まだ暑い中、一人で登校する。
かたん、と下駄箱で綺麗に洗った上履きに履き替えると、新学期が始まるんだなと、長期連休明けだからか少し憂鬱な気分になる。
今日明日は学力テストを受けて、帰りは夕方。
明日に関しては午前中にテストをして、午後からは普通に授業があるという地獄の日。
「おはよう」
声色が暗い百笑とは、言葉を交わすのはあの大会以来だ。
「おはよう」
気まずい空気がその場に流れる。
時間が止まってしまったかのように、周りの音は聞こえなくなって、お互い俯いたまま動けなくなっていた。
「じゃあ、私行くね」
パッと顔を上げると、視線の先にはジュースを持った奏真が歩いていた。
百笑越しに見る奏真。
……私、奏真に言い忘れてることがある。
まだ、自分の気持ちよりも先に彼に伝えないといけなかったことがあった。
「奏真!」
百笑を置いて、奏真を呼び止める。
普通の日に別々で登校するのは、もう慣れていた。
「おはよう。どうした?」
「ちょっと来て」
階段を登って、二階の空き教室に入る。
ここは三年生のフロアだからダメだよね、とはわかっていながらも、一分一秒でも早く伝えないといけない。
「ごめん!」
ピシャッと扉を閉めて、思いっきり頭を下げた。
「え、なにが?どうしたの?」
「百笑の前で、奏真の恋愛対象が男の人だって口滑らた。本当にごめん」
私に話すことに凄く勇気を出してくれたのに、私はそれを簡単に百笑に話してしまった。
それを謝ることなく告白をしたことを思い出すと、申し訳なさと自己中さで自分が嫌になる。
「いいよ。オレも結構、笹木の前で軽はずみな発言して結局紗綾のこと困らせたし」
軽はずみな発言なんて、珍しい。どうしたんだろう。
「え?どうしたの?」
「ファミレスで紗綾が帰ったあと、笹木に紗綾のことをどう思ってるかって聞かれたんだよ」
……いやそれ、私が悪くない?私が奏真のことを話したからだよね?
「なんて答えたの?」
答えは分かっているけど、奏真の口から聞きたかった。本当、私ってわがままだ。
「(幼馴染として)好きって。でもそこが抜けてたから勘違いさせて紗綾も苦しむことになったんだよな」
「ううん、そんなことない」
元はと言えば、百笑が恋愛モンスターだということを忘れて伝えたのが間違いだった。
「だからこれでチャラってことで」
私の切羽詰ったような、心苦しいような顔を見て、幼い頃みたいに頭をポンポンと優しく撫でてくれる。
「紗綾はすぐに顔に出るもんなぁ。そんなに苦しい顔しなくても大丈夫だよ。笹木、聞いてなかったみたいだし」
ほら、と手招きをして、彼が先に空き教室を出て、それを追うように私もそこを出た。
少し埃っぽい匂いは、すぐに消えてなくなった。
「幼馴染二人組ー、早く席つかないとアウトにするぞー」
チャイムがなるほんの少し前に一ヶ月ぶりの教室に入ると、夏休み前と全く変わらない担任の先生の姿。
「すみませんっ」
二人してはもりながら謝って、名簿順の席につく。
この机もガチャガチャ鳴る椅子も久しぶりだ。
うちの担任は厳しいところもあるけど、こういうところは少し好きだったりする。
「よし、二学期一発目は遅刻ゼロ欠席ゼロで優秀だ。この調子で冬休みまで頑張ろうな」
出欠確認を終えて今日のスケジュールを夏休み前に配られたプリントを見返しながら先生と確認して、廊下に並ぶ。
これから硬い床に二時間座らされる地獄の始業式が始まるのだ。
「これより、桜崎高等学校第二学期始業式を始めます」
いつもと何ら変わりもない始まり方をして、校長先生の「終業式のときに言ったことは覚えていますか?」に心の中で思いっきり首を横に振る。
とくに何の成果も残らなかった私たちとは裏腹に、一位を取ったり何かしらで賞をもらった部活動の表彰を聞き流して、頭の中はもうすっかりめんどくさい、だるい、帰りたいの三拍子が揃ってくるくる回っている。
やっと教室に戻れたかと思ったら成績に入るのか入らないのか分からない学力テストが待ち構えているし、学期初めはいいことなしだ。
だるいなー、帰りたい。
やけに難しい問題が連なる中、わかるところだけ解いてあとは睡眠の時間に充てる。だってどうせ、分からないところはどう頑張って頭を捻らせても分からないから。
「テストどうだったー?」
「まじやべー」
「再考査がないのが唯一の救いだよね」
二学期になって、というか、体育祭のあとから薄々気付いてはいたけど、奏真がいるからいいやって友達が全然作れていなかった。思った以上に話せる人が居ない。
左を見ても右を見ても、前を見ても後ろを見ても、もうすっかりグループは固まっていて私が入る余地もなかった。
「そんな思い詰めた顔して、もしやテストできなかったのか?」
付き合っている奏真と陽高くんの邪魔はできないからと話しかけに行かなかったのに、あっちから来てくれるなんて。こういうところが罪なんだ。
「いや、別の考えごと。そういう奏真は、テストどうだったの?」
なんだ、いつも通りに話せるじゃん。
完全に幼馴染としてしか見なくなってから、『好きな人』から『一人の人』として見るようになった。
当たり前のことだけど、案外早く乗り切ることが出来たのが救いかも。
「まあまあまあ、普通くらい?」
「うわ、自信満々だ」
嬉しそうに軽く斜め上を見て話すときはちょっとだけ自慢したいとき。
点数が出ていないから少し気が早いとは思うけど、自信があるのはいいことだ。
「今回は文武両道に力入れたからね」
「私は娯楽に力入れたから今回は諦めてる」
別にそこまで課題に熱を注いだわけじゃないし、仮に一桁代の点数を取ってしまったとしても見せる相手がいるわけじゃないから怒られる心配はない。
「どこか行ってきたの?」
「うん。東京行ってきた」
「紗綾が一人で旅行とか、珍しいね」
「一人じゃないよ」
私が言うと、奏真はこちらも驚いてしまうほど目を見開いて、「そーなんだ」と少し嬉しそうに笑った。
「よかった。一緒に遠出できる友達ができて」
「余計なお世話だよ」
無駄に心配性なのは、恋人ができても私が想いを伝えても、変わらなかった。
「そうだ。私、将来の夢見つけたの」
「なになに?花屋?ケーキ屋?あ、ラビットランドのラビちゃん?」
次々と出てくる候補に、思わず笑ってしまう。
というのも、全部私が幼稚園のときの『将来の夢』の欄に書いたり、七夕の短冊に書いたり、奏真に話したりしていたものだったから。
「懐かしいけど、違う」
やっぱりあの頃の夢はその場のノリとか勢いとか、そういうのが大きかったんだと思う。
ショーケースに並ぶケーキも、お店にずらっと並ぶお花も、あの頃の私には異常なほどにキラキラ輝いて見えた。
今は虫が大嫌いだから花屋で働きたいとは一ミリも思わないし、お菓子作りは趣味の範囲内が私にとってちょうどいい。
ラビちゃんは、こちらがお客さんとして出向いて、ハグを求めるのがいいんじゃないかと気付いた。まだ一度も会いに行ったことはないけど。
「じゃあ学校の先生とか?」
「それは惟人さん」
「惟人さん?誰?」
会ったことあるじゃん。酷いな。
そう口に出しそうになって、飲み込んだ。
会ったことはあっても名前は知らないんだった。そしてこのことは、この学校の生徒の中できっと私しか知らないこと。
「秘密。でね、私、少女マンガ雑誌の編集者になるって決めたの」
それにここで、路上でギター弾いてたイケメンのお兄さんだよ、なんて言って、奏真とライバルになるのだけは避けたい。
いくら恋人がいるとはいえ、百パーセント気が変わらないなんてことは有り得ないもん。
……奏真がライバルになるかもって恐れてるんだ、私。
気の迷いとかじゃなくて、もうしっかり好きじゃん。惟人さんのこと。
「へぇ、いいじゃん。好きだもんな、少女マンガ」
「うん」
「じゃあそれ専門の学校行くの?」
「ううん。四大。県立桜麹大学の文学部に行きたい」
そしたら今の場所から歩いて通える。それにもしかしたら、違う可能性ももちろんあるけど、惟人さんと学部は違うけど同じ大学かもしれない。
今度会ったら聞いてみよう。
「そっか。じゃあ初めて学校がバラバラになるんだな」
少し切なそうに言う。
そっか、そうなんだ。お互い志望校に受かったら、別々の学校に行くことになって、こんなふうに休み時間に話をすることもなくなってしまうんだ。
それはなんか、結構寂しいかも。
「奏真はどこの大学行きたいの?」
「オレはね」
「はい、席ついてー。進路希望調査配るぞ」
ガラガラとやけに大きい音を立てて教室に入ってきたかと思ったら、タイムリーな紙を持ってきたらしい。
「期限は来週の金曜日だから、ちゃんと記入して期限内に持ってくるんだぞ」
折り曲げるの禁止、汚すの禁止、無くすの禁止、提出期限に遅れるの禁止という暗黙の了解があるたった一枚の紙。
クリアファイル三枚で左右上下どこからでも折れ曲がりと雨を防げる体制にしておかないと落ち着かない。
というのも、中学三年の春、コーヒーだかジュースだかをうっかりこぼしてしまった同じクラスの男子が、体育で移動したあとの閑散とした教室で体育教師の担任に机を蹴られながら怒鳴られているのを目撃してしまったことがある。
それ以来、四つのルールを守らなかったら私もああいう風に怒られてしまうと思うと気が気じゃないのだ。
先生の話も今日だけは真面目に聞いて、帰りのホームルームが終わる頃にはもう脳はヘトヘト。
「奏真、また明日ね」
「おー。気を付けて帰れよ」
なんだかこのやり取りも自分の中では自然に感じて、まるで新しい関わり方を見つけられたみたいだ。
まだまだ日が長くて、流れる時間も心做しか穏やかで。足取りはなんだか軽やかだ。
今日の夜ご飯、何にしようかな。気分がいいから、ちょっと贅沢にハンバーグにしようかな。
「紗綾!」
正門の前で名前を呼ばれた。思わずビクッと肩が上がってしまう。
「あ、百笑……」
「時間、いい?」
今ここで了承しちゃうと、ハンバーグを作っている時間はなくなってしまう。
でも嫌だと言うと、明日からの部活も夏休み中と同じで気まずい。
「うん、いいよ」
まぁいっか。どうせこのまま帰っても、色々グルグル考えてハンバーグなんて作れないだろうし。
「一緒に帰ろう」
どこかに寄って話すのかと思いきや、駅までの道のりを一緒に歩くだけらしい。
それなのに、もう五分は沈黙のまま足を進めている。
「ごめんね」
もう、ここは私から。意地を張っていないで話さないといけないことは話さなければ。
「……え?」
「私が変に奏真のこと話したから、私のために動いてくれたんだよね」
友達思いの優しい子だってことはよく分かってる。恋愛の話になるとちょっとミーハーになってしまうくらいで、別に悪い子じゃない。
「ごめんっ」
ほんの少しの静かな時間が流れたあと、ピタッと足を止めた百笑が泣きそうな声で言った。
「紗綾がすごく愛おしそうな顔して奏真くんのこと話してたから、どう見ても二人ってお似合いだし、絶対くっついてほしいって気持ちが先走っちゃった」
なんだか複雑だった。お似合いだって言われること、前まですごく嬉しかったのに、今はなんで奏真なのって。
惟人さんとはお似合いじゃない?やっぱり大学生にとって私って、子供っぽいのかな。
「ありがとう。気持ちはすごく嬉しい。でも私、奏真に対する恋心も綺麗さっぱり無くなって、ただの幼馴染に戻ったから」
だから奏真とお似合いだなんて言わないで。できるなら、惟人さんとお似合いだって言ってほしい。
「そっか。本当にごめん。無駄なことして」
「いいよ。ちょっとお節介なところだって百笑の魅力の一つでしょ?」
「ありがとう」
じゃあまた明日、と別れ道で手を振り合う。
今日は悩みが解決したからスッキリいい気持ちで眠れそうだ。
こんな日は惟人さんに会いたいな。あの日のこと、解決したんですって話したい。
駅までの道のりの反対方向。惟人さんが前に歩いてきた道を何となく眺める。
「でさ、ほんとに美味しいんだよ」
ピクッと耳が反応する。
目の前が輝く。
でも、その道を歩く惟人さんを視界に入れたとき、目の前は一気に真っ暗になってしまった。
すごく美人な人が惟人さんと腕を組んでこっちへ向かって歩いてきていた。
どうしよう。会いたくない。
もし会って、「僕の彼女の〇〇です」なんて紹介されたら残酷すぎる。
もうこうなったら走るしか方法はなかった。
カバンの紐をぎゅっと握り、酸素を思いっきり肺に溜めて走り出す。
それなのに、なんでかなぁ。
バサーっと大きな音を立てて、久しぶりに盛大に転んでしまった。
「痛たた……」
「え、紗綾ちゃん?大丈夫?」
すぐそこまで来ていた惟人さんも駆け寄ってきてくれる。
嬉しいはずなのに、嬉しくない。
優しさを向けられているのに、胸を締め付けられているように苦しい。
こんなこと、初めてだ。

「救急箱持ってくるから、ちょっと待ってて」
「紗綾ちゃんだっけ?なんか飲む?お茶でいい?」
惟人さんの住むマンションの部屋の中で、彼女さんが私にお茶を出してくれる。
しかもコルクのコースターの上に丸みを帯びた可愛らしいグラス。もう同棲していたりとか、するのかな。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
ニコッと笑う笑顔が、モデルさんみたいに美しい。確かに今の私は完全に負けているのは目に見えてわかった。
「萩花、ペットボトルに水汲んできて」
「はいはい」
へぇ、萩花さんっていうんだ。お名前まで美人さんで、ちょっと羨ましい。
血が滲む痛々しい膝よりも、心が嫌にモヤモヤして、ズキズキと痛む。
いただいたお茶も、喉を通らないほどに。
「痛かったでしょ。今洗って絆創膏貼るからね」
緑色の救急箱を片手に、隣に腰かけた。
こんなに近かったのは、帰りの新幹線以来だ。
「惟人、はい」
「サンキュ」
ポイッと投げられた、水が半分ほど入った五百ミリリットルペットボトルを華麗にキャッチして、コットンを膝下に添えて膝から少しずつ水を流した。
「痛くない?」「大丈夫?」と声をかけながら膝に残った水滴をふき取って、新しいコットンをセットして次は消毒液を取り出した。
白いパッケージに、青い蓋。そこら辺のコンビニとかでも売ってるような消毒液。
ジュワーっと抜け道が一本しかないジョウロのような音を小さく鳴らしながら、私の膝を濡らしていく。
ピリピリとした痛みが膝から広がる。
「痛いよな、もうちょっと我慢してな」
心做しか少し男らしい言葉遣いの彼に、嫌な感情は増すばかり。
どうやら痛みに耐えていて無言なんだと思っているみたいだ。
だからなのか、いつもより真剣な顔で、丁寧な手つきで綺麗に絆創膏を貼ってくれた。
「ありがとうございます。それじゃあ私、帰りますね」
救急箱を片付けている惟人さんに声をかけると、驚いた様子でこちらを見た。
「え、もう?ついでだしご飯食べていきなよ」
いやいや、気まずいよ。
好きな人の彼女さんと一緒にご飯とか、付き合うことすらできない私でも嫌なのに、彼女さんはきっともっと複雑な気持ちになる。
「いえ、せっかくお二人でどこか行く予定だったところを邪魔しちゃったし、さすがにここはお暇します」
でもなによりも、今ここにいたくないっていう気持ちが勝っているから、七割八割は私の感情だけど。
「えー、紗綾ちゃん帰っちゃうの?もうちょっとお話しようよ」
完全に隣に腰掛けられて腕を組まれたかと思ったら、キラキラした笑顔。いつもだったらただ素敵だと思える笑顔なんだろうけど、今はただただ怖いと感じてしまう。
こういうときに彼女さんに言われることがあるとしたら、「私の彼氏に何してくれてるの?」とか、「私の彼氏のこと弄ばないでくれる?」とか、とりあえず引き離す言葉のナイフが次から次へとあらゆる文脈で飛んでくるのが目に見えている。
「あの、でも今からハンバーグ……を……」
作らないと、なんて言うと料理してますアピールになって火に油を注ぐ形にならないかな?
「オッケー、ハンバーグね。惟人、紗綾ちゃんハンバーグだって」
「んー」
彼女さんと入れ替わりでここではない部屋に用事を済ませに行って戻ってきた彼は、どうやらもう居座ることになったと思い込んでいるらしい。
「でもいいの?紗綾ちゃんこのあと用事とかあったりしない?大丈夫?」
「あ、えっと……」
「ね、もうちょっと。ご飯食べ終わるまででいいから」
……あぁ、断るとめんどくさいタイプだ。
これ、きっと帰ったほうがどういう関係か複雑になるパターンだよね。多分。
「大丈夫、です」
……ご飯食べ終わるまでに何言われるんだろ、私。
「……そ?じゃあハンバーグね。萩花は?」
はい、と彼女さんに向かって手渡されたスマホ。きっとこれは、お互い信頼しているサイン。
そしてなんか、巷で話題の出前アプリで頼むらしい。それには少し、ほんの少し、自分の中の一パーセントの冷静な部分でワクワクを感じた。
「私大葉おろしハンバーグ!紗綾ちゃんはどれにする?私のオススメはチーズかオニオンソースなんだけど……。あ、でもキノコクリームも外せないんだよね」
惟人さんのスマホの画面をピッタリとくっついて見せられる。
いい匂いがした。女性らしい、キツくないふんわりと香る、控えめなお花の香り。
なんかもう、全てに対して負けている気がする。
私、この人に勝てるところ、一個でもある?
高校生だし、子供っぽいし、気分がすぐ顔に出る。もっともっとあるけど、上げだしたらキリがないから、完全にネガティブ思考になる前に止めておいた。
「あ、じゃあオニオンソースにします」
「りょーかい」
表情と声色から滲み出る柔らかい雰囲気は、「了解」なんていう固い感じではなかった。
普段優しい人は豹変すると怖いって言うし、ハンバーグが届いてから本領発揮とかされたらどうしよう。言い訳とか色々、考えておいた方がよさそう。
「ドリンクはどうする?」
「あ、ごかっ……や、えと、なんでも大丈夫です」
脳内で考えていた言い訳の「誤解ですっ」がポロッと出てきてしまった。
どうせ怒らせるのなら、後にあとに引きずって、いっそのことハンバーグをあっという間に平らげてそそくさと帰ってしまいたい。
こんなに早く女性関係のトラブルを経験するとは思わなかったなぁ。
「じゃあこれにしよう。惟人ー、決めたよ」
「僕何にしようかな」
「チーズでいいじゃん」
「でもなぁ」
「そうやって考えて結局いつも王道に戻るんだから、今日はこれにしときなって」
腕を組まれたまま、惟人さんとじゃれあって、彼のことをなんでも知っているように話すこの人が羨ましい。彼女さんは私にはもうたどり着けない場所に立っている。
「ポテトとか頼もうよ!ほら、紗綾ちゃんもいるわけだし!あとはサラダとペッパーグリルチキンとー、あとあと、デザートのプリン!」
たくさん注文したあと、萩花さんに他にほしいものはないかと聞かれたけど、増えれば増えるほど長丁場になりそうだったからやめておいた。
それに、ちょっと胃がキリキリして、食べられるかどうかも分からないし。
「暑かったでしょ。惟人が朝作って冷蔵庫に入れてあるお茶で悪いけど、良ければ飲んでね」
こんなことをサラッと言えてしまうなんて、付き合って何年目になるんだろう。私は多分、仮に小学生の頃から奏真と付き合っていたとしても言える気がしない。
「ありがとうございます。いただきます」
ひんやりと喉を通る麦茶。鼻からほんのり麦の香りが抜けていく。
「ねぇ、ところで紗綾ちゃんって、惟人のことどう思ってるの?」
麦茶を飲みきってグラスを机に置くと、待ってましたと言わんばかりに話が始まる。
「えっと、えっと……」
無駄にワクワクしているのがさらに怖い。
「ちょっと萩花。踏み込みすぎだって」
「いいじゃん。あんたが女の子と仲良くしてるの見るの初めてなんだもん。ちょっとぐらい踏み込んでもいいじゃん。ねー、紗綾ちゃん」
「あはは……」
あなたも女の子ですよね?なんなら彼女ですよね?もう十分仲良くされてますよね?
私にふられても困るんですけど……。
「それより萩花、ちょっとこっち来て」
「んぇー。今紗綾ちゃんと話してるんだけど」
「いいから」
惟人さんは手首が折れそうなほどの勢いで上下に手招きして、萩花さんをキッチンの方へと呼び出した。
渋々立ち上がって彼の方へ向かう後ろ姿でさえ、私とは全然格が違う。
「お酒ないの?フルーツ系の」
「ねーよ。僕まだ十八だし」
さっきまでの話は聞こえていなかったのに、途端に声が大きくなって耳に入る会話。
萩花さんはもう成人済みの大人なんだ。そりゃあ、私とは全然違って当然だよね。惟人さんも惹かれて当然だろう。
魅力が全然違うから。
ちょっとした言い合いでさえ、ただイチャイチャしているように見えてしまって辛い。
恋の神様は、どうしてこんなにも意地悪なんだろう。
「そろそろ着くって。僕受け取ってくるから」
「私行くからあんたはここで紗綾ちゃんと話でもしてなって」
「着払いだからいいって」
「今日くらいお姉ちゃんの私が払うから」
……え?
「あ、えっ?」
びっくりしてスマホを落としてしまった。
ゴトン、という大きい音に、二人の目線がこちらへ飛んでくる。
「どうした?」
「どうしたの?」
ピーンポーン……。
二人の声と、チャイムの音が同時に耳に入って笑ってしまった。
「ちょっと行ってくる」
「だから私が行くってば」
廊下で押し合いをしながら、仲良く玄関まで進む姿は、さっきまでとは違ってなんだか微笑ましい。
「来たよー」
少しボロボロになった二人から受け取ったハンバーグプレートと、果肉がゴロゴロ入っているいちごミルク。ゆで卵が入ったサラダも、一人一つ配られた。
「あの、お金……。いくらでしたか?」
カバンの中を漁ってお財布を取り出すと、萩花さんがお財布を私のカバンの中に戻した。
「いいのいいの。いつも弟がお世話になってるお礼だから、ここはこいつの姉である私にご馳走させて」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
安心からなのか、さっきまでは空く気配のなかったお腹が一気にすっきり空っぽになった気分。
「私てっきり、惟人さんの彼女さんだと思ってました」
「えぇっ」
そう、お互い少し顔を歪ませて嫌そうな顔をした。姉弟って感じがして少し羨ましかった。
「ないない。仮に他人だったとしても、惟人じゃなくて今の彼氏選ぶわ」
プシュっと炭酸が抜ける音を立てて、トポトポとビールをグラスに移しながら言った。
「え、萩花さん彼氏さんいるんですか?」
「いるよー。アメリカで出会った日本人」
「アメリカですか?すごいですね!」
だからこんなにスタイルが良くて綺麗なんだ。
「すごいけど、勘違いされるんだよ。留学から帰ってきてからあっちの距離感が抜けないのか、実家でも街中でも普通に腕組んでくるし」
うわぁ。なんか、見たことない惟人さんだ。
不機嫌そうで、いつものしっかりしてるお兄さんみたいな彼じゃない。萩花さんといると、本当に弟みたいな感じだ。
「でさ、さっきの話の続きなんだけど。惟人のことどう思ってるの?」
「ちょ、その話はもういいだろ?」
「だって気になるじゃん。彼女すらいたことない惟人がやっと女の子と仲良くしてるの見ちゃったらねぇ?」
惟人さんがああ言えば、萩花さんがこう言ってくれるから、どうなんだろうと不安に思っていた気持ちはどんどん解決していった。
「あのあの!惟人さんってどこの大学通ってるんですか?」
ちょっと話を逸らしてみたら、意外と上手くいったみたいで、萩花さんも惟人さんの話に耳を傾け始めた。
「桜麹大学だよ。そこの教育学部。紗綾ちゃんはどこに行きたいか決めたの?」
「私も桜麹大学にしようと思ってるんです」
……あ、違うな。
惟人さんと私の会話の中からちょっとでも関係性探ろうとしてる。今日初めて会ったけど、あの顔は多分そう。
「あそこはね、いいとこだよ。高校と同じくらい行事に力入れてるから楽しみもあるし、学部によってそれ専門の講師の先生の話を聞けたりとか、あとは分からないところはマンツーマンで教えてもらえたりもするし。『夢に向かって前へ』があそこの大学理念だから、どんな夢でもちゃんと応援してくれるのがいいところだよ」
「そうなんですか!なんか、早く大学生になりたいです」
スマホにメモを取りながら、キャンパスライフを送る自分を想像してみる。
自然と隣には惟人さんも立っていた。
「僕も同じ大学に通えることになったら、毎日もっと楽しくなるんだろうな」
萩花さんはそんな私たちを見て、にこにこと笑いながらポテトを食べていた。
「今日はありがとうございました。ご飯を食べさせていただいた上にお家まで送っていただいて、ありがとうございます」
「いいのいいの。私もこれから帰るところだったし。今度は惟人抜きで女子会でもしよう」
その一言をきっかけに連絡先を交換して、萩花さんは車を走らせた。
部屋で明日のテスト勉強をしながら、あの家族の一員になれたら幸せだろうな、なんて、少し重たいことを考えてみたりした。

パンフレット、進路希望調査、よし。
お昼ご飯のフレンチトーストに、お母さんが座る方にコーヒー、自分には角砂糖をとかした甘い紅茶。
洗濯物もちゃんと干して、朝のうちに部屋全部に掃除機もかけたから、準備は完璧だ。
進路の話をして、これだけ家のことが出来ていたら、もしかしたら、一緒に住もう、二人でまた手を取り合って生きていこうって言ってもらえるかもしれない。
時計が少しづつ時間を進めていく。
秒針が一周するのが、こんなにも遅いと感じたことはない。
……ガチャ。
約束の十二時ピッタリ。鍵を開け、部屋に入ってくる音がした。
「ただいま」
「お母さん、おかえり」
私の言葉が届いているのか、届いていないのか分からないままお母さんは自分の部屋に入って、ダンボールを玄関に置いて、その上に自分の荷物を置いた。
「これ、紗綾が作ったの?すごいね」
ダイニングに来て、一言。ずっと欲しかった一言がもらえただけで、幸先がいい気がしてしまう。
「ありがとう」
「食べていい?」
早速と言わんばかりに椅子を引き、コーヒーが置いてある方の席に座って手を合わせた。
「いただきます」
私も急いで座って、同じタイミングで声を合わせる。
ナイフで切って、フォークで口に運ぶ。
目の前でお母さんも同じことをしている。
それだけですごく嬉しくて、誰と食べる食事よりも、今が一番幸せで、美味しく感じた。間違いなく、家族の空気がこの場には流れていると確信した。
「ありがとう。美味しかったよ」
綺麗に食べたあとに、こんな言葉までくれるなんて思っていなかった。
「うん。じゃあ私、洗ってくるね」
照れてしまって、少し素っ気ない態度を取ってしまった。
でもそれでさえお母さんの娘みたいで、シンクに向かって抑えきれないニヤけをぶつけてみたりした。
涼しい部屋で、ふわふわと湯気が上がっていた紅茶も、もうほんのり冷えてきたころ。
今日話さないといけない本題に入った。
「これ、みて。学習環境もすごく充実してて、キャンパス内も綺麗なの。分からないところはマンツーマンで先生に教えてもらえるんだって。それにね、外国との交流もあって……」
パンフレットをめくりながら、自分が調べたこと、惟人さんが教えてくれたことをお母さんに話して聞かせる。
これさえ許可がおりたら、あとは勉強を死ぬほど頑張って、夢に向かって走るだけ。
「どう、かな?」
呼吸が少し苦しくなるほど、心臓が働いている。お願いだから、そんなに無駄に働かないで。余計に緊張しちゃうから。
「いい大学ね」
口を開くと、いい言葉が飛んでくる。
この調子なら、きっと許可してもらえる。ボールペンで上書きして、印鑑を押して学校に提出できる。
「じゃあっ」
「でもだめ。あなたは高校卒業したら就職するって決まってるの。どうしてもそこの大学に行きたいなら、お金を貯めてからにしなさい」
なんだか、終わりのないフリーフォールに乗っている気分だ。
上げるだけ上げておいて、とことん落としていく。なんなら、元いた場所よりもっともっと下へと落とされた。
「なんで……」
私のHPはもう、二十に近い。
その理由は他でもなく、家に来てから話を聞くまでの流れが理想的すぎて、全て上手くいくと過信しすぎていたせい。
「紗綾には、高校を卒業したその日にこの家を出て行ってもらわないといけないの」
お母さんの話は理解するのに結構な時間がかかった。体感では十分くらい、思考が停止していた。
お母さんがあたかもそれを当たり前みたいな顔をして話すから余計にだ。
「……なんで?ここは私とお母さんの家でしょ?なんで出て行かないといけないの?」
真剣に聞くと、はぁ、とため息をついて、バッチリ私と目を合わせて口を開いた。
「邪魔なのよ。あんた。あと一年ちょっと経ったら、ここで新しい旦那と、新しいこの子と私とで三人で暮らしていくの。やっと手もお金もかからなくなるってのに、これ以上私の邪魔をしないでくれる?この家に住まわせてたのだって、いつか使えるかもって思ってたからだし、あんたなんか鍵かけてもドアが開きそうなボロアパートとかに住まわせてても良かったのよ?」
つらつらと並べられる強い文字たちに、私は死んでもなお殺され続けている死体になったようだった。
今にもこぼれそうな涙を必死で堪えながら、塞ぐこともできない耳から心の中で思っていたであろう本音を聞いては傷にして残していく。
「こんな甘えたこと書かないで」
ゴシゴシとボールペンで上書きするために持ってきた消しゴムで志望校は綺麗に消されて、就職の所にボールペンで丸をつけられ、事務系と業種の欄に書かれてしまった。
これでもう、私の進路は用紙が何度ここに来ようが、今後一切就職で事務職希望を通すしかない。
私の人生、めちゃくちゃだよ。
心がぐちゃぐちゃになった私を置いて、「次ここに来るときはもうあんたはいないからね」と卒業後にこの家に来ると宣言して、荷物を抱えて家を出て行った。
私の無言の時間が長かったのか、お母さんの話が長かったのか、はたまた私が一人で泣いている時間が長かったのか。
もうカラスは鳴き、空はピンクがかった紫色に染まりつつあった。
本当は明日選択するつもりだったものを早めたのに、これか。
あはは、なんて一人で笑って、適当に荷物を持って外に出る。
暑いも寒いも、今は分からなかった。
一人暮らしのための賃貸って、親いなくても借りられるんだっけ。十八成人だからできるのかな?
でもそれより、なんであんなこと言われないといけないんだろう。私、なにか悪いことしたかな?どんな生き方したら一緒に暮らしてもらえたんだろう。
もっと美味しいご飯を作れるようになってたら よかった?
もっとシャツがピンと伸びるように洗濯物を干せばよかった?
キラキラ光るくらい、床を綺麗にピカピカに掃除できるようになっていればよかった?
もうちょっと遅く、お母さんが満足する濃さと温かさのコーヒーを淹れられる人になっていればよかった?
部活になんて入らずに、学校にバレないようにこっそり裏方とかでバイトして、それだけを頼りに生きていればよかった?
もっともっと勉強ができて、将来も高卒でいい会社に入社して、初任給から生活費全部払って家にお金を入れるくらいの人間になれていればよかったの?
……私なんて、どこかで死んじゃえばよかったのかな。そしたらもう、ずいぶん前にお母さんを悩ませる存在は消えて無くなっていただろうし。
周りがざわついている。きっとここは、人が多い駅前か、ショッピングモールの近くか。それとももう、気付かぬ間に知らない街にたどり着いていたのか。
みんなはこんなに明るく楽しそうに話して生きているのに、なんで私はこんな暗闇の人生を歩いているんだろう。
「……!紗綾ちゃん、止まって!」
とうとう幻聴まで聞こえるようになったみたいだ。後ろから、大声で。惟人さんの声が聞こえてくる。
周りのざわめきは聞こえなくなったのに、まっすぐ彼の声だけが耳に届いた。
「紗綾ちゃん!……紗綾っ!」
グッとお腹辺りにストッパーがかかった。
「うっ」
そのまま引っ張られて、後ろに倒れ込んだ。尻もちをついたはずなのに全然痛みは感じなかった。痛みではなく、ほわほわした優しい温かみが私に伝わってくる。
ガタガタガタッ。
目の前に電車が来て、ゆっくりと減速しながら規定の線までシューッと音を鳴らしながら動いている。
「……死ぬかと思った」
息を切らしながら、私のお腹に手を回した惟人さんが少し低い声で言った。
「惟人さん……なんで……」
彼の顔を見ると、今にも泣きそうな、寂しそうな表情が隠しきれていなかった。
「なに、してんの。一歩遅かったら轢かれてたじゃん」
震える手で私をぎゅっと、大事そうに抱きしめながら、私の肩に顔をうめた。
「……ごめんなさい……」
何も知らない次の電車に乗るためにやってくる人たちは、ホームで座り込んで抱き合っている私たちを不思議そうな目で見ていた。
「紗綾ちゃんの家、行こう。送る」
もう何度目かの惟人さんの車の助手席に乗せられて、車が動く。
なんでかな。まだ、イライラも喪失感も、変形してしまった心も治っていないのに、うとうとと彼の車に乗ると眠くなってしまう。
「寝てていいよ。あ、でも住所だけ教えて」
「桜町西ヒルズの六〇二です」
一秒でも早く眠りにつきたい私は、素直に自分の住処を教えて、椅子に全体重を預けて意識を手放そうとした。
「紗綾ちゃん、着いたよ」
もう寝れるってときに、着いてしまった。
歩くと結構時間がかかる道も、車だとあっという間みたいだ。わかっていたはずなのに、同じくらい時間がかかるものだと思い込んでいた。
「歩きたくない……」
本当は帰りたくないって言おうと思ったけど、さすがにそんなことは言えなかった。
無意識に飛び降りようとしていただけで大迷惑なのに、その上送ってもらっておいて帰りたないというのは気が引けた。
「背中乗れる?」
「……うん」
わざわざ運転席から助手席の方へと回ってきて、軽々とおぶってくれる彼を、ぎゅっと抱きしめてみた。
彼は何も言わずに、エレベーターを上がって、私が無言で差し出した鍵で玄関のドアを開けた。
「何かあったの?」
玄関の一段高くなっているところに私を下ろして座らせると、自分は色んなところをほっつき歩いた靴が行ったり来たりしている一段低いところにしゃがんで、私の頬を流れる涙を親指で優しく拭き取った。
「なんもないです。どうせ惟人さんに言ってもわかんないです」
同じ大学に通えることになったらと、二人して少し浮かれていたのに、こんなこと、言えるわけない。
「でもね、紗綾ちゃん。言わないともっとわかんないよ?」
頭をくしゃくしゃと撫でて、彼は思いついたかのように言った。
「明日、いいとこ連れてってあげる。朝の九時に迎えに来るから。だから今日はもうお風呂入って、ゆっくり休んで。ね?」
いつも通りの優しい笑顔を向けられると、私も思わず少しだけ笑顔になれる。
「はい」とか、「うん」とか、肯定の返事を声にする代わりに、彼から分けてもらった笑顔で縦にゆっくり頷いた。

一人になったら眠気も吹っ飛んで、ベッドの中でゴロゴロしながら東京で撮った写真を眺める。
このときが自分の中で一番幸せな時間だった。
好きなことをして、好きなものを食べて。将来の不安なんか何も考えず、誰かに否定されることすら頭になかった。
無音の時間が流れて、カーカーとカラスが鳴き、しばらくしたらチュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえてくる。
結局眠れずに朝になってしまった。
カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しくて、そのままゆっくり身体を起こす。
何度も寝返りを打ったからか、髪の毛は実験に失敗した博士みたいになっていた。
いつも通り一人で歯磨きをして、軽く家に掃除機をかけた。洗濯物は、また明日。
朝食もきっと喉を通らないから、散らかした机の上だけ片付けて、綺麗に水拭きした。
だんだん気温が上がってきて、ふと時計を見ると約束の時間まであと一時間もないことに気づいてしまった。
昨日の夜とは裏腹に、穏やかな朝の時間が過ぎていく。
ヘアメイクをして、可愛い服に着替えたら、タイミングよく呼び鈴が鳴った。
戸締りの確認をして、テレビモニターホンには一切手を触れずにドアスコープを覗いた。
ビンゴ。
ドアノブを下げてゆっくりと押す。
外の温かい空気が肌に触れて、段々と惟人さんの姿が見えてきた。
「おはようございます」
「おはよう。ダメだよ、ちゃんとワンクッション挟んでからじゃないと。知らない人だったら危ないし気まづいよ」
まるで恋人のような会話に少しウキウキする。
眠れなかったはずなのに、そんなのまるで嘘みたいに楽しみで胸が踊る。
「よく寝れた?」
車に乗り込むと、シートベルトを締めながら心配そうな声が飛んでくる。
「それが、こう見えて徹夜なんです」
「そっか。昨日ちょっと車走らせてから送ればよかったね」
申し訳なさそうに言うけど、彼は何も悪くない。嘘でも、ちょっとだけど眠れましたとかなんとか言えばよかった。
「惟人さんって、いつ免許取ったんですか?」
少し走り始めたあと、気になって聞いてみる。
「三月だよ。まだ初心者マーク外せないの」
「なんかもっともっと前に取ってるのかと思ってました」
「これでも頑張ったんだよ。毎日車校通って。そのおかげで大学は近いくせに毎日車で行ってる」
少し得意げな顔をした。私の好きな、可愛らしさが隠しきれていない顔。
「車運転できる人って、なんかすごいです。ワンランク上、みたいな」
「なにそれ」
ふはっ、と楽しそうに笑いながら、安全運転で車を走らせる。
たまに黙り込んだり、鼻歌を歌ったり。そんな横顔を見ているだけでドキドキした。
「そういえば、今日どこ行くんですか?」
彼の方を見て聞いてみると、少し悩んだ顔をして、「うーん」と唸った。
「青が綺麗なところかな」
予想外の返事に、今度は私が悩む番だった。
「もうすぐ着くよ」
赤信号で止まっている彼がこちらを見て、私の悩む顔を見てニコニコと笑顔を向けていた。
「さて、どこでしょー」
信号が青に変わり、ハンドルを切った彼は、なんだかいつもよりも落ち着いていて、それなのにどこか無邪気さを感じた。
ピー、ピー、ピー。という、駐車するときのこの音もやっと聞き慣れてきた。
あっちを見て、こっちを見て、窓の外も見て。
色んなところを確認しながら車を下げていく惟人さんは、まるで魔法使いみたいに見える。
「着いたよ」
車のエンジンを切り、二人してぐーっと伸びをする。座って話していただけの私も、思った以上に身体が楽になって少し驚いた。
「寝なくて大丈夫だった?」
車を降りる前、眉を下げて言う。
なんでこんなに、この人は優しいんだろう。
「はい。もしかしたら帰り、寝ちゃうかもなんですけど」
「いいよいいよ。じゃあ行こっか」
嫌な顔一つせずに、目尻を下げて車を降りる。
彼につられて外に出ると、なんだか独特な香りが鼻をかすめる。
「ちょっと歩くけど、大丈夫?」
「はい」
車の鍵を締めた彼の隣を歩くと、涼しい音が聞こえてくる。独特な香りも、きっとそこからだろう。
歩き始めて五分もしないあいだに、人もいなくて閑散とした海辺が目の前に広がった。
石の階段を降りると、砂浜があって、その先は青い海。空も青くて、夏の残り香を目と耳と鼻で感じられる、今の風景。
「すごーい……」
思ったことがすぐに声に変わるほど、心までもを浄化してくれそうな綺麗な景色に心を奪われてしまった。
地球って丸いんだな、と感じさせる水平線。
真夏みたいに入道雲はないけど、もくもく浮かぶ白い雲がよく映える綺麗な青。
ちょっと先を裸足でズボンの裾をまくりながら歩く惟人さん。
「紗綾ちゃーん!めっちゃ冷たい!」
「えぇっ」
冷たくて気持ちいいのかと思いきや、そうでもなかったらしい。
そんな感想を伝えられておきながら、私もつられて靴を脱ぎ、スカートの裾をちょっと上げて惟人さんのところまで走った。
「うひゃっ。冷たい!」
例えるなら美味しく食べられるはずのアイスが知覚過敏のせいで痛いみたいな、そんな感じ。
「夏の終わりに海はいるもんじゃないね」
「そうですね」
それなのに、こんなことを言いながら、二人してギャーギャー騒ぎながら水をかけあったり、服がギリギリ濡れないくらい深いところまで歩いてみたり。
ことある事に冷たい冷たいと言うくせに、お互い海から出ようとしないのがまた面白い。
恋愛ドラマとかでよく見る、「あははは、あははは」と笑いながら砂浜を追いかけっこするわけでもなく、真夏に水着でビーチボールをするわけでもない。
来たときのままの服で、帰りのことなんて考えずに水遊びをするのがこんなにも楽しいのかと何度も思った。
「みてみて、綺麗な貝殻見つけた!」
キラキラしたものが見えてしゃがんでみると、ツヤツヤのピンクの貝殻。
「え、ほんとだ。僕も綺麗な貝殻探そう」
私の些細な一言で、海から上がって貝殻探しにシフトチェンジ。
真っ白だったり、少し黄色っぽかったり。たまにオーロラみたいにキラキラしたものも。
頭がぶつかりそうな距離で、二人して半径一メートルくらいの範囲の貝殻を探す。
「惟人さん、綺麗なの見つけた!」
「紗綾ちゃん、これ可愛い!」
そんなに大声を出さなくても届くのに、ぐんと上がったテンションをそのまま出した結果がこれ。
両手にいっぱい貝殻を拾い集めたあと、私のふと言葉にした「砂でお城ってほんとに作れるのかな?」から今度は集めた貝殻を山盛りにしてお城作りが始まる。
「なんか砂の山みたい」
「いやいや、ここから良くなるんだって!」
「えー、ほんとですかぁ?」
ぎゅっと押し固めて、指で窓を掘ってみる。
「惟人さん、窓つきました!」
「いい感じじゃん!」
いやどこがって思ったけど、先に彼がそう言って笑ったから、私もそのまま笑った。
「はー、笑った笑った」
「あっ」
ちょっと高い波に、途中まで作ったお城なのか山なのか分からないそれは、流されてなだらかな傾斜になって、砂浜へと戻ってしまった。
「ちょっと座ろっか」
降りてきた階段に腰掛けて、リュックからタオルを取りだして私に貸してくれる。
手渡されたタオルはふわふわで、砂をつけるのは少し躊躇したけど、隣でしっかり指と指の間まで拭いていたから私もそれを真似して拭いた。
靴を履いて海を見ると、もう日は傾きつつあった。
「嫌なこと、ちょっとは忘れられた?」
タオルを回収してペットボトルの水を代わりに持たせてくれる彼は、まっすぐ海を見て言った。
「全然、そんなこと頭になかったです。すっかり忘れてました」
奏真と遊んでいても百笑と遊んでも、嫌なこと
がこんなにすっぽり頭から抜けることなんてなかったのに。
「私、死のうとしたわけじゃないんです」
「そうなの?……よかった」
崩れ落ちるように頭を抱えて、はぁーっと長い息を吐いた。
「実は……」
ぽつりぽつりと昨日あったことが自然と口から出ていく。
お母さんに会ったこと。
大学には行けなくなったこと。
高校を卒業したら、就職して新しい住処を探して一人暮らしをしないといけないこと。
話すつもりはなかったのに、お母さんの彼氏さんと、お母さんのお腹の中の赤ちゃんと三人で今の私の家で暮らすことまで。
昨日あの家であったこと、全てを彼に話していた。
「そっか。そんなことがあったんだ」
まるで自分のことのように、私の話を涙を流しながら聞いてくれる。
「でも、せっかく見つけた紗綾ちゃんの夢は?お母さんのせいで諦めちゃうの?」
彼が一番引っかかっているのは、お母さんの素行でも、一緒に大学へ通う小さな楽しみが消えたことでもなかった。
つい最近できたばかりの私の夢をいちばん尊重してくれようとしていた。
「三年生になるまでに後悔しない夢の叶え方を探そうかなって、思いました。別に編集者になるだけが『ティアラ』に関わる仕事じゃないですし」
話しながら、海に写ってブヨブヨと歪な形になる夕日を見ながら、きちんと考えた。
正解は分からないけど、今日、ここに連れてきてもらえたから、ちゃんと考えて、確実にやってくる自分の未来と向き合って出した答え。
「そっか。ちゃんと納得した顔してるし、紗綾ちゃんがそう決めたなら僕は応援するよ」
「ありがとう。惟人さん」
ザザン、ザザン。
波の音しか聞こえないこの時間は、正真正銘この世界で二人きりになったみたいだった。
このまま時が止まればいいのに。そしたら、夕日に照らされる惟人さんも、寂しいときに涙を拭ってくれる惟人さんも独り占めできるのに、なんて、ちょっとヒロインみたいなことを思ってみたりした。
「言おうか迷ったんだけど、強制しないから言ってもいい?」
彼が立ち上がって、「もう帰ろっか」と言ったあと、階段をのぼりきったところで振り返って私に一枚の紙をくれた。
「はい。なんですか?」
暗くなってきていてよく見えない紙はそのまま風で飛ばされないようにように掴んで、彼の目を見る。
「今月末、学園祭があるんだよね」
そういえば、お祭りのときに学園祭で発表する歌を書くって言っていたことを思い出した。
聴きたいなと密かに思っていたのだ。
「もうすぐですね」
「うん。そこで新しく書いた歌、披露するんだけど、もし、もしも嫌じゃなかったら遊びにこない?」
恐る恐る、というのが不安そうな顔ですぐにわかった。
「もちろん行きます。行かせてください」
私の返事が予想外だったのか、彼は少し目をぱちくりさせて、まるで小型犬みたいな可愛らしい反応をした。
「ほんとにいいの?無理させてない?」
「はい。久しぶりに惟人さんの歌声が聴けるのに、行かないわけないです」
前のめりになって返事をすると、彼にも私が彼のために無理しているわけではないことが伝わったみたいで、嬉しそうに笑ってくれた。

スマホの地図を見ながら、初めてやってきた大学の門をくぐる。
大学という、ちょこっと敷居が高いところに来たはずなのに、お祭りムードだからか、はたまた綺麗にデコレーションされているからなのか、そこまで抵抗なく中に入れた。
足を進めていくと、そこは高校の文化祭よりも圧倒的に賑やかで、出し物も豪華。
『着きました』
とりあえず惟人さんにメールを送って、いい香りのする模擬店につられてそちらへそちらへとつられて足が動いていく。
お祭りの屋台が出張してきたような、本格的な店舗が並んでいるのが予想外で、思わず写真を撮ってしまった。
『せっかく来てくれたのにごめん!今から当番になっちゃったから、ブラブラ回ってて!』
ちょうど来た彼からの返信は、犬が土下座しているスタンプも一緒に、私の手元に飛んできた。
『了解です!』
そう、敬礼している女の子のスタンプを添えて送って、ポケットの中にスマホをしまった。
この際、もう入れないかもしれない大学の雰囲気をたくさん感じて帰ろう。
グラウンドがあって、そこが駐車場になっていたり、少し開けたところに野外ステージが設置されていたり。
「ミス・ミスターコン!当日飛び入り参加もできますよー」
「日本史サークルの手作り歴史館やってまーす」
「謎解きサークルによる本気脱出ゲーム、参加していきませんかー?」
まるで部活勧誘のような呼び掛けなのに、威圧感がなくてワクワクしてしまう。
「紗綾ちゃん!」
ブンブンと手をふる声の主は、片手にカップに入ったりんご飴を、もう片方の手にはかき氷を持った萩花さんだった。
「萩花さん!お久しぶりです」
手を振り返すと、かき氷の様子を気にしながらこちらへ向かって走ってきてくれる。
あの一件ですっかり若草姉弟が大好きになった私は、次はいつ萩花さんに会えるのかと楽しみにしていたところだった。
「一緒に回ろ!ね、そうしよ!」
りんご飴を手提げのカバンにしまい、ぐっと腕を組んだ。
もう夏並みの気温がなく、ポカポカと服越しに伝わってくる体温がちょうど良くて、心地よかった。
「もちろんです」
グイグイ腕を引かれてやってきたのは、コスプレして写真が撮れるところ。
「ここ見つけたとき、もし会えたら連れてこよって思ってたんだよねー」
そう言いながら、私にかかっている衣装を片っ端から合わせていく。
まるで本当にお姉ちゃんと服を見に来ているみたいで、なんだか嬉しかった。
「紗綾ちゃんの決まり!今度は私の選んで!」
最後のハンガーを戻して、結局どれに決めたのかわからないまま、今度は私が萩花さんのコスプレを選んでいく。
おとぎ話に出てくるようなドレスから、ハロウィンのときによく見るポリスとかナースとかまで、片っ端から合わせていく。
脚が細いから、ミニスカートが良く似合うように感じたけど、鎖骨が綺麗だからドレスもいい。
でもやっぱり、こっちかな。こっちのがしっくりくるかも。
「決まりました」
水色のドレスを手渡すと、彼女がハンガーから取ったのはピンク色のドレス。
「気が合うね、私たち」
そう、嬉しそうに笑ってくれた。
「更衣室こちらになります」
案内された一人一人の簡易的な更衣室で、試行錯誤しながらドレスに着替える。
長いふわふわの裾、お姫様みたいなぷっくりした袖。そのどれもに胸がときめいて、なんだかくすぐったい。
「紗綾ちゃん可愛いじゃん!」
一足先に更衣室から出ていた萩花さんは、恐る恐るそこから出る私を見て、白い歯が良く似合う笑顔で言った。
「ありがとうございます」
萩花さんもよく似合っています。なんて言葉は口からサラサラと出てきてくれなかった。
本当は似合ってなかったとか、そんなんじゃなくて、「似合っている」と一言で言い表してはいけないと思ってしまうほど、萩花さんは綺麗で可愛くて、本当に動物とお話できる世界線を生きるお姫様みたいに見えたから。
「撮りまーす」
結構本格的なカメラと本格的なセットの中で、カメラマンの指示通りのポーズをとる。
萩花さんと背中合わせに座ってカメラから少し目線を外したり、ぷかぷか浮かぶ風船を持ってみたり。
こんな体験、もう一生できないかもしれないから、楽しさを噛みしめながら最後は萩花さんと目を合わせて笑いあった瞬間にシャッターが切られた。
「現像したらお呼び出ししてお渡ししますか?」
着替えたあと、お姉さんが他のお客さんのあいだを抜けて聞きに来てくれた。
「あー、じゃあ、教育学部一年の若草惟人に渡してもらえますか?」
「わかりました。若草惟人さんですね」
「あ、私姉の若草萩花と申します」
萩花さんのテキパキとした話し方とスタッフのお姉さんの対応力が高校生の私からしたらレベルが違いすぎて、聞いていて圧倒された。
私だったら、撮ってもらったくせにどうしたらいいか分からなくて「大丈夫です」って言って逃げるように帰ってしまうのに。
「惟人のところ、行こっか」
「惟人さん何してるんですか?」
慣れたように腕を組み、萩花さんを見上げる。
「小学校のレクを全力でやるんだって」
「へぇ!懐かしい系なんですね」
そんなことを話しながら、教育学部の方へと歩くと、静かな廊下に響く声が聞こえてきた。
「フルーツバスケットっ!」
ガタガタッ!
「まじかよ」
「またー?」
楽しそうな声が聞こえてきて、萩花さんと二人でひょこっと顔をのぞかせる。
あ、惟人さんだ。真ん中に立ってる。
「えーっと、小中高サッカー部だった人!」
彼がそう叫ぶと、男の人が数名立ち上がる。
その隙間をかいくぐって椅子に座った瞬間、惟人さんと目が合った。
「紗綾ちゃん!あ、萩花も」
「なによ、おまけみたいに」
そんな二人の会話に思わず笑ってしまう。
やっぱりこの姉弟、面白い。
私たちの会話が終わったのを見計らってか、クラスメイトの人達が続々と惟人さんの後ろにたって次から次へとものを言う。
まるで学校一の人気者が、たった一人の女の子を呼び出したときみたいだ。
「そっか、紗綾ちゃんは高校生なんだ」
「若草が誘ったんだって?やるじゃん」
そう口々に思い思いの言葉を発し終わったあと、誰かが「せっかくだしちょっと遊んでいきなよ」と教室の中へと招き入れてくれた。
「フルーツバスケット、ハンカチ落とし、チーム対抗の絵しりとり!さあ、どれにする?」
どれも懐かしい響きのものばかり。
でもどれにする?と言われて、ルールが分かるものは絵しりとりくらいしかなかった。
「ハンカチ落とし、やりたいです」
まぁ、やっているうちに思い出すよね。
絵しりとりは二・三人いればできるけど、ハンカチ落としはこれくらいの人数がいないとできないし。
「よし!じゃあ準備するね」
そう、みんな一斉に黒いプラスチック製の椅子を教室の隅に追いやって、まっさらになった床に円になって座る。私たちも一緒に、その円の中に混じった。
「じゃあ最初は若草弟から」
そう、惟人さんがペラペラのハンカチを受け取って、ゆっくりと円の外を回り始めた。
体操座りをして、鬼の動きを見ながらハンカチがあるな、あるなと観察するこの視点でさえ、もう数年前のことで懐かしい。
あ、ちょっと歩くの早くなった。落としたのかな?
そう、後ろを見ないままハンカチがないか確認する。
「惟人、待てやコラぁー!」
ハンカチを持ったクラスメイトの男の人が立ち上がって、楽しそうに走る。
落としては落とされ、逃げれば追われを繰り返しているうちに、気分はすっかり小学生のレクリエーションの時間。
「惟人がそろそろステージの準備で抜けないといけないからラストにしようか」
時計を見た、一番初めにハンカチを落とされた惟人さんの友達の西野さんが言った。
もう軽く二時間もハンカチを落としているのかと考えたら、予想外すぎて笑ってしまう。
「あ、あ、西野さん!」
最後に選ばれたのは私だった。
「うわ、もうバレた!」
もう手に馴染んできたハンカチを握って、落とした主である西野さんの後を追う。
「タッチ!」
意外と近くにいた西野さんの肩を一周しないギリギリのうちに掴んだ。
「じゃあ惟人は、まあ頑張って。お姉さんと如月ちゃんは良かったらまた来てくださいね。来年も時間を忘れて楽しめるような出し物考えるので」
「ありがとうございました。とても楽しかったです」
出入口のドアで西野さんに見送ってもらって、三人でもう日が傾いてきている野外ステージへと向かう。
次の時間まで何もやっていないのか、そこは静かだった。
「あと十分くらいしたらここに上がるから、好きなところで待ってて」
惟人さんはそれだけ言い残して、急いでどこかへと走っていってしまった。
「どうする?屋台とか見て待ってる?」
萩花さんはそう言ってくれたけど、私はここから動く気は全くなかった。
「いえ、最前列で惟人さんの歌い声聴きたいので。ここで時間まで待っててもいいですか?」
せっかく最前列がスカスカなら、場所を取る以外の選択肢がない。
「それはもちろん。じゃあ待とうか」
萩花さんもこの場所を動かない私の隣に立って、惟人さんが出てくるまでの時間、ひたすら喋り倒してくれた。
『大変長らくお待たせ致しました。ただ今から音楽サークルによる野外ライブをスタートいたします』
割と大きめの簡易スピーカーからアナウンスが流れると、最初にステージに上がったのは知らない人達だった。
ギター、ボーカル、ドラム。
バンドの発表らしい。
たまたま持ち合わせていたタオルを回し、聴いたことのある歌を聴きながら、ノっている振りをして頭の中では「惟人さんまだかなー」なんて思っていた。
一組、二組と発表が終わり、六組目でやっと待ちに待った彼が、パイプ椅子とギターを片手に一人でステージに上がった。
「今日は失恋ソングである『恋心』と恋の歌の『月の光』の二曲を披露しようと思います」
セットされたマイク越しに、彼の声が聞こえた。
ジャーン、と静かにギターの音が響いたあと、彼が作詞作曲した失恋ソングである『恋心』が聴こえてくる。
やっぱり「ごめんね」から始まるこの曲は、何度聴いても私の心を震わせて、あの頃ほどではないけど、静かに涙が頬を伝った。
一曲目が終わって少し彼が浅い呼吸を挟むと、また始まる二曲目。この学園祭のために書いた、彼の新曲。

「好き」
そう君に伝えたらどんな顔をするだろう
僕の前で笑った君
叶わない一目惚れ
何度も日々を重ねていくうちに
甘いミルフィーユのように
君への砂糖より甘い思いは積み重なっていく

どこにいても見つけられるんだ
君のこと
目の前を歩いているときに揺れる髪の毛
疲れた顔をしてこっちに向かってくる俯き加減
出会ってまだ日が浅いはずなのに
もうすっかり君名人でしょう?

だから、お願い
僕と付き合って。
絶対に幸せにするから

「好き」
なんてまだ伝えるには早いかな
だってまだ、君の好きだった人に比べたら
同じ時間を共にしたのなんて天と地ほどの差があって
勝手に張り合って
少しでも同じ時間を過ごしたくて誘った夏祭り
君越しに見る花火は
世界で一番綺麗な花火だった

どこにいても支えたいんだ
君のこと
消えたいと思うほど辛いとき
遠くに行きたいと強く強く願うとき
出会ってまだ数ヶ月なのに
もうすっかり気分は君の一番近くにいる人なんだ

あと少し。もう少し
少しでも可能性が高くなってほしい
君が僕の初恋なんだ
だから、今はまだ怖気付いて
いっちょまえに「好きだ」なんて言えないけど
新月の夜に言葉を借りて伝えるよ
「月が綺麗ですね」
そう、月の光を浴びている君へ
いつか届く日が来ますように

すっかり聴き入ってしまって、あとの人の歌声なんて耳に入ってこないまま、ずっと彼の歌が頭の中をループする。
「また泣いてたね」
荷物を全部置いて来た惟人さんの手を取って、無理やり握手した。
「だって、だって惟人さんの歌、最高だもん。新しい曲も胸にジーンって響いて、冗談抜きで生きててよかったって思った」
「ありがとう。僕も紗綾ちゃんに聴いてもらえて、こんなにも笑顔になってもらえて幸せだよ」
そう、握り返してくれた手の温もりを思いっきり感じて、関係者以外は早く帰れと流れ続けるアナウンスの言うことを聞いて、萩花さんと二人でもうすっかり暗くなった帰り道を歩いた。

十月に入って、もうすっかり涼しくなった。
奏真と大事な話をする公園で、今日は惟人さんと待ち合わせ。
ブランコに乗って待っていると、スマホを片手にキョロキョロしている彼がやってきた。
「惟人さん!こっちです!」
「よかった。間違ってたらどうしようかと思った」
よく行っていた公園があるんです、と話していたら、行ってみたい!とイキイキとした一言。
ひょんなことから来ることになったこの公園で積み重ねてきた歴史に、新しい風が吹き込んできたような感覚。
「本当によかったんですか?こんな小さい子が嬉しいような公園で」
大事な場所ではあるけど、それでも高校生にはちょっと色々小さいと思うのが現実だ。
「うん。ほら、このサイズ感とか懐かしい」
滑り始めに手が届いてしまう滑り台。
余裕で足が地面についてしまうブランコ。
軽くぶら下がることさえできない鉄棒に、今は触ることでさえ苦手意識を持つ砂場。
それでも彼は幼い頃の記憶を呼び起こすように、遊具に手を触れ、ゆっくりと目を瞑る。
「今日は大事な話をしに来たんだ。口に出してしまったらもう、あとには引けないような、そんな話」
無邪気な時間をほんの少し過ごしたあと、真面目な顔でまっすぐ私の目を見る。
それはなんだか、覚悟を決めた瞳だった。
「だから今日はカフェとかそんなオシャレなところじゃなくて、自然体で話せるような、こういうところが良かったんだ」
そう、私の隣のブランコにゆっくりと腰掛ける。
キィ……と、子どもの頃には聞こえなかったような金属の音が聞こえてくる。
大事な話って、どんな話なんだろう。
可能性として有り得るのは、告白。
でもそれは自意識過剰かもしれないし、惟人さんと両思いということは考えにくい。
次に有り得るのが、恋人ができた話。
文化祭で見た感じ、惟人さんはどちらかと言うと人気者に分類される人だと一目見てすぐにわかった。
もうひとつは、萩花さんと同じように海外へ留学に行くとか、遠くに行ってしまうという話。
私の思う大事な話はこれくらいだ。
「そんなに思い詰めないで聞いてほしいんだけど、うん。この雰囲気だとそうなるよね」
緊張で黙り込んでしまっている私を見て、はは、と少し自虐気味に笑う。
「僕、人生で初めて恋をしたんだ。一生女性には心が動かないと思っていたから、自分でも驚いた」
そばに置いてある自動販売機の、最近また再販されたコーンポタージュを私に手渡して、自分も同じものを手に隣に座って話し始めた。
彼の初めての恋の話に、温かい缶を両手で握りしめながら耳を傾ける。
「僕の歌を立ち止まって聴いてくれたときから、ずっとしぶといくらい頭の中に居座っていつの間にか僕の中に自分の部屋とか作っちゃったりしててさ」
ねぇ、愛おしそうに話すその相手は誰?
私?それとも、全く知らない誰か?
話し始めてから一度も目が合わないから、全然彼のこちらに対する感情がわからない。
「誰かのために、誰かのせいで、流れる涙でさえすごくすごく綺麗で、こんなこと言ったら不謹慎なのはわかってるんだけど、泣いている姿でさえ、まるでなにかの作品みたいに美しくて、今もずっとずっと頭から離れないんだ」
いつにも増して優しい声色。ふにゃっと垂れる目尻。
その矛先が私に向けばいいのに、なんて、話を聞きながら何度も思った。
私はその人みたいに綺麗には泣けないし、誰かを落とす涙のひとつも持っていない。
彼の心にレジャーシートを引いて居座る図太さも、残念ながら持ち合わせていない。
彼の心を思いっきり揺らす何かを持っているわけでもない。
「どこに行っても、誰との思い出よりも楽しくて、かっこつけちゃうけどふとした瞬間に自然体な自分が出てきちゃうなんて初めてなんだ」
長い長い前置きの末、彼はやっと、小さな間を置いてゴクリと唾を飲み込んだ。そしてまっすぐ、私の方へと視線を向ける。
「好きだよ。紗綾ちゃん」
私ではないと思っていた。ぬか喜びになりたくなくて、期待を感情の奥へ奥へと押し込んでいたけど、今は飛び上がって喜んで、彼に抱きつきたい気分だ。
「私も、惟人さんのことが好き」という、彼の愛のこもった告白にして薄っぺらいかもしれないけど、自分なりの本気の返事をしようと思ったとき、また彼が口を開いた。
「いきなりこんなこと言って、困らせてごめん。もちろん気がないのはわかっているし、こっぴどくふってもらって構わないから」
……カチン。
こんな些細な言葉で、軽く頭にきた。
同時に、本当に恋愛初心者なんだろうな、とも思った。ずっと一人しか好きになってこなくて、やっと次に好きな人ができたばかりの私が思えるようなことじゃないけど。
頭にきたからってもちろん怒るつもりはないし、そんなこと言うなら付き合いません、さようならって帰ることもしないけど。
「あの、ふってもらって構わないって、私、前に惟人さんのことふったりしました?」
肯定でも否定でもない、彼にとっては予想外の言葉に戸惑いが隠せていない。
「ふってくれって言うときは、一度ふられて次の恋に前向きに進むときに、相手を傷つけてでも頼むことですよ。あなたに恋人とか好きな人がいることはわかっている。だけど私もあなたに気持ちがあって、次の新しい扉を開く最後の一歩を踏み出すために、相手を泣かせてでも背中を押してもらうときに頼む言葉なんです」
ごめん、ごめんとこの公園で、泣きながら私をふる奏真を見ているから。
ふってくれって頼むために自分の気持ちを伝えることがどれだけお互いに心を痛めるか知っているから。
初めから諦めたような告白の仕方はしてほしくなかった。
「だって惟人さん、次に好きな人がいて私への気持ちを失いたいわけじゃないでしょ?なんなら、あわよくば両思いで付き合いたいとか思ってる方でしょ?」
ぎゅっと缶を握り締めながら彼に向かって話すと、「はい。その通りです」と真面目な返答が帰ってくる。
今度は惟人さんが黙り込む番だった。
「じゃあ、あの新曲の歌詞みたいに、『だからお願い、僕と付き合って。絶対幸せにするから』でいいじゃないですか。正直、今までで一番情けないですよ」
こんなこと言っておきながら、私も情けないと思う。
せっかく待ちに待った告白に、彼の人生初めての告白に、こんなにも文句ばかり言っている自分が恥ずかしい。
告白される気満々な人みたいになってるじゃん。きっと。
だからここからは心中穏やかにして、私も真面目に話さないと。
ここまで言いたい放題言って、まだ好きでいてもらえる保証はどこにもないけど。でも、私も彼のことが恋愛的な意味で好きなのは事実だから。
「私の中で選択肢って、厚紙の重石を切ったら簡単に空に飛んで行ってしまう風船と同じなんです」
彼にいただきますと一言添えて、熱の抜けたコンポタを振ってプルトップを開けた。
「うん」
彼はわけが分からないというように、少し斜めを向いて頷いた。
「夜ご飯の候補にハンバーグとオムライスが上がったとして、ハンバーグに決めたらオムライスの方の重石を切って空に飛ばすんです」
更に顔をゆがめて、首を傾ける。
でも、この話は自分の中で結構重要な話。
「海、行ったじゃないですか」
「うん。行った」
理解が追いついていないのが目に見える返事を聞き流して、話を続ける。
「あのとき、風船飛ばしたんです。進学の風船と、ずっと変わらずにあの家で暮らす風船。あと、母親を待つ風船」
有効期限は一晩。一晩飛ばしてしっかり考えて、そのまま飛ばしてしまうのか、やっぱりつなぎ止めておくのかを考える。
それがすぎて、やっぱりって思ってももう、手の届かないところにあるからキッパリ諦める理由になる。
あの日手放した三つの風船は、もう手元に戻ることはない、戻せない決断。
「でも、この先もずっと、どんな内容の風船を手放しても、惟人さんだけは手離したくないです。もし仮に空気が抜けてしまったとしても、何に変えても空気、入れ直す自信があります」
散々彼に文句をつけておきながら、私も結構回りくどい返事の仕方をしたと思う。
それこそ本当に、普通に「私も好きです」と言った方が可愛く居られただろう。
ここで「ごめん、やっぱり君とは付き合えない」とふられても仕方ないと頭でも心でも理解していた。
「何年後、何十年後も、一番近くで楽しいことも辛いことも惟人さんと二人で分け合っていきたいです」
相手の気持ちを聞いたあとなのに、相手と同じ自分の気持ちを伝えるのもここまでドキドキするものなのか。
さっきまでは普通だった、コンポタの缶を握る手が震えているのが見なくてもわかる。
「僕も、紗綾ちゃんの隣で一緒に、笑顔になれる道を歩くための風船を一緒に選びたい。この先ずっと、紗綾ちゃんを笑顔にするのは、辛いことを半分こできるのは、僕がいい」
あんなに難しそうな顔をしていたのに、きちんと理解した上で彼は言葉を紡いでくれている。それが嬉しくて、心が通じあったことがますますその気持ちが増していく。
「そのまんまかよって思うかもしれないけど、聞いてほしい」
ブランコから降りて、私の目の前にしゃがんだ彼と目を合わせる。
吸い込まれてしまいそうだった。
その綺麗な瞳に、その瞳からも分かる彼の熱い気持ちに。
「初夏に出会ってから、今日まで。ずっとあなたが好きでした。これからは彼氏として、あなたへの気持ちを積み重ねていきたいです。僕と付き合ってください」
「はい。よろしくお願いします」
全然そのまんまじゃないじゃない。
すごく、すごくまっすぐ飛んでくる彼の気持ちに、ときめきすぎて胸が苦しい。
「やった……!ありがとう、紗綾ちゃん、ありがとう。絶対幸せにする」
ぎゅうっと抱きついてくる、惟人さん。
今日から私の彼氏の惟人さん。
昨日より、つい数分前より、今この瞬間が何百倍も愛おしい。
こんな気持ち、知らなかった。
「私も、惟人さんのこと世界で一番幸せにします」
彼の、思ったより広い背中に手を回した。
甘いいい匂いがして、思わず肩に頬ずりしてしまう。もうこのまま、離れたくない。
五分、十分。もしかしたら、もっと長い時間。
だんだん薄暗くなっていく公園で、静かに抱き合ったあと、ゆっくり離れるときに逃げていく温度が寂しさを感じさせた。
「帰ろっか。送る」
少し照れくさそうに言う彼に、私も少し照れてしまう。
公園を出る前、当たり前のように繋がれた手が、冷えた外の世界でさえも温めてくれた。
それは、星がよく見える新月の夜。大事な公園が運んでくれた、幸せの日。