穏やかな目覚めだった。
ゆっくりとベッドから起き上がって、顔を洗うために洗面所に向かった。
ばしゃばしゃ、と顔を洗う。
タオルで顔を拭いて、部屋に戻った。
青いワンピースに着替えて、ベッドの端に座って窓の外を見つめた。
ふと頭がずきずきと痛んで、ぎゅっとこめかみに向かって、爪を立てた。
一旦、ベッドに横になる。
急に頭が痛くなることは、ないこともないけれど、今日のは何か違う。
なにかを思い出そうとしているような、そんな痛みだった。
「ミ、リ……?」
その後、すぐに痛みは引いたけれど、疑問は消えない。
どうして突然、あんなに痛くなったのだろうか。
まあでも、昨日の食べすぎとかもあるかもしれない、と思いなんとか落ち着いた。
とりあえず、ママの部屋に行ってこのことを、言おう、と思った。
「ママ、いる?」
ノックをして入ると、ママは本を読んでいた。
振り返って「美波ちゃん、おはよう。どうしたの?」と本を閉じて微笑んでくれた。
「おはよう。さっき起きたんだけど、急に頭が痛くなっちゃって。すぐに落ち着いたんだけどね……」
「まあ! もう痛くないのね? 今日はもう部屋で安静に寝てた方がいいわ。薬と水を準備しておくわね。後で、お粥を持って行くから、今は本でも読みながらでいいから、寝ててね」
焦ったような表情で立ち上がって言ったママに私は、「でも、もう痛くないし……」というけれどママは聞こえていないようだった。
私は仕方なく、渋々と部屋に戻って読みかけの小説を読みながら、寝転がった。



その後、頭が痛くなることはもうなくなった。
けれども、頭からずっと離れないことがあった。
ミリ、という名前だ。
ママの子供だということは、わかっているのだけれど、なぜか頭から離れてくれないのだ。
どうしても、私となにか関わりがあるように思ってしまう。
勘違いだとは思うのだけれど。
こんこん、とノックがされて扉が開かれた。
ママだろう、と予想したらその通り、ママだった。
「美波ちゃん、体調はどう? その後、大丈夫? お粥を持ってきたけれど、食べれる?」
本当に心配そうにベッドの横にある、低い机にママは卵のお粥をお水と一緒に置いてくれた。
「大丈夫。あれからはずっと頭は痛くなってないから。お粥もありがとう。食べてもいい?」
私は笑顔で言った。
ママは嬉しそうに、にこっと微笑んで「なら、よかったわ。無理はしないでね。食べれなくなったら、残していいから。今日のお粥はね、私が作ったのよ。よかったら、感想を聞かせてくれる?」と両手を組んで、その場にしゃがんだ。
私は頷いて、お粥を一口食べた。
「美味しい!」
ごくり、と水を飲んでから言うと、ママは満足そうに顔を和ませて「ふふ、私も意外に料理、得意なのよ」と得意そうに何度も瞬きをしながら言った。
「じゃあ、なにかあれば呼んでね」
と笑顔でママは部屋を出て行った。
私はお粥を食べながら、少しだけ眠くなってくる。
お粥の盛り付けられていたお皿は空っぽになったころ、私はまた横になって目を閉じていた。
眠いのだけれど、なかなか眠れはしないのだ。
だから、ずっと目だけ閉じている。
そのとき、ぴろりろりん、とスマートフォンの着信音がなって、机からスマートフォンを持ってくる。
「もしもし」
と出ると恵理のあっさりとした声が返ってきた。
『もしもし、美波? 今日、会える? この間、会えなかったからさ』
「あー、ごめん。ちょっとしばらく会えないかも。空の上にいるから」
『え? どうしたの? 大丈夫? 最近、疲れてるの? ゆっくり休んでね』
心配するように恵理が言って、電話を切られた。
普通は空の上にいるなど有り得ないからだろう。
本当なのにな、と思いながら私はまた目を閉じた。



はっと目を覚ますと、窓の外はもう真っ暗だった。
長い時間、寝てしまっていたようだ。
ベッドから起き上がって、ママの部屋に行く。
「ママ?」
「あら、美波ちゃん。また頭痛?」
心配そうに、ぐっと眉根を寄せてママは近寄ってきて、私は首を横に振って言った。
「ううん。レイラさんはどこかなって」
「ああ、レイラね。実はさっき帰っちゃったのよ」
「あのさ、ママ。私ひとつだけ、思ったことがあるんだ」
私は、覚悟を決めて口を開いた。
ママは不思議そうに小首を傾げている。
「私の、本当のお母さんって、ママ、なの……?」
あまりにも唐突な質問だったのだろう。
返答が返ってくるまでに数分かかった。
「どうして、そう、思ったの?」
ママの顔に笑みは浮かんでいなかった。
そのママの真剣な表情が、これは事実の可能性が高いことを物語っているような気がして、自然と私の背筋が伸びた。
「今日、頭が痛くなったとき、なにかを思い出そうとしてる気がしたの。それで、そのあと寝ちゃったんだけど、夢で見たの。子供のころの私がママと遊んでる記憶みたいなのを。それで訊いてみよう、と思って――」
「そう、そうよ。私の子供はっ、美波ちゃんなの……。美波ちゃんの本当の名前はミリなのっ! あのとき、私は涙が出そうになったわ。だって、私の我が子が目の前に立ってたんだもの……」
泣きながら、ママは崩れ落ちて縋るように私の腕を掴んで言った。
まさか、私が「ミリ」だったなんて……。
「私、なんで今まで忘れてたんだろう。全部全部、思い出した……。ママだよね。大好きだよ! 私、やっぱりあの人と家族じゃなかったんだ」
今までのママとの記憶を全部思い出して、涙が溢れ出してきて、止まらない。
「一緒に、海も行ったよね。スイカをスーパーに買いに行ったのも、覚えてる。森秋公園にも行ったよね。飛行機も乗った。いろんなとこに行ったよね」
色鮮やかで楽しい記憶ばかりがどんどん頭の中に浮かんで、涙がそのぶん溢れてくる。
「ええ、そうね。でも、このことは覚えていないでしょう」
私はお母さんの肩から顔を上げて、真っ直ぐに涙目でママを見つめた。
「ミリはね、本当は人間じゃなくて、空に住む鳥なの」
私は耳を疑った。
鳥?
私が?
耳から零れ落ちるんじゃないかと思うほどママとの思い出でいっぱいだったはずの頭の中は、途端にクエスチョンマークで埋め尽くされた。
「急にこんなこと言われても、ぴんとはこないわよね。でも人間の姿がミリには合ってるだけで、本当はミリは鳥なの」
正直、わけわからなかったけれど、一応、頷いた。
「なんで? レイラさんと同じってこと?」
訊くと、ママは頷いて「そういうことになるわ。でも色は青ではないの。あなたはとても特殊な色をしてるから、あまり昔も鳥にさせないようにしていたのよ」と意味ありげに言った。
「何色なの?」
しばらくママは押し黙ってしまった。
私も催促はしないで、黙ってママの言葉が返ってくるのを待つ。
「ミリは、鳥になると、フォグブルー色の全身になる上に、とても綺麗な緑色の瞳になるの。今までこんな鳥には、一度も会ったことがないわ」
私は首を傾げた。
「ふぉぐぶるう?」
「そう、フォグブルー。フォグは『霧』という意味。霧がかかったような色だから、フォグブルー。灰色に近い色ね」
ママは頷いて、言った。
霧がかかったような色、かあ。
「じゃあ、鳥になってみようかな」
そう言うと、ママは頷いて「その方が説明しやすいわね。自分が鳥になる瞬間を思い浮かべてみて」と言った。
私は目を強く瞑って、私がレイラさんの鳥になる瞬間を思い浮かべようとする。
それで、鳥になりたい、と強く念じた。
ぽふ、ぽふぽふ。
何か視界に変化があって、自分のお腹をさすると、柔らかくてふわふわなものに触れる感触があった。
下を見ると、私の手はもふもふの灰色のような色になっていた。
「うっ、わあああ」
思わず大声を出す。
自分だと、声がくぐもって聞こえた。
「ミリ、落ち着いて。それが、あなたなのよ」
優しい物腰でママは言って、鏡を見せてくれた。
私は自分の姿を見て、驚愕する。
息を呑んだ。
部屋に沈黙が流れた。
私は思わず、自分の姿に見惚れてしまう。
綺麗な吸い込まれそうなほどに深い深い緑色の綺麗な瞳に、ママの言っていた通り、霧がかかったような色、だった。
「ね、綺麗でしょう。私も何度見ても見惚れちゃう」
ぽおっとしたような顔をしてママは言った。
私はなにも言葉を返すことができない。
なんとか頷き返すのが、やっとだ。
私は一言、独り言のようにぽつりと呟いた。
「会いたい……」
なんでかは、わからない。
無意識に呟いていた。
誰に会いたいのかも、どうしてこんなことを言ったのかも、なにもわからないけれど、そう唐突に思った。
もしかしたら、お父さんにかもしれない。
なぜかこの瞬間、そう直感した。
「誰に、会いたいの?」
ママは怯えたように、震えた声でぼそっと言った。
「お父さん、に……」
そう言うと、ママは目にいっぱいに涙を溜めて、否定するように引きちぎれんばかりに、左右にぶんぶんと首を振った。
「だめ、だめっ! 会っちゃだめ! 絶対に、だめ!」
だめ、と連呼し続けるママに私は、「どうして?」と訊く。
「あの人は、もう『木』なの……」
「木?」
私は意味がわからなくて、訊く。
ママは自分を落ち着かせるように深呼吸を二回して、息を吐いた。
「あの人はね、そのうち、木に……クスノキになってしまう運命だったの。もちろん、そのことは承知の上で結婚したのだけれど、思ったよりもそのときの苦痛は大きかった。それからあの人は元々いなかった、と私は思い込むことにしたの。それで、絶対に会いたい、とは思わないと決めた。だから、会いたいのなら森秋公園のすぐそばの大きなクスノキのあるところへ行ってちょうだい」
あまり言葉がまとまっていない。
それほどにショックだったのだろう。
私は少し気の毒な気分になって、次の瞬間、あっと声を洩らした。
「私、お父さんに会ったことがある……」
そのクスノキは、レイラさんと再会した場所なのだ。
そのことを話すと、ママはすごく驚いていた。
「ママ、レイラさんはお父さんの生まれ変わりだよ」
私は、ふいにそう言った。
絶対にそうとしか思えない。
お父さんのことは知らないけれど、絶対にそうだ、と思った。
「私、レイラさんのところに行ってくる」
それだけ言って、私は鳥の姿のままレイラさんの「空主国」に向かった。
鳥だから、このまま飛んでいけるはずだ。
私は飛びながら、もう紺色に染まり切った空のなかを無我夢中で飛んだ。
「レイラさんっ!」
「空主国」について、地面に着地すると同時に大声で言った。
レイラさんは驚いたような顔をして、すぐそこに立っていた。
「み、ミリ?」
戸惑ったような声で私はこのとき、絶対にお父さんだ、と確信した。
「ねえ、私のお父さんなんでしょ?」
単刀直入に訊くと、レイラさんは涙を流した。
「ああ、そうだ。生まれ変わったんだ」
とても嬉しそうに言ったレイラさんに私は「私たち、別れよう。家族だからさ」と微笑んで言った。
「別れよう。これからは、エリナとミリと僕で家族だ!」
レイラさんは元気よく、そう言った。



「三人で暮らそうか」
そんな話が出たのは、あの日から三日後。
私はもちろん賛成だけれど、ママはソラソン城があるから難しい。
レイラさんにも国がある。
ならば、全部を合体すればいいんじゃないか。
そんな話になって、とうとう今日がその合体する日だ。
レイラさんなら、そんなことは朝飯前らしい。
今日を心待ちにしていた、私は嬉しくて嬉しくて昨日の夜はなかなか眠れなくて、目の下はクマがすごかった。
そして、私のことが大好きだったチョガさんはというと、出かけていてまだ帰ってきていない。
はやくチョガさんにも伝えたかったのだけれど、帰ってきていないのだから仕方がない。
「おはよう、レイラさ――お父さん! いつ合体するの?」
「ああ、ミリ。おはよう。実は夜の内にしたんだよ、後で見てみるか?」
穏やかに微笑んだレイラさんは少し眠いようで、少ししか瞼が開いていない。
夜通しでやってくれたのだから、寝かせてあげよう。
私はお父さんに、おやすみなさい、と言って、ママに伝えに行った。
ママはとても喜んでいて、私もすごく嬉しかった。
「三人で一緒に暮らせるね!」
そう言うと、ママは何度も頷いた。
家は別々だけれど、いつでもすぐに会えるというのはとても嬉しいことだ。
私はわくわくを抑えきれずに、外に出た。
鳥の姿になって、国のなかを飛び回る。
お父さんの国は立派に完成していて、私はお父さんの国の周りを何度も飛んだ。
お城の横に一軒家が建っているのに私は気付いて、あっ、と声を上げた。
きっと前にお父さんの言っていた、私用の家だろう。
扉に「ミリ」と書かれていた。
私は中に入ってみる。
まず、玄関が広くて、すぐそこにはトイレがあった。
リビングもしっかりとあって、台所も広くて、とても豪華だ。
寝室は、大きなふかふかのベッドがあって、大きな窓が横についていた。
今は白色のカーテンがかかっている。
窓の横の壁には、海の描かれたおしゃれな絵画が飾ってあった。
読書をするための部屋もあった。
壁一面が本棚で囲まれていて、椅子と机が真ん中に置いてある。
私には勿体ないほどの豪華さに私は居ても立ってもいられずに、お父さんのところに行く。
「お父さん!」
ベッドで心地よさそうに眠っていたお父さんを私は大声で呼ぶ。
お父さんは飛び起きて、「な、なんだ?」と私の方を向いた。
「あの家、なに?」
人間の姿に戻って訊くと、お父さんは戸惑ったような表情をして、首を傾げた。
「いやいや、わかんないの? あの『ミリ』って書かれた家のことだよ」
お父さんは、納得、というような表情になって、「ああ。あれはミリの家だよ。自由に使うといい。自分の物を持っていっといてくれ」と言う。
私は、ばしん、とお父さんの背中を平手で叩いた。
「豪華すぎるって言ってるの! あんなの私には勿体ない」
そう言うと、お父さんは自分の背中をさすりながら「勿体なくなんかない。自由に使ってくれ」と言って布団を頭からかぶってしまった。
私は呆れつつ、部屋に行って荷物を両手に持って、鳥になった。
家のなかに荷物を置いて、人間の姿に戻り、荷物を鞄から全部出した。
まずは、ぬいぐるみ。
クマくんは寝室のベッドの横に置いて、枕はベッドの上に、他のぬいぐるみはベッドの上の端に並べた。
いい感じに置き終わったら、ベッドに寝転がってみた。
ふかふかでベッドに寝ている、という気が湧いてこない。
このままでは、ナマケモノになってしまう、と私はベッドから起き上がった。
けれど、またごろんと横になりたくなってしまい、寝転がってしまう。
恐ろしいベッドだな、と思いながら木製の天井を見るともなく見る。
たまにある模様が顔に見えて、少し怖くなって窓の方を向いた。
暖かい日差しが私の頬を少し赤くさせる。
ふと目の端に赤いものが映った。
ベッドから飛び起きると、窓の端に綺麗な赤いアネモネがささった白い花瓶がちょこんと置いてあった。
私は思わずアネモネに、引き寄せられるように近づいていった。
品種は、アネモネ・デカンだ。
アネモネ・デカンは、よくある品種だ。
可愛らしくて凛としている、赤いアネモネが好きだ。
どうしてか、赤いアネモネは絶対に曲げられないくらい強い意志を持っているように感じるのだ。
この部屋、好きだな。
私は寝室の窓を開け放って、心地良い風を全身で浴びた。
ベッドのすぐそこにあった椅子を窓の前に持ってきて、私は椅子に座った。
強すぎず、弱すぎない程度の風が顔に当たって、火照っていた頬の熱が冷めていく。
窓にもたれかかって、私は気付けば穏やかで優しい眠りについていた。



「赤いアネモネ、綺麗だね。あれ、アネモネ・デカンでしょ?」
晩ご飯のときに何気なくお父さんに言うと、お父さんは少し意外そうな表情をしたあと、嬉しそうに微笑んで頷いた。
ママはカルボナーラをフォークに巻きつけながら、不思議そうに訊いてきた。
「アネモネ・デカン? アネモネなんて、咲いているの?」
私もカルボナーラの細いベーコンをつつきながら、首を振って言う。
「そう、アネモネ・デカンはアネモネの品種のこと。アネモネは咲いてないんだけど、お父さんが建ててくれた私の家の寝室の窓のところに、花瓶にささって置いてあったの」
ママは微笑んで「あら、それは見てみたいわ。今度、ミリの家に見に行ってもいいかしら?」と言って、カルボナーラを口に入れた。
「もちろんいいよ! でも、それを訊くなら、お父さんに言ってよ。お父さんが家を建ててくれたんだから」
私は頷いて、お父さんの方を見ながら言う。
「そんなことはない。もう、ミリの家だろう。僕にいちいち訊いてくる必要はない」
お父さんは苦笑して、言った。
「わかった。ありがとう」
私はお父さんにそう返して、ママに、「だって! じゃあ、待ってるね。お父さんのお城の横に建ってるから!」と微笑んでママの真っ白な手を握った。



暗い暗い海の底。
当然、灯りなんてない。
そんなところを、彷徨いながら沈んでいく、夢を見た。
すごく、怖かった。
夢から起きたら、上手く息ができなくて、ざわざわと胸騒ぎがした。
反射的にアネモネを見ると、少し項垂れていた。
私は急いで、水を替えてあげる。
もう結構、弱ってしまっていたのだろうか。
私は不安になりながら、魔術で花を生かすための魔術があったのを思い出した。
そんなことをしていいのだろうか、と思うけれど私はその魔術をかけてみる。
アネモネは途端に、顔を上げて生き生きと前を向いた。
胸を撫で下ろし、自然と心が暖まった。
クローゼットから、ジーンズと白いブラウスを出してきて、着替える。
ジーンズは暑いか、と思ったけれどわざわざ着替え直すのも、面倒くさくて私はそのままでいた。
アネモネってなんだか可愛いな、と思いながら私はリビングに行って、食パンを焼く。
ぼーっと食パンが焼けるのを待ちながら、ふと思った。
赤いアネモネの花言葉は、「君を愛す」だ。
お父さんはこのことを知っていて置いたのか、知らないでたまたま置いたのか、どっちだろうと思う。
お父さんなら、知っていそうだけれど、知らないような気もするのだ。
チン、と食パンが焼ける音が聞こえて、レンジの中を覗いた。
食パンをお皿にのせて、バターをぬって食べる。
お父さんって意外にロマンチストなんだな、と勝手に結論付ける。
食パンが食べ終わり、なにものっていないお皿を洗う。
お皿を三分で洗い、靴を履いて、家を出た。
ごんっとドアになにかにぶつかる音がして、見ると、チョガさんが痛そうにおでこを抑えていた。
「えっ、チョガさん? ごめん、ここにいるって知らなくて……」
深く頭を下げて謝ると、チョガさんは不満そうに口を尖らせて言った。
「なんで『ミリ』と書かれてるんだ。お前はミリじゃないだろ」
ふざけるな、とでも言うような表情に私は怯むことはなかった。
「だって、私、ミリだもん」
ぴきっと辺りの空気が凍るような音がした気がした。
「よくそんなことが、言えるな」
とても低い怒ったような声だった。
恐ろしくて、ひゅっと喉から声が出る。
「本当なんだよ……。この前、思い出して、ママに訊いたらそうだって」
必死にそう言うけれど、チョガさんは信じてくれない。
私はあることを思いついて、鳥の姿になった。
「ほら、これなら……」
「み、ミリ……? ミリ、なの、か?」
強張った表情でチョガさんは私に近づいてきた。
人間の姿に戻って、私は頷いた。
「そうだよ。私ね、チョガさん――いや、チョガ兄との記憶も思い出したんだよ。一緒に遊んでくれたよね、覚えてる」
微笑んで言うと、チョガ兄は目を見開いて涙を流した。
「ずっとずっと、ミリのことだけを考えていたんだ。ひと時も、忘れたことはないよ」
普段のチョガ兄とは正反対で穏やかな笑顔になって、言った。
私は嬉しくなって、頷いて笑い返す。
「また、遊ぼうね!」
そう言うと、チョガ兄は眉尻を下げて頷いてくれた。
またね、私は笑顔でそう言い残してお父さんのところに向かう。
ソラヌシ城と書かれたお城に入り、お父さんを探す。
「お父さん、いるー?」
大声で訊いてみるけれど、返事はない。
しばらく同じことを繰り返しながら、歩くけれど、一向にお父さんは出てこない。
ミリ、と私を呼ぶ声が聞こえて振り返ると、お父さんが微笑んで立っていた。
私は「あ、お父さん! 探したんだよ、もう。あのね、チョガ兄と会ったんだ。それでね、また一緒に遊ぶ約束、したんだ!」と笑顔でさっきあったことを報告する。
お父さんは嬉しそうに頷いてから、「よかったな。ミリ、ひとつだけ頼んでもいいか?」と深刻な顔になって言った。
「いいよ、なに?」
「スーパーでグミを買ってきてほしいんだ。また食べたくなったんだが、どれがいいか、ミリに決めてもらいたくてな」
なんだそんなことか、と少し拍子抜けした思いになりつつも、いいよ、と返した。
「ありがとう。時間があるときでいい」
と微笑んだ。
「じゃあ、いま買ってくるよ。待ってて」
私はそう言って、鳥の姿になった。
気を付けて、というお父さんの声を聞きながら飛んだ。



地上についたところで、人気のないところで人間の姿に戻った。
すぐそこにあるスーパーでグミを選んで、お父さんの好きそうなのを買った。
コーラ味のやつだ。
スーパーから外に出て、歩き出そうとしたとき、ふいに後ろから声を掛けられた。
「こんにちは」
私が振り返ると、相手は表情は変えずに笑い声だけ発した。
誰だろうか。
私には全く見覚えがなかった。
つば広帽子を目深に被っていて、目元は隠れているけれど、高めの声で女性だということはわかった。
なにも言えずにいると、女性はわざとらしく、ひとつ咳払いをして言った。
「あら、失礼。私、こういうものですの」
懐から名刺を出してきて、私に差し出してくる。
私は白い無地に書かれた名前を見ながら、名刺を受け取る。
名刺にはこう書かれていた。
暗闇地獄社(くらやみじごくしゃ) 守り神部 佐々原 美香子(ささはら みかこ)
一度も聞いたことのない会社名と名前に私は首を傾げる。
裏には、電話番号とメールアドレスが書かれている。
「すみません、誰ですか?」
訊ねると、美香子さんは口角を上げた。
「わからなくても、当然。またいつか会うことになるわね。なにかあれば、この電話番号に連絡してちょうだい。ベルは準備しておきますわ」
そう言って、美香子さんは姿を消した。
どういうことだろうか。
ベルを準備しておく?
私は不思議に思いながら、鳥の姿になって空に向かって飛び立った。
一旦、自分の家に行って、汗だくになったブラウスを脱いで半袖のTシャツに着替える。
「お父さん、グミ買ってきたよー」
ソラヌシ城に入って大声で言うと、今度はすぐにお父さんが姿を現した。
お父さんは笑顔で、「ありがとう」と言ってくれた
私はグミを渡して、さっきあったことを話した。
渡された名刺をお父さんにも見せると、何度も頷いた。
お父さんは苦笑して、「この人は、これからミリを守ってくれる人だよ。だから次会ったときからは、ミリを守るために、ずっとついてくるはずだ」と言った。
ついてくる、という言葉で私は少しだけ戸惑ったけれど、さっきの疑問がなくなってすっきりとした気分になった。
「でも、なんで守ってもらうの?」
そう訊くと、お父さんは頷いて、それはミリに危険が訪れないようにだよ、と説明された。
私は平気だと思うけれど、頷き返した。
お父さんは早速グミの袋を開けて、グミを食べた。
「おっ、これはコーラか。美味いなあ」
なんだか、こういう少しだらしないところを見てしまうと、お父さんが大人には見えなかった。
「お父さん、本当に大人なの? 本当は変な薬を飲まされて、頭脳は子供だけど、大人になっちゃったとかじゃないの?」
「いや、それなら逆だろう。というか、ちゃんと大人だ。変な薬なんて飲まされてない」
苦笑して、言うお父さんに私は疑いの眼差しを向ける。
まあ、こんなことが実際にあるはずはないのだけれど。
そう思いながら、ママのところに行こう、としたときだった。
目の前からさっきの美香子さんが現れた。
もうさっきのつば広帽子は被っていない。
「ああ、佐々原さん。これからミリをよろしくお願いします」
お父さんは急にしゃきっと大人っぽくなって、美香子さんに言った。
美香子さんは頷いて、にこりと微笑んで言った。
「ええ、守り神部として、きちんと責任を持ってお守りさせていただきますわ。そこで、私がなにかでいないときに呼び寄せる、ベルを作りましたの。だからこれを肌身離さず、ミリ様には持っておいていただきたくて……。そうそう、首にかけられる使用になってますわ」
突然ぺらぺらと喋り出した、美香子さんに私は「あの、よろしくお願いします」と少し控えめに言った。
美香子さんは美しい顔で微笑んでくれた。