結局あれから寝つくことが出来なかった私の目元には隈が出来てしまっていた。
机の上をチラッと見ると、準備途中のまま放置していた教科書が目に入る。
ため息を吐き出しながら机に向かい、スクールバックの中にそれを乱雑に詰めいれる。
壁に吊るされた制服に手を伸ばし、腕を通す。たった一日着なかっただけなのに、体に押し寄せる息苦しさのようなものがとても久しぶりに思えた。
窓を閉めて学校に行こうとしたとき、昨日と同じようにふわっとした風が部屋に流れ込んできた。
それだけで姿を見ずとも彼が来たことがわかる。
「おはよう、死神さん」
「おはよう……今日は学校行くんだな」
死神さんは私の制服姿とスクールバッグを交互に見てからそう言った。
「うん、昨日学校休んだら先生から連絡入ったみたいで……」
「そうか」
昨日の楽しかった時間とは違う、重苦しい時間が流れる。
「……願い事を聞きに来たの? それなら帰ってきたから考えるから。じゃあね」
その空気に耐えられず、話を早々と切り上げる。
私は昨日まで死神さんとどう向き合っていたんだろう。
「あ、おい!」
死神さんの制止の声を振り切って、階段を降り、家を飛び出した。
あのままあそこに留まっていたくなかった。死神さんに私が心の内に隠しているもの全部を見透かされているような気がして落ち着かなかったから。
空からは相変わらず真夏の日差しが降りかかっている。
その炎天下の中を進み続ける。
だんだんと同じ高校に登校している生徒の姿が増えてきた。
――大丈夫、大丈夫。
そう自分に暗示をかけ、震える足で校門をくぐり抜ける。
もう既に靴箱には何人もの生徒がいて、出来る限り目立たないようにと髪で顔を隠すように俯いた。
靴を履き替え、足早に靴箱近くの階段を上がる。
三階に上がってからゆっくりと自分の教室へ足を進めた。
周りの人達の話し声が全て雑音に聞こえる。まるで知らない世界に一人、取り残されたような。そんな恐ろしい感覚が私を襲った。
足を止め、右側を見る。
目の前には『一年B組』と書かれた教室。
その中からは騒がしい笑い声が聞こえて来る。
ドアを開けようと手をかけては離す。それを何度も繰り返した。
胸に手を当て、大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
それから意を決してドアを開けた。
みんなが一斉に私の方を見る。さっきまであんなに騒がしかったのに、今はそれを感じさせないほど静まり返っていた。
息が詰まる。足が竦んでしょうがない。お願いだからそんな目で私を見ないで。
鞄をギュッと掴んで下へと目を逸らす。
やっぱり私には無理だ。
踵を返そうと後退りしたとき、誰かにぶつかってよろけてしまった。
「え、あ……すみません」
脇を通り抜けようと横にずれると、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「天宮、今日は来れたんだな。良かった」
「三宅先生……」
なんてタイミングが悪いんだろう。先生に見つかったんだ。
もう帰るという選択肢を選ぶことは出来ない。
「……おはようございます」
先生に表情を悟られないように俯きがちに挨拶して教室に足を踏み入れる。
自分の席へと一直線に進んで、そこに座ろうとしたときクラスメイトの一人に声をかけられた。
「あの……天宮さん。昨日席替えして天宮さんの席はあそこに決まったの」
それだけ言うと、そそくさと友達の元へ帰って行った。
きっと私が座ろうとしていた席はあの子のものになったんだろう。だから私に話しかけた。迷惑だから。理由はたったそれだけ。
その証拠にあの子の瞳は私を映してはいなかった。
いつものこと。だけど、それがどうしようもなく辛い。
早く席に着こうと教えられた窓際の一番端の席に向かう。
普通はみんな先生にあまり見られない端の席に座りたがるはずなのに、今回は休んでいた私にこの席が与えられた。
そのわけがなんとなくわかる気がする。
邪魔だからあっちに行け。
直接誰かに言われたわけじゃない。だけど、きっとこの席にはそういう意味合いがあるんだと思った。
ふう、と一つ息をつき席に座ると同時にチャイムが学校に鳴り響いた。
「よーし、授業を始めるぞ」
三宅先生の一言で今まで話していた人達もぞろぞろと自分の席に戻っていく。
私も教科書とノートを開け、授業に集中しようと気持ちを入れ替える。
授業中は班ワークや、ペアワークをしない限り唯一学校内で心落ち着ける時間だった。
みんな真っ直ぐに前だけ見て、勉強のことだけしか考えていないから。
それから一から四時間目まで同じように授業を受け、間休憩もトイレにこもりなんとかやり過ごした。
そして迎えた昼休み。チャイムと同時に教室から逃げるように出た私は、人気の少ない体育館裏に来ていた。
私はこの時間が一番嫌いだ。
長い長い時間を一人で耐えなければいけない。
周りに人がいないことを確認して、その場に座り込む。
それからポケットの中に忍ばせておいた免疫抑制薬を一気に流し込んだ。この薬はあと五年か十年か十五年。私の心臓の寿命が尽きるまで一生飲み続けれなくてはならないものだ。
まだ手術を受けて間もない中学生のとき、一度だけ教室でこれを飲んだことがある。そのときのクラスメイトの顔が今でも忘れられない。
またそんなことが起こるかもしれないと考えただけで震えが止まらなくなる。
嫌な思考を遮断するように顔を膝にうずくめた。
もちろん冷房なんてものはなくて、暑さが全身を包み込む。次の授業が始まるまで四十分。
どうにかここで時間を潰そうと思ったとき、女子生徒の話し声が聞こえてきた。
「そういえばさ、天宮さん今日は来たね」
自分の名前が出て、心臓がドクッと波打つ。暑さのせいじゃない、変な汗が背中に滲む。
「悪く言うつもりはないけどさ……正直迷惑だよね。同じクラスってだけで私たちまで変な目で見られるだもん」
私が知らないところで、私のせいで迷惑している人がいる。
その事実は一人で孤独に耐えることより、私を重く苦しめた。
もし私が原因でみんなも周りから冷たい視線を向けられているとしたら、そしたら私はもう被害者面なんて出来ない。
涙が、嗚咽が溢れないように必死に唇を噛む。
気がつけば休み時間終了まで十分を切っていた。
どんな顔で教室に戻ればいい?
どんな気持ちででクラスメイトからの視線を受け止めればいい?
次々と疑問が湧いて思考がばらける。
それは次第にある一つの気持ちに吸収されていった。
――戻りたくない。今すぐここから立ち去りたい。
重い腰をあげ、裏門へ足を進める。そこから出たらきっとばれない。
私が逃げ出せば先生に心配されるかもしれない。また電話がかかってきて親に迷惑をかけるかもしれない。
だけど、今はそんな後のことを考える余裕はなかった。
学校の敷地内を出てから、宛もなく歩き出す。
家の鍵はポケットに入っている。帰ろうと思えば帰ることも出来た。
けれど、どうしてもそうしようと思えないのは学校を飛び出した罪悪からかもしれない。
しばらく歩いていると、川のせせらぎが聞こえてきた。
その音に誘われるように歩いていると川で遊んでいる子供や、話を弾ませているお年寄りが目に入った。
河川敷に腰を下ろし、その様子をボーッと眺める。
私はいったい何なんだろう。生きていても死んでも私という存在が誰かに迷惑をかける。
じゃあ私の生まれた意味ってなに?
答えの出ない自問自答を繰り返していると、私のところにピンポイントで影が落ちた。
不思議に思って上を向くと、死神さんが私の顔を覗き込んでいた。
「死神さん……なんでここにいるの?」
「それはこっちのセリフだ」
死神さんはそう言うと私の隣に座った。
「学校はどうしたんだよ」
「……別に。死神さんには関係ないよ」
私の態度が気に食わなかったのか、彼は不満そうに口を開けた。
「あっそ。聞いてやろうと思ったのにな」
それがまた私の心を掻き乱す。
「そんなのお願いしてない」
もう自分で自分をコントロール出来るほどの余裕が今の私にはなかった。
「話を聞いてやる? ふざけないでよ。死神さんにわかるの? 周りの人に迷惑をかけ続ける私の気持ちが」
これは完全に死神さんへの八つ当たりだとわかってる。
それでも言葉が流れ出て止まらない。
「全部、自分の心臓のせいだって言いたいのか?」
反射的に顔を上げる。死神さんは私を見たまま微動だにしない。
「なんで……知ってるの?」
死神さんに私のことを話した覚えは少しもない。それなのにどうして……
「俺は死神だ。自分の担当する人のことくらい調べてる」
「それはどこまで……」
開いた口が塞がらない。
「情報でいうならお前の過去のことは全部。黙っててわるかった」
それなら確かに海で私の体調に気をつかってくれたことも腑に落ちる。
申し訳なさそうに俯く死神さんを前に、どうしようもない悲しみが込み上げてきた。彼も結局、私に同情して優しくしてくれていただけなんだ。
「……そうだよ。全部全部この心臓のせいだ」
胸に手をおき、心臓が痛くなるほど強く掴む。
「これがあるから親や先生、クラスメイト。その全員に迷惑をかける。死にたいと思っても私が死んだら、借金をしてまで手術を受けさせてくれた親の優しさを踏みにじることになる。だから、だから……」
息がどんどん上がっていく。死神さんはそんな私の様子をただ隣で静かに見ているだけだった。
「死神さんが私の死は運命だって言ってくれて嬉しいかったの。もう悩まなくていいんだって。運命なら仕方ないって自分を納得させることができるって思ってた」
死神さんが私の過去を全部知っているなら隠す必要なんてない。
誰かに聞いてほしかった。誰かに共感してほしかった。今まで頑張ったねと言ってほしかった。
それだけなのに、死神さんの口から出た言葉はとても冷たいものだった。
「なんだよそれ……お前は結局、自分が死にたくない理由を親に押し付けてるだけだろ。俺が聞いてやるって言ったのはそんな偽りだらけの言葉じゃない。お前の本音だ」
風が私たちの間を切り裂くように通る。
そのとき初めて見えた死神さんの琥珀色の瞳が私を掴んで離さない。
「言えよ。本当のこと全部」
彼が何を言っているのかわからない。あれが私の本音じゃないなら、どれが本音だというんだ。
心の中がぐちゃぐちゃになって、これ以上私の心に踏み込んでほしく無くて拒絶した。
「あれが私の本音だよ! もういいでしょ。お願いだからどっか行って……」
死神さんは驚いたように目を開けてから、ゆっくりと立ち上がる。
「……それがお前の願いなら、俺はそれに従う。じゃあな」
そう言うと彼は瞬きする間にどこかへ消えていった。
感情に身を任せ放ってしまった言葉に一人、頭を抱える。
そんな私とは裏腹に河川敷付近では穏やかな風景が流れていた。その雰囲気に呑まれるように上半身を倒し、空を見上げる。
真上の目を惹かれるほど晴れ渡っている空は、西からやってくる雨雲に今にも覆われそうになっていた。
「もうすぐ雨が降るのかな」
空に向かって手を伸ばしたとき、鼻先にポツンと雫が降ってきた。周りにいる人達も気づいたのか雨が本格的に降り始める前に近くにある橋の下に向かっている。
雨は次第に激しさを増し、私が腰を上げ橋の下へと辿り着く前に制服が濡れてしまった。
もういっそのことこの雨が今日起きた出来事の記憶を全部、頭の中から洗い流してはくれないだろうか。
そんな馬鹿で甘い考えが浮かぶ。
今更、橋の下に行ったって何も変わらない。そう思って、またどこへ向かうでもなく歩き始める。
今は雨のせいか、どこへ行ってもシンと静まり返っていた。
ぶらぶらと辺りを彷徨っていると、見覚えのある懐かしい公園に辿り着いた。他にあてもなくて、三角屋根の下に設置されたベンチに腰掛ける。
地面に叩きつけられる幾多もの雫が草木と交じり合い、その柔らかな匂いは私の鼻を擽った。
目を閉じると、まだ四歳くらいのときの自分がお母さんと辺りを駆け回って遊ぶ姿が脳裏を横切る。
そのときはまだ、未来の私がこんなダメな人間になるとは考えもしなかった。
夏とはいえ濡れた服のまま外を出歩くのはさすがに寒く、鳥肌がたった腕を少しでも温かくなるよう擦った。
しばらくの間、そうしていると学校帰りを連想させる小学校低学年ほどの男の子が、傘を振り回しながら目の前を通ろうとしていた。
「もうそんな無時間か」
ここにいたら学校から帰ってる途中のクラスメイトに会ってしまうかもしれない。だから、もっと人目のつかない場所に移動しようと思ったとき、さっきの男の子が足を滑らせ転んでしまった。
「あ、大丈夫……?」
そばに駆け寄って、転んだ状態からピクリとも動かない男の子に声をかける。もしかしたら泣いているかもしれない。
そう思うと、どうしたらいいのかわからず私がオドオドとしてしまう。
けれど、それは杞憂だととすぐにわかった。
「うん、大丈夫だよ! 僕強いから。でもありがとう、お姉ちゃん!」
その男の子はむくりと起き上がると泥だらけの顔で笑いながらお礼を言った。
「でも服が……その格好で帰ったらお母さん困っちゃわない?」
服は一面に泥がべっとりとこびりついている。きっとこれは洗っても落ちないだろう。
「困っちゃうかもだけど、お母さん優しいから大丈夫!」
全く答えになっていないのに、お母さんのことを誇らしげに話す姿を見て少し羨ましいと思った。私にはきっと出来ないことだから。
「そっか、じゃあね。気をつけて帰るんだよ」
今度こそこの場から立ち去ろうと男の子に手を振って歩き出そうとしたとき、後ろから服を引っ張られた。
何事かと思い、振り返る。今は一時的にかもしれないが雨が弱まってきている。この子だって私と同じくらい雨に打たれて、そのうえ泥だらけなんだ。弱まってる今のうちに帰った方がいいのに。
「どうしたの?」
「お姉ちゃん。僕のお家来ない? 風邪引いちゃうよ」
突然の誘いにどう返したらいいのかわからず、困ってしまう。
「えっと、私は……」
視線を泳がせてから口を開こうとしたら、その男の子が心配そうに私の顔を下からじっと見つめていたことに気がついた。
心臓となんの関係もない純粋な眼差しを向けられたのは久しぶりで、遠慮の言葉が口から出る前に別の言葉が零れ落ちた。
「じゃあ、お邪魔してもいいかな?」
*
それから二人で公園を出て、男の子に手を引かれるまま道を右へ行ったり左へ行ったりを繰り返している。
「ねえ、名前はなんて言うの?」
家にお邪魔するんだから名前くらい知っていた方がいい気がしてぐんぐんと前に進んでいく後ろ姿に問う。
その子は顔だけを振り向かせると、とびきりの笑顔で名前を教えてくれた。
「優希だよ! お姉ちゃんは?」
「私は天宮依織。優希くんの家はどこらへんにあるの?」
さっきから結構歩いているはずなのに目的地へ着く気配がない。家がそんなにも遠くにあるんだろうか。
そんなことを考えていると、優希くんは急に歩く足を止めた。
「着いたよ! ここが僕の家!」
そう言って手を離し、目の前の一軒家を指さした。当たり前なのかもしれないけど、その家にはしっかりと明かりが灯っている。
優希くんは自分の背丈より少し高い場所に設置されたインターホンを背伸びしながら押した。
すると家の中から慌ただしいドタドタとした音と共に大学生くらいのお姉さんらしき人が玄関の扉を勢いよく開けた。
「優希! 遅かったね……ってなんでそんな泥まみれなの!? あと、こちらの方は……」
そのお姉さんは泥塗れの優希くんとずぶ濡れの私を交互に見る。その姿はとても困惑しているようだった。
「公園で転けちゃったんだ。そしたらこのお姉ちゃんが助けてくれたの」
「そうだったんだ。すみません、ありがとうございます」
頭を下げられ、今度はこっちが困惑してしまう。
「いえ! 私はそんな大したことはしてなくて……」
これは本当のことだ。優希くんは私がいなくてもきっと一人で立ち上がり家に帰っていただろう。だから私が頭を下げられるのは筋違いなんだ。
私とお姉さんがお互いに頭を下げ合っていると、優希くんはつまらなそうに唇を尖らせ私たちの手を握った。
「早く家に入ろうよ。お母ちゃんも中にいるんでしょ?」
「あっ、そうだよね。お母さんももちろん中にいるよ」
お姉さんはそう言いながら優しく優希くんの背中を押すと、次は私の方を見ながら口を開けた。
「あなたも入って」
「え、いや私は……」
「いいから早く! 風邪引く前に、ね?」
遠慮して帰ろうとするも、手首を掴まれ半ば強引に家の中に放り込まれてしまった。
「お母ちゃん! ただいまー!」
優希くんが大きな声をだしながら、奥にいるであろうお母さんの元へ走っていこうとする。けれど、お姉ちゃんによって行く手を阻まれていた。
「ちょっと優希! 泥だらけのままリビングに行こうとしない。お風呂沸いてるから入ってきて」
「はあい」
渋々といった感じで優希くんはそのまま私を置いてお風呂へ向かって行った。
「えっと、それで……」
お姉さんは私の方をじっと見て視線を泳がせる。それが何を意味しているのかはすぐにわかった。
「あの、天宮依織です」
「依織ちゃんね。私は明日菜。依織ちゃんもお風呂入る? 結構濡れてるみたいだし」
明日菜さんは頭から足まで、全身に目をやった。確かに濡れてはいるが、さすがにそこまでしてもらうのは申し訳ないと思い、必死に体の前で手を振った。
「全然大丈夫です! 私もう帰りますし……」
「それはだめ。お風呂には入らなくていいから、せめて服は着替えよ。私の古着あげるからさ。ここでちょっと待っててくれる?」
そう言うと、私が返事をする前に玄関近くにあった階段を駆け上がっていった。私は必然的に一人、玄関に取り残されることになる。
周りに置かれているものを濡らさないように細心の注意を払いながら明日菜さんが戻ってくるのを待っていた。
すると、どこからか姿を現した三毛猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら私の足に擦り寄ってくる。
「茶々が知らない人に甘えるなんて滅多にないのよ。あなたはきっと優しいのね」
突然話しかけられて、思わず体が硬直してしまう。足元にいる猫からバッと前に視線を移す。
そこにはお腹が大きく膨らんでいる女性がたっていた。きっと優希くんと明日菜さんのお母さんだ。妊婦さんだったなんて……
「あっ、ごめんなさいね。急に話しかけて」
その人は眉を下げ、少し困ったような笑顔を浮かべながらそう言った。
「いえ、全然……」
「奥の部屋で話を聞いてたの。優希を助けてくれてありがとう。私は今、見ての通り子供を身ごもっていて学校のお迎えに行けないから心配だったのよ」
お腹を優しく撫でながらも、その目は確かに優希くんのことを案じているようだ。
ああ、この人は正真正銘の母親だ。心から子供のことを大切にしている。誰に聞いたってこの人は立派な母親だと答えるだろう。
「優希くんのこととても大切に思ってるんですね」
優希くんだってお母さんからの愛情をしっかりと受け止めている。だけど私は違う。その愛情に触れるのが少し怖い。
「……ねえ、依織ちゃん。何か悩んでることがあるなら聞くわよ」
私が驚いたように口をぽかんと開けていると、優希くんのお母さんは眉を下げ、優しく笑った。
「だってさっきからずっと思い詰めたような顔してるんだもの。やっぱり大人として、ほっておけないでしょ?」
「あの……その……」
重い口を開けては閉じ、開けては閉じを繰り返し、やっと鉛のような言葉が出た。
優希くんのお母さんは首を傾げ、私の次の言葉を待ってくれている。
本当の母親に聞くことが出来なくても、この人になら聞くことが出来るかもしれないと、そう思った。
「もし、もしも……自分の子供が病気にかかって……そのせいで借金ができたら。自分の人生が狂わされたら……どう思いますか?」
どこに視線を向けたらいいのかわからず、床を見る。
恐る恐る優希くんのお母さんの方を向くと、口をぽかんと開けて私のことを見つめていた。
変なことを聞いてしまったんだ。そういう反応をされてもおかしくない。
「やっぱり忘れてください。本当に大したことないことなんで……」
笑みを浮かべ、そう開き直る。けれど、優希くんのお母さんは「うーん」と少し考える素振りを見せてから、優しく温かい眼差しを私に移した。
「そうねえ……私は嬉しいと思うかな」
「……え?」
予想の斜め上の言葉に目を見開く。
「だって、自分の人生をかけて子供を助けることが出来るのよ? これ以上に喜ばしいことってある?」
嘘偽りない澄みきった声に胸が打たれ、視界がぼやける。私のその様子を見て、優希のお母さんは慌てながら言い足した。
「病気になってくれて嬉しいとか、そんなことを言ってるわけじゃないの。そうじゃなくてね……」
わかってるという意味を込めて、コクコクと頷く。嗚咽が漏れ出さないように必死に口を抑えながら、地面に座り込んだ。
背中をゆっくりと落ち着かせるように撫でてくれる。
「大丈夫よ。大丈夫」
もう涙を我慢することなんてできなくて、久しぶりに人前で声を出して泣いた。
もし私の両親も優希くんのお母さんと同じ考えで、毎日毎日夜遅くまで働いていたなら。
そう思うと涙がどうしても止まらなかった。
私の大きな泣き声が聞こえたのか、明日菜さんが足音を立てながら階段を駆け下りてくる。
「え、お母さん。何してるの!? 泣かせたの!?」
ものすごい剣幕で自分の母親に迫る明日菜さん。私はその誤解を解くために勢いよく立ち上がった。
二人とも動きを止め、じっとこっちを見ている。
「違うんです! ただ自分が情けなくて、でも嬉しくて……泣いてるだけなんです」
上手く言葉にすることは出来ない。それでも今、私が何を感じて何を思ったのか伝えなければならない。
「それならいいんだけど……うちのお母さんに泣かされたならいつでも言ってね。私がちゃんと怒るから」
明日菜さんは腕を捲って、拳を天井に突き上げる。優希くんのお母さんはそんな明日菜さんの姿を見て「ふふ」っと笑った。
「しないわよ、そんなこと。ね? 依織ちゃん」
「はい、もちろん」
私もそれにつられて口角が自然と上がる。そんな私を前に明日菜さんが何かを思い出したように、私に近寄ってきた。
「はい、これ。私の古着だけど、濡れた制服よりかは着心地いいと思うよ」
「ありがとうございます」
素直にその服を受け取り、案内された部屋で服を着替えた。古着とはいえ、私が持っているものよりセンスが良いそれに、着せられてる感がすごいなと苦笑いが零れる。
服と一緒に渡されたビニール袋の中に制服を入れ、また玄関へと戻った。
そこにはお風呂から上がった優希くんもあって、今いる家族総出で私のことを見送ってくれた。
「依織お姉ちゃん! また来てね! 今度は僕の宝物見せてあげるから」
「優希もこう言ってることだし、ぜひ来てね。待ってるわ」
「また私の古着あげるからねえ」
その声に押されるように玄関のドアを開ける。いつの間にか雨は止んでいて、満点の青空が外に広がっていた。
それはまるで私の心に呼応するかのように。
何歩か踏み出し後ろを振り返ると、まだ三人とも手を振ってくれている。そこに向かって深く頭を下げ、また足を進めた。
家に帰っている途中に死神さんに言われた言葉を思い出す。
『お前は結局、自分が死にたくない理由を親に押し付けてるだけだろ』
本当は彼の放った言葉の意味を初めから理解してた。だけど、気づかないふりをした。
生きたい理由を探すよりも死ねない理由を自分に言い聞かせている方が楽だったから。
ずっと周りから哀れみの目を、異物を見るような目を向けられいた私は、生きたい理由を探して自分が傷つくのが怖かったから。
だから、親を悪役にまでして私は自分を正当化してきた。
でも優希くんのお母さんのあの言葉を聞いた今なら、その行為がどれほど愚かなことだったのかがわかる。
今更、死神さんに私の本音を全部聞いてほしいなんて虫が良すぎる話かもしれない。
そうだとしても謝ることくらいはしたかった。もう後悔しないためにも。
早足で家への道を進み、玄関の鍵を開け、自分の部屋に足を踏み入れる。
異様なまでに片付いている静かな私の部屋。もちろんそこに死神さんの姿はない。わかっていたはずなのに、そのことにショックを受けている自分がいた。
胸辺りの服をギュッと掴み、大きな深呼吸をひとつしてから窓を開け、ベッドに腰掛ける。
「死神さん。話を聞いてほしいの」
やはり返事はない。たとえ独り言になってしまったとしても、話すことをここで辞めるわけにはいかなかった。
「親に迷惑をかけないように、なんて言いながら私はずっと自分のことしか考えていなかった」
包み隠さず全てを吐き出していく。
「だから死神さんに図星を突かれて、すごく動揺したの。私が隠してた真っ黒な部分を全部見透かされているような気がして……怖かった……八つ当たりなんてして、ほんとうにごめんなさい」
声が震えて止まらない。自分の想いを言葉に乗せる。たったそれだけのことなのにとてつもない勇気が私には必要だった。
「……一週間後、死神さんに命を取られるそのときまで。私は、私の心のままに生きたい。それが今の本音。嘘なんかじゃないよ」
生まれて初めて言葉にした私の気持ちに、もう嘘をつくことなんてことしたくなかった。
私の想いを語り終わった瞬間にあの優しい風が部屋に流れ込んできた。目の前にはさっきまでいなかった死神さんの姿がある。
彼は「はあ」とひとつため息をつき、誰に言うまでもなく一人呟いた。
「そうきたか……まあ、一歩前進ってとこだな」
困ったように口角を上げて彼は笑った。夜の町を輝かせる月明かりに照らされ、その姿がはっきりと見える。
つい数分前まで、もし死神さんが姿を表さなくても……なんて腹を括っていたのに、彼が会いに来てくれて心底ほっとしている自分がいた。
「言っとくけどな、俺は同情なんかでお前に優しくしてたわけじゃないぞ」
おどけたように言う死神さんにコクコクと頷く。
「うん。わかってる。わかってるよ」
安心から涙が自然と頬をつたる。
服の袖で涙を拭い、目元に力を入れて死神さんを見上げた。
「今日の願い事、訂正してもいい?」
「……一日に複数の願い事を聞くことはできない。これは死神界のルールだ」
腕を組み、少し間を空けてから彼はそう答えた。
「そっ……か。それなら仕方ないよね」
思ってもない願いを感情に任せて放ってしまった過去の行いを後悔する。一度口にしたことは取り消せないんだ。わかっていたはずなのに改めてそのことを痛感してしまう。
「――それがお前の独り言なら俺には関係ないけどな」
死神さんの小さな声が耳に入ってくる。彼の方を見ると当の本人はそっぽ向いて知らん顔をしていた。
その不器用な優しさがどうしようもないほど私の心を揺さぶる。
ギュッと胸元の服を掴み、力いっぱい声を出した。
「私は残された数日間で、人生をやり直したい! 生きててよかったと思えるようなものにしたいの!」
家に私の声が響き渡る。これはけじめだった。ずっと下を向いて生きてきた私にとって大きな一歩。死神さんはそんな私の決意を後押しするかのように頭の上にそっと手を置いてくれた。
机の上をチラッと見ると、準備途中のまま放置していた教科書が目に入る。
ため息を吐き出しながら机に向かい、スクールバックの中にそれを乱雑に詰めいれる。
壁に吊るされた制服に手を伸ばし、腕を通す。たった一日着なかっただけなのに、体に押し寄せる息苦しさのようなものがとても久しぶりに思えた。
窓を閉めて学校に行こうとしたとき、昨日と同じようにふわっとした風が部屋に流れ込んできた。
それだけで姿を見ずとも彼が来たことがわかる。
「おはよう、死神さん」
「おはよう……今日は学校行くんだな」
死神さんは私の制服姿とスクールバッグを交互に見てからそう言った。
「うん、昨日学校休んだら先生から連絡入ったみたいで……」
「そうか」
昨日の楽しかった時間とは違う、重苦しい時間が流れる。
「……願い事を聞きに来たの? それなら帰ってきたから考えるから。じゃあね」
その空気に耐えられず、話を早々と切り上げる。
私は昨日まで死神さんとどう向き合っていたんだろう。
「あ、おい!」
死神さんの制止の声を振り切って、階段を降り、家を飛び出した。
あのままあそこに留まっていたくなかった。死神さんに私が心の内に隠しているもの全部を見透かされているような気がして落ち着かなかったから。
空からは相変わらず真夏の日差しが降りかかっている。
その炎天下の中を進み続ける。
だんだんと同じ高校に登校している生徒の姿が増えてきた。
――大丈夫、大丈夫。
そう自分に暗示をかけ、震える足で校門をくぐり抜ける。
もう既に靴箱には何人もの生徒がいて、出来る限り目立たないようにと髪で顔を隠すように俯いた。
靴を履き替え、足早に靴箱近くの階段を上がる。
三階に上がってからゆっくりと自分の教室へ足を進めた。
周りの人達の話し声が全て雑音に聞こえる。まるで知らない世界に一人、取り残されたような。そんな恐ろしい感覚が私を襲った。
足を止め、右側を見る。
目の前には『一年B組』と書かれた教室。
その中からは騒がしい笑い声が聞こえて来る。
ドアを開けようと手をかけては離す。それを何度も繰り返した。
胸に手を当て、大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
それから意を決してドアを開けた。
みんなが一斉に私の方を見る。さっきまであんなに騒がしかったのに、今はそれを感じさせないほど静まり返っていた。
息が詰まる。足が竦んでしょうがない。お願いだからそんな目で私を見ないで。
鞄をギュッと掴んで下へと目を逸らす。
やっぱり私には無理だ。
踵を返そうと後退りしたとき、誰かにぶつかってよろけてしまった。
「え、あ……すみません」
脇を通り抜けようと横にずれると、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「天宮、今日は来れたんだな。良かった」
「三宅先生……」
なんてタイミングが悪いんだろう。先生に見つかったんだ。
もう帰るという選択肢を選ぶことは出来ない。
「……おはようございます」
先生に表情を悟られないように俯きがちに挨拶して教室に足を踏み入れる。
自分の席へと一直線に進んで、そこに座ろうとしたときクラスメイトの一人に声をかけられた。
「あの……天宮さん。昨日席替えして天宮さんの席はあそこに決まったの」
それだけ言うと、そそくさと友達の元へ帰って行った。
きっと私が座ろうとしていた席はあの子のものになったんだろう。だから私に話しかけた。迷惑だから。理由はたったそれだけ。
その証拠にあの子の瞳は私を映してはいなかった。
いつものこと。だけど、それがどうしようもなく辛い。
早く席に着こうと教えられた窓際の一番端の席に向かう。
普通はみんな先生にあまり見られない端の席に座りたがるはずなのに、今回は休んでいた私にこの席が与えられた。
そのわけがなんとなくわかる気がする。
邪魔だからあっちに行け。
直接誰かに言われたわけじゃない。だけど、きっとこの席にはそういう意味合いがあるんだと思った。
ふう、と一つ息をつき席に座ると同時にチャイムが学校に鳴り響いた。
「よーし、授業を始めるぞ」
三宅先生の一言で今まで話していた人達もぞろぞろと自分の席に戻っていく。
私も教科書とノートを開け、授業に集中しようと気持ちを入れ替える。
授業中は班ワークや、ペアワークをしない限り唯一学校内で心落ち着ける時間だった。
みんな真っ直ぐに前だけ見て、勉強のことだけしか考えていないから。
それから一から四時間目まで同じように授業を受け、間休憩もトイレにこもりなんとかやり過ごした。
そして迎えた昼休み。チャイムと同時に教室から逃げるように出た私は、人気の少ない体育館裏に来ていた。
私はこの時間が一番嫌いだ。
長い長い時間を一人で耐えなければいけない。
周りに人がいないことを確認して、その場に座り込む。
それからポケットの中に忍ばせておいた免疫抑制薬を一気に流し込んだ。この薬はあと五年か十年か十五年。私の心臓の寿命が尽きるまで一生飲み続けれなくてはならないものだ。
まだ手術を受けて間もない中学生のとき、一度だけ教室でこれを飲んだことがある。そのときのクラスメイトの顔が今でも忘れられない。
またそんなことが起こるかもしれないと考えただけで震えが止まらなくなる。
嫌な思考を遮断するように顔を膝にうずくめた。
もちろん冷房なんてものはなくて、暑さが全身を包み込む。次の授業が始まるまで四十分。
どうにかここで時間を潰そうと思ったとき、女子生徒の話し声が聞こえてきた。
「そういえばさ、天宮さん今日は来たね」
自分の名前が出て、心臓がドクッと波打つ。暑さのせいじゃない、変な汗が背中に滲む。
「悪く言うつもりはないけどさ……正直迷惑だよね。同じクラスってだけで私たちまで変な目で見られるだもん」
私が知らないところで、私のせいで迷惑している人がいる。
その事実は一人で孤独に耐えることより、私を重く苦しめた。
もし私が原因でみんなも周りから冷たい視線を向けられているとしたら、そしたら私はもう被害者面なんて出来ない。
涙が、嗚咽が溢れないように必死に唇を噛む。
気がつけば休み時間終了まで十分を切っていた。
どんな顔で教室に戻ればいい?
どんな気持ちででクラスメイトからの視線を受け止めればいい?
次々と疑問が湧いて思考がばらける。
それは次第にある一つの気持ちに吸収されていった。
――戻りたくない。今すぐここから立ち去りたい。
重い腰をあげ、裏門へ足を進める。そこから出たらきっとばれない。
私が逃げ出せば先生に心配されるかもしれない。また電話がかかってきて親に迷惑をかけるかもしれない。
だけど、今はそんな後のことを考える余裕はなかった。
学校の敷地内を出てから、宛もなく歩き出す。
家の鍵はポケットに入っている。帰ろうと思えば帰ることも出来た。
けれど、どうしてもそうしようと思えないのは学校を飛び出した罪悪からかもしれない。
しばらく歩いていると、川のせせらぎが聞こえてきた。
その音に誘われるように歩いていると川で遊んでいる子供や、話を弾ませているお年寄りが目に入った。
河川敷に腰を下ろし、その様子をボーッと眺める。
私はいったい何なんだろう。生きていても死んでも私という存在が誰かに迷惑をかける。
じゃあ私の生まれた意味ってなに?
答えの出ない自問自答を繰り返していると、私のところにピンポイントで影が落ちた。
不思議に思って上を向くと、死神さんが私の顔を覗き込んでいた。
「死神さん……なんでここにいるの?」
「それはこっちのセリフだ」
死神さんはそう言うと私の隣に座った。
「学校はどうしたんだよ」
「……別に。死神さんには関係ないよ」
私の態度が気に食わなかったのか、彼は不満そうに口を開けた。
「あっそ。聞いてやろうと思ったのにな」
それがまた私の心を掻き乱す。
「そんなのお願いしてない」
もう自分で自分をコントロール出来るほどの余裕が今の私にはなかった。
「話を聞いてやる? ふざけないでよ。死神さんにわかるの? 周りの人に迷惑をかけ続ける私の気持ちが」
これは完全に死神さんへの八つ当たりだとわかってる。
それでも言葉が流れ出て止まらない。
「全部、自分の心臓のせいだって言いたいのか?」
反射的に顔を上げる。死神さんは私を見たまま微動だにしない。
「なんで……知ってるの?」
死神さんに私のことを話した覚えは少しもない。それなのにどうして……
「俺は死神だ。自分の担当する人のことくらい調べてる」
「それはどこまで……」
開いた口が塞がらない。
「情報でいうならお前の過去のことは全部。黙っててわるかった」
それなら確かに海で私の体調に気をつかってくれたことも腑に落ちる。
申し訳なさそうに俯く死神さんを前に、どうしようもない悲しみが込み上げてきた。彼も結局、私に同情して優しくしてくれていただけなんだ。
「……そうだよ。全部全部この心臓のせいだ」
胸に手をおき、心臓が痛くなるほど強く掴む。
「これがあるから親や先生、クラスメイト。その全員に迷惑をかける。死にたいと思っても私が死んだら、借金をしてまで手術を受けさせてくれた親の優しさを踏みにじることになる。だから、だから……」
息がどんどん上がっていく。死神さんはそんな私の様子をただ隣で静かに見ているだけだった。
「死神さんが私の死は運命だって言ってくれて嬉しいかったの。もう悩まなくていいんだって。運命なら仕方ないって自分を納得させることができるって思ってた」
死神さんが私の過去を全部知っているなら隠す必要なんてない。
誰かに聞いてほしかった。誰かに共感してほしかった。今まで頑張ったねと言ってほしかった。
それだけなのに、死神さんの口から出た言葉はとても冷たいものだった。
「なんだよそれ……お前は結局、自分が死にたくない理由を親に押し付けてるだけだろ。俺が聞いてやるって言ったのはそんな偽りだらけの言葉じゃない。お前の本音だ」
風が私たちの間を切り裂くように通る。
そのとき初めて見えた死神さんの琥珀色の瞳が私を掴んで離さない。
「言えよ。本当のこと全部」
彼が何を言っているのかわからない。あれが私の本音じゃないなら、どれが本音だというんだ。
心の中がぐちゃぐちゃになって、これ以上私の心に踏み込んでほしく無くて拒絶した。
「あれが私の本音だよ! もういいでしょ。お願いだからどっか行って……」
死神さんは驚いたように目を開けてから、ゆっくりと立ち上がる。
「……それがお前の願いなら、俺はそれに従う。じゃあな」
そう言うと彼は瞬きする間にどこかへ消えていった。
感情に身を任せ放ってしまった言葉に一人、頭を抱える。
そんな私とは裏腹に河川敷付近では穏やかな風景が流れていた。その雰囲気に呑まれるように上半身を倒し、空を見上げる。
真上の目を惹かれるほど晴れ渡っている空は、西からやってくる雨雲に今にも覆われそうになっていた。
「もうすぐ雨が降るのかな」
空に向かって手を伸ばしたとき、鼻先にポツンと雫が降ってきた。周りにいる人達も気づいたのか雨が本格的に降り始める前に近くにある橋の下に向かっている。
雨は次第に激しさを増し、私が腰を上げ橋の下へと辿り着く前に制服が濡れてしまった。
もういっそのことこの雨が今日起きた出来事の記憶を全部、頭の中から洗い流してはくれないだろうか。
そんな馬鹿で甘い考えが浮かぶ。
今更、橋の下に行ったって何も変わらない。そう思って、またどこへ向かうでもなく歩き始める。
今は雨のせいか、どこへ行ってもシンと静まり返っていた。
ぶらぶらと辺りを彷徨っていると、見覚えのある懐かしい公園に辿り着いた。他にあてもなくて、三角屋根の下に設置されたベンチに腰掛ける。
地面に叩きつけられる幾多もの雫が草木と交じり合い、その柔らかな匂いは私の鼻を擽った。
目を閉じると、まだ四歳くらいのときの自分がお母さんと辺りを駆け回って遊ぶ姿が脳裏を横切る。
そのときはまだ、未来の私がこんなダメな人間になるとは考えもしなかった。
夏とはいえ濡れた服のまま外を出歩くのはさすがに寒く、鳥肌がたった腕を少しでも温かくなるよう擦った。
しばらくの間、そうしていると学校帰りを連想させる小学校低学年ほどの男の子が、傘を振り回しながら目の前を通ろうとしていた。
「もうそんな無時間か」
ここにいたら学校から帰ってる途中のクラスメイトに会ってしまうかもしれない。だから、もっと人目のつかない場所に移動しようと思ったとき、さっきの男の子が足を滑らせ転んでしまった。
「あ、大丈夫……?」
そばに駆け寄って、転んだ状態からピクリとも動かない男の子に声をかける。もしかしたら泣いているかもしれない。
そう思うと、どうしたらいいのかわからず私がオドオドとしてしまう。
けれど、それは杞憂だととすぐにわかった。
「うん、大丈夫だよ! 僕強いから。でもありがとう、お姉ちゃん!」
その男の子はむくりと起き上がると泥だらけの顔で笑いながらお礼を言った。
「でも服が……その格好で帰ったらお母さん困っちゃわない?」
服は一面に泥がべっとりとこびりついている。きっとこれは洗っても落ちないだろう。
「困っちゃうかもだけど、お母さん優しいから大丈夫!」
全く答えになっていないのに、お母さんのことを誇らしげに話す姿を見て少し羨ましいと思った。私にはきっと出来ないことだから。
「そっか、じゃあね。気をつけて帰るんだよ」
今度こそこの場から立ち去ろうと男の子に手を振って歩き出そうとしたとき、後ろから服を引っ張られた。
何事かと思い、振り返る。今は一時的にかもしれないが雨が弱まってきている。この子だって私と同じくらい雨に打たれて、そのうえ泥だらけなんだ。弱まってる今のうちに帰った方がいいのに。
「どうしたの?」
「お姉ちゃん。僕のお家来ない? 風邪引いちゃうよ」
突然の誘いにどう返したらいいのかわからず、困ってしまう。
「えっと、私は……」
視線を泳がせてから口を開こうとしたら、その男の子が心配そうに私の顔を下からじっと見つめていたことに気がついた。
心臓となんの関係もない純粋な眼差しを向けられたのは久しぶりで、遠慮の言葉が口から出る前に別の言葉が零れ落ちた。
「じゃあ、お邪魔してもいいかな?」
*
それから二人で公園を出て、男の子に手を引かれるまま道を右へ行ったり左へ行ったりを繰り返している。
「ねえ、名前はなんて言うの?」
家にお邪魔するんだから名前くらい知っていた方がいい気がしてぐんぐんと前に進んでいく後ろ姿に問う。
その子は顔だけを振り向かせると、とびきりの笑顔で名前を教えてくれた。
「優希だよ! お姉ちゃんは?」
「私は天宮依織。優希くんの家はどこらへんにあるの?」
さっきから結構歩いているはずなのに目的地へ着く気配がない。家がそんなにも遠くにあるんだろうか。
そんなことを考えていると、優希くんは急に歩く足を止めた。
「着いたよ! ここが僕の家!」
そう言って手を離し、目の前の一軒家を指さした。当たり前なのかもしれないけど、その家にはしっかりと明かりが灯っている。
優希くんは自分の背丈より少し高い場所に設置されたインターホンを背伸びしながら押した。
すると家の中から慌ただしいドタドタとした音と共に大学生くらいのお姉さんらしき人が玄関の扉を勢いよく開けた。
「優希! 遅かったね……ってなんでそんな泥まみれなの!? あと、こちらの方は……」
そのお姉さんは泥塗れの優希くんとずぶ濡れの私を交互に見る。その姿はとても困惑しているようだった。
「公園で転けちゃったんだ。そしたらこのお姉ちゃんが助けてくれたの」
「そうだったんだ。すみません、ありがとうございます」
頭を下げられ、今度はこっちが困惑してしまう。
「いえ! 私はそんな大したことはしてなくて……」
これは本当のことだ。優希くんは私がいなくてもきっと一人で立ち上がり家に帰っていただろう。だから私が頭を下げられるのは筋違いなんだ。
私とお姉さんがお互いに頭を下げ合っていると、優希くんはつまらなそうに唇を尖らせ私たちの手を握った。
「早く家に入ろうよ。お母ちゃんも中にいるんでしょ?」
「あっ、そうだよね。お母さんももちろん中にいるよ」
お姉さんはそう言いながら優しく優希くんの背中を押すと、次は私の方を見ながら口を開けた。
「あなたも入って」
「え、いや私は……」
「いいから早く! 風邪引く前に、ね?」
遠慮して帰ろうとするも、手首を掴まれ半ば強引に家の中に放り込まれてしまった。
「お母ちゃん! ただいまー!」
優希くんが大きな声をだしながら、奥にいるであろうお母さんの元へ走っていこうとする。けれど、お姉ちゃんによって行く手を阻まれていた。
「ちょっと優希! 泥だらけのままリビングに行こうとしない。お風呂沸いてるから入ってきて」
「はあい」
渋々といった感じで優希くんはそのまま私を置いてお風呂へ向かって行った。
「えっと、それで……」
お姉さんは私の方をじっと見て視線を泳がせる。それが何を意味しているのかはすぐにわかった。
「あの、天宮依織です」
「依織ちゃんね。私は明日菜。依織ちゃんもお風呂入る? 結構濡れてるみたいだし」
明日菜さんは頭から足まで、全身に目をやった。確かに濡れてはいるが、さすがにそこまでしてもらうのは申し訳ないと思い、必死に体の前で手を振った。
「全然大丈夫です! 私もう帰りますし……」
「それはだめ。お風呂には入らなくていいから、せめて服は着替えよ。私の古着あげるからさ。ここでちょっと待っててくれる?」
そう言うと、私が返事をする前に玄関近くにあった階段を駆け上がっていった。私は必然的に一人、玄関に取り残されることになる。
周りに置かれているものを濡らさないように細心の注意を払いながら明日菜さんが戻ってくるのを待っていた。
すると、どこからか姿を現した三毛猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら私の足に擦り寄ってくる。
「茶々が知らない人に甘えるなんて滅多にないのよ。あなたはきっと優しいのね」
突然話しかけられて、思わず体が硬直してしまう。足元にいる猫からバッと前に視線を移す。
そこにはお腹が大きく膨らんでいる女性がたっていた。きっと優希くんと明日菜さんのお母さんだ。妊婦さんだったなんて……
「あっ、ごめんなさいね。急に話しかけて」
その人は眉を下げ、少し困ったような笑顔を浮かべながらそう言った。
「いえ、全然……」
「奥の部屋で話を聞いてたの。優希を助けてくれてありがとう。私は今、見ての通り子供を身ごもっていて学校のお迎えに行けないから心配だったのよ」
お腹を優しく撫でながらも、その目は確かに優希くんのことを案じているようだ。
ああ、この人は正真正銘の母親だ。心から子供のことを大切にしている。誰に聞いたってこの人は立派な母親だと答えるだろう。
「優希くんのこととても大切に思ってるんですね」
優希くんだってお母さんからの愛情をしっかりと受け止めている。だけど私は違う。その愛情に触れるのが少し怖い。
「……ねえ、依織ちゃん。何か悩んでることがあるなら聞くわよ」
私が驚いたように口をぽかんと開けていると、優希くんのお母さんは眉を下げ、優しく笑った。
「だってさっきからずっと思い詰めたような顔してるんだもの。やっぱり大人として、ほっておけないでしょ?」
「あの……その……」
重い口を開けては閉じ、開けては閉じを繰り返し、やっと鉛のような言葉が出た。
優希くんのお母さんは首を傾げ、私の次の言葉を待ってくれている。
本当の母親に聞くことが出来なくても、この人になら聞くことが出来るかもしれないと、そう思った。
「もし、もしも……自分の子供が病気にかかって……そのせいで借金ができたら。自分の人生が狂わされたら……どう思いますか?」
どこに視線を向けたらいいのかわからず、床を見る。
恐る恐る優希くんのお母さんの方を向くと、口をぽかんと開けて私のことを見つめていた。
変なことを聞いてしまったんだ。そういう反応をされてもおかしくない。
「やっぱり忘れてください。本当に大したことないことなんで……」
笑みを浮かべ、そう開き直る。けれど、優希くんのお母さんは「うーん」と少し考える素振りを見せてから、優しく温かい眼差しを私に移した。
「そうねえ……私は嬉しいと思うかな」
「……え?」
予想の斜め上の言葉に目を見開く。
「だって、自分の人生をかけて子供を助けることが出来るのよ? これ以上に喜ばしいことってある?」
嘘偽りない澄みきった声に胸が打たれ、視界がぼやける。私のその様子を見て、優希のお母さんは慌てながら言い足した。
「病気になってくれて嬉しいとか、そんなことを言ってるわけじゃないの。そうじゃなくてね……」
わかってるという意味を込めて、コクコクと頷く。嗚咽が漏れ出さないように必死に口を抑えながら、地面に座り込んだ。
背中をゆっくりと落ち着かせるように撫でてくれる。
「大丈夫よ。大丈夫」
もう涙を我慢することなんてできなくて、久しぶりに人前で声を出して泣いた。
もし私の両親も優希くんのお母さんと同じ考えで、毎日毎日夜遅くまで働いていたなら。
そう思うと涙がどうしても止まらなかった。
私の大きな泣き声が聞こえたのか、明日菜さんが足音を立てながら階段を駆け下りてくる。
「え、お母さん。何してるの!? 泣かせたの!?」
ものすごい剣幕で自分の母親に迫る明日菜さん。私はその誤解を解くために勢いよく立ち上がった。
二人とも動きを止め、じっとこっちを見ている。
「違うんです! ただ自分が情けなくて、でも嬉しくて……泣いてるだけなんです」
上手く言葉にすることは出来ない。それでも今、私が何を感じて何を思ったのか伝えなければならない。
「それならいいんだけど……うちのお母さんに泣かされたならいつでも言ってね。私がちゃんと怒るから」
明日菜さんは腕を捲って、拳を天井に突き上げる。優希くんのお母さんはそんな明日菜さんの姿を見て「ふふ」っと笑った。
「しないわよ、そんなこと。ね? 依織ちゃん」
「はい、もちろん」
私もそれにつられて口角が自然と上がる。そんな私を前に明日菜さんが何かを思い出したように、私に近寄ってきた。
「はい、これ。私の古着だけど、濡れた制服よりかは着心地いいと思うよ」
「ありがとうございます」
素直にその服を受け取り、案内された部屋で服を着替えた。古着とはいえ、私が持っているものよりセンスが良いそれに、着せられてる感がすごいなと苦笑いが零れる。
服と一緒に渡されたビニール袋の中に制服を入れ、また玄関へと戻った。
そこにはお風呂から上がった優希くんもあって、今いる家族総出で私のことを見送ってくれた。
「依織お姉ちゃん! また来てね! 今度は僕の宝物見せてあげるから」
「優希もこう言ってることだし、ぜひ来てね。待ってるわ」
「また私の古着あげるからねえ」
その声に押されるように玄関のドアを開ける。いつの間にか雨は止んでいて、満点の青空が外に広がっていた。
それはまるで私の心に呼応するかのように。
何歩か踏み出し後ろを振り返ると、まだ三人とも手を振ってくれている。そこに向かって深く頭を下げ、また足を進めた。
家に帰っている途中に死神さんに言われた言葉を思い出す。
『お前は結局、自分が死にたくない理由を親に押し付けてるだけだろ』
本当は彼の放った言葉の意味を初めから理解してた。だけど、気づかないふりをした。
生きたい理由を探すよりも死ねない理由を自分に言い聞かせている方が楽だったから。
ずっと周りから哀れみの目を、異物を見るような目を向けられいた私は、生きたい理由を探して自分が傷つくのが怖かったから。
だから、親を悪役にまでして私は自分を正当化してきた。
でも優希くんのお母さんのあの言葉を聞いた今なら、その行為がどれほど愚かなことだったのかがわかる。
今更、死神さんに私の本音を全部聞いてほしいなんて虫が良すぎる話かもしれない。
そうだとしても謝ることくらいはしたかった。もう後悔しないためにも。
早足で家への道を進み、玄関の鍵を開け、自分の部屋に足を踏み入れる。
異様なまでに片付いている静かな私の部屋。もちろんそこに死神さんの姿はない。わかっていたはずなのに、そのことにショックを受けている自分がいた。
胸辺りの服をギュッと掴み、大きな深呼吸をひとつしてから窓を開け、ベッドに腰掛ける。
「死神さん。話を聞いてほしいの」
やはり返事はない。たとえ独り言になってしまったとしても、話すことをここで辞めるわけにはいかなかった。
「親に迷惑をかけないように、なんて言いながら私はずっと自分のことしか考えていなかった」
包み隠さず全てを吐き出していく。
「だから死神さんに図星を突かれて、すごく動揺したの。私が隠してた真っ黒な部分を全部見透かされているような気がして……怖かった……八つ当たりなんてして、ほんとうにごめんなさい」
声が震えて止まらない。自分の想いを言葉に乗せる。たったそれだけのことなのにとてつもない勇気が私には必要だった。
「……一週間後、死神さんに命を取られるそのときまで。私は、私の心のままに生きたい。それが今の本音。嘘なんかじゃないよ」
生まれて初めて言葉にした私の気持ちに、もう嘘をつくことなんてことしたくなかった。
私の想いを語り終わった瞬間にあの優しい風が部屋に流れ込んできた。目の前にはさっきまでいなかった死神さんの姿がある。
彼は「はあ」とひとつため息をつき、誰に言うまでもなく一人呟いた。
「そうきたか……まあ、一歩前進ってとこだな」
困ったように口角を上げて彼は笑った。夜の町を輝かせる月明かりに照らされ、その姿がはっきりと見える。
つい数分前まで、もし死神さんが姿を表さなくても……なんて腹を括っていたのに、彼が会いに来てくれて心底ほっとしている自分がいた。
「言っとくけどな、俺は同情なんかでお前に優しくしてたわけじゃないぞ」
おどけたように言う死神さんにコクコクと頷く。
「うん。わかってる。わかってるよ」
安心から涙が自然と頬をつたる。
服の袖で涙を拭い、目元に力を入れて死神さんを見上げた。
「今日の願い事、訂正してもいい?」
「……一日に複数の願い事を聞くことはできない。これは死神界のルールだ」
腕を組み、少し間を空けてから彼はそう答えた。
「そっ……か。それなら仕方ないよね」
思ってもない願いを感情に任せて放ってしまった過去の行いを後悔する。一度口にしたことは取り消せないんだ。わかっていたはずなのに改めてそのことを痛感してしまう。
「――それがお前の独り言なら俺には関係ないけどな」
死神さんの小さな声が耳に入ってくる。彼の方を見ると当の本人はそっぽ向いて知らん顔をしていた。
その不器用な優しさがどうしようもないほど私の心を揺さぶる。
ギュッと胸元の服を掴み、力いっぱい声を出した。
「私は残された数日間で、人生をやり直したい! 生きててよかったと思えるようなものにしたいの!」
家に私の声が響き渡る。これはけじめだった。ずっと下を向いて生きてきた私にとって大きな一歩。死神さんはそんな私の決意を後押しするかのように頭の上にそっと手を置いてくれた。