『──!』
女の人の叫び声。逃げなくちゃ、あいつを、助けなくちゃ。
こっちに向かって来るその人から逃げる為に隣にいるあいつの手を掴む。
今度こそ、あいつと──

パンッ

衝撃の後に来た熱に思わず頬を抑える。
『──!何────、──は─────!』
『─────貴方のせいよ!』
『──、行くわよ』
ああ、また、あいつが、あいつが行ってしまう!
「───!」
思わず叫ぶ俺をほうを向いたあいつの顔を見て悟る。全てを諦めたような、その顔をさせないために頑張ったのに。ああ、やっぱり俺じゃダメなんだな。

もし俺じゃなかったなら、こんな事しなければ──


ジリリリリッ

けたたましく鳴るアラームの音に意識を引き戻される感覚。季節外れにじっとりとかいた汗と張り付いた服、まるで全力疾走した後のように忙しなく鼓動する心臓に今までのものが夢であると知る。
俺はまた、あいつを助けられなかったのだろう。
未だに夢に見るそれは中学生最後の夏のこと。俺のせいであいつを苦しめた、苦い記憶。黒歴史でしかないはずのそれを俺は6年近く経った今でも忘れることができずに、未練がましく夢に見る。そして毎回、助けられずに終わるのだ。もうあいつの顔も忘れてしまったはずなのに細かい所まで正確なそれはまるで俺を戒めるかのようで、お前は人を不幸に陥れた人間なのだと、それを忘れるなと主張してくる。
未だ落ち着ききらない鼓動に我ながら呆れつつ時間を見ると、もうそろそろ支度をしなければ二限の授業に間に合わない時間になっていた。
正直休んでしまいたい所だが、ここで落とすとあとから痛い目を見るのは分かりきっている。原因の分かりきっている不快感には目を背け俺は準備を始めた。
早くに着いてしまったキャンパスで時間を潰す。学年としては3年に上がったが、ワンキャンパスの大学なおかげでキャンパスの変更もなく新学期と言われてもピンとこない。なれた場所をぶらぶらと時間を潰すために歩いていると後ろから声がする。
「おーい!裕貴(ゆうき)ー!!」
友人の颯太(そうた)が手を振っているのが見える。こちらへ近ずいてきた颯太が改めて声をかけてくる。
「おっはよー!」
「おう、おはよ」
いつものようにハイテンションな颯太に若干押されつつ挨拶を返す。颯太とは大学に入って最初の講義で席が近く、その後も関わりが多かった事もあって自然と連むようになっていた。
ハイテンションすぎて今日のように夢見が悪かったりすると少しキツい事もあるが基本真面目な性格の颯太は一緒にいて何かと張り合いが出る相手だ。
「今日の二限裕貴も取ってる?」
「あー、藤井先生のやつ?取ってるよー」
そんなしょうもない会話をしつつちょうどいい時間になってきたため教室へと向かう。

「お、颯太に裕貴じゃん、はよ」
イツメン3人がこちらに気づき話しかける。
「おはよ」
並びで先に座っていた3人の後ろの席に颯太と並びで座る。前の方で展開されている会話に上手く入る事も出来ず適当な相槌を打つ。どうせくだらない事を話しているだけだろう。いつものようにと過ごしながらも頭の中では未だ今朝の夢の余韻が抜けきらずに頬の熱の感覚が、強い悔しさと後悔が脳にこびりついている。
しばらくして始まった授業は一体いつ使うのかとつい思ってしまうようなもので、眠気を噛み殺しながら聞き流す。あの時、もっと早く逃げ始めてれば。もっと別の方向に、こうすれば躱せたかも、そもそもバレなければ…
やり直す事なんて出来やしないとわかっているのにそんなタラレバに思考は沈んでいく自分に嫌気がさす。
元々特別しやすい訳などないけれども、この夢を見た日はいつも以上に息がしずらく、心の奥底にある罪の意識が事ある毎に自分を刺激してくる。忘れた事なんてないのに、なんて誰にか分からない言い訳を浮かべつつ、これ以上深くに沈むと戻れなくなりそうで必死に意識を授業に向ける。普段はつまらないし面倒なものだが今だけはやるべき事がある事実に感謝した。
昼食を食べ終え、午後の授業を受けるため教室に入ってすぐの辺りの適当な席に座る。
まだ授業開始まで少し時間があるため人はまばらにいるだけだった。普段授業が被ることの多いイツメンだが、この授業は俺しか取っていなかったため、必要なものを出して少しぼーっとする。
スムーズな大学生活を送るためにも友人は大切だし一緒にいればそれなりに楽しいがずっと一緒ではやはり疲れるのだ。過去問や課題など面倒な事もあるが授業を組む時は毎回意図的に1つは知り合いがいなさそうなものを選ぶようにしている。
春頃の過ごしやすい気温におそらく夢見が悪かった事が原因であろう眠気にうつらうつらしていると声をかけられる。
「あの、隣いいですか?」
声のする方向を向いた俺は目を見開く。そこには人当たりの良さそうな青年が1人机の横に立っていたのだが、何よりその青年が今朝の夢に出てきたあいつと雰囲気が似てるのだ。まだ確定したわけでは無いが声も忘れた記憶の中のあいつに似ている。
「あの、大丈夫ですか?」
思わず目を見開いたまま固まってしまっているとまた声をかけられる。
「は、はい。どうぞ」
はっと正気に戻った俺は慌てて返事をし正面を向くがどうにも隣が気になる。横から見た姿は記憶より大人びているもののほとんど同じだ。あくまで可能性でしかないそれを聞くのはさすがに気が引けた俺はそれでも気になって授業が始まったあともちらちらと横を伺ってしまった。


あれから数ヶ月、毎週同じ教授のこの授業で会い、成り行きから隣に座ってはいるものの、話すこともせずただ並んで座っているだけなのだ。
まだあいつだと決まった訳では無いが、こうやって並んで授業を受けていると中3の夏、仲良くなった少し前の事を思い出す。
俺とあいつは元々同じクラスだったのだが殆ど関わりがなく、夏休み前のどこかで行われた席替えで隣になるまでは用事がある場合に少し話すだけの関係性だった。確かこの時も隣の席になったはいいものの、全く話したりすることはなく、気まずい時間をすごしていた。その上その当時の俺は部活を引退して色々な事が変わり、無くなり、無気力になっている頃だった。そんな俺を見越してか親が入るよう言ったその塾にもあいつはいて、奇しくもまた隣の席だったのだ。おかげで世間話をするくらいにはなったがその程度だった。それでもあいつの隣で授業を受けるというのはあの時の、まだ罪を犯す前の記憶を思い出す。
隣にいるあいつに似た彼に話しかけようと何度も考えた。だが今更会ったとしてあいつの事を苦しめた俺が今更話すなんて出来るはずもないし向こうだって許してくれるか分からない。
『お名前、なんていうんですか』
バレなければ、お互いに知らなければまだ並んでいられる気がしてついその一言を言う事が出来ないのだ。
6月も終わりに近ずき、じんわりと蒸し暑い季節が近ずいてきた。毎週同じ教室で、同じ時間に行われる講義。ほかの友人がいない場所で、あいつに似た彼と2人並んで授業を受ける。
授業終わり、少しゆっくりと片付けをし、荷物を全て整えた頃には次の授業で使う学生は居れど同じ授業を受けた人間はおそらく1人も残っていなさそうだった。
荷物を持ち私の授業で必要と言われたデータを得るため図書室へ向かう。
大学図書館に着いた俺は適当に調べデータを得ると必要事項をメモし本は返却をする。目的も達成され帰ろうと玄関で外を見あげると生憎の雨。スマホを使い今後の天気を調べるともうしばらく止みそうに無いことがわかる。朝出かける時は雨が降ってなかったのもあり今日は傘を持っていない。どうしたものかと眺めていると後ろからさっきまで授業で並んでた彼らしき声が。振り返ると案の定、想像の通り彼だった。
「あの、良かったら一緒に傘入りますか?」
その言葉にだいぶ悩んだがしばらく止みそうもない雨に諦め、入れさせてもらう事を決めた。
2人並んで歩く大学から最寄りまで、徒歩10分ほどの時間。なにか話しかけようかとも思ったがする話も無ければ俺なんかが話しかける権利は無い。いつもの授業とまるで同じようにお互い無言のまま駅まで歩く。
駅構内、屋根のある場所まで着き、あいつに似た彼が傘を閉じる。
「あの、ありがとうございます。助かりました」
「では、また」
お礼を告げ別れようと改札の方へ体を向けた俺の背中に声がかかる。
「ゆうき!前もこんな事あったよね。塾の帰りにさ、」
その言葉に忘れていた昔の記憶が蘇る。
確かあの日は塾の帰り、なぜだか2人だけ帰りが遅くなった日だった。夜9時半すぎ、雨が降っていてあいつは傘を持っていなかった。対して俺は母親に入れられた折り畳み傘が鞄の中に入っていて。何となく、自分だけ傘をさして帰るのに気が引けたのだ。元々同じクラスで、1ヶ月横に座って何時間も勉強していた相手だった。俺はあいつに一緒に傘に入らないかと、そう誘った。最初は遠慮していたあいつだが最終的には一緒に少し小さい折り畳み傘に入っていつも使うバス停まで歩いた。その間も、バスを待っている時もずっと2人は無言だった。昔も今も無言で誰かと居るのが気まずくて苦手なはずの俺なのに、あいつと一緒にいた沈黙は苦しくなくて、むしろ心地良さまで感じていた。
その日がきっかけだったと思う。あいつとの距離が一気に縮まったのは。
翌日、学校であいつは俺に昨日のお礼を言った。それに応え、いつものように会話はそこで終わった、はずだった。なんだか会話が終わってしまうのが寂しくて、その後の会話をお互いに探しているのを察し、思わずといったように2人同時に吹き出した。
その日から俺達は一緒にいることが多くなった。なんとなく、何も話さなくても、何をしなくてもそこに居ていいようなそんな空間で。それが俺にとっても、きっとあいつにとっても心地良かった。
でもその空間すらも俺は、壊してしまった─

また一緒になんていられるわけがない。
俺を呼ぶ声が聞こえるが出来るだけ早くその場を離れるためにあいつの、智明(ちあき)の方を振り返ること無くホームへと向かった。

…のだが。俺はすっかり失念していた。中学が同じでこの大学に通っているくらいだ。ホームが同じなんて簡単に想像できる。横に並んだ智明は俺にまた話しかける。
「なあ、裕貴。僕お前と過ごせたの楽しかったんだよ。それに僕、あの日の事後悔してないから」
そう言った智明の声は記憶にあるよりも力強い、しっかりしたもので驚く。
詳しくは言わないが智明がいつのことを言っているのかはすぐにわかる。でも、きっと俺じゃなければもっと上手くいっただろう。正直あいつの自由をぶっ壊した身としてはその言葉は信じられなかった。だがつい勢いに押された俺は連絡先を交換する。それに少し、考えてしまったのだ。また、仲良くなれるんじゃないかと、一緒に居られるんじゃないかと。
「じゃあ、またね」
結局同じ電車に乗って、俺の降りる1つ前で降りていったあいつは電車内では何一つ会話をしなかった俺に満足そうな顔でそう言った。

電車をおり駅を出ると雨はもう止んでいた。こんな短い時間ならどこかで時間を潰しても良かったかも、と思ったが諦めて帰路に着く。俺がまた一緒にいる資格などないとわかっているのに、また智明と話せたこと、仲良くなりたいとそう言ってくれた事に心が跳ねる。久しぶりに感じた嬉しいという感覚、浮ついた気分に自分を落ち着けようとするも、落ち着ききることはなく少し軽い足取りで家への帰り道を進んだ。
臨時として智明と同じあの授業が入っていると気づいたのは、浮ついた足取りで帰ってきて少し経った後の事。あったらどんな反応をすれば良いのか悩みつつ、昨日と打って変わって気まずさの混じった少し重い足を動かし大学に来たのが今日の朝。
そして今、もうすぐ始まる件の講義を前に教室へ入るのを少し躊躇っている。
と、後ろから声がする。
「裕貴、やっほ」
昨日からずっと悩みの種である彼はそう声を掛けてきた。
「お、おう。その、昨日はありがとう。助かったよ」
急に現れた本人にどぎまぎしながらもそう告げる。
未だに信じきれないのだ。あいつがまた俺に話しかけてくれた事が。
なんて言われるか、緊張しながらも教室へと入りいつものように並んで席へ座る。話すことが無いが、何もしていないのも気まずいと感じた俺は授業に必要なものを取り出す振りをしてカバンを漁っていると智明が声をかけてくる。
「ねえ、今日この後空いてる?」
何をする予定なのかも分からないその問いに警戒しながらも今日のこの後の事を考えるが今日取っているのはこの授業で終わりだしバイトのシフトも空いている。それに、どれだけ言い訳を重ねてもやっぱり俺は智明と居れるのがどうにも嬉しいのだ。
「空いてると思うけど、どうして?」
すこし緊張しているせいか思ったように話せない。
少し硬い声になったその返事を気にする様子もなく智明が応える
「良かったらさ、2人で飲み行こうよ」
思ってもいなかった答えが返ってきて一瞬固まる。
大学生としては良くある会話なはずなのだが、智明のイメージは中3で止まってるのだ。それに、今の智明でもそうゆう事を言うのは想像がつかなかった。
「ああ、そうだな」
必死に頭を回して出した返答はやっぱりいつもの俺な感じがしない。でも、いいのかもしれない。いつもの、適当に生きてる今の俺では智明は話しかけてくれなかったかもしれないから。
「「かんぱーい!」」
大学近くの居酒屋、生ビールのジョッキをぶつけ乾杯する。何を話そうか迷っていると智明の方から話をふられる。
「今日はありがとうな、昨日も言ったけど、また仲良くなりたいんだよ」
いきなりに本題にはいられたような、急な話題に驚き曖昧な返事しか出来ない。それに俺は、智明と仲良くなるべきでは無いのだ。また、智明を傷つけ自由を縛ってしまう恐怖がある。
そんな事を考えつつ、近ずきすぎないよう気をつけて会話を重ねる。とりあえずと頼んだ料理で段々と机が埋め尽くされていくなかで食べながら、飲みながら語り合っていく。お互いに、中3のあの頃の出来事は話には出さずに。

「そういえばさ、なんで智明は急に野村先生の授業来るようになったの?」
「3年になるまで見かけた事すらなかったしさ」
ずっと疑問に思っていた事を口に出す。うちの大学はワンキャンパスの大学で、そこまで広い敷地な訳でもない。その上2人とも文系の学部だ。ここまで一度も授業が被らないのは中々無いはずなのだ。だからこそずっと気になっていたことなのだが、酔いに任せて話の流れで聞いてみる。
「えっとねー、俺元々短大卒でさ。ここの大学今年から編入してきたんだよ」
智明の答えに驚きが隠せない。中学生の頃智明はクラスで1位2位を争うほどに頭が良く、県内でも有数の進学校に進んでいたはずだ。進学先が決まる頃にはもう話してすらいなかった俺はクラスメイトの誰かから又聞きのように知っただけなのだけれど。
とにかく智明が一度短大に行ったことがかなり意外で思わず固まってしまう。するとそれをそれを察したのか説明が入る。
「多分裕貴は知ってると思うけど、高校は良いとこ入ったんだよ?でもそれで疲れきっちゃって。燃え尽き症候群ってゆーの?それでゆっくり過ごしてたら一気に置いてかれて。今まで努力だけでどうにかしてきたのが出来なくなったんだから当たり前なんだけどさ。それで燻ってるうちにあっという間に大学受験ってなってるし、でも上手く頑張れなくて、志望大学落ちたんだ。だから短大入ってどっかの四年制大学に編入するって形になって、偶然入ったのがここだったって感じかな。」
智明がなんてことないように語ったそれは、確実な挫折で、簡単に突っ込んでいいものじゃないような、そんな気がしてしまって。上手く反応しきれず微妙な間ができる。
「ああ、あんま気にしないでよ?僕はもう吹っ切れてるし短大生は楽しかったしさ。」
そう言った智明はきっと本心なのだろう。だが同時に『短大生''は''』と言ったのが少し引っかかる。まるでそうでは無いところがあったような。そこまで考えて自己解決するのだ。だって当たり前だ。俺があいつの自由を奪ったし、厳しい環境に変えてしまった。俺のせいなのだ。それなのにわざわざ仲良くなりたいと言う智明の意図は分からない。それでも、その願いに付き合うのも償いだと言い聞かせて、距離を置けない狡い自分を見ないふりをした。
「「いただきます」」
もう慣れた、智明と2人で俺の部屋で食べる夕飯。
連絡先を交換したあの日から俺達は、急激に仲良くなった。どちらかと言うと元に戻ろうとしたの方が正しいのかもしれない。
被る講義がない日でも学校内で会って話す事も増え、どちらも予定が空いている夜は居酒屋や互いの家で夕飯を食べ、空白となった6年を埋めるようにくだらない事や高校に入ってから今までの話、色々な事を話した。知らない彼を知り、変わった事や変わらない事に気づくたび、自分の事を話すたび、罪悪感が顔を出す。こうなったのはお前のせいだと、もっといい道があったんじゃないかと、そう囁いてくるのだ。そして俺はそれを隠したまま智明と一緒にいる。嘘は着いていないものの、抱いている後悔も、罪悪感も全て隠したままだ。でも、それでいい。こんな後悔も全て自分が隠しきればいいだけなのだ。
そうやって俺達は以前と同じようで、少しづつ確実に変わった2人で、関係性を作り上げた。お互い他に仲のいい友人は居るが、お互いそこに紹介することはしていない。智明がどう思っているのかは分からないが俺は、なんだか他と一緒にしたくないような、よく分からない感情で紹介できずにいる。別にそれが悪いことな訳では無いため対して気にしてはいないのだが。きっと俺にとって智明は他とは違う、ただの友達とは言い表したくないような、そんな存在なのだろう。若い日の、黒歴史で罪の象徴でありながら特別になりたいと、一緒にいたいと思ってしまう。
最近では智明と一緒に過ごす夜が日常になっている。また智明と一緒に過ごせている幸せと同時に、この今までより彩られた日常が終わる日が来るのを、俺はどうにも恐れている。