二十九日のモラトリアム

「この映画、見たかったんだよね!」

 幽霊になった私は、映画館に繰り出していた。

 高校三年の夏、受験に向けて遊ぶ余裕なんてずっとなかった。ううん、今だけじゃない。ずっと余裕なんてない。

 周りに合わせて浮かないようにして、親が学校が友達が、私になにを求めているのかばっかり気にして、自分がなにが好きで嫌いかさえ忘れそうになってた。

 絶対言ったらバカにされる。ううん、バカにされて笑われるぐらいならまだマシだった。ドン引きされて孤立することが、一番怖かった。

「サメベロス、開場でーす」

 劇場の人の声がフロアに響くけど、入場に向かって行く人は皆無だった。

 サメベロスーー地獄のケルベロスと融合した三つの頭を持つサメが人々を襲うパニックホラー……と見せかけた、たぶんコメディー。

 絶対ばかばかしくて面白い。パニックホラーを見ていたはずなのに、なぜか笑っちゃう展開しかないと思う。

 すごく、楽しみ!

 私は幽霊になったのをいいことに、私は鑑賞券を買わずにいそいそと入場していった。

 やや後方よりの中央席。そこに腰かけて、私はスクリーンを見つめる。ポップコーンでも欲しいところだけど、さすがに幽霊じゃ買えないし食べれないよね。

 上映時間を待っているとポツポツと人が入ってきた。そのうちの一人。ポップコーンを片手に一人で入ってきた男性がそのまま私に近づき……私の膝の上に座ろうとした! たぶんすり抜けてしまうだろうけど、咄嗟に回避する。
 やっぱりこの席が一番見やすいよね。考えることは同じらしい。

 同じ趣味の仲間だと思うと、入場してくる人がみな好ましく思えてくる。上映時間まで誰も通らない奥の通路で待ってから、空いた席に座った。

 映画は面白かった。血しぶき舞うR15の映画だったんだけど、やっぱり要所要所で座席から笑い声が聞こえてきた。私も笑った。どうせ誰にも聞こえないしと、映画館だけど自宅でテレビを見ているノリで笑った。

 エンドロールが流れて、最後のオマケのワンシーンも終わって、明るさが戻ってくる。

 連れだって来た人たちが、笑いながら映画の感想を言い合って楽しそうに帰っていく。

 私も、流行りの映画を友達と見に来たときはそうだった。映画は誰かと感想を語り合うまでが映画だと思っているタイプだった。

 でもこんな映画に誘える友達はいないし、今も一人。

 映画は楽しかったけど、虚しかった。

「別んとこ行こ」

 誰にも聞かれてないって思うからか、独り言が増えてしまう。

 どこか他に行きたいとこあったかな。

 そんなことを考えながら映画館を出ようとロビーに戻る。

 ここの映画館はビルの二階にあった。ガラス張りの壁から、街の雑踏が見下ろせる。もうすっかり外は夜だった。

 ふと、思い立つ。

 ガラスを見つめたまま、後ろに下がる。途中誰かにぶつかったけど、さっきみたいにすり抜ける。だから、もしかしたら……
 壁際まで下がって、私はそのまま助走をつける。

 普通だったらこのまま激突して、なにあの子って目で見られる。でも、今の私ならきっと――ガラスに向かって踏み切る。さすがにちょっと怖くて、腕で顔をガードしてしまう。でも、私はガラスに当たらなかった。

 世界がスローモーションに見えた。ガラスをすり抜け、空中に放り出されて、思わず手足をばたつかせてしまう。それで飛べるわけないんだけど、落下するスピードがゆっくりになる。さっきジャンプしたときみたいにふんわりと体が浮くような感覚がする。ガラスはすり抜けたのに、地面にはしっかり足が付く感触があるのが不思議。少し膝を曲げて、衝撃を吸収しながらゆっくりと着地した。

 だからなんだっていう感じだけど、幽霊らしさを味わってみたかった。ちょっと、楽しい気分になるんじゃないかなって……じゃないと、世界中に無視されているこの状況は結構精神的にくるなって気づき始めていた。

 生きてても死んでても、なにも変わらないじゃない。

 暗くなる気持ちを振り払って、私は駅に向かって歩き始めた。

 幽霊が電車に乗って移動って結構シュールだなって思っただけ。特に行く当てもない。適当な駅で適当にうろついてみるのも面白いかもしれない。学校へ行くホームで、反対方向の電車に乗ったらどうなるだろうって毎朝思ってた。

 でも、そういえばさっきの水干ワンコは私を迎えに来るって言ってた。あの場所で待ってないといけなかったりするのかな? 一応、始発で戻ろうかなと考えてみるけど、始発と夜明けってどっちが早いのかどっちも調べたことがないしわからない。終電ですぐ戻ってくるのも、もったいない気がした。

 きっと幽霊は眠らない。夜明けまであの場所でぼんやり時間が過ぎるのを待つのは嫌だった。

 幽霊だし、電車がなくなってもなんとかなるでしょ。

 私は駅の改札を文字通り飛び越えて、駅のホームに降りて行った。この大ジャンプ、ゲームのキャラクターを思い出してちょっと楽しい。キノコを拾ったら一機UPで生き返ったりするのかな――生き返りたいとも、思わないけど。
 学校とは反対方向の電車。窓の外は真っ暗で、いつもと違う景色が見えるはずだったけど、明るく照らされた車内の風景が反射しているだけだった。

 座っている人も立っている人もみんな窓ガラスに映っているのに、私の姿は映っていなかった。ガラスに手を近づけても、目の前に立ってみても、見えるのは私の後ろの景色。

 駅の名前も確認せずに、私は適当な場所で降りた。

 夜も更けてきたからか、駅は閑散としていた。

 今度は改札を飛び越えないで、改札を通る人の後ろにくっついてやり過ごした。別に改札も体は通り抜けるんだけど、なんとなく。

 夜の早い街みたいで、駅前のロータリーもなんだか薄暗かった。

 居酒屋さんのポツポツと明かりをつけているだけで、ほとんどのお店はシャッターがしまっていて、タクシーも一台止まっているだけ。

 街灯はあるけどそんなに数は多くなくて、月の光が明るかった。

「今日は満月かぁ」

 太陽ほどまぶしくないけど、思わず手のひらを月に翳してみる。

 まるい赤みを帯びた黄色い光。行く当てのない私は、その月に向かって歩き始めた。

 シャッターだらけの商店街っぽいところを通り抜けて、小さな公園の前を通って、丁字路に差し掛かるとその向こうに――病院、かな?

 満月をバックに、白い建物がそびえ立っている。なかなかいい雰囲気。今の私にぴったりなシチュエーションな気がする。忍び込んで怪談話になってやろうかという気もしたけど、闘病中の患者さんやお仕事中の看護師さんたちの邪魔をするのも忍びない。まあ、病院といういいシチュエーションだからって、幽霊の私の姿を見てもらえるのかもわからないし。期待してスルーされたら、それはそれで傷つく。

 満月を眺めながら、私はそのまま病院の前を通り過ぎようとした。

 満月の逆光で影になる病院。その病院の屋上にある給水タンクの上――そこに、誰かが立っている気がした。

 立ち止まって目をこらす。

 ――やっぱり、いる。

 こんな時間にタンクの点検作業なんてしないだろうし、あんなタンクの真上で仁王立ちだってしないと思う。

 もしかして……

 ある予感に、私は病院に向かって走り出していた。



 この時間だから病院のエントランスは静まり返っていて自動扉も動かないし、幽霊の私じゃどのみち動かない。これだけ大きな病院なら救急車とかが来るような夜間の出入り口もあるのかもしれないけど、わからないからパスして自動扉に向かって目をつぶって突進する。

 あの風が吹き抜けるような不思議な感覚がして、目を開けたときにはもう私は病院の中に入り込んでいた。

 消灯した待合室は非常口の緑の光に照らされているだけで、なんだか不気味だった。でも、不思議と恐怖心は湧いてこなかった。たぶん、それどころじゃないから。

 階段はどこだろう。

 エレベーターがあるのはすぐ目に入ったけど、今の私じゃ扉をすり抜けて中に入れてもスイッチを押せる気がしない。ぐるっと見回しても、階段の場所はわからなかった。

 そうだ。

 私はふと思いついて、床を強く踏んで飛び上がった。普段のジャンプの距離を軽々と飛び越えて、天井に頭がぶつかりそうになる。目を閉じて、また風が吹く。バランスを崩して体が一回転する。驚いて目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、ナースステーション。一回転した背中はそのまま床をすり抜けることなく、仰向けに地べたに着地した。

 二階に来れた。

 明るいナースステーションの光に、暗闇に慣れていた目がまぶしい。私にはもう眼球なんて本当はないはずなのに、そう感じるのが不思議だった。

 私は起き上がると、夜勤に勤しむ看護師さんたちを無視してもう一度飛び上がった。各階同じような造りなのか、三階もまたナースステーションの前に出た。それを何度か繰り返して、ナースステーションからリネン室みたいなのに変わったり、徐々に景色が変わって、最後は星空が見えた。

 月の光が明るく屋上を照らしている。白い屋上の床に私の足がつくけど、影は落ちない。私の足元まで伸びた給水タンクの影。その影の上に、私がみた人の影は乗っていない。でも私が振り返ると、給水タンクの上には確かに人が立っていた。

 満月をバックに、仁王立ちする青いストライプのパジャマ。色の薄い癖のある髪に、青白く細い手足。服装からして、この病院で亡くなった患者さんなんだろう。整った顔立ちの彼が、床から現れた私と目が合い顔をしかめる。

「なんやオマエ――オマエも幽霊か」

 関西弁っぽいしゃべりをする、薄幸の美青年が私を見下ろしていた。

「やっぱり」

 彼の言葉に、高揚した。こんな時間に給水タンクの上に立っているなんて普通じゃない。だから、もしかしたら私と同じ状態の人なんじゃないかって思った。

「水干の犬に、会ったの?」

「なんやそれ」

 私が問いかけると、彼は給水タンクの上から飛び降りた。ううん。飛び降りたっていうよりも、飛んだ。ふんわりと、重力なんてないみたいな速度で、私の隣に降り立った。

「オレが会ったんは、十二単の猫やったで」

 隣に立った彼は、私よりも背が高かった。でも、私よりたぶん細い。だぶついたパジャマが、より一層そう思わせるのかもしれなかった。

「ネコちゃんか。いいな。私、犬より猫派なんだよね」

 ドキドキした。自分と同じような幽霊に会えるとは思わなかった。

 間近で見る彼の目は色が薄くて透き通っていて、でもちゃんとそこにあった。

「犬猫ってより、あれはああいう妖怪やろ」

 笑うと八重歯が見えた。

「オレ、チヒロっていうねん。オマエは?」

「フーカ」

 チヒロが下の名前を名乗ったから、私も下の名前だけ名乗った。

「フーカ、よろしくな。誰にもオレのこと見えんみたいやし、暇しとったんや。朝まで付き合ってぇな」

 学校じゃあ、こんな風に男子と話すことなんてなかなかなかった。男子とも仲良く話す友達がいたからその子がいたら別だけど、私一人で一対一で話すことなんてまずない。

 なのに不思議。自分の状態がいつもと違うからか、チヒロとはすらすら話せた。

「ええなぁ、制服。パジャマにスリッパで、オレ最悪やで」

 チヒロが私の姿を見て言う。チヒロは確かにスリッパだった。とはいえ、学校の来賓用みたいなつま先だけのスリッパじゃなくて、ルームシューズみたいなカカトのあるタイプ。それでも、パジャマにスリッパ姿は見るだけで寒そう。

「寒くなくて、よかったね」

「幽霊やからな」

 今気が付いたけど、幽霊になってから全然寒さを感じていなかった。うんと飛び上がって着地しても足が痛くなることもないし、駅から結構歩いてここまで来たのに疲れも感じていなかった。

 生前となにも変わらないような気がしていたけど、やっぱり幽霊になったんだなって改めて思う。

「苦しゅうなくなったんも、よかったわ」

 ため息をつくようにつぶやいたチヒロ。確かに息を吐く音が聞こえたのに、その息は白くならなかった。

 チヒロに触れて確かめる勇気はなかったけど、きっと今の私たちには冷たさも温かさもなにもない。

「なあ。ここで会ったんも縁やし、ちょっと付き合ってーな」
「動物園……?」

 チヒロに連れられるまま歩いて行った先に遭ったのは、営業時間を過ぎて閉園した動物園だった。

「オレの病室からずっと見えとったんやけど、一回も来たことなかったんよ」

 閉ざされた門を前に、チヒロはなんだか嬉しそうだった。

「あ、すり抜けられるよ」

「え、どうやって?」

 門をつかんでよじ登ろうとする仕草をするチヒロにそう言うと、そう返されてしまった。

「どうって……」

 言われてみれば、どうやってたんだろう。人間とかは勝手にすり抜けてたけど、さっきの病院も一階の天井はすり抜けたのに二階の床には立ててたし、すり抜けた天井と立った床って、ほぼ同じものなのに、どうやってすり抜けるのとすり抜けないの使い分けてたんだろう。改めて聞かれると、困ってしまう。

「気合?」

 チヒロは今柵をつかんでいるけど、たぶんその柵だってすり抜けられると思う。気持ちの問題なのかなぁ。幽霊に実体はないんだろうし、今チヒロが柵をつかんでいるのもつかんでるって思いこんでるだけの、パントマイムなのかもしれない。

「こういう、感じで……!」

 実際にやってみせた方が早いかもしれない。

 私は映画館でやったみたいに助走をつけて、柵に体当たりをする。ぶつかる瞬間目をつむってしまうのは、やっぱり怖いから仕方がない。意識したせいで出来なかったらどうしようって思ったけど、あの風の感覚がして、目を開けたときには柵の内側にいた。

「おー」

 ぱちぱちと、柵の向こう側でチヒロが拍手していた。

「でも、なんか怖ぇな」

「慣れれば、案外平気だよ」

 柵の中と外。チヒロは、なかなか動こうとしなかった。

「なあ、手ぇ握ってーな」

「え?」

 また、チヒロが八重歯をのぞかせて笑う。

「そっちから、手ぇ引っ張ってーな」

 柵の隙間から、チヒロが手を差し出してくる。

 さっき握れなかった、チヒロの手。

 さわると、どんな感じがするんだろう。

 生きてる人間みたいに、すり抜けたりしないかな。

「いいよ」

 私はチヒロの手を握り返した。

 ちゃんと触れたチヒロの手は、決して温かくはないけど冷たくもなかった。なんだか、ぬるいような不思議な感じがした。

「いくよ!」

「おう!」

 勢いをつけて、チヒロの手を引っ張る。

 自分じゃないのに、チヒロが柵にぶつかるっていう瞬間は思わず目をつぶってしまった。勢いよく引っ張ったのに上手くすり抜けられなくて、チヒロが激突したらどうしよう。そう思ったけど、チヒロの動きが止まっておそるおそる目を開けると、柵の内側に立つチヒロが目の前にいた。

「へえ。おもろいなぁ」

 私の胸に飛び込むすんでのところで立ち止まったチヒロが、楽しそうだった。

「じゃあ、行こか」

 そう言って歩き始めたチヒロは、私の手を握ったままだった。

 男の人と手を繋いで歩くなんて、幼稚園ぶりかもしれない。

 幽霊でも顔色変わったりするのかなって、自分の顔が赤くなってないか心配になる。

 なんで手を繋いだままなんだろうって不思議に思うけど、なんだか聞けなくて手を離すことが出来なかった。

「やっぱ、みんな寝とんなぁ」

 パジャマ姿のチヒロが夜の動物園の中を歩いているのはなかなかシュールな光景だった。

 B級ホラー映画にありそうとか、ちょっと思ってしまった。

 私もだけど、チヒロも全然怖くない幽霊だった。お互いにしかお互いが見えてないだけで、自分たちがもう死んでいるだなんて信じられない。

 静かな動物園の中で、時折なんだかよくわからない動物の鳴き声がする。その声の方が、よっぽど幽霊らしかった。

「隠れててよく見えないね」

「暗いしなぁ」

 動物たちは木の影とかで眠っているか、大型動物は別に寝床があるみたいで檻の中はからっぽだった。起きている動物がいないか、歩きながら探してみる。

「知っとる?」

「えっ、なにが?」

 手を引っ張ってもらってるとはいえ、チヒロは早足だった。気の向くままに動物園内を歩くチヒロについていくのに必死になって、話をよく聞いてなかった。

「夜行性の動物」

 チヒロの問いかけに、頭に思い浮かんだ動物がそのまま口をついて出る。

「ハムスター」

 小学生のころ飼いたくて、エッセイマンガを読んだり、飼ってもらえる予定もないのに飼育書を図書館で借りたりしていた。

「ハムスター! ええなぁ。ふれあい広場みたいなん、あらへんかな」

 おあつらえむきに、動物園内の案内板を見つけた。

 園内はとっくに消灯されていて、明かりらしい明かりもなかったけど、満月だからか、それとも幽霊だからか、意外なほどはっきりと案内板を読むことが出来た。

「あっちの方やな」

 チヒロが、動物園の奥の方を指差した。

「じゃあ、行こか」

 チヒロがまたそう言って、私の手を握り直してまた歩き始める。
「ええなあ。こんなけ歩いても、全然しんどならへんわ」

 独り言のような、チヒロの声が聞こえてきた。

 こんだけ歩いてて言っても、この動物園はそんなに広くないし道も平坦だ。私にとっては、日常より多く歩いたって気はしない。チヒロのパジャマ姿がなんだか痛々しかった。

「フーカはええんか? なんも言わんと手ぇ繋いだまんまやけど」

「えっ? う、うん。別にいいよ……」

 今更聞かれても、困ってしまう。さんざん手を繋いだ後で今更恥ずかしいからって手を振りほどくわけにもいかないし、正直彼氏いない歴が年齢と一緒だからちょっとしたデート気分が味わえてまんざらでもなかったなんて言えない。

「そっか、よかったー。一回やってみたかってんよ。動物園デート」

 振り返ったチヒロが笑う。月の光に照らされて、輪郭が青白く光る。

 同じこと考えてたんだって思うと、なんだか嬉しかった。

 最初で最後のデート。たまたま同じ境遇で出会ったってだけだけど、その相手に選んでもらえて光栄だった。

 初めて会った人とこんな風に手を繋いで、それってどうなのかなって思わなくもないけど、チヒロだからいいやと思えた。

 何故だろう。チヒロは悪い人じゃないって思える。若くして死んで怨霊とか怖い物になっちゃってて、これから取り込まれるホラー展開が待っていたりするのかもしれない。でも、ありえない。繋いだ手から伝わってくる。

 私とチヒロは今、幽霊だ。魂だけの存在。魂と魂が触れ合ってる。だから、かな。

「ぁ……」

 ふれあい広場に向かって歩いていると、チヒロが小さく声を漏らして立ち止まった。

 私も一緒に立ち止まり、チヒロが見ている先を見る。

 ――献花台だ。

 テントの下に白い台が置かれて、そこに色とりどりの花束や果物が置かれていた。案内板には、カバのハナコが五十歳で大往生したことが書かれていた。

「なあ」

 大きなため息をついたチヒロが私を見る。

「自分語りしてもええか?」

「どぞ」

 特にダメだと言う理由もないので、こくりと頷く。チヒロは、献花台近くの植え込みの前に腰かけて、膝に頬杖をついた。反対側の手は、まだ私の手を握っていた。

「ちっさい頃から病気でなー。良くなったり悪くなったり繰り返し取って、薬とか手術とかやってもよおならんから、骨髄移植することなってずっとずっとドナーを待っとったんやけど、あかんかったわ」

 今、私の隣にいるチヒロは元気そうに見えた。

 顔色も普通だし、パジャマにスリッパっていう格好だけが病人らしさをかもしだしている。でもこれは、死んで病気だった体を抜け出したからなんだろう。そういうえば私も、寝不足で頭痛が酷かったのに死んだら治ったや。

「もっと早く移植に決まってれば、ドナー見つかっとったんかなとか考えんのよ。輸血とかするとドナー登録取り消しなるらしいし、俺に合っとったやつがおったのに、そうやっておらんなったのかもしれん」

 ドラマとかでしか見聞きしたことのない世界の話だった。学校の授業で聞いたこともあったけど、ドナー登録している人は知らないし、ドナーを待っている人も私は知らない。

「中学のころになーあ。俺、今十八やねんけど、フーカも同じぐらいか?」

「う、うん……」

 献花台の方を見ていたチヒロの顔が私の方を向いて、ドキドキしてしまう。どんな顔をして、チヒロの話を聞いたらいいのかわからなかった。

「その制服なんや見たことあるわ。俺は制服ないんやけどな。入院ばっかやから、通信にしたんや。それも勉強どころじゃないこと多くてダブっとんねんけどな」

 学校とは逆方向の電車に乗ったけど、そう遠くない駅で降りたから、この辺りから私と同じ学校にいる子もいるのかもしれない。

 チヒロが言う通信ってのは、通信制高校ってやつなんだと思う。名前は聞いたことあるけど、通っているっていう人には初めて会った。高校生も単位や出席日数が足らなかったら留年するって知ってはいたけど、実際に留年してしまった人に会うのもチヒロが初めてだった。

 私と同じ十八歳なのに、こんなにも私とチヒロは違う。

 きっと、今日が二月二十九日じゃなかったら私とチヒロの人生が交わることなんてなかったかもしれない。もう死んでるのに、人生って言うのもおかしいかもしれないけど。

「で、中学のころに同じ病気のヤツが入院してきたんや。で、死んだ」

 また献花台の方に視線を戻したチヒロの言葉をうんうん頷きながら聞いていたら、重たい言葉が出た。

 私もチヒロももう死んでいるっていうのに、生きてたころと同じ重さを持って死は響く。

「そいつが関西弁やってんよ。本人はコッチの生まれらしいけど、親が関西出身や言うて」

 重たい言葉をさらさらと流暢にチヒロは流していく。病院に長く入院していれば、こういう単語も飛び交うのかもしれない。

「で、それを真似してしゃべっとんのがオレや」

 またチヒロの目が私の目を見る。

「そうなんだ」

 当たり障りのない返事しか出来ない自分が嫌になる。

「下手くそな関西弁やってよお怒られたけど、なんや……アイツのこと忘れとうなくて真似しとんのや」

 チヒロの関西弁が下手くそなのかどうかは私にはわからなかった。

「俺と同じ病気で死によって……ああ、やっぱコレて死ぬ病気なんやなぁ思ったわけよ」

 でも、チヒロにとってその人の存在が――その人の死が、とても大きなものだったんだっていうのは伝わってきた。

「で、案の定死にましたわ」

 ははは、とチヒロが乾いた声で笑う。私もつられて口元を笑みの形に取り繕おうとしたけど、きっとぎこちない。

「ええよな、ハナコは寿命で死ねて……」

 また、チヒロの目が献花台に向く。

 握り締められたままの手に、力が込められた。

「せやけど、ちょっと死んでホッともしとるわ。もうしんどい思いせんでええんやなーって」

 献花台を見つめる目が、月の光を受けてきらきら光っていた。瞳に張った膜が、揺れている。

「親には悪いことしたけど、弟もおるし、なんとか踏ん張ってくれるやろ」

 力が込められた手が、震えていた。

「フーカは事故かなんかか? 制服やし」

 チヒロが私の方を見る。来るだろうなって、思った。

「立ち入ったこと聞いてあかんな。すまん、答えんでいい」

 チヒロが、私からすぐに視線を逸らした。でも、私は口を開きかけていた。

「わた、私は……」

 黙ることも、嘘をつくこともしたくないと思った。

「――――自殺したの」

 チヒロに罵られたいと思った。

 健康な体を持って、普通に生活出来ていたのに、私は自分で自分の命を手放した。

 病気で生きたくても生きられなかったチヒロの前でこんなことを懺悔するなんて、悪趣味だとわかってる。それでも、言葉が止まらない。

 こんな自傷行為にチヒロを巻き込むなんて最低だ。
「本当に死ぬなんて、思わなかった」

 こんな言葉、言い訳に過ぎない。

「ううん。もしかしたら、死ぬかもって思った。でも、やってみたかった」

 チヒロに握られた手が震える。

「手すりが、壊れそうだったの。錆びてボロボロで、触ったら危ないだろうなってずっと思ってた」

 塾サボって、いつも時間つぶしてた空きビルの非常階段。ずっとずっと、誘惑されてた。眠り姫の錘みたいに、さわってはいけないとわかっているのに、さわってみたい衝動がずっとあった。

「なんかもう、全部嫌になっちゃって……体重をかけてみたの」

 案外、大丈夫じゃないかって思った。ビル自体はそんなに古いわけじゃないし、見た目ほど壊れてないんじゃないかって。でも、壊れるかもって少しは思ってた。

「だって、明日は卒業式なの。第一希望の合格発表だってまだなのに……後期試験に向けてまだまだ勉強しなきゃいけないのに、疲れちゃって……」

 しゃべっていて、自分が情けなくて涙が出てくる。

「居場所がないの……学校にも塾にも家にだって、居場所がない。周りに合わせてばっかで、自分がない。自分がないのに、自分がここにいるのが嫌になって……それで……私は」

 自分の命を消した。

 流行りの物に乗っかって友達と話を合わせて、学校や塾の先生に言われるがまま勉強して、親が指示する通りの大学を受験して――サメ映画見たの、何年ぶりだろう。

 死んでやっと好きなことができるなんて……

「そかー、フーカも頑張っとったんやなぁ」

「え?」

 チヒロからはお怒りお説教が返ってくると思ったのに、返ってこなかった。それどころか、労われてしまった。

 予想外の反応に、思わず間抜けな声がもれて、涙も引っ込む。

「俺、まともに受験勉強したことないねんよなー。大変やとは聞いてるわ。夜遅ぉまで何時間も勉強すんねんやろ?」

 私の決死の告白を雑談みたいなノリで受け止めるチヒロを、私はどんな気持ちで見ればいいんだろう。

「私は、全然頑張ってなんかないよ。塾だってサボっちゃって」

 最近は塾をサボって、あの空きビルでスマホさわってずっと時間を潰していた。

 志望校に合格した子も中にはいるけど、友達もみんなまだまだ受験にまっしぐら。塾休んでいることも友達にどうしたのか聞かれてしまって、でもライバルが一人減ってちょうどよかったって陰で笑われてたのも知っている。

 そろそろ家族にもサボっているのがバレてるかもしれない。そう思うと家に帰る気にもなれなくて、怪我をすれば――死んじゃえば、家に帰らなくて済む。そんな浅はかな気持ちで手すりに体重をかけた。

 目の前にニンジンぶら下げられて、走っても走っても追いつけない。もうちょっと頑張ればA判定になるんじゃないか、今でこの大学がA判定なら試験まで頑張ればもっと上の大学もいけるんじゃないかって、到達したはずの目標がすり替えられて走っても走ってもゴールにたどり着けない。ようやくたどり着けたと思ったゴールも、自己採点で絶望的だった。終わるはずだったマラソンは、後期試験まで延長されてしまった。でも、私はもう息も絶え絶え。
もっと頑張れもっと頑張れ、もう私の気持ちはポッキリ骨折してしまっていた。

「みんな私よりももっと頑張ってるのに、私は全然ダメなの」

 チヒロの隣で、私は膝を抱えて丸くなる。チヒロが大きなため息をついたのが聞こえて、チヒロの手を握ったままビクリと跳ねる。

「ああ、悪い悪い。怯えんといて」

 ひらひらと手を振って、チヒロが私に向かってのため息じゃないアピールをしてくる。

「いやな、俺もそういうのあったんよ。検査嫌で嫌や嫌や文句言うとったら、俺より小さいのに頑張ってる子だっておるとか言われてな。知らんがな。俺は頑張れへんねん、しゃあないやん。俺と同じ年でオリンピックでとるやつがいるって言われても、俺はオリンピックには出られんし、もっと頑張ってるやつがいる言われても、俺にはそこまで頑張れん。オリンピック出れるぐらい走ったら文字通り死んでまうし、嫌や嫌や弱音吐かんと気持ちが死んでまう」

 合点がいったように、チヒロがうんうん頷く。

「そっか。フーカはそれで死んだんやな。サボりの弱音吐いてても、間に合わんくて気持ちが死んでしまったんやな」

 チヒロの手が、私の頭にふわりと触れる。

「頑張っとったんやなぁ」

 私に聞かせるでもなく小さくつぶやかれた言葉が、本当にチヒロがそう思ってくれているんだと伝えてくれる。

「フーカも病死やな。鬱とかノイローゼとか、なんかなっとったんちゃうか?」

 涙が止まらない。幽霊なのに、涙が出るって変な感じ。ぬぐってもぬぐっても涙が止まらなくて、チヒロが優しく頭をなでてくれる。

 相変わらずチヒロの手ははっきりとした体温は感じないのに、凄く温かい。錯覚だとわかっていても、嬉しかった。

 私の涙は、拭った手も私の服にもはっきりと涙の痕跡を残すのに、地面に落ちた涙は一瞬で蒸発したみたいに痕跡を残さない。

 私たちはもう、この世界から隔絶されている。誰も私たちを見ないし、私たちも何も出来ない。全部すり抜けて、痕跡さえ残さずに、このままお迎えが来て消えてしまうんだろう。

「そう、なのかな……」

 自殺じゃなくて、病死。チヒロとお揃い。

 不謹慎だけど、ちょっと嬉しかった。

「そうやって。学校とかも大変やろ。同じ年に生まれて住んでる場所とか頭の出来が似たり寄ったりってだけの人間が何十人って集められるんやろ。俺やったらやってける気ぃせぇへん」

 チヒロの声が、優しく沁みる。

「たった六人しかおらん大部屋の人間模様もなかなか過酷やで。その何倍おるんや。怖いわ」

 流れ出た涙の分だけ、チヒロの優しさが染み込んでくるようだった。

「そういうんもあって、通信にしたとこあるわ。入院多いし、学校しんどかったわ。関西弁真似しとんのも、キャラ作りの一環や。誰も見舞いに来んとか、やっと退院できたと思ったら誰オマエ状態、結構キツい」

 私とチヒロ。全然立場が違うのに、チヒロは私の話に共感してくれる。

「チヒロも、頑張ってたんだねぇ」

 意識するでもなくこぼれ出た言葉に、チヒロがはっと息を呑む。

「ありがとう」

 そう言ったチヒロの表情は、痛みを堪えている様な、今にも泣きだしそうにも見えた。
「ほな、自分語りもこれぐらいにして、ハムスター見に行こか」

 チヒロが立ち上がり、私はまた手を引かれて歩き出す。

 去り際、献花台にペコリを頭を下げる。

 私のお葬式も、こんな風に花でいっぱいになるんだろうか。

 献花台から少し行ったところに、ふれあい広場と書かれた看板が見えた。

 小さな建物に自動扉がついていて、私たちまそれをすり抜ける。

 中には文字通りふれあい広場が設置されていたが、今はその干し草の広場にはなんの動物の影もなかった。

「あっちみたいだね」

 代わりに、奥のガラス戸の方から物音がする。

 キュイキュイという鳴き声に、ガサゴソという生き物の動く音。

 その扉もすり抜けると、そこにはウサギやモルモット、ハムスターたちがそれぞれのケージの中で自由に動き回っていた。

 ハムスターが一番夜行性なのか、活発に動いている。

 回し車の上に何匹ものハムスターが乗っていたり、ケージの隅っこに積み重なっていたり、思い思いに過ごしている。

 種類別に小屋を分けられているようで、ゴールデンハムスター、ジャンガリアンハムスター、ロボロフスキーと大中小それぞれのハムスターが元気にしている。

 昔、友達が飼っていたジャンガリアンハムスターのもっちりとした毛皮の雪見大福みたいな触り心地を思い出す。

 試しにケージの中に手を透かしてスキンシップを試みてみる。

 どうせすり抜けるだけだと思って差し出した手は――通り抜けることなく、避けられた。

「え?」

 見えてないはずなのに、私が手を伸ばすとハムスターたちはそそくさとどこかへ行ってしまう。

 何度試しても、私たちのことを気にも留めてない様子なのに捕まらない。

「野生のカン、的なやつなんかな」

 私がやっていることを隣で覗き込んでいたチヒロが言う。

 見えてないけど、何かを感じているんだろうか。

「なんや、コイツ」

 身を屈めていたチヒロが、部屋の隅になにかを見つけた。

 一般家庭で使われるような小さめのケージが、物陰に置かれていた。

「わわっ!? コイツ、内臓出とるで!」

 チヒロの叫びに、私も思わずケージを覗き込む。

 内臓が出ている怖さよりも、ハムスターが心配な気持ちが上回っていた。

 覗き込んだケージの中には、パールホワイトのジャンガリアンハムスターがいた。

 痛みがあるのかチチッ、チチッ、と泣きながら、ケージの中で身体をくの字に丸めている。

 チヒロが言うように、そのハムスターの下腹部にはピンク色の内臓のようなものが見えた。

「ヤバいんちゃうか。飼育員、おらんのか……!?」

 チヒロが周囲を見渡すが、人影はない。

 ハムスターは苦しいのか丸めていた身体を起こして四肢に力を入れている。

 そしてハムスターははみ出た内臓をなめるような仕草をしたかと思ったら――ポロリと内臓が床材の上に落ちた。

 チヒロが息を呑む音がした。

 幽霊なのに息してるのかとか疑問が一瞬過ったけど、私はホッとしていた。

「チヒロ、これ内臓じゃないよ」

「へ?」

 ハムスターから転がり落ちた内臓はゼリービーンズみたいにつるりとしたピンクで、四つの突起があった。

 内臓もどきはその四つの突起をうごめかせて――伸びをした。

「コレ、ハムスターの赤ちゃんだよ」

 点々と血の跡はあったけど、内臓飛び出したんならこんな程度で済むはずがない。

 ゼリービーンズの四つの突起は手足で、よく見るとしっぽの小さい突起もある。

 顔の部分にはお口とまだ開かない目が瞼越しに黒く透けていた。

「こんなんが!?」

 まだ毛のないツルっとした赤ちゃんの姿に、チヒロは驚きが隠せない様子だった。

「そう、ハムスターの赤ちゃんってこんなんなんだよ」

 その驚きようがおかしくって、思わず笑ってしまいそうだった。

 小さなハムスターのお母さんは、最初に生まれた赤ちゃんの兄弟たちを生んでいた。

「そっか、頑張りや!」

「がんばれー!」

 生まれた子どもを体の下に隠すような仕草をしながら踏ん張るお母さんハムスターを、チヒロと二人で応援する。

 小さな赤ちゃんが二匹三匹と増えていく。

 生まれるたびに私とチヒロは手を取り合って喜んで、まだまだ生まれそうだと踏ん張るお母さんハムスターを応援する。

 他のハムスターが元気に活動する音を背景に、お母さんハムスターは一人頑張っていた。



「なかなか、出てこないね……」

 順調に子どもを産んでいたけど、五匹目の子が難産な様子だった。

 先に生まれた子たちを舐めたり世話をしながら、たまに鳴き声を上げながらふんばっても生まれてこない。

 明らかに、他の子たちよりも時間がかかっていた。

「大丈夫なんかな」

「わかんない」

 床材についた血の跡が増えていく。

「あ、生まれた!」

 ポロン、とハムスターのお腹から赤ちゃんが全身をあらわした。

 すかさずお母さんハムスターがその赤ちゃんを舐める。

 けど、様子がおかしかった。

 今までの赤ちゃんはお母さんにくわえられたり刺激されると、元気に手足を動かしたりあくびみたいに大きな口を開けて元気に動いていた。

 でも、この子は違う。

 ぐったりとして、動かない。

 他の子みたいなあざやかなピンクをしてなくて、なんだか色が悪い。

 もしかして……

 そう思った瞬間、私はチヒロに目隠しをされていた。

「出よう」

 目隠しをされたまま、私はチヒロに体を押されてケージの前から引き離される。

「どうしたの!?」

 ケージのある部屋から広場に戻って、私はようやく目隠しから解放された。

 自動扉から差し込む月明かりで、チヒロの顔がよく見える。

 チヒロの顔色が悪い気がしたのは、さっき見た色の悪さが目に残っているせいだけじゃないと思う。

 チヒロが重たい口を開いた。

「食っとった」

「えっ!」

「死産やったんやろ。聞いたことあるわ。死ねば我が子も、生き残った子を育てるための栄養源や。惨いけど、しゃあない」

 達観したチヒロの言葉に、私は「そう……」と返すしかなかった。

 ペット化されているとはいえ、ハムスターだって元は野生動物だ。

 そういう野生の本能が残っていても不思議じゃない。

 自然の摂理とわかっていても、人間の私にはなかなか受け入れられないものがあった。

 私とチヒロが口数少なくふれあい広場を出ると、空は白み始めていた。

 水干の犬は夜明けまで待つよう私に言った。

 その夜明けが、迫っていた。
「そろそろ、お迎えが来そうやな」

「そうだね……」

 まだ太陽の光は見えないけど、太陽は確かに近づき空を照らし始めていた。

「あの世ってどんなところなんだろう」

「天国とか地獄とか、やっぱあんのかな」

 チヒロは病死だって言ってくれたけど、やっぱり自殺した私は地獄域だったりするのかな。

「チヒロはきっと天国行きだよ」

 ぎゅっと、チヒロの手を握り締める。

「フーカも天国やって。こんな優しいねんから」

 チヒロが私の目を見て微笑みかけてくれる。

 こんな気持ちになれるなら、死んだ後悔も薄れる気がした。

 チヒロに会えてよかった。

「ずっと死ぬん怖かったけど、フーカが一緒やったら怖ないわ。あの世もきっとええとこやろ」

 二人で話しながら空を見上げる。

 明るさが増していく。

 夜明けを見るのは、生まれて初めてだった。

 すごく、不思議な感じがする。

 夕焼けの逆バージョンなだけで、たいした違いないだろうって思ってた。

 でも、全然違う。

 夕焼けよりもずっと優しい。

 地球が回っていることを実感する。

 太陽が昇ってくるんじゃない。

 太陽がいるほうを、私たちがのぞき込んでいる。

「キレイやな」

「うん……」

 太陽がその姿を現す。

 存在するすべてのものが長い影を落とすけど、私たちの足元にはどんな影も生まれない。

 このまま灰になったりしないかちょっと心配になったけど、私たちは変わらずそこに立っていた。

「ああ、おりました。おりました」

「お待たせしまして、大変申し訳ありません」

 私たちの元に、十二単の猫と水干の犬が現れた。

「それでは、参りましょうか」

 うやうやしく礼をする猫と犬。

 猫はチヒロに、犬は私に肉球のついた手のひらを向ける。

 この手を取ったら、あの世に連れて行かれるんだろう。そう思うとすぐにその手を取れなかった。

「私とチヒロは、同じところにいけるの?」

 最後は天国と地獄にわかれるのだとしても、その前に裁判みたいなのがあるって聞くし、まだしばらくは一緒にいられるだろうか。そう思って犬に聞くと、小首を傾げた。

「ええと、確かフーカ様が運ばれた病院はチヒロ様とは別の病院でしたね」

 違和感。

「え?」

 なんだか、話が嚙み合っていない気がした。

 なんで今病院の話になっているんだろう。私はあの世の話をしているはずなのに。

「どこで死んだかで、あの世の住所も決まるんか?」

 チヒロの言葉に、猫も首を傾げる。

「特に関係ないですが……どうして、そのようなことをお聞きになるんですか?」

「そりゃ、フーカと一緒にいたいからや」

 きっぱりと言うチヒロの言葉に、胸が熱くなる。

「ご病気がおありとはいえ、そんな死後のことを今から考えなさらずに……これからの人生に目を向けましょうよ」

 猫が憐憫の眼差しをチヒロに向けている。

「「これからの、人生……?」」

 チヒロと私の声が重なる。

「あるんか、人生」

「死んだんでしょ? 私たち!」

 チヒロと私の言葉に、猫と犬が顔を見合わせる。

「そりゃあ、ありますよ。ショックで魂は肉体は離れましたが、一命は取り留めております」

「いわゆる臨死体験ってやつですね。いくら休暇中でも死んだ人間の魂を一晩も放置するわけないじゃないですか!」

 犬が常識知らずを見るような目を向けてくるけど、あの世の常識をこの世の私たちが知っているわけがない。

 死んで幽霊になったっていうのは、私たちの勘違い。ただ死にかけたショックで魂が抜けてしまっただけで生きている。

 今は意識不明の重体かもしれないけど、冥府の休みが終わったから、これから体に戻してもらえるみたいだし、そしたら無事目が覚めるんだ。

 ――正直、死んだことを後悔していた。チヒロは病死だって言ってくれたけど、それでも愚かなことをしてしまったと思ってる。生き返れるなら、生き返りたい。卒業式には出られないかもしれないけど、今までの寂しい自分を卒業できそうな気がした。

 病気だっていうならちゃんと治したいし、我慢してた好きなことだってやりたい。第一志望の結果はまだ出てないけど滑り止めは合格してるんだし、もうそれでいいじゃないかって、自分を甘やかして褒めてあげて、チヒロの頑張ってたって言葉を本当にしたかった。

 B級サメ映画だって、思い切ってカミングアウトすれば同じ趣味の人が見つかったりするかもしれない。

「生き返るんか……」

 つぶやかれたチヒロの声にハッとする。チヒロの声には、絶望が滲んでいた。

「生きてるんか……」

 生き返れると手放しに喜んでいた自分が恥ずかしくなる。

「受け入れとったんやけどなぁ」

 生き返っても、チヒロの病気は治っているわけじゃない。

 私も、以前と同じ健康な体で生き返れると決まってるわけじゃない。

「まあ、しゃあないな。まだ生きーってカミサマが言っとるんやったら、どうしようもないわな」

 子食いのハムスターみたいに、残酷な現実はすぐそこに横たわったまま。

「なあ、今夜のことって生き返っても覚えとるんか?」

「個人差がありますね。夜見た夢を朝覚えていたりいなかったり、そんなものです」

 十二単の猫が言う。

「私は忘れないよ! 絶対に、忘れない!」

 チヒロの手を握り締めて言う。無責任なことを言ってるって、わかってる。でも、言わずにはいられなかった。

「ありがとさん」

 チヒロは、まだ痛みをこらえるような顔をしている。

「それで、一緒にサメべロス見に行こう!」

 サメベロスという言葉に、切なそうな表情がハトが豆鉄砲食ったような顔になる。

「サメベロス! B級サメ映画! バカバカしくて笑っちゃうから」

「フーカ、そんな趣味あったんか……」

 呆然とした表情でつぶやいた後、口元が緩んだ。

「おもろそうやな、サメベロス。外出許可出たら、見に行こうな」

「うん!」

 生き返ったとき、私もチヒロもどんな状態かわからない。それでも、約束は希望だった。

 絶対忘れない。この一夜の夢を、絶対に忘れない。夢の中でそう願っても、叶うかなんてわからないけど……そう思わずにはいられなかった。

「なあ、フーカ」

 真剣な目でチヒロが見つめてくる。その目を見返すと、いたずらっぽく笑った。

「ハグしてもええか?」

「え!?」

 ないはずの体温が爆上がりした気がした。

「嫌?」

「……ええよ」

 恥ずかしくて、チヒロの関西弁を真似してしまう。

「おやおや」

「まぁまぁ」

 気を利かせた猫と犬が背を向ける。

 そして、私たちは抱きしめ合い――――離れた。
風夏(フウカ)! 気が付いたの!?」

 目を覚ますと、見慣れない白い天井に見慣れたお母さんの顔。

 これまでの人生で味わったことのない痛みが全身にあった。

「お母さん……ここ、どこ……?」

「病院よ! 覚えてないの? アンタ、塾サボって廃ビルから落ちたでしょ。悪いことしたから、バチが当たったのよ」

 塾をサボった覚えはあった。最近ずっとサボってたから、今日も同じだった。いつもみたいに塾が終わる時間までスマホでもさわって時間つぶそうと、非常階段を登って行って――――そこからは、記憶がなかった。まったくなかった。

 ビルから落ちたって、階段を踏み外したりしたんだろうか。

 バチが当たったとか悪態をつく余裕があるってことは、ケガもそこまで酷くなかったんだろう。

「血まみれの女の子が倒れてるって、救急車呼ばれて念のためにAEDまで用意してくれて、大騒ぎだったんだからね! 連絡受けた時の、お母さんの気持ち考えて反省しなさい!」

 お母さんは私の手を握り締めて、ボロボロ涙を流していた。

「血まみれって……おかーさん。私、輸血した?」

 私の言葉に、お母さんがなんでそんなこと聞くのって顔をする。たぶん、言葉を口にした私も同じ顔をしていたと思う。

 なんで、そんなことが気になるんだろう。なんて、輸血してたらドナーになれないって、気になっちゃうんだろう。

「先生の話だと、せずに済んだって」

 ほっとする。これで、ドナー登録ができる。骨髄バンクの、ドナー登録。

 なんでだろう。九死に一生を得て、人生観でも変わってしまったんだろうか。限りある命、少しでも誰かの役に立てたいみたいな。

 なんだろう、この気持ち。そうしなきゃいけないような気がする。

「それとおかーさん、私もう受験やめる」

 愛娘が九死に一生を得たこのタイミングなら、どんな話でも聞いてくれそうな気がした。

「第一志望、落ちててももう受験やめるから。もう合格してるとこ、行く」

「滑り止めの……?」

「うん。みんなは滑り止めのつもりみたいだけど、私はあそこが一番行きたい。そこまで偏差値高くないけど、オープンキャンパスで一番いいなって思ったの」

 ずっと言えなかった言葉を、やっと言えた。

 目の前にぶら下げられた別に食べたくもないニンジンを追いかけて、みんなが喜ぶ顔を褒めてくれる言葉を期待して走ってた。でも、もう走れない。走っちゃダメ。

 これ以上走ったら、私は病気になってしまう。

「なんだ、そうだったの。第一志望の合格発表まだだけど、受かってたらどうするの?」

「落ちてるよ」

 そう思うけど、もし受かってたら私はどうするんだろう。今までそのために頑張ってきたんだし、やっぱり周囲の期待もあるし、第一志望に行ってしまう? そんな予感もした。

 そんなにすぐ、私は今までの自分を卒業なんて出来ないかもしれない。それでも、変わりたいと思う。変われそうって思う。でも、どうして急にこんな気持ちになってるんだろう。

「卒業式、出られないね」

「残念だけど、今はしっかり休みなさい。お母さん、先生呼んでくるから大人しくしてなさいよ」

 お母さんが、ベッドを囲うカーテンの向こうに消えていった。

 一人残された私は、全身の痛みにうめきながら、自分の心変わりが不思議で仕方なかった。

 なんなんだろう、この気持ち。

 今までの自分から変わりたい、骨髄バンクのドナー登録をしたい。

 特に後者が意味不明だった。

「ほんと、なんなんだろう」

 目をつぶると、瞼が病室の明かりを透かして血潮が見える。

 ――生きてる。生きてるんだ。

 事故の記憶なんてないのに、胸の奥まで感慨深い。

 仰向けに横たわったまま流した涙は目じりから耳を濡らす。

「――――」

 誰かの名前を呼びたい気持ちが胸に広がるのに、その名前がわからない。

 それでも、奇跡を願わずにはいられなかった。

 私が絶望的な自己採点から第一志望に受かるよりも、きっともっとずっと可能性は低い。

 数万分の確率の一人、それが私であればいい。名前も知らない誰かが待ち続けている、その希望に――


『フーカ』


 遠いどこかで誰かが私の名前を呼んだ気がした。





「二十九日のモラトリアム」完

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