環と出会ったのは中2の時。4月とか夏休み明けとかじゃなく、ものすごく中途半端な10月くらいに転入してきた。
「夏瀬環、です……」
多分クラスメイトのほとんどが根暗な奴だなって印象を持ったと思う。
自己紹介は名乗っただけだしちっとも笑わないし、教室ではいつも一人。決していじめじゃないんだ、環自身にクラスメイトと仲良くしようとする意志がなかった。
誰が話しかけても素っ気ないし、なんかこう独特の雰囲気をまとっていて近寄り難いというか。説明が難しいのだけど、一言で言えば浮世離れした雰囲気を持っている。
でも勉強はそれなりにできる方らしい。特に理系科目が得意らしく、生物では90点超えの成績を修めていた。
目が大きくちょっと吊り目で猫みたいで、中性的な顔立ちをしている。イケメンの部類には入るような気がするが、近寄りがたい雰囲気だからか、女子にモテてはいなかった。
とにかくそんなわけで誰とも馴れ合わない環。そんな環に関わるようになったのは、先生に頼まれたことがきっかけだった。
「伊縫、夏瀬のこと面倒見てやってくれないか?」
「えっ」
「ほら、あの子転校してからずっと一人だろう?いじめとは違うみたいだけどやっぱり心配でな」
「なんで僕が……?」
「そりゃあ学級委員だからだよ。頼むぞ委員長」
そんなわけで俺は環の「世話係」をすることになったのだった。
まずは話しかけてみるところから始めてみた。今まで気になってはいたけど、席が遠くてなかなか話す機会がなかったんだけど。
「あの、夏瀬くん」
「…………」
「えっと、今日の体育一緒に組まない?」
「なんで?」
「えーと、夏瀬くんと話してみたくて……?」
「なんで?」
「なんでって……」
わかっちゃいたけどすごく取っつきづらいな……。
俺がまごついていると環がこう言った。
「僕に関わらない方がいいよ」
「え?」
「僕って不幸なんだって」
そう言うと立ち去ってしまった。結局は体育はサボったようだ。次は勉強を教えてもらう作戦に出た。
「夏瀬くん、生物得意なんだって?」
「…………」
「俺あんまり得意じゃなくて、良かったら教えてくれないかな」
「生きていることを考えてみたらわかるよ」
「ど、どういう意味?」
「そのまんま。僕帰るね」
その後も何度か接触を試みたのだが……。
(撃沈だ……)
何をやっても全部ダメだった。
そもそも俺は別にコミュニケーション能力が高いわけではない。学級委員なんてやってるけど、別に人の上に立つタイプだとは思ってない。頼まれて断れなかっただけ。
そもそも昔からピアノばかり弾いていた俺に、面白い会話が出来るわけないだろう。学校から帰宅したらずっとピアノしかやってないんだぞ?
今流行ってるものとか全然知らないし、せいぜい弟が好きなゲームくらい。やらせてもらったら下手くそすぎて「兄貴とやってもつまんない」って言われた。
今の中学生が好きなものなんてわからないんだよ。
「はあ……」
完全にお手上げ状態だ。
もういいかな。先生には悪いけど、あれだけ拒まれてさすがに心折れるし。
向こうが嫌がってんだしもういいかな……。
「ーー奏斗さん、集中していますか?」
名前を呼ばれてハッとした。今はピアノのレッスン中だった。
先生が厳しい眼を俺に向けている。
「すみません……」
「いけませんね。あなたは未来を担うピアニストになる素質があるんですから。もっと集中なさいな」
「はい」
「では、もう一度この小節から弾いてみましょう」
物心ついたにはオモチャのピアノで遊び、そんなに好きなら習わせてみるかと親にピアノ教室へ連れて行かれたら、神童などと持て囃された。
俺はただ、もっと色んな曲に触れて楽しくピアノを弾きたいだけなんだけど、大人たちはそれを求めない。
それが息苦しく感じる時もある。
だけど、俺にはピアノしかないのもまた事実。
気を取り直して演奏に集中した。ピアノを弾いている時が、一番自分らしくいられる瞬間だと思う。指先から紡がれるメロディの可能性は無限大で、もっと弾きたい、もっと聴きたいと強く思う。
* * *
その日、俺は放課後の音楽室でピアノを弾いていた。合唱コンクールのピアノを弾くことになり、その練習をしていた。最後まで通して弾き終わり、残りは家で練習しようと椅子から腰を浮かせた時だ。
「えっ……」
ピアノに寄りかかって環が寝ていた。まったく気づかなかった。
一体いつからいたのだろう。寝顔は思いのほか可愛らしい。というか睫毛が長い。女の子みたいだなと思って見ていたら、環が目を覚ました。
「……あ、起こした?夏瀬くんいつからいたの?」
「なんかいい音が聴こえてきたから、眠くなって……」
「いい音?ありがとう。音楽好き?」
「よくわかんない……」
目をこすりながら、環は言った。
「夏瀬くんって、僕のことだよね」
「え、もちろんそうだけど……」
「君はいつもいつも夏瀬くんって呼ぶよね」
「だ、だめだった……?」
環は今までみたいな拒絶的な反応はしなかった。代わりにとても寂しい目をしていた。
「自分のこと、呼ばれてる気がしないんだ」
「え?」
「僕、記憶がなくて。目が覚めたら、白いベッドの上にいた。お父さんとお母さんって言う人がいて、僕の名前は夏瀬環って言うけど、全然実感できないんだ。何も覚えてないから……」
もしかして、記憶障害?
まさかそんなに重い事実があったとは知らず、咄嗟になんて反応すべきかわからなかった。
それと同時に何となくわかった気がした。いや、わかったつもりになっただけかもしれないけど、誰とも馴れ合おうとしなかったのは、怖かったからなのかもしれない。
人は誰かに自分を知ってもらいたいと思う。俺もそうだ、ピアノが好きな自分を知ってもらいたいし、俺のピアノを聴いてもらいたいと思う。
でも環は自分自身がわからないから、人との接し方もわからないのではないだろうか。
「ねぇ、これから環って呼んでもいい?」
「え?」
「覚えてなくてもきっと名前は変わらないはずだよ。夏瀬くんがしっくりこないなら、環って呼ぶよ」
「…………」
「それに覚えてないなら作ればいい」
「作る?」
「そう、これから夏瀬環っていう新しい人間の記憶を作っていけばいいんだよ」
環は大きな瞳をぱちくりさせて俺を見つめる。言ってしまってからマズかったかなと焦った。
記憶がないなんてよっぽどのことだろうし、繊細な問題だろうから安易なこと言うのは良くなかったかもしれない。
なんて心配していたら、環が笑った。
「君、面白いこと言うんだねぇ」
初めて笑顔を見せてくれた。
「わかった。今日から僕、夏瀬環になる」
「そ、そうか。改めてよろしくな環!」
「ところでさぁ、君名前なんて言うの?」
「えええ!?知らないの?」
「うん」
どれだけ関心がなかったんだと思うと同時に、環らしいなとも思った。
「奏斗。伊縫奏斗だよ」
「かなと……じゃあかなちゃんだね」
「か、かなちゃん?女みたいだな……」
「嫌なの?」
「嫌ではないけど」
あだ名なんて付けられたことなかったから、ちょっと戸惑った。
「ところでさっきの曲、もう一回弾いてよ」
「えっ、もちろん」
「最近あんまり眠れてなかったんだけど、かなちゃんのピアノ聴いてたら眠れそう」
「子守唄ってこと?」
「いいから弾いて」
もう一度鍵盤の上に指を置き、滑らかに弾き始める。
やがて環はこくり、こくりと船を漕ぎ出した。まるでふらりと現れて寝床を見つけた野良猫のようだ。
今この時間だけでも、環に安らぐ時間が与えられていたらいいと思いながら、子守唄を奏で続けた。