私がレイラさんに想いを伝えた日から、ちょうど一週間後。
あの後、私の言ったことにレイラさんは優しく笑って頷いてくれた。
つまり返事は、イエス、だ。
それから、生まれて初めての「お付き合い」をはじめて、私たちは彼女と彼氏になった。
浮かれ気分でまた旅に戻った私たちは、今、閻魔大王のいる、魔王城についたところなのだ。
私たちの目の前には、細い歪な形をした道が続いていて、道の下は、マグマで覆われている。
道を通るだけで、汗が噴き出してきて、すごく暑い。
私の顎から、汗が滴り落ちる。
なんとか広い地面のところに出た。
レイラさんと行列になっている死人をかき分けて、閻魔大王の豪華な席に近付く。
「あの、少しお話できませんか?」
レイラさんがそう訊いて、一歩前に踏み出した。
閻魔大王は不機嫌そうにレイラさんと私の方を向いて、「なんじゃ? 若造なんかと話してる暇なんかないんや。死んどらんのやろ? なら、こんなとこ来んなや」と真っ赤な顔をさらに赤くして、睨むように少し訛った口調で言われた。
私はあまりの怖さと迫力でレイラさんの背中に隠れた。
レイラさんは引くことなく、真っ直ぐに閻魔大王を見据えている。
尊敬してしまう。
私にはこんなことできない。
睨まれたら怖いし、しかもそれが閻魔大王だったら、地獄に落とされちゃうんじゃないかってもっと怖くなる。
「僕たちは、エリナ……さん、に頼まれてきました。話をさせてください」
閻魔大王は首を絶対に横に振らなくて、頑固な人なのだ、と私は思い、ママが困ったような表情をしていた気持ちが今なら理解できた。
「エリナ、だと? また閻魔をやめろとでも言いに来たのか! わしゃ、なんと言われようと、やめんからな」
閻魔大王は怒ったように、ぴくりと眉を動かして、だんっと両手で机を叩いた。
机に乗っている、分厚い本がひっくり返った。
「はい、説得をしにきました。お話だけでも」
レイラさんは落ち着きはらった調子で言う。
「帰れ!」
閻魔大王は椅子から立ち上がって、手から風を出した。
その風は一直線にレイラさんに向かっている。
レイラさんは風に押されて、細い道の真ん中まで突き飛ばされた。
そのとき、レイラさんのポケットからグミがマグマに落ちてしまった。
私がレイラさんに駆け寄ると、レイラさんは絶望したような表情で俯いていた。
「レイラさん、大丈夫っ?」
すぐに支えて立たせると、レイラさんは顔を上げた。
その顔は怒りに満ちた表情をしていた。
「閻魔。いい加減にしろ。人を見た目でしか判断できないお前に閻魔大王は向いてない。今すぐに、マグマに落ちろ」
私に言われているわけではなくても、震えるほどに低い声だった。
閻魔大王は動きを止めて、怯えたような表情をしている。
「れ、レイラさん、言いすぎだよ――」
と言うけれど、我を失ったように、私が何を言おうと、レイラさんには聞こえていないようだった。
今すぐにでも殴りかかりそうな勢いで言うレイラさんを私は、はらはらしたまま見守る。
「地獄に行け」
そう小さく呟いて、レイラさんは閻魔大王の胸倉を掴んだ。
そのまま、ずるずると引きずってマグマの前まで連れて行く。
「何するんや!」
レイラさんが閻魔大王をマグマに落とそうとしたとき、自然と口から言葉が洩れた。
「こんなのっ、レイラさんじゃない!」
周りに響き渡るほどの大声で叫ぶとレイラさんは驚いたように振り返った。
レイラさんは目を丸めて、「ぼくはいま、なにを……」と自分の手と閻魔大王を交互に見つめながら、唖然としたように呟いている。
よかった、元に戻ってくれて。
ほっと胸を撫で下ろし、私はレイラさんに今までのことを話す。
レイラさんは心底驚いていて、本当に記憶にないようだった。
「それで、レイラさんはなんで怒ってたの?」
想像はついていたけれど、一応訊いてみる。
「美波にもらった大切なグミをマグマに落とされたからに決まってるだろう」
眉をひそめて、迷いもなく言ったレイラさんに私は呆れた。
レイラさんには結構ポンコツなところがあるのだ。
「やっぱりね。グミだったら、またあげれるからそんなくらいで我を見失わないで。グミ、今あげるから」
怒って言うと、レイラさんは少し拗ねたようにそっぽを向いて言った。
「だって、あのときに美波がくれたのが、よかったから……」
私は、自分の顔が赤くなっていくのがわかった。
からかわないでよ、と怒り半分、恥ずかしさ半分で言ってグミを渡す。
レイラさんは渋々というふうに受け取って、しゃがんでいたのを、すっくと立ちあがった。
「というわけで、あなたには閻魔大王をやめていただきたい」
突然、閻魔大王に近寄っていってレイラさんは静かに落ち着いた様子で、言った。
閻魔大王は顔を顰めて「やめはせん。だが、見た目で判断するのはやめたるわい! 閻魔ノートを見て決めるんや」と苛々した雰囲気で言う。
レイラさんは「閻魔ノート?」と首を傾げる。
私もそれは気になっていたので、レイラさんに近づいていく。
「閻魔ノート、いい名前やろ? わしがつけたんや。人間界の人間すべてのことが書かれた貴重なノートなんや」
自身満々に言う閻魔大王に私たちは何も言えなくなる。
あまりにもネーミングセンスがなさすぎて、いい名前ですね、とも、変な名前ですね、とも言えずに私は苦笑いを浮かべた。
レイラさんはなんとか、というふうに口を開いて「そ、そうなんですね」とひきつった笑みを浮かべていた。
閻魔大王はあまり反応がなかったからか、少し眉をひそめて「なんや、反応薄いなあ」と豪華な椅子に戻りながら言った。
「じゃあ、僕たちはもう帰りますね。絶対に、閻魔ノートを見て、地獄か天国か、決めてください。この言うことを守れなかった場合、すぐに閻魔大王をやめてもらいます」
レイラさんは目を細めて何かを見定めるように言ってから、踵を返して歩き出した。
私は軽く会釈をしてから、「貴重なお時間をありがとうごいましたー」と一応それっぽいことを言ってレイラさんのあとに続いた。
スーパーで買った抹茶のカステラをプラスチックフォークで食べながら、寂しそうにグミを眺めているレイラさんの背中をさする。
「いい加減に立ち直ったら?」
呆れながらそう私が言うと、レイラさんは涙で濡れた顔を拭くこともせずに「だっべ、あれがよがっだ」と子供のように泣きじゃくりながら、意味不明な言語を話し出した。
首を傾げてレイラさんの顔を覗き込んで私は訊く。
「大丈夫? 日本語じゃないよね? ねえ、普通に話してくれないと、わかんないよ」
レイラさんからの反応はなくて、私は少し不安になる。
どうしたのだろうか。
グミをマグマに落とされたときから、レイラさんの様子がおかしい。
我を忘れて、暴力的な攻撃的な言葉を閻魔大王に言ったり、意味不明な言語を話し出したり、ずっと落ち込んでグミを見つめていたり、子供のようだったり。
いつものような大人の余裕というものがない。
ご飯だって、少ししか食べないし、なりより、笑顔のときがなくなってしまった。
「ねえ、どうしたの? グミがそんなにショックだったの?」
レイラさんの頬に流れる涙をハンカチで拭きながら尋ねると、レイラさんはゆっくりと顔を上げて日本語で返事をしてくれた。
「僕は、美波に怖い思いをさせてしまった……」
またすぐにレイラさんは俯いて、嘆くように言った。
私はなんのことだか、全く心当たりがなくて拍子抜けする。
「え、あのさ、なんのこと? 私、レイラさんに怖い思いさせられたこと、ないよ? 楽しい思いしかさせられたことないし、そもそも、レイラさんは私に怖い思いをさせようとするほど、悪い人じゃないでしょ。レイラさんは、世界でいちばん優しいんだよ」
戸惑いながら言うと、レイラさんは顔を上げて、意味がわからない、というように眉をひそめた。
「あの閻魔大王のときに、怖い思いをさせてしまったかもしれないと思っていたのだけれど……」
「ああ。別に怖い思いなんてしてないし、不思議な思いだっただけだよ。なんで突然こんなことに、って感じで。もしかして、そんなことでずっと落ち込んでたの?」
レイラさんは顔を真っ赤にして、ぼそぼそと小さい声で訊いてきた。
「じゃあ、僕は美波に怖い思いをさせてないのか?」
もちろん、と大きく頷くとレイラさんは安心したように、にこりとはにかんで「それじゃあ、行くか!」と勢いよく立ち上がった。
「うわっ、びっくり! ぐっ、ごほっ、ごほっ!」
私は驚いて、口に入れていた抹茶カステラが喉に詰まりそうになってむせる。
胸を、とんとん、と強く叩いて何とか胃に流し込めて、間一髪だ。
レイラさんは、途端に不安そうな顔に戻って「美波、ごめん。大丈夫か?」とすぐに私の背中を優しくさすってくれた。
「いや、ちょっと待って。『大丈夫か?』じゃないでしょ! レイラさんが驚かせるから喉に詰まって、死にかけたじゃん」
怒って言うと、レイラさんは俯いて怒られた子供のように項垂れた。
「ごめん……」
ちょっと言い過ぎたか、と思うけれどもう言ってしまったのだから、仕方がない。
「私も、ごめん。まあ、帰ろう!」
笑顔で言って抹茶カステラのゴミをゴミ袋代わりのレジ袋に入れて、立ち上がる。
レイラさんも笑顔になって、立ち上がって鳥に乗っかった。
「よしっ」
とレイラさんが言うと同時に、鳥はぱたぱたと飛んでまた勢いよく空の上に出た。
「あ、そういえばさ、今思ったんだけど、レイラさんの誕生日っていつなの?」
ふと思い立ってレイラさんの方を向いて訊くと、レイラさんは思い出すような仕草をしたあと「明々後日だが……」と平然とした声が返ってきた。
「ええっ? 明々後日って、もうすぐじゃん」
驚いて私はそう言う。
「ああ、そうだな」
レイラさんはまたしても、平然と答える。
「なんでそんななの。その日、私がケーキ焼いてあげるよ」
あまりにも冷たい反応なので言うと、レイラさんは目を輝かせて「ケーキ! なんのケーキを焼いてくれるんだ?」と嬉しそうに、にこにこ笑顔で尋ねてきた。
私は「うーん。レイラさんの食べたいもの」と言うと、レイラさんは、少し首を傾げて「それなら、チョコレートケーキがいいな。飾り付けるときにフルーツものせてほしい」と遠慮がちに言ってきた。
「いいよ! じゃあ、楽しみにしてて」
私はとびっきりの笑顔でレイラさんの手を取りながら、言う。
レイラさんは嬉しそうに目を細めてから、手を繋いでくれた。
ぴょんっとレイラさんの方の鳥に飛び乗る。
「こら、危ないだろう」
耳を赤くして、注意するようにレイラさんは言いつつも、私を鳥の前に座らせてくれた。
「照れなくてもいいのに。耳、赤くなってるよ」
にひひ、と照れ隠しで笑いながら言うと、レイラさんの「赤くなってない。あ、そうだ。今日は暑いからな」と焦ったような返事が返ってきた。
「レイラさん、嘘下手だね。今日は寒いよ。ほら、コート着てるじゃん」
振り返ってレイラさんの黒いコートを指差す。
レイラさんは「美波には、なんでもお見通しだな。恥ずかしい」と優しく微笑んだ。
「恥ずかしくなんかないよ。私のことだって、レイラさんはなんでもお見通しじゃん」
私よりも全然上にある、頭をそっと撫でて言った。
レイラさんは驚いたように目を丸くして、「はは、そうだな。僕らはなんでもお見通しだ」と大きな手で私の頭を撫で返してくれた。
「ねえ、私たちって繋がれてるのかな」
「繋がれてる?」
「よくあるじゃん。運命の相手とは、運命の赤い糸で繋がれてるって」
「じゃあ、僕たちは繋がれてるかもな」
レイラさんは薄い氷の膜の張った、今にも崩れそうなほどに脆い水面に触れるように、優しく優しく微笑んで、言った。
「美波!」
鳥の休憩中なので、レイラさんとお菓子を食べていると後ろから声が聞こえてきた。
私は絶句して振り返ると、予想通りお母さんが立っていた。
レイラさんは、この人が私のお母さんだと知らないので、不思議そうに首を傾げている。
「誰よ、この男性は! まさかあんた、今までこの男性と一緒にいたんじゃないでしょうね!」
顔を真っ赤にして言うお母さんを呆然と見つめながら、私はなんとか声を絞り出す。
「なんで、お母さんがここに、いるの?」
レイラさんは、やっとわかった、というふうに頷いて、お母さんを塞ぐように私の前に立った。
「初めまして。美波さんとお付き合いさせていただいている、レイラ・リヘナといいます。美波に『親不孝者』と言ったのは、あなたですよね」
「レイラ・リヘナ? 誰か知らないけど、あなたは黙っててちょうだい。美波、一緒に帰りましょ。新しいお父さんが待ってるわよ」
ぐいっと眉を吊り上げて強い口調で言ってきたお母さんを私は睨み返す。
「絶対に帰らない。私にはもう、ママがいるの。だから、私とお母さんはもう他人なの。二度と私と関わらないで。レイラさん、帰ろう」
私はそう言って、レイラさんの腕を引っ張って荷物を持って鳥に乗る。
「ちゃんと話さなくていいのか?」
レイラさんも鳥に乗りながら、訊いてくる。
私は無言で頷いて、すごい勢いで上に向かう鳥にしがみつく。
お母さんの本気で怒った表情を見ながら、私は少しだけ、ほんの少しだけ、罪悪感に苛まれた。
その後は、なんとなく気まずくて私もレイラさんもずっと黙っていた。
ひゅううう、と柔らかい風が私の肌を突き刺すように吹き抜ける。
鳥の背中に顔を埋めて、頭の中を忙しく動き回る怒りを鎮めようとする。
お母さんは、不倫してたんだ。
新しいお父さんも待ってる、その言葉を聞いたときに、直感的にそう確信した。
じゃなければ、こんなすぐに再婚なんてできるはずない。
裏で再婚の話が進んでいた、としか思えない。
一向に収まらない怒りをなんとかレイラさんにぶつけてしまわないように堪えるけれど、ネガティブ思考はどんどん深くなっていく。
なんで幸せなときにお母さんがいつも現れるの?
私はもう、あの事件のことも、無視されてたときのことも、ひとりで食べるご飯の味も、お母さんとお父さんも、忘れたい。
だめだめな人間だったときのことを、ネガティブだったときのことを、被害妄想をしてばかりのときのことを、完全に忘れたい。
過去には、もう思い出したくもない記憶ばかり。
「だからこそ、今を生きるんだよ。いちいち過去に囚われてたら、いつまでも前に進めないままになる。所詮過去だ。いずれ、なんてことない出来事だった、と思える日がくる。こなくても、その出来事は今の自分になるためにあったことだ、とプラスに考えればいい」
胸に、すとん、と落ちてきた私に必要だった言葉たち。
顔を上げて横を見ると、レイラさんが真剣な眼差しで私を見つめていた。
「なんで、考えてることがわかったの?」
「なんとなく。美波を見てたら、予想できた」
あっけらかんとした表情で言ったレイラさんには、嘘なんて言葉はなくてただ輝いていた。
ありがとう、と言うと、レイラさんは顔を緩めて笑った。
今のレイラさんの言葉で肩の荷がひとつ、降りた気がした。
「レイラさんはいつでも私に必要なものをくれる、ヒーローだね」
無意識のうちに口をついて出た本音に、私は驚いたけれど、言い訳をしたりはしなかった。
そう、レイラさんはヒーロー。
私はもう、あのころの記憶には囚われない。
前を向いて今を生き抜くって決めたから。
「ママ、ただいま!」
門のところで迎えてくれたママに言って、閻魔大王のときのことを話した。
ママは嬉しそうに笑って、「美波ちゃん、本当にありがとう! 今日はご馳走にしましょう。レイラも食べていったらいいわ」と歩き出す。
「あ、そうそう。ママ、私ね、レイラさんと付き合いはじめたの」
思い出してレイラさんに目配せしてから言うと、ママは興奮したように足を止めて振り返った。
「まあ! いつから付き合ってるの?」
にこにこ、と笑顔で訊いてきて、私は戸惑いながら「閻魔大王のところにつく前」と答える。
「どっちから告白したの?」
「わ、私、から……」
次の瞬間、ぼっと顔が赤くなるのがわかった。
ママはお上品に驚いたような表情をしたあと、笑顔で「ふふっ、青春ね。いいわあ、私にもこんなときがあったのよ」と懐かしそうにまた歩き出しながら言った。
レイラさんが、こそっと私に耳打ちしてくる。
「エリナはこういう話が好きなんだ。答えたくなければ、答えなくてもいいんだぞ」
優しいなあ、レイラさんは。
「大丈夫。答えたくないわけじゃないし。恥ずかしいだけだから」
笑顔でレイラさんの耳元で言うと、レイラさんは耳を赤くして「そうか」とそっぽを向いた。
意外にレイラさんは恥ずかしがり屋なのだ。
平然と言うけれど、本当は恥ずかしいと、すぐにそっぽを向いちゃうのだ。
「ねえ、ママはさ、この空孫国に住まないといけないの?」
ずっと思っていたことを今、思い出して訊くと、ママは頷いて「ええ。それがどうしたの?」と訊き返される。
「レイラさんのところで一緒に住めないかな、と思って。三人で過ごせたら絶対に楽しいから」
「確かに楽しそうね。でも、ごめんなさいね。たまに私も遊びに行くわ。泊まるくらいなら、できるかしら」
残念そうに笑って言ったママの言葉に私は「本当! じゃあ、たまに遊びにきてね。もちろん、泊まりでもきてね!」とママに抱きついた。
ソラソン城に入ると、まずは手洗いを済ませてから食べるときの部屋にレイラさんとママと行く。
シェフさんに「ご馳走をお願いします!」と頼んで椅子に座る。
「ふう。疲れたな」
レイラさんが背もたれにもたれて、疲れたように言ったのを聞いて、私は「そう? 鳥に乗ってたから、私はあんまり疲れなかったよ」と言う。
「エリナ様、閻魔大王の件はどうなったんですか?」
チョガさんがそう言いながら、部屋に入ってきて見ると、チョガさんはレイラさんを見つけると同時に、目を丸めて言った。
「なぜ、兄さんがここにいる?」
「なぜって、美波と旅をしてきたからだが? なにか不満でもあるのか?」
「不満なんかない。家に帰らないのか?」
「今日はここで食べていくんだ」
ぴりぴりとした空気が場に流れる。
「ふたりの仲は相変わらずね」
ママが平然とそう言ったとき、ご馳走が運ばれてきた。
「わあ、美味しそう! いただきます」
私はそう言って、ナイフとフォークを両手に持った。
運ばれてきた料理は、ステーキ。
じゅうじゅう、と音をたてるお肉を一口サイズに切って、お肉の柔らかさに驚いた。
恐る恐る口に入れると、肉汁が口いっぱいに広がって噛むたびに肉汁で口がいっぱいになる。
ステーキなんて、まだ二回くらいしか食べたことがなくて、しかもそれは小さいときだったから、味なんて全く覚えていなかった。
「これは、美味いな」
隣からレイラさんの感心するような声が聞こえて見ると、美味しそうに食べていた。
もう半分以上もなくなっている。
私はまたもう一口食べて、感動する。
毎回食べるたびに感激してしまって、なかなか食事が終わらない。
レイラさんなんて、もう食べ終わってしまっていて、赤ワインのグラスをゆらゆらさせていた。
「ワインとか、飲むんだね」
意外だったので言うと、レイラさんはワインで赤くなったであろう顔を向けて「へ? まあな」と言った。
レイラさんが酔っている様子で、私は少し不安になる。
ママはお酒に強いのか、白ワインをたくさん飲んでいる。
チョガさんは、お酒は飲まないらしく水を飲んでいた。
私はなぜか無性に烏龍茶が飲みたくて、烏龍茶をゆっくり飲んでいる。
ステーキを食べながら、私はまた感激する。
ふう、と息を吐いたときには、もうステーキが食べ終わっていた。
ごちそうさまでした、と言って手を合わせて烏龍茶をぐびぐび飲むと、隣から静かな寝息が聞こえてきた。
もしかして、と思い見ると予想通りレイラさんが机に突っ伏して寝てしまっていた。
「ママ、レイラさん寝ちゃったー」
レイラさんを起こさないように少し声をひそめて言うと、ママがこちらを向いて「あら、本当だわ。美波ちゃん、起こしてくれる?」と言われる。
私は頷いて、レイラさんの肩を揺さぶる。
「レイラさん、起きてー!」
「ん?」
レイラさんはすぐに起きて寝ぼけ眼のまま「なにかあったか?」と周りを見回した。
「なにもないけど、寝たら帰れなくなっちゃうじゃん。お酒もほどほどにしないと」
と言うと、レイラさんは「あれ、美波は飲まないのか?」と怪訝そうに眉を寄せた。
「いやいや、まだ未成年なんだけど」
「ああ、そうか。じゃあ、もう僕はそろそろ帰ろうかな」
レイラさんはふらふらとよろけながら立ち上がって言った。
「レイラ、そんなんじゃ帰れないでしょう。なに言ってるの。泊まっていけばいいじゃない。チョガの部屋に布団でも敷きましょう」
ママが慌てたように立ってレイラさんに言う。
けれども、レイラさんは「いや、帰るよ」となぜか頑なに泊まっていこうとしない。
「え、泊っていきなよ。怪我するよ」
私がそう言うと、レイラさんは「美波が言うなら、泊ろう」と頷いてまた椅子に戻った。
「やっぱり彼女の力はすごいわね」
ママの感心したような声に私は、いやいや、と謙遜する。
「は、彼女?」
素っ頓狂な声がして見ると、チョガさんが驚いたような表情をしていた。
「ああ、チョガには言ってなかったか。僕たち付き合ってるんだ。悪いが、チョガの負けだな」
レイラさんは酔いが覚めてきたのか、落ち着いた様子で、ふふん、と笑いながらチョガさんに言った。
「はあ? なんで僕に彼女ができなくて、兄さんにできるんだよ」
「僕はモテるからな。かっこいいとよく言われるし、美波には『お嫁さんになりたい』とまで言われたんだ」
「ちょっと、レイラさん!」
私は大声を出して、レイラさんに言うと、レイラさんは驚いたような顔をしたあと、「これは秘密なんだった。美波、ごめん」と寂しそうに謝られる。
けれども、そんなことはお構いなしに、チョガさんはもっと不愉快そうな顔をして黙り込んだ。
とても気まずくて、私は烏龍茶を一口飲む。
「さ、さあ、美波ちゃん、お風呂にでも入りましょう」
にこっと気まずそうな笑顔でママが言って、私は頷いて席を立った。
ママとお風呂場まで行って、ひとりで入る。
お風呂の個室が十個以上もあって、ひとりひとりで入れるようになっている。
私はそのうちの、一番端のお風呂に入る。
中は広くて、充分に足を伸ばせる湯船があって、水風呂とサウナもついている。
初めてお風呂に入ったときは、豪華すぎて思わず一旦外に出てしまった。
身体を洗ってから湯船に浸かると、疲れが一気にとれたような感覚。
しばらく漬かったまま、ぼーっと虚空を見つめる。
ほっと一息吐いたところで、サウナに入る。
木製の横長の椅子に座って十分経ったら出よう、と全身に暑さを感じながら、目を瞑った。
少しうつらうつらとしてきたところで、そろそろ十分経ったかな、と時計を見てサウナを出た。
暖かいお湯を頭から浴びて、水風呂に浸かる。
こうするといいのだ、と初めてこのお風呂に入るときにママが教えてくれた。
水風呂から上がると白い寝転がれる椅子があって、ごろんと横になった。
なんだかほわほわしたような気分でなんだか心の疲れも体力の疲れも本当に消滅したような感覚だった。
ふわあ、と私が動くたびに穏やかに湯気が揺れた。
そろそろ出よう、と湯船を出て軽く身体を拭いて、外に出る。
服に着替えてから、ぶおお、とドライヤーで髪を乾かす。
ぽかぽかぬくぬくで、レイラさんたちのところに戻った。
「ただいまー」
とご機嫌で言いながら部屋に入ると、チョガさんはいなくてレイラさんだけが座って、寝ていた。
「あ、レイラさん、また寝てる! ちょっともう、起きてよー」
ゆっさゆっさ、と私はレイラさんを揺さぶる。
ん、と顔を上げたレイラさんに私は訊いた。
「チョガさんは?」
「美波か。チョガは風呂に入ってる」
瞼を擦りながら、眠そうにレイラさんは言って、にこっと優しく微笑んだ。
「レイラさんはもう入ったの?」
「いや、まだだ。誰もいないと美波が困る、と思ってな。じゃあ、僕も入ってくるよ」
レイラさんは笑顔で私に手を振りながら、お風呂へと行ってしまった。
優しいなあ、と改めて思う。
がちゃり、と扉が開いてママが部屋にやってきて、椅子に座った。
真っ白で綺麗なバスローブに身を包んでいて、なんだかおしゃれな映画にありそうな雰囲気だと思った。