もやもやとした気分のまま帰ったが、家の扉を開ける前に漂ってきたカレーの匂いでうっかりテンションが上がってしまった。うちのカレーはスパイスが強めで、本格的に辛くて美味い。ご飯を大盛にしてたっぷりルーをかけて席につくと、先に食べはじめていた父さんが話しかけてくる。
「母さんは今日も残業で、かなり遅くなるらしいよ」
「へえ、最近ずっとじゃん。繁忙期ってやつ?」
「そうそう。もう少しすれば落ち着くらしいけど」
父さんは眼鏡をはずして、顔の汗をティッシュで拭いている。
「そっちは、そういうの無いの」
「父さん? まぁ締め切りがあるから忙しいときはもちろんあるけど、たぶん母さんほどじゃないかなぁ」
ふーん、と答えつつ、香ばしいカレーを大口で頬張る。翻訳家というのがそういうものなのか、父さんだけなのかはよく分からない。
「遥樹は? 最近どうなの」
「んー、体育祭も終わったし、あとはもう受験まで特に何もない」
受験も、学校推薦枠で行くところはほぼ決めているのであまり忙しくはないのが本音だ。論文の対策とかは一応しているが、どちらかというと学校生活を問題なく、試験もちゃんとした成績で終えることの方が大事らしい。
「忙しくないか。じゃあ、閑散期だな」
父さんが納得したように頷く。閑散期。特に忙しくない時期の事をいうなら、三年生になってからずっとそうだと思う。カメラを触らなくなったら、途端に時間が余るようになってしまった。
「そういえば、写真は?」
何の気なしの口調で聞かれた。誤魔化すように二口、カレーを口に放り込む。痺れるみたいな辛みが舌の上で暴れて、言葉をかき混ぜていく。
「まぁ、ぼちぼち」
「そっか。まぁ、楽しいのが一番だからなぁ」
息子が最近カメラから離れていることは、たぶん知っているだろう。うん、と言いながらそれ以上話したくなくて立ちあがり、水道水を雑にコップに注いで飲む。
「水、父さんにもくれ」
その辺に出しっぱなしになっていたマグカップに水を入れて渡すと、父さんはそれを一気に飲み干して、辛い辛い、と自分の舌を手で仰ぐようにしている。
ベッドに寝転んでいたが、ちっとも眠くならない。
俺は諦めて起き上がって電気をつけ、パソコンを立ち上げる。高校に入ってから買ってもらったちょっといい機種で、これにはいままで撮った写真のデータが移してある。カメラは有名メーカーの一番安いミラーレス一眼で、必死にバイトをして一年の冬に買った。それも今は、机の上に置きっぱなしになっている。
昼間、三嶋と写真の話をしたからか、久しぶりに自分の撮ってきたものを見返してもいいような気がしていた。データを開くと、放課後の校庭で撮影した同じような構図の写真が大量に出てくる。遠藤先生も先輩たちも、とにかく納得いくまで何千枚でも撮るという主義だったから、自分もそれにならって同じ場所で納得のいく写真が撮れるまで粘っていたのだ。
そんなに前のことじゃないのに、なんだか懐かしい気持ちになってくる。ずっとさかのぼっていくと、陸上部の写真が多いのが嫌でも分かる。棒高跳びや幅跳びやハードルなどは、特に画になるから好んで撮っていたのだ。でもその中で、ただ走っているだけの長距離走者の写真も同じくらいある。理由は、自分には分かっている。
ふと、マウスをクリックする手が止まった。
夕陽を背にして、一人で走っている男の姿を撮影した白黒の写真。それから、同じ男を中心にして、何人かが水を飲みながら笑い合っているカラー写真。自分の写した写真の中で、三嶋はいつもアスリートの顔をしていた。
一年生の頃からたくさんの選手や部員たちをカメラ越しに見てきたが、彼はなぜか、とても目を惹いた。三嶋が走る姿は、楽しそうでもないし、特別苦しそうでもなかった。でも全てを受け入れたような不思議な目をしていて、それがなんだか分からなくて目が離せなくて、つい何度もシャッターを切っていた。気が付くと、彼を捉えた写真は自然と増えていった。さすがに、先生や先輩たちとの講評の場に彼の写真を出したのは一度くらいだったと思うが。
ファインダー越しに見ていたあの顔が、へらへら笑いながら目の前に現れたのが今年の春だ。先輩たちが卒業して自分だけになった部室に、あいつは突然現れた。
「走るのに限界を感じちゃったっていうかぁ。写真もいいなって、ずっと思ってたんですよね」
そう言った男を、俺は信じられないものを見る目でみつめていたと思う。背が高くて整った顔をしていて、黙っていたらかなりモテそうなその男は、まるで昔からの知り合いのように馴れ馴れしい口をきく。
「先輩、ずっとオレたちのことも撮ってたじゃないすか。でもその写真、ほとんど見たことないなって思って。オレも写真部になったんで、見せてくれません?」
は? と思わず愛想の欠片もない声が飛び出てしまった。
「絶対嫌だ。あと、俺はもう写真は撮らないから」
今度は三嶋が、信じられないものを見るように目を丸くした。驚くとそういう顔をするのか。初めて見たかもしれない。
「え、撮らないって。マジで? それ、写真をもう撮らないってことですか?」
「写真以外に何があるんだよ。お前とは思わなかったけど二年生と、あと一年生の入部希望者がいるって聞いたから、一応部として残しといてやるために俺は所属してるだけだから。だから、俺には何も期待すんなよ」
カメラ越しには見ていたとはいえ、ほぼ初対面の人間にそんなことを言われたら普通はおかしい先輩だと思って近寄らないだろう。それなのに、翌日から三嶋は放課後になれば俺を探して声を掛けて来るし、付きまとってくるようになった。
会った時のことをつい思い出してしまって、苛立ちが増してくる。パソコンの電源を落として部屋の電気を消し、ベッドに勢いよく横になった。
「なんで写真部なんだよ。馬鹿じゃねえの」
大きめの独り言が、思ったよりもぐわんと部屋に響く。
あいつが走る姿が、ずっと好きだった。
それはもう、自分にとっては誤魔化しようのない事実だ。どこか遠いものを見つめる顔をして必死に地面を蹴っていた男が、それをすっぱりと辞めてしまったのが今でも信じられない。俺は暗い部屋の中で、カメラのレンズが窓から入る灯りで鋭く光っているのをじっと見ていた。
今日こそさっさと帰ろうと思ったのに、雨宮先輩~!と呼ぶ大声が背後から聞こえて、がっくりと肩が下がるのを感じる。
「今日は部室に中山ちゃん来るって言ってたんで。部室行きましょ」
「おい、引っ張るな。肩を組むな。体重をかけるな! 重い!」
肩に腕を回されて、そのままぐいぐいと部室の方に引っ張っていかれる。途中ですれ違った同級生たちには笑われるし、三嶋の方は、フンちゃん相変わらずだねぇ、とか、フンちゃん今度遊びに行こー、などと声を掛けられて、それに愛想よく笑って応えている。
「フンちゃんってなに。あだ名?」
「オレが、雨宮先輩の金魚のフンってことらしいっす。略してフンちゃん」
「あ? 悪口じゃん」
「あれ、先輩怒ってくれんの? やっさしー。でもねぇ、フンちゃんって言いだしたの、うちの部員なんすよねぇ」
ガラ、と部室の扉を開けると、すでに一人の女子が机の上にカメラを置いて座っている。
「お。雨宮先輩お久しぶりです。フンちゃん先輩は、別に久しぶりじゃないですね」
「あー、フンちゃんとか言い出したのって中山?」
ハァ、まぁ。と中山は一年生とは思えない落ち着き具合で答えながら、ポニーテールを揺らして頷く。
「あの、言っておきますが。別に故意に広めてはいないですよ。私が呼んでたのが、いつのまにか勝手に広まってただけで。三嶋先輩は元々有名人なんで、それでじゃないですか」
隣に立っている三嶋に視線を向けると、何か? というような顔をされる。
「お前、有名人なのか」
「あー。中学の時に長距離でちょっと成績良かったんで、それですかねぇ。でも昔の話ですって。で、中山ちゃんは今日はどうすんの? 屋内?」
知らなかった。中学からずっと長距離でやってきたのに、なんでそんなにあっさり辞めたんだ。聞きたい気持ちはますます膨らんでいくが、でも自分がそんなことを聞くのもおかしい気がして、結局は黙っていた。
小柄な中山が立ちあがって、手の中で鍵をちゃりちゃりと鳴らす。
「今日は、ついに屋上に行ってみようかと。先生の許可もちゃんと得てますし」
彼女はスナップやポートレートにはあまり興味がないらしく、もっぱら一人でマイペースに風景や動物を撮っている。ここの屋上からの景色を撮ってみたいのだろう。
「おおー、さすが中山ちゃん。しっかりしてんねぇ」
中山は少し考える顔をしてから、あの、と口にする。
「よかったら、先輩たちも来ますか。屋上」
「え、いいの? てかごめん、オレは言われる前から行く気だったわ」
ねぇ先輩、と三嶋がこちらを振り返る。
「でも中山の気が散らないか? 俺はどっちでもいいけどさ」
どうせ自分は、写真は撮らない。せめて後輩たちの邪魔にはなりたくなかった。
「いえ、せっかく先輩二人が揃ってるので。久しぶりに、部活っぽいし」
中山の唇が、むに、と変な形に歪んだ。たぶん、微笑みそうになるのを堪えたのだろう。不器用だが、これでも喜んでいるのかもしれない。もしそうなら、部活っぽいことをしてやれていないことに、なんだか少しだけ申し訳ない気持ちになる。
三嶋は誰もいない放課後の屋上でひとしきり走ったり騒いだりしてはしゃいだあと、中山を見習ってカメラを熱心に構えだす。手持無沙汰な俺は、遠くに見える山の上に薄く雲がかかっているのを眺めた。陽はまだ傾いてくる前で明るい。晴れた空の下で日差しは暑いが、強めの風が涼しくて気持ちよかった。
「撮りたくなりました?」
すす、と三嶋が近寄ってきてへらへらと笑う。
「うるさいな。お前の見せろよ」
「お、やった。じゃあこれとか。これとか。結構よくないですか?」
雲間から光が落ちる街並みを撮った写真は、確かにいつもよりも画になっている気がした。
「まぁ、前よりはいいんじゃない。お前も、風景の方が向いてるのかもな」
「え、ほんとですか! やったぁ。じゃあこっち方面なら、俺も写真甲子園出られるんじゃないですかね」
思わず俺は黙り込む。
浮かれたような三嶋の声に、イライラと黒い気持ちが湧き上がってくるのを感じる。でも、いまこの気持ちをこいつにぶつけても仕方ない。中山が、それはどうですかねぇ、と言いながらこちらに戻ってきた。
「勝つ写真って、なんか写真甲子園っぽい写真なんですよね。風景とかは、あんまりそれっぽくないっていうか。私も風景とかが好きなんで、写真甲子園にあんまり興味ないのもそれが理由で」
中山は確かに身近にあるものを撮っていることが多いようだった。なんでこれを撮ったんだ? と思うものも多いが、彼女にとってはそれが大事なものなのだろう。
「風景じゃなかったら、どういうのがそれっぽいの」
三嶋の質問に、中山はこちらをちらっと見たが、俺が黙っているので自分で説明し始める。
「私が見た感じだと、やっぱり人物じゃないですかね。ポートレートとか、逆に動きがあるものとか。生活とかが画面から見えるような感じっていうんですかね。ちょっと、口で説明するのは難しいですけど」
「写ってる人のその人っぽさが、見てわかる写真ってこと?」
「まあ、ざっくり言えばそうですかね。三嶋先輩、そういうの撮れます?」
「わかんないけどさ、まぁやってみなきゃわかんなくない? あ、ねぇ雨宮先輩、ちょっと撮らせてくださいよ」
三嶋の持っているカメラのレンズが、俺に向けられる。俺は首を振って顔をしかめた。
「やめろよ。いま撮られたくないから」
ふと、思い出したくないことを思い出しそうになる。背を向けて二人から離れると、三嶋がいつもの調子で笑いながら、いいじゃないですかぁ、と追いかけてきた。
「ね、先輩。一枚だけでいいんで。撮らせてくださいってば」
「やめろって。おまえしつこい」
肩に触られる。それを振り払おうとすると、三嶋は俺の手を避けて前に回り込んできた。
「ほら、こっち見て。ね、笑ってくださいよ」
三嶋の顔が消えて、レンズの目だけが冷たく俺を見ていた。背中に、冷たい汗が流れた。喉が詰まったようになって、息が浅くなる。
そうか、と唐突に分かった気がした。俺を憎しみの籠った目で睨みつけたあの人も、きっとこういう気持ちだったんだろうな。
「やめろって!」
気付いた時には、大声を出していた。
三嶋のびっくりした顔が見えたが、呼吸が浅くて何も言えない。心臓が高く鳴っていて、暑さのせいじゃない汗が額から目に垂れてきた。
「その、すいません。オレ、そんなに嫌だって知らなくて」
慌てたような声が、ぼんやりと遠くから聞こえる。肩に触れてくる手を振りほどいて、目の前の男の顔を必死で見た。戸惑ったような顔は、なんだか泣きそうに見えた。なんだよそれ。いま泣きたいのは、俺の方なのに。
「……お前には、撮られたくない」
理不尽さに耐えられなくて、黒い気持ちが口から溢れてしまう。
「ちゃらちゃらして、遊びで撮ってる奴に。撮られたくない」
すう、と音が消えた気がした。校庭で練習している野球部の声が、風に乗って聞こえてくる。ボールを打つ高い音が響く。
「俺だって、遊びのつもりじゃないです」
三嶋の声は、聞いたことのない低い音だった。
「まだ下手だけど。オレ、先輩とちゃんと写真やりたいし。先輩が真剣にやってたのも知ってるから。だからオレなりに考えて、どうしたら先輩がまた撮ってくれんのかなって」
カッと、頭に血がのぼる感覚がした。
「それならもっと必死にやれよ! お前、俺たちがどんだけ時間かけてやってたか見てたんだろ? この間だって、時間だからってさっさと帰りやがってさ。結局、写真はお前にとってその程度ってことなんだよ。陸上に未練があるなら、戻ればいいだろ!」
三嶋の顔は怒りのためか、見たことのない無表情になる。
「陸上は、もう辞めたんです。そんな風にオレにばっかりいうけど、先輩だって、ずっと撮ってないじゃないですか!」
「俺が撮るかどうかは、お前に関係ない! 放っておいてくれよ!」
三嶋が何か言いかけたが、そのまま黙り込む。握り込まれた彼の拳が身体の横で震えているのを目にしながら、ずっと横で固まっている中山に顔を向ける。
「ごめんな中山。こんな先輩たちで。先、帰るわ」
逃げる様に屋上をあとにして、ほとんど走るようにして駅まで向かう。改札に飛び込んで、それから耐えられなくなってトイレに駆け込んだ。
個室の鍵を閉めると、涙が溢れてくる。情けなさと、怒りと、申し訳なさと、悔しさ。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って胸を抉って、俺は声を殺してしばらく泣いていた。
写真を撮れなくなったのは、写真甲子園で惨敗したからじゃない。あの後も、先輩たちと一緒にたくさん撮ったし、大会は悔しかったけど、初めて北海道に行けて楽しいこともあった。あっという間に先輩たちが卒業して春休みになって、写真部は俺ひとりだけになった。部の活動は三人以上じゃないと維持できない。これから新入生が入部してくれるかは分からなかったけど、今まで以上に俺が頑張らないといけないと思った。
だからなんでもいいから、キャッチ―で、みんなが見て凄いと思う写真を撮りたい気持ちが強かったんだと思う。春休みは、いろいろなところに出かけて写真を撮った。その日はこの辺りで一番賑やかな繁華街で題材を探した。夕方近くなって腹が減ってきたからファストフード店に入って、窓に面した席でポテトをつまみながら目の前の横断歩道にカメラを向けていた。
その人に気が付いたのは、しゃがんでいるその人につまずいて、誰かが転びそうになったのが目に入ったからだ。横断歩道の脇の植え込みのところに、女性がしゃがみこんでいた。目の前には、彼女のバッグらしいものが落ちていて、でも女の人はそれを拾うわけでもなく、ただしゃがみこんでいる。よく見ると、彼女は泣いているようだった。時折、手で顔のあたりを擦っている。
横断歩道を、何事もなかったように通っていく大勢の人たちと、ずっと時が止まったようにしゃがんで泣いている女性。俺は、咄嗟にカメラを手にしていた。
横断歩道を渡る人たちを背景にして、女性が一番映える構図を考える。うつむいている彼女の横顔にピントが合うように調整して、何枚かシャッターを切る。その時に俺の頭にあったのは、沢山見てきたいろんな有名な写真家の写真集とか、そういうのに出ているのに近い画が撮れているかもしれないということだった。この写真なら、沢山の人がすごいと言ってくれるかもしれない。
その時、ファインダーの中でずっとうつむいていた女性の頭が、ゆっくり持ち上がるのが見えた。彼女は長い茶色の髪に隠れていた顔を上げて、何かを探すように辺りを見回す。
彼女が座り込んでいることろと店は離れているし、こちらに気づくことはないはずだった。
あ、と思った時には、レンズにぴたりと視線が向けられていた。彼女は憎しみの籠った目で、ファインダー越しに俺を睨みつけた。
驚いて、思わずカメラを落としそうになる。
そのまま俺は、店から逃げる様に飛び出していた。少し離れてから横断歩道の方を振り返ると、誰かが女性のそばに寄り添うようにしゃがんでいるのが見えた。
それからファインダーを覗くと、あの時の彼女の目が思い浮かんで、うまく撮れなくなった。そのうち、写真を撮る気にならなくなって、カメラを手放す日が増えて、春休みが終わる頃には、すっかり写真を撮るのをやめてしまった。
「母さんは今日も残業で、かなり遅くなるらしいよ」
「へえ、最近ずっとじゃん。繁忙期ってやつ?」
「そうそう。もう少しすれば落ち着くらしいけど」
父さんは眼鏡をはずして、顔の汗をティッシュで拭いている。
「そっちは、そういうの無いの」
「父さん? まぁ締め切りがあるから忙しいときはもちろんあるけど、たぶん母さんほどじゃないかなぁ」
ふーん、と答えつつ、香ばしいカレーを大口で頬張る。翻訳家というのがそういうものなのか、父さんだけなのかはよく分からない。
「遥樹は? 最近どうなの」
「んー、体育祭も終わったし、あとはもう受験まで特に何もない」
受験も、学校推薦枠で行くところはほぼ決めているのであまり忙しくはないのが本音だ。論文の対策とかは一応しているが、どちらかというと学校生活を問題なく、試験もちゃんとした成績で終えることの方が大事らしい。
「忙しくないか。じゃあ、閑散期だな」
父さんが納得したように頷く。閑散期。特に忙しくない時期の事をいうなら、三年生になってからずっとそうだと思う。カメラを触らなくなったら、途端に時間が余るようになってしまった。
「そういえば、写真は?」
何の気なしの口調で聞かれた。誤魔化すように二口、カレーを口に放り込む。痺れるみたいな辛みが舌の上で暴れて、言葉をかき混ぜていく。
「まぁ、ぼちぼち」
「そっか。まぁ、楽しいのが一番だからなぁ」
息子が最近カメラから離れていることは、たぶん知っているだろう。うん、と言いながらそれ以上話したくなくて立ちあがり、水道水を雑にコップに注いで飲む。
「水、父さんにもくれ」
その辺に出しっぱなしになっていたマグカップに水を入れて渡すと、父さんはそれを一気に飲み干して、辛い辛い、と自分の舌を手で仰ぐようにしている。
ベッドに寝転んでいたが、ちっとも眠くならない。
俺は諦めて起き上がって電気をつけ、パソコンを立ち上げる。高校に入ってから買ってもらったちょっといい機種で、これにはいままで撮った写真のデータが移してある。カメラは有名メーカーの一番安いミラーレス一眼で、必死にバイトをして一年の冬に買った。それも今は、机の上に置きっぱなしになっている。
昼間、三嶋と写真の話をしたからか、久しぶりに自分の撮ってきたものを見返してもいいような気がしていた。データを開くと、放課後の校庭で撮影した同じような構図の写真が大量に出てくる。遠藤先生も先輩たちも、とにかく納得いくまで何千枚でも撮るという主義だったから、自分もそれにならって同じ場所で納得のいく写真が撮れるまで粘っていたのだ。
そんなに前のことじゃないのに、なんだか懐かしい気持ちになってくる。ずっとさかのぼっていくと、陸上部の写真が多いのが嫌でも分かる。棒高跳びや幅跳びやハードルなどは、特に画になるから好んで撮っていたのだ。でもその中で、ただ走っているだけの長距離走者の写真も同じくらいある。理由は、自分には分かっている。
ふと、マウスをクリックする手が止まった。
夕陽を背にして、一人で走っている男の姿を撮影した白黒の写真。それから、同じ男を中心にして、何人かが水を飲みながら笑い合っているカラー写真。自分の写した写真の中で、三嶋はいつもアスリートの顔をしていた。
一年生の頃からたくさんの選手や部員たちをカメラ越しに見てきたが、彼はなぜか、とても目を惹いた。三嶋が走る姿は、楽しそうでもないし、特別苦しそうでもなかった。でも全てを受け入れたような不思議な目をしていて、それがなんだか分からなくて目が離せなくて、つい何度もシャッターを切っていた。気が付くと、彼を捉えた写真は自然と増えていった。さすがに、先生や先輩たちとの講評の場に彼の写真を出したのは一度くらいだったと思うが。
ファインダー越しに見ていたあの顔が、へらへら笑いながら目の前に現れたのが今年の春だ。先輩たちが卒業して自分だけになった部室に、あいつは突然現れた。
「走るのに限界を感じちゃったっていうかぁ。写真もいいなって、ずっと思ってたんですよね」
そう言った男を、俺は信じられないものを見る目でみつめていたと思う。背が高くて整った顔をしていて、黙っていたらかなりモテそうなその男は、まるで昔からの知り合いのように馴れ馴れしい口をきく。
「先輩、ずっとオレたちのことも撮ってたじゃないすか。でもその写真、ほとんど見たことないなって思って。オレも写真部になったんで、見せてくれません?」
は? と思わず愛想の欠片もない声が飛び出てしまった。
「絶対嫌だ。あと、俺はもう写真は撮らないから」
今度は三嶋が、信じられないものを見るように目を丸くした。驚くとそういう顔をするのか。初めて見たかもしれない。
「え、撮らないって。マジで? それ、写真をもう撮らないってことですか?」
「写真以外に何があるんだよ。お前とは思わなかったけど二年生と、あと一年生の入部希望者がいるって聞いたから、一応部として残しといてやるために俺は所属してるだけだから。だから、俺には何も期待すんなよ」
カメラ越しには見ていたとはいえ、ほぼ初対面の人間にそんなことを言われたら普通はおかしい先輩だと思って近寄らないだろう。それなのに、翌日から三嶋は放課後になれば俺を探して声を掛けて来るし、付きまとってくるようになった。
会った時のことをつい思い出してしまって、苛立ちが増してくる。パソコンの電源を落として部屋の電気を消し、ベッドに勢いよく横になった。
「なんで写真部なんだよ。馬鹿じゃねえの」
大きめの独り言が、思ったよりもぐわんと部屋に響く。
あいつが走る姿が、ずっと好きだった。
それはもう、自分にとっては誤魔化しようのない事実だ。どこか遠いものを見つめる顔をして必死に地面を蹴っていた男が、それをすっぱりと辞めてしまったのが今でも信じられない。俺は暗い部屋の中で、カメラのレンズが窓から入る灯りで鋭く光っているのをじっと見ていた。
今日こそさっさと帰ろうと思ったのに、雨宮先輩~!と呼ぶ大声が背後から聞こえて、がっくりと肩が下がるのを感じる。
「今日は部室に中山ちゃん来るって言ってたんで。部室行きましょ」
「おい、引っ張るな。肩を組むな。体重をかけるな! 重い!」
肩に腕を回されて、そのままぐいぐいと部室の方に引っ張っていかれる。途中ですれ違った同級生たちには笑われるし、三嶋の方は、フンちゃん相変わらずだねぇ、とか、フンちゃん今度遊びに行こー、などと声を掛けられて、それに愛想よく笑って応えている。
「フンちゃんってなに。あだ名?」
「オレが、雨宮先輩の金魚のフンってことらしいっす。略してフンちゃん」
「あ? 悪口じゃん」
「あれ、先輩怒ってくれんの? やっさしー。でもねぇ、フンちゃんって言いだしたの、うちの部員なんすよねぇ」
ガラ、と部室の扉を開けると、すでに一人の女子が机の上にカメラを置いて座っている。
「お。雨宮先輩お久しぶりです。フンちゃん先輩は、別に久しぶりじゃないですね」
「あー、フンちゃんとか言い出したのって中山?」
ハァ、まぁ。と中山は一年生とは思えない落ち着き具合で答えながら、ポニーテールを揺らして頷く。
「あの、言っておきますが。別に故意に広めてはいないですよ。私が呼んでたのが、いつのまにか勝手に広まってただけで。三嶋先輩は元々有名人なんで、それでじゃないですか」
隣に立っている三嶋に視線を向けると、何か? というような顔をされる。
「お前、有名人なのか」
「あー。中学の時に長距離でちょっと成績良かったんで、それですかねぇ。でも昔の話ですって。で、中山ちゃんは今日はどうすんの? 屋内?」
知らなかった。中学からずっと長距離でやってきたのに、なんでそんなにあっさり辞めたんだ。聞きたい気持ちはますます膨らんでいくが、でも自分がそんなことを聞くのもおかしい気がして、結局は黙っていた。
小柄な中山が立ちあがって、手の中で鍵をちゃりちゃりと鳴らす。
「今日は、ついに屋上に行ってみようかと。先生の許可もちゃんと得てますし」
彼女はスナップやポートレートにはあまり興味がないらしく、もっぱら一人でマイペースに風景や動物を撮っている。ここの屋上からの景色を撮ってみたいのだろう。
「おおー、さすが中山ちゃん。しっかりしてんねぇ」
中山は少し考える顔をしてから、あの、と口にする。
「よかったら、先輩たちも来ますか。屋上」
「え、いいの? てかごめん、オレは言われる前から行く気だったわ」
ねぇ先輩、と三嶋がこちらを振り返る。
「でも中山の気が散らないか? 俺はどっちでもいいけどさ」
どうせ自分は、写真は撮らない。せめて後輩たちの邪魔にはなりたくなかった。
「いえ、せっかく先輩二人が揃ってるので。久しぶりに、部活っぽいし」
中山の唇が、むに、と変な形に歪んだ。たぶん、微笑みそうになるのを堪えたのだろう。不器用だが、これでも喜んでいるのかもしれない。もしそうなら、部活っぽいことをしてやれていないことに、なんだか少しだけ申し訳ない気持ちになる。
三嶋は誰もいない放課後の屋上でひとしきり走ったり騒いだりしてはしゃいだあと、中山を見習ってカメラを熱心に構えだす。手持無沙汰な俺は、遠くに見える山の上に薄く雲がかかっているのを眺めた。陽はまだ傾いてくる前で明るい。晴れた空の下で日差しは暑いが、強めの風が涼しくて気持ちよかった。
「撮りたくなりました?」
すす、と三嶋が近寄ってきてへらへらと笑う。
「うるさいな。お前の見せろよ」
「お、やった。じゃあこれとか。これとか。結構よくないですか?」
雲間から光が落ちる街並みを撮った写真は、確かにいつもよりも画になっている気がした。
「まぁ、前よりはいいんじゃない。お前も、風景の方が向いてるのかもな」
「え、ほんとですか! やったぁ。じゃあこっち方面なら、俺も写真甲子園出られるんじゃないですかね」
思わず俺は黙り込む。
浮かれたような三嶋の声に、イライラと黒い気持ちが湧き上がってくるのを感じる。でも、いまこの気持ちをこいつにぶつけても仕方ない。中山が、それはどうですかねぇ、と言いながらこちらに戻ってきた。
「勝つ写真って、なんか写真甲子園っぽい写真なんですよね。風景とかは、あんまりそれっぽくないっていうか。私も風景とかが好きなんで、写真甲子園にあんまり興味ないのもそれが理由で」
中山は確かに身近にあるものを撮っていることが多いようだった。なんでこれを撮ったんだ? と思うものも多いが、彼女にとってはそれが大事なものなのだろう。
「風景じゃなかったら、どういうのがそれっぽいの」
三嶋の質問に、中山はこちらをちらっと見たが、俺が黙っているので自分で説明し始める。
「私が見た感じだと、やっぱり人物じゃないですかね。ポートレートとか、逆に動きがあるものとか。生活とかが画面から見えるような感じっていうんですかね。ちょっと、口で説明するのは難しいですけど」
「写ってる人のその人っぽさが、見てわかる写真ってこと?」
「まあ、ざっくり言えばそうですかね。三嶋先輩、そういうの撮れます?」
「わかんないけどさ、まぁやってみなきゃわかんなくない? あ、ねぇ雨宮先輩、ちょっと撮らせてくださいよ」
三嶋の持っているカメラのレンズが、俺に向けられる。俺は首を振って顔をしかめた。
「やめろよ。いま撮られたくないから」
ふと、思い出したくないことを思い出しそうになる。背を向けて二人から離れると、三嶋がいつもの調子で笑いながら、いいじゃないですかぁ、と追いかけてきた。
「ね、先輩。一枚だけでいいんで。撮らせてくださいってば」
「やめろって。おまえしつこい」
肩に触られる。それを振り払おうとすると、三嶋は俺の手を避けて前に回り込んできた。
「ほら、こっち見て。ね、笑ってくださいよ」
三嶋の顔が消えて、レンズの目だけが冷たく俺を見ていた。背中に、冷たい汗が流れた。喉が詰まったようになって、息が浅くなる。
そうか、と唐突に分かった気がした。俺を憎しみの籠った目で睨みつけたあの人も、きっとこういう気持ちだったんだろうな。
「やめろって!」
気付いた時には、大声を出していた。
三嶋のびっくりした顔が見えたが、呼吸が浅くて何も言えない。心臓が高く鳴っていて、暑さのせいじゃない汗が額から目に垂れてきた。
「その、すいません。オレ、そんなに嫌だって知らなくて」
慌てたような声が、ぼんやりと遠くから聞こえる。肩に触れてくる手を振りほどいて、目の前の男の顔を必死で見た。戸惑ったような顔は、なんだか泣きそうに見えた。なんだよそれ。いま泣きたいのは、俺の方なのに。
「……お前には、撮られたくない」
理不尽さに耐えられなくて、黒い気持ちが口から溢れてしまう。
「ちゃらちゃらして、遊びで撮ってる奴に。撮られたくない」
すう、と音が消えた気がした。校庭で練習している野球部の声が、風に乗って聞こえてくる。ボールを打つ高い音が響く。
「俺だって、遊びのつもりじゃないです」
三嶋の声は、聞いたことのない低い音だった。
「まだ下手だけど。オレ、先輩とちゃんと写真やりたいし。先輩が真剣にやってたのも知ってるから。だからオレなりに考えて、どうしたら先輩がまた撮ってくれんのかなって」
カッと、頭に血がのぼる感覚がした。
「それならもっと必死にやれよ! お前、俺たちがどんだけ時間かけてやってたか見てたんだろ? この間だって、時間だからってさっさと帰りやがってさ。結局、写真はお前にとってその程度ってことなんだよ。陸上に未練があるなら、戻ればいいだろ!」
三嶋の顔は怒りのためか、見たことのない無表情になる。
「陸上は、もう辞めたんです。そんな風にオレにばっかりいうけど、先輩だって、ずっと撮ってないじゃないですか!」
「俺が撮るかどうかは、お前に関係ない! 放っておいてくれよ!」
三嶋が何か言いかけたが、そのまま黙り込む。握り込まれた彼の拳が身体の横で震えているのを目にしながら、ずっと横で固まっている中山に顔を向ける。
「ごめんな中山。こんな先輩たちで。先、帰るわ」
逃げる様に屋上をあとにして、ほとんど走るようにして駅まで向かう。改札に飛び込んで、それから耐えられなくなってトイレに駆け込んだ。
個室の鍵を閉めると、涙が溢れてくる。情けなさと、怒りと、申し訳なさと、悔しさ。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って胸を抉って、俺は声を殺してしばらく泣いていた。
写真を撮れなくなったのは、写真甲子園で惨敗したからじゃない。あの後も、先輩たちと一緒にたくさん撮ったし、大会は悔しかったけど、初めて北海道に行けて楽しいこともあった。あっという間に先輩たちが卒業して春休みになって、写真部は俺ひとりだけになった。部の活動は三人以上じゃないと維持できない。これから新入生が入部してくれるかは分からなかったけど、今まで以上に俺が頑張らないといけないと思った。
だからなんでもいいから、キャッチ―で、みんなが見て凄いと思う写真を撮りたい気持ちが強かったんだと思う。春休みは、いろいろなところに出かけて写真を撮った。その日はこの辺りで一番賑やかな繁華街で題材を探した。夕方近くなって腹が減ってきたからファストフード店に入って、窓に面した席でポテトをつまみながら目の前の横断歩道にカメラを向けていた。
その人に気が付いたのは、しゃがんでいるその人につまずいて、誰かが転びそうになったのが目に入ったからだ。横断歩道の脇の植え込みのところに、女性がしゃがみこんでいた。目の前には、彼女のバッグらしいものが落ちていて、でも女の人はそれを拾うわけでもなく、ただしゃがみこんでいる。よく見ると、彼女は泣いているようだった。時折、手で顔のあたりを擦っている。
横断歩道を、何事もなかったように通っていく大勢の人たちと、ずっと時が止まったようにしゃがんで泣いている女性。俺は、咄嗟にカメラを手にしていた。
横断歩道を渡る人たちを背景にして、女性が一番映える構図を考える。うつむいている彼女の横顔にピントが合うように調整して、何枚かシャッターを切る。その時に俺の頭にあったのは、沢山見てきたいろんな有名な写真家の写真集とか、そういうのに出ているのに近い画が撮れているかもしれないということだった。この写真なら、沢山の人がすごいと言ってくれるかもしれない。
その時、ファインダーの中でずっとうつむいていた女性の頭が、ゆっくり持ち上がるのが見えた。彼女は長い茶色の髪に隠れていた顔を上げて、何かを探すように辺りを見回す。
彼女が座り込んでいることろと店は離れているし、こちらに気づくことはないはずだった。
あ、と思った時には、レンズにぴたりと視線が向けられていた。彼女は憎しみの籠った目で、ファインダー越しに俺を睨みつけた。
驚いて、思わずカメラを落としそうになる。
そのまま俺は、店から逃げる様に飛び出していた。少し離れてから横断歩道の方を振り返ると、誰かが女性のそばに寄り添うようにしゃがんでいるのが見えた。
それからファインダーを覗くと、あの時の彼女の目が思い浮かんで、うまく撮れなくなった。そのうち、写真を撮る気にならなくなって、カメラを手放す日が増えて、春休みが終わる頃には、すっかり写真を撮るのをやめてしまった。