俺は病院へ走った。上辻浜から中央病院までは電車で10分ほどだったが、あいにく次の電車が発車するまで30分はかかる。
 俺は冷たい風を切りながらとにかく走った。すでに何も考えられなくなっていた俺はなぜ走っているのか、彼に会って何を言ったらいいのか、彼は、一真は……生きて……
 そんな最悪すぎる予測が脳裏に浮かんだが、かき消すようにひたすら走った。
 病院に着くと軽く息を整えながら受付を探した。
「すみません、最近暖房が壊れた病室って」
 自分で言っておいて、何を聞いてるんだとつっこみたくなる質問を受付の女性に問う。
「暖房……?ああ、確か302号室ですね。そうでしたよね?」
 わずかに不思議そうに顔を歪めたが、女性は隣にいた受付の方にも改めて確認してくれた。
「ええ、そうね。302だったわ」
 暖房が壊れた部屋は一つ、そしてその部屋こそが後輩くんの入院している部屋だと確信した。
「面会したいんですけど、その部屋に入院してる、えっと、苗字なんだっけ」
 手紙の最後に彼の名前が書いてあったのに、ついさっき見たはずなのに、軽いパニック状態で思い出すことすらできない。
「えーっと、その部屋は……」
 慌てる俺の目の前で見かねた女性がパソコンを操作し、おそらく検索をかけてくれた。
「その部屋は、空室ですね」
 パサッ
『空室』
 その言葉が俺の中で何かを崩して壊して駆け巡ってゆく。血の気が引き、視界が揺れる。手のひらから落ちた彼の手紙が足元からこちらを見ている。
「……くう、しつ……いや、そんなはずは」
 世界から一つずつ色が抜かれていくように、次第に視界が歪んでいく。汗ばんでいた額の冷たさが冷め切り、冷や汗に変わっていく。
「空室……?そんなはずは」
 同じ言葉を繰り返してしまう。
 そんなはずはない、彼は、この病院に……
 パニック状態で何も考えられない俺の耳に
「先輩」
 聞き慣れた声が届いた。フッと俺の世界に一つ色が戻ってきた。
 幻聴かと疑うほどに綺麗なその声は
「先輩」
 もう一度俺の世界に色をくれた。
「……後輩くん」
 振り返るとそこには車椅子に座った紛れもない彼の姿があった。
「どうしてここに?」
「君こそ、だって、暖房、壊れた部屋が、その、空室だって」
 安堵と驚きが混ざり合い言葉が思うように出てこない。
「あ、部屋ですか?移動したんです。ほら、暖房壊れちゃったから」
「そ……っか、よかった」
「お久しぶりです、先輩!」
 俺は膝から崩れ落ちそうなほど動揺しているのに彼はいつもの涼しい笑顔を向けた。
「……久しぶり、後輩くん」
 彼の笑顔はまるで何も変わらない明るさだった。毎朝会っていた頃と。車椅子や体に繋がれたホース、病院のロビー。いつもと場所が少し違うだけ。彼は何も変わらない、そう信じたいほどに。
 ロビーの椅子に腰掛け、彼と高さが合うと変わっていることに気がつく。細くなった体に。その現実が心に痛く、目を逸らしてしまった。
「ごめん、俺、何も知らなくて。病気のこととか、余命宣告とか、きっと何かのタイミングで気に触ること言ってたかもしれない。……ほら、進路とか」
「だったら狙い通りです!」
「……え?」
 彼はなぜだか心底嬉しそうに優しい笑顔を浮かべた。
「余命宣告された僕にとって、進路とか将来とか、無縁な夢だから。自分でも分かってました。無意味だって。けど、学校の先生も家族も、それとなく話題を逸らすんです。それが嫌で、一度でいいから言ってみたかったんです。『進路決まってなくて』って。だから何も知らない先輩が僕の進路相談に乗ってくれたのがすっごく嬉しかった」
 彼はまた嬉しそうにニコッと笑った。
「それに知ってたらきっと、海に連れて行ってくれなかった」
「それは……」
 否定はできない。彼の病気を知っていたらきっと、俺はここまで彼と仲良くなれなかっただろう。彼を真冬の海に連れて行くこともしなかっただろう。俺は失うのが怖い軟弱者で卑怯な男だから。
「そうだ、先輩、屋上行きませんか?」
「屋上?今日もめちゃくちゃ寒いよ?」
「でもここの屋上、海が見えるんです。上辻浜。先輩と行った海です」
 それでももう遅い。今は、君を失う恐怖心と共に君と楽しく笑いたい。
 俺は彼に聞きたいことが山ほどあった。死に近いことはわかっていても、病気の名前すら知らない。いつから入院していたのかもわからない。どこがどんなふうに苦しいのか、痛いのか、何もわかってあげられない。
 ただ、聞く必要も無いと思った。彼に向ける俺の姿が全てであるように、彼が俺に向ける姿も心のままだと、そう信じたくて。
「……分かったよ。行こっか!」
 俺は車椅子を押しながら、おそらく初めて見る彼の背中に薄寂しさを感じていた。きっと病院の中に立ち込める薬剤の匂いや彼の身につける入院着、車椅子、全てが俺たちを飲み込むように日常を破っている。
「今朝、君のお母さんから受け取ったよ。小説ありがと。手紙も」
「小説って言えるんですかね。あったことを書いただけですけど」
「んーいいんじゃない?俺も細かいことわかんないし」
「ハハッ適当ですね」
 俺たちの間にやはり何も変わりはなかった。エレベーターまでの廊下を進む間、彼の顔は一切見えなかったが楽しんでくれていると、信じて。