左大臣家といえば主にとっては婚家である。主より4つ年上の妻の実家だ。
もともとは主の兄――東宮妃にと望まれていたそうだが、主上の意向により主の妻となったのが左大臣家の大姫・葵上様だ。葵上様の母宮は、主上と同じ后腹の妹宮ということなので、従姉弟同士での結婚となるわけだが、臣籍降下したとはいえ皇子と帝の姪、とんでもない血筋同士の夫婦である。
――だが主と葵上様の仲はあまりよろしくない。
「別に嫌っているわけじゃないんだよ」
と、左大臣家の邸に向かう牛車――主と葵上様は別居婚である――に揺られながら主は言う。「美人で、気位が高くて、不愛想でね。とっつきにくいんだ」
まあ皇太子の嫁にと思われていた姫君であれば気位は高かろう。俺はうんうんと頷いて、「女御になるような御身分の方ですからねえ。まあ臣籍降下された皇子に嫁がされたら不愛想にもなりますよねえ」
「お前は少し口を慎め」
はたかれた。
とはいえ、左大臣と北の方との仲は悪くない。だからこそ主は呼ばれたら向かうのである。
久しく訪れた三条の左大臣邸の庭の誂えといえば、見事の一言だった。
片側が吹き放しになっている中門廊から一望できる南庭には、秋の美しい花々が咲いている。趣向を凝らした黒木や赤木の間垣がその花々のあいだに作られ、花弁にある夕露までもが光り輝かんばかりだ。
できればぼんやりと庭だけ眺めていたいものだったが、そういうわけにもいかない。女房に案内されながら左大臣のもとへ行く。俺は主のそばに控えた。
「お久しゅうございます、義父上」
「ああ、源氏の君。よくいらしてくれました」
……気まず。
天上の身分の男たちの会話を近くで聴きながら、俺は正面にある壁の木目を数える。穏やかな顔をしながら、この二人は「どうして娘のところにあんまり来てくれないんです?」「いやあちょっと忙しくて(あんたのところの娘の態度が悪いんじゃ)」みたいな、胃の痛い舅と婿の会話を繰り広げ始める。別に仲が悪いわけではないけれども、若夫婦がぎくしゃくしていると会話もちょっとぎくしゃくしているようだ。
さっさと本題に入ってくんないかなあ、と思ったところで、主が切り出した。「それで、私に何やらお話があるとか。いかがいたしましたか」
そうだ、と左大臣が居住まいを正す。
「実は近々我が家に災いがあるかもしれぬと」
「なんですって?」
主が怪訝に眉を上げる。
「いや、さすがに信じ難い話ではあるのですが……」
――要は、左大臣の話とはこうだった。
近頃、葵上様のご友人である内大臣家の姫君のもとに、怪しげな導士の女が訪れた。その導士の女は最近京で噂の腕利きの神通力の持ち主であり、一部の貴族の間では仙女の娘なのではないかと騒がれている女だったという。
そしてその女が言うには、内大臣家の姫君は、どこぞから、「感染る呪い」のようなものをもらってきてしまったらしい。姫君は、女の言を受けて以降、家の中で大けがをしそうになったり、外出の時に動物の死骸を見てしまったりと、不幸に見舞われ続けたそうだ。今のままでも気味が悪いというのに、これ以上の不幸に見舞われてはたまらぬと、姫君は女に助けを求め、よく効く札をもらって事なきを得たが――。
「その呪いに、葵上様もかかってしまったのではないかと?」
「内大臣家の姫君とは、我が娘も親しくしていて、ついこの間も弦楽の会を共にしたと」
「なるほど……」
その導士の女の神通力を見たという貴族は思いのほか多いらしく、往来で見かけることもあるらしい。何もないところから屯食などを取り出して貧しい子どもにやったり、鼠を触らずに殺してみせたり、はたまた今までにあったことをぴたり言い当てたり。
それらしい力があるようだからこそ、左大臣も気を揉んでいるとのことだ。
「その導士の女の素性はわからないのですか? どこぞの出身の者だとか、陰陽師を輩出する家系であるとか……」
別に陰陽師だからといって必ずしも神通力を持っているわけではないが、確かに祈祷やよく当たる占いをして異能者のように扱われる者がいることもある。
「それがさっぱりなのです。身元のわからぬ者の言うことをどこまで信じるべきかとも思ったのですが……葵も親しい友人から直接聞いた話であることから恐ろしげにしておりまして……」
「なんと……」
なんと、じゃない。自分の嫁のことだろ。
他人事のような主に呆れつつ、この話の内容じゃその反応にもなるかとも思う。
京の貴族は信心深い者が多い。だが、俺も主も神仏の恵みやら御仏の加護やら神通力やらを、頭から信じられない質(たち)だ。くだらぬと思っていてもくだらぬとは口に出せない難しい立場である。
「わかりました、義父上。呪いとやらが本当か、導士の女が何者か、そのあたりを調べてみましょう。もしも真ならば呪いを祓ってもらえばよし、出任せであれば姫の憂いも解けましょう」
「ああ、源氏の君。ありがとうございます」
「いえ、最近多忙にしてなかなか訪ねられませんでしたので、姫にいい所を見せられる機会を授けてくださり、ありがたい。それに私には頼もしい従者もおりますから」
おい。
「……おお、その若者が」
「……藤原惟光と申します」
油断していたところに突然の紹介。あわてて頭を下げる。よもやこの主、何も分からなかったら俺のせいにする気か? ふざけないでほしい。
主が挨拶もそこそこに立ち上がる。
「では行くぞ、惟光。早速調べてみようじゃないか」
勘弁してくれ。
もともとは主の兄――東宮妃にと望まれていたそうだが、主上の意向により主の妻となったのが左大臣家の大姫・葵上様だ。葵上様の母宮は、主上と同じ后腹の妹宮ということなので、従姉弟同士での結婚となるわけだが、臣籍降下したとはいえ皇子と帝の姪、とんでもない血筋同士の夫婦である。
――だが主と葵上様の仲はあまりよろしくない。
「別に嫌っているわけじゃないんだよ」
と、左大臣家の邸に向かう牛車――主と葵上様は別居婚である――に揺られながら主は言う。「美人で、気位が高くて、不愛想でね。とっつきにくいんだ」
まあ皇太子の嫁にと思われていた姫君であれば気位は高かろう。俺はうんうんと頷いて、「女御になるような御身分の方ですからねえ。まあ臣籍降下された皇子に嫁がされたら不愛想にもなりますよねえ」
「お前は少し口を慎め」
はたかれた。
とはいえ、左大臣と北の方との仲は悪くない。だからこそ主は呼ばれたら向かうのである。
久しく訪れた三条の左大臣邸の庭の誂えといえば、見事の一言だった。
片側が吹き放しになっている中門廊から一望できる南庭には、秋の美しい花々が咲いている。趣向を凝らした黒木や赤木の間垣がその花々のあいだに作られ、花弁にある夕露までもが光り輝かんばかりだ。
できればぼんやりと庭だけ眺めていたいものだったが、そういうわけにもいかない。女房に案内されながら左大臣のもとへ行く。俺は主のそばに控えた。
「お久しゅうございます、義父上」
「ああ、源氏の君。よくいらしてくれました」
……気まず。
天上の身分の男たちの会話を近くで聴きながら、俺は正面にある壁の木目を数える。穏やかな顔をしながら、この二人は「どうして娘のところにあんまり来てくれないんです?」「いやあちょっと忙しくて(あんたのところの娘の態度が悪いんじゃ)」みたいな、胃の痛い舅と婿の会話を繰り広げ始める。別に仲が悪いわけではないけれども、若夫婦がぎくしゃくしていると会話もちょっとぎくしゃくしているようだ。
さっさと本題に入ってくんないかなあ、と思ったところで、主が切り出した。「それで、私に何やらお話があるとか。いかがいたしましたか」
そうだ、と左大臣が居住まいを正す。
「実は近々我が家に災いがあるかもしれぬと」
「なんですって?」
主が怪訝に眉を上げる。
「いや、さすがに信じ難い話ではあるのですが……」
――要は、左大臣の話とはこうだった。
近頃、葵上様のご友人である内大臣家の姫君のもとに、怪しげな導士の女が訪れた。その導士の女は最近京で噂の腕利きの神通力の持ち主であり、一部の貴族の間では仙女の娘なのではないかと騒がれている女だったという。
そしてその女が言うには、内大臣家の姫君は、どこぞから、「感染る呪い」のようなものをもらってきてしまったらしい。姫君は、女の言を受けて以降、家の中で大けがをしそうになったり、外出の時に動物の死骸を見てしまったりと、不幸に見舞われ続けたそうだ。今のままでも気味が悪いというのに、これ以上の不幸に見舞われてはたまらぬと、姫君は女に助けを求め、よく効く札をもらって事なきを得たが――。
「その呪いに、葵上様もかかってしまったのではないかと?」
「内大臣家の姫君とは、我が娘も親しくしていて、ついこの間も弦楽の会を共にしたと」
「なるほど……」
その導士の女の神通力を見たという貴族は思いのほか多いらしく、往来で見かけることもあるらしい。何もないところから屯食などを取り出して貧しい子どもにやったり、鼠を触らずに殺してみせたり、はたまた今までにあったことをぴたり言い当てたり。
それらしい力があるようだからこそ、左大臣も気を揉んでいるとのことだ。
「その導士の女の素性はわからないのですか? どこぞの出身の者だとか、陰陽師を輩出する家系であるとか……」
別に陰陽師だからといって必ずしも神通力を持っているわけではないが、確かに祈祷やよく当たる占いをして異能者のように扱われる者がいることもある。
「それがさっぱりなのです。身元のわからぬ者の言うことをどこまで信じるべきかとも思ったのですが……葵も親しい友人から直接聞いた話であることから恐ろしげにしておりまして……」
「なんと……」
なんと、じゃない。自分の嫁のことだろ。
他人事のような主に呆れつつ、この話の内容じゃその反応にもなるかとも思う。
京の貴族は信心深い者が多い。だが、俺も主も神仏の恵みやら御仏の加護やら神通力やらを、頭から信じられない質(たち)だ。くだらぬと思っていてもくだらぬとは口に出せない難しい立場である。
「わかりました、義父上。呪いとやらが本当か、導士の女が何者か、そのあたりを調べてみましょう。もしも真ならば呪いを祓ってもらえばよし、出任せであれば姫の憂いも解けましょう」
「ああ、源氏の君。ありがとうございます」
「いえ、最近多忙にしてなかなか訪ねられませんでしたので、姫にいい所を見せられる機会を授けてくださり、ありがたい。それに私には頼もしい従者もおりますから」
おい。
「……おお、その若者が」
「……藤原惟光と申します」
油断していたところに突然の紹介。あわてて頭を下げる。よもやこの主、何も分からなかったら俺のせいにする気か? ふざけないでほしい。
主が挨拶もそこそこに立ち上がる。
「では行くぞ、惟光。早速調べてみようじゃないか」
勘弁してくれ。