教師は黒板の上にある時計を見た。

「じゃあ、これで委員会終わり。チャイムが鳴ったら戻っていいから、それまで教室にいてねー」

 教師が教室から出ていった途端、集まっていた委員は心持ちだらりと体勢を崩して、好きなことをし始めた。教師に預ける決まりになっているため、スマートフォンは手元にないはずだが、スマートフォンを出している生徒もいる。県内でも偏差値の高い高校であるが、それでも、決まりを破る人物は、一定数いるものだ。
 それらを見て見ぬふりをして、アオは机の上で腕を組み、背を丸める。

「アオさん。昼、ごめんな」

 だが、机に突っ伏す前に、同じ委員をしている喜多野が、また申し訳なさそうに話しかけてきた。あの一瞬のやり取りでは気が済まなかったらしい。

「あぁ、全然全然、気にしないでください。喜多野くんが悪いんじゃないですし、そもそも、気を悪くしてもいませんから!」
「でも、落ち込んでなかった?」

 気遣うような目を向けられた。無意識に泣きぼくろに目を惹きつけられながらも、アオは笑って軽く手を振った。

「あれは単に、進路のことで気が重くなっていただけです! 私も進路、決まってなくて……。考えるだけで息苦しいなぁ、なんて考えてただけですので」
「あぁ、分かる。考えなきゃなとは思うんだけど」

 永久就職などと言われたことよりも、進路についての話の方が気にかかる。姿勢を正して、アオは問いかけた。

「喜多野くんもお悩み組ですか?」
「うーん。俺も大してやりたいことなんかないし、たぶん、最終的には黄浦大に行くことになると思うんだけど……。色々話聞いたり調べたりしてると、本当にそれでいいのかって悩む、って感じ」
「ですねぇ。私も……」

 安易に同調しかけたが、直前になって迷いが出て、曖昧にごまかした。
 同じ進路の悩みには違いないが、自分の悩み方は、恐らくは喜多野とは性質が違う。
 何かを察したように、喜多野は微笑んだ。

「アオさんは、やっぱりここに留まる予定?」
「そう、ですね。……いえ、それも、実は悩んでいるんです」

 委員会の会場になった教室は、二年生の教室だった。
 主である「椿」とは、組からして違う。この机は全く関係のない誰かの机だ。だが、何となく面影をなぞるように、机を撫でてしまう。

「昼はちょっとごまかしてしまいましたが、椿さんとの関係を今後どうするかは、悩みの種で。とは言っても、まだあまり考えられてはいないし、椿さんと話せてもいないのですが……うん。中々、一生今のままという訳には、いかないでしょうしね」
「ちょっと、えーっと、特殊、だもんな」

 相当言葉を選んだ雰囲気に、申し訳なさを感じながらも、笑ってしまった。

「あはは。すみません、おかしな人間で」
「おかしいと言うか……いやごめん、あんまり否定できないけど」
「大丈夫ですよ。下僕を自称する人間は、現代では変であるべきです。椿さんにもずっと止めろと言われていますし」
「止めろって言われてんの?」
「はい。忠臣と言うには未熟ですし、とは言え他に納得のいく立ち位置も見つからないので、今のところ聞く気はありませんが」

 しいて言えば家族だが、それは、椿とアオという二人についての説明としては、やや複雑な事情を伴う。友達や幼なじみでは、アオの中にある椿への忠誠や恩義を説明できない。主と下僕という関係性が、アオにとっては最もしっくりと来る呼び方だ。

「でも、俺はいいと思う」

 下僕という自称に触れた時、良いと言われたのは初めてで、アオはまじまじと喜多野を見てしまった。

「その、ちょっと変なところが一番、アオさんらしくて。いいと思う」

 喜多野の頬は赤くなっていった。

「……語彙少ねぇ」
「何か……ありがとうございます? まあ何であれ、喜多野くんに褒めてもらえると、嬉しいです」

 喜多野とは縁があるようで、三年間、委員会やクラスでの活動などで、一緒になることが多かった。今も教室では隣合わせの席になっている。
 喜多野にとってのアオは、多くの友人の一人なのだろうが、アオにとっては、学校で最も仲が良いという人物と言っても、言い過ぎではなかった。その数少ない友人が、奇異な視線を向けられがちな自分の振る舞いに対して「らしくて良い」と言ってくれるのは、素直にありがたい。
 喜多野は曖昧に相槌を打った後、気を取り直したように、まっすぐにアオの目を見た。

「でも、だから、進路で迷ってるのは意外。そんなに椿さんのこと、大切に思ってるのに」

 答えようとすると、チャイムが鳴った。委員長が「解散」と言う前に、皆立ち上がって教室から出ていく。
 アオと喜多野も教室を出た。
 委員会終わりの生徒たちが、自分の教室に戻るために慌ただしく歩いている。この後は掃除をして帰るだけだ。
 見つけたとしても、学校では話しかけないようにと命じられているので無意味なのだが、癖で、椿の姿を探してしまう。
 だが、喜多野に軽く肩を叩かれた。
 何か言いたげな雰囲気だったが、中々口を開かない。首をかしげながら喜多野についていき、廊下の端で立ち止まったのに合わせて、アオも立ち止まる。
 段々と廊下の人混みは増していく。

「今度、休みの日に、一緒に黄浦の書店まで行かない? 進路選択の参考になる本とか、あると思うし」

 増えていく足音に紛らわせるような、低い声だった。
 アオが答える前に、喜多野は歩き出す。
 アオにとっての喜多野は、学校で最も仲の良い相手だ。
 ただし、休日に一緒に出かけたことはない。休日まで一緒にいたくないという話ではなく、アオの場合は単純に、考えたことがなかった。高校に入るまでは友達らしい友達がいなかったので、休日に一緒に出かけるという思考がなかったのである。
 そして、今、初めてその選択肢を提示された。
 すぐには、どう言っていいのか分からなかった。まず、自分にとっては大切な友人に違いないが、喜多野にもきちんと友人と思われていたことに安心した。ただ休日に遊びにいく程だろうかと思う。それ自体は嬉しい誘いだが、特に他意はなくとも、異性だ。問題とまでは言わないが、気を遣う。
 そこまで考え、そうか、とひらめいた。

「あぁ、みんなで、ですか。びっくりした、二人きりかと」
「いや、二人きりで、だけど」

 背を向けられていたので、喜多野の表情は見えなかった。

「「椿さん」との用事とかあれば、もちろん、断ってもらって大丈夫」

 自分たちの教室の出入り口をまたぐところで、そう言われた。
 何も答えられないまま、自分の席まで戻る。喜多野も隣に座った。
 スケジュール帳を見なくとも、椿の二週間程度の予定は頭に入っている。いくつか何の用事もない日があった。一応個人的な予定はあったが、あとに回しても特に困りはしない、ささいな用事だ。
 断る理由は特にない。
 それに困惑する。

「た、たぶん、大丈夫だと思うんですが、一応椿さんに確認してみてからでいいですか?」

 意味もなく筆箱を開け閉めしながら言った。

「無理だったら無理でいいから」
「大丈夫だと思いますが、念のため。今日の夜には連絡しますから」

 ぞろぞろと教室に人が戻って来て、掃除の準備を始めた。軽く返事をした後、喜多野は立ち上がって自身の清掃場所へ歩いていった。
 その耳が赤くなっていたのは、見なかったことにした。


 車が止まり、左に曲がっていく感覚がある。目を開くと車窓の外に、夜闇に紛れて、アオが通っているのとは違う高校の制服を着た人が、後ろへ通り過ぎていくのが見えた。
 きっとあの人も、英会話教室の帰りだろう。
 車のドアから身を離して、窓についていた方の髪を、手ぐしで軽くすく。

「着きましたよ、アオさん」

 静かに車が駐車場に停められた。

「はい。いつもありがとうございます。行ってきます!」

 冬の間はコートを持って出たが、今は手ぶらだ。車の外に出ると、ちょうど涼しい風が吹いた。
 駐車場を出るとすぐ隣に、看板を明るく照らす英会話教室がある。
 あまり怪しくならないよう、入り口付近ではなく、建物の横脇にアオは立った。
 前面は窓ガラスで、夜になると中がよく見える。五分程待っていると、中にある部屋から待ち人が出てくるのが見えた。やや不機嫌そうに見える顔をしているが、遠目にも明るい雰囲気をかもしだすはしばみ色の瞳が、その雰囲気を和らげている。
 その人は教師と一言二言言葉を交わした後、疲れた雰囲気で肩を叩きながら、教室を出て来た。
 いきなり声をかけると驚かせる。英会話教室の明かりが当たるところへ歩み出て、その人の顔がアオの方へ向くタイミングに合わせて、口を開いた。

「椿さん、お疲れ様です。今日の夕食はビーフシチューですよ!」
「おーそりゃ」
「手前味噌ですが、お肉の具合が中々上手くいきまして。松田さんとお爺様には先に食べていただいたのですが、かなり好評でした」
「それはそれは。期待値上がるわ」

 手から鞄を引き取り、車の方へ歩き出す。
 頭の中では、いつ「あの話」をしようかと思いながらも、いつも通りに車のドアを開けて椿を乗せ、自分も後部座席に乗り込む。車は停まった時と同じように、静かに発進した。

「そう言や、松田さんと爺さん先にって、自分はもう食べたのか? また俺のこと待ってねえだろうな」
「食べてませんよ、アオさんは」
「あっ、松田さん! 違います。おやつに、松田さんにいただいたカステラを食べたので、ちょっと今はいいかなって気分だっただけです」
「カステラまだ残ってるか? 俺も食いてえ」
「残ってますが、夜中に甘いもの食べるの止めるって仰ってませんでした?」
「頭使った日は食ってもいいことにした」

 車窓の外の明かりを、アオは見るともなしに見る。
 夜中に車に乗っていると、何を話している時でも、つい窓の外を見てしまう。特に、公園や、歩道でじっとしている人影を見かけると、通り過ぎる時間で注視してしまう。過去の自分のような存在を見逃したくない。
 他愛のない話をしているうちに、住宅街に入った。あと少しで家だ。
 夕食の後は、休息の時間になる。忙しい椿の休息の時間を邪魔したくはない。
 話すのであれば、やはり今だと、膝に置いた鞄の持ち手を握りこんだ。

「椿さん、今度の休日、友人と遊びにいくので、下僕業をお休みしようと思うのですが。よろしいでしょうか? 一応、椿さんのご予定はない日なのですが」
「……え」
「念のため、椿さんに確認してからとお話しているので。もし、私がいた方が良いご予定がおありなら、お断りの連絡を入れます」

 椿は慌てたように手を振った。

「いや、いいよ。用事ねえなら俺に了解なんか取らなくていいし。好きに行ってこい」

 思わず目を落とした。
 良いことのはずだが、喜びよりも困惑が勝った。喜多野と出かけること、それ自体は嫌ではないが、躊躇われた。
 自意識過剰でなければ、ただ友人と出かけるだけではない、意味のある一日になる予感がある。
 いつもの椿の随伴をする時に着る服ではなく、いくらか華のある服を着た方が良いような気がする。近くのコンビニに行くのとは違う、心の準備をしておくべきだと感じる。
 そういった予感が、ずんと胸に重たくのしかかる。
 だが、嘘をつくのも申し訳ない。ともかく連絡はしなくてはと、スマートフォンを取り出した。

「何か――驚いちゃったわ。良かったけど。アオが休みの日に友達と遊びに行くの珍しい、いや初めてか? 友人って、同じクラスの奴?」
「そうです。一年の時から、班や委員会で何かと一緒になっていて、しょっちゅうお世話になる方で」

 文章を作りながら、ぼんやりと答えた。

「……二人で行くのか?」
「はい」
「ふーん……。アオ、二人きりで出かける程仲良い奴、いたんだな」
「あ、いえ。仲は良いつもりですが、だから、ではなくて…」

 ハッとして文字を打つ手を止めた。

「遊びにいく約束は、話の流れで、何となく」

 正直に言っても構わないはずだったが、何故か咄嗟に、ごまかしの言葉を言ってしまう。嘘ではないと心の中で唱えた。さも文章を考えているみたいに、意味なく画面を見つめてしまう。

「あぁ、そう。何となく、か」
「珍しいですね。アオさんが、何となくで、椿様以外の方のお誘いを断らないというのは」

 松田からの指摘にぎくりとした。言われてみれば、アオが「何となく」で物事を決める場合には、椿のことが最優先される。
 いつもと違う喜多野の様子に気づかなければ、あるいは進路の悩みを抱えていなければ、遊びの誘いなど何も考えずに断っていた。
 そのうち、さらに言わなくてもいいことを言ってしまいそうだ。
 苦笑いでごまかして、思いついたように声を大きくした。

「あ、黄浦の書店に行く予定なので、おつかいがあればお申し付けください」
「いや、いい……」
「よろしいんですか? 気になる詩集があると仰っていませんでしたっけ」
「うん……」

 椿の返事はどこか上の空だった。
 遊びには行けそうだと、改めて喜多野にメッセージを送る。少し待ったが、返信はなかった。
 スマートフォンの画面の明かりを落とし、また車窓の外を眺めた。

「そいつ、アオが下僕業とか訳分からんこと言うの、知ってて友達なのか?」

 アオはむ、と眉を寄せる。

「訳分からんとか言わないでくださいよー」
「普通、って言い方は嫌だが、大抵の奴には訳分からんだろ。うちの高校は金持ち多いし、他に比べりゃ理解ある方かも知れんが、さすがに高校生の分際で従者つけてる家はないって。まあ、家が家ではあるが、だとしても。やたら従者の熱量も高いし」

 中学までは失敗もあったが、さすがに高校三年にもなれば、自分の世間ずれは自覚している。喜多野とも似たような話をしたばかりだ。言い返せず、アオは肩を落とした。

「私のクラスの方々は、私が椿さんに仕えていることは、ほとんど皆さんご存知だと思います。一昨年の文化祭準備の時など、椿さんの付き人をするために抜け出すことがあって、その時に少しお話したので」
「クラス中が知ってるのは、少しお話の範疇じゃねえって。あと、文化祭の件、初耳。もったいねえ。そん時言えよ。何の用だったか覚えてはねえけど、大抵付き人なんかいなくても、愛想笑いしてりゃどうにかなるんだから」

 いつもならば即座に「椿さんが最優先です」と答えるのだが、今日は勝手が違った。
 昼間の進路の話が頭をよぎる。
 今までのアオにとって、椿は何よりも優先すべき相手だった。椿の役に立つために、何でもしようと決めていた。
 これからも、その気持ちは変わらない。椿への忠誠は絶対のものだ。気持ちの上では一生ついていく気がある。
 だが、現実に、それが可能かどうかは分からない。
 下僕もとい秘書などを目指すにしても、つく相手があの晴田見グループの跡取りとなれば、それなりのスキルが求められる。また、今だって本当ならば、椿自身も言う通り、椿に付き人など必要ではない。愛想笑いに限らず、元々の記憶力や如才なさで、どのような場面でも上手に切り抜けることが出来る。
 つまり、現在アオが「椿のため」と言いながらしている行為は、ほとんどが不用品の押し売りに近い。
 息苦しさを覚えた。
 今は椿の優しさで見過ごされているが、本当に付き人のような存在が必要とされた時には、不用品の押し売りをする人間など邪魔なだけだ。
 本格的に邪魔になる前に引く方が、椿のためになる。
 そう知っているにも関わらず、そうできない。だからアオは自分を、忠臣ではなく、下僕だと思う。
 喜多野とのお出かけは、ある意味では、その地点から脱するための第一歩だ。

「ですから、たまには、自分自身の人付き合いをしようかなぁと」

 思い切って言うと、気まずい沈黙が流れた。

「……あぁ、なるほど。やっと俺の言うこと聞く気になったってことか」
「いつも聞いてるじゃないですか」
「聞かねえだろ。来なくていいって言ってるのに迎え来るし。荷物持ちするし。いまだにさん付け、ですます調だし。呼び捨てしろって。俺の方が年下なんだから」
「呼び捨ては畏れ多くて無理ですってば」

 冗談らしく会話をするが、ぎこちなかった。自分でも、自分の声が固くなっているのが分かる。
 また黙り込んだ後、椿は明るい声で言った。

「まあ、友人と出かけるのは、いい心がけだ。俺のこと忘れて楽しんでこい」

 その明るさに寂しさを覚えて、アオは目を伏せた。
 この先、アオが椿の元から離れる進路を選んだとしても、椿はこんな風に快く送り出してくれるだろう。その優しさは、嬉しくはあるのだが、アオは不甲斐なさを感じてしまう。いまだ、必要不可欠と思われるくらいに有用な存在には、なれていない。
 子供の頃の恩を返したいと思っているにも関わらず、恩を返せる程の能力が自分にはない。それどころか、そばにいる時間が長くなる程、恩が増えていく。

「ありがとうございます」
「礼はいいだろ。俺のおかげでも何でもねえ」
「椿さんのおかげですよ、何もかも」
「重いって。お前、礼言い出したら長いから、この話終わりな」

 長い塀を過ぎて、大きな門が見えてきた。
 国内でも指折りの大企業、晴田見グループの創業者であり真井椿の祖父、晴田見虎太郎の住まいである。そして椿とアオが住む家でもある。
 車の速度が落ちる。

「松田さん、今日はこのままお帰りでしたよね? お疲れ様でした。明日もよろしくお願いいたします」
「はい、お疲れ様です。アオさん、御学友とのお出かけ、楽しんでください」
「ありがとうございます」
「椿様、おやすみなさいませ」
「ありがとう。おやすみ」

 門の前で車が停まった。アオの体は自然と動く。椿の鞄を持って車から出て、椿の座席側に回り、ドアを開ける。幼い頃から何度も繰り返してきた手順だ。
 車が走り去った後、椿の先に立って、門の脇戸をくぐる。石畳の先に、温かな玄関の明かりが見えた。
 アオにとっては、この世界のどこよりも安心できる場所だ。
 ほっと息をついた時、スマートフォンが震える音が響いた。

「さっき送ってた奴の返信じゃねえか? 見れば?」

 婚約者への連絡などの際には全く気にしないくせに、わざわざ言われる。

「あとで見ますよ」
「そんなん言ってお前、俺が部屋で着替えてる間、風呂沸かして飯温めてって、あれこれ動き回って忘れるだろうが。早く返事してやれ」
「いやでも、明日も学校で会いますし、その時に直接話すことも出来るので」

 椿がアオの前に出る。ひょいと手から鞄を奪われた。

「ちょっと、椿さん! 私の仕事奪わないでください!」
「お前の今の仕事は、そいつに返事することだ。返事するまで見てるわ」

 進行方向を塞ぐように椿は立った。玄関の明かりが逆光になって、表情はよく見えない。

「寝る前に返事します」
「今やったっていいだろ」

 有無を言わさない態度だった。
 アオが友達と出かけることは、椿にとっても、大きな出来事だったらしい。心配させてきたツケが回ってきた。
 正直なところ、椿の前で確認するのは気が進まなかったが、仕方なくメッセージを見た。日程への了解と、ついでに食事もどうかという誘いが書かれている。前方から視線を感じながら、返信を打ち込む。

「興味本位なんだが、友達、何て名前?」
「喜多野昌也です」
「……男か」
「そうですね。男性、十一月生まれ、趣味、部活はバスケ。誰にでも分け隔てなく接するので、男女ともに人気あります。家族構成は父、母、姉。母は専業、父親は飲料メーカー勤務、姉は」
「あーいい、そこまで聞いてねえ。返信した? あんまり時間かけるなよ。腹減った。ビーフシチュー早く食べたい」
「それならあとで良いのに」
「はーやーく」

 笑い混じりの呼びかけに胸がふさがる。
 この時間は永遠ではない。
 返し切れない恩を返し続けるため、何があってもアオは真井椿、ひいては晴田見家にずっと仕える心積もりだ。
 だが、椿の方から拒まれる日がいつか来るだろう。進学、就職が過ぎても、結婚したり子供が出来たりすれば、晴田見家から出ていってしまうかもしれない。実際、椿の両親は、結婚してすぐ、黄浦市に移り住んだと聞いている。
 メッセージを送信する指に、力がこもった。

「返信しました! 椿さん、鞄お持ちします」
「いいよもう、ここまで来たら。先行って食事の用意しとけ。カステラも」
「……はい」

 椿は自分の手で玄関の扉を開く。

「ただいま」

 その背中を、酷く眩しく感じた。

「お爺様、ただいま帰りました!」

 家の奥から、優しい声が聞こえてくる。
 喜多野とのお出かけは、その週の日曜日に決まった。


 黄浦市は、高校と晴田見家のある六覚市から、電車で三十分程行ったところにある街だ。県内では二番目か三番目に栄えている場所で、休日に遊びに行くなら黄浦市というのは、六覚市に住むものの共通認識になっている。
 送迎しましょうかという松田の申し出を、ありがたくも丁重に断り、アオは電車を使って黄浦駅前に立った。
 待ち合わせの時間までには、四十分の猶予があった。電車の本数の少なさもあるが、それ以上に、普段の癖である。
 まだ喜多野の姿はなかった。
 改札前に立ち、喜多野を待つ。
 家でも散々確認したが、まだやはりどこか変な気がして、自分の服を見下ろした。
 主人である椿とともにいる時には、目立たないように着ることのない、明るい水色のワンピースだ。
 さて友達を出かける時、どういう服がいいのだろう、と改めてクローゼットを見直してみたところ、持っている服はどれも椿と一緒にいることが前提になっていて、色味のある服がほとんどなかったため、慌てて通販することになった。しかも結局かわいさに慣れず、上には黒いジャケットを羽織っている。
 改札から人が出て来る気配がして、顔を上げた。
 まだ三十分前だ。来ないだろうと思いながらも、喜多野の姿を探す。

「え、早!」

 知っている声が聞こえて、驚きながら声のした方を見た。
 見慣れた制服姿ではなく違和感を持つが、それは間違いなく待ち人だった。

「早いね、アオさん。ごめん待たせて」
「いえ。いつも椿さんといるので、早めの行動が癖になってしまっているだけですから。それに来たばかりです。喜多野くんも早いですね」
「そう、アオさん、早く来るイメージあったから。待たせないように早めに来たんだけど、これでもかぁ。さすが」

 話しながら、上から下までまじまじと喜多野を見てしまう。
 学校での喜多野は、あまり知らない話題に対しても積極的に興味を持とうとし、誰とでも分け隔てなく付き合う姿勢に好感の持てる、誰もが認める好青年だ。友達のグループの垣根も超えて、多くの友達がいる。アオが学校で一人にならず、昼食を一人で食べずに済んでいるのも、体育などのグループ分けの時に余らずに済んでいるのも、喜多野のおかげと言って良かった。
 どこで会おうが、その人物は変わらないはずだ。
 だが、見慣れない服装のせいか、違う人のように見えた。穏やかさよりも、大人っぽさを感じさせる。
 喜多野が歩き出したので、アオも足を踏み出した。歩幅は大きく違うはずだが、合わせてくれているようで、歩くのに苦労はない。
 話題を探し、目についたものに飛びついた。

「喜多野くん、私服、かっこいいですね」
「え」
「あ、いや、制服だとかっこ悪いという訳ではなく。いつも素敵ですが、学校とは大分印象が違うなぁと。失礼しました」
「そ……そう。失礼とは思わなかったよ。むしろ何か、ありがとう」

 椿は服選びを億劫がって、稀に服選びを仕事と称してアオにぶん投げてくる。普段着とは言え、主人に不相応な服を着せて恥をかかせる訳にはいかない。その度にアオは街中で見かける同年代の男子や、雑誌などを見て、高校生としてあまり逸脱しないラインの服を調べるのだが、いつもやたらと時間をかけてしまいがちだ。
 どこで買っているのか、食事時にでも聞いてみようと、心のメモに書き留める。
 すると、頭の片隅にいる架空の椿が、メモをかき消しながら「今日は俺のこと忘れろって言っただろ」とアオをにらんだ。

「アオさんも、か……。いいね。その服、似合ってると思う」

 架空の椿にはうなずき返して引っ込んでもらい、喜多野に向き直る。

「そうですか? 良かったです。友人と遊びに行く機会が今までになくて、慌てて買ったので、不安だったのですが」
「え、わざわざ?」
「わざわざと言うか……」

 否定しようとしたものの、実際、今日のために買った服だ。

「前々から、一着くらい、こういう服があるべきだとは思っていたので。良い機会になりました。ありがとうございます」
「一着でいいの?」

 咄嗟に返す言葉を思いつかず、無言になってしまった。今後もこういう機会があるのであれば、いつも同じ服はまずい。普段着である黒や茶色の服は、あまりにも華がなく、さすがに申し訳ない。

「そういうことなら、アオさんが良ければ、だけど。せっかく出てきたんだし、書店行った後で服屋も行かない? 息抜きがてら。俺も詳しい訳ではないけど、似合うか似合わないかくらいは言えると思うから」

 書店の入っているビルには、服屋も大量にある。アオは通り過ぎたことしかないが、単に必要がなかっただけで、椿と違って億劫とは思わない。

「そうですね。行ってみようかな」

 いよいよ進路とは関係がなくなりかけているが、アオはあまり考えないようにした。
 こういう異性とのお出かけを、一般的に何と言うのかも知っているが、その単語も思い浮かべないようにしている。


 高校のある六覚市にも書店はあるが、黄浦市の書店は別格である。ビルの地下一階から五階まで使って、専門書から漫画まで、幅広く取り揃えられている。
 椿が詩集をメインにしつつ幅広く本が好き、アオも漫画好きということで、書店に来たのは一度や二度ではない。
 だが、その書棚の前には、あまり立ったことがなかった。

「アオさん、今のところで言うと、進路はどう考えてるの?」

 資格や検定の参考書、職業名の末尾に「になるには」とつけられた本や、シンプルに「中高生向け進路ガイドブック」と題された本。
 適当に手に取って、ほとんど中身は読まず、ぺらぺらとめくる。

「アオさん?」
「あ、すみません。何ですか」
「今のところ考えてる進路って何?」

 書棚を見ていると、曖昧模糊とした夢のような進路ではなく、具体的な職業や、目指す大学の名前を言わなければならないという気になってくる。

「ひとまず、今は……将来、晴田見グループやその関連会社に就職することを考えると、工学や医療を学んだ方が良いのかなと考えています」
「へえ。俺、勝手にアオさんは秘書みたいなことしたいのかなと思ってたけど、それも良いな」
「秘書も考えていますが、決めきれなくて。いくつか検定は受けましたが、何か明確な目的があった訳でもなく」

 嘘をついている感覚がある。どれも嘘ではないはずなのに、心の中にいる自分が白けている。

「椿さんの役に立つため、じゃないんだ?」

 その嘘を、あっさりと見破られた。
 本を置きながら、アオは他にどうしようもなく、苦笑する。

「──椿さんのためです。けれど検定に関しては、それが椿さんの役に立つのかどうか、分からないけれど、とりあえず取っておこう、くらいのもので。ほとんど無目的でした」
「とりあえず取っておこう、は俺もあるよ。役に立ったら儲けものと思え、って会田先生は言ってた」
「はは。あの人、先生のくせに、適当ですね」

 喜多野は軽く笑った後、気を取り直すように言った。

「じゃあ、とりあえず進学?」
「たぶん。実際は、何を勉強するかは、まだ曖昧ですが」
「ちょっと話変わるけど、椿さんと関係のないことで、やりたいことってないの?」

 思わずうつむいてしまう。
 体の中に空洞があいてしまったように、問いかけの答えが見つからない。

「喜多野くんはどうなんですか?」

 逃げている自覚はあったが、今答えるには、どうしても荷が重い問いだった。

「俺は……今見てて気になったのは、広告業かな。イメージくらいしかないけど、俺自身が何かするって言うより、やりたいことがある人を、サポートする方が好きだから、いいのかなって。まあ普段は助けられてばっかりなんだけど」
「単なる思いつきなのですが、教師やインストラクターなどはいかがでしょう。サッカー部にいる経験も、少しは活かせるのではないかと」
「インストラクターか。それは考えたことなかった」

 喜多野は近くにあった本を手に取った。アオは少し身を引いて、改めて書棚を広く見る。
 知っているつもりではあったが、書棚を見ていると、これ程名のつく仕事があるのかと、不思議に感じる。
 だが、その反面、目に入る全てが、どことなく腑に落ちない。何を選んでもきっと、これだとは思えないだろうという予感があった。
 既に、アオには仕える相手が存在するのだから、それ以外のものが仕事になるはずがない。
 現実には、仕事とは生計を立てるための手段を指すのだとは知りつつ、そう考えてしまう。

「人生、二回くらいほしい。いや三回」

 喜多野のひとりごとのような呟きに、アオは少し共感して笑った。

「気持ちは分かりますが……。何回あっても、結局、同じことをしてしまいそうな気もします。それに三回目くらいには、慣れていい加減になってしまいそう。一緒に時代も変われば、面白いかも知れませんが」
「あー、時代か。二回生きたら、百年くらいは経つよな」
「将来なくなる仕事、みたいなのも度々話題になるし……。そういう条件面から考えるのも、いいのかもしれませんね」

 くだらないことを話しつつ、いくつか気になる本を買った。
 他人と話したところで、とうっすら思っていたが、口に出すことで多少考えがまとまることもあった。
 ためらいはあったが、来て良かったと、アオは思っていた。

 だが、服屋を巡って、帰る前にフードコートで軽食を取っている時だった。

「あの、アオさん。俺も、こんな時期にとは思うんだけど。ずっと好きでした。付き合ってくれませんか」

 赤くなった顔でそう言われた。


 アオと出会ったのは、小学二年生の十一月だった。
 当時の日記には、小学生のつたない文章ながら、克明にその時のことが記されているし、椿自身もよく覚えている。
 いつもと何も変わらない塾帰りだった。椿は自分の家が他とは少し違うのだと知りながらも、それが自分の将来にどう関係するのかまではまだ理解しておらず、毎日のように通わされる習い事に飽き飽きとして、運転している松田に延々と文句を垂れていた。
 だが、その文句は大抵、現状への不満と言うより、眠気と空腹から来る苛立ちに端を発していて、言っている間に眠ってしまうのが常だった。その日も、文句を言っているうちに徐々に眠気に襲われて、自然と車のドアに寄りかかり、無言で車窓の外を眺めていた。
 いっそ眠ってしまえばいいのに、落ちかけたまぶたを、必死に持ち上げていた。
 それもいつも通りだった。
 だが、いつも横を通る公園が視界に入った時、椿は一瞬見えたその光景に、ふっと夢の中で足を滑らせた時のような寒気を覚えた。

「松田さん、止まって!」
「ど、どうされました、椿様」
「いいから止まって! 今の公園のところまで戻って! 見間違いかもしれないけど、今、何か」

 眠気は吹き飛んでいた。尋常ならない椿に、松田もただ事でないと思ったようで、車は公園からしばらく行ったところで止まった。

「椿様、道が狭いので、この場で戻ることは出来ません」
「バックで戻れないの?」
「ぐるりと大回りする方が早いかと。よろしいですか?」

 今思えば、そうするべきに決まっている。だが、その時の椿は馬鹿で、そして焦っていた。

「じゃあ、松田はそうして。俺は自分で走っていくから」
「椿様! そういう訳には参りません」

 松田の静止は聞かず、椿は車のドアを開けて、外に飛び出した。松田はあとから追いかけてきた。
 当時もそう体力のある方ではなかったのに、公園まで走る足は止まらなかった。この辺りは雪までは降らないものの、十一月ともなれば、それなりに冷える。だが、その寒さも気にならなかった。
 街灯のついた公園に辿り着き、自分の見間違いではなかったと、絶句した。
 公園のベンチに腰かける、自分と同じくらいの年の、女の子が一人。
 薄着で、うつむき加減で、自分で好きでそこにいるようには思えなかった。
 椿と松田が近づいても、顔を上げない。虚ろな目は、まるで死んでいるようだった。

「なあ、大丈夫……」

 問いかけようとしたが、大丈夫でないことは明白だった。椿は少し悩んで、言い直した。

「もう大丈夫だから!」

 思いついて、自分の着ていたコートをその子に渡した。微かに目が動いたが、まるで手を動かそうとしないので、椿がベンチの上に立って、肩にかけてやるしかなかった。その上からさらに、松田が自分のコートをかけた。

「椿様、警察などに連絡いたしますので、少々席を外します。公園のすぐ外におりますので、何かあればすぐにお声かけください」

 松田が椿の耳元で言った。女の子に聞こえないようにという配慮だったのだろう。

「分かった」

 松田が立ち去り、女の子と二人きりになった。
 椿は女の子の横に座った。水筒を持ってくれば良かったと後悔しながら、自分に何が出来るかを必死に考えた。

「俺、真井椿って言うんだけど。何て名前?」

 聞こえてはいるようで、女の子の目は椿に向けられる。だが、答えはない。
 目を落とすと、膝の上で、骨のような手が願い事をするように組まれていた。無気力な様子なのに、手だけには痛々しい程に力がこめられていた。
 躊躇いながらも、椿はその手に触れた。命を感じさせない冷たさだった。

「今日、寒いな。寒くない?」
「……さむくない」

 返事があって、ほっとした。

「寒くないんだ。すごいな。けど、見てると寒そうだから、コート着てよ。どっちもサイズは合わないと思うけど」

 手を上げて、コートの位置を整えてやる。すると女の子はやっと、自分の手でコートを首元に寄せた。腕を通すまでにはいかなかったが、大きな進歩のように思えた。

「……ごめんなさい」
「何で? 俺が着てくれって頼んだんだよ。着てくれてありがとう」
「ありがとう……」

 お礼と言うよりは、単に椿の言葉をオウム返ししているだけのように聞こえた。女の子自身の意志で発されているのは、「ごめんなさい」という謝罪の言葉だけだった。
 コートを寄せるためにとかれた手は、形状記憶のように、また膝の上で組み直されようとしている。力がこめられる前に、椿は再びその手を取った。手遊びをするように、両手を持ち上げる。
 僅かだが体が起き上がって、顔が見えるようになる。不安と戸惑いが入り交じる表情だったが、見かけた時よりはずっとマシだと思えた。

「あっちにいるのは、松田さん。俺の爺さんの執事で、俺の世話とかしてくれてる人。家のこと何でも出来るんだ。料理も上手いし」
「……おかあさん?」
「や、お母さんではないけど。みたいな人。俺の家、他とちょっと違うから」
「まつださん、と。まない、つばき、さん」
「そう!」

 思わず両手を上下に振ってしまった。女の子は体ごと揺れた。

「なあ、アンタの名前も教えて。俺、アンタじゃなくて、名前で呼びたい」

 女の子は、手を見ながら、小さく口を開いた。

「あお……」
「アオ?」
「いろの……青、です」

 アオは弱々しくも笑った。



 階下から扉の開く音がして、椿は記憶から戻った。
 ぐっと伸びをして机を見る。ノートと数学の問題集を広げてはいたものの、予定していた半分も進んでいない。

「まあ、いいか」

 ひとり言を言って立ち上がり、ほとんど意識せず玄関に向かう。
 玄関口で松田と立ち話をする、見慣れないワンピース姿を見て、我に返った。
 帰ってきたからと言って、用事もないのにわざわざ出迎えにいくようなことを、椿は今までほとんどしたことがない。
 姿を隠すには遅く、アオは椿に気がつくとすぐに深々と頭を提げた。

「椿さん。ただいま帰りました」

 その手には、やけに洒落た紙袋がある。書店に行ったのではなかったのかと思うが、今は聞けない。

「おかえり」

 椿は用事があって一階に降りてきたような顔をしながら応えて、そのまま廊下を折れ、台所のある方向へ向かった。背後からは松田と会話をする声が聞こえてくるが、内容まではよく分からなかった。
 偽装工作のため、台所で飲みたくもない珈琲を淹れて、来た道を戻る。その時には既に、アオも松田もいなくなっていた。
 廊下で珈琲に口をつける。

「何でおめえ、廊下で飲んでんだ」
「うお!」

 振り返ると、にやにやと笑みを浮かべる祖父の姿があった。「何で」と尋ねているくせ、お前の考えていることは何もかも分かっているぞと言いたげな顔だ。

「青は帰ったか」
「あぁ。さっき見た」
「骨と皮しかなかったような娘が、めかし込んで、彼氏と街まで遊びにいくようになるとはねえ。何人育てても、子供の成長にゃあ驚かされるわ」

 あの十一月から一年程経った後、紆余曲折あってアオは、椿の祖父、晴田見虎太郎の養子になった。父親面の態度は見る度腹が立つが、実際のところ書類上はアオの父親なので、椿は閉口するしかない。
 ただ、間違いは訂正せねばならない。

「彼氏とは言ってなかったぞ」

 祖父はけらけら笑いながら居間へ入っていった。
 松田は放っておいてくれるだろうが、廊下で珈琲を飲んでいるところを、アオには見つかりたくない。ここで飲みたいのであれば、椅子を持ってきましょうかなどと、とんちんかんなことを大真面目に言いそうだ。マグカップを持って、自室に向かう。

「あぁ、くそ」

 歩きながら椿は、祖父に対してと言うよりは、自分に向けて舌打ちした。
 一日中何も手につかなかったことも、ぼんやりと昔のことばかり考えていたことも、帰ってきた音を聞いて出迎えに行ってしまったことも、全て原因は分かり切っている。
 自分で背中を押したくせに。
 喜ぶべきことだと思うのに。
 みっともないと苛立ちながらも、同じことを考えてしまう。
 アオが好きだ。
 自分以外の人間に、思いを寄せてほしくない。
 アオがこの家に住むようになって、ちょうど十年になる。その間、言う機会はいくらでもあった。だが、何も言わなかったのは、椿自身がそうと決めたからだった。
 アオが椿に向ける感情は、あくまで、忠誠と恩義に過ぎない。
 だが、もし椿が本当の気持ちを打ち明ければ、アオはその気がなくても忠誠のために、全てを受け入れるだろう。それはあまりにも虚しく、アオに対しても酷い行いだ。
 だから椿は自分に禁じていた。自分の側からは、一切何もしない。アオ自身の意志に全て任せようと。
 そのつもりだったのに、いざその時が来たら、この体たらく。
 学校や社交の場で出会う女性に全く心動かされない時点で、自分でも分かってはいたが。
 自室に入って、深くため息をついた。
 到底勉強に戻る気にはなれず、椿は棚から、アオがこの家に来た頃の日記を引っ張り出した。
 十一月に出会ってから、アオはすぐに養子になった訳ではなかった。十一月の段階では椿は善意の第三者に過ぎない。警察や児童相談所の人間に引き取られた後、椿はアオのことを気にしながらも、その後を知る術を持たず、それ以前と変わらない日常を送っていた。
 アオと再会したのは、それから約一年後だ。
 学校から家に帰ると、居間でアオと祖父が向き合っていた。
 祖父は珍しく難しい顔をして、椿とともに帰った松田も、困惑を隠し切れなかった。
 驚きながら、何故ここにいるのかと椿が問いかけると、アオは淡々と「探しました」と言った。
 曰く、あの一晩、椿や松田とした会話や、その直前に見かけた車を手がかりにして、椿の身元を調べた。晴田見家に通じる人間であることと、家が近辺にあるという事実が分かったため、ずっと地道にそれらしい家を訪ねていた。
 そして、恩を返したいので、どのような形でもいいからこの家の誰かに、自分を使ってほしい、と。
 帰すために、誰が何を言っても、アオは首を縦に振らなかった。肯定の返事を得るまでは、けしてこの場を動かないという態度だった。
 最早力ずくしかないという段階にまでなって、祖父はとうとう折れた。

「分かった。とりあえず、家に置いてやる。どうやって恩返しをするかは自分で決めろ。その代わりにお前さん、俺の養子になれ。さすがに今のままうちに通わせたんじゃあ、施設の方々に迷惑がかかるだろうからな」

 そしてアオは晴田見青になり、椿の従者になったのである。
 日記には端的に「ヤバい奴が来た」と綴られている。
 だが、文章の端々からは、嬉しさがにじみ出ていた。辛い思いをしていた女の子が元気になって目の前に現れたことや、年の近い友達が出来たこともそうだが、恩返しのためにと日々、熱心に松田の手伝いなどをする姿勢に、椿は尊敬の念を覚えた。習い事帰りに文句を言わなくなったのは、アオが来てからだ。
 ぱらぱらとページをめくっていると、アオが漫画に影響を受けて「私、椿様の下僕になります」と言った日の日記が出てきた。

「この時、ちゃんと止めとけば良かったな……」

 まさか本気ではないだろうと、冗談として処理してしまったことが悔やまれる。
 そうして、日記を見ながら現実逃避をしていると、自室の戸がノックされた。

「椿さん、夕食のお時間です」

 今は顔を見たくなかったが、無視するとアオは心の底から寂しそうにする。その顔を見ると、罪悪感の他に、ぞわぞわと熱が湧き上がる。その方が危険だ。
 日記を棚に戻して、戸を開けた。服は既にいつもの、地味な普段着だ。

「今日は椿さんの好物です!」

 飼い主に懐いた犬のような笑みを、直視できない。

「アオ、飯食って来た?」
「はい、少しいただいてきました。とは言え早い時間だったので、夕食もいただこうと思いますが」
「何食ったんだ」
「フードコートで、たこ焼きとアイスを。たまにはいいですね」

 椿もアオと出かけることもあるが、アオは付き従うという態度でいるので、いわゆるデートという雰囲気にはならない。帰った後も、椿に対して「目当てのものが買えて良かったですね」と笑うだけだ。
 今のアオからは、それとは違う柔らかな空気が伝わってくる。

「楽しかったか」

 答えは分かっているのに、聞いてしまった。

「……楽しかったです」

 想定の倍、幸福そうな返事が戻ってきて、思わず顔も知らない「喜多野昌也」に内心で悪態をついた。
 だが、これが正しいはずだ。さすがにもう潮時。アオはもういい加減、幼い頃の恩など気にせずに、自分の幸せを求めるべきだ。
 椿も、アオを縛らないようにしなくてはならない。
 椿は「そりゃ良かった」と何でもないふりをして、アオに笑いかけた。


「アオさん、その洗濯物、畳むの二度目ですよ」
「あっ、えっ、すみません……」

 手元には広げた洗濯物がある。自分の数秒前の行動を振り返ると、確かに、まだ畳んでいない洗濯物の山ではなく、畳み終えた方に手をのばしていた。完全に考え事に気を取られていて、その時には何もおかしく思わなかった。
 恥ずかしく思いながら、改めて洗濯物を畳み直し、今度こそ畳んでいない方の山から洗濯物を取る。

「謝ることはないですが……。このところ、ぼんやりしているように見えますね。寝不足ですか? それとも、体調が悪いのでしょうか。洗濯物は私が畳んでおきますから、ご無理なさらず、お休みください」
「いえ、そういう訳ではないので! すごい元気です。ご心配なく!」

 松田は障子紙に剥がし剤を塗っている。それも、アオがぼんやりとして障子にぶつかり、大きな穴を開けてしまったせいだった。
 ご心配なくとは言ったものの、松田が心配するのは当然だと、肩を落とす。
 近頃、頻繁にミスをしてしまう。
 正確に言えば、喜多野に告白されてから、である。
 まずは意識してほしかった。まだ友達でいい。告白への答えは、まだ先でいい。
 そう言われたので、表面上は今も以前と変わらぬ友人のままだ。学校でも変わらない態度で振る舞っている。だが、アオにしてみれば告白以前と以後で、全く心境が違った。寝ている時と椿の前にいる時以外、常に絶え間なく頭が働いて、喜多野への対応の仕方を考えている。
 お出かけに誘われた時点で、薄々、好意を持たれていることには気がついていた。告白されることも、どこかで覚悟していた。
 それでも、実際に好意を表明されると、この始末。
 また無意識に、畳んだ方の洗濯物を取ろうとしていることに気がついて、手を止めた。

「体調には、全く問題ないのですが……ご迷惑をおかけしております……」
「いえいえ。持ちつ持たれつですから」

 松田の言葉はありがたいが、このままでは、椿にまで迷惑をかけてしまう。
 早く対応を決めなければならない。だがそう思って決められるのであれば、とっくにそうしている。
 思索に沈んでいると、廊下から声が聞こえた。

「おーい。アオどこいるー?」
「は、はい! こちらにおります!」

 慌てて立ち上がった拍子に蹴ってしまい、畳んだ洗濯物の山を崩した。畳み直しだ。

「悪い、前に美鶴にもらったネクタイどこ?」

 言いながら椿が部屋に顔を出した。椿のところまで行こうとしていたアオは、その姿を見て固まった。

「……待ってください、何故スーツを」
「出かけるから」
「美鶴様のところへですか? そ、そんな予定は聞いておりませんが」
「言ってねえから。一昨日俺が連絡した。一人で行ってくる」
「何ですと。お車は」
「タクシー呼んである。それより、とりあえずネクタイ。つけてこねえと水ぶっかけるって言われたから」
「相変わらず過激な方ですね……。少々お待ちください、取って参ります」

 ネクタイを取りにいきながらも、アオは動揺で口を抑えた。
 動揺する点は二つある。
 まずは、時期でもないのに、椿が自ら美鶴と連絡を取って、会いに行くらしい点である。
 杏園美鶴は、真井椿の許嫁である。美鶴の祖父が営む大病院と、医療機器の製造から始まった晴田見グループとは、古くから親交が深く、その関係で約束が交わされたらしい。もっとも、その約束はほとんど形骸化しており、本人同士にも全くその気はないらしく、節目節目で会っては、婚約解消を発表する時期について相談している。
 一応仲は良いのだが、親戚のような距離感で、今まで椿が自分から会いに行くことはなかった。
 二つ目は、椿がアオを置いていくことだ。無論、椿の用事に必ずアオがついていける訳ではないが、少なくとも美鶴と会う時には、必ず椿はアオを随伴させた。
 椿の衣装部屋に着き、美鶴にもらったネクタイの入った棚を開けつつぼやいた。

「何で出かけること、言ってくれないんですか……」
「大した用事じゃないから」
「ぎゃあ!」

 振り返ると椿が立っていた。目を細めて、ひっそりと笑っている。

「ぎゃあて。油断しすぎだろ」
「お待ちくださいと」
「場所知りたかったから。美鶴にもらった奴はそこに分けてんだな」
「はい……。美鶴様からの贈り物は全てここに」
「あいつ、大して俺に興味ねえくせに、許嫁っぽいことはしたがるんだよな。いっそ手袋とかマフラーとか、もらった物全部つけてくか」

 背後から肩の上を手が過ぎて、マフラーをつかんだ。垂れ下がった端が首元をくすぐっていく。

「椿さんの訓練のつもりだと、以前仰っていましたよ。好きな方が……出来た時に、恥をかかないようにと」
「うわ、余計なお世話」

 マフラーを取り戻し、ネクタイを結ぼうとすると、手から奪われた。

「ありがと。邪魔したな」
「邪魔なんて」

 足音は忙しそうに遠ざかっていった。
 早く戻るべきと思うのだが、アオの足は動かなかった。衣装部屋に立ち尽くす。
 手を下ろすと、マフラーの端が床を滑った。

「ご不要、ですか」

 主人が必要としないのであれば、大人しく引き下がる。恩返しのためと、無理に出しゃばって役に立とうとしない。邪魔にならない範囲で、自分に出来ることをする。
 それが下僕として正しい在り方だと、アオは自分に言い聞かせてきた。

「いや、うん……。椿さんが決めたことだ」

 気を取り直し、マフラーを折り畳んで、棚に入れ直す。
 肩を落としつつ松田のところへ戻ろうとすると、玄関の方から「いってきます」と声が聞こえた。
 近くの窓を見ると、玄関から椿が出ていくのが見えた。咄嗟に窓を開けた。

「いってらっしゃいませ」

 振り返った椿は、アオを見上げると、軽く手を振った。
 脇戸から出ていき、その姿は見えなくなった。
 その日以降、美鶴と会う時に限らず、椿は時々アオに予定を隠して、一人で出ていくようになった。


 映画を見るよりも、他にするべきことがあるはずだという考えが、頭から抜けない。喉を通っていく炭酸の痛みが、浮かれているようで気に障る。

「アオさん、たぶんだけど、連絡来てない?」

 ストローから口を離し、バッグを見た。膝の上に振動を感じる。小さな通知の明かりに、ふっと心まで明るくなるのを感じた。

「ありがとうございます!」
「映画始まる前で良かったね」
「はい!」

 気づかせてくれた喜多野に心から感謝しながら、スマートフォンを手に取った。
 今日、椿はまた直前までアオには黙って、父親の会社の取引先から招待されたピアノのコンサートに行っている。まだ開始を待っている頃だろう。
 挨拶する前に取引先の父親とその娘に関する情報を聞きたいのか、ピアノの当たり障りのない感想を事前に考えさせたいのか、それとも退屈しのぎか。何でもいいやとメッセージアプリを開く。
 そこにあったのは、椿の名前ではなかった。

「大丈夫? 急ぎの連絡だったら、全然、行ってもらっていいよ」
「ううん、大丈夫……」
「本当に大丈夫? 遠慮しなくていいからね。俺も、その方が気が楽だし」

 休日に遊ぶのはこれで三度目だが、その間にも喜多野は繰り返し、椿を優先していいと言ってくれている。
 マナーモードからサイレントモードに切り替えてバッグにしまい、アオは首を振った。

「お爺様から、おつかいの連絡でした。すみません、あとで地下のケーキ売り場に寄ってもいいですか?」
「もちろん。……アオさんの言うお爺様って、晴田見さんだよね? あ、アオさんも晴田見さんだけど」
「はは。言わんとしていることは分かります。医療機器の製造から始まり、現在では手広く産業機械を手がける、国内外で名高い晴田見グループの創業者の、晴田見虎太郎様です」
「はー。何か、不思議な感じ。悪い意味じゃないんだけど。そういう人が同じ街に住んでて、同じ店の物買ってるかもしれないって考えると。アオさんにはあんまりピンと来なかったりするのかな、こういう感覚」
「いえいえ。私も、三組に、保護者が俳優であるという方がいると知った時、同じことを思いました」

 それに、アオが晴田見家に住むようになったのは、小学四年生の頃だ。それまではアオも、社長や俳優などとは縁のない人生を送っていた。
 ふと頭上の明かりが消えて、画面が映画の予告に切り替わった。自然とお互い、口をつぐむ。
 ぼんやりと画面を見ていると、椿が楽しみにしていた映画の予告がかかった。
 以前であれば、帰ったら話の種にしようと思うところだが、今は話をすることで、椿の貴重な時間を奪ってしまわないかという方が気にかかる。椿は好きなものの情報は逐一チェックする方だから、予告は既に見ているだろう。アオが「面白そうだった」などと伝えたところで、あまり意味があるとも思えない。
 飲み物に手をのばす。
 先程から何度か手に取っているはずなのに、中身はほとんど減っていない。自分でも無意識だが、恐らく、ストローを口に含んで、ほとんど飲まずに置いて、また手に取るということを繰り返している。
 退屈ではないが、何か物足りない。
 ポップコーンも買えば良かったと思った。

 電車に乗り込むと、昼を少し過ぎたばかりだからか、座席はかなりの割合が空いていた。
 アオと喜多野は隣り合って腰かけた。
 最寄り駅までバッグを持つと喜多野が言ってくれたため、アオはバッグを喜多野に預け、代わりに虎太郎に頼まれたケーキを膝に置いた。
 アオの中には、最初に声をかけてくれた椿が第一の存在としてあるが、養子にして家に置いてくれている虎太郎と、何くれとなく世話になっている松田も、ほとんど椿と同じくらいに敬いの対象だ。帰る途中までにケーキを倒してしまったら、相当に落ち込む。喜多野の申し出は、大変にありがたいことだった。
 だが、だからと言って、三人以外の人物を蔑ろにしていいとは、アオも思っていない。

「喜多野くん、ありがとうございます。今度行く時には、どうか私に奢らせてください」

 アオは改めて、隣に向かって頭を提げた。
 特に今の時期、ケーキは持ち運びに向かないことを忘れていた。映画を見終わったら軽く食事でもしよう、と話をしていたにも関わらず、何も考えずにケーキを購入してしまった。結局喜多野の厚意で、何も食べずの帰路である。

「や、いいよいいよ。ご飯くらい大したことじゃないから」
「私の都合を優先していただけることが、ありがたいので。このご恩は必ずやお返しします」
「武士かって。そういうところが好きだけど」

 恥ずかしさだけでない感情で、顔が熱くなった。

「本当に気にしないで。またがあるって言ってくれるので、充分嬉しいから」

 アオに告白してから、二人でいる時に喜多野は好意を隠さなくなった。
 喜多野に言わせれば、アオがやっと気づくようになっただけ、らしいが。
 喜多野は一年の頃から、アオが好きだったそうだ。アピールもしていたらしい。だが、アオは全くそれに気がつかなかった。
 思い返せば一年生、二年生の頃は、椿に害をなす人物、役に立ちそうな人物がいないかという、身元調査や下地づくりに集中していて、椿に関係しなさそうなことに対しては、その場限りのリアクションだけで処理していた。
 きちんと自分自身にまつわる人間関係にも意識を向けようと思ったのは、進路を意識し始めた二年の中頃からだ。
 それでも、人から向けられる好意や恋愛については、あまり考えなかった。
 途方に暮れるような、所在のない気分になって、ケーキの箱を見る。

「でも、これくらいで恩とまで言ってくれるアオさんが、椿さんに何をしてもらったのかは、正直気になるかもな。椿さん、学校で見かけたことあるけど、さすがに話したことはなくて」

 喜多野が椿の話題にしてくれて、心底ほっとした。

「……あまり詳しくは話せないのですが。誇張なしに、椿さんには、人生を救っていただいたんです」

 母親に虐待されて、家に入れず、公園でぼんやりとしていたところに、声をかけてくれた。
 椿のおかげで、辛いだけだった過去は、椿に会うための時間に変わった。
 当時のことはいくらでも話したいが、実際に話すと困惑させることは、経験上知っている。喜多野の気になっていそうな顔には気がつかなかったことにして、椿に感じている恩については、話すのを止めた。

「それがなかったとしても、椿さんは尊敬に値する方です。損得勘定なしの、芯からの優しさを持っている方です。荒っぽい言葉をお使いになるので、時々誤解されることはありますが、それもご自身の家柄によって、相手に壁を感じさせないようにという気遣いで。本当はとても慎重に、他人のことを気遣っている、聡明な方です。下僕である私のことも、出会った頃から今まで、ずっと思いやってくださっています。今朝も、私がネックレスをつけるのに手こずっていたら、ご自分も出かける前で忙しかったのに、つけてくださって」

 一人で出かけるようにはなってしまったが、椿の態度は変わらない。むしろ以前より、アオを気にかけてくれているような気がする。ネックレスだけでなく、髪や服の皺など、全体の身だしなみも確認された。自分はどうでもいいと言いながら。

「いくら感謝しても、感謝の念が尽きないんです」

 心の底から笑う度、美味しい食事をする度、傷のない自分の体を見る度に、人生が変わった夜のことを思い出す。
 その日だけではない。迷惑とは知りながらも、恩を返したいという一念で晴田見家に押しかけた後も、椿はアオの思いを酌んで、アオにもできるような小さな仕事を見つけて、アオに頼んでくれた。晴田見家に馴染めるように、無理のない範囲で、アオを使ってくれた。
 実の母から引き離されたはいいものの、施設でも、他人の世話になる申し訳なさで縮こまって、自分の居場所を見つけられていなかったアオにとって、自分の存在が人のためになっているという感覚は、何より心を癒やした。
 他人のために何かしなければという焦燥感、何の役にも立たない自分には存在価値がないという絶望感は、いつしか消えた。

「……椿さんのことを話しているアオさんは、表情が豊かになるな」

 全く喜多野の様子を見ていなかったことに、その言葉で気がついた。

「すみません、一方的に話してしまって。気をつけるようにはしていたのですが」
「いいよ。むしろもっと喋って」
「え、いいんですか?」

 思わず喜んでしまったが、一般的には、その場にいない、しかもよく知りもしない人物について話されるのは、苦痛であるはずだ。
 喜多野の優しい顔に、喜びと、少しだけ恐れを抱く。
 喜多野は苦笑した。

「一緒にいて分かってきた。たぶん俺は、アオさんのその表情を好きになったんだけど。今のところ、その表情を見られるのは、アオさんが椿さんについて考えてる時だけっぽい」

 言われた途端、自分の表情に意識が向いてしまい、かえってどういう表情をしていたのか分からなくなった。

「表情、ですか。何だか恥ずかしいですね……」
「いい表情だよ。俺だけでなくて、みんな言うと思う」
「みんな?」

 中学の頃は、椿のことばかり話しすぎて人が離れてしまうこともあったので、アオはその言葉をやや疑ってしまう。疑いの視線を向けられても、喜多野は訂正しようとはしない。

「……進路、前に悩んでるみたいなこと言ってたけど」

 どきりと心臓が嫌な音を立てた。
 だが、喜多野の笑みは、あくまで穏やかだった。

「俺は……いや、俺は椿さんのことよく知らないし、アオさんが悩んでる理由も分かってないし、俺の意見なんか、聞き流してくれていいんだけどさ。アオさんには、椿さんの秘書とか部下とか、とにかく椿さんのためにって働いていてほしい。アオさんに限らずだけど、好きな人とか、好きなもののために働くのが、結局一番幸せそうな気がするし」
「……ありがとうございます」
「まあ、いつか、椿さんの半分以下でもいいから、俺のことも好きになってくれたら、ちょっと嬉しいかな」

 咄嗟に謝罪が口をついて出そうになって、慌てて止めた。
 アオは喜多野のことが好きだ。これを恋というのかは分からないが、目が合うと少し緊張するし、一緒に出かけるのも楽しめるようになった。
 だが、それは到底、椿への思いには並び立たない。
 そして、喜多野がいいと言っても、アオはそれに申し訳なさを覚える。

「喜多野くんはそれでいいんですか? 私は、人と付き合ったことがないので、推測になってしまうのですが……好きな相手が一番大切にしている人が、自分ではないというのは、あまり気持ちの良いことではないのでは……。大切にしているのが、親や兄弟ならばともかく」

 サンプルは学校で漏れ聞く会話、漫画、そして椿の蔵書である。
 喜多野は軽く首をかしげた。

「椿さんって、アオさんにとって兄弟みたいなものじゃないの? ごめん、よくは知らなくて。兄弟くらい仲の良い幼なじみ、って感じだと思ってた」

 がたん、と電車が揺れた。

「……まあ、そういった認識でも、構いません」
「そうじゃなかったとしても、いいけどね。恋人よりアイドルの方が好きとか、家族より仕事がとか、珍しいことでもない。一番好きではない人と結婚するってこともあると思うし」

 具体的に言われてみると、確かに、と思う。ただ、それで気が楽になるということはなかった。

「俺は、何と言うか、俺のことが好きっていう人よりは、そういう何かに夢中になっている人の方が、いいなと思うから。あんまり気にしなくていい。って言っても、アオさんは気にするんだろうけど」
「そうですね。お返ししなくては、とは思ってしまいます。いただいたものと、できるだけ釣り合うような、何かを……。すみません、喜多野くんの、その気持ちを、量として計るつもりはないのですが」
「アオさんは真面目だね。ちょっと、悪い意味で」

 色々な人に、何度か向けられたことのある苦笑だ。

「その義理堅さ、俺にとっては都合いいけど。さすがにちょっと、弱みにつけ込むみたいで、気が引けるかな」
「……すみません、どういうことですか?」
「例えば今日みたいなことがあった時、お詫びにあれして、これして、って言いやすくなる。アオさんはアオさんで、多少無茶なお願いでも、後ろめたいから聞こうとする。付き合って、は無理でも……とか」

 冗談に変えるような笑みを浮かべて、喜多野は話を区切った。

「そう考えると、アオさん、その「救った」のが、椿さんで良かったな。事情がよく分からないけど、もし悪い奴だったら、すーごい都合良く使われてそう。ヤバいブツとか運ばされそう」
「私も仕える相手は選びますよ」
「やーどうかな。例えばアオさん、椿さんのためだったら、何でもしそうだし。あんまり普通の善悪では考えられてない気がする」

 その言葉で久しぶりに思い出す。
 小学生の頃、ある日アオは偶然、椿が学校で陰口を叩かれていることを知った。小学校は別だったため苦労しながらも、アオは何とか陰口を叩いた同級生を炙り出して、こっそりとその同級生が逆に陰口を叩かれるように周囲に悪い噂を吹き込んで、転校寸前まで追いこんだ。結局発覚して、しこたま叱られた後、アオは人間の気持ちや善悪を学んだ方がいいと、椿に漫画や小説、絵本を与えられた。

「……」
「無言は無言で怖いな……」
「確かに、椿さんと会った頃は危なかったかも知れません。良かったです」
「終わり良ければ全て良しだから」
「そうですね」

 会話の境で電車が駅に停まり、沈黙が流れた。乗ってくる人はおらず、車内の人はさらに少なくなった。
 最寄り駅まであと一駅だ。最寄り駅以降は、帰る方向が違う。

「喜多野くん、返事、なんですけど。まだ……あと少し、待っていてもらっても、いいですか」

 返事がなかったので、恐る恐る横をうかがった。喜多野はアオを見ていた。

「いいよー。いくらでも待ってる。何なら、卒業した後でも」
「さすがに卒業までは待たせないです!」
「どうせもう少ししたら、彼女とか彼氏とか言ってられなくなるし」

 夏の気配が迫っている。
 友達の中には、受験に集中するために、彼女と会うのを控えていると言う人がいる。

「そうなる前に、言います」
「……本当にいいんだけどな」

 それ以上言う言葉を、アオは思いつかなかった。「そう言えば映画、面白かったね」と喜多野が言う。あからさまな話の転換だったが、ありがたく、アオは話に乗った。


 晴田見家に住むようになってしばらく経つが、その部屋に呼ばれたのは、数える程だった。少し緊張しながら、アオはふすまに向かって呼びかけた。

「お爺様、青です。ご所望のケーキをお持ちしました。入ってもよろしいでしょうか」
「おう、ありがとよ。入れ入れ」
「失礼します」

 ふすまを開けて、二つのケーキが載ったお盆を持ち、部屋に進み入る。
 晴田見家は、基本的には和風の造りである。外から見ると格式高い日本家屋に見える。だが、内部は場所によって、和風と現代風が入り混じっていた。元々子ども部屋があり、ほんの一時ではあったらしいが、椿が両親と住んでいた区画は現代風。居間や普段使う台所、アオの部屋のある辺りは、和風の造りである。
 そして、晴田見虎太郎の居室は、その和風の区画の最奥にある。

「帰ってくるのが早えじゃねえか。夜中になるかと思ってたぜ」

 寝室に続くふすまは閉められている。その手前の部屋、座敷で虎太郎は、将棋を指していたらしかった。
 椿と同じはしばみ色の目が、面白がるようにアオを見ている。

「……色々と、ありまして」

 邪魔にならないように、ケーキの皿と湯呑みを卓に置いて、アオは虎太郎の前に正座した。ちなみにケーキの一つは、アオのものである。

「お話があるとのことですが」
「あぁ、ある。だが待て。あとちょっとで解けそうなんだ。ケーキは先食ってていい」

 改めて見ると、将棋盤の横には、新聞の切り抜きがあった。詰将棋だろう。松田がはさみで切り抜いているのをたまに見かける。
 許しが出たのでケーキに手をつけていると、将棋盤をにらんだまま、虎太郎は言った。

「デートはどうだった。映画だか見に行くって言ってたな?」
「面白かったです。元々、漫画として発表されたものの映画化だったので、筋は知っていたのですが、声や動きがつくと、同じシーンでもまた違った感動がありました」
「そりゃ映画の感想だろ。デートとしては?」

 デートという言葉に抵抗感がわくが、否定まではできない。

「……楽しかった、と思います」
「いいねえ。希彩はどこ連れていっても、文句ばっかり言いやがったからな」

 希彩は、虎太郎の妻、椿の祖母である。アオが来た時には既に鬼籍に入っていた。晴田見グループを裏から支えた大人物であり、かなり苛烈な人物だったと聞いている。

「あ、こういうことか……」

 虎太郎は将棋の駒を動かし、少しして満足気に顔を上げた。

「さてと」

 いそいそとケーキを口に運ぶ。
 アオの側には、特に急ぐ用はない。だが、こうして呼び出されたことがあまりないので、切迫感がある。

「……あの、お爺様」
「んん?」
「お呼びいただいた場で、私から話をするのは失礼とは、承知しているのですが……一つだけよろしいでしょうか」
「お前さん、いつまで経ってもかたっ苦しいよなぁ。何だい。言ってみろ」
「このところ、いたらぬ点が多く、一度真面目に謝罪をせねばと思っておりました。申し訳ございません」

 さすがに喜多野に告白された直後に比べればミスは減ったが、考え事をしていて、無意識に虎太郎の呼びかけを無視していたこともあった。

「何だ、そんなことか。構うな構うな。空斗も零子も、散々寝小便したり駄々こねたりしたが、一度も謝りゃしねえぜ」

 空斗は椿の父、零子は叔母である。さすがに並び立てられるのは気が引ける。

「それとこれとは……」
「同じことだ」

 恩に着せようとしない、少しからかうような言い方は、椿に似ている。
 正確には、椿が虎太郎に似ているのだろう。
 どういう訳か詳しくは知らないが、椿は幼い頃、自ら、両親ではなく虎太郎とともに住むことを選んだらしい。恐らく椿は、両親といるよりも、虎太郎といる時間の方が長い。

「まあだが、娘だからこそ、改めて聞かなきゃなんねえこともある」

 本題に入る気配に、背筋がのびた。

「そろそろ将来は見えてきたかい」

 口の中に残ったケーキの甘さが、胸焼けしそうなくらいに濃くなったように感じた。
 目を伏せて、言葉を選ぶ。

「……まだ、です。もし進学するなら、就職するならと、選択肢に合わせて、目星をつけてはおりますが。そのどちらにするかまでは……」
「ほう。お前のことだから、椿と同じ大学行く、って即答するかと思ってたわ」

 ぐっと喉が詰まる。

「それも選択肢にはあります。ですが、椿様の将来を考えた時、おそばにいることだけが、役に立つ方法ではないように思ったのです。中学や高校への進学と違い、私にできることも、ずっと増えますから」
「んで?」
「……その、役に立つ方法で、迷って。決めかねている、状況です」

 虎太郎はお茶を飲み、長く息をつく。

「椿には相談したのか」

 黙って首を振った。

「自分で方法見つけようとする姿勢もいいが、本人に聞くのが手っ取り早いとは思わねえのか?」

 それは考えたが、聞けていない。

「椿様はいつも、私のしたいことをするように、と仰るので。きっと進路に関しても、そう仰るかと思います」
「それなら、青がしたいことをすんのが、一番あいつのためになるんだろうな」

 自然と肩がすぼまる。

「私は、椿様のお役に立ちたいんです……」

 いたずらをした子供を許すように虎太郎は笑った。

「そうさなぁ」

 欺瞞も甘えも見透かされている。恥ずかしさを覚えて、頭を下げた。

「……すみません。先程、椿様ならこう言うから尋ねていない、と申し上げましたが。それだけでなく本当は、椿様に、青は不要と明言されることを、私は恐れているのだと思います。今はまだ、椿様の求めに応えられておりますが、これから先、椿様が就業なさった後には、私の能力が及ばず、椿様にご不便を感じさせてしまう局面も来るはずです。また、能力が足りても、それ以外の面で私の存在が不都合となることもあるでしょう。……結婚、など」

 伴侶のそばに異性がいることを、酷く嫌がる人物がいると聞いたことがある。今のところ椿の近辺に、そういった人物はいないようだが、現れないとは言い切れない。

「そしてそれを、椿様も予見していることと思います。……忠臣であろうとするならば、主人に不便を感じさせる前に自ら離れるべきなのでしょうが、それもできず。椿様の意志を確認することから逃げ、先延ばしにしています」
「ふぅん」
「それに……私という個人は、本当に今のままでいいのかという疑念もあります。一人、一つのものに依存している状態は、一般には、健康的とは言えないのではないかと」
「なるほどねえ」

 恐る恐る顔を上げて、はしばみ色の目を見返す。
 虎太郎は片頬を上げた。

「そこまで自分で考えてんなら、俺から言うこたぁないな。言葉だけでなく、行動にもしているようだし」

 安堵と、助言を求める心が入り交じる、複雑な気分でその言葉を聞いた。

「お前の力でどうにかしなきゃなんねえとこ以外は、全部こっちでどうにかしてやるからよ。その調子で、よっく考えて、動け。考えるだけじゃあ変わらんからな」
「……はい」
「不満そうだな」

 反射的に否定したくなるが、それは意味がないと、押し留めた。不満に思っていること自体は事実だ。
 落ち着くため、息をつく。

「お爺様に対してではありません。皆様に充分に報いることができない、自分自身の不甲斐なさにです」

 自分の言葉で、納得する。確かに現状に対する不満は全て、身から出た錆だ。誰のせいでもない。
 何もかもが、望みに足りない気がする。
 飢えている。
 能力や、覚悟、それ以外の気づくことすらできていない何か。環境は充分すぎるほどに与えられているにも関わらず、何故かいつも心もとない。
 下手をすれば、椿のそばにいたいという思いすらも、足りていないのかもしれない。

「お前はどうなったら、充分だって思えるんだい?」

 かちん、とケーキを切ったフォークが、皿に当たって音を立てた。
 アオは咄嗟に答えられなかった。

「椿や松田や俺が、泣いてお前さんを有難がるようになったら、充分か」
「そ、そんなことは全く!」
「じゃあ、会社の利益を上げたらか」
「それが望みと言われれば、尽力はいたしますが」

 自分が晴田見グループの一社に入ったところで、劇的なまでの成果を上げられるとは思えない。ただ、現状での最善手はそれかもしれないと思っている。それならば、直接的ではなくとも、椿のために役に立てるはずだ。
 だが、これこそ自分の進む道だとは決め切れない。

「……充分とは、思えない、かも知れません」

 うなだれて、笑われてすねる。
 すねはしたものの、言われたことは分かる。

「ありがとうございます」
「昔は説教臭くなりたくねえと思ってたが、どうにも言いたくなっちまうもんだねえ。かわいいかわいい娘との会話を、心置きなく楽しみてえのに。ほれ、ケーキ食え。食いながらデートの話もっと聞かせな」
「嫌です。ケーキはいただきます」

 もらった言葉を噛み締めながら、甘さを飲み込んだ。


 コンサート会場で、父親の取引先とその娘におべっかを言われながら、アオの顔を見たい、と強く思っていた。

「よく考えてみたら、アオさんを伴わないあなたに会う価値って、全くないかもしれないわ」

 食事を取って人心地つき、今すぐこの場から立ち去りたいという感覚はなくなっていたものの、遠慮のない言葉をかけられてまた、ちらっと同じことを思った。
 尊敬に満ちていて、それでいて親しみに溢れた、明るい瞳。幼い頃から変わらない眼差し。暗い想念などまるでないかのように振る舞う健気さ。
 アオの顔を見たい。
 目の前にいる人間は、悪い人間ではないものの、アオとは対極にある顔をしている。
 会う価値がない、と言われても、特に心動かされることはなかったが、一応言い返す。

「全くってことはないだろ」
「そう? だって真井くん、思いつく? あなたに会うことで、私にもたらされる利益。婚約解消の時期はほぼ決まっていて、話すべきことはない。あなた個人には大した興味はない。ただし、アオさんのことはだーいすき。そういう私は、真井椿単体と食事をするこの時間に、どう価値を見出だせばいいのかしら」
「あーうるせえ。何が望みかはっきり言え」
「アオさんを私にちょうだい」
「やらねえし、許可する立場でもねえし。アオに直接聞け」
「じゃあ勧誘するから、今度の食事会の時には必ず連れてきて」
「……嫌だ」
「あれもやーだこれもやーだ。そんなことで、アオさんを手放すなんて、できるのかしら」

 やたら大袈裟にため息をついて、美鶴は肩をすくめた。この料亭にも、着ている着物にも、その顔にも全く似合わない、洋画のような仕草だ。
 腹立たしいものの、今日のコンサートに椿を招待した父親の取引先と、その娘から逃げるためのだしに使ってしまったため、上手には出られない。

「でも、本当に、そろそろこりたんじゃないの」

 なおかつ、美鶴の言うことはことごとく図星なので、余計に言い返す言葉が見つからない。

「……こりてない。今日はちょっと体調が悪かった」

 アオが喜多野昌也と出かける日と重なったので、気が散っただけだ。

「どう見てもやせ我慢」
「やせ我慢も続ければ本当になる」
「今どきそういうの、流行らないんじゃなくて」
「流行りでやってねえよ」

 鼻で笑われた。

「確かに、あなたの危惧は分かるけれど」

 美鶴との付き合いは、アオよりも長い。形骸化しているとは言え、許嫁であるため、定期的に会ってもいる。意図的であったり偶然であったりときっかけは様々だが、お互いに大概のことは明かしてしまっていた。
 椿は美鶴が長年、実家の病院に勤めている医師の一人に片思いをしていることを知っているし、当然美鶴には、椿が抱えるアオへの気持ちも悩みも知られている。
 下僕と自称するようになったのは途中からだが、ほとんど晴田見家に現れた時から、アオは椿のために働きたがっていた。そういう相手に思いの丈を伝えた後、果たしてどうなるか。良いイメージが浮かばない。椿さんの頼みなら、と何もかもを快諾されて、恋人らしい行為が、業務として行動に追加されるだけ、という気がひしひしとする。

「でもあなた、アオさんに下心で接して、姑息な手段で欲を満たしている時、あるでしょう。頭撫でたり、わざと冷たく接したり。告白して思いのままにするのは駄目だとか言いながら、あれは許すの?」
「そっ……れは……」
「セクハラではなくて? あなたの立場だとパワハラの方が適当かしら」
「……はい」

 口では従者なんてしなくていいと言っているものの、事実上、椿とアオは、主従の関係になってしまっている。そして、それを自覚しつつ椿は、アオに甘えていることがある。単にアオが気づかない、あるいは許してくれているから問題になっていないだけで、後ろめたい記憶は数え切れないほど存在している。

「そういう中途半端なことをするくらいなら、さっさと告白するべきだと思うけれど」
「……だから、それも含めて、止めるって」
「できるの?」
「できる」
「やせ我慢」
「さっきの繰り返しじゃねえか」
「繰り返せば繰り返すほど、己と向き合うことになる。自分が何から逃げているか、意識せざるを得なくなる。いい加減、自分をごまかせなくなっているでしょう」
「催眠術か何かかよ」

 美鶴の見た目の印象もあって、魔術でもかけられているように思えてくる。
 仮にアオが喜多野と結婚でもしたならば、疲れた時、あの顔を見て癒やされたいと思うことすらも、罪になりかねない。当然、理由なく触れたりするのもご法度だ。だから今はアオを伴わず、一人でも動けるように努めているのだが、正直なところを言えば、美鶴の言う通りである。
 夢を覚ますように、素っ気なく美鶴は言った。

「とは言え、私もこのやり取り、もう飽きたから。別の話をしましょうか」
「別ねぇ」
「例えば、仮に自分が誰かに告白するとしたら、どんなシチュエーションにする?」

 く、と思わずうめいてしまう。

「それ別の話になってるか?」
「相手がアオさんとは言っていません。あくまで仮定の話」

 ごまかしにもなっていない。アオについての話の続きとして、椿は答えた。

「……するとしても、今じゃない」

 日々、姑息な真似をしているのは認めるが、だからと言って、今のアオに告白することを是とは言えない。
 無闇にロマンチックな言い方にはなってしまうが、従者だからではなく、好きだから、という理由で恋人になってほしい。

「ここまで何もなく来たから、自然に気づくのを待つ、ともいかないが……。意識させた後、考えさせる時間は必要だろう。恋愛に対してアオがどう思っているかも分からないし、俺も、様子見はしたい」
「様子見はした方がいいでしょうね。無意識なんでしょうけど、あの方、恋することを避けている節もあるし」
「……避けてるか?」

 小鉢に箸をのばしながら、椿は首をかしげた。あの年になるまで、浮いた話が一切なかったのは事実だが、避けているように見えたことはない。単に興味がないか、恋愛感情を持てるような相手がいなかっただけだと、ぼんやり思っていた。

「本人のいない場所だから、詳しくは言わないけれど、そうね。恋愛に関して、何か嫌な思い出があるのかしら、と思ったことがあるわ」

 言動はちゃらんぽらんだが、美鶴は人間の機微には敏い。ずっと女子校に通っていることもあり、椿は特に女性の扱いに関しては、美鶴を信頼している。
 椿の知る範囲で思いつくのは、アオの実の両親のことである。大人の言葉や、アオ自身が漏らした言葉から断片的に知っているだけだが、親としても、夫婦としても、理想的とは到底言えない人間だったようだ。
 両親のことでなかったとしても、直接聞くのは躊躇われる。

「まあその……喜多野昌也さん、という方に強引にアタックされて、考えが変わった、という可能性もあるわね。さすがに会っていないから分からないけれど。その人のおかげで、初めて自分の恋心に気づいた……とか」

 催眠術に続き、今度はまるで呪いの言葉のようだった。

「はー! ばっかみたい」

 個室から外に漏れ出てしまいそうなくらい、美鶴は大声を出して呆れた。

「そんな顔するくらいなら、あなたもさっさとアタックしなさい。体から始まる関係とか、よくネットの広告で見るけど。いっそそれもありじゃない? ちょうど一つ屋根の下なんだし」
「お嬢様が何てことを」
「要は、現在の関係性を破壊しろ、ということ。どんな創造活動も、まずは破壊活動から、と言うでしょう」
「創造活動、だろ」
「恋も芸術も同じ同じ」

 急に雑だ。こうなると美鶴は、極端なことしか言わなくなり、相談相手としては最悪になる。
 もうそろそろ潮時だろうと、取っておいた小鉢を食べつつ、椿はふと気になって問いかけた。

「てめえ、何でそんな俺とアオをくっつけたがるんだ」

 許嫁なのに、という話はさておき、美鶴はあまり人の世話を焼くというタイプではない。
 美鶴は口元を拭って言った。

「だって、あなたたち、私の……推しカプ? だもの」

 優雅な微笑みに合わない俗極まる言動に、椿はげんなりと顔をしかめた。

「俺も詳しくはないが、確かそれ、あんま知り合いに言うもんじゃねえぞ」
「そうなの? だから学校のみんな、こそこそとして、私に教えてくれないのかしら」
「たぶん玩具にされてんだよ、お前。芸能人の熱愛で騒ぐのと同じだ」
「あらら、そういうこと。私、誰と熱愛していることになっているのかしら。教えてくれたらサービスするのに」
「……火遊びは程々にしとけよ」

 呆れながら、椿はスマートフォンを手に取る。無意識にアオからの連絡はないかと確認し、自分の思考に気がついて、舌打ちした。