「それで、あの鬼火はどういった仕組みなんだ」
「帰って早々それですか」
左大臣邸を後にし、一度二条の邸に戻った主は、さらさらと遅い朝食の粥を食べ、そう切り出した。参内の予定はあるが朝早くからというわけでもなし、自邸でゆっくり休んでいくつもりなのだろう。
「そんなことよりも、あの導士、捕縛されたのですか? よくわからないまま三条の邸を出てきてしまったではないですか。というか、鬼火が仕込みだということは説明なさったんですか」
「それはもちろん。従者が仕掛けのある奇術を使って導士の力を試す、とあらかじめ説明してあった。導士は……まあ、そうだな。まあ、逃げ帰ったことが噂で伝わることは彼女もわかっているだろうし、もう貴族に詐欺を働こうとはしないだろうさ」
内大臣家が詐欺被害に遭ったことは特に知られていない。内大臣家も騙されたことを言いふらしたくはないだろうし、詐欺師も捕縛しておかなくてももう悪さをしないはず、放っておけばそれで丸く収まるというわけか。まあ話はわかるが。
「で、仕組み」
「ああはいはい……」
わくわくとした様子で身を乗り出す主。
俺はかぶりを振って昨夜の子供だまし手品の仕掛けを説明する。
「別に難しい仕掛けは何も。古布を丸めて、細い針金を巻き、それを木の棒から細い針金でつるしたものをいくつか作って、木の陰からふわふわ揺れているように動かすだけです。『人魂』の火で自分が照らし出されてしまっては無意味なので、私は木の陰に隠れて……」
「そのあたりは想像がついている。青い火は?」
言葉を途中で遮るなと思いつつ、続ける。
「……古布に酒と銅の粉をたっぷり仕込んでおいたんですよ。そうすると油や松明の火とは違って炎が青くなるので、見慣れない者が見れば人魂だと思うでしょう」
「確かに。暗い中、しかも遠目なら、非常に不気味だった。ある程度知らされていた私でも」
主が、「騙す側」の詐欺師の女が慌てふためいて出て行くのは少しすっとしたな、と笑う。相変わらず性悪だが、同意だ。
「本当に、お前は妙なことをよく知っているな。銅は燃えると青く見えるのか」
「ええ、まあ。大したことではありませんよ、こんなもの」
本当に大したことではない。
ただの炎色反応だ。高校で化学に触れた者なら誰だって知っている。
銅の炎色反応は正しくは青緑だが、この平安時代では緑も青と表現するので、青で間違ってはいない。
奇術の件も、マジックをちょっとかじっていればタネくらいすぐにわかる。
ものを言い当てる話も、コールドリーディングとホットリーディングを知っていればぴんとくる。
「確かに、一つ一つのことは『大したことではない』のかもしれないな。だが、奇術のことといい、青い炎のことといい……お前は本物に、どこから知識を仕入れてきたのだろうと思うことばかりだ」
――なあ兄さんと、主が笑みを深めた。
乳兄弟であり、年上である俺を、からかう時に使う呼び方。
「ハァ、中将様。人がいないからといってお戯れは……」
「なあ惟光」
す、と主が身体ごと顔を寄せてくる。近いですよと言う前に、主が耳元に口を寄せてきた。
「今回の件。義父上が本当に何も知らなかったと思うか?」
「……は?」
「義父上はあれで海千山千。でなければ魑魅魍魎が跋扈する伏魔殿で左大臣になどなれないし、帝の妹宮を娶ることなどできないだろう。そうは思わないか?」
俺は主から身体を離す。目の前にある――きよらなると謳われる美貌のかんばせには、愉しげな笑みが浮かんだまま。
「……まさか、左の大臣様は、あの導士が詐欺師で、呪いなどでっち上げだと知っていて、わざと解決をあなたに頼んだと?」
「私と姫の仲があまりうまくいっていないことは、義父上の悩みの種だった。そこで、姫の心を悩ませていた「呪い」の話を私に解決させることで、姫の気持ちを私へ向けることを画策した。そうは考えられないか?」
「……」
有り得ない話ではない。
左大臣は穏やかに見えるが、政治がうまい。政治の均衡を保つために仕方がなく据えられた東宮ではなく、帝の寵愛めざましい第二皇子の正妻に娘を収めたことで、実際、政敵である右大臣よりも帝の覚えがめでたい状態にある。
となれば、左大臣にとって、姫と主の仲が改善しないことは、困りごとの一つだろう。
「……そうだとして。どうしてあなたはわざわざこんなことに乗っかったんですか……」
「いや。私がお前ばかり引き連れるから、何やら懇ろな仲なのではないかと疑う者がいてな」
ぞっと背筋が寒くなる。
「なんですか……その……そのおぞましい勘違いは」
「まあ同意なんだが、そこまで言うか? 男の中にも私と懇ろになりたいと思う者は多いらしいのに」
傷ついた……というようにわざとらしく眉を下げる主。自分で言うか?
「はーまあ、中将様は顔が整っていますからね……だからなんじゃないですか。私にはよくわかりませんけど」
「ははは。お前は本当に美醜がわからない奴だなあ」
そうだろう。
俺は――平安時代の人間の美醜の基準がよくわからない。男ならまだしも女の美醜となるともっとわからない。もちろん「この人は世間的に美しいとされているだろうな」ということは知識と経験から理解できる。俺も京に生まれて18年、平安人として生きてきたのだ――だが、心の底から思うかと言われると難しい。
――俺には前世の記憶がある。
21世紀令和の時代に生きた男子大学生としての感性が、平安人としての感性を邪魔をするのだ。
「お前は本当に面白い」
主が笑う。
光源氏。今の帝の第二皇子。
――そして、11世紀初めに成立した、世界最古の長編小説『源氏物語』の主人公。
「懇ろではないが、そうと誤解され、お前を何やら私から引き離した方がいいなどという話が出てきそうな空気でな。別にお前なんかをそんな目で見ることなどあるはずないが……」
「当たり前ですよ気持ち悪いですね」
「――ないが。
私はお前を手放すつもりはない。
だからわざわざお前を目立たせ、お前の手柄を見せびらかした。そばに置くのに文句を言わせないためにな」
「……へえ?」
そして俺は藤原惟光。源氏物語で珍しく名前がついた従者として有名な登場人物。死んで生まれ変わったら、俺は物語の中の、平安時代の中流貴族として生を受けていた。
藤原惟光は、生涯、光源氏を主とし、忠実な従者でいたらしい。
「葵上に言わせると、私はあまり周囲に興味を持たない質らしい。わたくしのことなどどうでもいいのでしょうと言われてしまった。代わりに、執着すると重いだろうとのことだ」
「ああ、まあ、そうでしょうね……よくわかりますよ……」
主の、藤壺女御様への執着なんぞもう、言うまでもない。
というかこの人はあと2・3年もしないうちにその藤壺女御様と密通するし、藤壺女御様にそっくりな紫の上を見出してさらうのだ。重すぎる。
「苦しい恋などと言いますけどね。あなた、あの方のことだってまったく諦めてないでしょう」
「ははは」
「はははじゃないですよ」
主は、いつも何を考えているのかわからない。源氏物語には光源氏が性悪だなんて書いてなかったはずなのに。心の奥底が読めない。
今の主はまだ16歳。女たらしになる前の源氏。それなりの時間仕えているが、主の本質はどこにあるのか、彼の行く先を少し知っている俺でもわからない。
「惟光。知識のことといい、私に一切遠慮しないその態度といい、お前は不思議な存在だ。どこの世からどうやって来たかは知らないが……私はお前を見ていると、目に見えない神仏を信じる気にさせられる」
「……それはそれは」
「お前といると退屈しない。私の執着とやらはきっとお前にも向かっているんだろう。
だからな」
主の手が俺の頬に伸びる。
光源氏が、また、笑う。
「せいぜい、永く私の側に仕えろよ」
「……ふん」
2つも年下なくせに生意気な。俺はぺいっと頬に伸びた手を払った。
主を溺愛する母や兄に知られれば殺されそうな不敬な態度だったが、俺たちのあいだではこんなものは今さらだ。
あなたがいて退屈しないのは、俺も同じだ。
この世界はつまらない。令和の時代、溺れるような娯楽と美食と平穏の中で育った俺からすれば、飢餓や病気や権力争いが身近にある平安の貴族生活は、贅沢だとわかっていても――つまらない。何より、俺は『源氏物語』のあらすじを知っている。普通なら、未来を知っているだなんて、退屈以外の何者でもない。
だが。
この先の流れをだいたい知っているからこそ、底の読めない主のそばで物語を眺めるのは、思いのほか愉快なことなのだ。
だから、俺も笑った。
――到底、主人公様の笑顔のうつくしさにはかなわないだろうが。
「ええ。せいぜい永くうまい汁を吸わせてもらいますよ」
鏈り縁なればこそ。
俺は「藤原惟光」なのだから。