あ。と声を出して立ち止まると、三嶋が俺の背中にぶつかって、いてぇ!と大きな声を出した。
「なんすかもー先輩! 急に止まらないでくださいよぉ」
「そんな近くを歩いてるからだろ。本、忘れたから教室戻る」
そこどいて、と振り返って手で追い払う動作をすると、俺より背の高い男はしぶしぶといった様子で脇に避ける。ぶらんぶらんと不満そうに揺れている半袖のシャツから覗いた腕は俺の腕と違っていい色に焼けていて、外で過ごした時間の長さを感じさせた。
「今日も図書室? ねー、部室にも来てくださいよ」
「うるさい。行かないって言ってんだろ」
「えー、カワイイ後輩もいるのに?」
「中山のことか? まぁあいつ、小柄で見た目は確かに結構かわいいけどさ。マイペースすぎてちょっと可愛げないっていうか。まぁ一年であれは逆にすごいけど」
「ちがうちがう! 俺オレ! 雨宮先輩の可愛い後輩、二年一組の三嶋暁斗がここにいるでしょうよ」
素っ頓狂な声に、通りかかった女子二人組がこちらを振り返り、クスクス笑っている。くそ、恥ずかしいな。隣でにっこり笑って女子たちに手を振って愛想を振りまいている男を、じろりと睨む。
「声がデカい。とにかく、受験生に絡むな。写真は一人で撮れるだろ。……あれ、お前カメラは?」
「あー、まだ職員室です。先生忙しそうだったから声かけにくくて」
二年から写真部に入ったばかりのこいつは、まだ自前のカメラを持っていない。部の備品のカメラはエントリーモデルだけどちゃんとしたメーカ―品で、そこそこ高価なものなので写真部の顧問が管理している。
「あのさ、最低限カメラは持ってこいよ。それで、俺を追いかけてる暇があるなら一枚でも多く撮ればいいだろ。撮った数が実力になるって遠藤先生も言ってる」
「じゃあ先輩も」
「俺の話はしてない」
むむ、と口を尖らせている男の顔を見上げて、一言つけ足す。
「おまえ、下手くそなんだから。それくらいすれば?」
我ながら口が悪いと思う。でも、いつもいつも、放課後になるとこうして追いかけ回されるのも、いい加減飽き飽きしていた。去年までいつでもカメラを持っていた自分を知っている人は驚くかもしれない。
でも、写真はもう、撮りたくない。
三嶋は、ぴたりとその場に立ち止まる。先輩、と呼びかけてくる声を無視して、スタスタとまるで地面が自動的に進んでいて止まれないかのように、ひたすら足を動かした。窓からまだ明るい日がさしていて、廊下に伸びている三嶋の影がうつむいた視線の中で遠ざかっていく。
図書室の気に入っている席に先客がいたので、仕方なく窓際の空いている席に座る。しん、と静かな空気の中で、ようやく落ち着いて参考書とノートを広げた。
だが窓際の席は、どうしても外からの声が聞こえてくる。野球部の掛け声、サッカー部がボールを回すにぎやかな声に、時々鳴らされるホイッスル。初夏とはいえ、もう十分真夏のように暑くて、外で活動しないといけない部は大変だなと思う。
でも二年生までは、自分もあの校庭にいたのだ。
運動部の邪魔にならないところにしゃがんだり三脚をたてたりして、真夏の暑い時は帽子を被って、冬の木枯らしが厳しい時はコートの下にカイロを貼ったりして、長い時間外にいた。あの頃は日焼けしていたから、夏休みに久しぶりに会ったばあちゃんに、遥樹は運動部に入ったのかい? と聞かれたりもした。
でも去年の秋の終わりくらいから、カメラはほとんど触っていない。もともとそんなに黒くなる方ではないから、日焼の跡はもうほとんど消えている。
「だめだな」
せっかく図書室に来たのに、今日は集中できない。くそ、あいつのせいだ、と心の中で責任転嫁しつつ、窓に掛かっているレースのカーテンを少しだけ開ける。
快晴の空が見えて、校舎の影が明るい校庭に長く伸びていた。気持ちの良い、夏の風景が目の前に広がっている。あの校舎の影の中にいるサッカー部員たちを、青空が入るように撮ったらいい写真になりそうだ。三嶋が、こういう空の下を走っている姿もきっと絵になるだろう。そう思ってから、胸の奥が掴まれたように苦しくなる。
撮らないって、決めた癖に。
それに、三嶋はもう陸上部員じゃない。よりによって、写真部に入ってくるなんて。
机に目を伏せた時、コンコン、と窓を叩くような音がした。はっと顔を上げると、窓の外に誰かが立っている。三嶋だった。窓の外でいたずらをする子どものような顔で笑いながら、せんぱい、と口が動いている。シャ! っとカーテンを閉めると、コンコンコンコン! と何度も窓を叩いてくる。すごくうるさい。しぶしぶ、窓を少しだけ開ける。
「こっちは図書室なんだから静かにしろって。迷惑だろ」
窓のすぐ外の花壇の縁の上に立っている三嶋は、こちらの言葉を無視して手にしていたカメラを見せる。
「ほら見て、ちゃんと借りてきたんで!」
「そうか。良かったな。頑張れよ」
窓を閉めようとすると、ちょっと! と外から押さえられる。
「良かったな、じゃなくて! 俺の写真も見てくださいよぉ」
元運動部だからか、こいつは声が大きい。周りの視線が痛い。顔を窓の外に出すようにして、小声で文句をいう。
「だからうるさいっての。なんで俺なんだよ。遠藤先生に見て貰えばいいだろ」
三嶋は垂れ目を見開くようにしてから、口をへの字に曲げる。
「雨宮先輩だって、先輩たちにいろいろ教わったり、一緒に写真撮ったりしてたでしょ。俺ずっと見てましたし。いまは俺だって写真部員だし、先輩に見てもらう権利あるんじゃないですか? 俺だけ見て貰えないの、不公平じゃん」
確かに。と、つい思ってしまった。
三嶋は、元々陸上部の長距離走者だった。自分たちが三嶋たちの姿をファインダー越しに見ていたように、必死になって写真を撮っていた頃の自分や卒業した先輩たちの姿も、こいつに見られていたのだろう。当然と言えば当然だが、あれを見られていたのかと思うと少し恥ずかしくなってくる。
「……そこで待ってろ。でも俺は撮らないぞ」
よっしゃあ! と窓の外で三嶋がガッツポーズをしている。だからうるさいって。
野球部の練習を少し離れたところで撮影している三嶋を、さらに少し離れた校庭の端の木陰にしゃがんで眺める。やつは撮影した写真を見ているのか、手にしたカメラを眺めて首をかしげたりしているが、その姿はどことなく楽しそうだ。それに比べて、写真を撮るでもなくこんなところにいる自分は、とてつもなく無意味に思える。
「何やってんだろうなぁ」
地面に視線を落とすと、アリすら忙しなく行き来して働いている。黒い小さな生物たちの行方を目で追っていると、砂を踏む誰かの足音が聞こえた。
「若者たち、やってるねぇ」
どこかの民族っぽい柄のロングワンピースにスニーカー姿の遠藤先生は、再任用の美術教員で、写真部の顧問だ。白髪をベリーショートにした髪型と独特の服装で、どこにいてもすぐにわかる。
「やってますね。あいつだけですけどね」
「雨宮はやらないの」
「あー、俺はもういいです」
そうかぁ、と答えただけで、先生はそれ以上何も言わない。三嶋が先生の姿に気づいて、こちらに走って戻ってくる。体力が有り余っているらしい。
「先生、これどうすか」
先生はカメラを受け取って、画面で写真を手早くみている。
「うーん、まだ何ともいえないな。まぁ、もっと撮りな」
「そっかぁ。了解っす」
少し残念そうな顔をしたが、じゃあオレ、サッカー部の方行ってきます、と元気に宣言してカメラを首にかけて走っていく。やっぱり、走っている姿のほうがしっくりきている気がして仕方ない。
「三嶋はやる気あるし、雨宮が見てやったらすぐもっと良くなるよ」
「先生も俺にあいつのこと見ろって言うんですか? 先生が見てやってくださいよ」
先生は片手でワンピースの裾をぱたぱたして足元に風を送りながら、肩をすくめる。
「私は写真は専門じゃないしね。雨宮は三嶋よりも、写真のことよく知ってるでしょ。何かを撮るってのがどういうことかっていうのがさ、自分なりに。何も考えないで撮って、写真甲子園の本選になんて出られないよ」
あれはいい経験させてもらったわ、と先生は笑うが、俺は思わずため息が漏れそうになる。
「あれは組写真ですもん。俺じゃなくて、先輩たちの写真が凄かったんですよ。それに、本番じゃ全然でしたし」
言葉にしながら、忘れようとしていた苦い気持ちがよみがえってくる。
写真甲子園に出てみようかと言い出したのは、その後、地元の美大に進んだ先輩だった。写真甲子園という言葉を俺は二年生のその時に初めて聞いたが、全国の写真部の作品を審査して最終的に二日間の本選期間で優勝作品を決めるというその大会は、たしかに文化系の甲子園のような華々しさがある。
最初に言い出した先輩と二年生で唯一の部員だった自分と、あと何人かの先輩で作った八枚でひとつの作品が初戦の審査を通った時は、みんな信じられない気持ちで大喜びした。
さらにブロック審査を勝ち進んで本選に出られると決まった時は、もしかして優勝できるのではないかと、そんな気持ちでひとしきり盛り上がった。本選は三人一組の参加だから、三年生の先輩二人と二年生の自分で出ることも決まって、俺はものすごく張り切っていたのだ。でも、北海道にわざわざ訪れて参加した本番での結果は、一言で言って惨敗だった。
本選の審査は各学校に同じ環境で同じ課題を出されて、二日間で写真を撮って自分たちの作品を作り上げて提出するのだから実力が問われるものだ。そこで制限時間いっぱいを使ってなんとか作品を出した後、他校の作品を見て、がつんと頭を殴られたような気がした。
どの学校も、うちとはレベルが全然違う。
自分たちのものは作品ですらない。
そう言われている気がして、いたたまれなかった。今この瞬間まで、ちょっと良い写真が撮れているとすら思っていた自分が、ひたすら恥ずかしかった。優勝はもちろん、入賞なんかするはずもなかった。
でもその時はまだ、何よりも悔しさが勝っていた気がする。いい写真を撮って、いつかきっと見返してやりたいと思っていたのだ。
少し風が出てきて、砂が舞ってぱちぱちと顔にあたる。赤い陽が傾いてきて、あと三十分もすれば暗くなるだろう。俺は仕方なく立ちあがり、足元の小石みたいに尖った声で答える。
「俺、写真のことなんか分かんないですよ。分かるわけないです」
先生は、小さく笑ったようだった。遠くにいる三嶋に目を向けたまま、口にする。
「じゃあ、それをそのまま伝えたらいいよ」
「え。分かんないってことをですか」
「そうだよ。それだって、雨宮の経験から生まれた言葉だし」
俺が思わず黙ってしまうと、じゃあ頑張りなさい、と言い残して先生は校舎に戻っていってしまう。先輩! と声がして振り返ると三嶋が走ってくるところだった。
「とりあえず沢山撮ったんですけど。今日やってて、絞りとかの操作がやっと分かってきたのは収穫かも。あ、分かんないでやってたのバラしちゃった」
「おい、分かんないでやってたのかよ。そういうのだったら、別に聞いていいよ」
大きなため息をつくと、でへへ、すいません、と三嶋は垂れ目をさらに下げて笑う。
「で、どうですかね。今日はいつもより良くないですか!」
撮って来た写真を画面上で確認するが、いくら見ても、ピンとくるものが無かった。だから、それをそのまま伝える。
「俺は、あんまりいいとは思えない」
「まじかぁ……。ねぇ、なんかヒント! ヒントください!」
「クイズじゃないんだから、そんなもんないよ」
「なんでもいいんで! 先輩の言葉で聞きたいんですよぉ」
お願い、と拝むポーズをされる。そこまでされて、何も答えないのも気が引ける。
「……たぶん、だけど。何を撮りたいのか、分からないって感じがする。俺もよく言われたけど、撮りたいものの対象に、もう一歩踏み込んだほうがいい、かも」
おお~、と感心したような声を出されて、照れ隠しにカメラを突き返す。
「踏み込む。ぐっと。あと一歩ですね」
「言っとくけど、距離だけの話じゃないからな。なんていうか、撮るものとの心理的な距離っていうか。そういうのも含めてだから」
でもそれが分からなかったのは、俺自身だ。
知ったかぶったような言葉を、心の中でもうひとりの自分が顔を歪めて馬鹿にしている。黒い気持ちが、胸の中にじわじわと広がっていく。
あ、ヤベェ、と三嶋が急に大声を上げて、木陰に置いていた荷物をまとめ始めた。
「オレ、そろそろ帰るんで。あ、その前にカメラ返してこなきゃ。じゃあ先輩、また明日!」
ばたばたとカバンを下げて校舎の方へ走っていく背中を眺めて、俺はまだ暑さの残る校庭にひとりで取り残された。くそ。なんなんだよあいつは。
「なんすかもー先輩! 急に止まらないでくださいよぉ」
「そんな近くを歩いてるからだろ。本、忘れたから教室戻る」
そこどいて、と振り返って手で追い払う動作をすると、俺より背の高い男はしぶしぶといった様子で脇に避ける。ぶらんぶらんと不満そうに揺れている半袖のシャツから覗いた腕は俺の腕と違っていい色に焼けていて、外で過ごした時間の長さを感じさせた。
「今日も図書室? ねー、部室にも来てくださいよ」
「うるさい。行かないって言ってんだろ」
「えー、カワイイ後輩もいるのに?」
「中山のことか? まぁあいつ、小柄で見た目は確かに結構かわいいけどさ。マイペースすぎてちょっと可愛げないっていうか。まぁ一年であれは逆にすごいけど」
「ちがうちがう! 俺オレ! 雨宮先輩の可愛い後輩、二年一組の三嶋暁斗がここにいるでしょうよ」
素っ頓狂な声に、通りかかった女子二人組がこちらを振り返り、クスクス笑っている。くそ、恥ずかしいな。隣でにっこり笑って女子たちに手を振って愛想を振りまいている男を、じろりと睨む。
「声がデカい。とにかく、受験生に絡むな。写真は一人で撮れるだろ。……あれ、お前カメラは?」
「あー、まだ職員室です。先生忙しそうだったから声かけにくくて」
二年から写真部に入ったばかりのこいつは、まだ自前のカメラを持っていない。部の備品のカメラはエントリーモデルだけどちゃんとしたメーカ―品で、そこそこ高価なものなので写真部の顧問が管理している。
「あのさ、最低限カメラは持ってこいよ。それで、俺を追いかけてる暇があるなら一枚でも多く撮ればいいだろ。撮った数が実力になるって遠藤先生も言ってる」
「じゃあ先輩も」
「俺の話はしてない」
むむ、と口を尖らせている男の顔を見上げて、一言つけ足す。
「おまえ、下手くそなんだから。それくらいすれば?」
我ながら口が悪いと思う。でも、いつもいつも、放課後になるとこうして追いかけ回されるのも、いい加減飽き飽きしていた。去年までいつでもカメラを持っていた自分を知っている人は驚くかもしれない。
でも、写真はもう、撮りたくない。
三嶋は、ぴたりとその場に立ち止まる。先輩、と呼びかけてくる声を無視して、スタスタとまるで地面が自動的に進んでいて止まれないかのように、ひたすら足を動かした。窓からまだ明るい日がさしていて、廊下に伸びている三嶋の影がうつむいた視線の中で遠ざかっていく。
図書室の気に入っている席に先客がいたので、仕方なく窓際の空いている席に座る。しん、と静かな空気の中で、ようやく落ち着いて参考書とノートを広げた。
だが窓際の席は、どうしても外からの声が聞こえてくる。野球部の掛け声、サッカー部がボールを回すにぎやかな声に、時々鳴らされるホイッスル。初夏とはいえ、もう十分真夏のように暑くて、外で活動しないといけない部は大変だなと思う。
でも二年生までは、自分もあの校庭にいたのだ。
運動部の邪魔にならないところにしゃがんだり三脚をたてたりして、真夏の暑い時は帽子を被って、冬の木枯らしが厳しい時はコートの下にカイロを貼ったりして、長い時間外にいた。あの頃は日焼けしていたから、夏休みに久しぶりに会ったばあちゃんに、遥樹は運動部に入ったのかい? と聞かれたりもした。
でも去年の秋の終わりくらいから、カメラはほとんど触っていない。もともとそんなに黒くなる方ではないから、日焼の跡はもうほとんど消えている。
「だめだな」
せっかく図書室に来たのに、今日は集中できない。くそ、あいつのせいだ、と心の中で責任転嫁しつつ、窓に掛かっているレースのカーテンを少しだけ開ける。
快晴の空が見えて、校舎の影が明るい校庭に長く伸びていた。気持ちの良い、夏の風景が目の前に広がっている。あの校舎の影の中にいるサッカー部員たちを、青空が入るように撮ったらいい写真になりそうだ。三嶋が、こういう空の下を走っている姿もきっと絵になるだろう。そう思ってから、胸の奥が掴まれたように苦しくなる。
撮らないって、決めた癖に。
それに、三嶋はもう陸上部員じゃない。よりによって、写真部に入ってくるなんて。
机に目を伏せた時、コンコン、と窓を叩くような音がした。はっと顔を上げると、窓の外に誰かが立っている。三嶋だった。窓の外でいたずらをする子どものような顔で笑いながら、せんぱい、と口が動いている。シャ! っとカーテンを閉めると、コンコンコンコン! と何度も窓を叩いてくる。すごくうるさい。しぶしぶ、窓を少しだけ開ける。
「こっちは図書室なんだから静かにしろって。迷惑だろ」
窓のすぐ外の花壇の縁の上に立っている三嶋は、こちらの言葉を無視して手にしていたカメラを見せる。
「ほら見て、ちゃんと借りてきたんで!」
「そうか。良かったな。頑張れよ」
窓を閉めようとすると、ちょっと! と外から押さえられる。
「良かったな、じゃなくて! 俺の写真も見てくださいよぉ」
元運動部だからか、こいつは声が大きい。周りの視線が痛い。顔を窓の外に出すようにして、小声で文句をいう。
「だからうるさいっての。なんで俺なんだよ。遠藤先生に見て貰えばいいだろ」
三嶋は垂れ目を見開くようにしてから、口をへの字に曲げる。
「雨宮先輩だって、先輩たちにいろいろ教わったり、一緒に写真撮ったりしてたでしょ。俺ずっと見てましたし。いまは俺だって写真部員だし、先輩に見てもらう権利あるんじゃないですか? 俺だけ見て貰えないの、不公平じゃん」
確かに。と、つい思ってしまった。
三嶋は、元々陸上部の長距離走者だった。自分たちが三嶋たちの姿をファインダー越しに見ていたように、必死になって写真を撮っていた頃の自分や卒業した先輩たちの姿も、こいつに見られていたのだろう。当然と言えば当然だが、あれを見られていたのかと思うと少し恥ずかしくなってくる。
「……そこで待ってろ。でも俺は撮らないぞ」
よっしゃあ! と窓の外で三嶋がガッツポーズをしている。だからうるさいって。
野球部の練習を少し離れたところで撮影している三嶋を、さらに少し離れた校庭の端の木陰にしゃがんで眺める。やつは撮影した写真を見ているのか、手にしたカメラを眺めて首をかしげたりしているが、その姿はどことなく楽しそうだ。それに比べて、写真を撮るでもなくこんなところにいる自分は、とてつもなく無意味に思える。
「何やってんだろうなぁ」
地面に視線を落とすと、アリすら忙しなく行き来して働いている。黒い小さな生物たちの行方を目で追っていると、砂を踏む誰かの足音が聞こえた。
「若者たち、やってるねぇ」
どこかの民族っぽい柄のロングワンピースにスニーカー姿の遠藤先生は、再任用の美術教員で、写真部の顧問だ。白髪をベリーショートにした髪型と独特の服装で、どこにいてもすぐにわかる。
「やってますね。あいつだけですけどね」
「雨宮はやらないの」
「あー、俺はもういいです」
そうかぁ、と答えただけで、先生はそれ以上何も言わない。三嶋が先生の姿に気づいて、こちらに走って戻ってくる。体力が有り余っているらしい。
「先生、これどうすか」
先生はカメラを受け取って、画面で写真を手早くみている。
「うーん、まだ何ともいえないな。まぁ、もっと撮りな」
「そっかぁ。了解っす」
少し残念そうな顔をしたが、じゃあオレ、サッカー部の方行ってきます、と元気に宣言してカメラを首にかけて走っていく。やっぱり、走っている姿のほうがしっくりきている気がして仕方ない。
「三嶋はやる気あるし、雨宮が見てやったらすぐもっと良くなるよ」
「先生も俺にあいつのこと見ろって言うんですか? 先生が見てやってくださいよ」
先生は片手でワンピースの裾をぱたぱたして足元に風を送りながら、肩をすくめる。
「私は写真は専門じゃないしね。雨宮は三嶋よりも、写真のことよく知ってるでしょ。何かを撮るってのがどういうことかっていうのがさ、自分なりに。何も考えないで撮って、写真甲子園の本選になんて出られないよ」
あれはいい経験させてもらったわ、と先生は笑うが、俺は思わずため息が漏れそうになる。
「あれは組写真ですもん。俺じゃなくて、先輩たちの写真が凄かったんですよ。それに、本番じゃ全然でしたし」
言葉にしながら、忘れようとしていた苦い気持ちがよみがえってくる。
写真甲子園に出てみようかと言い出したのは、その後、地元の美大に進んだ先輩だった。写真甲子園という言葉を俺は二年生のその時に初めて聞いたが、全国の写真部の作品を審査して最終的に二日間の本選期間で優勝作品を決めるというその大会は、たしかに文化系の甲子園のような華々しさがある。
最初に言い出した先輩と二年生で唯一の部員だった自分と、あと何人かの先輩で作った八枚でひとつの作品が初戦の審査を通った時は、みんな信じられない気持ちで大喜びした。
さらにブロック審査を勝ち進んで本選に出られると決まった時は、もしかして優勝できるのではないかと、そんな気持ちでひとしきり盛り上がった。本選は三人一組の参加だから、三年生の先輩二人と二年生の自分で出ることも決まって、俺はものすごく張り切っていたのだ。でも、北海道にわざわざ訪れて参加した本番での結果は、一言で言って惨敗だった。
本選の審査は各学校に同じ環境で同じ課題を出されて、二日間で写真を撮って自分たちの作品を作り上げて提出するのだから実力が問われるものだ。そこで制限時間いっぱいを使ってなんとか作品を出した後、他校の作品を見て、がつんと頭を殴られたような気がした。
どの学校も、うちとはレベルが全然違う。
自分たちのものは作品ですらない。
そう言われている気がして、いたたまれなかった。今この瞬間まで、ちょっと良い写真が撮れているとすら思っていた自分が、ひたすら恥ずかしかった。優勝はもちろん、入賞なんかするはずもなかった。
でもその時はまだ、何よりも悔しさが勝っていた気がする。いい写真を撮って、いつかきっと見返してやりたいと思っていたのだ。
少し風が出てきて、砂が舞ってぱちぱちと顔にあたる。赤い陽が傾いてきて、あと三十分もすれば暗くなるだろう。俺は仕方なく立ちあがり、足元の小石みたいに尖った声で答える。
「俺、写真のことなんか分かんないですよ。分かるわけないです」
先生は、小さく笑ったようだった。遠くにいる三嶋に目を向けたまま、口にする。
「じゃあ、それをそのまま伝えたらいいよ」
「え。分かんないってことをですか」
「そうだよ。それだって、雨宮の経験から生まれた言葉だし」
俺が思わず黙ってしまうと、じゃあ頑張りなさい、と言い残して先生は校舎に戻っていってしまう。先輩! と声がして振り返ると三嶋が走ってくるところだった。
「とりあえず沢山撮ったんですけど。今日やってて、絞りとかの操作がやっと分かってきたのは収穫かも。あ、分かんないでやってたのバラしちゃった」
「おい、分かんないでやってたのかよ。そういうのだったら、別に聞いていいよ」
大きなため息をつくと、でへへ、すいません、と三嶋は垂れ目をさらに下げて笑う。
「で、どうですかね。今日はいつもより良くないですか!」
撮って来た写真を画面上で確認するが、いくら見ても、ピンとくるものが無かった。だから、それをそのまま伝える。
「俺は、あんまりいいとは思えない」
「まじかぁ……。ねぇ、なんかヒント! ヒントください!」
「クイズじゃないんだから、そんなもんないよ」
「なんでもいいんで! 先輩の言葉で聞きたいんですよぉ」
お願い、と拝むポーズをされる。そこまでされて、何も答えないのも気が引ける。
「……たぶん、だけど。何を撮りたいのか、分からないって感じがする。俺もよく言われたけど、撮りたいものの対象に、もう一歩踏み込んだほうがいい、かも」
おお~、と感心したような声を出されて、照れ隠しにカメラを突き返す。
「踏み込む。ぐっと。あと一歩ですね」
「言っとくけど、距離だけの話じゃないからな。なんていうか、撮るものとの心理的な距離っていうか。そういうのも含めてだから」
でもそれが分からなかったのは、俺自身だ。
知ったかぶったような言葉を、心の中でもうひとりの自分が顔を歪めて馬鹿にしている。黒い気持ちが、胸の中にじわじわと広がっていく。
あ、ヤベェ、と三嶋が急に大声を上げて、木陰に置いていた荷物をまとめ始めた。
「オレ、そろそろ帰るんで。あ、その前にカメラ返してこなきゃ。じゃあ先輩、また明日!」
ばたばたとカバンを下げて校舎の方へ走っていく背中を眺めて、俺はまだ暑さの残る校庭にひとりで取り残された。くそ。なんなんだよあいつは。