彼が転校してきたのは、春のこと。
 この世の負という負を背負ったような彼の名は――――。

 桜が舞う季節。万物、咲いた後はすべからく散る。桜でも、――――桜じゃなくても。
 ひとたび枝から離れた桜を目で追うのは難しい。
 枝を離れた一片は、多くの花弁と交じり合いはらはらと不規則な軌道を描いて大地を抱く。ようやく手に入れた自由を掻き抱くように、自分の意思の方向を確かめるように、美しく思い思いに宙を舞う。
 私――――平野瞳は、桜はくぐり慣れた正門の錆びた門扉にひっかかった乳白色の一片をひとさし指で掬うと、そっと宙に放した。触れ慣れた鍵盤と似た色だが、明らかに違う。薄いしっとりした触り心地だった。きっと枝を離れて間もない花弁だろう。再び自由を得たそれは、じぐざくに不規則な軌道を描きながら、やがて地面を覆う白い絨毯の一部となった。明日の今頃には何の感慨もない靴底に踏まれて茶色く変色してしまうのかと思うと、なんだか寂しい気持ちになる。
 今日から中学三年生。クラス替えの模造紙を確認して、二年二組の教室に向かう。ホームルームで担任の本間先生は言った。
「今日は転校生を紹介します。……入って」
 一瞬教室がざわつく。好奇と期待が混じった高揚した空気が漂った。転校生というだけで、何か特別な感じがする。私はごくりと唾をのみ込んだ。そういえば、隣の席は空席だ。窓側の一番後ろの席。その意味を理解する。
 そんな中、促されて入室してきた子は、予想に反して至って普通だった。
「斎藤俊です」
 声も小さい。身長も、クラスの女子の中でも真ん中くらいである私よりも、いくらか小さい。ボサボサの髪を目の下まで伸ばしていて猫背。教室内の空気が一瞬にして沈静化するのがわかった。
「斎藤君は教科書がまだそろっていないそうなので、そうですね」本間先生は名簿を一度確認し、「平野さん、見せてあげてくださいね」
 名前が呼ばれて反射でドキッとする。隣の席に腰を下ろした斎藤君は、会釈でもしてくれるかと思ったが、ただ黙って机の上に組んだ両手を見た。
「私じゃなくてよかった」
 休み時間、女子たちの話し声が聞こえてくる。スクールカースト上位の鈴木さんだ。彼女はクラスでも指折りのませた女子だった。縮毛矯正も、眉毛をそることも校則で禁止されているのに堂々と違反している。それに、スカートだって膝下五センチと決められているのに、彼女の場合、完全に膝小僧が見えていた。
 鈴木さんと目があうと、彼女はバツが悪そうに眼をそらした。彼女の言葉を思い出し、合点がいく。きっと、斎藤君に教科書を見せる係が自分じゃなくてよかったと言っていたのだろう。私はこっそりと隣の席を見やる。私に聞こえていたのだから、斎藤君にも聞こえていておかしくはない。しかし、斎藤君は黙って机の上に組んだ手を見つめていた。手と手を組んで、親指の爪で、人差し指にばってんを刻印している。私は、黙って視線を前に戻した。
 始業式の今日は、午前中までで下校となる。帰宅部の私は、一人で下足箱へと向かった。卓球部の佐藤さんと高橋さんがこっちを見て何やら話している。
「うざいんだよ!」
「聞こえるよ、きゃはは」
 わざとだ。私にはわかっていた。――私は二年生の三月で卓球部を退部した。下級生へのいじめまがいのシゴきに耐えられなかったからだった。私が所属していた卓球部に限らず、私の通う中学校には大なり小なり、上級生による下級生へのシゴきが散見されていた。一年生の時にはおとなしく耐えていたが、いざ自分たちがシゴきをする立場になり、私の精神は崩れていった。しかしシゴきをやめようと提案などしようものならば、シゴきをはるかに上回るいじめが待っている。
 理不尽だ。中学生になって上下関係というものをはき違えているんだ。私は常々そう思っていた。小学生時代には存在しなかった、先輩後輩という概念に酔っているだけの愚かな行為――――。
 そして私はは卓球部を逃げるように辞めた。正々堂々と辞めてもよさそうなものだが、私の中では、裏切り行為のように感じられ、結果こそこそと退部する形になった。そして、今に至る。仲間じゃなくなった瞬間から、卓球部員たちの私への態度は一変した。もともと、影の薄い地味な部員、気弱な優等生という位置づけだった私だが、今では裏切り者としてまるで罪人扱いだった。
 言い返したい。なぜ、退部しただけで、そんなに酷い言葉を投げかけられなければならないのか。しかし、私は口論が得意ではない。相手はいじめっ子で有名な佐藤さんと高橋さんだ。負けると分かって戦は仕掛けない。そのまま、元は白かった通学靴をひっかけて足早に玄関を出た。
「逃げんのかよ!」
「裏切りもの」
 口ぎたない言葉が背中を刺す。音は耳から入ってくるはずなのに、痛むのはみぞおち付近だ。そのまま、ふたりから逃げるように小走りで校門を目指す。校門を過ぎて左折し、川沿いの小道に出る。そこで左足の靴紐が解けかけていることに気づいて、しゃがんで結んだ。顔を上げると、見慣れない姿が近づいてきていた。――――転校生の斎藤君だ。彼は相変わらずの猫背のまま、のそのそと歩いている。小柄なのに、動きがしゃきっとしていないせいで、もっさりとした印象を与えていた。
「あ、ごめんね」
 私は、自分が道をふさいでいることに気づき、端に寄った。しゃがんだまま動いたため、茶色い桜の絨毯を蹴散らす形になる。斎藤君は無言のまま通り過ぎた。
 私も立ち上がり、歩き始める。小道といっても未舗装の砂利道だ。私の住む町は田舎の集落の一角だったので、このような細い小道がたくさんある。
 それにしても――――彼、歩くのが遅い。猫背が近づいてきたところで瞳は歩く速度を緩める。そして遠ざかるのを待って、普通に歩き始めると、また気づいたら猫背が目の前にある。その繰り返しだった。小道を抜けた先の三叉路で、斎藤君が逆方向に向かうことを祈った。そうしたところで、猫背がぴたっと止まる。そして路肩にしゃがんだ。何をしているのか、首を伸ばしてみると、そこには白黒のぶち猫がいた。なかなか人に懐かない野良猫。私も一度撫でようとしたら逃げられたことがある。とても気難しい猫だ。そのことを、斎藤君は知らないのだ。しかし――――ぶち猫は斎藤君の手のひらを受け入れた。
「え」
 私は驚いて声を上げていた。するとぶち猫は引き波のように、逃げてしまった。
 あとには固まったままの私と、そんな私をしゃがみこんだまま見上げる斎藤君が残された。
「あ、ごめん」
「別にいいけど」
 斎藤君はこともなげに立ち上がった。気まずくて、私は頭の中から必死に言葉を探す。浮かんでくるのはどうでもいいような話題ばかりだ。その中から比較的ましなワードを選んだ。
「猫好きなの?」
「別に」
 斎藤君は歩き出す。私は、どうしたものか考えて後をついていった。
 小道が終わり、車道に出る。その三叉路でも、斎藤君は私の家と同じ方向へと進んだ。追い越してひとりで歩き出そうかとも思ったが、それも少しぶっきらぼうすぎる気がして、声をかけた。
「どこから引っ越してきたの?」
「山形」
「遠いね!」
 佐賀県から出たことがない私にとって、山形はまるで異国のように感じられる。
「山形ってどんなところ?」
「知らない」
「え」
「一年も住んでなかったから」
 斎藤君はぼそぼそと話す。
「その前はどこに住んでいたの?」
「東京」
「東京には長くいたの?」
「中二の五月まで」
「それから山形に?」
「そう」
「学期の途中から転校したの? 珍しいね」
 そこで斎藤君の動きが一瞬止まった。
「姉ちゃんが死んだから」
「え」
 今度は私が動きを止める番だった。
 そのまま、私が固まっていると、斎藤君の背中は見えなくなってしまった。
『死』それは私の中では、遠い世界の話で。毎日ニュースを見れば、事故や事件で亡くなった人の話題は出る。しかし、身近な人の死について経験したことのない私にとって、それはどこか一枚膜を隔てたところにある事象だった。私は自分のことを年齢以上に大人だと思っている。だからこそ、同級生の幼稚な嫌がらせにも耐えられた。男子なんて女子以上に幼稚だ。しかし――――。
 何だろうこの気持ちは。
 目の前の冴えない斎藤君が急に大人びて見えた。
 自分が経験したことのないことを経験しているということに、不謹慎ながらも憧れを抱いてしまった。

 授業中、マス目状に等間隔に座席が並ぶ中、教室の左後ろの二席だけが、ぴったりとくっついている。――――私と斎藤君の席だ。
 時折、斎藤君の右腕が私の左腕にあたる。右利き同士だから当然のこととはいえ、まるで体中の神経が左腕に集中してしまったかのように、そこが気になって仕方がなかった。
「次のところから、平野さん音読してください」
 国語の先生に指名される。私の顔面がこわばる。左腕に集中していたせいで、話を全く聞いていなかった。立って先生に謝ろうと思ったところで、視界の隅で何かが動いた。
 斎藤君の右手の人差し指だった。とんとんと動き、そして教科書の一点で止まる。反射的に斎藤君の顔を見た。しかし、斎藤君は何事もないように黒板を見ている。私は、教科書を拾い上げ、音読を始めた。――――斎藤君の指し示してくれた段落から。

 それから一週間ほどで斎藤君の教科書が揃い、腕と腕が触れ合うこともなくなった。そして、ほどなくして――――私のクラスは一か月ごとにくじ引きで席替えをするため、斎藤君とは離れ離れになった。

 蝉の鳴き声が帳のように校舎全体にのしかかる。あと一週間で夏休みだった。
 今日の体育の授業はプールだ。今年は梅雨が長く、プールの授業はことごとく延期。今回が今年初めてのプールだった。
「斎藤、お前なに隠してんの?」
「タトゥーあんの? タトゥー!」
 ふと、男子の集団に目をやる。斎藤君は相変わらず猫背だった。その右肩を左の手のひらで抑えている。そして、その手を複数人の男子が、はがそうとしていた。
「え、なに?」
「斎藤がタトゥーしてたらマジウケんだけど」
 この三か月で斎藤君のクラスカーストはほぼ固まりつつあった。客観的に見ても、かなり底辺寄りだ。私は横目で男子のやりとりを見ていた。正面では女子担当の体育教師がハスキーな声で説明をしていたが、まるで耳に入らない。
 駄目。――――心がざわついた。彼の左手を無理やりはがしてはいけない。なぜか胸騒ぎがした。そんなときだった。
「げー! なんだこれ」
 ついに斎藤君の左手をとらえた男子のひとりが声を上げる。
「歯形? 歯形じゃね? これ」
「なに? え、まさか斎藤彼女いたの?」
「うそだろ! おとなしそうにして実は彼女いんの?」
「ムッツリだ!」
 斎藤君は捕らえられた宇宙人のように左手首を握られたまま、じっと足元を見ていた。まわりの男子たちが勝手に盛り上がっている。瞳は突き動かされるように走りだした。
「やめなよ!」
 声の主である自分が一番驚いた。私は、男子の集団に向かって、大声を上げていた。
 長い前髪が揺れ、斎藤君の両目があらわになる。目と目があった瞬間、体中に電流が走った。
 こんなこと、生まれて初めてだった。

 当然、私は体育教師にこっぴどく叱られた。「プールサイドでは走らない」「先生の説明中に列から外れるなんて」……当然のことだ。しかし、だったらなぜ男子の喧騒は止めなかったのか? と怒りに似た感情も芽生えた。この怒りは誰のためのものかと考えた瞬間、斎藤君のことになると熱くなる自分に気づかされる。そして慌てて頭からかき消した。そうだ。人の嫌がることをする男子の無神経さが許せなかったのだ。そうに決まっている。被害者が斎藤君であろうと、他の誰かだろうと――――。

 いつもの一人の帰り道。私は例の小道をとぼとぼと歩いていた。内申に傷がついたらどうしよう。今年は受験なのに。そんなことを思いながら歩いていると、背後から影が近づいてきた。私が道を譲ろうと端に寄ったときだ。
「なんであんなことしたの」
 明らかに自分に宛てた声だった。顔を見るまでもない。斎藤君の声だ。今日のプールの授業中のことを指しているのだろうと、私は頭を下げる。
「ごめん」
「別に謝ってほしいわけじゃなくて」
「……ごめん」
 これ以外の言葉が見当たらなかった。
「まさか、斎藤彼女いたの?」という、男子の声が蘇る。みぞおちがギュッとした。自覚すると、とたんにあの噛み痕の正体が気になって仕方がない。まるで呪いにかかったみたいだ。
 気づけば、自然と斎藤君の右肩を凝視していた。慌てて目をそらすが、斎藤君はすべてお見通しと言わんばかりにクスリと笑った。
「これ、気になる?」
 噛み痕のことだ。彼は自身の右肩を愛おしそうに撫でる。妖艶だと思った。
 私は何も言えず、蛇ににらまれた蛙のように、黙っていた。
 蝉時雨が頭に肩にのしかかる。呼吸を忘れる。まるで鼻の下まで水に浸かったときのように息が吸えない。その時、厚い雲が太陽を隠した。辺りが暗くなる。目の前には両腕を伸ばしたような森。世界に斎藤君と自分のふたりしかいないような錯覚に陥る。
 と、彼はいきなり夏服のシャツを脱ぎ始めた。そして、あろうことか、インナーシャツの肩部分を曝け出す。私の喉がこくりと鳴った。足が自然と動きはじめる。一歩、二歩。もう斎藤の肩が目の前にあった。
「触れていいよ」
 斎藤の声が鼓膜をくすぐる。それほどに近い距離に彼の唇はあった。思ったよりも背が高い。しかし私の視線は彼の肩の傷跡にくぎ付けになっていた。
 古い傷のようだった。少なくとも一年以上、前の。一年以上――――。
「姉ちゃんがやったんだよ」
 斎藤の言葉を額で聞く。視線に質量があるならば、きっと私の視線は彼の肩に穴をあけているに違いない。震える右手の指をおそるおそる近づける。触れると案外すべすべしていた。赤黒い肉が隆起したまま固まっている。
「姉ちゃんはね、苦しみながら死んだんだよ。末期だったんだ」
 末期。――――癌だろうか。
「寝たきりだし、食事もとれない。筋肉もエネルギーもとうに尽きているだろうに、恐ろしい力で暴れまわるんだよ。骨と皮の身体全体で。痛々しいなんてもんじゃない。俺は咄嗟に抱きしめた。姉ちゃんの魂がどこにも飛んでいかないように」
 普段は白い鍵盤の上を踊る指が、今は赤黒い傷跡をくるくると撫でている。
「全身ががくがく震えた。姉ちゃんの体も俺の体も震えてた」
 唐突に傷跡の隆起に爪を立てたくなる。文様を掘る私を、彼はしたようにさせていた。
「姉ちゃんは俺の肩を噛んだ。ものすごい力で噛んだ。赤黒い血が出た。知ってる? 静脈血は鮮やかな赤なんかじゃないんだよ。赤黒いんだ」
 抱きしめる。生命の叫びを受け止める方法に、斎藤君は抱きしめることを選んだ。だとすれば、今私がすべきことは。
 私の両腕が自然と持ち上がる。
 しかし、突然目の前の斎藤君が、人間じゃない何かに見えた。
 何か――――違う次元にいるような。私は唐突に孤独感を覚えた。
「姉ちゃんも俺も叫んでた。気づいたら叫んでた。生命の叫びだ。騒ぎに気づいた家族と看護師さんが駆けつけてね、家族同意の上でモルヒネを打ってもらったよ。生命の灯がだんだん消えていくんだ。花火のようだとかろうそくのようだとか、そんな美しいもんじゃない」
 だから、私は――――。
 気づいたら自分の右手の甲を噛んでいた。
 ピアノを弾く、大事な手の甲を。
 斎藤君の、分厚い前髪の奥の双眸が見開かれる。
 私も一瞬遅れて刮目した。右手が焼けるように熱い。頬を涙が濡らす。泣いたまま、彼の身体を掻き抱いた。斎藤君はされるがままだった。私のことを抱き返してはくれない。私は泣いた。嗚咽した。
 そのまま、日が暮れるまでそうしていた。

 夕暮れの歩道をふたつの影法師が並んで歩く。斎藤君の白いシャツの下には、私の右手から流れた血で汚れたインナーシャツがある。それも裾が破れたインナーシャツが。
 あの後、斎藤君は自らのインナーシャツの裾を裂いて私の右手を手当してくれた。
ふたりとも一言も発しない。そして、右手に布を巻き終えると、ふたりはどちらともなく歩き出した。
 帰宅後、右手を見た母親が仰天して、近所の病院の夜間外来に連れていってくれた。
 月の光に白い包帯を照らす。この傷がふさがるころには、私も大人になれているだろうか。あちら側の人間になれているのだろうか――――。

 紅葉が色づき始める季節。
 私は木漏れ日に右手を照らして見る。赤黒く盛り上がった肉と、引き攣れがあった。それをうっとりと撫でる。私の左手の指の腹に、まだがさがさと粗い傷跡が触れた。
 授業中、ペンを動かすたびに視界に入るその勲章に私はうっとりと頬を染める。そして、ちょうど黒板と自分の席を結んだ線上に、彼の後ろ頭が見えた。ぼさぼさの黒い頭が。
 あのことがあって以来、私は斎藤君を視線で追うことが多くなった。一日に数回は彼と目が合う。もともと無表情な彼のことだから、例にもれずにこりともしてくれない。それでも私の心は満たされていた。
「ねえ、瞳ちゃん。放課後の日直当番代わってくんない?」
 珍しく鈴木さんが私に声をかけてくれたかと思えばこれだ。もともと期待していなかったが。そして、ええかっこしいの私は断ることができない。「“いつメン”でカラオケに行く」んだと。クラスの半数ほどが盛り上がっていた。この田舎町での娯楽といえばカラオケくらいしかない。
 放課後の教室で、私は黒板を消していた。男子の日直は誰だったか。大村くんだったか。そんなことを考えていると、日直日誌を持った男の手が視界に入ってきた。
 斎藤君だった。
「なんで?」
 私は目を見開いた。だって、今日は斎藤君じゃない。斎藤君の当番の日は、すべて把握しているから。すると、斎藤君は彼の席に座って日誌を開いた。
「大村から頼まれた」
 なるほど。大村君も“いつメン”だったのかと合点がいく。
 日直当番は男女ふたり一組で担当する。放課後にすることは、教室の前にある黒板と背面黒板をきれいにして日誌を書いて職員室に届けることだ。私は、慌てて背面黒板を掃除すると、彼の前に立った。彼の前の席を借りて座ろうかとも思ったが、他人の席に座るのは、なぜか気が引ける。相手から「平野ごときが勝手に座ってんじゃねぇよ」とか「あいつの下着が自分の椅子に触れたなんて気持ち悪い」とか思われたら嫌だと、つい悪い想像をしてしまう。しかし、目の前に黙って立たれているのは、斎藤君としても居心地が悪いだろう、そう思い、彼の表情を伺おうとする。斎藤君はいつも姿勢が悪い。今も机に張り付いたような恰好で日誌を書いていた。ここからだと後頭部しか見えない。その向こう側で、彼の右手のペンがすらすらと日誌の表面をなぞる。筆圧が強そうな、かくかくした字。男子の字。
 気づけば、私は右手を伸ばして日誌に触れていた。彼の手によって傷つけられた日誌の表面に。文字の跡は、少しへこんでいた。ぽこぽこと凹凸が心地よい。彼はそんな私の右手の人差し指をしばらく見たあと、何事もなかったかのように続きを書き始めた。
 彼の右手。その手首、腕と遡った延長線上には、噛み痕がある。あの日見た、赤黒い噛み痕が。彼の姉がつけたという――――。
 気づけば私は、彼の右肩に噛みついていた。
 彼が私の両肩を持って引きはがす。
 視線と視線が絡み合う。
 その瞳に、灯がともっていた。
 ――――拒絶。
 二人分の荒い呼吸音。遠くに運動部の掛け声。チャイムの音。
 彼はそのまま日誌をひったくるように持ち上げると、逃げるように教室を出ていった。

 私が我に帰ったのは、次のチャイムが鳴った時だった。
 十分も呆けていたことになる。
 私は自分の右手の甲を見た。引き攣れた赤黒い、醜い傷跡。
 急に頭の芯が沸騰したように熱くなる。
 私は自分の右手のこぶしを何度も机に打ち付けた。斎藤君の机に。じんじんと痺れてくる。そうだ。こんな手はいらない。私の右手じゃない。私は教卓の筆立てからカッターナイフを乱暴につかんだ。利き手じゃない左手に持ちかえる。そして、左手を振り上げ、右手の甲に向かってたたきつける。
 鈍い音が響いた。
 机の表面を水滴が濡らす。赤茶色の木目にぷくりと浮かんだ水滴は、まるで血のようだった。
 右手のすぐ脇、机の表面には、カッターナイフの刃が深々と突き刺さっていた。私はその場にしゃがみこみ、声も出さずにわんわん泣いた。

 三月十四日。卒業式だ。あの一件以来、斎藤君と私は一言も話していない。視線が交差することすらなかった。風の噂では、斎藤君は町の外の県立高校に進学するらしい。私とは違う、県立高校に。私も彼も同窓会に顔を出すようなタイプではなさそうだし、今日を最後にもう会うこともないだろう。左胸にリボンを付けた彼を横目で見た。なんだか、しばらく見ないうちに背が伸びたようだった。私よりも十センチ近く大きいだろう。
 放課後、私は生徒玄関へ降りた。下駄箱のフレームにはシールの跡がある。私のネームシールはもうきれいに剝がされている。私がここを使っていた痕跡は何もない。何もないのだ。
 外に出ると、目の前に両手を広げた阿修羅像のような桜の木があった。蕾が何百何千と見える。人間も、あの蕾と同じ。私も、彼も。同じ中学を出て、花と散って、最後には茶色くなって土に還る。何も特別な存在ではない。少し人より大人でも、遠くから眺めればみんな同じ。
 小道に出る。桜の並木道をひとりで帰る。高校からはバス通学だ。この小道を通ることももうしばらくはないだろう。下手すればこの先一生ないかもしれない。
 見上げる。日光が放射状に色とりどりの線を見せる。ああ、まぶしい。
「また泣いてんの?」
 声に振り返る。振り返らなくても誰だかわかる。私の――――。
 少し高い位置にある彼の双眸は相変わらず前髪に隠れている。
「あなたの心に噛みつきたい」
 彼の前髪が風に揺れる。
「心に噛み痕をつけたいんだよ」
「うん」
「どうしたらいい?」
 私は両手で顔を覆った。
 木々の合唱が額を撫でる。
「付き合っちゃえばいいんじゃない?」
「え」
 私は顔を上げた。
「彼氏とか彼女とか正直わかんないけど。正直かたちとか、みんながどうしてるかとか、どうでもいいし。なんか平野さんとだったら真剣に向き合えるような気がする」
 正直驚いた。彼の中には、お姉さんの影が深く刻印されていると思っていたから。それこそ、彼の右肩にある刻印のように。
「お姉さんのことはいいの?」
 問えば、斎藤君は不思議そうな顔をした。
「姉ちゃん?」
「だって……」
 どう説明したらいいのかわからない。そう。彼と彼のお姉さんの間に姉弟愛以上のものを感じて嫉妬していただなんて、そんなこと言えない。死んだ人相手に、生きている自分がどう戦えばいいのかわからなくて迷走していただなんて、そんなこと。
 私が黙っていると、斎藤君はすべて理解したと言わんばかりに、「ああ」と何度も頷いた。
「俺、姉ちゃんのことは大好きだったけど、それはそれでしょ?」
「……そうだね」
 恥ずかしかった。彼の中のお姉さんを、チープな感情で穢したような、そんな罪悪感でいっぱいだった。軽蔑されても、絶交されても仕方がないようなことをした。
「ごめんなさい」
 私はいたたまれなくなって背を丸めた。
 頭の上で、「ふっ」と息を抜くような声がする。
「勝ち負けとかないし。なに姉ちゃんに対抗してんのさ」
 口ではそう言っていたが、彼は笑っていた。
 そんな顔もできるんだね。斎藤君。
 これから私の知らないたくさんの斎藤君が私の心に刻印をつけていくことだろう。
 それが少しでも長く続きますように。――――。

 私は今、ベッドの上にいる。
 もう長いこと天井しか見ていない気がする。その天井も、今では霞がかかったようにうすぼんやりとしている。気づけばいつの間にかうとうとしているから日付の感覚もとうに失せた。
「瞳さん」
 名前を呼ばれ、眼球だけを動かす。
 そこには斎藤君がいた。髪も白くなったし、ずいぶん皺が増えた。
 彼は私の右手を両手で包み込んでいた。
 果たして、私は彼の心に刻印をつけることができただろうか。
 病室の窓の外には満開の桜がある。ああ、ああ。散って土に還るときが来たのだ。
 彼は私の薄っぺらな身体を両腕で包み込んだ。私の涙が彼の右肩にしみを作る。
 私の身体は朽ちるけれど、彼が覚えていてくれる限り、私の魂は生き続けるのだ。それが、刻印。
 ああ。
 瞼の裏で、斎藤君が呼んでいる。
 あの日の――――斎藤君が。
 行こう、一緒に。そして、永久に。あなたとともに。

 了