がたんごとん、と電車に揺られながら背もたれに背中を預けて、横に流れていく風景を見つめた。
今日はなんとなくはやく起きてしまい、六時二十五分発の電車に乗ったのだ。
眩しい日差しで照らされる車内にはこの車両には私以外誰もいなくて、世界が私だけになったような気分になった。
とても静かな時間が流れる。
さああ、と葉が木々を撫でるような音が聞こえてくる。
ふいに昔のことを思い出した。
あれは……
ぷー、がしゃん。
ドアが開いて、私は今停まっている駅を確認して、電車を降りた。
駅も静かで人は数えられるくらいしかいなかった。
けれど、駅を出ると一気に騒がしくなる。
近くで有名人が撮影かなにかをしているらしい。
私は人の合間を縫うように学校へ向かう。
学校に近づいてくるとやっと人は引いてきて、ふう、と私は安堵の息を吐いた。
あのまま人の波に押し潰されるんじゃないかと思うくらいにたくさんの人がいて息が詰まるようだった。
放課後にあの森秋公園に行こうと決め、私は校門を入って、教室に向かう。
学校の中には人が全くといっていいほどにいなくて、教室に入っても私しかいなかった。
すうっと朝の学校の空気を存分に吸って席に着くとひとりの生徒が入ってきた。
一昨日の転校生、浅海くんだ。
「お、おはよ」
にこっと微笑んで挨拶をすると、眠そうに目をこすって私の隣にある席に座り、おはよ、と挨拶を返してくれた。
「思い出したんじゃない? あのときのこと」
ぽつりと呟くように言った浅海くんの言葉に私は、息を呑んだ。
「なんのこと?」
確かに私は思い出したけれど、浅海くんとは関係のないことなはずだ。
ガラッ。
何人かの生徒が教室に入ってくる。
そろそろ普通に人が来る時間だ。
「あーあ」
浅海くんはぼそっと言ってもうさっきのことは忘れたかのように前を向いた。
学校が終わる時間までは特になにもなくて、あっという間だった。
私は荷物をまとめて一緒に帰ろうと言ってくれる恵理に、用事があって、と言ってすぐにあの公園に向かった。
公園に入ろうとしたときだった。
ふと、透き通るように綺麗な深い青色が目を引いた。
足元を見れば、見覚えのある鳥の羽根が落ちていた。
「鳥さん――」
ひょいと拾い上げると、その羽根はどこかに向かって動き出した。
私の足は反射的に羽根を追いかける。
細い路地に出て、そのまま真っ直ぐ行ったところで羽根は、ぱっと止まって、思わず広げた私の両手の上に落ちた。
目の前にあるクスノキの枝に綺麗なこの羽根の持ち主である鳥さんが、いた。
はっと私は目を見張る。
そこには、いつの日か一緒に遊んだ、大好きな空の主の青い鳥さんだったのだ。
「なんで、鳥さんが、いるの?」
ほろり、と涙が零れて、羽根の上に落ちる。
鳥さんは少し口角を上げて「久しぶりだね、美波。会いたかったよ」と鳥さんの瞳からもきらきらと光る涙が流れた。
うん、と私は頷いて、鳥さんのふわふわの頭を優しく撫でた。
気持ちよさそうに目を瞑り首を伸ばす鳥さんの表情は幸せそのものだった。
「ねえ、鳥さんはなんでここにいるの? あのときは遠くに行くって言ってたのに。もしかして、私に会いたくなっちゃった?」
私と鳥さんは原っぱにごろんと寝っ転がって、空を見つめながら話す。
「美波の言う通り」
鳥さんと私は見つめ合う。
まさかこんなにすらっと言われるとは思わなかった。
ふふ、と鳥さんが笑みを浮かべた。
「私ね、ずっと苦しかったの。女の子の財布が落ちてたから、拾ったらその子のお金を盗ったって言われちゃって。お母さんにもお父さんにも、その日から無視されるようになって、ずっとひとりだった。だから、これからも昔みたいに、遊んでくれる?」
鳥さんの顔から笑みが消えた。
苦しそうに顔を歪めて「それは、できない」と言った。
目の前がぐらりと揺れた。
「なん、で?」
「僕には『想いの硝子』というものがないんだ。空の主になった僕には必ずこの『想いの硝子』がないといけない。だからそれを探す旅に出ないといけない」
寂しそうに言う鳥さんをぎゅうっと抱きしめた。
「嫌だ。私も行く」
我儘だ、ということはわかっているけれど、鳥さんと一緒にいたかったのだ。
「それはだめだ。美波が行くには壮絶すぎる旅になると思うんだ。美波を危険な目に合わせるわけにはいかない。でも、大丈夫だ。その羽根を持っていれば、いつでも、僕のことを呼んでくれたら、すぐに飛んでくる」
一旦、抱きしめていた手を離すと鳥さんは安心させるように優しく微笑んだ。
あの後、すぐに鳥さんは旅に行ってしまった。
私はあれから部屋でたくさん泣いたけれど、立ち直って普通に学校へ向かった。
学校について席に座ると、まだ浅海くんしか来ていなくて、誰もいなかった。
「おはよう」
浅海くんににこっと微笑まれて、おはよう、と私も返した。
次の瞬間、目の前に黒い羽根が舞った。
ばさっと長いスーツのふわりとしている部分を広げる音が聞こえて、気付けば浅海くんが真っ黒の紳士なスーツに身を纏っていた。
ふっと怪しく笑って右手を胸にあて、お辞儀をするような体勢になって言う。
「美波様。お迎えに上がりましてございます」
なにが起きたのかわからなかった。
無言で黙っていると、浅海くんは私の思っていることを見透かしたかのように言った。
「わたくし、エリナ・ソラソン様に仕える、チョガ・リヘナと申します。浅海悠里、という偽名でこちらの学園に入り、美波様から『想いの硝子』を頂戴しろ、とエリナ様からのご命令をお受けいたしまして、空の彼方よりやってまいりました。どうぞ、わたくしのことは、チョガ、とお呼びください」
私はわけがわからなくて、混乱した頭を必死に整理して、「ちょ、チョガさん。『想いの硝子』って……」と訊ねる。
チョガさんは「『想いの硝子』とは、空の主になったものには必要不可欠な心臓の一部のことでございます。それをあなたはどうしてか、お持ちなのです。それをわたくしに渡してくださいませんか」と頭を深く下げてくる。
私はどうすればいいのか迷い、鳥さんを呼ぶことにする。
ポケットに大事に大事にしまっていた鳥さんの羽根をぎゅっと握りしめて、小さい声で「鳥さんっ、お願い、来て――」と話しかけるように言った。
ぱあっと目の前で光が弾けた。
「美波、どうした?」
光の中から現れたのは、鳥さんだった。
「チョガさんが、『想いの硝子』を渡してって」
言うと、鳥さんは「チョガ?」と目を見開いて、はっと後ろを振り返った。
「おや、これはこれは、兄さん。久しぶりですね」
にこにことした笑顔を崩さずに言ったチョガさんの一言に、え、と私の頭はかちんと固まった。
「チョガ、まだ『想いの硝子』を狙ってたのか。で、『想いの硝子』は美波が持ってるのか?」
ふたりは兄弟なのだろうか。
けれども、あまり仲が良くなさそうだ。
「ははっ。そうだよ。じゃあ、美波様、渡しくださいますか。『想いの硝子』を」
急にチョガさんは私の方を向いて言った。
「わ、渡さない! 私は、鳥さんに、渡したい」
私は自分の想いを伝える。
チョガさんは「ほう。ならば、奪わせてもらう」と構えた。
鳥さんが「両手を合わせて、胸にあてて、『想いの硝子』を渡したい相手を思い浮かべるんだ」と早口で言って、私の前に立った。
ふたりが言い合っているのを耳に入れながら、鳥さんに言われた通りにする。
私の胸から光輝いたものがひゅうと抜け出して、鳥さんの胸にすうっと入っていった。
ぱっと鳥さんが輝いて、「想いの硝子」が鳥さんに馴染んだら、輝きが消える。
チョガさんは絶望したような顔でチッと舌打ちをして、ばさっと紳士服の袖を広げて、黒い鳥になって空へと飛んでいった。
「僕は、レイラ・リヘナ。レイラとでも呼んで。まだ、『想いの硝子』は僕に馴染んでいない。だから、馴染むまで、一緒にいてくれないか?」
少し恥ずかしそうに言って、鳥の姿のときと同じく美しい顔立ちの人間の姿になった。
人間になることもできるんだ、と思いながら「レイラさん! うん、ずっと一緒にいよう」と笑顔で言った。
おはよう、と耳元で声が聞こえた。
すぐそこには鳥の姿をしたレイラさんがベッドのふちのところにとまっていた。
「レイラさん、おはよう。ここは、どこ?」
見覚えのない葉っぱで作られたような小さな空間を見回して訊く。
あの後、私は「想いの硝子」をレイラさんに渡したことにより、気絶してしまったらしい。
「僕の家だ。これからここで暮らそう。あの家には帰りたくないだろう」
控えめな笑顔でそう言ったレイラさんをぱちぱちと瞬きをしながら見つめて「うん。ありがとう」と満面の笑みでレイラさんの頭をなでなでと撫でた。
嬉しそうに笑ってレイラさんはいつものように首を伸ばした。
私は起き上がって、葉っぱでできた丈夫な葉っぱの椅子に座って、レイラさんに、食べていい、と言われた美味しそうなシチューを頬張った。
中には、にんじんやお肉など美味しそうな具材ばかりが入っていて、下には、お米が入っていた。
誰かに作ってもらったご飯を食べるのは本当に久しぶりで、とても美味しく感じられた。
「美味しいか?」
と不安そうに訊いてくるレイラさんに頷いて、めっちゃ美味しい、と返すとやけに嬉しそうに、そうか、と返ってきた。
「これ、レイラさんが作ったんだよね?」
葉っぱの小さな台所を指差してレイラさんに訊くと、「ああ。具材は買ってきた」と頷いた。
こんな美味しいシチューが作れるなんて凄いね、というとレイラさんは「そんなことはない。ひとりだったから今まで簡単なシチューをたくさん作ってきただけだ」となんてことないような顔で言う。
「謙遜しないでよー!」
頬を膨らませて言うと、レイラさんは目を丸めたあと、表情をふわりと和ませて、ふふっとふたりで笑い合った。
「美波、今日はどうする? 買い物に行くか? 欲しいものがあればなんでも買ってやるし。あと服も買った方がいいかもな。それとも、公園に遊びに行く?」
突然お世話好きのレイラさんが顔を覗かせた。
「ううん。私はレイラさんと森までピクニックに行きたい! パンとかサンドイッチ持って。どう?」
今日は外でゆったりしたい気分だった。
レイラさんは少し拍子抜けしたような表情をして「美波が行きたいなら。でも、そんなのでいいのか?」と不安そうに訊いてきた。
「いいの!」
そう言うと、レイラさんは人間の姿になって張り切ったように言って準備をはじめた。
「じゃあハムとたまごとレタスとハムのサンドイッチふたつとあんぱんとフランスパンを持って行こう。このバスケットに入れてくか」
意外におしゃべりなのだろうか。
なんか、こういう人と出会ったことがあったような、ないような?
ま、いっか。
「私も手伝うよ」
「いや、いいよ。美波はシャワーでも浴びてきて」
真剣にサンドイッチの食パンの間にハムとレタスを詰めながら、言った。
わかった、と私は返してシャワーであろう場所に入った。
しゃっと厚めの葉っぱで出来たカーテンを閉めて、シャワーを浴びる。
髪も洗おうかと思ったけれど、ここにドライヤーがあるかわからないので、やめといた。
しかも、腰くらいまであるロングヘアーなので、洗っても自然に乾くことはない。
服の背中のところが濡れてしまう。
私は髪をたまたま持っていた髪ゴムでポニーテールに結んだ。
全身を洗い終わったら、出て、そこに置いてあったタオルで拭いて、さっき着ていた制服をもう一度着て、レイラさんのところまでいった。
「ポニーテール、似合う。その髪の方が似合うよ」
とても恥ずかしいことを平然と言ってのけたレイラさんから視線を逸らして、でも、髪をほどくことはせずにそのままでレイラさんの手元を眺めていた。
「出来た。じゃあ、行くか」
にこっと笑ってバスケットを持ったレイラさんに並んで「うんっ」と返して、ローファーだけれど靴を履いた。
「あ、そうそう。ここってドライヤー、あるの?」
シャワーを浴びたときから気になっていたことを訊いてみる。
レイラさんは「ないな。僕の髪は自然に乾くから。あと、風呂に入らないこともしばしば」と思い出しながら言った。
「そうか。美波は髪が長いからな。じゃあ、明日にでも買いに行くか」
頷きながらそう言うレイラさんはずっとにっこにこ笑顔で嬉しそうだ。
「うん、ありがとう。お金は……」
ポケットを探ってみるけれど、財布もお金もない。
入っているのは、スマートフォンだけだ。
さーっと血の気が引いていくのがわかった。
これじゃ、なにも買えない。
「いいんだよ。僕が出すから」
ぺっぺとお金を払う仕草をしながら親切にそう言ってくれたレイラさんにぺこりと頭を下げて「……その、すみません。お願いします。ありがとうございます。本当にありがとう」とお礼を言った。
「そんなに改まらなくてもいいんだよ」
苦笑して言うレイラさんは本当に良さそうだ。
私はもう一度、ありがとう、とお礼を言って、レイラさんについて行く。
「そういえば、森って適当に言っちゃったけど、どこの森に行くの?」
自分で言っておきながら、相手に道案内をしてもらうのも悪いな、と思いつつも自分から言い出していない風にそう訊いてしまう私を内心、睨んだ。
レイラさんは歩調を緩めてくれていたのをさらに緩めて、私と並んで言った。
「綺麗できらきらな美波にぴったりの森」
迷いなくにっとかっこよく笑ってそう言ったレイラさんになぜだか懐かしさを感じた。
気付けばあたりは様々な木々ばかりになっていた。
「美波、着いたよ」
私の前を隠すようにして歩いていたレイラさんが横によけた。
目の前は、きらきらに太陽が木々の隙間から差し込んでいて、その下には、美しい小さな湖があった。
見惚れてしまうほどに綺麗な空間に息を呑んだ。
今までこんなにっ綺麗な景色には出会ったことがなかった。
湖の水の色は、真っ青と緑を混ぜたような色でまさに幻想的という言葉がぴったりな世界だった。
ここだけどこか異国の地にあるような、そんな思いを抱かせてしまうほどに強い力を秘めた場所のようだ。
「きれい……」
やっとの思いで口にした言葉は、たったの一言だった。
それでも、レイラさんは笑顔になって「でしょ。美しい波って書いて美波だから、そんな名前にぴったりだし、美波自体にもすごく合ってる」と言ってくれた。
レイラさんのとても温もりに溢れた優しすぎる言葉にこくりと頷いて、湖に近づいた。
太陽の光で、私の影が湖にぼんやりと浮かんだ。
「じゃあ、食べようか」
レイラさんの言葉で、はっと我に返る。
「う、うん」
頷いて、レジャーシートを引いて、バスケットに入っている美味しそうなサンドイッチとパンを広げた。
「いただきます!」
ふたりで手を合わせて、ハムとたまごの美味しそうなサンドイッチにがぶっとかぶりついた。
「おいしっ!」
今までこんなに美味しいサンドイッチは食べたことがない。
ていうか、サンドイッチなんて生まれて初めて食べた。
大袈裟だなあ、とおどけたように笑うレイラさんに私にとっては本当に今までにないほどに幸せな時間なのに、と思う。
私にはこんな時間、今までなかった。
学校に行って、寝る。
毎日その繰り返し。
なのに、こんなに贅沢な時間を送ってもいいのだろうか、と思うほどに素敵できらきらで輝いた日々。
ぽろ、と嬉し涙が頬を伝った。
最近は泣いてばかりだな。
「ど、どうした? まずかったか?」
突然泣き出した私に戸惑いながらそう心配してくれたレイラさんに「ありがとう。本当に嬉しくて」とぽろぽろと涙を流しながら言うとほっと安心したように笑顔になった。
「よかった」
と私の頭をぐしゃぐしゃに撫でまわした。
ふふ、と笑うと湖の水面がぬるい風で少し揺れた。
そろそろ帰るか、と立ち上がったレイラさんに続いて私もバスケットにゴミとかをしまい立ち上がり、湖をあとにする。
「楽しかったね」
心から微笑んで言うと、レイラさんは「ああ。今まで生きてきた中でいちばん楽しかった」と鳥さんの姿になって言った。
家が見えてきて、少し歩けば家に着いた。
見た目さえも葉っぱで出来た家に入って靴を脱ぐと、心は楽だけれど一日中外にいた疲れがたまっていた。
ふうー、とレイラさんとソファに座る。
ふっかふかの葉っぱで出来た、ソファに寝っ転がりたくなってしまう。
ぱち、とレイラさんが動いて長いまつげが上下にゆっくりと動いた。
「もう寝るか?」
うん、と頷いてレイラさんが言った。
今日の朝に、私が寝ていたベッドに寝ていいことになった。
制服だけどどうしたらいいか訊いたら、ぶかぶかだけれど、服を貸してくれた。
寒いので毛布に包まって目を瞑ると、すぐに眠りについた。
耳にレイラさんがソファに横になる音が聞こえた。
「レイラさん、おはよう! 今日は、私が朝ごはん作ったよ」
昨日、寝るのが早かったからか、朝早くに目覚めてしまって、先に朝ごはんを作ろうと思ってレイラさんも好きそうな餃子を作ったのだ。
ポケットに入れていたスマートフォンで近くにあるスーパーを調べて、昨日あらかじめレイラさんに渡されていたお金で具材を買って、作った。
レイラさんのためにご飯を作っているときは、楽しかった。
まだ寝ぼけ眼のレイラさんは洗面所で顔を洗ってきてから、いつものようにしゃっきりとした表情で「美波、おはよう。餃子のいい匂いがするな。もしかして美波が作ってくれたのか?」くんっと鼻を効かせてそう言った。
私は気付いてくれたことに嬉しくなって「うんっ! 餃子レイラさん好きそうだから」と言うとレイラさんは顔を輝かせて「餃子は好物だ。よくわかったな」と大人っぽい余裕そうな笑顔で微笑んでくれた。
私は、ふんふんと鼻歌を歌いながら餃子の乗せられたお皿をテーブルに置くと、レイラさんは待ちきれないというように、お箸で餃子をひとつ口に入れた。
「美味しい! 今まで食べてきた餃子の中でいちばん美味しいぞ!」
ばくばくとハイエナのような速さであっという間にお皿に入っている半分くらい食べてしまった。
私は自分用に餃子の乗せられたもう一皿を持って来て食べた。
口の中いっぱいに餃子を詰め込んで、「そうだ。今日は買い物に行くんだよな」と思い出したように言った。
「うん。いい? パジャマと普段着と室内着と靴下と万が一のために折り畳み傘とぬいぐるみ、ぐらいかな」
買っておかなきゃいけないものを羅列してみたけれど、はっと思い出した。
レイラさんに買ってもらうんだから、ぬいぐるみと靴下と室内着はやめないと。
「ご、ごめん。レイラさんに買ってもらうの忘れちゃってて、ぬいぐるみとくつし――」
やめるものを言おうとしたら、レイラさんに言葉を遮られた。
「いいよ。そんなに気遣わなくて。僕のことは自分の親のように思ってくれればいいから。だからほしいもの全部買ってあげるよ!」
優しいけれど、有無を言わさぬ雰囲気でそう言うレイラさんに「ごめん。じゃあ、ぬいぐるみも買ってください」と少し上目遣いでお願いした。
「うんうん、全然いいよ。ていうか、ぬいぐるみがないと寂しいの?」
はは、と笑いながら言ったレイラさんに「ま、まあ」と視線を逸らして私の分の餃子を食べながら曖昧に返した。
「ぷっ、あはは、ぶふっ。あ、ごめん。で、ぬいぐるみも欲しいのは全部買ってあげるから言って」
失礼なほどに噴き出してから、笑いを我慢している真剣な表情で言った。
「ちょっと、笑わないでよ」
頬を膨らませて怒って見せてから、ふたりで笑った。
じゃ、行こっか、と餃子を食べ終わらせてから言って、靴を履いて家を出た。
ぴろん、とスマートフォンに連絡が入った。
見ると恵理からだった。
『美波、最近ずっと学校来ないけど、なにかあったの?』
ときていたので、『なにもないよ。そのうち行くかも』と返してからスマートフォンの電源を切った。
「じゃあ、行こう」
そう言ってふたりで歩き出した。
電車に乗って、三駅目のところで降りたところのすぐそこに大きなショッピングセンターがあった。
映画館までついているでっかい建物だ。
ショッピングセンターなんて小学一年生のころにお母さんとお父さんと一緒に初めて行って以来だ。
だから、ほとんど覚えてなくて、来たのもこのショッピングセンターではなくもう少し小さいショッピングセンターだった。
「まずは何から買いに行く?」
私の方を向いて言ったレイラさんに私は「ぬいぐるみ」と顔を前に向けながら早口で言った。
「ぬいぐるみね、おっけーおっけー。ゲームセンター行って、とる?」
先にすたすたと歩き出したレイラさんを引き留めて訊く。
「待って、ゲームセンターってなに?」
振り向いたレイラさんのまつげが不思議そうにぱちぱちとはやく動いた。
「そうか。ユーフォ―キャッチャーは? 知ってる?」
「ユーフォ―キャッチャーは知ってるよ。学校で恵理が言ってたから」
「そのユーフォ―キャッチャーでぬいぐるみがとれるんだが、それでとるか?」
小さい子供に言うようにゆっくりと言うレイラさんに少しかちんときたけれど、うん、と頷くだけにしておいた。
恵理が誰かを訊かないでくれるのが、レイラさんの隠れた優しさだと思った。
私たちはゲームセンターに向かって歩き出す。
中に入ると、ぎっしりと色々なお店が立ち並んでいて、目が回りそうだった。
どこを行っても、お店ばかりだ。
まずは、大きく入り口に「ゲームセンター」と書かれた看板が掲げられているところに入った。
ざわざわと騒がしい。
なにがゲームをする音や、太鼓で遊ぶものなどいちばん前にはユーフォ―キャッチャーがたくさんあった。
透明の箱の中にぬいぐるみもたくさん入っている。
とれるやつを動かしてとるらしい。
私は一回お手本でレイラさんにやってもらった。
私の半分くらいの大きさはあるめっちゃ大きいクマくんの可愛いぬいぐるみだ。
うぃーん、とアームを動かしてぬいぐるみの上に来たら、下にいく矢印のボタンを押して、アームががしっとクマくんを掴んだ。
そのまま出口まで行き、落ちる、と思ったときにぎりぎりのところでクマくんは、落ちなかった。
「ああーあ」
と声を上げると、嬉しそうにレイラさんが振り向いて「やってごらん。次やれば、取れそう!」と言った。
私は三百円をもらって入れた。
レイラさんのようにアームを動かしてぴたっとクマくんの上で止めて、下におろす。
がしりとまたアームがクマくんを掴み、次こそは落ちた。
出てくるところからクマくんを出すと鳥さんの姿のレイラさんと同じくらいもふもふのぬいぐるみだった。
お腹とか頭とかいろんなところを撫でていると、クマくんはすっぽりと入りそうな大きな袋を持ってゲームセンターの店員の人が来てくれた。
「よかったらどうぞー。凄かったですね」
にっこりと笑顔で言いながら、袋を差し出してくれる店員さんに、ありがとうございます、とお礼を言って次はエビフライを持った猫ちゃんが四匹くらい並んだ枕を取ることにした。
この枕は五回でやっと取れた。
次は、猫ちゃんのぬいぐるみを三回、サメさんのぬいぐるみを七回、レイラさんのような鳥さんのぬいぐるみを三回で取って、洋服の売っているところに向かった。
手には五匹もぬいぐるみの入った袋がある。
でっかくて、持って帰るのが大変そうだけれど、なんとか持って帰ることはできそうだ。
こんなに買い物が楽しいなんてと驚きながらあっちだこっちだといろんなところに行って、気付けば外は真っ暗でお腹もぐるると音をたて始め、レイラさんと私の手は袋でいっぱいだった。
私は首にもう少しで秋だからと買ったマフラーを荷物を減らすために暑いけれど巻き、レイラさんにはコートを着てもらい、大きな袋をふたりで持って、切符を改札に入れるのでも一苦労だった。
そんなわけで、家に着いた頃にはふたりともへとへとで汗だくだった。
先に私がシャワーを浴びて、レイラさんのシャワーが終わるのを待ちながらぬいぐるみを袋から出して並べた。
服は、お風呂に入る前に洗濯機に入れてある。
どのぬいぐるみも枕以外は大きめのサイズで、ベッドを埋め尽くしてしまうほどだった。
私はベッドに今日買ったばかりのパジャマでぬいぐるみたちと横になり、クマくんに抱き着いた。
そのまま、うつらうつらとしていると、レイラさんがシャワーから出てきてご飯を作ってくれた。
私は眠すぎるけれど、お腹はすいていたのでなんとかクマくんを引きずってベッドから降りてテーブルの椅子に座り、その隣にクマくんを座らせた。
椅子は四つあったから、レイラさんも座れた。
美味しそうな炒飯を見つめながら、ふたりは手を合わせ、「いただきまーす!」と口々に炒飯を食べた。
そのあとは、すぐにベッドで寝てしまった。
とんとん、と軽快に包丁で何かを切る音で目を開けると、視界は真っ暗で何も見えなかった。
私の顔の上に乗っかっているものをどけると、それは、昨日ゲームセンターで取ったクマくんだった。
どうりで息が苦しかったわけだ、と考えながら起き上がってこぢんまりとした台所に行くとレイラさんがご機嫌そうに料理をしていた。
私たちのために朝ごはんを作ってくれているのだろう。
「おはよう。なに作ってるの?」
「ん? ああ、美波。おはよう。はちみつとブルーチーズのトーストとレタスとレモンのサラダ」
得意そうに胸を張って言うレイラさんに「美味しそう!」と言いながら鼻にはちみつと心地いいブルーチーズの香りが広がった。
すう、と息を吸い込んでいると、チン、とレンジの音がした。
ななめ後ろを振り返ると、途端に、ふわあ、とレモンの少し酸っぱい香りが鼻腔を燻った。
「着替えてくるから、サラダとトーストが出来たら絶対に絶対に呼んでね」
そう言い残して私は着替えるために洗面所に行った。
昨日レイラさんに買ってもらった、白いTシャツにちょっと寒いのでふんわりと袖の膨らんだ青いカーディガンを着て、ジーンズという無難な服装に着替えたところで、「美波、できたよ」とレイラさんの呼ぶ声が聞こえてきて急いで食卓に向かう。
「わあ~! どれも美味しそう」
さっと瞬間移動のような速さで椅子に座り、いただきます、とまずはサラダを口に運んだ。
レモンが想像していたよりも酸っぱくて、ぴぎょっ、と変な声が出てしまう。
大盛りのサラダを五分ほどで食べ終えて、ついにメインのトーストをがぶりと食べた。
じゅわあ、とはちみつとブルーチーズの程よいくちどけが癖になり、あっという間にお皿に盛られたトースト二枚を平らげてしまった。
もちろんお腹はぱつぱつで、もっと食べたかったけれど、もう一口も入りそうになかった。
「ごひほうさまでひた」
軽く吐き気を感じながらソファに座ってもたれかかった。
ピンポン、ピンポーン。
二回連続でチャイムが鳴った。
レイラさんは台所にお皿を洗いに行ってくれていて、私が出ようかと思ったけれど、その前にレイラさんが台所から出てきて、玄関に向かってくれた。
「はい」
人間の姿になってガチャッと玄関のドアをレイラさんが開けると、チョガさんが立っていた。
私は驚きながらもソファに座ったままこっそりと覗く。
「やあ、兄さん」
にこっと威圧感のある笑顔で穏やかにチョガさんは言う。
「チョガ、何の用だ? なるべく早急に帰ってほしいんだが」
怒ったように眉を寄せているのが、レイラさんの横顔でわかった。
「ははっ、兄さんはこれで終わりだ。」
後ろに髪をかきあげて嬉しそうに眉を歪めて言ったチョガさんに向けてレイラさんはもっと眉を限界まで寄せる。
「どういうことだ? また何かくだらないことでも企んでいるなら、やめろ。もうどうにもならない」
「プラリツソントクキュウトリルートヨロイクロイシアジャ」
チョガさんが目をばちっと開き、謎の呪文のようなものを小さめの声で呟いた瞬間、レイラさんは苦しそうに胸を抑えてがくっと崩れ落ちた。
目を見開き「チョガ……、ねらって、たのか。いつか、とりかえして、やる」と苦しそうにレイラさんは途切れ途切れに言って、ぎゅっと胸を強く抑えた。
チョガさんはレイラさんを見下ろしながら、ふっと満足そうに微笑んだ。
私は怖くてチョガさんの前に出られなかったけれど、苦しむレイラさんを見つめるたびに胸が痛んで、我慢できずにレイラさんの元に行って、レイラさんに寄り添った。
私は「レイラさん、助けられなくてごめんね」と言ってチョガさんを、きっと強く強く睨みつけた。
チョガさんは理不尽そうにレイラさんによく似た綺麗な形の眉を寄せた。
「なんだ?」
冷たい凍り付いた鋭い瞳で睨み返されて、ひっと身体が竦む。
怖くないと自分に言い聞かせ、精一杯の一言をチョガさんになるべく怒りが伝わるように言った。
「今すぐ出て行って。あなたなんて怖くない」
「嘘つきのくせに偉そうに。『怖い』って顔に書いてあるんだよ。じゃあね」
興味もなさそうに踵を返してチョガさんは出て行った。
私はドアから目を逸らして、レイラさんを見た。
ベッドに運びたかったけれど、私にはそんな力はなくて、鳥さんの姿になって目を瞑っているレイラさんをぎゅっと抱きしめた。
あれ、と思う。
いつものような温もりはなくて、レイラさんはひんやりと冷たくなっていた。
レイラさんは息もしていなくて、ただ目を瞑っているだけだった。
「ねえ? レイラさん? レイラさんっ! 起きてよ……」
いくら呼んでもレイラさんはピクリともせずに冷たいままじっと動かない。
涙が次々と頬を伝って床に私の手の上で動かないままのレイラさんの頬に落ちる。
ふと後ろに温もりを感じた。
「美波、安心して。泣かないで。僕のせいで美波を泣かせたくない。『想いの硝子』をチョガにとられた。それを取り返してきて僕に授けてくれたら生き返るよ」
優しくて暖かいレイラさんの声が聞こえて振り返るけれど、後ろには誰もいなかった。
私は今の一言を反芻して、早速、出かける準備をした。
チョガさんを追いかけるのだ。
さっきチョガさんが、よしこれからあのスーパーに寄ってから行こう、と小さく呟いているのが聞こえたのだ。
だから、私はたぶん近くのスーパーにいると見て、スーパーに行くのだ。
レイラさんをそっとハンカチに包んでリュックに入れて、食料と水を入れ、背負った。
顔を隠すために黒いキャップを目深に被った。
走ってスーパーへ向かう。
スーパーに着いたら、ちょうどチョガさんがレジにいるところだった。
炭酸飲料を買ったようだ。
私はこっそり警戒心の全くないチョガさんから少し距離を置いて尾行する。
十分ほど歩いてから、人のいない道に出た。
チョガさんが周りをきょろきょろと見回し始めたので、私はすぐそこにある電柱にさっと隠れた。
なんとか気づかれずにすんだ。
ここからは聞こえないけれど、チョガさんは何やら呟くと、チョガさんの目の前に虹色の階段が現れた。
なんだこれ、とびっくりして声を出しそうになったけれど、なんとか口を抑えて間一髪。
足音を立てないように気を付けながら、そっと歩く。
かつかつ、と靴音を立てながらスキップに近い歩き方でずんずん歩いて行くチョガさんの後ろを歩きながら、どうなってるんだ、と戸惑っていた。
三メートルほど先には、ファンタジー小説にでも出てきそうな大きな王国が立ちはだかっている。
近づけば近づくほど王国は迫力を増す。
圧倒されるほどの大きさの「空孫国」と書かれた門をくぐり抜けると、地面は薄く水が張り巡らされていて、ぴちゃぴちゃと音がならないように本当にそっとそっと歩いた。
しばらく歩いたら、お城のような建物が現れた。
「空孫国」の門よりも大きいお城だ。
私は太い木に身を隠した。
お城の入り口だと思われるところに美しい若い女性が立っていたからだ。
女性は余裕の笑みで目を細めてから、すぐに普通の顔に戻った。
次の瞬間、目の前がぐらあと歪んで、目を閉じる。
少し目を瞑ってから、目を開けると見覚えのないさっき立っていたところとは違うきちんと整理整頓されたシンプルで豪華な部屋に、私はいた。
どういうことだ、と部屋を見回してみると、部屋のドアが開いてさっきお城の入り口の前に立っていた女性が入って来た。
「美波ちゃん、こんにちは。私はエリナ・ソラソンよ。チョガから私が頼んだ『想いの硝子』をいま受け取ったわ。強引な方法でごめんなさいね」
申し訳なさそうに眉を下げ、苦笑する。
急にいろいろなことが起きて、頭が混乱する。
なんとか物事を整理し、「エリナさん、その『想いの硝子』を返してくれませんか」とどうしてここに来たのか、わからないことはたくさんあるけれど、一秒でもはやくレイラさんを生き返らせたくて単刀直入に言った。
エリナさんは少し驚いたような顔をしてから「ええ、美波ちゃんと会いたくてチョガに頼んだだけだから」にこりと優しく笑って「想いの硝子」を潔く渡してくれた。
私はすぐにリュックからレイラさんを出して、ハンカチをめくる。
やっぱり冷たくて息をしていないレイラさんが眠っている。
私は「想いの硝子」をレイラさんに渡すことを思い浮かべながらレイラさんを両手で包み込んだ。
すると、ふわと「想いの硝子」が浮いて、あのときのようにレイラさんの胸に吸い込まれるように入っていった。
「ひとつ、いいかしら。この子は明日まで生き返らないわよ」
注意するようにそう教えてくれたエリナさんにお礼を言って帰ろうとすると、「また来てね」とエリナさんが言ってから、また目の前が歪んだ。
気付けば、レイラさんの家の前まで来ていた。
エリナさんの能力なのかな、と思いながら家に入ってレイラさん手に持ったままベッドに横になった。
すぐに眠気が襲ってくる。
起き上がる気力も起きずに、そのまま私は目を瞑って深い眠りについた。
「ねえねえ、起きてよー。ねーえー!」
お腹の上に重みを感じて目を開けると、目の前に小さくなったレイラさんが私のお腹に乗っかっていた。
え、なんでレイラさんが縮んでるの?
ていうか、幼い子供に戻ったみたい……
「レイラさん、ど、どうしたの?」
とりあえず軽いレイラさんを持ち上げて、起き上がる。
レイラさんはベッドにちょこんと座ると「れーくんね、おねえちゃんよりもずうっとはやくおきてたんだよ! すごいでしょ!」といつものレイラさんとは違う雰囲気で、にっと無邪気に笑って言った。
「う、うん。すごいね」
戸惑いながらも、少しぎこちないけれど笑顔で褒めるとレイラさんは「えへへ」と頬をわずかに紅潮させた。
「おねえちゃん、おなかすいたー」
レイラくんは自分のお腹を撫でながら言う。
「何が食べたいの?」
「えっとね、えっとね、オムライス!」
「じゃあ、スーパーに買い物に行こうか」
なんとか、これはレイラさんが小さくなっただけでそのうち戻るだろう、と冷静に受け止めて、オムライスを作るために買い物に行くことにする。
レイラくんお家で待ってられる、と訊いたらレイラさんは一緒に行くと言って靴を履きはじめる。
手こずりながらもすぽっといつものレイラさんの靴が、なぜか小さいレイラさんの足にぴったりに縮んだ靴を履いて、「はーやーくー!」と叫ぶように大きい声で言った。
私は慌てて昨日の着たままだった服は着替えずに、かばんと財布だけ持って靴を履いてレイラさんと迷子にならないように手を繋いで外に出た。
レイラさんは「わあ~。おねえちゃんみて! きらきらおひさま!」目を輝かせてにこっと笑い、太陽を指差した。
綺麗だね、と微笑み返すとレイラさんは「うんっ」と弾んだ声で答えた。
スーパーまでの道のりをレイラさんとゆっくり歩く。
小さい子供のレイラさんはいろんなものに目を輝かせては笑って、あれなあに、とか、あれしってる、などと言いながらはしゃいでいた。
スーパーについたら、まずオムライスのための卵とケチャップと玉ねぎと鶏肉を買い物かごに入れて、レイラさんが「あれ食べたい!」と言った星の形をしたチョコレート味で、国民的大人気のアニメキャラのシールが入っているというビスケットを入れて、買った。
家に着いたことにはもう十一時になっていて、一時間も経っていた。
スーパーから帰ってくるときに、レイラさんと帰り道にある公園で少し遊んだのだ。
すぐにオムライスを作る。
小さい子供の世話をするというのはどれほどに大変なのだろうか、とため息を堪えながら思う。
オムライスができあがったらテーブルに二人分を並べて、食べた。
結構美味しくできた。
レイラさんはオムライスが食べ終わると、さっき買ったビスケットを食べながらテレビを見ていた。
特に子供が見るような番組がやっているとは思わなくて、見てみると、驚いたことにグルメ番組を見ていた。
意味わかるのかな、と思いながら私は皿洗いをすることにした。
少ししか面倒を見ていないのに、疲労に襲われる。
「美波、ただいま」
最後のお皿を洗い終えたところで、後ろから穏やかなレイラさんの声が聞こえてきた。
お皿を置いて、すぐに振り返ると元に戻った人間の姿のレイラさんが微笑んでいた。
「おかえり! レイラさん」
私は手をタオルで拭いて、ぎゅっとレイラさんの手を握る。
ちゃんと暖かい温もりを感じて、安心する。
本当にレイラさんは帰ってきてくれた。
嬉しくて涙が出てきてしまう。
「本当に、よかった……」
微笑みながら窓から差し込む光を帯びて、きらきらと輝く宝石のような涙を流しながらレイラさんの手をもっと強く握った。
「そんなに言ってくれて、ありがとう」
レイラさんも涙を流しながら私の手を握り返して言う。
ふたりで手を握り合いながら、私たちは生きているという実感を得ながら、とても暖かい涙を流した。
「美波、家に帰れるか?」
さっき焼いたシフォンケーキを食べながら、レイラさんが想像もしていなかったことを言った。
どういうことか、と言葉を理解するのにずいぶんと時間を要した。
「突然、どうしたの? もしかして、私のことが、邪魔、なの?」
恐れていたことを口にすると、とても苦しくて息が詰まりそうな感覚を久しぶりに感じる。
「邪魔なんかじゃない。でも、僕はもう旅にいかなくちゃいけないときになってしまったんだ」
悲しそうにフォークを音もなく置いて、辛そうに言うレイラさんを信じられない目で見つめる。
「旅って?」
「僕は、空の主だ。空の主は、神だ。だから、『空孫国』のように空に『空主』という大きな僕の国を作らないといけないんだ。だから、そのために旅に出て、世界のことを知らないといけないんだ」
消え入りそうなほどに小さい声で教えてくれたレイラさんは、本当に泣きそうだった。
そうなんだ、となんとか返すけれど、どうしても信じたくなかった。
「じゃあ、帰るね」
必死に笑顔を作って、荷物をまとめたりと帰る準備をしはじめる。
リュックに入るものは全部詰めて、あとは他のかばんや袋にたくさん入れて、なんとか両手で全部持つ。
レイラさんは俯いたまま何も言わなかった。
私が靴を履いて出て行こうとしたときに、やっとレイラさんは一言、言ってくれた。
「いつか、また絶対に僕たちが再会したあのクスノキの前で会おう」
玄関までやってきて、レイラさんはそう言い、無理やりだとわかる笑顔を浮かべた。
「……うん。また、会おうね。絶対に約束だよ」
私は歯を食いしばりながら涙を堪えて、前を向いてレイラさんの家を出た。
家に帰ったら、お母さんとお父さんは私のことを心配してくれているだろうか。
なんてことを考えながら寂しさで心臓にナイフを突き刺されたようなずきずきとした痛みを感じた。
ねえ、レイラさん、私たちはきっと運命の糸で繋がってるよね。
空を悠々と飛んでいく自由そうなレイラさんを見つけて見つめながら、心の中でそう問いかけた。
私はスマートフォンの電源を入れて、マップアプリを開いた。
家の場所を確認してから、家に向かって苦しさを感じながら歩き出す。
ガチャ、と家のドアを開いて中に入るとやっぱり家は耳が痛くなるほどに静まり返っていた。
リビングに行くと、お父さんもお母さんもいなくて、仕事に行っているようだった。
私は部屋に行ってレイラさんに買ってもらった大切な荷物を片付けた。
三十分で片付けてしまえば、あとはすることがなくてぎゅうっとクマくんに抱きついて息が詰まるほどの苦しさに堪えた。
レイラさんに会いたいな。
クマくんを手に抱えたまま、私は靴を履いて外に出た。
会えないことはわかっているけれど、レイラさんと再会したクスノキの前に行ってみる。
誰もいなくて、ひっそりとした空気が心地いい。
クスノキを囲むように設置されたベンチに、クマくんと座ってレイラさんと再会してからの記憶を辿ってみる。
どの記憶も色鮮やかで、楽しい記憶だった。
「まだ再会してからちょっとしか一緒にいれなかったじゃん」と泣きそうになりながら呟いてみた。
私の隣にぽつんと座っているクマくんの真っ黒のぴかぴかの瞳が哀れな私を繊細に映し出しているようだ。
ああ、本当に束の間の幸せだったな。
堪えきれずに涙が青いワンピースの膝の部分に落ちる。
生ぬるい風が吹いて、クマくんが私の方に倒れてきた。
私はクマくんのお腹に顔をうずめて、声を押し殺して泣いた。
泣きたいだけ、泣いた。
そのとき、鳥が飛んでいくような音が聞こえた、気がして顔を上げる。
きょろきょろと辺りを見回してみても鳥も何もいなくて、空耳だったようだ。
レイラさんかと思ったのだけれど、違かった。
肩を落として、そろそろ帰ろうと泣きはらした目をごしごしとこすって、立ち上がった。
家までクマくんを連れて歩いていると、すれ違う人たちにじろじろと訝しげな目で見られたけれど、気にはならない。
今の私はただ、レイラさんに会いたい、という願望しか頭の中になかった。
でも、いつかまた会える。
絶対に、って約束したのだから。
私はレイラさんとの約束だけを心の支えに日々を過ごすことだろう。
朝起きたら、涙を流している。
という現象がレイラさんの家を出たあの日からもう十二日も経っているけれど、毎日のように続いた。
きっとレイラさんに会えない寂しさでだろう。
毎日毎日、レイラさんとの記憶が夢で出てくるのだ。
それほどに私にとってはレイラさんが真っ暗闇にいた私の前に光を灯してしてくれた。
でも、その光にあと少しで手が届く、というときに灯火は風が吹いて消えてしまったのだった。
のそりと起き上がって勉強机に置いていたコップ一杯分の水を一気に飲み干した。
汗と涙で水分を使い切ったのか、喉がからからだった。
あの日から二日後に、私はお父さんとお母さんに高校を辞めることを伝えた。
また幽霊扱いされるかと思ったけれど、高校に払うお金がなくなるのは嬉しいのか「わかった」と頷いてくれた。
それ以来、私は恵理とは連絡をたまに取り合ったりはしているものの、他の連絡を取り合ったりしていた子たちの連絡先は削除した。
それほど仲が良いというわけではなかったし、もう友達はいなくてもよくなった。
私は、毎日レイラさんと約束したあのクスノキの前に通っているが、まだ一度もレイラさんには会えていない。
一日中あのクスノキのところで読書をしていることもある。
まだ朝の六時だというのに、ぴろん、と恵理からスマートフォンにメールがきた。
確認すると、『美波、おはよー! 今日、顧問の先生が風邪で休んでて部活も休みだから、定番のファストフード店で会わない?』と相変わらず活気に溢れた文面に、ふっと笑みが零れる。
定番のファストフード店とは、私たちがお互いの状況を話すためによく一緒に行くお店のことだ。
『恵理、おはよう。いいよー。何時?』
私が返信をすると、一分ほどで返信が返ってきた。
『午後三時でいい?? 財布は置いてきてよ! 私が奢るからさ』
『OK! 自分の分は自分で払うから、いいよ』
『だめなの! あたしが奢るから! ねっ』
お願い、と手を合わせたうさぎのスタンプが送られてきて、圧を感じた。
『じゃあ、次に会うときは私が奢るね』
と返した。
よっしゃあ、と書かれて嬉しそうに両腕を上にあげているポーズをしているうさぎのスタンプが五個ほど連続で送られてきて、既読をつけてから、私はスマートフォンを閉じた。
着替えてから一階に降りて顔を洗うと、靴を履いて私は家を出た。
いつものようにクスノキの前に行ってみる。
今日もレイラさんはいなかった。
もしかしたら、レイラさんは今頃はまだ眠っていて、来ていないという可能性もゼロじゃない、と私は微かに希望を抱いて三〇分ほど空を見つめながら待ったけれど、なかなか来なくて、次はワイヤレスイヤホンを耳につけてスマートフォンで音楽を聴きながら一時間待った。
それでも、来なくて私はとうとう断念して、家に帰ることにする。
今日は恵理と会う予定もあるので、一応はやめに帰っておいた方がいいだろう。
もうすぐそこが家だというときに、ふと空を見たら、青いレイラさんのような鳥が身軽そうに飛んでいた。
絶対にレイラさんだ、と思い、追いかけようとしたけれど、すぐに大きな雲に隠れて見えなくなってしまった。
私は肩を落として家に入る。
手洗いうがいを済ませてから、部屋に行って、窓の前に立った。
レイラさんが見えるかと思ったのだけれど、雲からレイラさんが出てくることはなかった。
「空主」というらしい国を作っているのだろうか。
横に流れていく雲から、とんかんとんかん、と釘を金槌で打つ音が聞こえた気がした。
レイラさん、もう私のことなんか忘れちゃったかな。
ふいに頭をよぎった不安を急いで首を振ってかき消す。
スマートフォンの着信音がなって、見てみると、恵理から電話だった。
「もしもし。恵理?」
とすぐに出ると、『あっ、久しぶり! 元気してたー? 今日さあ、点検か何かで学校が午前中だけだったの忘れてて、会うの一時にしない?』と相変わらず陽気で少し抜けた声音で返事が返ってくる。
「久しぶりー。私は元気だよ。点検ってなんの?」
『わっかんない。スマホいじっててちゃんと聞いてなかったから』
へへ、と笑いながら言った恵理に私は呆れ声で「恵理は変わらないね」と言った。
『まあね。こんな状況で、もし変わろうと思ったとしても変われないっしょ。変わるひまもないし。まあそれ以前に、変わりたいとは思ってないし?』
突然かしこまったような雰囲気で言った恵理の言ったことに私は疑問を持った。
「こんな状況って?」
何か学校で起きているのだろうか。
『えっ、美波知らないの? ヘリが飛んでたときにたまたま雲の上になんか街みたいのがあるの見たっていうの今、テレビでめっちゃ話題になってんじゃん。ほとんどのニュースがそのことやってんだよ。でさあ、明々後日に取り壊すらしいよ。雲に街ができるなんて前代未聞だし。まあ、そんなことはどうでも――』
「ごめん。急用ができたから今日は会えない」
私は恵理の言葉を遮って言った。
絶対にレイラさんの「空主国」だと確信した。
私はレイラさんにこのことを伝えなければいけない。
レイラさんの苦労が台無しになってしまうのを想像すると、ずきずきと胸が痛んだ。
恵理の返事も聞かずに通話を切って、レイラさんの家に向かった。
スマートフォンと財布と洋服類をいちおう持って慌ただしく家を出た。
走って走って、信号のとき以外は一度も足を止めずにひたすら前に前にと地面を蹴った。
時折、すれ違う人にあたってしまうけれど、謝っているひまはなくて構わずに走り続けた。
けれど、レイラさんの家があったところはたくさんの葉っぱが散っているだけで、家はどこにもなかった。
きっとあの国にいるんだ。
私はチョガさんが「空孫国」に行ったときの階段が現れた場所に行ってみる。
階段はあり階段を上ってまっすぐな道になったとき、ちょうど五メートルほど先をチョガさんが歩いていた。
私は走ってチョガさんの元に行く。
「チョガさんっ!」
不機嫌そうに振り返ったチョガさんの瞳に一瞬怯みそうになったけれど、足を踏ん張って言った。
「お願いがあるんです! レイラさんのところに連れて行ってください!」
「はあ? なんであんたがここにいるの。兄さんが今いるとこなんて何も知らないし」
あの学校でのときとは全く態度が違うチョガさんに私は眉をひそめそうになったけれどなんとかひそめずに「じゃあ、いいです。エリナさんに頼むので」と早口で言ってから、「エリナ様に? 会ったことでもあんのか」と思いっきり顔を顰めて言うチョガさんを無視してこの間の王国に向かう。
エリナさんは前のように入り口のところに立っていた。
チョガさんを待っているのだろう。
「エリナさん! レイラさんのところに連れて行ってください!」
「あら、美波ちゃん? レイラのところに……。いいわよ」
目を丸めたエリナさんに言うと、レイラさんを知っているかのように頷いてくれた。
エリナさんに訊きたいことは色々とあったけれど、今はレイラさんのことが優先なので、「ありがとうございます」と言って頭を下げる。
「じゃあ行くわよ。迷子になりたくなければ、くれぐれも異空間でむやみに動かないでね」
さっそくエリナさんは子供に諭すようにゆっくりと注意を述べて、実行に移してくれる。
もう一度、お礼を伝えるとぐにゃりと視界が歪みすぐに深い青色の羽根に包まれた地面に立っていた。
「レイラさん、いる? 美波だけど……」
少し声を潜めて呼んでみると、「み、美波? なんでここにいるんだ?」と驚いたように目を大きく見開いた鳥さんの姿のレイラさんが奥の方から歩いてやってきた。
「エリナさんに連れてきてもらったんだけど、ねえ、レイラさん。この国はもうすぐ取り壊されちゃうんだよ! どうするのっ?」
落ち着いてきていたけれど、話しているうちにだんだん興奮してくる。
レイラさんは「待ってくれ。状況が理解できない」と頭をおさえて目を瞑って、頭を整理しているような仕草をした。
数分ほど静かな沈黙がこの異世界のような空間を支配した。
「美波、久しぶりだね。で、ここが取り壊される? どうしてそのようなことを言うのか、どうしてそのようなことになったのか、経緯を教えてもらえるか?」
鳥さんの青い羽根に埋め尽くされたふかふかそうな椅子を勧められて座ると、深刻な顔でそう問われる。
「うん。電話で友達の恵理と話しててね、ヘリコプターが飛んでてたまたま雲の上に街みたいなものがあるのが目撃されて、雲の上に街ができるなんて前代未聞だから明々後日に取り壊すってテレビのニュースでやってるんだって」
あまりにも気まずくてレイラさんから視線を逸らしたくなるけれど、強いこの国を愛する瞳に見つめられて、逸らそうにも逸らせない。
レイラさんはあり得ないという顔をしてから、真剣な表情になって「そうなのか。この国には僕以外は誰にも見えない魔術をかけたのだけれど。これは、なんとかしないといけないな。美波、魔術を使えるようにならないか? そうしたら、いつでも会いたいときに僕に会えるし、自分だけの空間を作ることもできる。そして、自分で自分を守ることも容易いことになる」と懇願するように少し上目遣いで言った。
私は少し考えてから「いいよ。じゃあ、魔術を教えて」とレイラさんに安心させるように笑いかけた。
「まずは、僕の魔術を少し分けるから、とりあえず魔術の基本を覚えるんだ。そしたら、それを自分流にアレンジしたり、すごい魔術にしたり、強くしたり、とかしたいように加工とかもできるようになる」
レイラさんは手にのっている小さい青い火の玉のようなものを私に渡してきた。
私は戸惑いながら受け取ってレイラさんに言われた通り胸にすっと入れた。
そのままフィットするような感覚があって、念じると手から炎が出た。
「うわっ! ちょ、もえてる! 熱い!」
ひいひい、言いながら手をぶんぶんと振って火を消そうとするけれど、消えない。
でも、熱くないことにしばらくして気付いた。
パニックになって熱いと感じただけだったようだ。
これは私が出した炎だから、熱くないのか。
「あはは、美波は面白いなあ」
笑いながらも、レイラさんはきちんと丁寧に教えてくれる。
基本の魔術ができるようになったら、さっきレイラさんが言っていたこと実践してみる。
自分流にアレンジ、とは?
まあとにかくやってみよう。
私は氷を手から出して、びゅんっと横に振ってみると、氷の剣ができた。
こういうことか、と私は感覚を掴んできていろいろと試してみる。
自分の行きたいところに行く、というのもやってみる。
「行きたいところに行くときのコツは、その行きたいところをよーく思い浮かべること」
レイラさんはゆったりと椅子に座りながら、言った。
私は「はいっ」と答えて、レイラさんの後ろを思い浮かべた。
ぱっと気付けば、レイラさんの後ろに立っていた。
レイラさんは気付いていないようで、きょろきょろと辺りを見回している。
「わっ」
と驚かそうと思い、言うと、レイラさんの肩が飛び跳ねて「うわわわっ!」と変な言葉を話した。
笑い合いながら、楽しく魔術を覚えたあとは、お菓子と紅茶で休憩をした。
甘い砂糖が入った紅茶をそそりながら、ふう、と息を吐いた。
決して嫌な時間ではなかったのだけれど、あまりにもたくさんの体力を消耗し、疲れ果ててしまった。
今日はよく眠れそうだ。
最近はレイラさんに会えない寂しさで睡眠が疎かになっていたけれど、今日のことがあっておかげでぐっすりと眠ることができると考えると嬉しい気持ちになった。
「美波、ありがとう。今日はもうやめるか。美波も疲れてるだろうし」
私に労いの言葉をかけてくれるレイラさんの表情は穏やかでもあり、焦っているようでもあった。
「おやすみ」
ベッドでクマくんにしか聞こえないように言って、私は目を瞑った。
すぐに私は毛布に包まって眠気に襲われてきて、眠りについた。
静かな朝だった。
鳥も小さい声で鳴いているだけで、下からもなにも聞こえてこない。
今日はお父さんもお母さんも仕事は休みで家にいるはずだ。
私は疑問に思いながらも、一階におりて、リビングに行ってみた。
「美波、私たち離婚することになったから、どっちについてくるのか決めてちょうだい」
がちゃ、とリビングのドアを開けると同時に、お母さんがなんてことのないことのように言った。
私は驚きながら、頭の中を整理する。
「聞いてんのっ?」
お母さんが眉を極限まで寄せて急かしてきて、私は「ご、ごめん。私は、家を出て行くよ」と苦笑いをして言った。
お母さんは不服そうに、ふん、と鼻を鳴らして、「なに言ってんのよ。あんたなんかが自立なんてできるわけないでしょ。あんたはお母さんの方に来るわよね。ほら、はやく準備しなさい」と強引に決める。
「嫌だ! 私は出てくの」
初めてお母さんに我儘を言ったかもしれない。
お母さんは叫びに近い金切り声で否定する。
「だめって言ってるじゃない! なんで私の言うことを聞いてくんないの? あんたなんかがひとりで暮らせるはずないわ! お母さんに引っ越すお金だって払わせるんでしょ! この親不孝者! お母さんの子供なんだからお母さんについてくるのは当たり前でしょっ!」
顔を真っ赤にしてクッションを投げつけてきた。
さっきまで小さい声で鳴いていた鳥の声ももう聞こえない。
『親不孝者』
という一言だけが私の頭を支配して、私の同時に脳からぶちっと音がした。
ついに私の堪忍袋の緒が切れたのだ。
そうだ、今まで私は寂しかったんじゃなくて、この理不尽なことに怒っていたんだ。
なんでもっと早く気づけなかったのだろう。
「私は自立できる! 親不孝者にしたのは誰なのよ! あんな事件を信じて、娘を信じてくれないの? あんなの嘘だし、私はお金なんて盗んでない。私はただ落ちてたあの子の財布をたまたま拾っただけ! なのになんで私の言うことを信じてくれないの? こういう都合のいいときだけ、親なんだからとか、私の親ぶらないでよ! 全部全部、あの子がでっち上げた嘘なのに、私の言うことよりも他人の言うことしか信じてくれないなんて、私の親じゃない!」
私はそれだけ叫んで、リビングを飛び出して荷物をまとめはじめた。
こんな家、出て行くのだ。
前から貯めておいた、この家を出て行くためのお金を持って、必要な荷物だけ手にいっぱい持って、「空主国」に行くことを、目を閉じて強く念じた。
ただただ、「空主国」だけを必死に頭に思い浮かべた。
どすどすどす、と怒ったように「美波! 親に向かってなんてこというのよ! あれはお金を盗んだあんたが悪いのよ」と言いながら音をたてて、階段を上ってくるお母さんの足音を聞きながら私はさらに焦る。
そして、やっと目を開けたらもうそこは「空主国」だった。
ふう、と私は安堵の息を吐いて、レイラさんがいないかと周りを見回した。
「美波、おはよう。そんな大荷物でどうしたんだ?」
本当に平和な笑顔を浮かべたレイラさんが目の前に現れて、涙が出てきそうになった。
なんとか涙を必死に堪えて「離婚して、お母さんに親不孝者って言われた。私、ここでレイラさんと暮らしたい。あんな人、私のお母さんじゃない」と泣かないように目をごしごしこすりながら言って、荷物を青い羽根でふかふかの地面に置いた。
ふわりと風で宙に舞った青い羽根が踊るように私の握りしめた拳に、ぽす、と当たって、落ちた。
レイラさんは「ここで暮らすのは構わないが、まだこの国は未完成だから不便なこともいろいろとある。この国ができるまで空孫国に暮らしたらどうだ? エリナもいるし、安心だろう。チョガもいざというときは頼りになることもあるしな」とリュックサックに入りきらずにクマくんの飛び出している頭を優しく撫でながら言う。
「この国が完成したら、この国で暮らしていい?」
少し上目遣いで訊くと、レイラさんは頷いて、もちろんだ、と眉を穏やかに下げて人懐っこく微笑んだ。
私は「じゃあ、それまで空孫国で暮らす」ともう一度、荷物を手に持った。
レイラさんは申し訳なさそうに「ごめん。この国が完成したら、ちゃんと迎えに行く」と言ってくれた。
私は、うん、と弾むように頷いてレイラさんに空孫国まで送ってもらうことになった。
突然行ってもいいのだろうか、と疑問に思いレイラさんに訊いてみたところ、大丈夫だ、ということだった。
エリナさんはきっと住まわせてくれる、とレイラさんは安心させるように優しく言ってくれて、私はとても心強くなれた。
やっぱりレイラさんはすごいな、と感心しながら他愛もない話をしながら歩く透明の道。
下は、もちろん透明という言葉通り透けていて、街が見えた。
ぞっと鳥肌が立つほどの高さにある道なため、背筋が凍るような恐怖を感じるけれど、レイラさんは気にせずにゆったりと私に合わせてくれて歩いてくれて、慣れているのだとは思うが余裕そうだ。
高所恐怖症ではないものの、この高さは足が竦みそうになるほどに怖い。
でもレイラさんにそんなことは恥ずかしくて知られたくないので澄ましたような顔で余裕そうに歩くけれど、足はどうしてもぶるぶると震えてしまう。
「ははっ。美波、怖いの?」
意地悪そうに笑って私の足を見ながら言ったレイラさんを私は余裕な笑みを浮かべて見せて「こ、怖くなんか、ないし」と意地を張る。
素直にはなれない。
どうも私はレイラさんに惚れているようだ。
意識しはじめたころからどうしても、私の弱いところを見られたくない、知られたくない、ということを考えるようになった。
「もう、強がらなくていいんだよ。バレバレなんだから。ほら、ついたぞ」
呆れたように笑ってレイラさんは門を指差した。
「ここからはひとりで行けるか?」
レイラさんはそう訊いてきて、私は、行けるよ、と頷いてレイラさんにぶんぶんと思い切り手を振りながら王国へと歩き出した。
「またねー! 絶対に絶対に迎えに来てね」
そう約束をして私は王国に入った。
今日は入り口のところにエリナさんはいなくて、王国の中に入ってみる。
中は外から見るよりももっと広くて、きらきらでぴかぴかだった。
「え、エリナさん。いますかー?」
声を少しだけ張り上げて言うと、たったった、とエリナさんが青いドレスすそを持ち上げながら小走りでやって来た。
「美波ちゃん、待ってたわよ! レイラから事情は聞いたわ、どうぞ私の隣の部屋が空いているから、そこの部屋を使ってちょうだい。なにか欲しいものとか行きたいところとかなにかあればすぐに言ってね。なんでもしてあげるわよ。私だってぴっちぴちの三十代なんだから」
エリナさんは張り切ったように美しいウインクをして三十代とは思えない頬の肌を撫でた。
「お、お美しい……」
と思わず私が呟くとエリナさんは、ふふ、と得意そうに優雅で落ち着いた笑顔で「さあ、お部屋はこっちよ。好きなようにくつろいでちょうだいね」と私の背中を押して部屋に案内してくれた。
本当に親切で優しい人だな、と感謝の気持ちを噛み締めながらエリナさんの言われる通りの部屋に入った。
ベッドに座ってみると、ふっかふかで机にはおしゃれなアンティークっぽいランプが置かれていて、本棚にはたくさんの面白そうな本が立ち並んでいた。
「うっわあ~! すごいですね! 本当にどれも自由に使っていいんですか?」
エリナさんの方を向いて訊くと、エリナさんはもちろん、というように頷いて「あったりまえじゃない」と言った。
とても居心地のいい空間でリラックスできた。
でも、いちばん居心地のよかったのは、エリナさんが家のことを何も訊いてこないことだった。
きっと私が「親不孝者」と言われたことも知っているとは思うけれど、理由もその話すらもしてこない。
気を遣ってくれているのだ、とこんな私でもさすがにわかるほどその話が出てくることがない。
本当にありがとうございます、と深々と頭を下げるとエリナさんはなんのことだかわからないようだった。
この気遣いもきっと無意識なのだろう。
とても心優しい方だ、と初対面のときの怒りはもうすっかり忘れてしまっていた。
荷物をまとめ終わると、このお城を探検してみることにした。
エリナさんによると、このお城の名前は「エリソン城」というらしい。
「エリソン城」の名前の由来は、エリナさんのご先祖様のエリソン・ソラソンという人が建てたお城だからだそうだ。
どこにも電気はなくて、その代わりに蠟燭のついたシャンデリアが至るところの天井についていた。
なんと豪華なのだろう。
私は圧倒されながらも、ずんずんと足を進めた。
黒猫やサビ猫がいたりして、にゃあ、と鳴きながら足にすり寄ってきてくれることもあった。
撫でてあげると、黒猫のほうは人懐っこく、ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らしてくれた。
あとでエリナさんに名前を訊くと、黒猫はオスのミモザで、サビ猫はメスのちょこだそうだ。
「ちょこちゃんもミモザくんも可愛いですね」
私についてきてくれるミモザくんを撫でながら笑顔でエリナさんに言うと、「ふふ、美波ちゃん、ありがとう。ちょこの名前はチョガがつけてくれたのよ。ミモザは人懐っこい性格なのだけれど、ちょこはチョガに似て、ツンデレなのよね。だからあまり寄ってこなかったでしょう」エリナさんは苦笑いしながらミモザくんを一度だけ撫でた。
ミモザくんはエリナさんの方にすり寄っていって、「にゃあー」とごろごろ言いながら鳴いた。
エリナさんのことが好きなのだろう。
ミモザくんにとってエリナさんはお母さん的な存在なのだろう。
「なんでお前がここにいる。エリナ様、なぜこいつがここにいるのですか?」
声が聞こえて、振り返ると、チョガさんが立っていた。
「あ、チョガさん! これからお世話になります。今日からレイラさんの国ができるまでここで暮らさせてもらうんです」
私はにこっと愛想よく笑いかけて、言うとチョガさんは顔を顰めて、「帰れ。ここは馬鹿庶民がいるとこじゃない。エリナ様に失礼じゃないか? よくもそんな服でこれたもんだ」となんとも失礼なことを言ってきた。
なにか言い返そうとしたとき、エリナさんが代わりに言ってくれた。
「こら。チョガ、馬鹿庶民はないでしょう? 美波ちゃん、着替えましょう。チョガをあっと言わせてやろうじゃないの」
可愛らしい瞳でチョガさんを睨んで、エリナさんは私を服や靴にメイク道具などしかない部屋に連れて来てくれた。
「さあ、これを着ましょう。こういう服はチョガの好みなのよね。で、メイクは青色をベースにして、靴も青」
突然しゃきっとしたエリナさんに戸惑いながらも「はい」と着替える。
服は青色のドレスで、ふんわりとしていて柔らかい生地だ。
靴を履いて、エリナさんにメイクをしてもらう。
鏡で自分の姿を見ると、私じゃないみたいに綺麗だった。
「さっ、一瞬でしょう。チョガに見せに行きましょう」
自信満々のエリナさんについていってさっきの場所に戻った。
チョガさんがちょこちゃんを撫でていて、そのときのチョガさんはとても柔らかい物腰だった。
チョガさんは足音でこちらを向いて目を丸くした。
「ミリ! 大きくなったなあ。またあのときみたいに、一緒に遊ぶか?」
私の手をとって、見たこともないほど穏やかで温もりに溢れた笑顔で言ったチョガさんを私は凝視する。
「ちょ、ちょっと待ってください。あの、私ですよ? 美波、ですけど? どうしたんですか?」
人間違いかと思って言うと、「み、美波? ミリじゃないのかよ。せっかく会えたと思ったのに。エリナ様もやめてくださいよ。本当に悲しいんですから」と本当に悲しそうに、残念そうに、頭に手をやりながらどこかにちょこちゃんと一緒に去っていった。
「まだ気にしてたのね。まあでも弱気になったでしょう。ミリはね、私が昔に産んだ子供なの。お父さんはもういなくなってしまったのだけれど、その子をチョガはとても可愛がっていたの。でも私がここに国を作ることになったから、人間の姿にして人間の両親に親になってもらうことにしたの。その両親には元から子供がいたと思いこませる魔術をかけてね」
エリナさんは懐かしそうに微笑んで教えてくれた。
なんだか悲しい話だな。
それにしてもまさか、チョガさんがこんなふうになるなんて。
よっぽど大切な存在だったんだな。
羨ましい、と思う。
私はお父さんにもお母さんにも大切にされたことはほんの数年だけしかない。
だめだめ、せっかく家を出てきたんだから、もうネガティブなことは考えないの。
私は首を振って、ネガティブ思考を撃退しようとする。
「ごめんなさい、急にこんなこと言われたって返答に困るわよね。さあ、なにする?」
エリナさんは気を取り直したように言った。
「部屋の本を読んでもいいですか? 面白そうな本がたくさんあって」
と言うと、エリナさんは「もちろん! 欲しい本があれば買うし、持って行ってくれていいわよ。もう私もチョガも読まなくて放置状態だから。読みたい人に読んでもらった方が本も喜ぶと思うわ」と頷いてくれた。
ありがとうございます、とエリナさんにお礼を言って部屋に入って「世界の守り神」というフィクション小説を手にとった。
あらすじを読んでみると、私と少し似ている子が主人公で親近感がわいた。
一から読んでみると、面白くて次々とページをめくってしまう。
ふう、と一息吐いたころにはもう本は読了済みだった。
本を少しだけ名残惜しさを感じながらも、本棚に本をしまい、部屋についている壁掛け時計で時間を確認する。
一時五十八分。
まだ意外に平気そうだな、と思い私はもう一冊気になっていた本を本棚から抜きとった。
「霧が晴れるまで」
というこの本もまた、フィクション小説だ。
霧に包まれている街はなぜ霧に覆われいるのか名探偵が真相を探る、というあらすじが書かれていた。
ぺら、と一ページめくってみると、この感覚が妙にヒットし、内容を頭に入れながらどんどん読み進めた。
きゅううう、とお腹が鳴って、やっと五百二十八ページもある長編小説を三百五十ページで紐のしおりを挟んで、一旦閉じた。
リビングのようなところに行くと、エリナさんがお裁縫をしていた。
「あ、あの」
となんといえばいいか迷いながら声をかけると、「美波ちゃん、お腹すいたんじゃない? なにか食べる? もしお腹がすいたら、あっちの部屋にシェフがいるから食べたいものを言ってね」と言ってくれた。
「ありがとうございます!」
私はエリナさんの差した先にある部屋に入って、「シェフさんいますか? ホットケーキをお願いしたいのですが……」と声を張り上げて言うと、「あはは、きみは礼儀正しいなあ。シェフは僕たちだよ。ホットケーキだね、何枚作る?」と気さくに話してくれた。
私は笑われたことが恥ずかしくて、頬を紅潮させながら「三枚で……」と言ってすぐに部屋を出た。
「ふふ、美波ちゃんはいい子ね。もっと自分の家のようにくつろいでちょうだいね。本当に何かあればすぐに言ってね」
はい、ありがとうございます、とお礼を言ってエリナさんの向かいの席を勧められて座った。
ここが食べる机だと教えてくれて私は姿勢がぴしっとのびた。
「はい、どうぞ。シロップとバターもかけてあるよ。嫌だったら作り直すけど」
にこっとさっきの人とは違うほうの人がホットケーキを持ってきて、丁寧に机に置いてくれた。
「わあ、ありがとうございます! 大丈夫です! 美味しそう。いただきます」
ナイフとフォークを両手に持って、こういうときってかちゃかちゃとか音を立てちゃだめなんだよね、と思い出して丁寧に丁寧に口に運んだ。
ホットケーキを歯で噛んだ瞬間、じゅわああ、と口の中でシロップとバターが同時に溶けて味が広がる。
感激した。
こんなに美味しいホットケーキを食べたのは初めてだ。
ホットケーキを食べたのは何年ぶりだろう。
しみじみとした気持ちになって、涙が出そうになる。
あまりにも美味しくて、言葉も出てこない。
なんとか言葉を絞り出してシェフさんに感想を伝える。
「すごく美味しいです。初めて食べるホットケーキです!」
語彙力のなさに自分で言ったのだけれど、驚愕する。
でも、そんな私でもシェフさんは「ははは! ありがとう。そんなに言われたことないから嬉しいなあ。シェフをやっててよかった」と少し涙ぐんで言った。
こんな私でも、相手をこれほどまでに喜ばせることが出来るだなんて。
「こちらこそっ! 私も『よかった』だなんて言われたことないです。ずっと両親に蔑まれてて、生きててよかった」
涙が出てきそうで歯を食いしばって我慢する。
今まで向けられてきた視線、表情、罵声。
全部が蘇ってきて、苦しさに苛まれるけれど、もう私は弱くないのだ。
もう、強くなった。
だから泣かない。
このとき、私はもう二度と泣かないと心に決めた。
「ありがとうございます」
私はシェフさんにしっかりとお礼を言って、マナーも気にせずに一気にホットケーキを口に運んだ。
スマホの電源を久しぶりに入れてみると、一件のメールがきていた。
誰かというと、お母さんから。
いちおう家族なんだから連絡先は入れておいたけれど、まさか連絡がくるとは思ってもいなかった。
まだなにもやり取りの後なんてなくて、まっさらの背景に一言、文章が表示されていた。
『帰ってきなさい』
たったの一言なのに、途轍もない吐き気がした。
嫌だ、やめて、もう私は帰らない。
私は連絡先からお父さんとお母さんを消した。
残っているのは、恵理だけ。
恵理からは気遣ってくれているのか、何もきていなかった。
とりあえず持ってきたノートに挟まっていたお手紙セットのようなものに誰に渡すでもないけれど、思ったことを書き綴る。
『レイラさん。私はどうすればいいんだろう? いつまでもこのままお母さんに自立できないって言われ続けないといけないの? もう嫌だ。レイラさん以外、もう何もいらないから、お願いだから幸せになりたい。もうひとりは嫌だ。なんで、世界はこんなにも残酷なんだろう。なんで、私の味方をしてくれないんだろう。苦しいよ。なにを失ったっていい。だから、一度だけ幸せにさせて。心から幸せを感じてみたい。私だって、もう少し頑張ってね、じゃなくて、よくできたね、って言ってほしい。褒めてほしい。優しくしてほしい。愛してほしい。許してほしい。認めてほしい。もう苦しくてどうにかなりそうだよ……』
がりがりと私の書き殴った文字が並んだぐしゃぐしゃの便箋。
こんな便箋を読んだら、誰もが「そんなに世界は甘くない」とでも言うだろう。
「もう世界に邪魔だから、見捨てられたんだ」とでも言ってくれたらいい。
むしろ言ってくれた方がせいせいする。
もう自分は、だめなんだ、って自分を認められる。
私はもうだめだからこの世界に飽きられちゃったから、この世界にいなくてよくて、消えた方がよくて、なにも願っちゃだめで、生きていくことさえ許されない。
生きていても、軽蔑されるだけ。
なにもいいことなんて起こりやしない。
生きてればいつかはいいことがある、努力はいつか報われる、だなんて嘘だ。
そんなことない。
だから、今の私に残された選択肢はただひとつだけ。
死ぬ。
ただこれだけ。
死ねば、もうこんな苦しい思いはしなくていいのだ。
なら、死んじゃえば、天国という名の楽園で自由気ままに走り回って、いつまでも気軽で身軽で誰にも軽蔑されない。
ひとり死ぬのはここまでしてくれた、エリナさんたちに申し訳ないから、遺書でも書いておこう。
私はもう一枚、便箋を取り出した。
『遺書。誰かが気付いてくれることはあるかな。エリナさん、勝手にひとりで死んでごめんなさい。今までありがとう。レイラさん、大好きでした。死んでごめんね。私はもうこの世界に必要ないから、天国に先に行ってるね。私はどこで間違ったんだろう。あのときに間違ったんだ。私、幸せになりたかった。私のことを大切にしてくれてた、エリナさんとレイラさんが大好きだったよ。私は天国で自由に生きます。先に天国で待ってるね。恵理も、ごめんね。天国からずっとずっと見守ってます。またね。鳥浦美波より』
短い文章だけれど、遺書にこってる暇はなかった。
はやく死にたい。
楽になれる。
気付けばそんな思いに支配されていた。
私は部屋の窓を開け放った。
風が意外に強く吹いていて、窓を開けるのは大変だったけれど、なんとか開けられた。
下はびゅうびゅうと風が吹いていて、これから飛び降りるのかと思うとぞくりと肌が一瞬だけ粟立ったけれどすぐに平気になった。
そこで、ふと思う。
天国のある上に行きたいのに、下に行くなんて、と。
だからってどうってことはないのだけれど、不思議と疑問を持っただけだ。
私は窓のふちに立って、「エリナさん、レイラさん、今までありがとう。またね」と言い残して、ぴょんと身軽に飛び降りた。
けれど、びゅんと風に煽られる感覚とともに、私は浮いていた。
強い風で浮いているのだ。
なんで、私は下に落ちたいのに。
私は下に行こうとするが、行けない。
「チョガ! 美波ちゃんを今すぐ助けなさい。なにやってるの、はやく!」
大声が聞こえて見ると、エリナさんが窓のところにいた。
しまった、見つかってしまった。
私はびゅんびゅんと風に振り回されながら、必死に目を開けると目の前に黒い翼が見えた。
気付いたときは、チョガさんに抱きかかえられていた。
「ちょ、助けないでっ」
叫ぶとチョガさんに、ぎろりと睨まれる。
「は? エリナ様の命令に断れってのか? ふざけんなよ、悲劇のヒロインぶってんなよ。お前にはちゃんと温もりがあるだろ、贅沢してんじゃねえ」
なんてことない言葉のように言って私をエリナさんに物のように投げ渡した。
「美波ちゃん、何しようとしてたのっ? 自殺なんて考えてたの? 何があったのか話しなさい!」
はじめて怒ったような表情と声音でエリナさんは叫ぶように言った。
「ごめんなさい。お母さんからスマホに『帰ってきなさい』ってメールがきてて、苦しくなって自殺しようって思って……」
と正直に俯きながら私が話すと、エリナさんは思い切り顔を顰めた。
「だめでしょう!」
涙を流しながらまで言うエリナさんにぎゅうっと抱きしめられる。
「なんで泣いてくれるんですか? 私なんかいらな――」
「泣くに決まってるでしょう! 大切な大切な相手なのに!」
ぽろり、とずっと我慢していた涙が零れ落ちた。
「なんでっ、こんな私なんかを……」
「私なんか、なんて絶対に言わないで! あなたは私にとって世界でいちばん大切な存在なの!」
そう言われて私の両目からさらに大粒の涙が零れ落ちる。
「世界でいちばん、たいせつ……?」
「ええ。もちろんでしょう。もう、私は美波ちゃんの家族、ママなの。だから、絶対にこんなこと、二度としないで!」
最後の方は、穏やかになって微笑んで言ったエリナさんをぎゅっと私も抱きしめ返した。
「わかった。もうこんなこと、絶対にしないよ。ママ」
「おはよう、美波ちゃん。少し話があるのだけれど、いいかしら?」
豪華で大きな洗面所のようなところで顔を洗ってから、ママの部屋に行くと、そう言われた。
「おはよう! いいよ。なんの話?」
私が笑顔で頷いて訊くと、申し訳なさそうに「レイラと美波ちゃんで、おじいさまを説得させる旅に行ってきてほしいの」と頼んできて、私は目を丸くする。
どういうことだろうか。
「おじいさまを説得させる旅?」
私が首を傾げて言う。
ママは深刻そうな表情で「ええ。私のおじいさまは閻魔大王なのだけれど、おじいさまは見た目で人を判断して、地獄に行かせるか、天国に行かせるか、決めているのよ。おじいさまには向いていないから、閻魔大王をやめた方がいいと思っているの。私も何度か説得に行っているのだけれど、首を横に振るばかり。チョガにも三回ほど頼んだことがあるの。けれど、それもだめだったわ」と潤んだ瞳で自身の頬を撫でながら言う姿を見ていると断れるはずもなかった。
私は「え、閻魔大王っているんだ。私とレイラさんで、おじいさまを絶対に頷かせて帰ってくるね!」と勇気を出して頷きながら言った。
ママは安心したように涙を流して、「美波ちゃん、本当にありがとう。じゃあ、これから準備しなくちゃいけないわ!」と張り切ったように、にこっと微笑んだ。
「じ、準備?」
「そうよ、おじいさまのいる場所に行くのに、片道で一週間以上かかるもの。おじいさまを説得させるには大体で五日は必要なのよね。ここに帰ってこれるのは一ヵ月後くらいかしら。ごめんなさいね、もう頼りはレイラと美波ちゃんしかいないのよ」
眉を下げて穏やかに言うママを唖然と見つめながら、「そ、そうなんだ。じゃあ、準備、してくるー」と一息でそう言ってから私は自分の部屋に逃げるように駆け込んだ。
一ヵ月も旅をするなんて、私には体力がなさすぎるから、きっとレイラさんに迷惑をかけてしまう。
だからって、あんなママの困ったような顔を見たら、断れるはずはないのだけれど。
私は絶望したような落ち込んだような思いで荷物を準備しはじめた。
「レイラさん、久しぶり!」
私は荷物の詰め込まれたぎゅうぎゅうのリュックサックを背負って、レイラさんの元に駆け寄って微笑む。
「美波、久しぶり。それじゃあ、行こうか」
そっと私の頭を撫でて先を歩き出したレイラさんの私より全然大きい背中を見つめていると、あることに気付いた。
レイラさんの背負っているリュックサックのチャックが開いていたのだ。
私は静かにチャックを閉めて、レイラさんの隣に並んだ。
不思議そうな顔をしたレイラさんに私は、話題を振る。
「国はできたの?」
「ああ、あと少しだ。できたら、美波専用の家を作るよ。そこに住むといい」
優しくふわりと微笑んで言ったレイラさんに私は笑顔になって「ありがとう! 楽しみだなあ」と返した。
レイラさんの美しい横顔を眺めていると、ふいにレイラさんの後ろに大きな大きな私とレイラさんの何倍もある黒い鳥が歩いているのが目に入った。
「と、とりっ⁉」
思わず叫ぶとレイラさんは落ち着いた様子で横を向いて「ああ。こいつに乗って閻魔大王の家に行くんだ」と説明してくれた。
気付けば、私の隣にも黒い鳥が歩いている。
へえ、と頷いて私は鳥のふわふわの背中を撫でた。
私はレイラさんの合図で鳥に乗っかる。
ばさっと大きな翼を広げて、鳥は空高く飛んだ。
少しだけぐらぐらと揺れて怖かったけれど、すぐに安定してまっすぐ鳥は行き先をわかっているかのように飛び始めた。
レイラさんも遅れて私と並んだ。
一瞬、視界が真っ白になったと思ったらすぐに真っ青な空と雲が広がった。
「きれい……」
と声を上げるとレイラさんは嬉しそうに私の方を向いて「綺麗な景色だろう」とはにかんだ。
頷いて私は太陽に手を伸ばしてみた。
私の手は透けるようで、透けなかった。
ぎゅうっと鳥にしがみついて、黒い艶やかな羽根に顔をうずめて泣きそうなのを必死に隠した。
そういえば、とあることを思い出して私は顔を上げた。
「レイラさん、そういえばさ、あの国が壊されるやつ、どうなったの?」
そう訊くと、レイラさんは思い出すように顎に手を当てて、「ああ、あれな。なにもこなかったんだ。たぶん、雲で動くからもう見つけられなかったんだろう」と平然と言った。
「なんだ、ならもう安心だね」
「いや、まだ完全に安心なわけじゃない。いつか見つけられるかもしれない」
覚悟をするような言い方で言ったレイラさんに私は、ああそっか、と頷いた。
「ここで一旦、休憩するか」
三時間ほど経ったころに、レイラさんはそう言った。
「えっ、このまま行かないの?」
驚いて訊くと、レイラさんは頷いて「行くのに、長くて二週間はかかるらしいからな。休憩しながら行かないと鳥も倒れるだろう」と鳥を撫でた。
私はママの言っていたことを思い出して、「そうだった! お菓子でも食べながら、休憩しよう」と笑顔でレイラさんの方を向いて言うとレイラさんも笑顔で頷いてくれた。
鳥は会話を聞いていたのか、すごい勢いで着陸しようと下に向かう。
ジェットコースターに乗ったらこんな勢いなのかな、と想像しながら私は鳥にもたれかかる。
すたっと優雅に地面に着地した鳥は得意そうに、ふんっと鼻を鳴らして身震いをするように身体を左右に振った。
私は鳥の背中から降りて、リュックサックからお菓子を出した。
レモン味とグレープ味のグミとシャインマスカット味といちご味とグレープ味の飴玉とクッキーとチョコレートとポテトチップスのうすしお味。
レイラさんに驚いたような表情で「す、すごい量だな」と言われて私は「でしょ。選べなくてたくさん買ったの」と言いながらポテチを開ける。
私がポテチを口に入れると、レイラさんも私にならって、ポテチを食べた。
クッキーとチョコレートとグミも開けて、私はチョコレートを一粒、口に入れて食べる。
レイラさんがグミを真剣な顔をして必死に噛んでいて、私は思わず噴き出した。
「ちょ、噛めないの? もしかして、グミ食べるのって、はじめて?」
笑いを堪えながら訊くと、当然だ、というふうに頷かれた。
今までグミを食べたことがない人と出会うのは生まれて初めてで、私は「へ、へええ」と苦笑いで適当に相槌を打つことしかできない。
レイラさんはなんとかグミを飲み込んだのか、次はクッキーを食べている。
「クッキーは食べたことあるの?」
私がグミを食べながら訊くと、レイラさんは、ああ、と頷いた。
「へえ。グミが食べたことないなんて。あとまだひとつあるから、あげようか? 美味しいでしょ」
レイラさんは嬉しそうに顔をぱあっと輝かせて子犬のように「くれ。噛むのは難しくても、美味いからな」と恥ずかしそうに両手を差し出してきた。
はい、と渡すとレイラさんは大切そうに服のポケットにしまった。
そういえば、と「想いの硝子」を奪われたときにレイラさんが子供になっていたことを思い出した。
「ねえ、レイラさん。もしかしてだけど、『想いの硝子』を奪われたときに、子供になったときのこと、本当は自分でも覚えてるんじゃない? テレビの操作とか普通にできてたし、なんか子供にはできなそうなこととかしてたし」
思い当ったので、そう言ってから、後悔した。
記憶になかったら一から説明しないといけないし、そもそも、自分が子供になってたなんて知ったら、レイラさんが恥ずかしい思いをするかもしれない。
ぐるぐる、とネガティブ思考が渦巻く思考を遮ったのは、レイラさんの一言だった。
「実は、な。まあでも、少し子供心に戻ってたから、あまり自分で動いたって感じではないな」
少し意味がわからなくて、頭にクエスチョンマークが浮かんだけれど、すぐに意味を理解する。
子供になっていたときは、子供心に戻っていて、自分で自分を操作していたというよりかは、子供心の自分が動いていた、という意味だろう。
「なるほどね! いやあ、あのときはちょっと大変だったな。疲れちゃった。お母さんとお父さんもこんな思いで私に疲れちゃったのかな……」
面倒くさそうなお母さんとお父さんの顔を思い出しながら、独り言のように言う。
泣きそうになって、チョコレートを食べる。
「いや、そんなことない。もう美波の親は、エリナなんだろう?」
眉尻を下げて、寂しそうに言うレイラさんを私は、ぱちくりぱちくり、と瞬きをして見つめる。
数秒の沈黙の後、「うんっ!」と笑顔で私は頷いた。
さああ、と強い風が吹いて、私は目を覚ました。
お菓子を食べたあとにあのまま寝てしまったようだ。
「ふ、ふぁああ。れ、レイラ、さん……?」
目を擦りながら起き上がると、レイラさんも隣で眠っていた。
レイラさんも寝ちゃってたのか、と思いながら、ぼーっと空を見つめてレイラさんが起きるのを待ってみるけれど、なかなか起きてこない。
もう十分ほどは経っただろうか。
ゆっさゆっさ、と揺らしてみるけれど、びくともしない。
「レイラさんっ? 起きてよ、ねえ!」
大声を張り上げて言ってみるけれど、レイラさんは動かない。
「ねえ……っ」
か細い声を出しても、レイラさんは目を開けなかった。
ぶわり、と咲き遅れた不幸を呼ぶ花が咲くように、涙が溢れ出てきた。
嫌だ、嫌だ、認めたくない。
この苦しくて残酷すぎる現実を、受け入れたくない。
「ねえっ、レイラさん! 起きて、起きてよ! お願いだからっ」
ぎゅっと力強くレイラさんにしがみついて、縋るように言うけれど、やっぱりレイラさんは起きない。
「美波……?」
後ろから聞き覚えのある声がして、ばっと振り返ると、レイラさんが大きな袋を抱えて立っていた。
なにが起きたのかわからずに、涙も引っ込んでしまう。
レイラさんは、ここで息をしてないのに、なんで生きてるレイラさんが目の前にいるの?
なにも言うことができずにいると、苦笑いをして生きているレイラさんが話し出した。
「美波、それ、人形なんだ。朝食の食料を調達するために近くにあったスーパーで買い物に行っていたんだが、美波が起きて僕がいないと大変だから、人形を置いておいたんだ」
袋をレイラさんの人形の隣に置きながら、レイラさんは平然と言った。
「な、なんだ。人形か。もう、泣いちゃったじゃん! 置き手紙とかにしてくれたらいいのに!」
私は驚いたまま、レイラさんの背中を拳で軽く叩いて言うと、レイラさんは「思い付かなかった。ごめんね」としゅんと肩を落とした。
「でも、生きててよかった。で、朝ごはんあるんでしょ? なあに?」
袋を指差してレイラさんに訊くと、レイラさんは微笑んで教えてくれた。
「トマトとチーズのトーストでも作ろうかと思ってるが、嫌いか? なら、変えるが……」
「嫌いじゃないよ! チーズは大好物! モッツァレラチーズが特に好き!」
笑顔で言うと、レイラさんは安心したように「トマトはミニトマトで、チーズは、モッツァレラだ」とモッツァレラチーズとミニトマトを袋から出して見せてくれた。
私は「じゃあ、はやく作って食べよう!」と袋から一斤の食パンを出してミニトマトとモッツァレラチーズを乗せて、食パンで挟む。
「あれ、焼けなくない? トーストじゃないよね?」
私はあることに気が付いてそう言う。
レイラさんは頷いて、そのままで食べればいいだろう、と当たり前のように言った。
「え、じゃあ、トーストじゃないよ。え、待って。このモッツァレラチーズ、加熱しないで食べれるやつ?」
私がモッツァレラチーズの入っていた袋の裏を見ると、加熱はしなくていいやつだった。
「それくらい僕でも見てるよ」
少し怒ったように言ったレイラさんに私は謝って、トーストじゃない、トーストにかぶりついた。
チーズが伸びる、ということはなく、普通にミニトマトとチーズがパンに挟まれて口に入ってくるだけだった。
意外に焼いていなくても、美味しい。
レイラさんも私のようにかぶりついて、美味しい、と声を出していた。
食べ終わったら、片付けをして、出発することになった。
荷物を持って鳥に乗ると、またすごい勢いで雲の上に行って安定した調子でびゅおおと弱い風の吹くなか、鳥は余裕そうに飛ぶ。
優雅に飛ぶ鳥の頭を撫でながら、レイラさんの真っ直ぐに前を見つめる横顔を眺める。
私は、レイラさんが好きだ。
横顔も、意外に子供っぽいところも、優しいところも、強いところも、幸せそうな表情をよくするところも、私と飽きずにずっと一緒にいてくれるところも、なにもかも、大好き。
家族とか友達とかとして、とかじゃなく、きっと今のレイラさんと私は、友達以上、恋人未満だ。
友達よりは上だけれど、恋人とは違う、みたいな。
この間、ママのおすすめで読んだ本に「友達以上、恋人未満」という言葉がでてきて、それからよく使うようになった。
私は、少し謎めいたような言葉が好きだ。
謎めいた言葉について、詳しく考察するのとか、そういうことをするのが結構好きなのだ。
「レイラさん、ずっと一緒にいてね」
ぼそっと小さく呟いて、レイラさんの綺麗な横顔を脳裏に焼き付けた。
「ねえ、休憩しないの? 眠いよ」
欠伸をしながら言うと、レイラさんは頷いた。
もう、大きな三日月が出ていて、夜中だ。
「眠かったら、寝ててもいい。今日は朝までこのまま飛んで、明日の昼にどこかで休憩する予定だからな」
レイラさんは全く眠くなさそうに淡々と言った。
私は「じゃあ、おやすみ!」と大声で言って、鳥にもたれかかって目を瞑った。
ぴち、ぴちち。
穏やかな鳥の鳴き声で夢の世界から現実世界に引き戻されて、重たい瞼をこじ開けた。
目を開けると、真ん前には赤く染まっている空と雲と、鳥の黒い頭。
すぐには状況が理解できずに、しばらく目をぱちぱちと瞬かせた。
ああ、まだ早朝なのか。
横を見ると、レイラさんが優しい眼差しで赤い空を見つめていて、レイラさんの瞳の中に赤い朝焼けがきらきらと輝いて映っていた。
「レイラさん、おはよう」
静かに声をかけると、レイラさんは微笑んでこちらを向いた。
「美波、おはよう。よく眠れたか?」
太陽がじりじりと空の中心に向かっていくのを肌で感じながら、私は頷く。
「今ここで、ご飯、食べてもいい?」
リュックサックを漁りながら訊くと、レイラさんは頷いて前を向いた。
私は塩むすびのラップをめくって、口に運ぶ。
四口食べたところで、ふと視線を感じて横を向くと、レイラさんが羨ましそうにこちらを見ていた。
食べたいのかと思い、私がもうひとつの塩むすびを見せると、レイラさんは「くれるのか?」と目を輝かせて手を出した。
「食べたいんでしょ? あと六個あるから、いいよ」
笑って言うと、レイラさんは恥ずかしそうに「ま、まあな。ふたつでいいから」と私から顔を逸らした。
「あはは! もう照れちゃって、かーわいー」
塩むすびを渡しながら、にやにやして言う。
レイラさんは「いや、別に照れてない。可愛いのは美波の方だろう」とそっぽを向いて塩むすびにかぶりついていた。
え、可愛い?
可愛いなんて言葉、幻だと思ってた。
今まで一度も言われたことがなかった。
初めて、言われた。
しかも、異性に。
好きな人に。
こんな私でも脈ありなんじゃないかって思ってしまう。
絶対に叶わない恋だと思っていた。
きっとレイラさんは恋愛に興味がないんじゃないかって思っていたけれど、今のは希望を抱いてしまってもいいということだろうか。
「ふふ。レイラさんも、可愛いね」
にこっと微笑んで言ってレイラさんの鳥に飛び乗った。
ぐらぐらとぐらついたけれど、すぐに安定した。
レイラさんは驚いたように、目を見開いてがしっと私を抱きかかえてくれた。
「ありがとう。一緒に乗ってもいい?」
笑顔で言うと、レイラさんは頬を赤らめて「それはいいが、急に来たら危ないだろう」と言いながら私を前に座らせてくれた。
思っていたよりも距離が近くて、どくどくと心臓が早鐘を打つ。
「や、優しいね。レイラさんってどうして、そんなに私とずっと一緒にいてくれるの?」
ぎゅうっと鳥にしがみついて顔が赤いのを隠しながら訊くと、レイラさんが静かに暖かい声音で答えてくれた。
「美波が、なによりも大切だからだよ」
「なによりも?」
「ああ。誰よりも、なによりも美波が世界でいちばん大切だ」
涙が頬を伝って、鳥の首筋を濡らす。
「好き。私ね、レイラさんと過ごしてたら、苦しいって思うことが少なくなった。全部全部、レイラさんが好きだから。いつの間にか、レイラさんのことが大好きになってた。最初は友達みたいな存在だったけど、気付けば、レイラさんの隣に並ぶのは私じゃないと嫌だ、なんて我儘になっちゃった。レイラさんの、優しいところも、気遣ってくれるところも、少しポンコツなところも、全部、大好き。誰よりも、私がいちばんレイラさんを好きだって胸を張って言える。だから、私の隣にずっといてほしい……」
思わず零れ落ちた私の長い一言にレイラさんが目を見開くのが、容易に想像できた。
何か言い訳をしようと、口を開いたときだった。
レイラさんの口から最も聞きたかった言葉が耳に飛び込んだ。
「僕も、美波が大好きだよ。誰よりも愛してる。どんなに美波が辛くて苦しくても、僕がずっと隣にいて、慰めてあげる。もし、僕たちが死んで天国に行ったら、ずっとお花畑で遊ぼう。地獄でも、一緒に行くから」
ぽうっと私の胸に眩しい眩しい灯りが灯った。
ありがとう、と言いたいのに、嬉しすぎて声が出てこない。
そのとき、あることが頭に蘇ってきた。
そうだ。
私の小さい頃の夢は、鳥さんのお嫁さんになることだった。
鳥さんのことが、いや、レイラさんのことが、昔から私は好きだったんだ。
絞り出すようにして呟いた、小さな一言は私でも驚きの本音だった。
「私ね、レイラさんのお嫁さんになりたい」
私がレイラさんに想いを伝えた日から、ちょうど一週間後。
あの後、私の言ったことにレイラさんは優しく笑って頷いてくれた。
つまり返事は、イエス、だ。
それから、生まれて初めての「お付き合い」をはじめて、私たちは彼女と彼氏になった。
浮かれ気分でまた旅に戻った私たちは、今、閻魔大王のいる、魔王城についたところなのだ。
私たちの目の前には、細い歪な形をした道が続いていて、道の下は、マグマで覆われている。
道を通るだけで、汗が噴き出してきて、すごく暑い。
私の顎から、汗が滴り落ちる。
なんとか広い地面のところに出た。
レイラさんと行列になっている死人をかき分けて、閻魔大王の豪華な席に近付く。
「あの、少しお話できませんか?」
レイラさんがそう訊いて、一歩前に踏み出した。
閻魔大王は不機嫌そうにレイラさんと私の方を向いて、「なんじゃ? 若造なんかと話してる暇なんかないんや。死んどらんのやろ? なら、こんなとこ来んなや」と真っ赤な顔をさらに赤くして、睨むように少し訛った口調で言われた。
私はあまりの怖さと迫力でレイラさんの背中に隠れた。
レイラさんは引くことなく、真っ直ぐに閻魔大王を見据えている。
尊敬してしまう。
私にはこんなことできない。
睨まれたら怖いし、しかもそれが閻魔大王だったら、地獄に落とされちゃうんじゃないかってもっと怖くなる。
「僕たちは、エリナ……さん、に頼まれてきました。話をさせてください」
閻魔大王は首を絶対に横に振らなくて、頑固な人なのだ、と私は思い、ママが困ったような表情をしていた気持ちが今なら理解できた。
「エリナ、だと? また閻魔をやめろとでも言いに来たのか! わしゃ、なんと言われようと、やめんからな」
閻魔大王は怒ったように、ぴくりと眉を動かして、だんっと両手で机を叩いた。
机に乗っている、分厚い本がひっくり返った。
「はい、説得をしにきました。お話だけでも」
レイラさんは落ち着きはらった調子で言う。
「帰れ!」
閻魔大王は椅子から立ち上がって、手から風を出した。
その風は一直線にレイラさんに向かっている。
レイラさんは風に押されて、細い道の真ん中まで突き飛ばされた。
そのとき、レイラさんのポケットからグミがマグマに落ちてしまった。
私がレイラさんに駆け寄ると、レイラさんは絶望したような表情で俯いていた。
「レイラさん、大丈夫っ?」
すぐに支えて立たせると、レイラさんは顔を上げた。
その顔は怒りに満ちた表情をしていた。
「閻魔。いい加減にしろ。人を見た目でしか判断できないお前に閻魔大王は向いてない。今すぐに、マグマに落ちろ」
私に言われているわけではなくても、震えるほどに低い声だった。
閻魔大王は動きを止めて、怯えたような表情をしている。
「れ、レイラさん、言いすぎだよ――」
と言うけれど、我を失ったように、私が何を言おうと、レイラさんには聞こえていないようだった。
今すぐにでも殴りかかりそうな勢いで言うレイラさんを私は、はらはらしたまま見守る。
「地獄に行け」
そう小さく呟いて、レイラさんは閻魔大王の胸倉を掴んだ。
そのまま、ずるずると引きずってマグマの前まで連れて行く。
「何するんや!」
レイラさんが閻魔大王をマグマに落とそうとしたとき、自然と口から言葉が洩れた。
「こんなのっ、レイラさんじゃない!」
周りに響き渡るほどの大声で叫ぶとレイラさんは驚いたように振り返った。
レイラさんは目を丸めて、「ぼくはいま、なにを……」と自分の手と閻魔大王を交互に見つめながら、唖然としたように呟いている。
よかった、元に戻ってくれて。
ほっと胸を撫で下ろし、私はレイラさんに今までのことを話す。
レイラさんは心底驚いていて、本当に記憶にないようだった。
「それで、レイラさんはなんで怒ってたの?」
想像はついていたけれど、一応訊いてみる。
「美波にもらった大切なグミをマグマに落とされたからに決まってるだろう」
眉をひそめて、迷いもなく言ったレイラさんに私は呆れた。
レイラさんには結構ポンコツなところがあるのだ。
「やっぱりね。グミだったら、またあげれるからそんなくらいで我を見失わないで。グミ、今あげるから」
怒って言うと、レイラさんは少し拗ねたようにそっぽを向いて言った。
「だって、あのときに美波がくれたのが、よかったから……」
私は、自分の顔が赤くなっていくのがわかった。
からかわないでよ、と怒り半分、恥ずかしさ半分で言ってグミを渡す。
レイラさんは渋々というふうに受け取って、しゃがんでいたのを、すっくと立ちあがった。
「というわけで、あなたには閻魔大王をやめていただきたい」
突然、閻魔大王に近寄っていってレイラさんは静かに落ち着いた様子で、言った。
閻魔大王は顔を顰めて「やめはせん。だが、見た目で判断するのはやめたるわい! 閻魔ノートを見て決めるんや」と苛々した雰囲気で言う。
レイラさんは「閻魔ノート?」と首を傾げる。
私もそれは気になっていたので、レイラさんに近づいていく。
「閻魔ノート、いい名前やろ? わしがつけたんや。人間界の人間すべてのことが書かれた貴重なノートなんや」
自身満々に言う閻魔大王に私たちは何も言えなくなる。
あまりにもネーミングセンスがなさすぎて、いい名前ですね、とも、変な名前ですね、とも言えずに私は苦笑いを浮かべた。
レイラさんはなんとか、というふうに口を開いて「そ、そうなんですね」とひきつった笑みを浮かべていた。
閻魔大王はあまり反応がなかったからか、少し眉をひそめて「なんや、反応薄いなあ」と豪華な椅子に戻りながら言った。
「じゃあ、僕たちはもう帰りますね。絶対に、閻魔ノートを見て、地獄か天国か、決めてください。この言うことを守れなかった場合、すぐに閻魔大王をやめてもらいます」
レイラさんは目を細めて何かを見定めるように言ってから、踵を返して歩き出した。
私は軽く会釈をしてから、「貴重なお時間をありがとうごいましたー」と一応それっぽいことを言ってレイラさんのあとに続いた。
スーパーで買った抹茶のカステラをプラスチックフォークで食べながら、寂しそうにグミを眺めているレイラさんの背中をさする。
「いい加減に立ち直ったら?」
呆れながらそう私が言うと、レイラさんは涙で濡れた顔を拭くこともせずに「だっべ、あれがよがっだ」と子供のように泣きじゃくりながら、意味不明な言語を話し出した。
首を傾げてレイラさんの顔を覗き込んで私は訊く。
「大丈夫? 日本語じゃないよね? ねえ、普通に話してくれないと、わかんないよ」
レイラさんからの反応はなくて、私は少し不安になる。
どうしたのだろうか。
グミをマグマに落とされたときから、レイラさんの様子がおかしい。
我を忘れて、暴力的な攻撃的な言葉を閻魔大王に言ったり、意味不明な言語を話し出したり、ずっと落ち込んでグミを見つめていたり、子供のようだったり。
いつものような大人の余裕というものがない。
ご飯だって、少ししか食べないし、なりより、笑顔のときがなくなってしまった。
「ねえ、どうしたの? グミがそんなにショックだったの?」
レイラさんの頬に流れる涙をハンカチで拭きながら尋ねると、レイラさんはゆっくりと顔を上げて日本語で返事をしてくれた。
「僕は、美波に怖い思いをさせてしまった……」
またすぐにレイラさんは俯いて、嘆くように言った。
私はなんのことだか、全く心当たりがなくて拍子抜けする。
「え、あのさ、なんのこと? 私、レイラさんに怖い思いさせられたこと、ないよ? 楽しい思いしかさせられたことないし、そもそも、レイラさんは私に怖い思いをさせようとするほど、悪い人じゃないでしょ。レイラさんは、世界でいちばん優しいんだよ」
戸惑いながら言うと、レイラさんは顔を上げて、意味がわからない、というように眉をひそめた。
「あの閻魔大王のときに、怖い思いをさせてしまったかもしれないと思っていたのだけれど……」
「ああ。別に怖い思いなんてしてないし、不思議な思いだっただけだよ。なんで突然こんなことに、って感じで。もしかして、そんなことでずっと落ち込んでたの?」
レイラさんは顔を真っ赤にして、ぼそぼそと小さい声で訊いてきた。
「じゃあ、僕は美波に怖い思いをさせてないのか?」
もちろん、と大きく頷くとレイラさんは安心したように、にこりとはにかんで「それじゃあ、行くか!」と勢いよく立ち上がった。
「うわっ、びっくり! ぐっ、ごほっ、ごほっ!」
私は驚いて、口に入れていた抹茶カステラが喉に詰まりそうになってむせる。
胸を、とんとん、と強く叩いて何とか胃に流し込めて、間一髪だ。
レイラさんは、途端に不安そうな顔に戻って「美波、ごめん。大丈夫か?」とすぐに私の背中を優しくさすってくれた。
「いや、ちょっと待って。『大丈夫か?』じゃないでしょ! レイラさんが驚かせるから喉に詰まって、死にかけたじゃん」
怒って言うと、レイラさんは俯いて怒られた子供のように項垂れた。
「ごめん……」
ちょっと言い過ぎたか、と思うけれどもう言ってしまったのだから、仕方がない。
「私も、ごめん。まあ、帰ろう!」
笑顔で言って抹茶カステラのゴミをゴミ袋代わりのレジ袋に入れて、立ち上がる。
レイラさんも笑顔になって、立ち上がって鳥に乗っかった。
「よしっ」
とレイラさんが言うと同時に、鳥はぱたぱたと飛んでまた勢いよく空の上に出た。
「あ、そういえばさ、今思ったんだけど、レイラさんの誕生日っていつなの?」
ふと思い立ってレイラさんの方を向いて訊くと、レイラさんは思い出すような仕草をしたあと「明々後日だが……」と平然とした声が返ってきた。
「ええっ? 明々後日って、もうすぐじゃん」
驚いて私はそう言う。
「ああ、そうだな」
レイラさんはまたしても、平然と答える。
「なんでそんななの。その日、私がケーキ焼いてあげるよ」
あまりにも冷たい反応なので言うと、レイラさんは目を輝かせて「ケーキ! なんのケーキを焼いてくれるんだ?」と嬉しそうに、にこにこ笑顔で尋ねてきた。
私は「うーん。レイラさんの食べたいもの」と言うと、レイラさんは、少し首を傾げて「それなら、チョコレートケーキがいいな。飾り付けるときにフルーツものせてほしい」と遠慮がちに言ってきた。
「いいよ! じゃあ、楽しみにしてて」
私はとびっきりの笑顔でレイラさんの手を取りながら、言う。
レイラさんは嬉しそうに目を細めてから、手を繋いでくれた。
ぴょんっとレイラさんの方の鳥に飛び乗る。
「こら、危ないだろう」
耳を赤くして、注意するようにレイラさんは言いつつも、私を鳥の前に座らせてくれた。
「照れなくてもいいのに。耳、赤くなってるよ」
にひひ、と照れ隠しで笑いながら言うと、レイラさんの「赤くなってない。あ、そうだ。今日は暑いからな」と焦ったような返事が返ってきた。
「レイラさん、嘘下手だね。今日は寒いよ。ほら、コート着てるじゃん」
振り返ってレイラさんの黒いコートを指差す。
レイラさんは「美波には、なんでもお見通しだな。恥ずかしい」と優しく微笑んだ。
「恥ずかしくなんかないよ。私のことだって、レイラさんはなんでもお見通しじゃん」
私よりも全然上にある、頭をそっと撫でて言った。
レイラさんは驚いたように目を丸くして、「はは、そうだな。僕らはなんでもお見通しだ」と大きな手で私の頭を撫で返してくれた。
「ねえ、私たちって繋がれてるのかな」
「繋がれてる?」
「よくあるじゃん。運命の相手とは、運命の赤い糸で繋がれてるって」
「じゃあ、僕たちは繋がれてるかもな」
レイラさんは薄い氷の膜の張った、今にも崩れそうなほどに脆い水面に触れるように、優しく優しく微笑んで、言った。
「美波!」
鳥の休憩中なので、レイラさんとお菓子を食べていると後ろから声が聞こえてきた。
私は絶句して振り返ると、予想通りお母さんが立っていた。
レイラさんは、この人が私のお母さんだと知らないので、不思議そうに首を傾げている。
「誰よ、この男性は! まさかあんた、今までこの男性と一緒にいたんじゃないでしょうね!」
顔を真っ赤にして言うお母さんを呆然と見つめながら、私はなんとか声を絞り出す。
「なんで、お母さんがここに、いるの?」
レイラさんは、やっとわかった、というふうに頷いて、お母さんを塞ぐように私の前に立った。
「初めまして。美波さんとお付き合いさせていただいている、レイラ・リヘナといいます。美波に『親不孝者』と言ったのは、あなたですよね」
「レイラ・リヘナ? 誰か知らないけど、あなたは黙っててちょうだい。美波、一緒に帰りましょ。新しいお父さんが待ってるわよ」
ぐいっと眉を吊り上げて強い口調で言ってきたお母さんを私は睨み返す。
「絶対に帰らない。私にはもう、ママがいるの。だから、私とお母さんはもう他人なの。二度と私と関わらないで。レイラさん、帰ろう」
私はそう言って、レイラさんの腕を引っ張って荷物を持って鳥に乗る。
「ちゃんと話さなくていいのか?」
レイラさんも鳥に乗りながら、訊いてくる。
私は無言で頷いて、すごい勢いで上に向かう鳥にしがみつく。
お母さんの本気で怒った表情を見ながら、私は少しだけ、ほんの少しだけ、罪悪感に苛まれた。
その後は、なんとなく気まずくて私もレイラさんもずっと黙っていた。
ひゅううう、と柔らかい風が私の肌を突き刺すように吹き抜ける。
鳥の背中に顔を埋めて、頭の中を忙しく動き回る怒りを鎮めようとする。
お母さんは、不倫してたんだ。
新しいお父さんも待ってる、その言葉を聞いたときに、直感的にそう確信した。
じゃなければ、こんなすぐに再婚なんてできるはずない。
裏で再婚の話が進んでいた、としか思えない。
一向に収まらない怒りをなんとかレイラさんにぶつけてしまわないように堪えるけれど、ネガティブ思考はどんどん深くなっていく。
なんで幸せなときにお母さんがいつも現れるの?
私はもう、あの事件のことも、無視されてたときのことも、ひとりで食べるご飯の味も、お母さんとお父さんも、忘れたい。
だめだめな人間だったときのことを、ネガティブだったときのことを、被害妄想をしてばかりのときのことを、完全に忘れたい。
過去には、もう思い出したくもない記憶ばかり。
「だからこそ、今を生きるんだよ。いちいち過去に囚われてたら、いつまでも前に進めないままになる。所詮過去だ。いずれ、なんてことない出来事だった、と思える日がくる。こなくても、その出来事は今の自分になるためにあったことだ、とプラスに考えればいい」
胸に、すとん、と落ちてきた私に必要だった言葉たち。
顔を上げて横を見ると、レイラさんが真剣な眼差しで私を見つめていた。
「なんで、考えてることがわかったの?」
「なんとなく。美波を見てたら、予想できた」
あっけらかんとした表情で言ったレイラさんには、嘘なんて言葉はなくてただ輝いていた。
ありがとう、と言うと、レイラさんは顔を緩めて笑った。
今のレイラさんの言葉で肩の荷がひとつ、降りた気がした。
「レイラさんはいつでも私に必要なものをくれる、ヒーローだね」
無意識のうちに口をついて出た本音に、私は驚いたけれど、言い訳をしたりはしなかった。
そう、レイラさんはヒーロー。
私はもう、あのころの記憶には囚われない。
前を向いて今を生き抜くって決めたから。
「ママ、ただいま!」
門のところで迎えてくれたママに言って、閻魔大王のときのことを話した。
ママは嬉しそうに笑って、「美波ちゃん、本当にありがとう! 今日はご馳走にしましょう。レイラも食べていったらいいわ」と歩き出す。
「あ、そうそう。ママ、私ね、レイラさんと付き合いはじめたの」
思い出してレイラさんに目配せしてから言うと、ママは興奮したように足を止めて振り返った。
「まあ! いつから付き合ってるの?」
にこにこ、と笑顔で訊いてきて、私は戸惑いながら「閻魔大王のところにつく前」と答える。
「どっちから告白したの?」
「わ、私、から……」
次の瞬間、ぼっと顔が赤くなるのがわかった。
ママはお上品に驚いたような表情をしたあと、笑顔で「ふふっ、青春ね。いいわあ、私にもこんなときがあったのよ」と懐かしそうにまた歩き出しながら言った。
レイラさんが、こそっと私に耳打ちしてくる。
「エリナはこういう話が好きなんだ。答えたくなければ、答えなくてもいいんだぞ」
優しいなあ、レイラさんは。
「大丈夫。答えたくないわけじゃないし。恥ずかしいだけだから」
笑顔でレイラさんの耳元で言うと、レイラさんは耳を赤くして「そうか」とそっぽを向いた。
意外にレイラさんは恥ずかしがり屋なのだ。
平然と言うけれど、本当は恥ずかしいと、すぐにそっぽを向いちゃうのだ。
「ねえ、ママはさ、この空孫国に住まないといけないの?」
ずっと思っていたことを今、思い出して訊くと、ママは頷いて「ええ。それがどうしたの?」と訊き返される。
「レイラさんのところで一緒に住めないかな、と思って。三人で過ごせたら絶対に楽しいから」
「確かに楽しそうね。でも、ごめんなさいね。たまに私も遊びに行くわ。泊まるくらいなら、できるかしら」
残念そうに笑って言ったママの言葉に私は「本当! じゃあ、たまに遊びにきてね。もちろん、泊まりでもきてね!」とママに抱きついた。
ソラソン城に入ると、まずは手洗いを済ませてから食べるときの部屋にレイラさんとママと行く。
シェフさんに「ご馳走をお願いします!」と頼んで椅子に座る。
「ふう。疲れたな」
レイラさんが背もたれにもたれて、疲れたように言ったのを聞いて、私は「そう? 鳥に乗ってたから、私はあんまり疲れなかったよ」と言う。
「エリナ様、閻魔大王の件はどうなったんですか?」
チョガさんがそう言いながら、部屋に入ってきて見ると、チョガさんはレイラさんを見つけると同時に、目を丸めて言った。
「なぜ、兄さんがここにいる?」
「なぜって、美波と旅をしてきたからだが? なにか不満でもあるのか?」
「不満なんかない。家に帰らないのか?」
「今日はここで食べていくんだ」
ぴりぴりとした空気が場に流れる。
「ふたりの仲は相変わらずね」
ママが平然とそう言ったとき、ご馳走が運ばれてきた。
「わあ、美味しそう! いただきます」
私はそう言って、ナイフとフォークを両手に持った。
運ばれてきた料理は、ステーキ。
じゅうじゅう、と音をたてるお肉を一口サイズに切って、お肉の柔らかさに驚いた。
恐る恐る口に入れると、肉汁が口いっぱいに広がって噛むたびに肉汁で口がいっぱいになる。
ステーキなんて、まだ二回くらいしか食べたことがなくて、しかもそれは小さいときだったから、味なんて全く覚えていなかった。
「これは、美味いな」
隣からレイラさんの感心するような声が聞こえて見ると、美味しそうに食べていた。
もう半分以上もなくなっている。
私はまたもう一口食べて、感動する。
毎回食べるたびに感激してしまって、なかなか食事が終わらない。
レイラさんなんて、もう食べ終わってしまっていて、赤ワインのグラスをゆらゆらさせていた。
「ワインとか、飲むんだね」
意外だったので言うと、レイラさんはワインで赤くなったであろう顔を向けて「へ? まあな」と言った。
レイラさんが酔っている様子で、私は少し不安になる。
ママはお酒に強いのか、白ワインをたくさん飲んでいる。
チョガさんは、お酒は飲まないらしく水を飲んでいた。
私はなぜか無性に烏龍茶が飲みたくて、烏龍茶をゆっくり飲んでいる。
ステーキを食べながら、私はまた感激する。
ふう、と息を吐いたときには、もうステーキが食べ終わっていた。
ごちそうさまでした、と言って手を合わせて烏龍茶をぐびぐび飲むと、隣から静かな寝息が聞こえてきた。
もしかして、と思い見ると予想通りレイラさんが机に突っ伏して寝てしまっていた。
「ママ、レイラさん寝ちゃったー」
レイラさんを起こさないように少し声をひそめて言うと、ママがこちらを向いて「あら、本当だわ。美波ちゃん、起こしてくれる?」と言われる。
私は頷いて、レイラさんの肩を揺さぶる。
「レイラさん、起きてー!」
「ん?」
レイラさんはすぐに起きて寝ぼけ眼のまま「なにかあったか?」と周りを見回した。
「なにもないけど、寝たら帰れなくなっちゃうじゃん。お酒もほどほどにしないと」
と言うと、レイラさんは「あれ、美波は飲まないのか?」と怪訝そうに眉を寄せた。
「いやいや、まだ未成年なんだけど」
「ああ、そうか。じゃあ、もう僕はそろそろ帰ろうかな」
レイラさんはふらふらとよろけながら立ち上がって言った。
「レイラ、そんなんじゃ帰れないでしょう。なに言ってるの。泊まっていけばいいじゃない。チョガの部屋に布団でも敷きましょう」
ママが慌てたように立ってレイラさんに言う。
けれども、レイラさんは「いや、帰るよ」となぜか頑なに泊まっていこうとしない。
「え、泊っていきなよ。怪我するよ」
私がそう言うと、レイラさんは「美波が言うなら、泊ろう」と頷いてまた椅子に戻った。
「やっぱり彼女の力はすごいわね」
ママの感心したような声に私は、いやいや、と謙遜する。
「は、彼女?」
素っ頓狂な声がして見ると、チョガさんが驚いたような表情をしていた。
「ああ、チョガには言ってなかったか。僕たち付き合ってるんだ。悪いが、チョガの負けだな」
レイラさんは酔いが覚めてきたのか、落ち着いた様子で、ふふん、と笑いながらチョガさんに言った。
「はあ? なんで僕に彼女ができなくて、兄さんにできるんだよ」
「僕はモテるからな。かっこいいとよく言われるし、美波には『お嫁さんになりたい』とまで言われたんだ」
「ちょっと、レイラさん!」
私は大声を出して、レイラさんに言うと、レイラさんは驚いたような顔をしたあと、「これは秘密なんだった。美波、ごめん」と寂しそうに謝られる。
けれども、そんなことはお構いなしに、チョガさんはもっと不愉快そうな顔をして黙り込んだ。
とても気まずくて、私は烏龍茶を一口飲む。
「さ、さあ、美波ちゃん、お風呂にでも入りましょう」
にこっと気まずそうな笑顔でママが言って、私は頷いて席を立った。
ママとお風呂場まで行って、ひとりで入る。
お風呂の個室が十個以上もあって、ひとりひとりで入れるようになっている。
私はそのうちの、一番端のお風呂に入る。
中は広くて、充分に足を伸ばせる湯船があって、水風呂とサウナもついている。
初めてお風呂に入ったときは、豪華すぎて思わず一旦外に出てしまった。
身体を洗ってから湯船に浸かると、疲れが一気にとれたような感覚。
しばらく漬かったまま、ぼーっと虚空を見つめる。
ほっと一息吐いたところで、サウナに入る。
木製の横長の椅子に座って十分経ったら出よう、と全身に暑さを感じながら、目を瞑った。
少しうつらうつらとしてきたところで、そろそろ十分経ったかな、と時計を見てサウナを出た。
暖かいお湯を頭から浴びて、水風呂に浸かる。
こうするといいのだ、と初めてこのお風呂に入るときにママが教えてくれた。
水風呂から上がると白い寝転がれる椅子があって、ごろんと横になった。
なんだかほわほわしたような気分でなんだか心の疲れも体力の疲れも本当に消滅したような感覚だった。
ふわあ、と私が動くたびに穏やかに湯気が揺れた。
そろそろ出よう、と湯船を出て軽く身体を拭いて、外に出る。
服に着替えてから、ぶおお、とドライヤーで髪を乾かす。
ぽかぽかぬくぬくで、レイラさんたちのところに戻った。
「ただいまー」
とご機嫌で言いながら部屋に入ると、チョガさんはいなくてレイラさんだけが座って、寝ていた。
「あ、レイラさん、また寝てる! ちょっともう、起きてよー」
ゆっさゆっさ、と私はレイラさんを揺さぶる。
ん、と顔を上げたレイラさんに私は訊いた。
「チョガさんは?」
「美波か。チョガは風呂に入ってる」
瞼を擦りながら、眠そうにレイラさんは言って、にこっと優しく微笑んだ。
「レイラさんはもう入ったの?」
「いや、まだだ。誰もいないと美波が困る、と思ってな。じゃあ、僕も入ってくるよ」
レイラさんは笑顔で私に手を振りながら、お風呂へと行ってしまった。
優しいなあ、と改めて思う。
がちゃり、と扉が開いてママが部屋にやってきて、椅子に座った。
真っ白で綺麗なバスローブに身を包んでいて、なんだかおしゃれな映画にありそうな雰囲気だと思った。
穏やかな目覚めだった。
ゆっくりとベッドから起き上がって、顔を洗うために洗面所に向かった。
ばしゃばしゃ、と顔を洗う。
タオルで顔を拭いて、部屋に戻った。
青いワンピースに着替えて、ベッドの端に座って窓の外を見つめた。
ふと頭がずきずきと痛んで、ぎゅっとこめかみに向かって、爪を立てた。
一旦、ベッドに横になる。
急に頭が痛くなることは、ないこともないけれど、今日のは何か違う。
なにかを思い出そうとしているような、そんな痛みだった。
「ミ、リ……?」
その後、すぐに痛みは引いたけれど、疑問は消えない。
どうして突然、あんなに痛くなったのだろうか。
まあでも、昨日の食べすぎとかもあるかもしれない、と思いなんとか落ち着いた。
とりあえず、ママの部屋に行ってこのことを、言おう、と思った。
「ママ、いる?」
ノックをして入ると、ママは本を読んでいた。
振り返って「美波ちゃん、おはよう。どうしたの?」と本を閉じて微笑んでくれた。
「おはよう。さっき起きたんだけど、急に頭が痛くなっちゃって。すぐに落ち着いたんだけどね……」
「まあ! もう痛くないのね? 今日はもう部屋で安静に寝てた方がいいわ。薬と水を準備しておくわね。後で、お粥を持って行くから、今は本でも読みながらでいいから、寝ててね」
焦ったような表情で立ち上がって言ったママに私は、「でも、もう痛くないし……」というけれどママは聞こえていないようだった。
私は仕方なく、渋々と部屋に戻って読みかけの小説を読みながら、寝転がった。
その後、頭が痛くなることはもうなくなった。
けれども、頭からずっと離れないことがあった。
ミリ、という名前だ。
ママの子供だということは、わかっているのだけれど、なぜか頭から離れてくれないのだ。
どうしても、私となにか関わりがあるように思ってしまう。
勘違いだとは思うのだけれど。
こんこん、とノックがされて扉が開かれた。
ママだろう、と予想したらその通り、ママだった。
「美波ちゃん、体調はどう? その後、大丈夫? お粥を持ってきたけれど、食べれる?」
本当に心配そうにベッドの横にある、低い机にママは卵のお粥をお水と一緒に置いてくれた。
「大丈夫。あれからはずっと頭は痛くなってないから。お粥もありがとう。食べてもいい?」
私は笑顔で言った。
ママは嬉しそうに、にこっと微笑んで「なら、よかったわ。無理はしないでね。食べれなくなったら、残していいから。今日のお粥はね、私が作ったのよ。よかったら、感想を聞かせてくれる?」と両手を組んで、その場にしゃがんだ。
私は頷いて、お粥を一口食べた。
「美味しい!」
ごくり、と水を飲んでから言うと、ママは満足そうに顔を和ませて「ふふ、私も意外に料理、得意なのよ」と得意そうに何度も瞬きをしながら言った。
「じゃあ、なにかあれば呼んでね」
と笑顔でママは部屋を出て行った。
私はお粥を食べながら、少しだけ眠くなってくる。
お粥の盛り付けられていたお皿は空っぽになったころ、私はまた横になって目を閉じていた。
眠いのだけれど、なかなか眠れはしないのだ。
だから、ずっと目だけ閉じている。
そのとき、ぴろりろりん、とスマートフォンの着信音がなって、机からスマートフォンを持ってくる。
「もしもし」
と出ると恵理のあっさりとした声が返ってきた。
『もしもし、美波? 今日、会える? この間、会えなかったからさ』
「あー、ごめん。ちょっとしばらく会えないかも。空の上にいるから」
『え? どうしたの? 大丈夫? 最近、疲れてるの? ゆっくり休んでね』
心配するように恵理が言って、電話を切られた。
普通は空の上にいるなど有り得ないからだろう。
本当なのにな、と思いながら私はまた目を閉じた。
はっと目を覚ますと、窓の外はもう真っ暗だった。
長い時間、寝てしまっていたようだ。
ベッドから起き上がって、ママの部屋に行く。
「ママ?」
「あら、美波ちゃん。また頭痛?」
心配そうに、ぐっと眉根を寄せてママは近寄ってきて、私は首を横に振って言った。
「ううん。レイラさんはどこかなって」
「ああ、レイラね。実はさっき帰っちゃったのよ」
「あのさ、ママ。私ひとつだけ、思ったことがあるんだ」
私は、覚悟を決めて口を開いた。
ママは不思議そうに小首を傾げている。
「私の、本当のお母さんって、ママ、なの……?」
あまりにも唐突な質問だったのだろう。
返答が返ってくるまでに数分かかった。
「どうして、そう、思ったの?」
ママの顔に笑みは浮かんでいなかった。
そのママの真剣な表情が、これは事実の可能性が高いことを物語っているような気がして、自然と私の背筋が伸びた。
「今日、頭が痛くなったとき、なにかを思い出そうとしてる気がしたの。それで、そのあと寝ちゃったんだけど、夢で見たの。子供のころの私がママと遊んでる記憶みたいなのを。それで訊いてみよう、と思って――」
「そう、そうよ。私の子供はっ、美波ちゃんなの……。美波ちゃんの本当の名前はミリなのっ! あのとき、私は涙が出そうになったわ。だって、私の我が子が目の前に立ってたんだもの……」
泣きながら、ママは崩れ落ちて縋るように私の腕を掴んで言った。
まさか、私が「ミリ」だったなんて……。
「私、なんで今まで忘れてたんだろう。全部全部、思い出した……。ママだよね。大好きだよ! 私、やっぱりあの人と家族じゃなかったんだ」
今までのママとの記憶を全部思い出して、涙が溢れ出してきて、止まらない。
「一緒に、海も行ったよね。スイカをスーパーに買いに行ったのも、覚えてる。森秋公園にも行ったよね。飛行機も乗った。いろんなとこに行ったよね」
色鮮やかで楽しい記憶ばかりがどんどん頭の中に浮かんで、涙がそのぶん溢れてくる。
「ええ、そうね。でも、このことは覚えていないでしょう」
私はお母さんの肩から顔を上げて、真っ直ぐに涙目でママを見つめた。
「ミリはね、本当は人間じゃなくて、空に住む鳥なの」
私は耳を疑った。
鳥?
私が?
耳から零れ落ちるんじゃないかと思うほどママとの思い出でいっぱいだったはずの頭の中は、途端にクエスチョンマークで埋め尽くされた。
「急にこんなこと言われても、ぴんとはこないわよね。でも人間の姿がミリには合ってるだけで、本当はミリは鳥なの」
正直、わけわからなかったけれど、一応、頷いた。
「なんで? レイラさんと同じってこと?」
訊くと、ママは頷いて「そういうことになるわ。でも色は青ではないの。あなたはとても特殊な色をしてるから、あまり昔も鳥にさせないようにしていたのよ」と意味ありげに言った。
「何色なの?」
しばらくママは押し黙ってしまった。
私も催促はしないで、黙ってママの言葉が返ってくるのを待つ。
「ミリは、鳥になると、フォグブルー色の全身になる上に、とても綺麗な緑色の瞳になるの。今までこんな鳥には、一度も会ったことがないわ」
私は首を傾げた。
「ふぉぐぶるう?」
「そう、フォグブルー。フォグは『霧』という意味。霧がかかったような色だから、フォグブルー。灰色に近い色ね」
ママは頷いて、言った。
霧がかかったような色、かあ。
「じゃあ、鳥になってみようかな」
そう言うと、ママは頷いて「その方が説明しやすいわね。自分が鳥になる瞬間を思い浮かべてみて」と言った。
私は目を強く瞑って、私がレイラさんの鳥になる瞬間を思い浮かべようとする。
それで、鳥になりたい、と強く念じた。
ぽふ、ぽふぽふ。
何か視界に変化があって、自分のお腹をさすると、柔らかくてふわふわなものに触れる感触があった。
下を見ると、私の手はもふもふの灰色のような色になっていた。
「うっ、わあああ」
思わず大声を出す。
自分だと、声がくぐもって聞こえた。
「ミリ、落ち着いて。それが、あなたなのよ」
優しい物腰でママは言って、鏡を見せてくれた。
私は自分の姿を見て、驚愕する。
息を呑んだ。
部屋に沈黙が流れた。
私は思わず、自分の姿に見惚れてしまう。
綺麗な吸い込まれそうなほどに深い深い緑色の綺麗な瞳に、ママの言っていた通り、霧がかかったような色、だった。
「ね、綺麗でしょう。私も何度見ても見惚れちゃう」
ぽおっとしたような顔をしてママは言った。
私はなにも言葉を返すことができない。
なんとか頷き返すのが、やっとだ。
私は一言、独り言のようにぽつりと呟いた。
「会いたい……」
なんでかは、わからない。
無意識に呟いていた。
誰に会いたいのかも、どうしてこんなことを言ったのかも、なにもわからないけれど、そう唐突に思った。
もしかしたら、お父さんにかもしれない。
なぜかこの瞬間、そう直感した。
「誰に、会いたいの?」
ママは怯えたように、震えた声でぼそっと言った。
「お父さん、に……」
そう言うと、ママは目にいっぱいに涙を溜めて、否定するように引きちぎれんばかりに、左右にぶんぶんと首を振った。
「だめ、だめっ! 会っちゃだめ! 絶対に、だめ!」
だめ、と連呼し続けるママに私は、「どうして?」と訊く。
「あの人は、もう『木』なの……」
「木?」
私は意味がわからなくて、訊く。
ママは自分を落ち着かせるように深呼吸を二回して、息を吐いた。
「あの人はね、そのうち、木に……クスノキになってしまう運命だったの。もちろん、そのことは承知の上で結婚したのだけれど、思ったよりもそのときの苦痛は大きかった。それからあの人は元々いなかった、と私は思い込むことにしたの。それで、絶対に会いたい、とは思わないと決めた。だから、会いたいのなら森秋公園のすぐそばの大きなクスノキのあるところへ行ってちょうだい」
あまり言葉がまとまっていない。
それほどにショックだったのだろう。
私は少し気の毒な気分になって、次の瞬間、あっと声を洩らした。
「私、お父さんに会ったことがある……」
そのクスノキは、レイラさんと再会した場所なのだ。
そのことを話すと、ママはすごく驚いていた。
「ママ、レイラさんはお父さんの生まれ変わりだよ」
私は、ふいにそう言った。
絶対にそうとしか思えない。
お父さんのことは知らないけれど、絶対にそうだ、と思った。
「私、レイラさんのところに行ってくる」
それだけ言って、私は鳥の姿のままレイラさんの「空主国」に向かった。
鳥だから、このまま飛んでいけるはずだ。
私は飛びながら、もう紺色に染まり切った空のなかを無我夢中で飛んだ。
「レイラさんっ!」
「空主国」について、地面に着地すると同時に大声で言った。
レイラさんは驚いたような顔をして、すぐそこに立っていた。
「み、ミリ?」
戸惑ったような声で私はこのとき、絶対にお父さんだ、と確信した。
「ねえ、私のお父さんなんでしょ?」
単刀直入に訊くと、レイラさんは涙を流した。
「ああ、そうだ。生まれ変わったんだ」
とても嬉しそうに言ったレイラさんに私は「私たち、別れよう。家族だからさ」と微笑んで言った。
「別れよう。これからは、エリナとミリと僕で家族だ!」
レイラさんは元気よく、そう言った。
「三人で暮らそうか」
そんな話が出たのは、あの日から三日後。
私はもちろん賛成だけれど、ママはソラソン城があるから難しい。
レイラさんにも国がある。
ならば、全部を合体すればいいんじゃないか。
そんな話になって、とうとう今日がその合体する日だ。
レイラさんなら、そんなことは朝飯前らしい。
今日を心待ちにしていた、私は嬉しくて嬉しくて昨日の夜はなかなか眠れなくて、目の下はクマがすごかった。
そして、私のことが大好きだったチョガさんはというと、出かけていてまだ帰ってきていない。
はやくチョガさんにも伝えたかったのだけれど、帰ってきていないのだから仕方がない。
「おはよう、レイラさ――お父さん! いつ合体するの?」
「ああ、ミリ。おはよう。実は夜の内にしたんだよ、後で見てみるか?」
穏やかに微笑んだレイラさんは少し眠いようで、少ししか瞼が開いていない。
夜通しでやってくれたのだから、寝かせてあげよう。
私はお父さんに、おやすみなさい、と言って、ママに伝えに行った。
ママはとても喜んでいて、私もすごく嬉しかった。
「三人で一緒に暮らせるね!」
そう言うと、ママは何度も頷いた。
家は別々だけれど、いつでもすぐに会えるというのはとても嬉しいことだ。
私はわくわくを抑えきれずに、外に出た。
鳥の姿になって、国のなかを飛び回る。
お父さんの国は立派に完成していて、私はお父さんの国の周りを何度も飛んだ。
お城の横に一軒家が建っているのに私は気付いて、あっ、と声を上げた。
きっと前にお父さんの言っていた、私用の家だろう。
扉に「ミリ」と書かれていた。
私は中に入ってみる。
まず、玄関が広くて、すぐそこにはトイレがあった。
リビングもしっかりとあって、台所も広くて、とても豪華だ。
寝室は、大きなふかふかのベッドがあって、大きな窓が横についていた。
今は白色のカーテンがかかっている。
窓の横の壁には、海の描かれたおしゃれな絵画が飾ってあった。
読書をするための部屋もあった。
壁一面が本棚で囲まれていて、椅子と机が真ん中に置いてある。
私には勿体ないほどの豪華さに私は居ても立ってもいられずに、お父さんのところに行く。
「お父さん!」
ベッドで心地よさそうに眠っていたお父さんを私は大声で呼ぶ。
お父さんは飛び起きて、「な、なんだ?」と私の方を向いた。
「あの家、なに?」
人間の姿に戻って訊くと、お父さんは戸惑ったような表情をして、首を傾げた。
「いやいや、わかんないの? あの『ミリ』って書かれた家のことだよ」
お父さんは、納得、というような表情になって、「ああ。あれはミリの家だよ。自由に使うといい。自分の物を持っていっといてくれ」と言う。
私は、ばしん、とお父さんの背中を平手で叩いた。
「豪華すぎるって言ってるの! あんなの私には勿体ない」
そう言うと、お父さんは自分の背中をさすりながら「勿体なくなんかない。自由に使ってくれ」と言って布団を頭からかぶってしまった。
私は呆れつつ、部屋に行って荷物を両手に持って、鳥になった。
家のなかに荷物を置いて、人間の姿に戻り、荷物を鞄から全部出した。
まずは、ぬいぐるみ。
クマくんは寝室のベッドの横に置いて、枕はベッドの上に、他のぬいぐるみはベッドの上の端に並べた。
いい感じに置き終わったら、ベッドに寝転がってみた。
ふかふかでベッドに寝ている、という気が湧いてこない。
このままでは、ナマケモノになってしまう、と私はベッドから起き上がった。
けれど、またごろんと横になりたくなってしまい、寝転がってしまう。
恐ろしいベッドだな、と思いながら木製の天井を見るともなく見る。
たまにある模様が顔に見えて、少し怖くなって窓の方を向いた。
暖かい日差しが私の頬を少し赤くさせる。
ふと目の端に赤いものが映った。
ベッドから飛び起きると、窓の端に綺麗な赤いアネモネがささった白い花瓶がちょこんと置いてあった。
私は思わずアネモネに、引き寄せられるように近づいていった。
品種は、アネモネ・デカンだ。
アネモネ・デカンは、よくある品種だ。
可愛らしくて凛としている、赤いアネモネが好きだ。
どうしてか、赤いアネモネは絶対に曲げられないくらい強い意志を持っているように感じるのだ。
この部屋、好きだな。
私は寝室の窓を開け放って、心地良い風を全身で浴びた。
ベッドのすぐそこにあった椅子を窓の前に持ってきて、私は椅子に座った。
強すぎず、弱すぎない程度の風が顔に当たって、火照っていた頬の熱が冷めていく。
窓にもたれかかって、私は気付けば穏やかで優しい眠りについていた。
「赤いアネモネ、綺麗だね。あれ、アネモネ・デカンでしょ?」
晩ご飯のときに何気なくお父さんに言うと、お父さんは少し意外そうな表情をしたあと、嬉しそうに微笑んで頷いた。
ママはカルボナーラをフォークに巻きつけながら、不思議そうに訊いてきた。
「アネモネ・デカン? アネモネなんて、咲いているの?」
私もカルボナーラの細いベーコンをつつきながら、首を振って言う。
「そう、アネモネ・デカンはアネモネの品種のこと。アネモネは咲いてないんだけど、お父さんが建ててくれた私の家の寝室の窓のところに、花瓶にささって置いてあったの」
ママは微笑んで「あら、それは見てみたいわ。今度、ミリの家に見に行ってもいいかしら?」と言って、カルボナーラを口に入れた。
「もちろんいいよ! でも、それを訊くなら、お父さんに言ってよ。お父さんが家を建ててくれたんだから」
私は頷いて、お父さんの方を見ながら言う。
「そんなことはない。もう、ミリの家だろう。僕にいちいち訊いてくる必要はない」
お父さんは苦笑して、言った。
「わかった。ありがとう」
私はお父さんにそう返して、ママに、「だって! じゃあ、待ってるね。お父さんのお城の横に建ってるから!」と微笑んでママの真っ白な手を握った。
暗い暗い海の底。
当然、灯りなんてない。
そんなところを、彷徨いながら沈んでいく、夢を見た。
すごく、怖かった。
夢から起きたら、上手く息ができなくて、ざわざわと胸騒ぎがした。
反射的にアネモネを見ると、少し項垂れていた。
私は急いで、水を替えてあげる。
もう結構、弱ってしまっていたのだろうか。
私は不安になりながら、魔術で花を生かすための魔術があったのを思い出した。
そんなことをしていいのだろうか、と思うけれど私はその魔術をかけてみる。
アネモネは途端に、顔を上げて生き生きと前を向いた。
胸を撫で下ろし、自然と心が暖まった。
クローゼットから、ジーンズと白いブラウスを出してきて、着替える。
ジーンズは暑いか、と思ったけれどわざわざ着替え直すのも、面倒くさくて私はそのままでいた。
アネモネってなんだか可愛いな、と思いながら私はリビングに行って、食パンを焼く。
ぼーっと食パンが焼けるのを待ちながら、ふと思った。
赤いアネモネの花言葉は、「君を愛す」だ。
お父さんはこのことを知っていて置いたのか、知らないでたまたま置いたのか、どっちだろうと思う。
お父さんなら、知っていそうだけれど、知らないような気もするのだ。
チン、と食パンが焼ける音が聞こえて、レンジの中を覗いた。
食パンをお皿にのせて、バターをぬって食べる。
お父さんって意外にロマンチストなんだな、と勝手に結論付ける。
食パンが食べ終わり、なにものっていないお皿を洗う。
お皿を三分で洗い、靴を履いて、家を出た。
ごんっとドアになにかにぶつかる音がして、見ると、チョガさんが痛そうにおでこを抑えていた。
「えっ、チョガさん? ごめん、ここにいるって知らなくて……」
深く頭を下げて謝ると、チョガさんは不満そうに口を尖らせて言った。
「なんで『ミリ』と書かれてるんだ。お前はミリじゃないだろ」
ふざけるな、とでも言うような表情に私は怯むことはなかった。
「だって、私、ミリだもん」
ぴきっと辺りの空気が凍るような音がした気がした。
「よくそんなことが、言えるな」
とても低い怒ったような声だった。
恐ろしくて、ひゅっと喉から声が出る。
「本当なんだよ……。この前、思い出して、ママに訊いたらそうだって」
必死にそう言うけれど、チョガさんは信じてくれない。
私はあることを思いついて、鳥の姿になった。
「ほら、これなら……」
「み、ミリ……? ミリ、なの、か?」
強張った表情でチョガさんは私に近づいてきた。
人間の姿に戻って、私は頷いた。
「そうだよ。私ね、チョガさん――いや、チョガ兄との記憶も思い出したんだよ。一緒に遊んでくれたよね、覚えてる」
微笑んで言うと、チョガ兄は目を見開いて涙を流した。
「ずっとずっと、ミリのことだけを考えていたんだ。ひと時も、忘れたことはないよ」
普段のチョガ兄とは正反対で穏やかな笑顔になって、言った。
私は嬉しくなって、頷いて笑い返す。
「また、遊ぼうね!」
そう言うと、チョガ兄は眉尻を下げて頷いてくれた。
またね、私は笑顔でそう言い残してお父さんのところに向かう。
ソラヌシ城と書かれたお城に入り、お父さんを探す。
「お父さん、いるー?」
大声で訊いてみるけれど、返事はない。
しばらく同じことを繰り返しながら、歩くけれど、一向にお父さんは出てこない。
ミリ、と私を呼ぶ声が聞こえて振り返ると、お父さんが微笑んで立っていた。
私は「あ、お父さん! 探したんだよ、もう。あのね、チョガ兄と会ったんだ。それでね、また一緒に遊ぶ約束、したんだ!」と笑顔でさっきあったことを報告する。
お父さんは嬉しそうに頷いてから、「よかったな。ミリ、ひとつだけ頼んでもいいか?」と深刻な顔になって言った。
「いいよ、なに?」
「スーパーでグミを買ってきてほしいんだ。また食べたくなったんだが、どれがいいか、ミリに決めてもらいたくてな」
なんだそんなことか、と少し拍子抜けした思いになりつつも、いいよ、と返した。
「ありがとう。時間があるときでいい」
と微笑んだ。
「じゃあ、いま買ってくるよ。待ってて」
私はそう言って、鳥の姿になった。
気を付けて、というお父さんの声を聞きながら飛んだ。
地上についたところで、人気のないところで人間の姿に戻った。
すぐそこにあるスーパーでグミを選んで、お父さんの好きそうなのを買った。
コーラ味のやつだ。
スーパーから外に出て、歩き出そうとしたとき、ふいに後ろから声を掛けられた。
「こんにちは」
私が振り返ると、相手は表情は変えずに笑い声だけ発した。
誰だろうか。
私には全く見覚えがなかった。
つば広帽子を目深に被っていて、目元は隠れているけれど、高めの声で女性だということはわかった。
なにも言えずにいると、女性はわざとらしく、ひとつ咳払いをして言った。
「あら、失礼。私、こういうものですの」
懐から名刺を出してきて、私に差し出してくる。
私は白い無地に書かれた名前を見ながら、名刺を受け取る。
名刺にはこう書かれていた。
「暗闇地獄社 守り神部 佐々原 美香子」
一度も聞いたことのない会社名と名前に私は首を傾げる。
裏には、電話番号とメールアドレスが書かれている。
「すみません、誰ですか?」
訊ねると、美香子さんは口角を上げた。
「わからなくても、当然。またいつか会うことになるわね。なにかあれば、この電話番号に連絡してちょうだい。ベルは準備しておきますわ」
そう言って、美香子さんは姿を消した。
どういうことだろうか。
ベルを準備しておく?
私は不思議に思いながら、鳥の姿になって空に向かって飛び立った。
一旦、自分の家に行って、汗だくになったブラウスを脱いで半袖のTシャツに着替える。
「お父さん、グミ買ってきたよー」
ソラヌシ城に入って大声で言うと、今度はすぐにお父さんが姿を現した。
お父さんは笑顔で、「ありがとう」と言ってくれた
私はグミを渡して、さっきあったことを話した。
渡された名刺をお父さんにも見せると、何度も頷いた。
お父さんは苦笑して、「この人は、これからミリを守ってくれる人だよ。だから次会ったときからは、ミリを守るために、ずっとついてくるはずだ」と言った。
ついてくる、という言葉で私は少しだけ戸惑ったけれど、さっきの疑問がなくなってすっきりとした気分になった。
「でも、なんで守ってもらうの?」
そう訊くと、お父さんは頷いて、それはミリに危険が訪れないようにだよ、と説明された。
私は平気だと思うけれど、頷き返した。
お父さんは早速グミの袋を開けて、グミを食べた。
「おっ、これはコーラか。美味いなあ」
なんだか、こういう少しだらしないところを見てしまうと、お父さんが大人には見えなかった。
「お父さん、本当に大人なの? 本当は変な薬を飲まされて、頭脳は子供だけど、大人になっちゃったとかじゃないの?」
「いや、それなら逆だろう。というか、ちゃんと大人だ。変な薬なんて飲まされてない」
苦笑して、言うお父さんに私は疑いの眼差しを向ける。
まあ、こんなことが実際にあるはずはないのだけれど。
そう思いながら、ママのところに行こう、としたときだった。
目の前からさっきの美香子さんが現れた。
もうさっきのつば広帽子は被っていない。
「ああ、佐々原さん。これからミリをよろしくお願いします」
お父さんは急にしゃきっと大人っぽくなって、美香子さんに言った。
美香子さんは頷いて、にこりと微笑んで言った。
「ええ、守り神部として、きちんと責任を持ってお守りさせていただきますわ。そこで、私がなにかでいないときに呼び寄せる、ベルを作りましたの。だからこれを肌身離さず、ミリ様には持っておいていただきたくて……。そうそう、首にかけられる使用になってますわ」
突然ぺらぺらと喋り出した、美香子さんに私は「あの、よろしくお願いします」と少し控えめに言った。
美香子さんは美しい顔で微笑んでくれた。
美香子さんは、しゃきしゃきはきはきした人だった。
物言いこそお上品なのものの、性格はテキパキとなんでも仕事をこなし、言うことは物怖じすることなく言い、なんかこう、しゃきっとしている。
その美香子さんに私はあまり追いつけなかった。
歩くのだってはやいし、マナーのことだって厳しいし、歩き方や喋り方さえも色々と言ってくるのだ。
私が伸び伸びとできるのは、お風呂くらいしかない。
そのおかげで、いつも夜には疲労感に襲われて、気絶するように眠りについている。
守ってもらうのもいいものではないな。
そう思いながらため息を吐くと、美香子さんに「ミリ様、ため息はみっともないですわ!」とびしっと言われる。
はいはい、と返事をするとまたもや注意されてしまう。
「はい、は一回でわかりますわ」
返事の回数くらいどうでもいいだろう、と睨むように美香子さんを見つめる。
そのことについては、なにも言われなかった。
私はアネモネをそっと眺めた。
「綺麗な、アネモネですわね」
ふいに小さな声が隣から聞こえた。
誰かを確認しなくても誰かはわかるので、私はアネモネを眺めながら頷いた。
美香子さんが小さい声で言ったのは、きっと気遣ってくれたのだろう。
あの魔術を掛けたときから、アネモネは生き生きと輝いている。
「アネモネ、とても輝いて見えますわね。きっと丁寧にお世話をしているのでしょう」
続いて美香子さんが静かに、優しい声音で言った。
しばらく心地良い沈黙が流れる。
そんな空気を打ち破ったのは、チャイムの音だった。
チャイムの音といっても普通の音ではなく、ぴちゃーん、という不思議な音だ。
もちろん、私の家のチャイムだ。
それしかないだろう。
ソラヌシ城とソラソン城には、チャイムなんてない。
豪華で立派な門とその横に監視カメラが付いているだけだ。
私が出ると、ママが立っていた。
その瞬間にぴぴんと、ママをここに招待した、という話を思い出した。
「ミリ。アネモネを見に来たのだけれど、いいかしら?」
お上品に、ふふ、と微笑んで言われて、私は頷く。
美香子さんが後ろからやってきて、「あなたは、ミリ様のお母さまのエリナ様。初めまして、佐々原美香子といいます。守り神部の名にかけて、ミリ様をお守りいたしますわ。そこで、エリナ様は何用でこちらへ?」と丁寧に腰を曲げて、「暗闇地獄社 守り神部 佐々原 美香子」と書かれた名刺をママに渡しながら、訊いた。
「美香子さん、ママは、アネモネを見に来たの」
私がママの代わりに、そう説明すると、美香子さんは納得したように頷いて「そういうことでしたら、私が紅茶を入れますわ。ルイボスティーでいいかしら?」とにこりと微笑んだ。
ママはあまりの丁寧さに少し戸惑ったような雰囲気で、頷いた。
私は美香子さんに、そんな畏まった感じじゃなくてもいいんですよ、とこそっと言う。
美香子さんは呆れたような表情で、ルイボスティーをカップに注ぎながら、言った。
「エリナ様にどう言えばいいというのかしら。ミリ様のお母さまなのよ。ご不満のないように接しないといけないわ」
ふうー、とわざとらしく息を吐いて、美香子さんはルイボスティーを三人分、木製のおぼんにのせてアネモネの置いてある、寝室に持って行く。
私も持って行くのを手伝おうとしたら、断られた。
「ママ、どう? 綺麗でしょ」
隣に座って言った。
ママは笑顔で頷いて、「とても綺麗だわ。ミリはお花が好きなのね」と私の頭をぽんぽんと撫でた。
なんでわかったの、と訊くと、ママは優しく微笑んで、もちろんこの輝いたアネモネを見ればわかるわ、と言ってくれた。
「やっぱり、ミリはすごく優しい子ね」
私は否定することもなにもできずに頷いて、すごく嬉しい気持ちになる。
生まれて初めて、優しいって言われた……。
もうここに来てから、楽しいことしかない。
本当に嬉しいことと楽しいことしか起きてない。
私がすごく幸せな日常を送っている、ということに改めて気付いた。
「ルイボスティー、どうぞ」
美香子さんがおぼんを持って現れて、ひとりひとりの前にカップを置いてくれた。
心なしか、私のルイボスティーだけ少し少ない気がするけれど、きっと見間違いだろう。
「あ、美香子さん。ありがとう」
お礼を言ってから、私はルイボスティーを一口、口に含む。
ごくり、とルイボスティーは喉を通って静かに私の胃に流れていった。
ママもルイボスティーを美味しそうに飲んでいた。
美香子さんも、自分でいれたのに、意外だという表情で美味しそうにルイボスティーを飲んでいる。
「じゃあ、アネモネも見れたし、そろそろ帰ろうかしら」
ルイボスティーのカップが空になったところで、ママは立ち上がって言った。
私は引き留める理由もないので、頷く。
「また来てね!」
笑顔で私がそう言うと、ママも笑顔で頷き返してくれた。
「そういえば、もう明日だなあ……」
思わず独り言を呟くと、美香子さんに、どうしたんですか、と訊かれた。
「いや、独り言なので気にしないでください」
「そう言われると、余計気になりますわ。それとも、なにか話せない理由でもありますの?」
いや別にそんなことはないですけど……、と言葉を濁しながら言うと、きりっと顔を顰めて言われた。
「はっきり言ってくださらないとわかりませんわ。言いたくないのなら、言いたくない、とはっきり言ってくださらないと困りますのよ」
「はい。いやあの、お父さんの誕生日がもう明日だなって思って……」
そう言うと、美香子さんはさらに顔を顰めた。
「そんなことだったんですの? そんなにうじうじすることじゃないわ」
ずばっと言われて、私は泣きそうになる。
そんなにはっきりと言わなくてもいいのに。
口が裂けても、声に出しては絶対に言えないけれど、そう思う。
「あら、言い過ぎてしまったわ。傷つけるつもりはなかったんですの、ごめんなさい」
表情をぴくりとも変えずに、私の様子に気付いたのか、美香子さんはそう言った。
私はこれもこれで、ダメージを受けながらも頷いた。
美香子さんって、初めて会ったときは神秘的な雰囲気の不思議な人だったのに、今はもう色々なことに厳しい人としか思えない。
「いや別に、傷ついてなんかないです」
そう言うと、美香子さんは「嘘つくんじゃありません。本当は傷ついているのでしょう? そんなことくらい、見ればすぐにわかりますわ」と言いながら、ハーブティーを優雅に飲んでいる。
きっと今までに優雅な日常を過ごしてきたのだろう。
すごく仕草や動きが手慣れている。
それにしても、美香子さん、紅茶好きなんだな、と思いながら私は持っているティーパックを机の上に並べてみる。
その中には、ティーパックだけでなく、水出しの紅茶もあった。
ハーブティーは、美香子さんがここにきたときにお土産でくれたものだ。
私はなにを飲もうか、と思考を巡らせる。
やっぱり、私はダージリンティーがいちばん好きで、冷蔵庫からダージリンティーの入った瓶を出してきて、カップに注いだ。
冷たいけれど、それがまたちょうどいいのだ。
ふーふー、としながら飲む紅茶もいいけれど、冷えている紅茶を飲むのも、私は好きなのだった。
音をたてないように、飲みながら、私は様になっている美香子さんの紅茶を飲む姿を見つめた。
「なんですか? そんなにじろじろと見てくると、気持ち悪がられますわよ」
棘のある言葉でまたもや、美香子さんは言って、ハーブティーを飲んだ。
「すみません。思わず、優雅だなって」
そう言い訳をすると、美香子さんは少し得意げに、ふん、と鼻を鳴らした。
私は美香子さんからまたなにか言われると嫌なので、視線を逸らして、ダージリンティーの水面を見つめた。
一口、飲むたびにゆったりと水面は揺れる。
カップを動かせば、音沙汰ない湖に新たな波紋が広がっていくように、揺れた。
「ちょっと私、お父さんのところに言ってくるね」
沈黙が堪えきれずに、私は逃げるようにそう提案した。
美香子さんは何やら難しそうな本を読みながら、無言で頷いて、本をぱたんと閉じた。
私は椅子から立ち上がって、ダージリンティーを一気に飲み干した。
美香子さんも私のように立ち上がって、玄関に向かう。
外に出ると、爽やかな風が目に染みた。
ソラヌシ城に入って、お父さんを呼ぶとすぐにお父さんは現れた。
「ミリ、どうしたんだ?」
少し強張ったような表情でそう問われて、私は「ただ暇だったから」と返す。
お父さんは、話がある、と言って応接間だと思しき部屋に招かれた。
私はなんの話だろうと思いながら、勧められた二人掛けのソファに美香子さんと並んで座り、お父さんの言葉を待つ。
お父さんは深刻そうに、とても重そうな口ぶりでゆっくりと言った。
「僕は、イスタンブールまで、海外出張に行かなければいけなくなった。ミリはどうする?」
しばらく、なにも返せなかった。
やっと零れ落ちた言葉は、弱々しく、か細い言葉だった。
「いつも幸せなときに、お父さんと離れなくちゃいけなくなっちゃうの? なんでイスタンブールまで、海外出張に行かなくちゃいけないの? どうする、なんて訊かれても、困るよ。自分でもこれから、どうすればいいのか、わかんないのに。海外だから、何年も出張でいるんでしょ。ひとりは嫌だ。ママも美香子さんもいるけど、お父さんもいなきゃ、嫌だ。我儘だって、わかってる。でも、もうこの我儘は止められない。私も一緒にいっちゃ、いけないの? 四人ではいけないの?」
お父さんは突然、話し出した私を驚いたように見つめながら、困ったように言った。
「でも、それはできないんだ。五年だけ、待っててくれないか」
本当に本当に申し訳なさそうに言ってくる、お父さんから私は顔を逸らす。
「わかった。待ってればいいんでしょ、待ってれば。クスノキで待ってるから」
拗ねたままそう言うと、お父さんは「ごめん。必ず、帰ってくるから」と言って部屋を出て行ってしまった。
私は、ああやって強がっていたけれど、本当は苦しくて悲しかった。
五年も一緒にいれないのだ。
苦痛でしかない。
でも、涙を抑えられなかった。
次から次へと、止まることを知らない私の涙は頬を伝って、握りしめた拳の上に落ちる。
美香子さんは静かに、そっと背中をさすってくれる。
そのおかげで、少しだけ心が暖まるけれど、悲しみは消えてくれない。
消えてくれるどころか、増えていく。
「でも……、どんなに辛くて苦しいことがあっても、お父さんに笑顔でいてほしいっ……!」
思わずそう言葉を洩らすと、隣から今までに聞いたことのないほど優しい美香子さんの声が聞こえた。
「それなら、伝えに行かないとですわ。ゆっくりと自分のペースで伝えに行きなさい」
その美香子さんの言葉が、私の悲しみの膜を打ち破った。
私は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、ソファを立ち上がった。
応接間を出て、お父さんの姿を探す。
そこで、ある人物の背中を目が捉えた。
「お父さん! 私、もう泣かないよ! ずっとずっとお父さんを待ってるっ!」
広いソラヌシ城の中、お父さんの姿を見つけて、私は声を張り上げて言った。
もちろん、涙で濡れた顔のままで。
お父さんは驚いたように振り返って、優しく微笑んだ。
「ミリ、絶対に帰ってくるから」
そう言って、お父さんは私のことを抱きしめてくれた。
うん、と頷いて私もお父さんを抱きしめ返す。
暖かい手だった。
ぎゅっとお父さんの手のひらを私の頬にあててみる。
じぃん、と心の奥底から暖まっていくような気がした。
「待ってるから、焦らないで、ゆっくり帰ってきていいよ。私のことは心配しなくていい。美香子さんもママもいるから、大丈夫。体調に気を付けてね。無理したら、だめだよ。ずっといつまでも待ってるから」
そう寄り添うように私は言って、お父さんの頭を背伸びしてなんとか撫でてあげた。
お父さんはにこりと笑顔で、「ああ、待ってて。一瞬で帰ってきてみせる」と私の頭も撫でてくれた。
その暖かい温もりが、とてもとても愛おしかった。
アネモネが風で揺れるのを眺めながら、お父さんの暖かい手を思い出していた。
「絶対に泣かない、なんて意地を張らなくてもいいんですのよ。泣きたくなったときは、泣きたいだけ泣いて、また頑張ればいいんですのよ」
美香子さんは私を勇気づけるようにそう言ってくれるけれど、そういうわけにはいかなかった。
だって、お父さんと約束したんだから。
私は、美香子さんの言葉になにも答えなかった。
寂しくなんか、ない。
「泣いても、いいの……? 約束したのに」
「そう、泣いてもいいんですの。約束だからなんだって言うんですか。どうせ五年もあれば、いつか泣きますわ。そんな約束、口先だけですわ。だから、泣けばいいんですの」
私は美香子さんに強い瞳を向けられて、泣きたくなってくる。
でも、涙はもう引っ込んでいた。
なぜだかわからないけれど、美香子さんが優しい言葉を掛けてくれたから、ということだけは理解できた。
「もう涙、引っ込んじゃった」
そう言うと、美香子さんは、がくっとのけぞって言った。
「でも、泣かなくてすんでよかったですわね」
嫌味なんじゃないか、と思ったけれどなにも言わないでおいた。
お父さんって、こんなにも私の中で強い存在だったんだな。
ふとそう思って懐かしい思いになった。
まずあのクスノキの前で再会してから、いろんなことがあって、今がある。
どれもこれもが、私がお父さんと出会うための試練だったんじゃないか、最近はそういうことをよく考える。
ぽかぽかと日の光で心が暖まっていくのを感じながら、昔のことを思い出す。
色鮮やかな記憶で脳は満たされていく。
嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、苦しいことも、全部全部が懐かしい。
どの記憶も全部、愛おしい。
愛おしくて、懐かしくて、優しくて、暖かくて、心はそんな感情で埋め尽くされた。
久しぶりに会ったとき、本当にびっくりした。
まさか鳥さんとまた再会できるなんて、って信じられない思いだった。
それが、今では一緒にいるのが当たり前、のようなふうになっていた。
でも、お父さんはイスタンブールに行っちゃったし、もう五年も一緒にいれないんだ。
一緒にいれて、当たり前なんて間違ってる。
きっと今までの時間は、夢のような幻のような赤いアネモネのような、とても尊くて愛おしい時間だったんだ。
暖かい暖かい、時間だった。
ずっと待ってるから、絶対に帰ってきてね。
別れ際、私はお父さんにそう言った。
「お父さんの誕生日、祝えなかったな……」
ふいに思い出して、そう呟くと美香子さんが「まだそんなことを言っていたんですか。私たちだけで祝えばいいですわ。きっと、お父さまにも届きますわよ」と優しい言葉を掛けてくれた。
「美香子さんって、ツンデレなの?」
訊くと、美香子さんは嫌そうに顔を顰めた。
「違いますわ。私、ただ単に、思ったことを言っているだけでツンデレなんてものじゃありませんの」
ぷい、と顔を逸らして美香子さんは立ち上がった。
「さあ、ケーキを作りますわよ。まずは材料の買い出しに行かないとですわね」
部屋を出て、玄関に向かう美香子さんを追いかけながら、なんか美香子さんとの日常も楽しいな、と思った。
「ふふっ」
思わず笑みを零すと、美香子さんは振り返って「なんですの? なにか面白いことでも?」と怪訝そうに訊かれる。
別に、と私は返して、笑みを隠せずにそのまま靴を履いた。
スーパーで私たちは、ケーキの材料が置いてあるコーナーにいた。
トッピングのものと蝋燭を買い物かごに入れたのだけれど、どうしてもチョコペンの色が決められない。
普通の茶色もいいし、白もいい。
「全部、買っちゃえばいいんですわ」
美香子さんの声が聞こえて振り返る。
なんかたまに、美香子さんって驚くこと言うよね。
意外に思いながら、私は頷いてピンクと白と普通の色のチョコペンを買い物かごに入れた。
レジに行くと、美香子さんがお金を出してくれた。
ありがとうございます、と私がお礼を言うと、こんなことを言われた。
「私はミリ様の守り神なのですから、当たり前ですわ。これくらいでいちいちお礼なんて言っていたら、きりがないですわ。まあでも、その心は素晴らしいですわね」
珍しく美香子さんは、にこりと微笑んでくれた。
私は戸惑い気味に頷いた。
家に帰ると、スポンジケーキを作る。
今日はチョコレートケーキだ。
お父さんがチョコレートケーキがいい、とこの間言っていたからだ。
美香子さんは混ぜる作業が得意なようだ。
私はお湯を沸かして、チョコペンを温めて使えるようにする。
待ってる間に、私はスポンジケーキをオーブンに入れた。
美香子さんの手際が良いおかげで、想定よりもはやくスポンジケーキができそうだ。
スポンジケーキが焼けるのを待ちながら、私はチョコレートクリームを作る。
美香子さんは、紅茶を準備してくれている。
チョコレートクリームができたところで、スポンジケーキがちょうど焼けた。
私はオーブンからスポンジケーキを出してきて、チョコレートクリームをスポンジケーキの周りに塗った。
そこにチョコの板を置いて、白いチョコペンを使って、「お父さん お誕生日おめでとう!」と書いた。
年齢はわからないので、書かないでおいた。
「あら、美味しそうですわね」
なんだか上から目線で言ってきた美香子さんに私は笑顔で、ありがとうございます、と返した。
嫌味のつもりだったのだけれど、美香子さんは普通に無表情でいるだけだった。
「できた!」
十分ほどでケーキのトッピングが終わり、私はテーブルに置いた。
青色の蝋燭を五本くらい立ててライターで火をつけた。
ゆらゆらと火が揺れていた。
蝋がケーキに落ちる前に、私と美香子さんで、お父さんに届きますようにと願いながら、ふーっと火を消した。
ぱちぱちぱち、と軽く美香子さんが拍手をしてくれて、嬉しい気持ちになった。
「お父さんに、届いたかな」
そう言うと、美香子さんは頷いてくれた。
私はそう信じることにする。
きっとお父さんに届いていて、喜んでくれている。
そうだ、きっとそうだ。
私は少し苦しくなった私をそう考えて、奮い立たせた。
きっとお父さんに届いてる。
「被害妄想ばかりしないほうがいいですわよ。自分の信じていることだけを頼りにすればいいのですわ」
なんかずっと美香子さんに勇気づけられてばかりだな。
そう思った。
私はケーキを切って、美香子さんのお皿と私のお皿にのせた。
フォークで食べると美味しいチョコレートクリームとスポンジケーキの味が混ざって、美味しかった。
ケーキが食べ終わって、残ったのはタッパーに入れておいた。
少し寒くなって、私は日向ぼっこをするために、外に出た。
ちょこんと置いてある、木製のベンチに座って、ぼーっと空を眺めた。
暖かい太陽の光を私の全身が浴びる。
ぽかぽかと暑いくらいに全身が暖まった。
家に戻ると、美香子さんが声を掛けてきた。
「日向ぼっこはどうでしたか?」
にやにやと笑いながら、言ってくるので私は無視をした。
美香子さんは不満そうに、口を尖らせたけれど、なにも言ってこなかった。
お風呂に行って、シャワーを浴びる。
汗だくになった身体に、ぬるいお湯が気持ちよかった。
シャワーから出て、服を着ると、ちょうどいい温度になった。
「美香子さん、ママのところに行ってくるね」
さっき、帰って来たばかりなのにまた外に出るなんて、と思いながら外に出る。
ソラソン城に入って、ママの部屋に行く。
「ママ、いる?」
ノックをして、訊く。
「ミリ? いるわよ」
すると、即座にそう声が返ってきた。
私は部屋に入って、ママに言う。
「お父さんが、イスタンブールに海外出張に行ったの、知ってる?」
そう訊くと、知らない、という声が返ってきて驚いた。
「え、知らないの? お父さんから聞いてないの?」
「ええ、聞いてないわ。あの人、海外出張に行ったの?」
「そうだよ。だからね、さっきお父さんの誕生日でケーキ作ったんだ!」
そう笑顔で言うと、ママも笑顔になって、よかったわね、と言ってくれた。
「それでね、ママにも残ったケーキを持ってきたの。よかったら、食べてね」
タッパーごと渡すと、ママは嬉しそうに顔を輝かせた。
「まあ、ありがとう!」
いま食べてもいいかしら、と訊いてくるので、私は、いいよ、と頷く。
ママは一緒に渡したフォークでチョコレートケーキを食べた。
「美味しいわ! ワイン、飲んじゃおうかしら」
と笑って言った。
「えっ、飲むの? お昼だよ!」
慌ててそう言うと、ママは苦笑して首を振った。
「冗談よ、ごめんなさいね。でも、本当に美味しいわ。ミリと佐々原さんが作ってくれたの?」
私と美香子さんが同時に頷くと、ママは微笑んで「すごいわねえ。美味しいわ。これなら、毎日食べても飽きないわ」と言ってくれた。
お世辞でも、嬉しくて、私は満面の笑みで微笑んだ。
次の日の朝、私は目が覚めると共に、飛び起きた。
今日はお父さんと電話をする約束をしているのだ。
お父さんは最近、スマートフォンを買ったようで、今日の夜にテレビ電話をしよう、と約束していた。
電話をするのは夜なのに、そわそわしてしまう。
昨日の夜も、落ち着かなくて眠れずに、寝るのが遅い時間になってしまった。
それにも関わらず、今は午前四時だ。
ふう、落ち着け、落ち着け。
そう自分に言い聞かせるけれど、落ち着けない。
美香子さんだって、まだ寝ているのだ。
だから、私ももう一度、寝ようとするけれど、やっぱりどうにも落ち着けなかった。
私は仕方なく、リビングに行って、コップに入った水道水を一気に飲み干した。
少し時間が経ってから、はっとして、部屋に戻った。
青いカーディガンとジーンズに着替え、パジャマを洗濯機に放り込んだ。
ちゅんちゅん、と雀が鳴く声が聞こえて、なぜだか旅館にいるような、心地良い気分になった。
「おはようごいます」
完璧に着替えた姿で、美香子さんが姿を現した。
「美香子さん、おはようごいます」
私はそう言って、思いついていたことを言った。
「今日の夜、ママと美香子さんとお父さんで記念撮影をしませんか?」
「ミリ様、お父さまは海外出張中ですわよ。記念撮影なんてできませんわ」
と予想通り否定される。
私は首を振って、言った。
「違うんです。今日の夜に、お父さんとテレビ電話をする予定が合って、そこでお父さんの顔をいれて、撮るんです」
そう言うと、美香子さんは感心したように頷いて、「ミリ様にしては、やりますね」と偉そうに言った。
「じゃあ、決定ですね!」
私は張り切ってそう言った。
「もしもし、お父さん?」
『ミリ。画面が真っ暗なんだが……』
私は自分を映すのが、なぜだか恥ずかしくて画面を伏せていた。
「ご、ごめんごめん。あのさ、今日、記念撮影しない? お父さんもいれてさ」
画面を元に戻してそう提案すると、お父さんは笑顔で「いいな。佐々原さんとエリナも一緒にか?」と訊いてきた。
「もっちろん! ほら、今ここにいるよ!」
美香子さんとママが並んで立っているところに画面を向けた。
私たちは、カメラの前に並ぶ。
私が真ん中でお父さんのテレビ電話の画面を持って、右にママが、左に美香子さんが立っている。
撮る人がいないので、カメラが趣味だというシェフさんに頼んでいる。
「では、撮りますよー。はい、チーズ!」
その掛け声と共に、私はにこりと微笑んだ。
パシャ。
写真が撮れて、私たちは四人で一緒に笑い合ったのだった。
「久しぶり――」
僕がクスノキの前に立って、そう声を掛けると、ミリは穏やかに目を細めた。
「お父さん、久しぶり!」
眉尻を下げて笑って言った、ミリに僕はぎゅうっと抱きついた。
ほんのりと甘い香りがした。
「甘い香り……」
そう呟くと、ミリは「ああ、さっきね、ケーキ食べたんだ!」と嬉しそうに微笑んだ。
そのとき、ミリの後ろから、五年前と変わらず無表情の佐々原さんが現れた。
ぺこり、と頭を下げてきて、僕はミリから離れてぺこりと頭を下げ返す。
「お父さん、少し老けたね」
笑顔でミリは小さい声で言って、僕はショックを受けつつも事実なので、苦笑して頷いた。
「さあ、家に帰ろう!」
ミリは優しく微笑んで、僕の手を握った。