気付いたら、俺と未愛は二人ぼっちだった。
同じ服装をした同年代の子供達は周りに何人もいたが、自我が芽生える年齢になって意識してみると俺と繋がりのある人間は未愛しかいないのだと悟った。
 定められた時間に起床して、食事を摂って適度な運動をする。敷地内から出られるのは週に一度だけ。
 やがて、子供の俺にも狭いと感じられたその世界は、児童養護施設という名称なのだと知った。
 なぜ自分は普通ではないんだろう。いつになったら普通になれるんだろう、と考える時間も日に日に多くなっていった。それでも俺が希望を捨てなかったのは、周りに自分と同じ境遇の人間がいたことや、園長先生をはじめとしたとても優しい施設の大人がいてくれたから。それに何より、未愛に不安を与えたくなかった。
長年そんな生活が続いたある日、俺と未愛を養子に迎えたいという夫婦が現れた。
 当然俺は喜び、世界にはなんて優しい人達がいるんだろうと感極まった。
 考えられる中で最も恐ろしかったのが、俺と未愛が離れ離れになってしまうことだったから、その不安が消えたというだけでこれ以上ないほどに有難いことだった。
 希望を申し出てくれた二人と対面を果たしてみても、あからさまな拒絶感が出ることもなく、容易にこの人達と送るこれからの生活を想像することができた。
 どうしますか? 耳打ちをするみたいに、園長先生が俺と未愛に訊ねる。
 迷う余地は、なかった。
 俺たちの返事を園長先生が伝えると、二人はほっとしたように微笑んでくれた。
 荷物をまとめて車に乗り込むと、施設のみんなが手を振って見送ってくれた。勿論、園長先生も。
 間もなくして、車のエンジンがかかって前に進みだしたとき。つい数秒前まで笑顔で手を振っていたはずの園長先生が、寂しい、悲しいとはどこか一線を分けたような複雑な表情を浮かべているのが目に入った。俺たちがいなくなることに対してではなく、なにか別の――。
 結局、俺はその初めて見る園長先生の横顔の真意が分からないまま、施設を後にした。だが、ふと前方を向いてみるとそこには無限に広がりゆくフロントガラス越しの新しい世界が映っていて、すぐさま意識はそちらに傾いた。
 過ぎゆく景色すべてが〝初めて〟で、胸躍らずにはいられなかった。
 ふと右手側を見ると、俺以上に無邪気に窓の外の世界を見つめる未愛の横顔があって、余計に顔が綻んだ。
 与えられるだけだった単調な人生からようやく、俺と未愛二人で作っていく自由が溢れる人生を送ることができるんだ! 心の中でそんな声を上げた俺の全身は興奮の熱で満ち満ちていて、かつてないほど穏やかに、笑顔を作ることができた。
 そして、翌日から新生活が始まった。
 引き取ってくれたおじさんとおばさんの家は農業を営んでいたため、まずは農作業を手伝うことから覚えさせられた。
 まさか、施設から移って翌朝早々に畑へ連れて行かれるとは思わずに驚いたけど、普通の暮らしで養ってもらうっていうのはこういうことなんだろうと考えると、すぐに受け入れることができた。
 朝の5時に畑に出てから朝食も取らず数時間指示を受けるがままに作業を行う。それから食事以外の時間は18時までひたすら外に出て作業。ヘトヘトの状態でお風呂に入ると、俺と未愛はもう突っ伏すように眠りに落ちてしまう。次に起きると陽が昇るよりも前に畑へ――。毎日がその繰り返しだった。
 施設内で一度農業体験を行ったことはあったから多少の知識はあったものの、元々抱いていたイメージより遥かにきついものだった。
 一日中炎天下の中で外に出続けて活動することで生じる疲労、腰、肩、足の鈍い痛みの蓄積、農作物に対する繊細な注意力。どの要素もこれまで生きてきて感じたことがないものだった。
「はははっ!」
 それでも、俺はこの新生活が辛く苦しいものだとは微塵も思わなかった。
 頑張って上手に作業ができたときにはおじさんが褒めてくれたし、自分たちで育てた物を食べる瞬間は素直に感動した。
 何より今まで、どれだけ想像しても体感することができなかった家族というものを味わうことができている。その当たり前を経験できていることが、たまらなく嬉しかった。
 体力的な疲労はなくても、精神的な目に見えない不安があった施設での生活。
 体力的にきつくても、これが生きてるってことなんだと確かな充実感を日々噛みしめていける外での生活。
 俺は、後者が好きだと思った。
 これから先、年を重ねてもずっとそう思い続けるんだと……疑う余地すらなくそう思っていた。
 あの日までは――。
 朝早くから始まる農作業があるため、家の明かりは22時にはすべて消えている。
 俺と未愛には二階の部屋を与えられていて、おじさん達は一階で就寝をする。その日、俺が22時を過ぎてふとトイレに立ったとき、階段の下から光が漏れているのが見えた。
 別に何を思ったわけでもなかったが、俺は光に吸い寄せられた虫みたいに階段を恐る恐る降りてリビングのある扉の近くまで歩み寄った。
 物音みたいに聞こえていた音は、おじさんとおばさんの話し声だということがわかって、俺は咄嗟に扉越しに耳をあててみた。
 話している口調は、俺がいつも聞いているおじさんとおばさんの口調。柔らかくて温かみのある、飾り気のない声。……でも、だからこそ恐ろしかった。
 その話し声は、紛れもない二人のもので、結果的に聞き間違いだったという可能性を完全に摘むことになったから。
「でも、本当によかったですね。日頃からあの施設に援助していた甲斐がありましたよ」
「んん。児童養護施設なんてのは、どこも経営が厳しいのはわかりきっておるからな。んで、養子縁組の正式な手続きが完了するのはいつごろになりそうなんだ?」
「今月中には認可が下りるって園長が言ってましたよ。そうなったら、畑はあの二人に全部やらせて、私たちは旅行にでも行きましょうかねぇ」
「そうだな。あいつらの捨て親が残した金があれば畑なんぞクソ真面目にやらんでもよくなるからな。ふぁはははははっ」
「もう、あんたってば、声が大きいですよ。あの二人に聞かれたらどうするんですかぁ」
「馬鹿を言え。あれだけ連日何十時間も働かせてるんだ。こんな時間まで起きていられるはずがないだろ」
「ふふっ、まぁ、それもそうですね」
 ………。
 俺は酸欠になりそうなのを必死に堪えながら、両手で力いっぱい口元を押さえつけていた。涙と叫びがこぼれそうになるのを寸前で塞き止めながら、息を殺して抜き足で二階の部屋へ
と戻った。
 襖を閉めた途端、俺は両膝をついて息も絶え絶えに赤茶けた畳の表面を見つめた。
 頭が真っ白になり、数十秒前に見た会話の光景だけが何度も何度も再生された。
 ようやく正常な呼吸を取り戻して脳に酸素が巡ると、重くて黒い感情が溶岩流の如く沸き上がった。
 ――施設で初めて対面した時。
俺と未愛が了承の返事をしたことを知ると、おじさん達は心から安堵したような表情を浮かべていた。
 あれは、俺と未愛が新しい家族になることへの喜びなんかじゃない。みすみす金を掴む機会を逃さなくてよかったと、悪企みが成功したことに対してほっとした顔だったんだ。
 今までに感じたことのない激しい怒りは俺の思考をあっという間に染色し、自分でも鳥肌が立つほどに残酷な復讐の手段がずらりと頭に浮かんだ。
 どのみち俺がこの手でやらなければ、いずれ金だけじゃなく体までボロボロに酷使されてしまう!
 だったらもう……本当に、やるしか……。
「っ!?」
 そのとき、すぐ傍でゴソゴソッと何かが動く音がした。俺が思わずびくっと肩を揺らして振り向くと、そこにはスースー、と安心しきった寝息を立てる未愛の寝顔があった。
「……ははっ」
 俺の口から笑みの混じった吐息がこぼれて空気に溶ける。
 すると、強張っていた筋肉と眉間辺りの皺がじんわりとほぐれていくのが分かった。順に、頭と心の激情も魔法みたいに鎮静していって、俺は結果的に未愛のおかげで衝動的な行動を押しとどめることができた。
 もし仮に俺が法を犯しかねないやり方でこの場から未愛を救うことができたとしても、それから先の人生でどのみち一人ぼっちにさせてしまう。
 だから、考えるんだ。
罪を犯さないやり方で、未愛を守ることが出来る方法を、たった一つでも――。
 翌日から、俺は炎天下の中畑の仕事に勤しみながら、万一にも昨夜の話を盗み聞いたことが勘付かれないように、努めて普段通りに振舞った。
 ――ただし。
どれだけ汗が流れ出ても、激務で筋肉がビリビリと痺れても、思考は止めなかった。
ひたすら、脳内で未愛を救うための手段を考えて……考えて考えて、考え続けた。
そして、その日がやってきた。
一階のおじさん達が完全に寝静まったことを確認してから、事前に準備していた二人分の荷物を手に取った。
「未愛……未愛! 起きて。お兄ちゃんと一緒に、今すぐここを出よう」
 極限まで考えを巡らせた俺が行き着いた選択肢。
それは、〝脱出〟だった。
 朝の五時を迎えればおじさん達に逃げたことがバレる。だから最低でも夜が明けるまでに養護施設へと到着しておく必要があった。
おじさん達が完全に寝静まった時間と終電が間に合うまでのギリギリのタイミング。俺たちみたいな子供が途中で補導でもされれば連絡をされて即アウト。だから、駅までのルートにも細心の注意を払う必要があった。
 未愛には、俺が耳にしたおじさんとおばさんの会話について知らせていなかった。
 あの現実はあまりにも酷で、下手すればこれから行う決死の脱出にさえ、大きな影響を及ぼしかねないと思ったから。
「お兄ちゃん……どこ行くの? 未愛、眠いよ」
「ごめん……ごめんな。少しだけ、頑張ってくれ」
 俺はひとまず散歩という口実で部屋から未愛を連れ出した後、息を殺して階段を踏み下りた。一段、一段、ギシっと軋む音が鳴る度に寿命が縮む思いだった。何度も後ろを振り返り、未
愛が足を踏み外すことのないよう気にかけた。
 おじさん達の寝室は、薄い襖を挟んで廊下のすぐ傍にある。そのため、玄関までほんの数メートルほどしかないはずの廊下が、果てしなく遠い距離に感じられた。
 俺と未愛、二人の荷物を抱えた状態の肩は早くも疲労感を帯びつつあって、つま先のみで歩みを進める足にも軽くない負荷を与えた。
「っはぁっ! はぁっ……はぁっ……っ」
 十分以上の時間を費やして、ようやく家から外に出ることに成功すると、おぞましいほどの緊張感を吐き出すように大きく息をした。
 しかし、終電の時間といつおじさん達に気付かれるかという不安を感じてろくに安堵する余韻もなく立ち上がると、俺は未愛の手を引いて歩みを開始した。
 養護施設にいた頃から遡っても、夜中に外出をした経験はない。ただ暗いというだけで、こうも心理的に受ける印象は変わってくるのか。まるで、広い世界に俺達二人しか存在していないみたいな、そんな圧倒的な夜闇が俺の心拍数を上昇させた。
 迫る時間と、不慣れな夜のしじまは俺の足を無意識に速めて視界を狭めた。
余裕は失われ、息を荒げながらつんのめるように前進していることにさえ気付かずにいた俺が、次に正気を取り戻したのは未愛の掠れるような一言だった。
「真っ暗で……怖いっ」
「あっ……ごめん未愛! 手、強く引っ張りすぎたか? 怪我とかしてないか?」
 慌てて体を反転させながら俺がそう問いかけると、未愛は長時間水の中に浸かっていたみたいに肩を震わせ、唇は青紫色に変色していた。
 俺はその姿に驚き、思わず二の句に詰まった。
「お兄ちゃん。これって、ほんとにお散歩なの? どこまで行ったら終わりなの?」
 不安と怯えが色濃く滲んだ顔で、未愛は尋ねる。
「嫌だ……怖いっ。ここ、どこなの? お兄ちゃん、私達……これからどうなっちゃうのっ。もう、体も痛くて、立てないっ」
 肩の震えはやがて全身へと伝い、未愛はとうとう頭を抱えながらその場にへたり込んでしまった。
 俺の脳内は思考を停止したまま、呆然と未愛の歪んだ顔を眺めていた。
 まずい、まずい。未愛が怖がって動けなくなるなんて、考えもしなかった。ただでさえ俺は、二人分の荷物を持っていて未愛を抱える余裕なんかありはしない。
 今夜は一旦中止して、家に戻るべきか? いや、ダメだ! もういつ養子縁組の正式な手続きが終わっちまうか分からない。何としても今日――計画を成功させて、未愛を守らなくちゃいけない! そのために、何でもいい。終電の時間までに打開策を考えるんだ。なにか……なにかないのかっ!
 ポツッ。
「…………」
 その時。俺の頬に目薬ほどの水の粒が触れた。
それは、一瞬だった。
宙を仰ぐ間もないほどに無慈悲な悪天候を告げた大雨は、殴りつけるような勢いで降りそそいだ。
 俺は、数日前から天気予報をこまめに確認していた。無論、決行日である今夜は雨が降らないことを確信して計画を立てていた。
 そこへきて、この予期せぬにわか雨――。
 鼓動が大きく波打っていた。
 世界そのものが、俺と未愛の不幸を願っている。
 俺は本気でそう感じた。
 もう、これは無理だ……。
 残り僅かな時間。重い矢みたいな豪雨。体力も限界間近。両手の荷物と動けない未愛。
これから先永遠に、俺たちはおじさんとおばさんの手足となってひたすら農作業をして働き、奴隷のように生きていくしかないんだ。
無数の雨によって叩きつけられる俺の頭は深く項垂れ、絶望と諦めの文字が脳内を覆い尽くした。
「お兄ちゃん…………たすけてぇっ」
 激しい音を立てて地面を叩く雨の中、その声は微かに聞こえた。
 今にも雨と恐怖によって押しつぶされそうな未愛の姿を見て、消えかかった俺の心の灯は再び熱を取り戻した。
「くっそぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
俺は咆哮を上げながら未愛の傍に駆け寄ると、両膝をついて笑った。
「未愛っ……大丈夫だ! 安心しろっ。お兄ちゃんが、絶っ対に助けるからな!」
言いながら、俺は咄嗟に手を塞いでいた荷物を歯で咥えると、空いた片手で未愛をおぶるや走り出した。
骨がきしむ音とか細い未愛の吐息とが交互に鼓膜を震わせる。
すぐに口角からは血が出てきて、布のザラザラした触感と汗の味が血と混じって吐き気を催した。
「………………っぐぅ」
 雨は、弱まるどころかほんの目の前の景色すら歪めるほど壮絶で、とうとう雷鳴まで轟き始めていた。
 ――それでも。
俺はあらかじめ地図を見て記憶していた駅までの道を間違えることがないように、全神経を振り絞って一歩、一歩、足を前に動かし続けた。
 息を吸っているのか吐いているのかも分からなくなって、終わりのない闇の中をもがいた。
「……お兄ちゃん」
 次にその声が聞こえたのは、走り始めてから一体どれくらいの時間が経ってからだったんだろう。ほとんど同時に俺と未愛が前方を見つめると、その先には、淡い光を放つ場所があった。
「はぁっ……はぁぁっ、はぁっ、着い……たっ」
 電車は、既に無人駅のホームに待ち構えていた。
 俺は痙攣する両足を殴りながら、ポケットに押し込んでいた小銭で二人分の切符を購入し、倒れ込むように電車に乗り込んだ。
「未愛……大丈夫か? どこか、傷めたり……していないか」
「……うん。大丈夫っ。ありがとう、お兄ちゃん」
 その言葉を聞いて、ようやく俺が全身の緊張を解いて座席に腰を下ろすと、その僅か数秒後。扉はプシューっと派手な音を鳴らしながら固く閉ざされた。
 本当に、間一髪。
 もしどちらかが途中で重傷の怪我を負ったり、どこかの場面でほんの少しでも、余分に時間を費やしていたら、間に合っていなかった。そう考えると、体内の湧き出ていた汗の温度が一気に冷めて背筋が粟立った。
 運転手のいる最前方の位置から一番離れた車両に乗った俺たちは、無事に施設付近の駅を降りるまで誰にも見つからずに移動することができた。
「……っ。ど、どうしたんだい! 碧くん、未愛ちゃん!」
 そして俺たちは、這うようにして目的地に定めていた養護施設へと辿り着いた。
眠気と、疲労と、張りつめていた糸が切れて気絶しそうになったが、俺は朝になる前にどうしてもやらなければならないことがあったから必死に踏ん張った。
 手早く着替えだけ済ませた未愛を先に布団に寝かせると、俺は園長先生と二人きりの場を設けた。
 あの家から逃げ出すことを考えたとき、頼れる場所がこの施設しかなかった。それは事実だ。
 でも――。
 実を言うと、俺は園長先生にある話をするためにこの場所をゴールに選んだ。そのことを薄々察しているのか、園長先生はきまりの悪い顔で俯いている。
 俺は、出されたお茶に触れようともせず、できるだけ落ち着いたトーンで端的に述べた。
「先生は、最初から全部知ってたんですね。知ってて、俺と未愛を売った」
 園長先生の身体がビクンッと跳ねた。次いで、みるみる罪悪感に満ちた皺を顔に作って下唇を噛んだ。
 もう、それだけで十分だった。
 俺は心のどこかで期待していたんだ。
 何年間もお世話になったあの園長先生に限って、何かの間違いなんじゃないか。きっとおじさんたちの嘘で園長先生までもが悪者にされているんだって。
 でも、そうじゃなかった。園長先生も、悪魔の一人だった。
 俺がこの世界の人間に静かに見限りをつけたとき、園長先生は独り言のように言い訳の弁を並び立てていた。
 苦渋の決断で、泣く泣く了承したんだ。
 施設の定員がいっぱいで、他の子どもたちの受け入れのことも考えなくちゃいけなかったんだ。
 時期が来たら、きっと呼び戻すつもりだったんだ。
 そんな風なことを、大袈裟なジェスチャーを交えて口にしていた気がするが、俺の耳にはまるで入ってこなかった。
 それから俺は、元々考えていたいくつかの条件を園長先生に突きつけた。俺と未愛を金のために裏切ったことを許す対価として。

 翌朝。結局俺はあれから一睡もせずに意識を保ち続けた。
 布団の上にあぐらをかきながら、必死に眠気に抗っては気絶して、目を覚ましては抗ってを繰り返して。
 園長室で約束を了承させたとはいえ、朝になった途端園長先生が裏切って、俺と未愛が寝ている隙におじさん宅に電話をして連れ戻させる可能性があった。
 だから、どうしても眠るわけにはいかなかった。園長先生が二度目の裏切りをしないと確信できるまでは。
 ちらっと時計を見る。知らず知らず時刻はすでに五時を回っていた。もはやおじさんとおばさんがいつ俺と未愛がいなくなっていることに気が付いてもおかしくない時間だ。
 途端に心臓の鼓動が速まる。それとは対照的に重くなる瞼が、俺の限界を大にして告げる。
 と、そのとき。
 ギシッ、と床を踏む誰かの足音が廊下に響いた。
 あらかじめ僅かに開けていたドアから片目で覗き込むと、そこには園長先生の姿があった。
この施設で電話をする際、俺が今いる部屋から見える玄関にしか電波が行き届いていないことは知っていた。だから、園長先生が朝起きておじさん達に約束の一つである電話をかけるまで絶対に眠らないと決めていたのだ。
 施設内の子供たちを含めて全員が未だ就寝している中、園長先生の発信したコール音だけが反響する。そして――
 二回目の約束は無事に守られた。
 俺と未愛がいなくなった架空の事情をでっちあげ、すぐにはバレないよう取り計らう様子が、扉越しにも十分伝わってきた。
 俺は、長かった自分の責務がようやくひと段落したと認識し、園長先生の電話が終了するのと同時に睡魔に吸い込まれていった。
 泥のように眠った後、意識を取り戻した俺が最初に目にしたのは、不安そうな顔で見つめる未愛の顔だった。
 やばい! もしかして未愛の身に何かあったんじゃ!?
 咄嗟にそう思ったが、別に何かが起きたわけではなくて。単純に今回起きた出来事について一切知らない未愛にとっては、施設に戻ってきた今の状況に戸惑いの色を見せてしまっているということだった。
簡単にでも説明しようかと思ったが、不安にさせたくないという感情が勝って、「もうこれから先、未愛は農作業を一切しなくていいんだよ」とだけ言って何度も頭を撫でるだけにとどめた。
「碧くん、おはよう。園長室に……いいかな?」
 寝ぼけきったた俺の耳に、園長先生からの声が届いたのはそんな時だった。
 最大の障害である電話を乗り越えたことで失念していたが、呼ばれた理由は昨夜交わした残りの約束の件だと遅れて理解した。
 実は昨日、未愛が眠る部屋に辿り着く前……逃げる道中であらかじめ考えていたあることを園長先生にお願いしていた。
「俺と未愛は、これから先もう施設で暮らす気はありません。だから、園長先生にお願いがあります。俺たちの捨て親から預かっているというお金を使って二人で住むアパートの代理契約をしてきてください。一応……言っておきますけどね、別に俺と未愛を捨てた最低な親の金なんかにすがろうとしているわけではありません。だから、余ったお金は全て園長先生の自由に使ってもらって構いません。施設のために使っても、あのおじさん達にお詫びの印として渡してもいいです。だけどその代わり……もう二度と、俺と未愛のことを裏切らないでください。お願い……しますからね?」
 そんな、12時間前の自分の発言を思い返しつつ園長室の扉を開けると、約束通り真新しい家の鍵と複数枚の書類、不動産会社の人間と思われる女性が俺を待っていた。
 ――そうして今、俺と未愛はアパートで二人暮らしをしている。
 貧乏で、狭くて、虫もたくさん出るような家だけど、施設やおじさんの家に比べたら天国みたいな住み心地だった。
 俺と未愛が不動産の人の車に乗り込んで施設を出発するとき、園長先生は深々と黙礼をしていた。
 捨て親からのお金を貰えたことがそんなに嬉しかったのか、はたまた問題を起こした面倒な児童がいなくなったから喜んでいるのか、その姿勢にどんな意味が込められていたのかは、その時の俺にはわからなかった。



 ――俺は、未愛の頭に手を添えた状態で随分と長い時間、項垂れていた。
 受け取ってから随分と長い間鞄の中に入れたままにしていた転生願書をおもむろに取り出すと、俺は無表情のままそれをビリビリに破り捨てた。
 立ち上がってから最後に未愛の髪を一撫でして病室を後にすると、俺は帰路を辿りながら以前登録したとある派遣会社に電話をした。
 用件は、日雇いで即日給料を受け取ることのできる仕事を紹介してほしいという内容。電話を切った後、財布と通帳の残高を睨めつけるような視線でなぞる。
「未愛は、俺一人の力で絶対に助ける」
 朧月夜に向かって放った俺の声は、薄ら寒い気温のせいか微かに震えて聞こえた。

 午前4時に起床して電車を乗り継ぐこと一時間。俺はドラマか映画にでも出てきそうな倉庫が立ち並ぶ、潮の匂いに満ちた海岸に辿り着いた。
 併設した駐車場には人間と同じくらいの台数、大型トラックがズラリと並び置かれていて、引っ越し会社の人間が手際よく点呼とグループ分けを行っていた。
 それからトラック一台につき三人の作業員が乗車し、午前中に一軒、午後に三軒もの引っ越し運搬業務を務めた。終わり際には、汗だくで襟元に濃ゆいシミが浮かぶシャツと真っ黒になった軍手に変貌していて、重く痺れた両腕で日給の入った封筒を受け取った。
日勤の引っ越し業務が終わると、俺は足早にコンビニに赴いていつもの時間まで働いた。そして夜中は、休憩時間に仮眠を取る時間以外寝ずに食品工場で働いた。
 派遣で紹介された業務の内容に細かな差異はあれど、俺は計一週間――それこそ寿命を削る思いで時間の許す限り、働き詰めた。
 図書館にある本すべてを移動するために、腕の血管がちぎれそうになりながらトラックと館内を数えきれないほど往復する仕事をした。
 食品工場では永遠にも思える膨大な量のプラスチック容器に、うさぎが生涯で目にするのと同じくらいの数の人参スティックを、壊れたロボットみたいに入れ続けた。と思えば、その生野菜サラダを今度はコンビニ店員として、バーコードを読み取ってレジ業務をこなしていく。
 旅館では、宴会の準備から百数十名分の料理の配膳、受付対応に皿洗いまで従事した。
 ……初めから、転生委員会なんて得体の知れない組織に頼らず、自分の力で出来ることを考えればよかったんだ。悲鳴を上げる肉体を黙らせるように、俺はそんな悔恨の念を心で唱え続けた。
 まさに、怒りと後悔で煮えたぎる感情を原動力にして、俺は短期的に稼いだ金を手に病院へ駆けた。
 親権者がいない俺達が、分割の支払いや国の補償制度を頼ることなんてできるはずもなく、馬鹿みたいに執念で稼いだこのお金が正真正銘最後のチャンスだった。
 くしゃっと音をさせながら、俺は手術費を抱きかかえるように両手で抱いて座った。担当医からは、未愛の容態を考慮したうえで今日の夜に手術を執り行うと聞かされていた。
 バイトの業務中はその仕事にすがることができたから、余計なことを考えずに済んだ。だが、こうして何もしないでただ運命を待つだけというのは物凄く辛い。
 ――あの日。
 学校の教室で倒れたと聞いた日から、結局未愛はただの一度も意識が戻ることはなかった。時雨ミライの、言ったとおりに。
 もしも、この手術が失敗すれば……俺が未愛と最後に交わした会話はあの日の朝ってことになってしまう、のか……?
死ぬ気で考えないようにって意識を張っているのに、それでも最悪な想像が頭をかすめる。かすめる度に、心の破片がパキパキと欠けていくのを感じた。
 真っ赤な『手術中』と書かれたランプが灯っている光景が、何だかすごく怖くて、目を瞑る。
 そうすると、ここ最近著しく睡眠を削っていたせいで容赦なく襲ってくる睡魔との闘いを避けられなかった。
 後、少し。
 この手術が成功して、未愛の命さえ救われたと確信することさえできれば、俺はこのまま突っ伏すことができる。
 三度冷水で顔を洗って、体中を爪痕だらけにして耐えながら、眼球を動かし続けた。
俺はこの一ヶ月、未愛が家に戻ってくるのをずっと待っていたんだ。今更たかだか数時間待つなんて、耐えられない訳がない。
 混濁する意識の中、自動扉の開く音がして顔を上げると、既に赤いランプの灯りは消えていた。
 直後、ネイビー色の手術着を纏った医師達がゴム手袋を外しながら俺の目の前まで歩み寄ってきた。俺は壁に手をついてよろけざまに立ち上がった後、祈るようなまなざしで医師の顔を直視した。
「手術は、すべて終わりました」
 低い声質で、第一声に医師はそう言った。
 ごくり、と喉で空気を呑む。
 二の句を継ぐまでの一瞬。
心拍数が上昇し、呼吸が荒くなるのがわかった。
 俺の横を神妙な顔で通り過ぎていく数人の医師の姿が視界に映りこむ。
 それからようやく、静謐な空間に息を吸い込む音がマスク越しに漏れ聞こえると、医師は爛熟した稲穂の如く頭を垂れて言った。
「出来る限りの手は尽くしました。ですが、残念ながら有瀬未愛さんの命はもう……数日と持たないでしょう」
 どこかで、水滴の弾ける音が聞こえた。
「……はぁっ。……はぁぁっ。んっう……」
 待って。
 待ってくれ。
 そんな……そんなことって。
 太腿からするりと滑り落ちた封筒は、ぺたりと地に落下した。
「……お願いです。お金は、どんな手を使ってもまた工面してきます。だから、もう一回、手術をしてください。未愛の命を……お願いしますっ。お願い、しますからっ」
「碧さん。はっきり言いますが、未愛さんの症状は既に取り返しのつかないステージに達している重度の心筋症です。現状で何度手術を行ったとしても、もはや命を繋ぎとめることは不可能と言わざるを得ません。強いて……唯一、脳死状態のドナーを介した心臓移植を行うことが出来れば、僅かですが命が助かる可能性はあります。ですが……」
「じゃあそれをっ! たとえいくらかかっても俺が必ず何とかしてみせますから、その心臓移植をしてください!」
「……ですが。もう未愛さんの命を保てる期限までは残り数日とありません。現状適応選定を満たす臓器が提供されたという報告も受けていませんし、もし……もしも奇跡のようなことが起こってこの短すぎる期間にドナーが見つかったとしても、血縁者でもない限り拒絶反応を起こさない適合臓器が見つかることは、可能性として0と言っていいでしょう。私共としましても、誠に、遺憾ですが、もう……未愛さんは」
 医師の沈着かつ淀みない説明を聞きながら、俺は遂に両膝を地面につけていた。
 現実という名の見えない鎖が全身を締め上げ、俺は無意識に服の上から心臓を握りこむ。
 医師は、最後にもう一度「すいません」と小さく言い残すと、崩れ落ちた俺の横を静かに通り過ぎていった。