12月17日
その日は朝から曇り模様で暗く重たい雲が空を覆っていた。そして昼頃から急に強い雨が降り出した。少しずつ風も吹き出し、校庭の木々が揺れているのを教室の窓越しに心配する。
こんな嵐の日は嫌な予感が当たりやすい。
『今日はまっすぐ帰ってきて。トラキスのチケット取るの手伝って。拒否権無し』
そんなメールが姉から届いたのは昼休みのことだった。
ほら見たことか。
僕は購買で買ったおにぎりと唐揚げを食べながら思う。
大学生の姉が好きなアイドルグループ、トラキスのライブが近いらしい。姉は先週、まるで神に祈るように当落発表を恐る恐る開いていたが、全て落選し、今日の一般発売にかけている。
それは知っていたが……
「弟を使わないでくれよ」
「しょうがないじゃない!今は卒論書かないといけなくて友達みんな忙しいんだもん」
言いつけ通り寄り道せずに帰宅すると、すぐにチケット販売のページを開いて待機させられた。
外は昼から降り続ける大粒の雨がザーザーと音を立てているのに加え、風も強くなりバシバシと雨が窓に打ち付けられていた。
「ただいまー!もう雨ひどい!」
パートから帰った母の嫌そうな声が聞こえ、玄関まで様子を見に行くと
「母さんおかえりー。雨大丈夫……じゃなかったんだね」
傘を差していても肩や足元がびしょ濡れなほどひどい雨だと察した。母は髪の毛から水が滴るほど濡れ、ズボンの裾は色が変わっていた。
「私もかなり濡れたけど、前の通りですれ違った高校生は傘差してなかったのよ。もうあれは完全に諦めてたわね」
「こんな日に傘持っていないのは致命傷よね」
遅れて様子を見に来た姉が呑気に言う。母は姉が持ってきたタオルで髪を拭きながら少し顔を顰めた。
「それが何だか泣いている様子だったの。しかも誰かの家を探すように表札を見てまわっていたから声かけたのよ。ここらのお家なら大体わかるから。そしたら『後輩の家を探してるんです』って」
「後輩?」
「そう、名前聞いても『知らないんです』『白垣高校の後輩を』って。変わった子だったわ。見つかるといいけど」
白垣高校の後輩。名前の知らない後輩。
もしかして……
「母さんその人って桜田高校の制服着てた?」
「……ええ、着てたわ!どうして?」
先輩だ。そう確信した時にはスニーカーに足を突っ込み、傘を手に勢いのまま外へ飛び出した。
弱まる気配を全く見せない雨は、傘を突き破りそうなほど打ちつけてくる。周りを見渡すも、雨で視界も悪い。
そして嫌な予想は当たってしまい、道路の端には傘も差さず子供のようにうずくまる先輩の姿があった。
「先輩!こんな土砂降りの中で何してるんですか!」
先輩は驚いたように顔を上げるとびしょ濡れになった顔を歪め
「……君の家を探してた」
と、僕のズボンの裾を掴んだ。
「え……?どうして」
「……るいが、るいがっ」
雨音にかき消されそうなほど、か弱い声。僕は先輩の言葉を聞き漏らさないようにしゃがみ、耳を近づけた。雨は一層強くなり、雷の低く唸る音が心臓にまで響く。
「るいくんが?」
「死んだ」
——嵐の日、嫌な予感はよく当たる。
アスファルトに雨が打ちつける中、僕たちは近くの公園へ移動した。屋根のついたベンチと自販機がポツンとあるだけの小さな公園。
先輩は濡れた体を僕が渡した小さなハンカチで拭きながら
「ごめん」
と非力な声で呟いた。
「いえ、僕は……なんて言ったらいいのか」
衝撃すぎる事実に言葉が出てこない。
「困らせてごめん」
俯いたまま小さく低く謝る彼の顔は見えない。丸まった背中が全てを語るように小さく、小さく縮んでいくように感じる。
何度も謝罪の言葉を吐く彼に、僕は何も応えることができず己までもが、この空気に飲まれていく。
「朝から体調が悪くてかなりぐったりしてたんだ。昼過ぎには、もう……話せなくて」
「……」
「さっき通夜が終わって家に帰ったら、るいの部屋で母さんが静かに泣いてたんだ。それを見てたら、俺、泣いたらいけない気がして。母さんを支えないといけない。それなのに何もできない自分に腹が立って」
「何もできない、なんて……そんな」
やはり先輩は自分の優しさに苦しめられている。
「……そしたら無意識に、君を探してた」
助けを求める彼を、救うことが僕にはできない。何の代わりにもならない。それでも、吐口にでもなれたなら……
「ごめん」
そして先輩はまた謝った。
「先輩が思うこと、痛いことも、苦しいことも、全部僕に吐いていいですから。吐口にしてください。だから、もう謝らないで」
必死に我慢していた涙が溢れ、雨で誤魔化せない量が頬を流れ落ちていく。
5歳という幼さで命をなくした一人の男の子。小さな体で病気と闘った彼と、そんな彼を看取った家族。想像がついていいはずのない苦しさが、今の彼たちを襲っているんだろう。何か言葉をかけることすらも先輩を苦しめるんじゃないか、そう思った。
先輩は、吐口にしていいなんて言った癖にボロボロと涙が止まらない僕の顔を覗き込み、何か言いたげだった。
「なんでも、言ってください」
「吐口なんかにしないよ。君は俺の居場所だ」
胸にスッと落ちたその言葉は僕にとっても救いの手のようだった。