「おはよう、美波ちゃん。少し話があるのだけれど、いいかしら?」
豪華で大きな洗面所のようなところで顔を洗ってから、ママの部屋に行くと、そう言われた。
「おはよう! いいよ。なんの話?」
私が笑顔で頷いて訊くと、申し訳なさそうに「レイラと美波ちゃんで、おじいさまを説得させる旅に行ってきてほしいの」と頼んできて、私は目を丸くする。
どういうことだろうか。
「おじいさまを説得させる旅?」
私が首を傾げて言う。
ママは深刻そうな表情で「ええ。私のおじいさまは閻魔大王なのだけれど、おじいさまは見た目で人を判断して、地獄に行かせるか、天国に行かせるか、決めているのよ。おじいさまには向いていないから、閻魔大王をやめた方がいいと思っているの。私も何度か説得に行っているのだけれど、首を横に振るばかり。チョガにも三回ほど頼んだことがあるの。けれど、それもだめだったわ」と潤んだ瞳で自身の頬を撫でながら言う姿を見ていると断れるはずもなかった。
私は「え、閻魔大王っているんだ。私とレイラさんで、おじいさまを絶対に頷かせて帰ってくるね!」と勇気を出して頷きながら言った。
ママは安心したように涙を流して、「美波ちゃん、本当にありがとう。じゃあ、これから準備しなくちゃいけないわ!」と張り切ったように、にこっと微笑んだ。
「じ、準備?」
「そうよ、おじいさまのいる場所に行くのに、片道で一週間以上かかるもの。おじいさまを説得させるには大体で五日は必要なのよね。ここに帰ってこれるのは一ヵ月後くらいかしら。ごめんなさいね、もう頼りはレイラと美波ちゃんしかいないのよ」
眉を下げて穏やかに言うママを唖然と見つめながら、「そ、そうなんだ。じゃあ、準備、してくるー」と一息でそう言ってから私は自分の部屋に逃げるように駆け込んだ。
一ヵ月も旅をするなんて、私には体力がなさすぎるから、きっとレイラさんに迷惑をかけてしまう。
だからって、あんなママの困ったような顔を見たら、断れるはずはないのだけれど。
私は絶望したような落ち込んだような思いで荷物を準備しはじめた。
「レイラさん、久しぶり!」
私は荷物の詰め込まれたぎゅうぎゅうのリュックサックを背負って、レイラさんの元に駆け寄って微笑む。
「美波、久しぶり。それじゃあ、行こうか」
そっと私の頭を撫でて先を歩き出したレイラさんの私より全然大きい背中を見つめていると、あることに気付いた。
レイラさんの背負っているリュックサックのチャックが開いていたのだ。
私は静かにチャックを閉めて、レイラさんの隣に並んだ。
不思議そうな顔をしたレイラさんに私は、話題を振る。
「国はできたの?」
「ああ、あと少しだ。できたら、美波専用の家を作るよ。そこに住むといい」
優しくふわりと微笑んで言ったレイラさんに私は笑顔になって「ありがとう! 楽しみだなあ」と返した。
レイラさんの美しい横顔を眺めていると、ふいにレイラさんの後ろに大きな大きな私とレイラさんの何倍もある黒い鳥が歩いているのが目に入った。
「と、とりっ⁉」
思わず叫ぶとレイラさんは落ち着いた様子で横を向いて「ああ。こいつに乗って閻魔大王の家に行くんだ」と説明してくれた。
気付けば、私の隣にも黒い鳥が歩いている。
へえ、と頷いて私は鳥のふわふわの背中を撫でた。
私はレイラさんの合図で鳥に乗っかる。
ばさっと大きな翼を広げて、鳥は空高く飛んだ。
少しだけぐらぐらと揺れて怖かったけれど、すぐに安定してまっすぐ鳥は行き先をわかっているかのように飛び始めた。
レイラさんも遅れて私と並んだ。
一瞬、視界が真っ白になったと思ったらすぐに真っ青な空と雲が広がった。
「きれい……」
と声を上げるとレイラさんは嬉しそうに私の方を向いて「綺麗な景色だろう」とはにかんだ。
頷いて私は太陽に手を伸ばしてみた。
私の手は透けるようで、透けなかった。
ぎゅうっと鳥にしがみついて、黒い艶やかな羽根に顔をうずめて泣きそうなのを必死に隠した。
そういえば、とあることを思い出して私は顔を上げた。
「レイラさん、そういえばさ、あの国が壊されるやつ、どうなったの?」
そう訊くと、レイラさんは思い出すように顎に手を当てて、「ああ、あれな。なにもこなかったんだ。たぶん、雲で動くからもう見つけられなかったんだろう」と平然と言った。
「なんだ、ならもう安心だね」
「いや、まだ完全に安心なわけじゃない。いつか見つけられるかもしれない」
覚悟をするような言い方で言ったレイラさんに私は、ああそっか、と頷いた。
「ここで一旦、休憩するか」
三時間ほど経ったころに、レイラさんはそう言った。
「えっ、このまま行かないの?」
驚いて訊くと、レイラさんは頷いて「行くのに、長くて二週間はかかるらしいからな。休憩しながら行かないと鳥も倒れるだろう」と鳥を撫でた。
私はママの言っていたことを思い出して、「そうだった! お菓子でも食べながら、休憩しよう」と笑顔でレイラさんの方を向いて言うとレイラさんも笑顔で頷いてくれた。
鳥は会話を聞いていたのか、すごい勢いで着陸しようと下に向かう。
ジェットコースターに乗ったらこんな勢いなのかな、と想像しながら私は鳥にもたれかかる。
すたっと優雅に地面に着地した鳥は得意そうに、ふんっと鼻を鳴らして身震いをするように身体を左右に振った。
私は鳥の背中から降りて、リュックサックからお菓子を出した。
レモン味とグレープ味のグミとシャインマスカット味といちご味とグレープ味の飴玉とクッキーとチョコレートとポテトチップスのうすしお味。
レイラさんに驚いたような表情で「す、すごい量だな」と言われて私は「でしょ。選べなくてたくさん買ったの」と言いながらポテチを開ける。
私がポテチを口に入れると、レイラさんも私にならって、ポテチを食べた。
クッキーとチョコレートとグミも開けて、私はチョコレートを一粒、口に入れて食べる。
レイラさんがグミを真剣な顔をして必死に噛んでいて、私は思わず噴き出した。
「ちょ、噛めないの? もしかして、グミ食べるのって、はじめて?」
笑いを堪えながら訊くと、当然だ、というふうに頷かれた。
今までグミを食べたことがない人と出会うのは生まれて初めてで、私は「へ、へええ」と苦笑いで適当に相槌を打つことしかできない。
レイラさんはなんとかグミを飲み込んだのか、次はクッキーを食べている。
「クッキーは食べたことあるの?」
私がグミを食べながら訊くと、レイラさんは、ああ、と頷いた。
「へえ。グミが食べたことないなんて。あとまだひとつあるから、あげようか? 美味しいでしょ」
レイラさんは嬉しそうに顔をぱあっと輝かせて子犬のように「くれ。噛むのは難しくても、美味いからな」と恥ずかしそうに両手を差し出してきた。
はい、と渡すとレイラさんは大切そうに服のポケットにしまった。
そういえば、と「想いの硝子」を奪われたときにレイラさんが子供になっていたことを思い出した。
「ねえ、レイラさん。もしかしてだけど、『想いの硝子』を奪われたときに、子供になったときのこと、本当は自分でも覚えてるんじゃない? テレビの操作とか普通にできてたし、なんか子供にはできなそうなこととかしてたし」
思い当ったので、そう言ってから、後悔した。
記憶になかったら一から説明しないといけないし、そもそも、自分が子供になってたなんて知ったら、レイラさんが恥ずかしい思いをするかもしれない。
ぐるぐる、とネガティブ思考が渦巻く思考を遮ったのは、レイラさんの一言だった。
「実は、な。まあでも、少し子供心に戻ってたから、あまり自分で動いたって感じではないな」
少し意味がわからなくて、頭にクエスチョンマークが浮かんだけれど、すぐに意味を理解する。
子供になっていたときは、子供心に戻っていて、自分で自分を操作していたというよりかは、子供心の自分が動いていた、という意味だろう。
「なるほどね! いやあ、あのときはちょっと大変だったな。疲れちゃった。お母さんとお父さんもこんな思いで私に疲れちゃったのかな……」
面倒くさそうなお母さんとお父さんの顔を思い出しながら、独り言のように言う。
泣きそうになって、チョコレートを食べる。
「いや、そんなことない。もう美波の親は、エリナなんだろう?」
眉尻を下げて、寂しそうに言うレイラさんを私は、ぱちくりぱちくり、と瞬きをして見つめる。
数秒の沈黙の後、「うんっ!」と笑顔で私は頷いた。
さああ、と強い風が吹いて、私は目を覚ました。
お菓子を食べたあとにあのまま寝てしまったようだ。
「ふ、ふぁああ。れ、レイラ、さん……?」
目を擦りながら起き上がると、レイラさんも隣で眠っていた。
レイラさんも寝ちゃってたのか、と思いながら、ぼーっと空を見つめてレイラさんが起きるのを待ってみるけれど、なかなか起きてこない。
もう十分ほどは経っただろうか。
ゆっさゆっさ、と揺らしてみるけれど、びくともしない。
「レイラさんっ? 起きてよ、ねえ!」
大声を張り上げて言ってみるけれど、レイラさんは動かない。
「ねえ……っ」
か細い声を出しても、レイラさんは目を開けなかった。
ぶわり、と咲き遅れた不幸を呼ぶ花が咲くように、涙が溢れ出てきた。
嫌だ、嫌だ、認めたくない。
この苦しくて残酷すぎる現実を、受け入れたくない。
「ねえっ、レイラさん! 起きて、起きてよ! お願いだからっ」
ぎゅっと力強くレイラさんにしがみついて、縋るように言うけれど、やっぱりレイラさんは起きない。
「美波……?」
後ろから聞き覚えのある声がして、ばっと振り返ると、レイラさんが大きな袋を抱えて立っていた。
なにが起きたのかわからずに、涙も引っ込んでしまう。
レイラさんは、ここで息をしてないのに、なんで生きてるレイラさんが目の前にいるの?
なにも言うことができずにいると、苦笑いをして生きているレイラさんが話し出した。
「美波、それ、人形なんだ。朝食の食料を調達するために近くにあったスーパーで買い物に行っていたんだが、美波が起きて僕がいないと大変だから、人形を置いておいたんだ」
袋をレイラさんの人形の隣に置きながら、レイラさんは平然と言った。
「な、なんだ。人形か。もう、泣いちゃったじゃん! 置き手紙とかにしてくれたらいいのに!」
私は驚いたまま、レイラさんの背中を拳で軽く叩いて言うと、レイラさんは「思い付かなかった。ごめんね」としゅんと肩を落とした。
「でも、生きててよかった。で、朝ごはんあるんでしょ? なあに?」
袋を指差してレイラさんに訊くと、レイラさんは微笑んで教えてくれた。
「トマトとチーズのトーストでも作ろうかと思ってるが、嫌いか? なら、変えるが……」
「嫌いじゃないよ! チーズは大好物! モッツァレラチーズが特に好き!」
笑顔で言うと、レイラさんは安心したように「トマトはミニトマトで、チーズは、モッツァレラだ」とモッツァレラチーズとミニトマトを袋から出して見せてくれた。
私は「じゃあ、はやく作って食べよう!」と袋から一斤の食パンを出してミニトマトとモッツァレラチーズを乗せて、食パンで挟む。
「あれ、焼けなくない? トーストじゃないよね?」
私はあることに気が付いてそう言う。
レイラさんは頷いて、そのままで食べればいいだろう、と当たり前のように言った。
「え、じゃあ、トーストじゃないよ。え、待って。このモッツァレラチーズ、加熱しないで食べれるやつ?」
私がモッツァレラチーズの入っていた袋の裏を見ると、加熱はしなくていいやつだった。
「それくらい僕でも見てるよ」
少し怒ったように言ったレイラさんに私は謝って、トーストじゃない、トーストにかぶりついた。
チーズが伸びる、ということはなく、普通にミニトマトとチーズがパンに挟まれて口に入ってくるだけだった。
意外に焼いていなくても、美味しい。
レイラさんも私のようにかぶりついて、美味しい、と声を出していた。
食べ終わったら、片付けをして、出発することになった。
荷物を持って鳥に乗ると、またすごい勢いで雲の上に行って安定した調子でびゅおおと弱い風の吹くなか、鳥は余裕そうに飛ぶ。
優雅に飛ぶ鳥の頭を撫でながら、レイラさんの真っ直ぐに前を見つめる横顔を眺める。
私は、レイラさんが好きだ。
横顔も、意外に子供っぽいところも、優しいところも、強いところも、幸せそうな表情をよくするところも、私と飽きずにずっと一緒にいてくれるところも、なにもかも、大好き。
家族とか友達とかとして、とかじゃなく、きっと今のレイラさんと私は、友達以上、恋人未満だ。
友達よりは上だけれど、恋人とは違う、みたいな。
この間、ママのおすすめで読んだ本に「友達以上、恋人未満」という言葉がでてきて、それからよく使うようになった。
私は、少し謎めいたような言葉が好きだ。
謎めいた言葉について、詳しく考察するのとか、そういうことをするのが結構好きなのだ。
「レイラさん、ずっと一緒にいてね」
ぼそっと小さく呟いて、レイラさんの綺麗な横顔を脳裏に焼き付けた。
「ねえ、休憩しないの? 眠いよ」
欠伸をしながら言うと、レイラさんは頷いた。
もう、大きな三日月が出ていて、夜中だ。
「眠かったら、寝ててもいい。今日は朝までこのまま飛んで、明日の昼にどこかで休憩する予定だからな」
レイラさんは全く眠くなさそうに淡々と言った。
私は「じゃあ、おやすみ!」と大声で言って、鳥にもたれかかって目を瞑った。
ぴち、ぴちち。
穏やかな鳥の鳴き声で夢の世界から現実世界に引き戻されて、重たい瞼をこじ開けた。
目を開けると、真ん前には赤く染まっている空と雲と、鳥の黒い頭。
すぐには状況が理解できずに、しばらく目をぱちぱちと瞬かせた。
ああ、まだ早朝なのか。
横を見ると、レイラさんが優しい眼差しで赤い空を見つめていて、レイラさんの瞳の中に赤い朝焼けがきらきらと輝いて映っていた。
「レイラさん、おはよう」
静かに声をかけると、レイラさんは微笑んでこちらを向いた。
「美波、おはよう。よく眠れたか?」
太陽がじりじりと空の中心に向かっていくのを肌で感じながら、私は頷く。
「今ここで、ご飯、食べてもいい?」
リュックサックを漁りながら訊くと、レイラさんは頷いて前を向いた。
私は塩むすびのラップをめくって、口に運ぶ。
四口食べたところで、ふと視線を感じて横を向くと、レイラさんが羨ましそうにこちらを見ていた。
食べたいのかと思い、私がもうひとつの塩むすびを見せると、レイラさんは「くれるのか?」と目を輝かせて手を出した。
「食べたいんでしょ? あと六個あるから、いいよ」
笑って言うと、レイラさんは恥ずかしそうに「ま、まあな。ふたつでいいから」と私から顔を逸らした。
「あはは! もう照れちゃって、かーわいー」
塩むすびを渡しながら、にやにやして言う。
レイラさんは「いや、別に照れてない。可愛いのは美波の方だろう」とそっぽを向いて塩むすびにかぶりついていた。
え、可愛い?
可愛いなんて言葉、幻だと思ってた。
今まで一度も言われたことがなかった。
初めて、言われた。
しかも、異性に。
好きな人に。
こんな私でも脈ありなんじゃないかって思ってしまう。
絶対に叶わない恋だと思っていた。
きっとレイラさんは恋愛に興味がないんじゃないかって思っていたけれど、今のは希望を抱いてしまってもいいということだろうか。
「ふふ。レイラさんも、可愛いね」
にこっと微笑んで言ってレイラさんの鳥に飛び乗った。
ぐらぐらとぐらついたけれど、すぐに安定した。
レイラさんは驚いたように、目を見開いてがしっと私を抱きかかえてくれた。
「ありがとう。一緒に乗ってもいい?」
笑顔で言うと、レイラさんは頬を赤らめて「それはいいが、急に来たら危ないだろう」と言いながら私を前に座らせてくれた。
思っていたよりも距離が近くて、どくどくと心臓が早鐘を打つ。
「や、優しいね。レイラさんってどうして、そんなに私とずっと一緒にいてくれるの?」
ぎゅうっと鳥にしがみついて顔が赤いのを隠しながら訊くと、レイラさんが静かに暖かい声音で答えてくれた。
「美波が、なによりも大切だからだよ」
「なによりも?」
「ああ。誰よりも、なによりも美波が世界でいちばん大切だ」
涙が頬を伝って、鳥の首筋を濡らす。
「好き。私ね、レイラさんと過ごしてたら、苦しいって思うことが少なくなった。全部全部、レイラさんが好きだから。いつの間にか、レイラさんのことが大好きになってた。最初は友達みたいな存在だったけど、気付けば、レイラさんの隣に並ぶのは私じゃないと嫌だ、なんて我儘になっちゃった。レイラさんの、優しいところも、気遣ってくれるところも、少しポンコツなところも、全部、大好き。誰よりも、私がいちばんレイラさんを好きだって胸を張って言える。だから、私の隣にずっといてほしい……」
思わず零れ落ちた私の長い一言にレイラさんが目を見開くのが、容易に想像できた。
何か言い訳をしようと、口を開いたときだった。
レイラさんの口から最も聞きたかった言葉が耳に飛び込んだ。
「僕も、美波が大好きだよ。誰よりも愛してる。どんなに美波が辛くて苦しくても、僕がずっと隣にいて、慰めてあげる。もし、僕たちが死んで天国に行ったら、ずっとお花畑で遊ぼう。地獄でも、一緒に行くから」
ぽうっと私の胸に眩しい眩しい灯りが灯った。
ありがとう、と言いたいのに、嬉しすぎて声が出てこない。
そのとき、あることが頭に蘇ってきた。
そうだ。
私の小さい頃の夢は、鳥さんのお嫁さんになることだった。
鳥さんのことが、いや、レイラさんのことが、昔から私は好きだったんだ。
絞り出すようにして呟いた、小さな一言は私でも驚きの本音だった。
「私ね、レイラさんのお嫁さんになりたい」