あ。と声を出して立ち止まると、三嶋が俺の背中にぶつかって、いてぇ!と大きな声を出した。

「なんすかもー先輩! 急に止まらないでくださいよぉ」
「そんな近くを歩いてるからだろ。本、忘れたから教室戻る」

そこどいて、と振り返って手で追い払う動作をすると、俺より背の高い男はしぶしぶといった様子で脇に避ける。ぶらんぶらんと不満そうに揺れている半袖のシャツから覗いた腕は俺の腕と違っていい色に焼けていて、外で過ごした時間の長さを感じさせた。

「今日も図書室? ねー、部室にも来てくださいよ」
「うるさい。行かないって言ってんだろ」
「えー、カワイイ後輩もいるのに?」
「中山のことか? まぁあいつ、小柄で見た目は確かに結構かわいいけどさ。マイペースすぎてちょっと可愛げないっていうか。まぁ一年であれは逆にすごいけど」
「ちがうちがう! 俺オレ! 雨宮先輩の可愛い後輩、二年一組の三嶋暁斗がここにいるでしょうよ」

 素っ頓狂な声に、通りかかった女子二人組がこちらを振り返り、クスクス笑っている。くそ、恥ずかしいな。隣でにっこり笑って女子たちに手を振って愛想を振りまいている男を、じろりと睨む。

「声がデカい。とにかく、受験生に絡むな。写真は一人で撮れるだろ。……あれ、お前カメラは?」
「あー、まだ職員室です。先生忙しそうだったから声かけにくくて」

二年から写真部に入ったばかりのこいつは、まだ自前のカメラを持っていない。部の備品のカメラはエントリーモデルだけどちゃんとしたメーカ―品で、そこそこ高価なものなので写真部の顧問が管理している。

「あのさ、最低限カメラは持ってこいよ。それで、俺を追いかけてる暇があるなら一枚でも多く撮ればいいだろ。撮った数が実力になるって遠藤先生も言ってる」
「じゃあ先輩も」
「俺の話はしてない」

むむ、と口を尖らせている男の顔を見上げて、一言つけ足す。

「おまえ、下手くそなんだから。それくらいすれば?」

我ながら口が悪いと思う。でも、いつもいつも、放課後になるとこうして追いかけ回されるのも、いい加減飽き飽きしていた。去年までいつでもカメラを持っていた自分を知っている人は驚くかもしれない。

でも、写真はもう、撮りたくない。

三嶋は、ぴたりとその場に立ち止まる。先輩、と呼びかけてくる声を無視して、スタスタとまるで地面が自動的に進んでいて止まれないかのように、ひたすら足を動かした。窓からまだ明るい日がさしていて、廊下に伸びている三嶋の影がうつむいた視線の中で遠ざかっていく。

図書室の気に入っている席に先客がいたので、仕方なく窓際の空いている席に座る。しん、と静かな空気の中で、ようやく落ち着いて参考書とノートを広げた。
だが窓際の席は、どうしても外からの声が聞こえてくる。野球部の掛け声、サッカー部がボールを回すにぎやかな声に、時々鳴らされるホイッスル。初夏とはいえ、もう十分真夏のように暑くて、外で活動しないといけない部は大変だなと思う。

でも二年生までは、自分もあの校庭にいたのだ。

運動部の邪魔にならないところにしゃがんだり三脚をたてたりして、真夏の暑い時は帽子を被って、冬の木枯らしが厳しい時はコートの下にカイロを貼ったりして、長い時間外にいた。あの頃は日焼けしていたから、夏休みに久しぶりに会ったばあちゃんに、遥樹は運動部に入ったのかい? と聞かれたりもした。

でも去年の秋の終わりくらいから、カメラはほとんど触っていない。もともとそんなに黒くなる方ではないから、日焼の跡はもうほとんど消えている。

「だめだな」

せっかく図書室に来たのに、今日は集中できない。くそ、あいつのせいだ、と心の中で責任転嫁しつつ、窓に掛かっているレースのカーテンを少しだけ開ける。
快晴の空が見えて、校舎の影が明るい校庭に長く伸びていた。気持ちの良い、夏の風景が目の前に広がっている。あの校舎の影の中にいるサッカー部員たちを、青空が入るように撮ったらいい写真になりそうだ。三嶋が、こういう空の下を走っている姿もきっと絵になるだろう。そう思ってから、胸の奥が掴まれたように苦しくなる。

撮らないって、決めた癖に。

それに、三嶋はもう陸上部員じゃない。よりによって、写真部に入ってくるなんて。

机に目を伏せた時、コンコン、と窓を叩くような音がした。はっと顔を上げると、窓の外に誰かが立っている。三嶋だった。窓の外でいたずらをする子どものような顔で笑いながら、せんぱい、と口が動いている。シャ! っとカーテンを閉めると、コンコンコンコン! と何度も窓を叩いてくる。すごくうるさい。しぶしぶ、窓を少しだけ開ける。

「こっちは図書室なんだから静かにしろって。迷惑だろ」
窓のすぐ外の花壇の縁の上に立っている三嶋は、こちらの言葉を無視して手にしていたカメラを見せる。
「ほら見て、ちゃんと借りてきたんで!」
「そうか。良かったな。頑張れよ」
窓を閉めようとすると、ちょっと! と外から押さえられる。
「良かったな、じゃなくて! 俺の写真も見てくださいよぉ」

元運動部だからか、こいつは声が大きい。周りの視線が痛い。顔を窓の外に出すようにして、小声で文句をいう。

「だからうるさいっての。なんで俺なんだよ。遠藤先生に見て貰えばいいだろ」
三嶋は垂れ目を見開くようにしてから、口をへの字に曲げる。
「雨宮先輩だって、先輩たちにいろいろ教わったり、一緒に写真撮ったりしてたでしょ。俺ずっと見てましたし。いまは俺だって写真部員だし、先輩に見てもらう権利あるんじゃないですか? 俺だけ見て貰えないの、不公平じゃん」

確かに。と、つい思ってしまった。

三嶋は、元々陸上部の長距離走者だった。自分たちが三嶋たちの姿をファインダー越しに見ていたように、必死になって写真を撮っていた頃の自分や卒業した先輩たちの姿も、こいつに見られていたのだろう。当然と言えば当然だが、あれを見られていたのかと思うと少し恥ずかしくなってくる。

「……そこで待ってろ。でも俺は撮らないぞ」
よっしゃあ! と窓の外で三嶋がガッツポーズをしている。だからうるさいって。


野球部の練習を少し離れたところで撮影している三嶋を、さらに少し離れた校庭の端の木陰にしゃがんで眺める。やつは撮影した写真を見ているのか、手にしたカメラを眺めて首をかしげたりしているが、その姿はどことなく楽しそうだ。それに比べて、写真を撮るでもなくこんなところにいる自分は、とてつもなく無意味に思える。

「何やってんだろうなぁ」

地面に視線を落とすと、アリすら忙しなく行き来して働いている。黒い小さな生物たちの行方を目で追っていると、砂を踏む誰かの足音が聞こえた。

「若者たち、やってるねぇ」

どこかの民族っぽい柄のロングワンピースにスニーカー姿の遠藤先生は、再任用の美術教員で、写真部の顧問だ。白髪をベリーショートにした髪型と独特の服装で、どこにいてもすぐにわかる。

「やってますね。あいつだけですけどね」
「雨宮はやらないの」
「あー、俺はもういいです」

そうかぁ、と答えただけで、先生はそれ以上何も言わない。三嶋が先生の姿に気づいて、こちらに走って戻ってくる。体力が有り余っているらしい。

「先生、これどうすか」
先生はカメラを受け取って、画面で写真を手早くみている。
「うーん、まだ何ともいえないな。まぁ、もっと撮りな」
「そっかぁ。了解っす」

少し残念そうな顔をしたが、じゃあオレ、サッカー部の方行ってきます、と元気に宣言してカメラを首にかけて走っていく。やっぱり、走っている姿のほうがしっくりきている気がして仕方ない。

「三嶋はやる気あるし、雨宮が見てやったらすぐもっと良くなるよ」
「先生も俺にあいつのこと見ろって言うんですか? 先生が見てやってくださいよ」

先生は片手でワンピースの裾をぱたぱたして足元に風を送りながら、肩をすくめる。

「私は写真は専門じゃないしね。雨宮は三嶋よりも、写真のことよく知ってるでしょ。何かを撮るってのがどういうことかっていうのがさ、自分なりに。何も考えないで撮って、写真甲子園の本選になんて出られないよ」

あれはいい経験させてもらったわ、と先生は笑うが、俺は思わずため息が漏れそうになる。

「あれは組写真ですもん。俺じゃなくて、先輩たちの写真が凄かったんですよ。それに、本番じゃ全然でしたし」

言葉にしながら、忘れようとしていた苦い気持ちがよみがえってくる。

写真甲子園に出てみようかと言い出したのは、その後、地元の美大に進んだ先輩だった。写真甲子園という言葉を俺は二年生のその時に初めて聞いたが、全国の写真部の作品を審査して最終的に二日間の本選期間で優勝作品を決めるというその大会は、たしかに文化系の甲子園のような華々しさがある。
最初に言い出した先輩と二年生で唯一の部員だった自分と、あと何人かの先輩で作った八枚でひとつの作品が初戦の審査を通った時は、みんな信じられない気持ちで大喜びした。
さらにブロック審査を勝ち進んで本選に出られると決まった時は、もしかして優勝できるのではないかと、そんな気持ちでひとしきり盛り上がった。本選は三人一組の参加だから、三年生の先輩二人と二年生の自分で出ることも決まって、俺はものすごく張り切っていたのだ。でも、北海道にわざわざ訪れて参加した本番での結果は、一言で言って惨敗だった。

本選の審査は各学校に同じ環境で同じ課題を出されて、二日間で写真を撮って自分たちの作品を作り上げて提出するのだから実力が問われるものだ。そこで制限時間いっぱいを使ってなんとか作品を出した後、他校の作品を見て、がつんと頭を殴られたような気がした。

どの学校も、うちとはレベルが全然違う。
自分たちのものは作品ですらない。

そう言われている気がして、いたたまれなかった。今この瞬間まで、ちょっと良い写真が撮れているとすら思っていた自分が、ひたすら恥ずかしかった。優勝はもちろん、入賞なんかするはずもなかった。
でもその時はまだ、何よりも悔しさが勝っていた気がする。いい写真を撮って、いつかきっと見返してやりたいと思っていたのだ。
少し風が出てきて、砂が舞ってぱちぱちと顔にあたる。赤い陽が傾いてきて、あと三十分もすれば暗くなるだろう。俺は仕方なく立ちあがり、足元の小石みたいに尖った声で答える。

「俺、写真のことなんか分かんないですよ。分かるわけないです」
先生は、小さく笑ったようだった。遠くにいる三嶋に目を向けたまま、口にする。
「じゃあ、それをそのまま伝えたらいいよ」
「え。分かんないってことをですか」
「そうだよ。それだって、雨宮の経験から生まれた言葉だし」

俺が思わず黙ってしまうと、じゃあ頑張りなさい、と言い残して先生は校舎に戻っていってしまう。先輩! と声がして振り返ると三嶋が走ってくるところだった。

「とりあえず沢山撮ったんですけど。今日やってて、絞りとかの操作がやっと分かってきたのは収穫かも。あ、分かんないでやってたのバラしちゃった」
「おい、分かんないでやってたのかよ。そういうのだったら、別に聞いていいよ」

大きなため息をつくと、でへへ、すいません、と三嶋は垂れ目をさらに下げて笑う。

「で、どうですかね。今日はいつもより良くないですか!」
撮って来た写真を画面上で確認するが、いくら見ても、ピンとくるものが無かった。だから、それをそのまま伝える。
「俺は、あんまりいいとは思えない」
「まじかぁ……。ねぇ、なんかヒント! ヒントください!」
「クイズじゃないんだから、そんなもんないよ」
「なんでもいいんで! 先輩の言葉で聞きたいんですよぉ」

お願い、と拝むポーズをされる。そこまでされて、何も答えないのも気が引ける。

「……たぶん、だけど。何を撮りたいのか、分からないって感じがする。俺もよく言われたけど、撮りたいものの対象に、もう一歩踏み込んだほうがいい、かも」

おお~、と感心したような声を出されて、照れ隠しにカメラを突き返す。

「踏み込む。ぐっと。あと一歩ですね」
「言っとくけど、距離だけの話じゃないからな。なんていうか、撮るものとの心理的な距離っていうか。そういうのも含めてだから」

でもそれが分からなかったのは、俺自身だ。
知ったかぶったような言葉を、心の中でもうひとりの自分が顔を歪めて馬鹿にしている。黒い気持ちが、胸の中にじわじわと広がっていく。

あ、ヤベェ、と三嶋が急に大声を上げて、木陰に置いていた荷物をまとめ始めた。

「オレ、そろそろ帰るんで。あ、その前にカメラ返してこなきゃ。じゃあ先輩、また明日!」

ばたばたとカバンを下げて校舎の方へ走っていく背中を眺めて、俺はまだ暑さの残る校庭にひとりで取り残された。くそ。なんなんだよあいつは。

もやもやとした気分のまま帰ったが、家の扉を開ける前に漂ってきたカレーの匂いでうっかりテンションが上がってしまった。うちのカレーはスパイスが強めで、本格的に辛くて美味い。ご飯を大盛にしてたっぷりルーをかけて席につくと、先に食べはじめていた父さんが話しかけてくる。

「母さんは今日も残業で、かなり遅くなるらしいよ」
「へえ、最近ずっとじゃん。繁忙期ってやつ?」
「そうそう。もう少しすれば落ち着くらしいけど」
父さんは眼鏡をはずして、顔の汗をティッシュで拭いている。
「そっちは、そういうの無いの」
「父さん? まぁ締め切りがあるから忙しいときはもちろんあるけど、たぶん母さんほどじゃないかなぁ」

ふーん、と答えつつ、香ばしいカレーを大口で頬張る。翻訳家というのがそういうものなのか、父さんだけなのかはよく分からない。

「遥樹は? 最近どうなの」
「んー、体育祭も終わったし、あとはもう受験まで特に何もない」

受験も、学校推薦枠で行くところはほぼ決めているのであまり忙しくはないのが本音だ。論文の対策とかは一応しているが、どちらかというと学校生活を問題なく、試験もちゃんとした成績で終えることの方が大事らしい。

「忙しくないか。じゃあ、閑散期だな」
父さんが納得したように頷く。閑散期。特に忙しくない時期の事をいうなら、三年生になってからずっとそうだと思う。カメラを触らなくなったら、途端に時間が余るようになってしまった。
「そういえば、写真は?」

何の気なしの口調で聞かれた。誤魔化すように二口、カレーを口に放り込む。痺れるみたいな辛みが舌の上で暴れて、言葉をかき混ぜていく。

「まぁ、ぼちぼち」
「そっか。まぁ、楽しいのが一番だからなぁ」

息子が最近カメラから離れていることは、たぶん知っているだろう。うん、と言いながらそれ以上話したくなくて立ちあがり、水道水を雑にコップに注いで飲む。
「水、父さんにもくれ」
その辺に出しっぱなしになっていたマグカップに水を入れて渡すと、父さんはそれを一気に飲み干して、辛い辛い、と自分の舌を手で仰ぐようにしている。

ベッドに寝転んでいたが、ちっとも眠くならない。
俺は諦めて起き上がって電気をつけ、パソコンを立ち上げる。高校に入ってから買ってもらったちょっといい機種で、これにはいままで撮った写真のデータが移してある。カメラは有名メーカーの一番安いミラーレス一眼で、必死にバイトをして一年の冬に買った。それも今は、机の上に置きっぱなしになっている。

昼間、三嶋と写真の話をしたからか、久しぶりに自分の撮ってきたものを見返してもいいような気がしていた。データを開くと、放課後の校庭で撮影した同じような構図の写真が大量に出てくる。遠藤先生も先輩たちも、とにかく納得いくまで何千枚でも撮るという主義だったから、自分もそれにならって同じ場所で納得のいく写真が撮れるまで粘っていたのだ。

そんなに前のことじゃないのに、なんだか懐かしい気持ちになってくる。ずっとさかのぼっていくと、陸上部の写真が多いのが嫌でも分かる。棒高跳びや幅跳びやハードルなどは、特に画になるから好んで撮っていたのだ。でもその中で、ただ走っているだけの長距離走者の写真も同じくらいある。理由は、自分には分かっている。

ふと、マウスをクリックする手が止まった。

夕陽を背にして、一人で走っている男の姿を撮影した白黒の写真。それから、同じ男を中心にして、何人かが水を飲みながら笑い合っているカラー写真。自分の写した写真の中で、三嶋はいつもアスリートの顔をしていた。

一年生の頃からたくさんの選手や部員たちをカメラ越しに見てきたが、彼はなぜか、とても目を惹いた。三嶋が走る姿は、楽しそうでもないし、特別苦しそうでもなかった。でも全てを受け入れたような不思議な目をしていて、それがなんだか分からなくて目が離せなくて、つい何度もシャッターを切っていた。気が付くと、彼を捉えた写真は自然と増えていった。さすがに、先生や先輩たちとの講評の場に彼の写真を出したのは一度くらいだったと思うが。

ファインダー越しに見ていたあの顔が、へらへら笑いながら目の前に現れたのが今年の春だ。先輩たちが卒業して自分だけになった部室に、あいつは突然現れた。

「走るのに限界を感じちゃったっていうかぁ。写真もいいなって、ずっと思ってたんですよね」

そう言った男を、俺は信じられないものを見る目でみつめていたと思う。背が高くて整った顔をしていて、黙っていたらかなりモテそうなその男は、まるで昔からの知り合いのように馴れ馴れしい口をきく。

「先輩、ずっとオレたちのことも撮ってたじゃないすか。でもその写真、ほとんど見たことないなって思って。オレも写真部になったんで、見せてくれません?」

は? と思わず愛想の欠片もない声が飛び出てしまった。

「絶対嫌だ。あと、俺はもう写真は撮らないから」

今度は三嶋が、信じられないものを見るように目を丸くした。驚くとそういう顔をするのか。初めて見たかもしれない。

「え、撮らないって。マジで? それ、写真をもう撮らないってことですか?」
「写真以外に何があるんだよ。お前とは思わなかったけど二年生と、あと一年生の入部希望者がいるって聞いたから、一応部として残しといてやるために俺は所属してるだけだから。だから、俺には何も期待すんなよ」

カメラ越しには見ていたとはいえ、ほぼ初対面の人間にそんなことを言われたら普通はおかしい先輩だと思って近寄らないだろう。それなのに、翌日から三嶋は放課後になれば俺を探して声を掛けて来るし、付きまとってくるようになった。

会った時のことをつい思い出してしまって、苛立ちが増してくる。パソコンの電源を落として部屋の電気を消し、ベッドに勢いよく横になった。

「なんで写真部なんだよ。馬鹿じゃねえの」

大きめの独り言が、思ったよりもぐわんと部屋に響く。
あいつが走る姿が、ずっと好きだった。
それはもう、自分にとっては誤魔化しようのない事実だ。どこか遠いものを見つめる顔をして必死に地面を蹴っていた男が、それをすっぱりと辞めてしまったのが今でも信じられない。俺は暗い部屋の中で、カメラのレンズが窓から入る灯りで鋭く光っているのをじっと見ていた。


今日こそさっさと帰ろうと思ったのに、雨宮先輩~!と呼ぶ大声が背後から聞こえて、がっくりと肩が下がるのを感じる。

「今日は部室に中山ちゃん来るって言ってたんで。部室行きましょ」
「おい、引っ張るな。肩を組むな。体重をかけるな! 重い!」

肩に腕を回されて、そのままぐいぐいと部室の方に引っ張っていかれる。途中ですれ違った同級生たちには笑われるし、三嶋の方は、フンちゃん相変わらずだねぇ、とか、フンちゃん今度遊びに行こー、などと声を掛けられて、それに愛想よく笑って応えている。

「フンちゃんってなに。あだ名?」
「オレが、雨宮先輩の金魚のフンってことらしいっす。略してフンちゃん」
「あ? 悪口じゃん」
「あれ、先輩怒ってくれんの? やっさしー。でもねぇ、フンちゃんって言いだしたの、うちの部員なんすよねぇ」

ガラ、と部室の扉を開けると、すでに一人の女子が机の上にカメラを置いて座っている。

「お。雨宮先輩お久しぶりです。フンちゃん先輩は、別に久しぶりじゃないですね」
「あー、フンちゃんとか言い出したのって中山?」

ハァ、まぁ。と中山は一年生とは思えない落ち着き具合で答えながら、ポニーテールを揺らして頷く。

「あの、言っておきますが。別に故意に広めてはいないですよ。私が呼んでたのが、いつのまにか勝手に広まってただけで。三嶋先輩は元々有名人なんで、それでじゃないですか」

隣に立っている三嶋に視線を向けると、何か? というような顔をされる。

「お前、有名人なのか」
「あー。中学の時に長距離でちょっと成績良かったんで、それですかねぇ。でも昔の話ですって。で、中山ちゃんは今日はどうすんの? 屋内?」

知らなかった。中学からずっと長距離でやってきたのに、なんでそんなにあっさり辞めたんだ。聞きたい気持ちはますます膨らんでいくが、でも自分がそんなことを聞くのもおかしい気がして、結局は黙っていた。
小柄な中山が立ちあがって、手の中で鍵をちゃりちゃりと鳴らす。

「今日は、ついに屋上に行ってみようかと。先生の許可もちゃんと得てますし」

彼女はスナップやポートレートにはあまり興味がないらしく、もっぱら一人でマイペースに風景や動物を撮っている。ここの屋上からの景色を撮ってみたいのだろう。
「おおー、さすが中山ちゃん。しっかりしてんねぇ」

中山は少し考える顔をしてから、あの、と口にする。

「よかったら、先輩たちも来ますか。屋上」
「え、いいの? てかごめん、オレは言われる前から行く気だったわ」
ねぇ先輩、と三嶋がこちらを振り返る。
「でも中山の気が散らないか? 俺はどっちでもいいけどさ」
どうせ自分は、写真は撮らない。せめて後輩たちの邪魔にはなりたくなかった。
「いえ、せっかく先輩二人が揃ってるので。久しぶりに、部活っぽいし」
中山の唇が、むに、と変な形に歪んだ。たぶん、微笑みそうになるのを堪えたのだろう。不器用だが、これでも喜んでいるのかもしれない。もしそうなら、部活っぽいことをしてやれていないことに、なんだか少しだけ申し訳ない気持ちになる。

三嶋は誰もいない放課後の屋上でひとしきり走ったり騒いだりしてはしゃいだあと、中山を見習ってカメラを熱心に構えだす。手持無沙汰な俺は、遠くに見える山の上に薄く雲がかかっているのを眺めた。陽はまだ傾いてくる前で明るい。晴れた空の下で日差しは暑いが、強めの風が涼しくて気持ちよかった。

「撮りたくなりました?」
すす、と三嶋が近寄ってきてへらへらと笑う。
「うるさいな。お前の見せろよ」
「お、やった。じゃあこれとか。これとか。結構よくないですか?」

雲間から光が落ちる街並みを撮った写真は、確かにいつもよりも画になっている気がした。

「まぁ、前よりはいいんじゃない。お前も、風景の方が向いてるのかもな」
「え、ほんとですか! やったぁ。じゃあこっち方面なら、俺も写真甲子園出られるんじゃないですかね」

思わず俺は黙り込む。
浮かれたような三嶋の声に、イライラと黒い気持ちが湧き上がってくるのを感じる。でも、いまこの気持ちをこいつにぶつけても仕方ない。中山が、それはどうですかねぇ、と言いながらこちらに戻ってきた。

「勝つ写真って、なんか写真甲子園っぽい写真なんですよね。風景とかは、あんまりそれっぽくないっていうか。私も風景とかが好きなんで、写真甲子園にあんまり興味ないのもそれが理由で」

中山は確かに身近にあるものを撮っていることが多いようだった。なんでこれを撮ったんだ? と思うものも多いが、彼女にとってはそれが大事なものなのだろう。
「風景じゃなかったら、どういうのがそれっぽいの」
三嶋の質問に、中山はこちらをちらっと見たが、俺が黙っているので自分で説明し始める。

「私が見た感じだと、やっぱり人物じゃないですかね。ポートレートとか、逆に動きがあるものとか。生活とかが画面から見えるような感じっていうんですかね。ちょっと、口で説明するのは難しいですけど」
「写ってる人のその人っぽさが、見てわかる写真ってこと?」
「まあ、ざっくり言えばそうですかね。三嶋先輩、そういうの撮れます?」
「わかんないけどさ、まぁやってみなきゃわかんなくない? あ、ねぇ雨宮先輩、ちょっと撮らせてくださいよ」

三嶋の持っているカメラのレンズが、俺に向けられる。俺は首を振って顔をしかめた。

「やめろよ。いま撮られたくないから」

ふと、思い出したくないことを思い出しそうになる。背を向けて二人から離れると、三嶋がいつもの調子で笑いながら、いいじゃないですかぁ、と追いかけてきた。

「ね、先輩。一枚だけでいいんで。撮らせてくださいってば」
「やめろって。おまえしつこい」

肩に触られる。それを振り払おうとすると、三嶋は俺の手を避けて前に回り込んできた。

「ほら、こっち見て。ね、笑ってくださいよ」

三嶋の顔が消えて、レンズの目だけが冷たく俺を見ていた。背中に、冷たい汗が流れた。喉が詰まったようになって、息が浅くなる。

そうか、と唐突に分かった気がした。俺を憎しみの籠った目で睨みつけたあの人も、きっとこういう気持ちだったんだろうな。

「やめろって!」

気付いた時には、大声を出していた。
三嶋のびっくりした顔が見えたが、呼吸が浅くて何も言えない。心臓が高く鳴っていて、暑さのせいじゃない汗が額から目に垂れてきた。

「その、すいません。オレ、そんなに嫌だって知らなくて」

慌てたような声が、ぼんやりと遠くから聞こえる。肩に触れてくる手を振りほどいて、目の前の男の顔を必死で見た。戸惑ったような顔は、なんだか泣きそうに見えた。なんだよそれ。いま泣きたいのは、俺の方なのに。

「……お前には、撮られたくない」

理不尽さに耐えられなくて、黒い気持ちが口から溢れてしまう。

「ちゃらちゃらして、遊びで撮ってる奴に。撮られたくない」
すう、と音が消えた気がした。校庭で練習している野球部の声が、風に乗って聞こえてくる。ボールを打つ高い音が響く。

「俺だって、遊びのつもりじゃないです」

三嶋の声は、聞いたことのない低い音だった。

「まだ下手だけど。オレ、先輩とちゃんと写真やりたいし。先輩が真剣にやってたのも知ってるから。だからオレなりに考えて、どうしたら先輩がまた撮ってくれんのかなって」

カッと、頭に血がのぼる感覚がした。

「それならもっと必死にやれよ! お前、俺たちがどんだけ時間かけてやってたか見てたんだろ? この間だって、時間だからってさっさと帰りやがってさ。結局、写真はお前にとってその程度ってことなんだよ。陸上に未練があるなら、戻ればいいだろ!」

三嶋の顔は怒りのためか、見たことのない無表情になる。

「陸上は、もう辞めたんです。そんな風にオレにばっかりいうけど、先輩だって、ずっと撮ってないじゃないですか!」
「俺が撮るかどうかは、お前に関係ない! 放っておいてくれよ!」

三嶋が何か言いかけたが、そのまま黙り込む。握り込まれた彼の拳が身体の横で震えているのを目にしながら、ずっと横で固まっている中山に顔を向ける。

「ごめんな中山。こんな先輩たちで。先、帰るわ」

逃げる様に屋上をあとにして、ほとんど走るようにして駅まで向かう。改札に飛び込んで、それから耐えられなくなってトイレに駆け込んだ。
個室の鍵を閉めると、涙が溢れてくる。情けなさと、怒りと、申し訳なさと、悔しさ。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って胸を抉って、俺は声を殺してしばらく泣いていた。


写真を撮れなくなったのは、写真甲子園で惨敗したからじゃない。あの後も、先輩たちと一緒にたくさん撮ったし、大会は悔しかったけど、初めて北海道に行けて楽しいこともあった。あっという間に先輩たちが卒業して春休みになって、写真部は俺ひとりだけになった。部の活動は三人以上じゃないと維持できない。これから新入生が入部してくれるかは分からなかったけど、今まで以上に俺が頑張らないといけないと思った。

だからなんでもいいから、キャッチ―で、みんなが見て凄いと思う写真を撮りたい気持ちが強かったんだと思う。春休みは、いろいろなところに出かけて写真を撮った。その日はこの辺りで一番賑やかな繁華街で題材を探した。夕方近くなって腹が減ってきたからファストフード店に入って、窓に面した席でポテトをつまみながら目の前の横断歩道にカメラを向けていた。

その人に気が付いたのは、しゃがんでいるその人につまずいて、誰かが転びそうになったのが目に入ったからだ。横断歩道の脇の植え込みのところに、女性がしゃがみこんでいた。目の前には、彼女のバッグらしいものが落ちていて、でも女の人はそれを拾うわけでもなく、ただしゃがみこんでいる。よく見ると、彼女は泣いているようだった。時折、手で顔のあたりを擦っている。

横断歩道を、何事もなかったように通っていく大勢の人たちと、ずっと時が止まったようにしゃがんで泣いている女性。俺は、咄嗟にカメラを手にしていた。

横断歩道を渡る人たちを背景にして、女性が一番映える構図を考える。うつむいている彼女の横顔にピントが合うように調整して、何枚かシャッターを切る。その時に俺の頭にあったのは、沢山見てきたいろんな有名な写真家の写真集とか、そういうのに出ているのに近い画が撮れているかもしれないということだった。この写真なら、沢山の人がすごいと言ってくれるかもしれない。

その時、ファインダーの中でずっとうつむいていた女性の頭が、ゆっくり持ち上がるのが見えた。彼女は長い茶色の髪に隠れていた顔を上げて、何かを探すように辺りを見回す。

彼女が座り込んでいることろと店は離れているし、こちらに気づくことはないはずだった。
あ、と思った時には、レンズにぴたりと視線が向けられていた。彼女は憎しみの籠った目で、ファインダー越しに俺を睨みつけた。

驚いて、思わずカメラを落としそうになる。
そのまま俺は、店から逃げる様に飛び出していた。少し離れてから横断歩道の方を振り返ると、誰かが女性のそばに寄り添うようにしゃがんでいるのが見えた。

それからファインダーを覗くと、あの時の彼女の目が思い浮かんで、うまく撮れなくなった。そのうち、写真を撮る気にならなくなって、カメラを手放す日が増えて、春休みが終わる頃には、すっかり写真を撮るのをやめてしまった。

屋上で盛大に言い合いをした日から、三嶋は俺に付きまとわらなくなった。クラスの連中も、フンちゃん来ないね、なんて俺にわざわざ言ってくる。でもさぁ、うざがってたから良かったじゃん、と謎に励まされもして、俺もそれに曖昧に頷いたりしていた。学校には来ているらしいと人づてに聞いたが、放課後は遊びの誘いも断って急いで帰っていくらしい。

何かあったんだろうか。

さすがに気になって久しぶりに部室に顔を出すと、中山がひとりで黙々とパソコンで写真の整理をしていた。やっぱりここにも、三嶋の姿はない。

「三嶋先輩、お母さんの入院がもうすぐみたいで。それで、いろいろあるんじゃないですか」
「え、入院?」

あ、と低く中山が呟く。
「やべ。先輩知らんかったんですね。まぁ、もうバレたんで言いますけど」
中山はノートパソコンを閉じる。俺は中山の近くの席に座った。
「先輩のお母さん、ずっと前から病気で体調悪いらしくて。それで、とうとう大きめの手術をすることになったそうで。でも手術が成功しても、それで普通に生活できるようになるかは確率が半分くらいらしくって。運動部って、拘束時間長いし練習日数も多いじゃないですか。だから家のこととかももっとやらなきゃいけないから、それで辞めたって」

それなら、あの日急いで帰って行ったのも、母親のためだったのか。中山が自分のカメラを机の上で触りながら続ける。

「で、写真だったら隙間の時間とかでも撮れるし、陸上じゃなくても、自分でも何か新しいことがやれるかもって。それで始めたって言ってました」
「……なんだそれ」

そんな事情をずっと隠して、あいつはへらへらしてたのか。しかも、俺には言わずに中山には話していた。そのことも、結構ショックだった。

「詳しいんだな」
「だって、雨宮先輩あんまり部室来てなかったし」

それはその通りだ。二人で会話する機会が多いのは当たり前か。

「うち、まだ小学生の妹と弟がいるんですよ。両親は商売やってて忙しくって。私も姉弟の世話とか、小さい頃から結構大変で。それでまぁ、家の事とかって大変だよね、みたいな話を先輩とすることがあったんですよね」

二人にそんな事情があるなんて、考えたことも無かった。人ぞれぞれにいろんな事情があるのは頭ではわかっていても、自分の日常と違うことを想像するのはすごく難しい。
俺はずっと、自分のことで頭がいっぱいすぎたのだ。同じ部活の仲間のことも、いつもあれだけ自分を気にしてくれていた後輩の事情も、何も考えていなかった。中山が俺の顔を見ながら、小さく首を傾げるようにする。

「なんで俺には言ってくれなかったんだろうとか思ってます?」
「お前、エスパー?」
「違いますけど。まぁ三嶋先輩も、雨宮先輩には言いにくかったんじゃないですかね」
「なんでだよ」
「あるじゃないですか。男子のそういう、好きな子には特にカッコつけたいみたいなやつ。自分のそういう話、先輩にはしたくなかったんじゃないですか」
「カッコ悪い話をしたくないのはわかるけど。好きな子はいま関係ないだろ」

まぁなんでもいいですけど、と中山はちょっと馬鹿にしたような、同情するような目を向けてくる。

「話してくれないなら、聞いてみたらいいんじゃないですかね」
「……そうだな。そうする」

いまままで、あいつの存在に甘えすぎていたことにようやく気付いた。いまからでも、少しは先輩らしいところを見せてやりたい。俺だって男だし、男子はいつだって格好つけたいのだ。特に、好きな子には。
中山は、くふ、と鼻を鳴らすようにして笑う。

「素直じゃん」
「おい、タメ口やめろって」
「はい。すいません」
ふふ、と笑いながら頭を下げた彼女のポニーテールが揺れる。彼女につられるように、いつの間にか俺も小さく笑っていた。


深夜に目が覚めてキッチンに水を飲みに行くと、母さんが眠そうな顔で飯を食っていた。まだ仕事から帰ってきたままの、シャツとスーツのスカート姿だ。

「おかえり。すごい遅かったね」
「ただいまぁ。いやー、いまだけなんだけどねえ。これを乗り越えたら、さすがにこの時間までの残業はなくなるわ。今日もタクシー使っちゃったしさぁ」

つっかれたぁ、と言いながら父さんの作った牛丼をもそもそ食べている。俺は冷蔵庫から漬物を出してテーブルに置いてやる。ありがとぉ、と笑う母さんの目の前の席に座って水を飲む。

「あのさぁ、なんでそんなに頑張ってんの。疲れるし、大変じゃん」

今は大丈夫そうに思えても、いつか誰かが病気になることだってあるのだ。中山から三嶋の母親の話を聞いて、ふとそう思った。母親も父親も自分も健康でいられるのは、実は結構ありがたいことなのかもしれない。
「まぁねぇ、大変だけどさ。でも自分がやりたくて入った業界だし、好きな仕事だからね。それに大変なだけじゃないよ。いまチームで仕事してるんだけどさ、みんなと頑張った経験は、今後にも活きるからね。もし今回の結果がイマイチでも、次に活かせれば問題なし」
「ふーん。なるほどね」

ごちそうさま、と箸を置いて、母さんはグラスに入っている麦茶をぐびぐびと飲み干す。

「チームにはね、あんたとお父さんも当然入ってるよ」
「え、そうなの?」
「うん。家族もチームだもん。私が忙しい時、いつも家のこと沢山してもらって、ありがとうございます」

両手を合わせて拝むようにされて、むず痒くなる。
「まぁ、父さんはそうかも。俺は別に、家のことも学校も、特に頑張ってないし」
「そうかなぁ。あんまり最近写真撮ってないとか、そういうこと言ってる?」

知っているとはおもったが、まっすぐに言われてちょっとたじろぐ。

「まぁ、それだけじゃないけど、それもある」
「でもさ、毎日いろいろ考えてるわけでしょ? いまは写真を撮ってないかもしれないけど、でもそれも経験じゃないかな」
「撮ってなくても?」
「撮ってない、っていう状態をやってるって思えばいいんだよ」
「なにそれ。そんなんでいいの」
「いいのいいの。人生経験だよ、なんでも」

母さんは立ち上がってシンクで食器を洗いながら話す。
「母さんさ、あんたを産むより前に、仕事続けるか悩んだときがあってね。で、そのときに父さんに言われたんだよね。道はひとつじゃない、僕が一緒にいるから、一緒にこれから考えようってさ。それでいろいろあって、いまこうしていられるわけ」
「へぇ。父さんやるね」
「でしょ? ああ見えて、結構カッコイイんだよ。辛い物はずっと苦手だけどね」
あはは、と笑いながら母さんが水を止めて手を拭いている。でも辛い物が苦手なのに、母さんや俺の好みのために辛いスパイスカレーを作ってくれるんだから、やっぱりそれもカッコイイことだと思う。


次の日、登校途中の電車に揺られながら、こっちから連絡したことのなった三嶋のスマホにメッセージを入れた。

『いろいろ聞いた。ちゃんと話したい』

無視されるかなと思ったが、すぐに返事が来る。

『今は忙しくて、放課後はちょっと行けないです。すいません』

断られるだろうとは思っていたので、次の文章をすぐに打つ。

『少しでいい。昼休みなら空いてるか?』
『先輩がそこまで言うの、珍しいですね』
『お前と話したくて、必死だから』
少し間が開いてから、返事が返ってくる。
『わかりました。昼休みなら空いてます』

困ったように垂れ目を下げて笑う顔が、目の前に見える気がした。


図書館の外の渡り廊下に足早に向かうと、三嶋の方が先に着いていた。購買の焼きそばパンを渡してやると、よく買えましたね! と驚かれる。人気のパンで、すぐになくなるのだ。相変わらずへらへらしているが少しだけ、顔がやつれているようにも見える。

「うん。チャイムが鳴ってから走った」
「わざわざ走ったんですか? あー、でも先輩、写真撮るときとかも結構走ったりしてましたよね」
「俺、体育の成績はいい方だよ」

普通の会話が出来て、内心かなりほっとしていた。喧嘩のような言い合いをした後で、どんな顔をすればいいのかわからなかった。せめて謝りたくてパンを買ってきたのだが、三嶋はそこまで気にしていなかったのかもしれない。焼きそばパンに噛り付いている後輩と並んで、渡り廊下の板の上に座る。頭上は陽が遮られているが、昼間の日差しで肌は暑い。
俺は生徒が数人遊んでいる校庭に目を向けながら口を開く。

「俺、少し前に撮影でやらかしたんだ。それから、写真を撮るのが怖くなった。いまも、ずっと怖い」

言葉にしてしまうと、これだけなのが自分でも意外だった。でも、たった一言に収まるこの気持ちで、ずっと苦しかった。

「写真は、どこかにあるいいものを見つけて写すんだってずっと思ってたけど。でも本当は、自分がそこに映ってるんだよな。俺はみんなに褒められたりとか、たくさん見てもらえるものを撮ろうって思ってたけど、でも写真で見られてるのは俺自身なんだって気づいて、それですごく怖くなった。俺がこんな情けない奴だってこととか、認められたいって思ってこととか、そういうのが写真で全部見透かされるんだって思ったら、それから何も撮れなくなった」

三嶋はずっと、黙って聞いてくれている。沈黙が心地いいと思ったのははじめてだった。

「お前にいろいろアドバイスみたいなこととか、酷いことも言ったけどさ。俺に、そんなこと言える資格は全然ないんだよな。お前に頼られて、それにずっと甘えてたんだと思う。だから、ごめん。この間の事も、悪かった」

三嶋は校庭のほうへ投げ出していた脚をずるずると立てて、膝を両腕で抱えるようにする。それから、深いため息をついた。

「先輩がそんな大事なことオレに話したら、オレも話さないといけなくなるじゃん」
「俺が謝りたかっただけだから。お前に無理にとは言わない」
「うっそぉ。今日の先輩かっこよくてやだぁ」

あーあ、と諦めたように呟いて、三嶋はぽつぽつと話しだす。

「中山ちゃんから聞いたかもしれないですけど、うちの母親ずっと病気で、いまも治療中で。もうすぐ大きい手術があるんですけど、それで治るかは分かんないって言われてて。治ったとしても体力が戻るか分かんないし、仕事とか家事とかも難しいかもしれなくて」
うん、と短い相槌だけを返す。
「でも、こんなこと友達に言っても困らせるだけでしょ。オレだって、急にそんな重い話しされたら困ると思うし。……だから陸上も、辞めたいわけじゃなかったけど、家のこともあるし。母親が必死で頑張ってて、親父だって仕事と家のことで大変なときに、俺だけ、好きなことばっかりやってるわけにはいかないって。そう、思ったから」

三嶋はちょっと言葉に詰まって、ぐず、と鼻をすする。それから、気を取り直したように明るい声で続ける。

「オレ走ってるとき、雨宮先輩が写真撮ってる姿を見るのが、すごく好きだったんです。長距離ってずっと孤独だけど、もしかしたら先輩みたいな誰かが一生懸命見てくれてるのかもって思ったら、すげえ元気でるっていうか、嬉しくて。どんな風に写ってるのかなとか、どういう気持ちで撮ってくれてんのかなとか、いつも想像してました。だから陸上辞めたあと、あ、写真やろう、ってなんか自然に思ったんですよね」

あ、そうだ、と言いながら三嶋は自分のスマホを取り出す。

「先輩に言われたから、スマホですけど写真たくさん撮ってるんですよ」
画面を見ると、彼の地元らしい駅や町や、身近なものが沢山写っていた。夕食の乗ったテーブルに、病室で笑っている母親に、見舞いでこいつが買ったらしい花もある。どれも、映っているのはいまの三嶋を作っているもの、そのものだった。
「いいと思う。お前らしくて」
「あ、はじめてちゃんと先輩に褒められたかも」

後輩は、照れくさそうに笑っている。

「俺も、お前の走ってる姿が好きだ。走ってるお前は、別に楽しそうじゃなかったけど、全て受け入れてますみたいな、世界背負ったみたいな顔してた。それがいつも不思議でさ。どうしてもお前に目がいっちゃうんだよな」
「えー? そんな顔してたかなぁ」

三嶋は、泣き笑いのような顔をする。俺は、隣に座っている男に静かに言う。

「なぁ。考えないか」
「え? 何をですか」

道は一つじゃないと言った父さんの言葉を、母さんが教えてくれた。陸上か写真か。どちらかに拘ることなんか、本当はないんだと思う。
「お前さ、まだ走りたいんだろ。だったら、一緒にどうにかしよう」
三嶋は少し迷ってから、小さく頷いた。体は大きい癖に、いま俺の隣で迷いながら、どこか泣きそうな顔をしているこの男は、俺が見つめ続けた光だ。こいつの為に、何かをしてやりたい。


職員室にいた陸上部の顧問のところへ二人で行くと、顧問はこちらが話し出す前に、やっと来たか、と安心したように笑った。
「え、オレがそのうち来るって、ずっと思ってたんですか?」
「うん。遠藤先生に言われてたんだよ。三嶋は、陸上に戻りたいって言うかもしれないから、退部扱いにするのを少し待っててやって欲しいって。俺も、お前があのまま辞めるのは惜しいと思ってた。だから、休部ってことにしてある。お前の家の事があるのは知ってるよ。だからたまにでいい。都合がいい時に、また走りにこいよ」

待ってるから。そう言われて肩を叩かれて、三嶋は泣きそうに顔を歪め、ありがとうございます、と頭を下げた。

「オレ、部のみんなにもちゃんと話します。説明しないで辞めたから、みんなにも心配かけちゃったと思うし。連絡もきてたのに、あんまり返せてなくて。最初から、ちゃんと話せば良かった。カッコつけてないで謝って、ちゃんと自分で説明します」
背筋を伸ばしてそう話す三嶋は、いままで見た中で一番格好よかった。俺は彼の背中にそっと手を添える。彼の背中は、陽だまりのように暖かかった。

ああ、いま。写真が撮りたい。
本当に久しぶりに、心の底からそう思った。

こいつが一生懸命に生きてる姿、それを、ずっと残しておきたい。それから三嶋だけじゃなくて、俺のそばにいてくれるみんなを撮りたい。母さんや父さんや、中山や遠藤先生。俺の身近な人たちみんなを大切にするように、そういう写真を、俺も撮ってみたい。
自分の大事な世界を残すためのもの。それがきっと、自分だけの写真になる。大した根拠もないのに、俺は強く、それだけを思っていた。


校庭でカメラを構えていると、遠くから雨宮先輩~、と間の抜けた声が呼ぶ声が聞こえる。顔をあげると三嶋がジャージにTシャツ姿でこちらに走ってくるところだった。よ、と手を上げて挨拶すると、相変わらずへらへらと笑う。

「今日は大丈夫なのか」
「はい、今日はばあちゃんが来てくれる日で。でもそろそろ帰らないといけないですけどね。あれ? あそこにいるのって中山ちゃんですか?」
「うん。最近は人物写真にも挑戦してみる気になったんだと」
「へー。めっちゃ頑張るなぁ。ますますオレも負けてられないっすね」

三嶋は結局、陸上部も写真部も兼部することにした。家の事があるからどちらにしてもフルで活動することはできないが、どちらの部もそれを承知の上で、出来るときだけで無理なく参加していくことにしたらしい。だから大会に出たりするのは難しいが、三嶋はみんなと走れているだけで満足らしい。

写真部も少し変わった。スマホで遠藤先生も入れたグループを作って、そこに自分のとっておきの写真をあげていくことにしたのだ。これなら放課後に活動するのが難しい三嶋も、時間がある時に写真を撮ってみんなに見て貰える。これを発案したのは中山で、中山ちゃんさすがだねぇ、と三嶋に褒められていた。

「あ、先輩。今度の日曜って予定空いてます?」
「特にないけど。何」
三嶋は垂れ目を下げて笑う。
「やっぱり近いうちに、俺もカメラ欲しくて。いっしょに見に行ってくれません? 詳しい人がいた方が絶対いいと思うし」
「いいけどさ、資金はあるのか?」
「それはこれから考えます! まずは下見ですよ下見」
それならネットでもいいと思うが、でも現物を触ってみるのも大事だなと思い直した。
「いいよ。宝の持ち腐れにならないようにちゃんと見てやる」
「よっしゃ! 絶対ですからね!」

しつこく念を押してくる男に生返事をしていると、遠くから三嶋を呼ぶ声がした。彼はふと、顔をそちらに向ける。その横顔が、夕陽に映えて綺麗だった。思わず、俺はカメラを構えてシャッターを押す。画面の中の男は、どこか清々しい顔でそこに佇んでいた。横顔の瞳に、夕陽が当たって綺麗だった。

「あ、いま撮りました?」
「うん。お前の目って、薄い茶色なんだな」

知らなかった。そう言うと、後輩は一瞬目を見開いて、それからげらげら笑った。

「そんなところまで見るなんて、先輩のえっち!」

蹴るマネをすると、それをひょい、と避ける。じゃあまたね先輩、と俺に手を振って、そのまま呼ばれた方へ走っていく。駆けていく背は、しなやかに地面を蹴って、みるみる遠ざかっていく。
ずっと見つめ続けた、光のようなその姿に向けて、俺はもう一度シャッターを切る。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:8

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

靴が無い
/著

総文字数/3,063

青春・恋愛1ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア