秋も深まってくると、日も落ちるのも早い。
闇の足が近づいてくる三条の左大臣邸、源氏はなかなか几帳の向こうから出てこようとせず、ろくに言葉を交わそうともしない妻――葵上に、いい加減気を揉んでいた。

「また、そのようにつれない態度でおられる。私とて、あなたと普通の夫婦のように、仲睦まじくしていきたいと思っているというのに、そう冷たくされてしまうとどうすればいいのかわからなくなります」

 几帳の向こうの葵上からは特に返事がない。
源氏がこれ見よがしにハアとため息を吐いたところで、ようやく葵上が几帳のとばりをよけてちらりと顔を見せた。誂えのいい紫苑の表着(うわぎ)の袖が覗く。

「こたびの話。なぜ父の頼みを聞いたのですか」
「はい?」
「内大臣家の娘とは確かにわたくし、親しくしておりますわ。呪いの話も多少は不安に思っておりました。けれどあなた様には関係のないことでしょう」
「……関係がないなどと。私はあなたの夫ですよ?」
「実際にわたくしに災いが起こったではありません。呪いなどと考えすぎだ、むしろ不安が災いを呼び寄せてしまうから気にしすぎはよくない……などと言えば面倒事にも巻き込まれなくて済んだはずですわ」

 それなのに、と葵上が几帳から姿を現した。
 真っ直ぐ姿勢を正して、源氏に向き直るその姿は、初対面の時から変わらず優美で隙がない。

「なぜわざわざ例の導士を邸に呼び寄せ、本当に災いを防げるのか、その力を試す――などという考えに至ったのですか」
「さて……」

 そう。

 確かに今夜、この左大臣邸には例の導士がいる。左大臣から連絡を取り、一晩左大臣家に泊まってもらい、家に厄除けのまじないを施してもらう――ということになっている。左大臣の取り計らいで導士も源氏たちの近くにいるだろう。

「何事も大事をとるということは肝要でしょう。導士の力が本物であったのならば、厄除けのまじないでもう安心ですし、力が偽物であったとすれば、災いが起こるというのも偽りで、内大臣家の姫君には、偶然不幸が重なったことが、それらしく思われてしまっただけということになります」

災いが起きるとあらかじめ言われていれば、普段は強く意識しない不幸まで大きな禍だと思ってしまうのが人というものだ。……とは惟光がそれらしく言っていたことだが、源氏も確かにと思わせられた。人は思い込みの激しい生き物だ。

「導士を試すための「災いの狂言」も、彼女の力が本物であれば見破られるだろう、と?」
「ええ。あなたも、呪いのことを恐ろしく感じていたのだとすれば、ここで厄除けをしてもらった方が安心ではありませんか? ……まあ、彼女が真の神通力の持ち主であればですが」
「だとしても、どうしてあなた様がここまでのことを?」

 ――呪いのことも、わたくしのことも、本当はどうでもいいくせに。
 葵上の涼やかな目はきりりと吊り上がり、視線はひややかに源氏を射抜く。

「あなたは移り気で、そもそも、ものへの興味が薄い方。わたくしのことも正妻としながら特に執着も愛も、興味もない……」
「あなたに興味がないなどと。そんなはすがないでしょう。ひどい言われようだ」
「しらじらと。けれどもそんなことは初めからわかっておりました。今さらですわ。だとすれば今回のことはいったい、どんな思惑があってのことですの」
「……今宵のあなたはよくお話になりますね。普段からその口数で、かつもう少し愛想よく話していただければ嬉しいものですが」

 やり返しに、ちょっとした皮肉を返し、源氏は肩を竦める。

「まあとはいえ、呪いを頭ごなしに信じていないというのはそうですね。ただ私とて、霊も仏も……目に視えないものをないと思っているわけではない。どうでもいいとは思っていませんよ」
「……」

 葵上が眉をひそめる。

「――それにこういったややこしい謎には、私の従者がめっぽう強い。彼とは乳兄弟、兄弟のように育った間柄ですが、彼の知恵が光るのを見るのは、非常に面白いのです。
今回の『試し』も、彼が思いついたのですよ」
「……、あなた様は、」

 すると。
 葵上が口を開きかけたその時、邸に仕える女房の悲鳴が聞こえた。二人そろって驚き、身を強張らせるのとほぼ同時、葵上つきの女房が飛び込んでくる。 

「何事です!」
「鬼火が、鬼火が出たのです! あれはきっと人魂ですわっ」
「青い火がぽう、ぽうとこう……ああっなんとおそろしい」
「人魂? 鬼火?」

 ――導士を「試す」内容というのはこれか。そう問うように葵上が源氏に視線を向けたので、源氏は軽く頷いてみせた。
女房や家臣、下女下男には、導士に狂言と気づかれないようほとんど何も伝えていないので、彼らの怯えは本物である。

「……、人魂というのは本当に見たの?」
「多くの女房が見ております、ゆらゆらと青い炎が空中で揺れているのを……」

「姫」源氏がすぐさま口を開いた。「本当かどうか、確認しに行きましょう。その方が早い。大丈夫、私がついております。ついでに導士も呼んでまいりましょう」
「……わかりました」
「姫様っ」

 おやめください、あぶのうございますと女房が声を上げるが、源氏は葵上を連れながら渡殿へ出る。篝火が薄暗く足元を照らし出す中、早足で進んでいったところで、源氏は「あっ」と声を漏らした。
 ――渡殿から見ることができる庭。立派な植木の傍で、夜闇の中で青い二つの炎の玉が、ゆらゆら、ふわふわと浮いていた。
 篝火の炎とは明らかに違う。上下左右に漂い、その動きも不規則だ。

「鬼火……」

 呟いた葵上がはっと我に返ったように源氏を振り仰ぐ。その視線を受け、源氏が導士の居場所はどこだとあたりを見まわしたとき、焦った様子の導士が渡殿に飛び出してきた。
 源氏はここぞとばかりに近寄っていき、助けを乞う。

「導士殿! ちょうどいいところに。鬼火です。人魂が出たのです。まじないはどうなりました? 追い払うことはできますか?」
「え、う、ああ……」
「導士殿? どうされました? ああ、ほら、ご覧に! 近づいてまいります。どうにか……どうにかできないのですか! 呪いを鎮めることは……」
「そ、そんな……あ、あんなの知らな……」

 冷や汗をかき、じりじりと後ずさっていた導士が一瞬、ぴたりと動きを止める。

「導士殿、」

 しかし、源氏がもう一度呼びかけようとした次の瞬間、彼女は身を翻し、脱兎のごとく駆け出した。「あ――あんなもの知りませぬ!」

「おっと」

すさまじい勢いで庭に下り、彼女の身体は闇に紛れてあっという間に見えなくなる。
その様子をどこか呆然と見送った源氏は、同じように驚きで固まっている、かたわらの葵上に視線を遣った。「……どうやら、偽物の導士だったようですね」

見れば、既に庭に浮かんでいた青い火の玉も消えている。
しばらく待っていると、庭の木の陰で何かが動く気配がした。その何かはゆっくりと近づいてくるたびに人影であるとわかるようになり、渡殿の篝火の灯りで、ようやく顔が見えるようになった。
人影――惟光がひざまずき、「逃げたようですね」と言った。

「そのようだな」

 源氏は微笑み、頷いた。「うん。ご苦労だった、惟光」