翌日、朝。制服越しのエプロン姿でお弁当を作る未愛(みあ)の後ろ姿も、甲斐甲斐しくベランダの野菜の世話をする姿もない物寂しい部屋で、俺は目を覚ました。
 自分の呼吸音さえうるさいと感じるほどの虚無な空間。無意識に、目元が潤みそうになってぐっと堪えた。
「……よしっ」
 勢いよくカーテンを開けて気持ちが落ち込みそうになるのを払拭しながら、俺は膝を立てて起き上がった。
 この光景を一時のものにするのか、永遠にするのか、その答えはこれから過ごす俺の一ヶ月間に懸かっているんだ。
 俺はテーブルの上に転がっていた二色コッペパンを適当に手に取ってかじった後、早々に身支度を整えて家を出た。
前を歩く学生の鞄を眺めながら、俺は昨日別れ際にあの女が話していたことを思い返していた。
「では、本格的に動き出すのは明日からとします。私の方から頃合いを見て会いにいきますので、そのつもりで心の準備をしておいてください」
 心の準備って……。一体何をさせられるのかも知らねぇってのに。というか、会う場所とか時間すら決めていないのにちゃんと落ち合えるのか?
 なんだかお世辞にも大船に乗って出航なんてできそうにない状況に、俺の不安は日本政府の借金並に膨れ上がるばかりだった。
 革製のローファーから汚れひとつない上履きに履き替えて職員室へ。担任と昨日俺を送り届けてくれた名前も知らない先生に転生委員会の話を除いた現状と礼を述べた後、俺は教室へ向かった。
 普段より随分と早く家を出たと思っていたのに、俺が席に腰を下ろすやすぐに朝のホームルームは始まった。
 新しい校則の話や課題の提出率などの話が淀みなく述べられていく中、俺はちらと壁時計に目をやった。
 やっぱり、いつもより五分早く始まっている。
 妙だな、と俺は思った。
 なにせ、二年生になってから新しく担任教師となったこの天乃先生は両腕に計四本の腕時計を付けるほど時間には敏感な人だ。
 先日クラスの一人がその理由を尋ねたときも「いつ如何なるときでも正確な時間を把握しておきたいという性分なんです」と答えていたから勘違いして早めに開始したとは考えにくい。
 だったら、一体どうして……。
 と、俺がくっと眉を上げながら首をさすっている最中。
 唐突に教卓横のドアを二回、ノックする音があった。
 俺を含めて教室中の視線が引っ張られるように音の方へと向く。対して、天乃先生はあらかじめ承知していたと言わんばかりに歩み寄ると、間髪入れずに「どうぞ、中へ入ってください」とドアの向こう側にいる人間を迎え入れた。
 現れたのは、白と水色を基調としたチェックのスカートにブレザーの上からフード付きの黒いパーカーを重ね着した一人の女子生徒だった。
緊張した様子もなく颯爽と教室の中央へ歩み寄ると、艶めいた銀糸みたいな白い髪をなびかせてこう切り出した。
「初めまして。とある仕事の都合で転校してきました時雨ミライです。よろしくお願いします」
どこかで聞いたその名前と声は、俺の顔をひくりと引き攣らせた。
(おいおいおい。頃合いを見て会いに行くって……俺の学校に転校生として現れちゃってるけど!?)
 何一つ聞かされていなかった俺が口を開けてポカンとする中、この女の正体を知らない周囲からは「かわい~」や「髪きれい~」等の呑気な賛辞が終始囁かれていた。
 それからいつもより五分長いホームルームが終わると、新しいクラスメイトに話しかけたがっていたクラスメイトを押しのけて、俺は強引に時雨ミライを教室の外へ連れ出した。
「いきなり右も左も分からない転校生の手を引いて屋上に連れ込むなんて、意外と過激なんですね」
「やかましい。転校生として学校に来るんならあらかじめ言っておけ! というか昨日の今日で一体どんな手を使いやがったんだ」
「そりゃあまぁ。我々は人の生き死にの仲介を担う存在ですからね。世界の情報をちょいっといじるくらいのことは可能ですよ」
「悪魔……」
「天使、の間違いでしょ?」
「……あっ」
 俺は悪魔という言葉でふいに初対面時の衝撃的な光景を思い返していた。
「そういえばお前、初めて見たときに持っていたあのナイフは何だったんだよ。一応未愛を助けるためにはお前を信じるしかないと覚悟は決めたが、さすがに殺人犯と一緒になんて行動してられねぇぞ」
 ……確か、人間の印象の大部分は出会ってからほんの数秒で決定すると前に聞いたことがある。そして、俺にとってその数秒は血まみれの男性の傍らでナイフ片手に佇んでいた光景だ。
そんな第一印象を目の当たりにして相手に良い印象を持つなんて芸当ができるはずないという、俺の至極真っ当な言い分だった。
「あぁ、これのことですか?」
 俺の怪訝な目つきをよそに、さも当然のように彼女が懐から取り出したそれは、やはり物騒な凶器にしか見えない鈍い光を纏っていた。
「ちょっ……おいおい! いくら屋上だからって万一そんなもん見られたら説教じゃ済まねぇぞ!?」
 俺がぶんぶんと首を振って辺りを見渡しながら驚きの音を上げると、時雨(しぐれ)ミライはそれを鬱陶しがるような表情をもって冷淡に応えた。
「昨日、言いましたよね? 私の仕事は死者の魂を来世へ送ることだって。これは、転生処理に使用するれっきとした道具です。だから、殺傷能力はありませんし、昨日の男性の死因も一般的な事故死に過ぎません」
ナイフの刃を無造作にツンツン、と指の腹で押しながら答える時雨ミライの顔を尚もジト目で眺めながら、俺は続けて尋ねた。
「そうか……。確かに人間の魂を来世へ送れるような奴ならそれくらい持っていても不思議じゃないかもな。それじゃあ、俺が一目で真実だと分かるような証拠も、当然見せられるんだよな?」
正直なところ、地上50メートルの高さから生身で飛び降りて五体満足だったり、出会った翌日に平然と俺と同じ学校に転校生として現れたりと。既にその時点で十分すぎるほど信じるに値する材料は揃っているんだが。
これから先は、俺が取る行動の一挙手一投足がそのまま未愛の命に直結する。
だから俺とこの女が持っている情報量の差は出来る限り埋めておきたい。知ったところで正解なんて分からないんだとしても、漠然としたイメージすら持てないんじゃ五里霧中もいいところだからな。
「……………ふぅ。仕方ないですね」
たっぷり10秒ほどの間を置いて吐息交じりにそう漏らすと、彼女はおもむろに一枚の真っ黒な手紙を取り出した。
「何だよ……それ」
 俺の声のトーンが下がったのは、それが百貨店で売られているような便箋とはどこか異質の雰囲気が醸し出されているのを、肌で感じ取ったからだった。
 光を吸い取るような漆黒が、得も言えない重厚感を強調していて俺の神経を波立たせた。
「この便箋に入っている手紙が、証拠ってことなのか?」
 幾分抑えた声で俺が尋ねると、時雨ミライは首を小さく横に振った。
「確かに、中に封入されている書類には有瀬未愛の寿命を始めとして様々な情報が記載されています。ですが、証拠は別にあります」
 言いながら俺の下へ一歩歩み寄ると、彼女は黒い手紙を掴んだままスッと両腕を差し出した。
「便箋に触れたまま、学校の生徒でも街の人間でも誰でもいいです。顔を、見てみてください」
 俺は、そのよく分からない申し出に時雨ミライの顔と黒い手紙とを交互に見比べながら恐る恐る手を伸ばした。ザラザラとした質感のそれを指先で摘まみながら、次いで言われた通りに視線をグラウンドのある方角へ向けてみる。
「…………。……?」
 広々とした円形の校庭では、体育の授業の準備を行う生徒の姿がまばらに視認することができた。
 違和感に気付いたのは、光。
 朝日や建物に反射したものとは全く別のものだと一目で分かる朧げな青白い光が、生徒の頭上で瞬いていたのだ。
 何より俺が目を丸くしたのは、その光が数字の形をして視えていたこと。
それはまるで、映画のCGのような異質な形状で『171』や『89』、『105』といった記号がぴったりと頭上に付かず離れずの距離で各生徒の頭上に漂っていた。
俺がパチパチと何度も瞬きを繰り返しながらただただ唖然としていると、黒い便箋は再び彼女の手に渡った。
「……証拠には、十分すぎる光景だと思いませんか?」
 至って落ち着いた調子で呟くと、よほど重要な代物なのか手早く便箋をしまいこんで背を向けた。
「俺がこれから集めなくちゃいけない数値っていうのは、もしかしてこれのことか?」
「その通りです。便箋に触れながら視えた光の数字。これがライフ№と呼ばれるものです。我々は、慈善保護団体ではありませんからね。死を間近に控えた人間且つライフ№が極めて高い人間にのみ、転生の権利は与えられるんです」
 頭の中でぐちゃぐちゃに絡まっていた黒い糸が、ようやくほんの少しだけほどけた気がした。
「未愛の命を救うための転生を可能にするには、莫大な数値が必要だと言っていたな? それは一体、どの程度のものなんだ」
 時雨ミライは神妙な顔つきになって俯くと、白銀色の鋭い眼光を俺に向けた。
「……まず、改めて確認からです。そもそもこのライフ№とは、転生対象者を選別するためだけに存在しているものではありません。善い行い、悪い行い、幸福度、不幸度。このような、云わば人生の足跡が形状化されたもの。そして、あなたがこれから行おうとしていることは、その人生の総括というべき価値の全てを譲渡しようとしている。恐らく、いえ……間違いなく死後、あなたの魂は地獄以下の苦痛を伴う場所へ送られることになるでしょう。それでも、あなたは譲渡することを選ぶと宣言することができますか?」
「できるよ」
 俺は、微塵も迷う素振りを見せることもなく平坦な口調でそう答えた。
「っ…………!」
 どうしてか、時雨ミライは衝撃を受けたように目を見開いていたけれど、俺にはその反応の意図がいまいち理解できなかった。
 死後の俺が計り知れない苦痛を受ける程度のことで未愛の命を救うチャンスを得られるのならば、躊躇う余地すら感じないからな。
 俺はとっくに、全てを懸ける覚悟はできている。
「……分かりました。それでは有瀬未愛の転生に必要な数値を包み隠さずこの場で教えましょう」
 時雨ミライは一度浅く目を閉じると、風になびいた髪が動きを静止するのと同時に唇を開いた。
「1000ポイント。あくまで概算ですが、それが有瀬未愛を救うために必要なライフ№の数値です。そして、全人類78億人の平均数値102を大きく下回っているあなたの現在の数値が19。文字通り、苦心惨憺たる道のりとなるでしょうが本日の放課後から行動を開始しましょう」
 俺の返事を待たずして踵を返すと、彼女は一人先に教室へと戻っていった。
「……転生委員会、か」
 初めはブラフ程度の試みで持ちかけた話だったが、こうも確固たる証拠を突きつけられるとは思ってもみなかった。
 俺は、既に自分が一般人ならざる領域に足を踏み入れているのだということを今一度肝に銘じつつ、しばらくの間でたらめに青い空を眺めていた。

 午後五時。
 俺は半日を費やして時雨ミライの告げた善行について考えを巡らせた挙句、その活動内容に目星をつけるまでに至っていた。
(よしっ、これで決まりだ!)
 縦横無尽にいくつもの案を書きなぐったノートを閉じると、間を置かずして放課後を告げるチャイムが鳴り響いた。
俺は引き出しの中身を雑に鞄の中へと放って立ち上がると、一直線に時雨ミライの席へと歩み寄った。
勢いのままに声をかけようと息を吸いこんだとき。そんな俺の行動を見越していたとばかりに彼女はすくりと椅子から立ち上がった。
「その様子だと、今日の活動内容が思いついたみたいですね」
 一度もこちらを見ずに、どころか文庫本を開きながら呟く転生委員会様の横顔は相も変わらず涼しげだった。
「……まぁな」
 意図して人の気を削ぐような態度をとったことにムッとした俺は、時雨ミライの側を横切って教室を後にした。
「先ほども説明した通り、有瀬未愛を救う手段について正解はありません。よって、私から活動内容に言及することも過干渉するつもりもありません」
 乾いた足音を鳴らしながら階段を下っていると、パタンと本を閉じる音と共にそんな物言いが耳に届いた。
「相変わらず言い回しが回りくどいな。何が言いたい?」
「参考までに、今日の活動内容を聞かせてください」
 何だ……欠片も興味がないような態度をとっておいて、最低限の関心くらいは持っていたのか。
「当たり前の話だが、俺にはまだライフ№とやらがどんな存在なのかいまいち掴めていない。だから、初めはお前の説明を汲み取ったものを選ぶことにした」
 言いながら一度足を止めて職員室手前の掲示板を指さすと、時雨ミライは素直にそれを読み上げた。
「郊外グリーン活動……参加希望者は職員室へ。もしかして、これのことですか?」
「何だよ。俺の決めた行動に口出ししないんじゃなかったのか?」
「はい、別段言及するつもりはありませんよ。ただ、私の中のイメージ――あなたはもっと粗暴で偏屈な性格だと認識していましたから。ちょっと意外で」
 ふんっ、放っとけ。別にお前の言う通りにしたくて従ったわけじゃねぇ。
 というか、屋上から飛び降りて自分の体をペンで突き刺すような人間に言われる筋合いはねぇよ。
 霧散するどころかますます不満を募らせた俺は、ろくに返事もせずに職員室の扉を開けた。
 ガラガラガラ。
 教室と同じ造りの扉のはずなのに、いやに重くて大きな音に感じる。
 同じ味の料理でも、誰と食べるかによって味が違って感じる時のような。
 おずおずと中に足を踏み入れると、ピリッと山椒の実をかじったような空気が立ち込めていていた。
ギシッと軋むデスクチェアの音、近くでプリントを吐き出す印刷機の音がいちいち俺の鼓動を速めてくる。
 普段の学校生活で良いことも悪いこともしていない俺は、そもそも職員室に訪れる回数が極端に少なかった。
 だからだろうか。
 知らぬうちにこびりついたこの苦手意識は。
 俺は可及的速やかに用事を済ませてこの場を立ち去るべく、忍のような足取りでお目当ての人物のもとへと足を進めた。
「先生、少しお話があるんですけど、よろしいですか?」
 俺が声をかけたのは、担任の天乃先生だった。
「ええ、大丈夫ですよ。どうしましたか?」
 机上の書類から視線を外した先生は、教室で見る姿と何ら変わらない爽やかな笑顔をこちらに向けた。
「あ、ありがとうございます。実は……」
 俺は、職員室横に貼ってあったポスターを見て慈善活動に興味が湧いたという呈で参加の意思を手短に伝えた。
 実をいうと、俺はあまり天乃先生のことが得意ではなかった。
 嫌いではなく――得意ではないというニュアンスを用いているのは、几帳面で全く隙がない普段の振る舞いが自然と俺に緊張の糸を張り詰めさせるからに他ならない。
 だから、俺は職員室を早く出たい以上に、天乃先生との会話を短時間で済ませたかった。
「――という理由で、活動場所に向かう前に担任教師の許可が必要だということだったので、伝えにきました」
 気持ち早口にはなってしまったものの、必要な情報は抜け目なく伝えられたと俺は胸を撫で下ろした。
 さすがに、慈善活動を希望する生徒を無下にする教師などいるはずがないからな。そう確信して、俺は心穏やかに了解の返事を待った。
 ……しかし。
 不思議なことに、十秒、二十秒と経っても天乃先生の口が開かれることはなかった。
 俺は何度も手を組み替えて困惑の色を顔に浮かべながら、その不自然な間に疑問を抱いていると。
 あ。
ややあってから、俺はとあることに気付いて背筋を寒くした。
まずい。
 どうして気付かなかったんだ。
 そう自分を責めたくなるほど間抜けな失態は、俺の頭をくらりと傾かせた。
担任教師である天乃先生は、未愛が倒れて入院していることを立場上当然知っている。
 生活費のためにアルバイトを行う許可を学校に貰っている以上、俺と未愛に両親がいないという諸々の家庭事情も、恐らくは。
そんな、客観的に見てこれ以上ないほど切迫した非常時だというのに、当の生徒は呑気にも慈善活動に参加したいと言い出している。これは天乃先生からしたら、意味不明を通り越してショックのあまり狂ってしまったと思われても仕方がない状況だ。
加えて、俺は生活態度、学業面共に真面目とは言い難い部類の生徒だ。慈善活動とは絶望的に縁がない。
 焦燥の汗が首筋を伝ってすかさず何か上手い言い訳はないものかと思考を巡らせる。
が、俺が適解を思いつくよりも先に天乃先生の口が開かれてしまった。
「ありがとう。それでは大変だと思いますが、どうぞよろしくお願いしますね」
「……えっ? あ、はい」
 意外なことに、にっこりと優し気に微笑んだ天乃先生はいともあっさりと了承の言葉を口にした。
 俺は呆気にとられたような返事と中途半場な角度のお辞儀をして職員室を出ると、小さな吐息を漏らして制服の襟をつまんだ。
 やっぱり、他クラスの先生とはどこか雰囲気が独特というか、変わった人だな。
 俺はそんなことを改めて感じながらも、一方で面倒な追及を受けなくて助かったと胸を撫で下ろした。
「集合場所の新賀海岸ってどこですか?」
 職員室を後にして裏門に向かっていると、時雨ミライが海岸清掃の概要が載ったプリントを俺の手から抜き取り、何気ない風に尋ねてきた。
「お前、この学校に転校してくる前に周り見てこなかったのか?」
「ん。それはどういう意味ですか?」
「見ての通り、この学校の裏は松林の一帯に囲まれている。それはどうやら、昔の人が潮風から建物を守るために植えられたものらしいんだよ」
 ザク、ザクと生地の厚いパイを咀嚼しているような足音を鳴らしながら、俺は親指を横に突き出して続ける。
「そんな木の幹やら柵やらでぐねぐねうねったこの一本道を進んでいくと、やがて固い地面がサラサラした砂に変遷していく。そして、スッと伸びた色の違う細い路をしばらく辿っていくと――」
 説明をしながら徒歩三分ほどの距離を先導していくと、そこには視界に収まりきらない規模の海と乳白色の砂浜が一面に広がる地点まで到達した。
 俺は、後は見れば分かるだろ? という目線だけ送って口のチャックを閉じた。
 吸っては吐く深い呼吸のリズムと同じくらいの間隔で鳴る波の音。
 辺りをよく見てみると、まだ四月だというのに波際で遊んでいる人もちらほら見受けられて、俺はぎょっとした。
 髪がパサついて不快感のあるべたつきが残るから、夏でさえ海で泳ぐのは躊躇われるというのに、あまつさえ低い水温に身震いさせながら遊ぶなんて気が知れない。
 まぁでも、隣のこいつもこういう類には全く興味を示さない人種だろうから俺の考え方をある程度理解できるんじゃないだろうか。
 そう、思って俺がふと横を向いてみると。
「うわぁ~っ! すっごいじゃないですか! 海! 私、こんなに綺麗な海は久々に見ましたっ」
 そこには、海岸で遊んでいる人達以上のテンションで目を輝かせる転生委員会様の姿があった。
「なんか……意外だな。お前にもそういう、普通の女子高生みたいなリアクションするときがあるのな」
「何言ってるんですか。あるのかも何も、元より私はどこにでもいる普通の女子高生じゃないですか」
 ……いや、どこがだよ。
 心の中でツッコミを入れながら砂浜を歩いていると、しばらくして俺らと同じ制服の生徒が一塊になっているのが見えた。
「あの、俺達二人参加希望なんですけど」
 腕に風紀委員と書かれた腕章をつけていた先輩にそう声をかけると、
「そうですか。ご協力ありがとうございます。それでは、これが回収袋です。見ての通り、この活動は生徒の自主性によって成立している行事なので、特に堅苦しいルールもありません。景色を楽しみつつ、無理のない程度に頑張ってみてください」
 そう簡単な説明を施すと、俺の手に二人分の軍手とゴミ袋を手渡してくれた。
「ほれ、軍手」
 ゴミ袋を脇に挟みながら軍手を装着し、もう一組を時雨ミライに差し出すと、なぜかキョトンとした表情を浮かべていた。
「何ですか、これ」
「何ですかって、手が汚れないために皆軍手を付けて作業しているんだろ。お前は付けないのか?」
「当たり前じゃないですか。どうして作業をしない私が付ける必要があるんですか」
 えっ、こいつ。今なんて言った?
「んーっと、どういうことかな? お前はこれから俺と一緒に海岸で慈善活動をするためについてきたんだろ?」
「いえ、違います。私は転生委員会の仕事をするためにあなたに同行しているんです」
「いや、だから……その転生委員会の仕事が、俺の手伝いをすることなんだろ?」
 要領を得ない応酬に、俺が苛立ちを含んだ声でそう言うと、彼女はよく見せるやれやれ顔でため息交じりに説明を始めた。
「あのですねぇ。あなたがこれから行うライフ№の数値集めは、個人的価値を高めるための単独行動という不文律が前提に存在しています。よって、私がうかつに慈善活動に介入して手伝ってしまえば、獲得できる数値もその分私と分散して減少する恐れが出てくるんですよ。……つまり、この場における最適の布陣は、私が座りながらゴミの位置だけ確認して指図するので、あなたは一人でせっせと働けばいいんですよ」
 こ、こいつ……。
 結局軍手すらも受け取らなかった時雨ミライは、手を後ろで組みながらマイペースに散歩を始めた。
 こんなことなら一人で来るべきだった。
 転生委員会としての知恵を貸すでもない、手伝いもしないんだったら目障り以外の何物でもない。
 俺は腰を屈めてペットボトルのラベルを拾いながら、ちらちらと視界に映りこむ時雨ミライの後姿に負の念を送り続けた。
 それほど気温が高くなかったことも幸いして、早々に根を上げるなんて醜態を晒すことにはならなかったが、一見しただけでは分からなかった廃棄物が海岸中に散らばっていて。慣れない作業による疲労が緩やかに蓄積していくのを感じた。
 そもそもどこの誰が、一体どんな心境で不法投棄していくのだろうと不思議に思いながらも、俺は黙々とゴミを袋の中に放っていった。
「ふぅっ、いやぁ、それにしても……」
 嫌がらせかってくらいのゴミの量にも驚いたが、一方で時間と体力を著しく消費するこの活動に参加する生徒が20人近くもいたことに本気で感心した。
 まぁ、さすがに脇目も振らずに集中してって感じじゃなく、ほとんどの人が友達と話しながらって様子だが。
 それでも、妹を助けるための手段として利用している俺なんかより億倍立派だと思った。
 黙々と手を動かす代わりにそんなどうでもいい考え事をしながら、俺は屈んでは拾って立ち上がり、歩いては屈んでの動作を繰り返した。
 それから、何度目かの吐息をつきながら屈伸運動を繰り返し続けていると、ようやく終了の号令が耳に届いた。
「お~。なかなかの収穫じゃないですか」
 俺が息を切らしながら蒸れた軍手を外して首を回していたとき。
今の今までどこにいたのか、最初に宣言した通りぶらぶらと遊興にふけっていた時雨ミライがおどけた口調で近づいてきた。
「お前……とうとう本当に一度も手伝わなかったな」
「いやいや、こんな何もない砂浜で一人遊びをするというのも、これはこれで工夫のいるものですよ? だから私も、結構疲れました」
 ほほ~。時間を持て余して疲れた、ねぇ。
 だったらその右手に握られている貝殻は何だ? 思い切りエンジョイしているようにしか見えないんだが?
 手に持った重いゴミ袋をこの意地悪女に投げつけたい気分だったが、砂浜を歩き回ったことで足に鈍い痛みが蓄積していたことと、そんなことをして獲得できるはずのポイントが減少でもして、苦労が水の泡になることを考えるとギリギリのところで踏みとどまった。
 結局活動自体は90分間で終了を迎え、俺は最初に説明を受けた風紀委員の先輩から労いの緑茶を受け取って帰路についた。
「それでは、私はこれから私用がありますので。失礼します」
 海辺からの小道を抜けて一般道に差し掛かるや、時雨ミライはピタリと足を止めて俺に端的な別れの言葉を告げた。
「私用? こんな時間からか?」
「……察してください。仕事です。転生委員会はあなたが思っているよりもずっと多忙なんですよ」
 だったら貝殻を拾うなんて無駄なことに時間を費やしてないで、さっさとその仕事とやらに赴けばよかったのに。
 何だか俺よりも自分の方が忙しくて大変なんだからな、と暗に言われた気がしてイラっとした。しながら、俺はどこへともなく足早に去って行く時雨ミライを冷めた目で見送った。
「はぁ……本当マイペースな奴」
 どちらにしても、転生に関わる時間以外で一緒にいるつもりはないし、いたくもなかったからちょうどいいやと俺もすぐに背を向けて歩き出した。
 すっかり陽も暮れて、ペットボトルの中身も半分を切った時。街全体に夕焼け小焼けのチャイムが鳴り響いた。
 俺はそれを聞いて「やべっ」と言いながら地面を蹴ると、家に帰るよりも先にある場所へ向かった。
「有瀬碧です。妹の、有瀬未愛との面会をお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 受付の女性に頼みながら、俺は発した自分の声が微かに震えていることに気が付いた。
 今日、ここに立ち寄ることは決めていた。
 正直、命を救うことができるまでは面会をやめた方がいいんじゃ……。
そう思ったときもあった。
最後に未愛の顔を見たとき。
あれだけ取り乱して自暴自棄になったから、もしまた同じことが起こって転生委員会の協力ができないなんてことになったら、本末転倒だと……。
でも、結局できなかった。
未愛に会うことは俺の生きがいで、この世に存在する全ての意味だから。
 間もなくして面会の許可と規定時間を告げられると、俺は真っ白なリノリウムの廊下を進んだ。ややあって立ち止まり、ネームプレートに記された有瀬未愛の文字を三度確認する。
ゆっくりと息を吸って手を伸ばした。
金属独特の冷たさを手のひらで受け止めるように握りこみながら静かに扉を引くと、ガラガラガラガラと音がした。
 無機質で淡泊な配色の病室の中、俺が俯き加減で数歩足を踏み出すと、どこからかふわっと甘い香りが鼻腔を刺激した。
 反射的に頭を振って探してみると、黄、ピンク、白の明るい彩色を纏ったそれが、編み込みのバスケットに入れられて部屋の脇に添えられているのが目に映った。
「花……」
 前回訪れたときには、こんな物は置かれていなかったはずなのに、一体誰が……。
 花言葉はもちろん、名前すらろくに分かりはしなかったが、不思議と見ているだけでさっきまで込み上げていた不安が和らいだ気がした。
依然、眠る未愛の顔には酸素吸入器が装着されていて。
鎖で引きちぎられそうなほどに胸が締め付けられる思いだった。
それでも。
弱音や嗚咽をグッと塞き止めながら、俺はしっかりと目を見開いて未愛の頭を繰り返し撫でた。
必ず、俺が未愛を救い出すから信じて待っていてくれ――。
そう、約束の言葉を紡ぎながら。
当然返事が聞こえてくることはなかったけれど、心なしかここへ来る前よりも晴れやかな心持ちになった気がして、俺はバスケットを飾り付けてくれた名前も知らない看護師に深い感謝の念を抱いた。


 それから計三日間。俺は放課後の時間を利用して海岸清掃活動に勤しんだ。
「おい、もう今日で今週も終わりだ。一度どれくらいのポイントが増加したのか確かめたいんだが」
 俺は両手を腰に当てて肩で息をしながら、テトラポットで悠然と読書に耽っていた時雨ミライを呼びつけた。
「分かりました。では、こちらに」
 スカートの砂埃を手で払いながらパタンッと本を閉じると、時雨ミライは視線で俺を誘引した。
海岸線上で最も海面に近い場所を探しているような挙動で歩みを進める。
猫じゃらしの揺らめきに意識を引っ張られる猫の如く、海風になびく彼女の後ろ髪に無意識に注意を引かれていると、「ここでいいでしょう」と呟いた声に足が止まった。
ゴミを拾っていた先刻以上に、寄せては返す穏やかな波の音量が増すのを感じていると、時雨ミライは俺の手に例の黒い手紙を握らせて水面に映る俺の顔を指さした。
「要領は以前と同じです。手紙に触れたまま、水面に映る自身の頭上に焦点を当てる。さすれば、現在確定している数値を視認することができます」
「わかった」
 加速する鼓動音を感じながら、ぎゅっと深い瞬きを一度。
 たかが三日間の活動とはいえ、どこかの誰かと違ってサボったりすることもなく頑張ったんだ。残り日数を踏まえた今後の指針にもなることだし、200や300は無理でもせめて50以上の上昇があれば十分勝算はある!
 返却された定期試験の解答用紙の点数を見る時以上の緊張を感じながら、俺はおもむろに視線を下げた。
「え」
 水面に浮かんで見えた眩い数字の像に、俺の呼吸が一瞬止まった。
 え。え。え?
瞬きと同じ回数。俺の脳内にクエスチョンマークが噴出する。
目に映るソレを見て最初に思ったのは、俺が元々持っていたポイントっていくつだったっけ? というものだった。
 目の錯覚、記憶の祖語とも思えるほどの数値に動揺し、俺が思わず横の時雨ミライに顔を向けると、彼女は平然とした表情でからりとこう言った。
「20ポイントですか。おめでとうございます。以前から1ポイント加算されていますね」
 その信じがたい言葉を聞いた後、一度は意識から離れていた波の音が、呆然と突っ立つ俺の鼓膜に再び届いた。
「い……いやいや。いやいやいや、ちょっと待ってくれっ」
 忘れていた呼吸を再開するのと同時に言葉を吐き出すと、俺は眉間を押さえながら溢れ出る感情を声にした。
「俺はこの三日間、何時間も慈善活動を真面目にやってきた。少なくとも、係の人に渡された袋が満杯になるくらいにはゴミを拾った。それに、お前だってこの活動を始める前に清掃活動は選択肢として間違っていないと、言っていたはずだ! ふぅ……ふぅっ……それが。それがこれだけやらせておいて増えたのがたったの1ポイント!? あり得ないだろっ! 未愛の寿命は、もう残り一ヶ月しかないんだぞ! これじゃあ、どうあがいても1000ポイントなんて間に合うはずがないじゃないか!」
 動揺の度合いを体現するように大きな身振りで主張をすると、そんな俺を依然熱のない眼差しで眺めながら、彼女はため息混じりにとある説明を継いだ。
「はぁ……。言いたいことは、それだけですか?」
「何っ!?」
 俺の投げた言葉のすべてが時雨ミライの意識に対して空を切った気がして、怒気を含んだ視線をぶつけた。
 当の彼女は、それすらも意に介さずにこう返した。
「いいですか。以前にもお話をしましたが、転生委員会が管理をしている各人間の数値というのは非常に複雑な要素で構成されているんです。……そうですね。一つ、試しに問題を出してみましょうか。あるところにAさんとBさんという二人の人間がいました。二人はある日、大規模な自然災害が起こったことで同じ時間同じ場所にて力仕事を主とした災害ボランティア活動に参加しました。さて、この場合AさんとBさんの数値はどのように上昇したでしょうか」
 さぁ、答えてくださいと言わんばかりの上目をつかってきたため、俺はしぶしぶ考えた。
「……その二人の仕事量に違いはあるのか?」
「いいえ。全くの均等であるとします」
「はっ。だったら同じ数値が上昇するに決まってるじゃないか」
 すると、時雨ミライは目を瞑りながら静かにかぶりを振った。
「では、解答です。この場合のAさんとBさんでは上昇値の幅に少なからず差が生じる結果となりました」
「どうしてだよ!? 二人とも同じ時間、同じだけ働いたんだろ?」
「では、問題文にこんな一文が付け加えられればどうですか? 実はAさんには傑出した医療の知識があり、それを実践できるほどの能力を有する人間でした、と。つまり、力仕事をしている時間に災害で被害を受けた人の救護にあたっていれば、より多くの人間の命を救うことが可能であり、貢献することができたのです」
「い、いや……でもそれって」
「はい。もちろん今言ったことはひどく極端な例えですし、あくまで選択権を握っているのは実際に行動を起こすAさん自身です。ただ、今回のあなたの数値変動にも同じ原理が作用している可能性があるということです」
「つまり……俺にはボランティアで清掃活動をすること以上に、周りに貢献できる行動が何か他にあるかもしれない――と」
「はい」
 今の自分が持っているもので、周りの人間や社会の為に貢献できること。
 俺は視線を気持ち下げながら、試しに一考してみることにした。
 これまでの人生で賞をもらったことや資格を取得したことなんてないし、自分にしかないもの、特技の類だって考えたことすらなかった。
 俺にとって唯一つ特別なのは、未愛の存在だけ。
 そんな俺に、ボランティア以上の行動なんて起こすことができるんだろうか?
 結局、その日の内に答えを見つけることができなかった俺は、不安という名の靄がかかった心持ちでとぼとぼと帰路を辿った。


「……それで? 一晩考えた結果がこれですか」
 頭上から降ってきた声に俺が横目を流すと、そこには失笑気味に見下ろす時雨ミライの顔があった。
「ああ。別にふざけているわけでもヤケを起こしたわけでもない。俺にとってはこれが、今の自分にできる最善の行動だと判断した」
 夜の残滓漂う爽涼な風が窓を撫でる早朝の教室。
 忙しく手を動かす俺の机の上には、無数の折り鶴が所せましと溢れ返っていた。
「どうやら私はあなたほど賢い人間ではないようなので、ただ折り紙で遊んでいるようにしか見えないのですが、この行動がポイントの上昇と何の関係があるのか、ぜひ教えていただけませんか」
 皮肉を交えた実に苛立たしい問いかけだったが、俺は手を止めることなく答えてやった。
「千羽鶴だよ」
「千羽鶴……」
「ああ」
「あー、うん。すいません、余計に意味が分からないのですが」
 素できょとんとしている時雨ミライの態度にムッとしながら、俺は昨夜真剣に巡らせた思考の説明を始めた。
「昨日、客観的に自分を見つめ直して考えてみたんだが、やっぱり俺には特別な才能や人の役に立つ能力なんてもんはないという結論に達した。だが、それはイコール諦めなんかじゃない。残念ながら平凡以下の能力しか有さない有瀬碧という人間がそのうえで、俺にしかできないことってなんだろうと考えた。考え抜いた結果がこれだった。俺はどう転ぼうとも決して特別にはなれない。だが、俺にとっての唯一の特別は未愛なんだ。そのために出来ることを、俺はやりたい」
「……」
 言い終わってしばらくしても反応をよこさないから、呆れて言葉も出ないのか、それともどんな暴言をもって俺のことを笑い者にしてやろうか悩んでいるのかのどちらかなんだろうと思った。
 すると、何を思ったのか時雨ミライは俺の正面の席の椅子に腰を下ろすと、綺麗な紙を一枚手に取って鶴を折り始めた。
 それを見て、初めて俺の手が止まった。
「どういうつもりだ?」
 俺は疑問と驚きをブレンドした声色で思ったことをそのまま口に出した。
「この前私が発言したことでしたら気にしないでください。確かに私が過度に善行を手伝った場合、獲得できるポイントの増加幅に影響を及ぼす可能性がありますが、どのみち千羽なんて数、一人で作るのは無謀且つ非効率ですからね」
「そうじゃねぇよ! 海岸清掃の時に一度も手伝おうとしなかった奴が何柄にもないことしてるんだって聞いてるんだよ」
 俺が声にやや力を込めて椅子から立ち上がると、彼女は早々に作り終えた一羽の鶴を机の真ん中にトンッ、と立てて微笑み交じりにこう言った。
「だったら遠慮なく言いましょう。いやいやいや、私の説明を聞いておきながら、何をどう解釈したら折り鶴なんてアホ丸出しな発想が出てくるんだよ! 幼稚園のお遊戯会でも使わないような大量の折り紙をお店でお会計したときの店員さんの顔を見てみたかったわ! ていうか高校生にもなって早朝から一人ぼっちで折り紙を折るって事自体恥ずかしいとか思わないの? ないわ~」
 実にわざとらしい口調で捲し立てられた彼女の言葉に、俺の寛大な心にも亀裂が生じ始めていたとき、「でも」という短い言葉が意識を割いた。
「それはあくまで転生委員会としての私の感情です。ただの傍観者時雨ミライとしては、嫌いじゃないですよ。そういうガムシャラ馬鹿な行動」
 言いながらそこに咲いていたのは、普段滅多に見せないであろう一点の邪気も含まない笑顔だった。
 俺は暫し目を奪われた後、慌てて我に返ったように視線を切った。
 不意をつかれた表情にあてられてか、切れかけだった堪忍袋の緒が弛んで全身が和らいでいくのがわかった。
 次に時雨ミライの顔を見たときには、笑っちまうくらい元の仏頂面に戻っていたが、初めて協力的に手を差し伸べてきた厚意を、俺も初めて素直に掴むことにした。
 それから俺達は、ホームルームが開始するまでの時間をはじめ、10分休み、昼休みと空いた時間を見つけては地道に鶴を折り続けた。

「なぁ、お前って趣味とかあるのか」
「はい?」
 それは、夕礼が終わって数十分が経過した頃。おしゃべりをしていた女子生徒数人や帰宅前に宿題を終わらせようとする生徒、日直当番の生徒までもがいなくなり、教室に二人だけとなった空間でのことだった。
 思えば、俺と時雨ミライは出会ってからこれまであまり会話をしていなかった。たまに話をしたとしても、それは未愛の転生に関わることくらいなもので。
 だから、長時間二人きりで黙々と鶴を折り続けているうちについ口からこぼれてしまったんだと思う。
 声に出してしまった後で、うわぁ、何聞いてるんだろ俺と自分に若干引きながら隣を見てみると、案の定何言いだしているんだこいつは、みたいな顔をした時雨ミライの怪訝な視線が突き刺さった。
 あ、これはヤバい。
 このままでは、何だか俺が時雨ミライと距離を縮めたがっているなどという最悪の誤解をされかねない。そう憂いた俺は、口早に発言の動因を説明した。
「いやほら……お前ってどう見ても自分から進んで良いことをしよう、とかたくさんの人を助けたい! みたいな性格じゃないだろ? それなのに、なんで転生委員会なんて柄にもないもんに入ってるのかと思ってさ」
小さく息を吐いて、「相変わらず失礼な人ですね」と呟くと、彼女は元の位置に視線を戻してたっぷり10秒程の間を置いた。
――すると。
「どうしても叶えたい目的があります」
 ギャラリーのいない閑散とした教室に、どこか重量感のあるそのセリフは波紋のように広がっていく。
 淡々と鶴を折り続ける時雨ミライに対して、初めて耳にする私的な感情に虚をつかれた俺はぺたりと机に手のひらを伸ばした。
「私を含めて、転生委員会に勤める人間にはある特別な記憶が存在します」
「特別な記憶?」
 思わず俺が反芻して顔を上げると、彼女も示し合わせたように視線を上ずらせてこう言った。
「前世です」
 俺はそのときふと、何でだろうと思った。
普段耳にするときは鼻で笑うほど現実感に乏しい単語なのに、今俺は多からず動転している。
転生委員会の存在すら未だにはっきりとしない中、それでも時雨ミライが発したそのワードには得体の知れない真実味が醸されていた。
 俺が口を噤んだ状態で一度、喉を鳴らすと彼女は淡々と続けた。
「私が転生委員会に所属して日々長い時間働き続けているのは、すべてがその前世のためです。現在の私のプロフィールなんて、本当にその程度に過ぎません。期待を裏切るようで申し訳ないですけど」
 一体俺をどういうキャラだと思っているのかとツッコミたい気持ちは置いておいて、先に気になることを尋ねた。
「前世が存在するってことはお前も、未愛と同じ転生委員会から選ばれた来世選択の対象者ってことか? あれ、でもだとしたら来世へ案内するはずの転生委員会で働く人間自身が案内される側ってことになるんじゃ――?」
 自分で言ってて上手く状況が理解できていないのを感じながら言葉が迷子になっていると、
「あははっ。言いましたよね。転生対象者に選ばれるには厳しい条件とライフ№が関係していて、確率から見ても極めて稀であると。そもそも、私がそんな良いことを行ってきた徳の高い人間に見えますか」
「いや、まったく」
 即答だった。
 すぐに、「おい」という時雨ミライの不機嫌な声が飛んできたが、俺は敢えて応えずに目だけを逸らした。
「あまり頭の良くない人が理解できるように話せるほど、私は器用ではありませんから、簡単に言いましょう。今この瞬間を生きている全ての人間が属する現世。対して転生を完了し、所謂二度目の人生を送る来世。そして、その二つの存在のちょうど狭間に位置しているのが、私です」
なるほど、わからん。
「とりあえず、お前は物凄く中途半端な奴だってことなんだな?」
「やっぱり相当頭が悪いようですね」
「うるせぇ。というか、その言い方だとお前が生きてる人間と死んだ人間の中間って感じにも聞こえるが、まさか体が実は透けていて、幽霊みたいに物を貫通することができる……とかいうオカルト能力持ってるんじゃないだろうな?」
 ふむ、と時雨ミライは胸の下で腕を組みながら考える仕草を取ると、おもむろに席を立ち、教室に足音を反響させた。
「えっ?」
 俺がややあって頓狂な声を漏らしたのは、鶴を折っていた右手を突然彼女が掴んできたからだった。
「おい、一体何なんだよ」と訳を聞く間もなく時雨ミライはグッと両手で引き寄せると、自身の体も俺の体に張るようにして近づけた。
「どうですか? 幽霊なんかじゃなかったでしょ」
無表情か、ドヤ顔か、はたまた不敵な微笑みか、彼女がいずれの表情で発言したのかはそのときの俺には確認することができなかった。
なぜなら、俺の目と手のひらの感覚は、ある一点にのみ激しく集中していたから。むにゅんとか、たゆんとか、こういう状況下での擬音表現というのは漫画でよく目にしてきた。
だが、今脳に伝っている感覚は制服の薄い生地からじんわり染み渡る温かさと、全思考が停止するほどの刺激を有した柔らかさ且つ弾力のある存在だった。
つきたての餅とか丸型クッションとか今までに触ってきた物の中で同等の物を検索してみたが、この感触を他で表すことはできないとすぐに諦めた。
「……って、いやいやいやっ!」
あまりの出来事に何秒静止してしまっていたのかも分からないくらいぼんやりしていた俺は、次の瞬間雪崩を打つような圧倒的羞恥が襲ってきて、電気でも浴びたように彼女の体から飛び退いた。
「へぇ~。存外可愛いリアクションもするんですね。いい顔が見れました」
「……っ」
 平然とそう言い放つ彼女の言葉と表情に、俺は胸の高鳴りを抑えきれないまま、顔を赤らめて固まっていた。
 そんな俺をよそに帰り支度を整えると、彼女は扉を出る直前に半身で振り返ってこう言い残した。
「あ、ちなみに……私の趣味はこれです」
 チャリ……と鳴るそれをまじまじと見てみると、スクール鞄には消しゴムサイズのキーホルダーが付いていた。
 もはや尋ねたことすら忘れていた質問の答えは、俺の口から「ひっ!」という短い悲鳴を誘った。
 遠目にも分かるその異形の生物は、平気で子供を大泣きさせるくらいの悍ましい外見をしていて、市販の物ではなく手作りであることが見て取れた。
 とりあえず、この学校で受講する美術の評定は間違いなく1になるだろうな。
 そんな確信を持ちながら、俺は改めて変な女の称号を時雨ミライの立ち行く背中を眺めながら密かに授与するのだった。

 それから、ルーズリーフに綴った正の字が目標の200に到達するまで数日の時を要した。
 時雨ミライの言葉通り、もしもこんな過酷作業を一人でやっていたら一体何週間かかっていたか分からない。そう思うと、今回くらいは感謝した方がいいのかもと考えてもいいような、そうでもないような気分になるくらいにはあの女の印象も好転した。
顔パスのような手早さで面会とついでに折り鶴設置の許可を取ると、あらかじめひと繋ぎにしておいた鶴達を未愛の眠るベッドの周りに丁寧に添えた。
無事に救い出すことができたら、今度は未愛と二人で折り紙をして遊びながら作ろう。そんなことを勝手に約束してから、俺は鶴を入れていた大きめのバッグだけ持って病院を後にした。
「あっ」
 病院の自動ドアを通過して数歩進んだところで、パーカーのポケットに両手を入れて待ち構えていた時雨ミライと邂逅した。
「じゃあ、行きましょうか」
 もう目的地を明言しなくても分かるでしょ? そんな二の句まで聞こえてきそうな表情をしていたから、俺は間髪入れず「ああ」と返した。
 時雨ミライが向かった先は病院から見てすぐ左手にある百円ショップだった。
 十中八九、これから俺達は清掃活動の時同様折り鶴の活動によるポイントの増減が如何ほどだったのかを確認する。
 その……はずなのだが。
鏡一つあれば完了する作業に対して、どうしてわざわざ店内に入る必要が?
そんな疑問を抱きながら、俺が自動ドア手前のアルコールスタンドに両手をかざしていると、
「うわぁっ! やっぱ思った通り、物凄い品数じゃないですかぁっ! これを使ってキーホルダー作ったらとんでもない傑作が爆誕しちゃいそうですね~♪」
 カラフルな感嘆符が飛び交う中で聞こえてきたその声は、いつになく高揚に満ちた響きだった。
 呆れ気味の息を吐きながら俺が視線を滑らせると、そこにはキラッキラした瞳でハンドメイドコーナーを前のめりに物色する転生委員会様の姿が。
 あー、はいはい。なるほどね。
 わざわざ百均の店内にある鏡を使おうと思ったのは超個人的な理由があったからってわけね。
 深読みして損したわ。というかちっとは俺の緊張感に配慮しろ。
「ふぅ……もう思い残すことはありません」
「おいこら。目的を前に力尽きてるんじゃねぇよ」
「冗談ですよ。まったく、せっかく人が緊張を緩和してあげようとしていたのに」
 嘘つけ。ここ最近で一番満ち足りた顔をしておいて何言ってやがる。
「それじゃあ、いきます。そこの鏡の前に立って手を出してください」
 俺はごくり、と生唾を飲み込んで言われた通りに立ち止まると、時雨ミライは例の手紙をそっと掌の上に置いた。
 俺は数度瞬きをした後、手紙に触れたまま恐る恐る視線を鏡面のある高さにまで持ち上げた。
 手堅く慈善活動に励んだ前回の結果があの有様だったからな……。
 俺の心境も露知らず、お気楽に流れる軽快なテンポのBGMが胸をざわつかせる中、俺は意を決してその数値に焦点を合わせた。
【52】
頭上には蛍の発光を思わせる眩い輪郭で確かに、その二桁の数字が表示されていた。
「ふ、増えてる! ボランティアの時よりも全然増えてるぞ!」
 勿論、千羽鶴はヤケクソになって無謀な取り組みをしたというわけではなかったが。心のどこかで上がらないかもと危惧する気持ちは正直あった。
 だから余計に俺は嬉しくなって、どうだと言わんばかりに胸を張って時雨ミライの方を一瞥した。
すると、彼女は「見直しました」とだけ静かに呟くとパチパチと手を数度叩いた。


 広い海の中をゴーグルもつけずに闇雲に泳いでいる気分が長らく続いていたけれど、やっとこのとき。俺は進むべき道しるべを目視することができた気がした。
 俺は俺だと割り切り、正しいと判断した行動を愚直に、ひたすらやっていけばライフ№は貯まるのだと――。
 生意気な時雨ミライにも一泡吹かせることができた俺は、このままの調子で行動すれば十分期間内に未愛を救うことができる。
 そう、紛うことなく思っていた。
「くそがっ! 何で思い通りに増えないんだっ」
 ――しかし。
 現実はそんなに甘くない。そんなありふれた言葉しか込み上げてこないくらいに悲惨な状況が、俺の見通しを断ち塞いだ。
 百円ショップに赴いてから実に一週間。
俺は未愛の為にできることを考えて思い付くことを次々と行動に移していったが、結局千羽鶴を折った時のようなポイントの上昇は二度と起こることはなかった。
 黒板右隅に白い文字で書かれた日付に睨むような視線をぶつけながら、歯を強く噛みしめる。
 気がつけば……なんて言葉を使うつもりはない。
一日一日が、重石のようにずっしりと精神を圧迫して俺の焦燥感を募らせていく。電気を消して目を瞑り、薄明を迎えた翌日にもう未愛がこの世からいなくなっていたらどうしよう。そんな甚大な不安が俺の眉間の皺を一層深く刻んでいた。
放課後、帰りのホームルームが既に終了していることにも気付かずに、俺がルーズリーフにビッシリと行動リストを書き連ねては頭を掻きむしって机に根を生やしていたとき。
「もう皆さん、お帰りになられましたよ」
 乱れのない足音と、素知らぬ声色で時雨ミライは俺を見下ろせる位置にまで歩み寄って停止した。
「……だからどうした」
 俺が見もせずに雑にそんな言葉を吐き捨てると、時雨ミライはややあって気になる言葉を繰り出した。
「一つ、提案があります」
握りしめたシャーペンの動きを止めて、眼球だけを時雨ミライの方に向けると、彼女は淀みのない口調でこう言った。
「私に、媚を売ってみませんか?」
 俺はそのセリフに対して、二つの理由で驚いた。
 一つは、現在俺がどれだけ深刻に頭を悩ませているか、追い込まれているのか、机の上にある皺だらけの行動リストを見れば一目瞭然のはずだというのに、なぜそんなふざけた内容を口にできるのか、ということ。
 そしてもう一つが、奇妙なことにその発言をした彼女の表情がいつになく真剣に映っていたということ。
「お前、今がどういう状況か分かってるんだろうな?」
「分かっていますよ。この一週間色々と積極的に行動を起こして自信満々に数値を確認してみたがまるでダメ。果てには焦りと不安から私に対して八つ当たりともとれる暴慢な態度を取っている、と。そういう状況でしたよね?」
「っ……!」
 相変わらずの仮借ない嫌味な物言いに俺の口にも歪みが生じる。
「お前、いい加減にしろよ。確かにこの一週間、ポイントはろくに取得できなかった。だが、別にそれは俺が悪ふざけをしていたわけでもなければ呑気に油を売っていた訳でもない。俺なりに必死に行動し続けていたんだ! それを、傍から何も言わずに見ていただけの奴が偉そうなこと言ってるんじゃねぇ!」
 すると、彼女は髪が触れそうな距離にまでもう一歩間を詰めて
「だから今、私の提案を言っています」
 臆面なく鋭い視線をこちらに向けると、続けて言葉を紡いだ。
「もちろん、これは命令ではなくあくまで提案です。ご自由に選択してください。しかし、私の転生委員会としての経験上このままでは未愛を救うだけのライフ№は到底貯めることができないでしょう。自分のくだらないプライドか、救命への可能性か。バカでも間違えない二択かと」
 視線がぶつかり合う数秒間。
俺は自分がバカかどうかという点に関しては、毛ほども気にしていなかった。
 気にしていたのは、相変わらずの口調の割に時雨ミライの表情が一切緩んでいなかったこと。
 俺は渋面を保ったまましばらく黙り込んだ後、おもむろに顔を上げた。
 これは断じて、未愛の運命が懸かった選択をこの女に預けたわけではない。ただ、ふざけ半分でよこした提案でないということだけは分かった。
 この先一体どう状況を好転させればいいのか、ポイント変動の法則性もまるで見い出せず、困り果てていたのは事実。
「1日……とりあえず1日だけ、任せることにする。だがそれは……決して、未愛の運命をお前に託したからとか、そういうことじゃないからな」
俺は苦虫を噛みつぶしたような声で降り始めの雨のように話しながら、ぎゅっと握りこぶしを作った。
「賢明な判断です」
 彼女は薄く微笑んでから鞄を手に持つと、活動内容については改めてお伝えしますと言い残し、足早にその場を立ち去った。



【有瀬未愛の寿命が尽きるまで残り21日】