音が消えた。
 それは、地獄をそのまま絵にしたような光景だった。
 医学知識を持たない者が見ても、一目で即死だと分かる変わり果てた愛碧衣の姿。
「…………やだ」
 ほとんど息が掠れるだけの声が小さく響く。
『告白は、未来からしてくれたからね。プロポーズは絶対に男からやらなくちゃって、ずっと考えてたんだ。今まで、あんまりこういうことを言葉に出来なくてごめん。でもこれからは、たくさん伝えようと思っているから許してほしい。未来のような素敵な女性と出逢うことができて、一緒にいることができて、最高に嬉しい。だから、これからは俺のお嫁さんでいてほしい』
「…………い、やだっ」
 アスファルトを這いながら、必死に愛碧衣の亡骸に手を伸ばそうとするが、届かなかった。
「あぁっ……あぁ…………っ私は、わ……たし、は……なんて……ことをっ」
 希望の光が消えた事実を知った途端、急激に意識が遠ざかるのを感じた。
 あぁ……もう、私も……死んじゃう。こんな……こんな最後って……。
 黒煙立ちのぼる事故現場の中心で、最後の気力を振り絞ったその命も尽きようとしていたそのとき。
「初めまして。我々は転生委員会と申します。あなたは当初定められた運命の下、後僅かで命を落とします。そのため、来世転生の手続きに参りました」
 一瞬、神様かと思った。
 黒スーツに身を包んだその若い男性は、悲鳴と叫び声で埋め尽くされた凄惨な事故現場でただ一人、〝静〟の空気を纏っていた。
 そして、男が謎の黒い手紙を未来の手に触れさせたとき、その認識はあながち間違っていないのだと思えた。
 息絶えた愛碧衣の頭上に、光る数字が見えたのだ。
 ライフ№と呼ばれる転生に必要とされる魂の個人識別数値という説明を手早く受けた後、すなわち……という接続詞に次いで男はこんな言葉を繰り出した。
「消防隊員として多くの命を救ってきた有瀬愛碧衣には、来世での転生権が与えられます。しかし、彼は既に命を落として要望を伺うことができません。そのため、有瀬未来さんあなたに転生代理者として彼の転生先を決定していただきたいのです。私の仕事は、生涯を終えた魂を、来世へ届けることなので」
 自分が今、死の淵にいるからなのかな……。一体何を言ってるの? でたらめなこと言わないでよ! などとは思わなかった。
意識は消えかけのろうそくみたいに朦朧としているのに、自分がこの人に何を言い残すべきなのか、不思議とすぐに頭に浮かんだ。
「私……分かるんです。お腹の中の子は、私達と違って助かる。そんな気がするんです。だから……愛碧衣に、もしあなたの言う来世が、あるというのなら。私が願う……転生先は一つです。このお腹の子を、これから生まれてくるこの子を……。傍でずっと、ずっと見守ることができる存在に……してくださいっ」
 涙のせいなのか、死に際のせいなのか、もう視界がぼやけて上手く意識を保つことができなかった。それでも、地面に肘をついて生にしがみついた。
「なるほど。承りました。有瀬愛碧衣の最後の行動を見ても、その選択はふさわしいと、私個人も思います」
 最後の行動。
 そのフレーズに、未来は微かに意識が引っ張られた。
「あの……今のって、一体……どういう――」
 絞り出した声で尋ねると、その男は控えめに笑んだ後こう話した。
「有瀬愛碧衣は、事故に遭う直前自らの意志でシートベルトを外していました。その行為が、結果として即死に繋がった。しかし、走行中はずっとシートベルトをしていたはず。では、なぜ自らそんなことをしたのか。……理由は、ただ一つです。あなたとあなたのお腹にいる子供を、咄嗟に庇おうと運転席の前に身を乗り出したからです」
 ……ああ、そうか。――やっぱり私が、愛碧衣を。最愛の人を、殺したんだ。
 昨日から愛碧衣は、私が車の運転をすることを心配してくれていた。
 お腹の子に気を取られて運転が不注意になってしまうことを、私は考えもしていなかった。
 大粒の涙と一緒に、溢れんばかりの後悔が目からこぼれた。
「……それでは。生涯大変お疲れ様でした」
 カツ、カツ、と足音が徐々に遠ざかっていくのがわかる。
 一歩遠ざかるごとに、自らの死が近づいてくるのを感じる。
 いや、私が死ぬことはいい。
ただ、このまま死んでしまったら私は、二人になんて……申し訳が、立たないんだ。
償うことも……謝ることすら……できないなんてっ。
薄れゆく意識の中、全身が張り裂けそうな強い後悔と自責の念を抱えながら息絶えようとしていたその時。
「待って……」
 カツ、カツ、カツ。
「待って……くださいっ」
カツ…………。
「命はっ、惜しく……ありません。この数年、私には過ぎた幸福を……たくさん、もらいました。でも、私はっ……何も、返すことが、できなかった! 返せず、すべてを奪って……しまいました。私にはっ、あなたが……神様に、見えるんです。神様だったら、私の、この…………。これから死ぬ私の魂を使って、最後に罪滅ぼしをする機会を、与えてくれませんかっ!? 愛碧衣と、このお腹の中の子供のためにほんの少しでも何か……させてくれませんか! お願い…………しますっ」
 それから、長い長い沈黙が漂った後、黒スーツの男性は顔に深い悲痛の影を落としながら灰色の吐息をもらした。
そして、静かに一度だけ首を縦に振った。
「当時、その彼女の願いを聞き入れて、時雨――いや有瀬未来を、正式に転生委員会に入れることを決めたのが私です」
 長い物語の最後を、天乃先生はそんな言葉で締めくくった。
 俺は、頭の中が真空になったみたいな心地になりながら目を剥いていた。
「…………………………………………」
 ミライ。
 ミライ。
 みらい。
 未来。
 未来。
 前世と現在と、何百と呼んできた名前の音が一瞬にして脳内で駆け巡った。
 あまりにも多くの情報量が流れ込んできたことで、ショートした機械みたいに固まっていると、天乃先生は囁くように付言した。
「ただ、決して私は情に絆されて決断をしたわけではありません。なぜなら、未来さんは偶然にも持っていたから。転生委員会に入るための、資格を」
 ――資格。
 瞬間、俺は以前に病院で聞いた黒雪創志の言葉を思い出した。
『俺達転生委員会の人間は、年齢も性別も性格も、何もかもバラバラだが、たった一つだけ。揺るぎない結びつき、資格みたいなもんが存在する。それは……前世で、人を殺した経験があるかどうかだ』
 ……そうか。あの日の事故死があったから、未来は……。
「有瀬くん、転生委員会には世界の情報を変換する力があることを覚えていますか? 今回の未来さんと有瀬くんの出来事も、過去に全く同じことを転生委員会で行っていました。故に、有瀬愛碧衣という人間が死に、転生して有瀬碧となった時。当初世界に存在していた情報はすべて抹消されることとなった。そう……あなたはそもそも前提から、前世のことなど……未来さんの真実など気付きようがなかったんです」
 あぁ……そうだ。
確か、前に未来も同じようなことを言っていた気がする。
「私は、偶然にも君達二人の、二つの人生において――多からず関与をしてきました。だから改めて、申し訳なかったと謝罪させてください。私が真実を告げることは、未来さんが遂げようとしている人生を懸けた行動の、邪魔になる恐れがあったから。今日まで君には何も言えなかった。それが、私の取ってきた行動の本意です」
 呼吸が、上手くできない。
 思考が追い付かなくて、貧血の時みたいに頭が朦朧としてくる。
「――天乃先生」
「はい」
「一つだけ……分からないことがあるんです。どうして未来は俺に、嘘をついたんですか。ライフ№を集めなければ、未愛を救うことはできない。これは、紛れもない事実のはず。なのに、なんで未来は……一ヶ月をかけて必死に貯めた俺のポイントを、全部奪い取ったりなんか……」
 腕組みを解いてギシッと軋む椅子の音と共に立ち上がると、天乃先生は引き出しから一枚の封筒を取り出した。
「転生委員会の仕事は、想像を絶するほど過酷なものです。何百、何千という人の悲しみ、死、憎しみ、愛、人間の最も大きな感情に立ち会い、しかれども、自身の感情を殺して来世への案内を行わなければならない。未来さんは、私と出会ってから毎日、毎日、毎日……。本当によく頑張ってきました」
 尚も天乃先生は諭すような口調をもって続ける。
「実は、私は転生委員会の中でも少々特別な役職を授かっていまして。――前世で人を殺めている転生委員会の人間は、その償いを達成することができれば、過酷な運命の最後に自分自身の転生の権利を得ることができることになっています。私の役割は、その転生委員会に所属する人間の転生処理を遂行すること。そしてこれが……」
 室内に静寂が落ちた僅かな間を置いてから、天乃先生は先ほど手に掴んだ一枚の封筒を俺に向かって差し出した。
「あなたと未来さんが出会った日。約一ヶ月前に未来さんから預かった転生願書です」
 そういえば、未来はこんなことを言っていた。
『どうしても叶えたい目的があります』
 手が、震える。
 敵と、味方と。
 前世と、現在。
 未来が今何を想っていて、何を成し遂げようとしているのか。俺には正直汲み取れる自信がなかった。
ぎゅっと目を瞑って、張り裂けそうになる胸の辺りを手で握りこむ。
 すると、ドンッと強い衝撃が突として俺の背部に伝った。
「行きなさい」
 振り向くと、すぐ後ろに立っていた天乃先生は真剣な表情で真っすぐ俺のことを見つめていた。
「君がこの一ヶ月……必死な想いをしてやってきたことは何だ? 前世からこれまでの人生で、一番大切だったものは何だ? 今一番やらなくちゃいけないことは、何だ?」
 俺はたっぷり十五秒ほどの間を置いた後、さっき放った鞄を再び手に取って、中に封筒を押し込んだ。
 最後に、扉を開けて天乃先生に深々と一礼をした後、俺は前を向き直して部屋を飛び出した。
「行ってきます」



【有瀬未愛の寿命が尽きるまで残り一時間】