――腐れ縁という言葉がある。
ご存知切っても切れない縁のことであり、悪縁を自嘲していう言葉でもあるそうだ。くされとは「鏈り」を兼ねた語でもあるというから、まったくどうしようもない。
「ハァ~~~~~」
仕事やめてえ~。
苦節18年、俺はここでの暮らしに耐えてきた。飯はまずいわ日常の生活は不便だわ、文化にも慣れない。ここの基準ではそれなりにいい暮らしをしているはずなのだが嫌なものは嫌だし慣れないものは慣れない。
それにだ――。
「なんだ、惟光。ずいぶんと大きな溜息だな」
胡乱な目のまま大げさに息を吐き出せば、後ろから声を掛けられる。うおお! と思ってその場を飛び退けば、見知った顔が近くにあった。
最悪だ。……仕事やめてえ、まで、口にしてなかったよな、俺。
「それはどうも、お耳汚しを失礼いたしました……中将様」
「はは、気にするな」
奴は、お前の溜息なんざ聞き慣れている、と、柔らかな笑顔で毒を吐く。ハハハ左様ですか……などと引き攣った笑顔で答えながら、胡乱な眼差しになるのをやめられない。
だいたいこの人がこの笑顔を見せる時は、ろくなことがないと相場が決まっているのだ。そしてその面倒事には従者であるこの俺が巻き込まれるとこれまた相場が決まっているのだ……。
――今上帝の二の皇子にして、今は臣下となった我が主。
光る源氏の君こそが、俺の今生の腐れ縁であればこそ。
*
諸氏は乳兄弟をご存知だろうか。乳兄弟である。血縁の兄弟ではないけれども、同じ乳を飲んで育てられた者同士のことをこう呼ぶ。――俺と光源氏の君こと我が主は乳兄弟として育った。要は、帝の第二皇子として生まれた彼の乳母が俺の実母であったということだ。
この時代、貴人の乳兄弟は近しい従者となるのが割合一般的と言える。その例に漏れず、俺は子どもの頃から近しい従者としてこのひとの傍に仕えているし、この先も仕えることになると決まっている。……まあ、うちの御主人様は幼少期主上に溺愛されて育ったので、他の乳兄弟に比べて子どもの時分の接点は少なかったかもしれないが。
閑話休題。
渡殿にぼうっと突っ立ってないで碁の相手でもしろと言われて連れてこられた私室で、俺は主と向かい合って眉間を揉んだ。――ちなみにここは後宮・淑景舎、主が主上より賜った夜勤のための部屋で、かつては主の御母堂・桐壺更衣の住まいだった場所である。
「そんなに私は常日頃から溜息をついていますか」
「ついているぞ、ハァハァハァハァとうるさいくらいに」
「ちょっとやめてくださいよ……言い方があるでしょ言い方が」
まるで人を変態みたいに。やめてほしい。「……最近、私があなたの近しい従者であることを妬む輩が増えてるんですよ。おかしな誤解をされては困ります」
「ははは」主がかるーく笑った。「お前とおかしな誤解。――ナイな」
こっちのセリフである。
つい最近近衛中将となりあそばされた我が主は、俺より2つ年下の16歳だ。きよらなる玉の男皇子だのこの世のものならずだの――生まれた時から(更衣腹であるという血筋以外は)完全無欠の皇子様扱いをされてきた彼は、評判に劣らず飛びぬけた美形だ。高貴な生まれだからか、汚い下心を直接向けられたことはないのだろうが、まあ主は男女問わずいろんな意味で狙われているのである。
乳兄弟は基本腐れ縁だ。同じ乳で育った者同士というだけだが、繋がりは必然的に強くなる。だから俺に言われてもそこんとこはもうどうしようもないというに――咲き初めの蕾よろしくまさに少年から青年へと輝き出した主の傍に侍りたいとのたまう男ども(そう、男である。ぞっとしない)が最近うざったいのだ。
だから最近、俺は従者をやめたい。無理だけど。
「人の趣味なんてそれぞれでしょうけど、私は男色はちょっと。かなりの美人とまではいかなくともそれなりに可愛くてそれなりの身分の姫君とお近づきになりたいので……」
「そうは言うがお前、女の美醜の判断がめっぽう苦手じゃないか」
「うるさいですね。最近ようやくわかってきたところなんですよ」
確かに俺は女性に限らず人の美醜を見分けるのが苦手だが、これも生まれつきだ。それに、幼少期は内裏で育ち、輝く日の宮とまで言われる美女・藤壺女御様にかわいがられ、目が肥えまくった主と俺は生育環境が違う。
主がふっと自嘲するように笑った。
「……まあお前の望む恋がどんなものであれ、私の恋ほど、実るのが難しいものではないだろうな」
「……」
まあそれはそうである。
口に出すにもはばかられることだが我が主は、例の藤壺女御様――主上の妃、つまり父親の嫁である――に懸想しているのだ
(まあ、義母とはいえ、5つ年上の美人なお姉さんにこどもの頃から猫かわいがりされてたとすると、初恋拗らせるのも無理はない)。
「……なんとか言ったらどうなんだ。主が傷心なんだぞ」
「ナントカ……あだだだだっだだ手の甲つねらないでください」
「惟光お前主を愚弄するつもりか」
「ですけど中将様がなんとか言えっていででででで爪を立てるのはナシでしょ」
暴れたせいか碁盤が揺れて碁石が混ざる。まあ別に真面目に対局してもいなかったのだが、主はぐちゃぐちゃになった碁石をきっちり元の場所に戻してみせた。盤面を覚えていたらしい。化け物か。
「……それで、今度は一体私に何をお望みなんですか」
「ん?」
「あなたがわかりやすく落ち込んだ! みたいなことを言ってみせて同情を買おうとするときは、だいたい面倒事を頼みたいときでしょう。いい加減学びました」
小細工をされなくたって、命令があればやることはやる。そういうふうに生まれ育ったし、残念ながらそういう縁だ。
「……ふふ。そうだな」
主が俺の手の甲から指を離した。爪の痕が残り、赤くなった手の甲を摩りながら主を睨みつけると美貌の近衛中将は「なら聞け」と言う。
「実は左大臣家に呼ばれているんだ」
「は」
「少し面倒な相談をされそうでな。お前の知恵を貸してほしいんだよ」
ご存知切っても切れない縁のことであり、悪縁を自嘲していう言葉でもあるそうだ。くされとは「鏈り」を兼ねた語でもあるというから、まったくどうしようもない。
「ハァ~~~~~」
仕事やめてえ~。
苦節18年、俺はここでの暮らしに耐えてきた。飯はまずいわ日常の生活は不便だわ、文化にも慣れない。ここの基準ではそれなりにいい暮らしをしているはずなのだが嫌なものは嫌だし慣れないものは慣れない。
それにだ――。
「なんだ、惟光。ずいぶんと大きな溜息だな」
胡乱な目のまま大げさに息を吐き出せば、後ろから声を掛けられる。うおお! と思ってその場を飛び退けば、見知った顔が近くにあった。
最悪だ。……仕事やめてえ、まで、口にしてなかったよな、俺。
「それはどうも、お耳汚しを失礼いたしました……中将様」
「はは、気にするな」
奴は、お前の溜息なんざ聞き慣れている、と、柔らかな笑顔で毒を吐く。ハハハ左様ですか……などと引き攣った笑顔で答えながら、胡乱な眼差しになるのをやめられない。
だいたいこの人がこの笑顔を見せる時は、ろくなことがないと相場が決まっているのだ。そしてその面倒事には従者であるこの俺が巻き込まれるとこれまた相場が決まっているのだ……。
――今上帝の二の皇子にして、今は臣下となった我が主。
光る源氏の君こそが、俺の今生の腐れ縁であればこそ。
*
諸氏は乳兄弟をご存知だろうか。乳兄弟である。血縁の兄弟ではないけれども、同じ乳を飲んで育てられた者同士のことをこう呼ぶ。――俺と光源氏の君こと我が主は乳兄弟として育った。要は、帝の第二皇子として生まれた彼の乳母が俺の実母であったということだ。
この時代、貴人の乳兄弟は近しい従者となるのが割合一般的と言える。その例に漏れず、俺は子どもの頃から近しい従者としてこのひとの傍に仕えているし、この先も仕えることになると決まっている。……まあ、うちの御主人様は幼少期主上に溺愛されて育ったので、他の乳兄弟に比べて子どもの時分の接点は少なかったかもしれないが。
閑話休題。
渡殿にぼうっと突っ立ってないで碁の相手でもしろと言われて連れてこられた私室で、俺は主と向かい合って眉間を揉んだ。――ちなみにここは後宮・淑景舎、主が主上より賜った夜勤のための部屋で、かつては主の御母堂・桐壺更衣の住まいだった場所である。
「そんなに私は常日頃から溜息をついていますか」
「ついているぞ、ハァハァハァハァとうるさいくらいに」
「ちょっとやめてくださいよ……言い方があるでしょ言い方が」
まるで人を変態みたいに。やめてほしい。「……最近、私があなたの近しい従者であることを妬む輩が増えてるんですよ。おかしな誤解をされては困ります」
「ははは」主がかるーく笑った。「お前とおかしな誤解。――ナイな」
こっちのセリフである。
つい最近近衛中将となりあそばされた我が主は、俺より2つ年下の16歳だ。きよらなる玉の男皇子だのこの世のものならずだの――生まれた時から(更衣腹であるという血筋以外は)完全無欠の皇子様扱いをされてきた彼は、評判に劣らず飛びぬけた美形だ。高貴な生まれだからか、汚い下心を直接向けられたことはないのだろうが、まあ主は男女問わずいろんな意味で狙われているのである。
乳兄弟は基本腐れ縁だ。同じ乳で育った者同士というだけだが、繋がりは必然的に強くなる。だから俺に言われてもそこんとこはもうどうしようもないというに――咲き初めの蕾よろしくまさに少年から青年へと輝き出した主の傍に侍りたいとのたまう男ども(そう、男である。ぞっとしない)が最近うざったいのだ。
だから最近、俺は従者をやめたい。無理だけど。
「人の趣味なんてそれぞれでしょうけど、私は男色はちょっと。かなりの美人とまではいかなくともそれなりに可愛くてそれなりの身分の姫君とお近づきになりたいので……」
「そうは言うがお前、女の美醜の判断がめっぽう苦手じゃないか」
「うるさいですね。最近ようやくわかってきたところなんですよ」
確かに俺は女性に限らず人の美醜を見分けるのが苦手だが、これも生まれつきだ。それに、幼少期は内裏で育ち、輝く日の宮とまで言われる美女・藤壺女御様にかわいがられ、目が肥えまくった主と俺は生育環境が違う。
主がふっと自嘲するように笑った。
「……まあお前の望む恋がどんなものであれ、私の恋ほど、実るのが難しいものではないだろうな」
「……」
まあそれはそうである。
口に出すにもはばかられることだが我が主は、例の藤壺女御様――主上の妃、つまり父親の嫁である――に懸想しているのだ
(まあ、義母とはいえ、5つ年上の美人なお姉さんにこどもの頃から猫かわいがりされてたとすると、初恋拗らせるのも無理はない)。
「……なんとか言ったらどうなんだ。主が傷心なんだぞ」
「ナントカ……あだだだだっだだ手の甲つねらないでください」
「惟光お前主を愚弄するつもりか」
「ですけど中将様がなんとか言えっていででででで爪を立てるのはナシでしょ」
暴れたせいか碁盤が揺れて碁石が混ざる。まあ別に真面目に対局してもいなかったのだが、主はぐちゃぐちゃになった碁石をきっちり元の場所に戻してみせた。盤面を覚えていたらしい。化け物か。
「……それで、今度は一体私に何をお望みなんですか」
「ん?」
「あなたがわかりやすく落ち込んだ! みたいなことを言ってみせて同情を買おうとするときは、だいたい面倒事を頼みたいときでしょう。いい加減学びました」
小細工をされなくたって、命令があればやることはやる。そういうふうに生まれ育ったし、残念ながらそういう縁だ。
「……ふふ。そうだな」
主が俺の手の甲から指を離した。爪の痕が残り、赤くなった手の甲を摩りながら主を睨みつけると美貌の近衛中将は「なら聞け」と言う。
「実は左大臣家に呼ばれているんだ」
「は」
「少し面倒な相談をされそうでな。お前の知恵を貸してほしいんだよ」