夜になると、季節はすっかり秋になっていた。どうやら今日の秋日は少し夏日に近いらしく、生ぬるい夜だった。
時刻は午前零時二十分。身支度を整え、余裕を持ってアパートを出る。外に出ると、体に薄い膜が張られたような気がした。ほんのりと暖かい空気の中を泳ぐようにして、約束の場所まで向かう。
スズムシの鳴き声に背中を押されて商店街を抜けると、約束の場所が見える。時間を確認すると、時刻は午前零時四十八分だった。約束した時間までまだ時間はある。だが、静まり返った噴水広場の中央に、彼女はいた。
深夜の噴水広場には、不思議な魅力があった。押し入れに放置されたおもちゃ箱みたいな、用済みにされた物の儚さのような雰囲気だ。そんな場所で、彼女は酷く浮いて見えた。
彼女は紺色のキャップを目深に被り、ブカブカのパーカーに両手を突っ込んでベンチに座っていた。そんな彼女の横には四角いリュックが置かれており、中からは黒い棒状の袋が二本突き出している。
彼女に声をかけようと歩み寄ると、彼女はおもむろに動き出した。どうやらまだ僕に気が付いていないようだ。
彼女はパーカーのポケットからピンクの細長い箱を取り出した。それは煙草の箱だった。銘柄はピアニッシモ・ペティル・メンソール。
彼女は細い指先に煙草を挟んで、ライターで火を付ける。その動作がなんだか美しくて、僕は思わず見惚れてしまった。でも、次の瞬間には思わず吹き出してしまうなんて、その時は思ってもいなかった。
煙を吸い込んだ彼女が、盛大に咳き込み始めたからだ。ケホケホと、苦しそうに胸を押さえている。それでも彼女はもう一度煙草に口を付けた。
「辞めときなよ」
そこで初めて、彼女は僕に気が付いたようだ。彼女は一度驚いたように肩を弾ませ、ギロッと僕を睨んだ。相変わらず、彼女の右目は長い前髪に隠れている。
「吸えないの?」
「また私を馬鹿にしてるんですか」
少しからかってやりたい気持ちはあったが、これ以上彼女の機嫌を損ねるのは良くない。
「馬鹿になんかしてないよ。それで、こんな深夜に呼び出して何をしようっていうんだ」
僕がそう聞くと、彼女は携帯用灰皿に煙草を捨ててから、バックの中から一冊のノートを取り出した。昨日、僕に見せてきたあのノートだ。
「これを見てください」
彼女はノートをぱらぱらとめくり、あるページで止め、僕の前で広げてみせた。
昨日はノートの中身は見せようとしなかったのに、どういう風の吹き回しなんだろう。
そこには丸っこい文字でこう書かれていた。
[夜の窓ガラスを壊して回りたい]
「なんだよこれ」
「今からこれをやります」
「……は?」
意味が分からなかった。あまりに突拍子もない言葉に、思考が完全に停止する。
「ちゃんとした説明が欲しい。理解できないよ。
彼女は「注文の多い奴隷は嫌われますよ」と吐き捨ててから「まずはこのノートについて説明した方が早いかもしれません」と、ノートの表紙を見せてきた。
それはそこら辺の店に売っている何の変哲もないcampusノートだ。だが、その表紙には『Utopia Wonder World』と書かれていた。
「この本はユートピア・ワンダーワールドを考えた人の物です」
大した驚きはなかった。昨日の会話から、大方そんなところだろうと予想はついていたからだ。このノートは恐らく、星の骸が作った物だろう。それをなぜ彼女が持っているのかは分からないが、何か理由があるはずだ。
もしかすると、星の骸と彼女との間には何らかの関係があるのかもしれない。
彼女は一番初めのページを開き、両手に持ってノートを差し出してきた。
僕はノートを受け取ろうと手を伸ばしたが「このノートには触らないでください」とぴしゃりと言われてしまった。
仕方なく彼女の横に座り、ノートに視線を落とす。そこには先程と同じ文字でユートピア・ワンダーワールドの設定が書き連ねられていた。
1. 全ての人が願いを叶えられる理想的な世界であること
2. サンタクロースや人魚姫、ペガサス、ユニコーン、ドラゴンなど、空想上の存在がいる世界であること
3. 四季がめちゃくちゃで、短いスパンで春夏秋冬が巡ること
そして、4.5.を飛ばした6。
6.この世界の住民は記憶が曖昧で現実世界での出来事を忘れること
ここまではどうでもいい。元々知っている内容だ。だが、問題はここから下にあった。
続く4.と5.これは所々が黒く塗りつぶされており、虫食い問題のようになっていた。
4.そんな世界で、■■■■■■■■■は■■■の■■■■れ■こと
5.この世界■■■は■■■■■よる■■者であること
「ダメだな。いくら目を凝らしても読めない」
「無駄ですよ。私も何度も試しましたが、一文字だって読めませんでした」
この黒く塗りつぶされたところには、何が入るのだろうか。
「なんて書いてあるか分かるか?」
「色々と言葉を当てはめてみましたが、結局分からずじまいです」
「そうだよな」
何か僕達に知られちゃいけないことでもあるのだろうか。もしかすると、まだ僕の知らない何かがこの世界にはあるのかもしれない。
「他に何か情報は載ってないのか」
「次のページにはこの世界の地図が簡易的に載っていますよ。でも、落書きのようなものです」
彼女がページを捲ると、そこには地図が載っていた。彼女の言う通り、それは落書きに近い物だ。
「そして最後に、この世界の壊し方が書かれているというわけです」
彼女は最初に見せたページを開き、僕にもう一度見せた。
そのページにはご丁寧に[ユートピア・ワンダーワールドの壊し方]と書かれている。文字の横には注意書きが書き込まれており、二人で行うこと、と強調されていた。
そしてその下に大きな文字で[夜の窓ガラスを壊して回りたい]と願望が書き殴られていた。
「なんで願望系なんだよ」
「そんなの分かりませんよ。私に聞かないでください」
僕はもう一度ノートをじっくりと見つめた。
やっぱりだ。どうにも、違和感がある。
「おい。これは本当にユートピア・ワンダーワールドを作った人物の物なのか?」
この世界を生み出したのは星の骸だ。だが、あいつがこのノートを作っているとは思えなかった。僕の知っている星の骸と、このノートの作者とでは、あまりに性格が違いすぎる。
「この世界を作った人? 私は最初からそんなことは言ってませんよ」
彼女は平然とした様子でそう答えた。
「どういうことだよ」
「察しが悪いですね。だから、この世界を作った人ではなく、考えた人だと言ったでしょう?」
そう言われて、彼女の言いたいことが分かった。
「そういうことか」
「はい。ようやく分かりましたか」
「この世界を生み出したのは星の骸だ。だが、考えたわけじゃない。この世界を考えて星の骸に願った人物がいる」
「そういうことです」
彼女は大して感情のこもっていない声で「素晴らしい推理力ですね」と拍手していた。
そこまで話して、昨日のことを思い出した。星の骸が言っていたことだ。
『僕と君は既に契約を交わしている』
僕は寿命を五十年支払って、星の骸に何かを願っているらしい。もしかすると僕が、このユートピア・ワンダーワールドを作ってくれと願ったのか。一瞬そんな考えが浮かんだが、すぐに脳内から消しとばした。そんなの有り得るわけがない。
僕はこんなお花畑のような文章は書かないし、何よりも筆跡が僕のものではない。じゃあ、僕は何を願ったのだろうか。
そんなことを考えていると、もう一つの可能性に気が付いた。
「もしかしてこれ、君が書いたものなんじゃないのか?」
そうすれば彼女がノートを持っていたというのにも説明がつく。
「そんなわけないじゃないですか」
「なんでそんなことが言えるんだよ」
「簡単なことですよ。いいですか? 私はこの世界を壊そうとしているんです。五十年もの寿命を払ってこの世界を作った人間が、そんなことをすると思いますか?」
確かに、言われてみればその通りだ。
「ごもっともだな」
反論の余地もない。
「でも、君はどうしてこのノートが星の骸の書いた物じゃないと分かったんだ?」
僕がそう質問すると、彼女はしばらく黙ってから「そんなのはどうでもいいじゃないですか」とはぐらかした。
「貴方は黙って私の言うことを聞いていればいいんです。貴方は私の奴隷だって、約束したじゃないですか」
あれは約束なんかじゃなかっただろうと思ったが、胸の中にしまっておいた。
彼女はリュックを背負って「さあ、行きましょう」と手招きする。
そこで僕は思い出したように口にした。
「そういえばあれはなんなんだよ」
「あれ、とは?」
「夜の窓ガラスを壊したいってやつだ」
話が逸れていたが、元々はこれが聞きたかったのだ。だって、あまりにも意味が分からない。
「夜の窓ガラスを壊せば、この世界が滅ぼせるのかよ」
そんなわけがあるかよ。
「私にも窓ガラスの破壊とこの世界に何の関係があるのかは分かりません」
彼女はリュックからするするとバットを取り出して、続ける。
「でも、従うしかないじゃないですか。わざわざこの世界の壊し方って書いてあるんです。この世界を終わらせるなら、それに従うほかありません」
腑に落ちないことはいくつかあった。気になることも多くあった。だが、それは結局はこちらの世界の問題だ。元の世界に戻りさえすれば、そんな問題はすぐに忘れられるだろう。だから僕は目の前のことにだけ集中すればいい。そう、思った。
時刻は午前零時二十分。身支度を整え、余裕を持ってアパートを出る。外に出ると、体に薄い膜が張られたような気がした。ほんのりと暖かい空気の中を泳ぐようにして、約束の場所まで向かう。
スズムシの鳴き声に背中を押されて商店街を抜けると、約束の場所が見える。時間を確認すると、時刻は午前零時四十八分だった。約束した時間までまだ時間はある。だが、静まり返った噴水広場の中央に、彼女はいた。
深夜の噴水広場には、不思議な魅力があった。押し入れに放置されたおもちゃ箱みたいな、用済みにされた物の儚さのような雰囲気だ。そんな場所で、彼女は酷く浮いて見えた。
彼女は紺色のキャップを目深に被り、ブカブカのパーカーに両手を突っ込んでベンチに座っていた。そんな彼女の横には四角いリュックが置かれており、中からは黒い棒状の袋が二本突き出している。
彼女に声をかけようと歩み寄ると、彼女はおもむろに動き出した。どうやらまだ僕に気が付いていないようだ。
彼女はパーカーのポケットからピンクの細長い箱を取り出した。それは煙草の箱だった。銘柄はピアニッシモ・ペティル・メンソール。
彼女は細い指先に煙草を挟んで、ライターで火を付ける。その動作がなんだか美しくて、僕は思わず見惚れてしまった。でも、次の瞬間には思わず吹き出してしまうなんて、その時は思ってもいなかった。
煙を吸い込んだ彼女が、盛大に咳き込み始めたからだ。ケホケホと、苦しそうに胸を押さえている。それでも彼女はもう一度煙草に口を付けた。
「辞めときなよ」
そこで初めて、彼女は僕に気が付いたようだ。彼女は一度驚いたように肩を弾ませ、ギロッと僕を睨んだ。相変わらず、彼女の右目は長い前髪に隠れている。
「吸えないの?」
「また私を馬鹿にしてるんですか」
少しからかってやりたい気持ちはあったが、これ以上彼女の機嫌を損ねるのは良くない。
「馬鹿になんかしてないよ。それで、こんな深夜に呼び出して何をしようっていうんだ」
僕がそう聞くと、彼女は携帯用灰皿に煙草を捨ててから、バックの中から一冊のノートを取り出した。昨日、僕に見せてきたあのノートだ。
「これを見てください」
彼女はノートをぱらぱらとめくり、あるページで止め、僕の前で広げてみせた。
昨日はノートの中身は見せようとしなかったのに、どういう風の吹き回しなんだろう。
そこには丸っこい文字でこう書かれていた。
[夜の窓ガラスを壊して回りたい]
「なんだよこれ」
「今からこれをやります」
「……は?」
意味が分からなかった。あまりに突拍子もない言葉に、思考が完全に停止する。
「ちゃんとした説明が欲しい。理解できないよ。
彼女は「注文の多い奴隷は嫌われますよ」と吐き捨ててから「まずはこのノートについて説明した方が早いかもしれません」と、ノートの表紙を見せてきた。
それはそこら辺の店に売っている何の変哲もないcampusノートだ。だが、その表紙には『Utopia Wonder World』と書かれていた。
「この本はユートピア・ワンダーワールドを考えた人の物です」
大した驚きはなかった。昨日の会話から、大方そんなところだろうと予想はついていたからだ。このノートは恐らく、星の骸が作った物だろう。それをなぜ彼女が持っているのかは分からないが、何か理由があるはずだ。
もしかすると、星の骸と彼女との間には何らかの関係があるのかもしれない。
彼女は一番初めのページを開き、両手に持ってノートを差し出してきた。
僕はノートを受け取ろうと手を伸ばしたが「このノートには触らないでください」とぴしゃりと言われてしまった。
仕方なく彼女の横に座り、ノートに視線を落とす。そこには先程と同じ文字でユートピア・ワンダーワールドの設定が書き連ねられていた。
1. 全ての人が願いを叶えられる理想的な世界であること
2. サンタクロースや人魚姫、ペガサス、ユニコーン、ドラゴンなど、空想上の存在がいる世界であること
3. 四季がめちゃくちゃで、短いスパンで春夏秋冬が巡ること
そして、4.5.を飛ばした6。
6.この世界の住民は記憶が曖昧で現実世界での出来事を忘れること
ここまではどうでもいい。元々知っている内容だ。だが、問題はここから下にあった。
続く4.と5.これは所々が黒く塗りつぶされており、虫食い問題のようになっていた。
4.そんな世界で、■■■■■■■■■は■■■の■■■■れ■こと
5.この世界■■■は■■■■■よる■■者であること
「ダメだな。いくら目を凝らしても読めない」
「無駄ですよ。私も何度も試しましたが、一文字だって読めませんでした」
この黒く塗りつぶされたところには、何が入るのだろうか。
「なんて書いてあるか分かるか?」
「色々と言葉を当てはめてみましたが、結局分からずじまいです」
「そうだよな」
何か僕達に知られちゃいけないことでもあるのだろうか。もしかすると、まだ僕の知らない何かがこの世界にはあるのかもしれない。
「他に何か情報は載ってないのか」
「次のページにはこの世界の地図が簡易的に載っていますよ。でも、落書きのようなものです」
彼女がページを捲ると、そこには地図が載っていた。彼女の言う通り、それは落書きに近い物だ。
「そして最後に、この世界の壊し方が書かれているというわけです」
彼女は最初に見せたページを開き、僕にもう一度見せた。
そのページにはご丁寧に[ユートピア・ワンダーワールドの壊し方]と書かれている。文字の横には注意書きが書き込まれており、二人で行うこと、と強調されていた。
そしてその下に大きな文字で[夜の窓ガラスを壊して回りたい]と願望が書き殴られていた。
「なんで願望系なんだよ」
「そんなの分かりませんよ。私に聞かないでください」
僕はもう一度ノートをじっくりと見つめた。
やっぱりだ。どうにも、違和感がある。
「おい。これは本当にユートピア・ワンダーワールドを作った人物の物なのか?」
この世界を生み出したのは星の骸だ。だが、あいつがこのノートを作っているとは思えなかった。僕の知っている星の骸と、このノートの作者とでは、あまりに性格が違いすぎる。
「この世界を作った人? 私は最初からそんなことは言ってませんよ」
彼女は平然とした様子でそう答えた。
「どういうことだよ」
「察しが悪いですね。だから、この世界を作った人ではなく、考えた人だと言ったでしょう?」
そう言われて、彼女の言いたいことが分かった。
「そういうことか」
「はい。ようやく分かりましたか」
「この世界を生み出したのは星の骸だ。だが、考えたわけじゃない。この世界を考えて星の骸に願った人物がいる」
「そういうことです」
彼女は大して感情のこもっていない声で「素晴らしい推理力ですね」と拍手していた。
そこまで話して、昨日のことを思い出した。星の骸が言っていたことだ。
『僕と君は既に契約を交わしている』
僕は寿命を五十年支払って、星の骸に何かを願っているらしい。もしかすると僕が、このユートピア・ワンダーワールドを作ってくれと願ったのか。一瞬そんな考えが浮かんだが、すぐに脳内から消しとばした。そんなの有り得るわけがない。
僕はこんなお花畑のような文章は書かないし、何よりも筆跡が僕のものではない。じゃあ、僕は何を願ったのだろうか。
そんなことを考えていると、もう一つの可能性に気が付いた。
「もしかしてこれ、君が書いたものなんじゃないのか?」
そうすれば彼女がノートを持っていたというのにも説明がつく。
「そんなわけないじゃないですか」
「なんでそんなことが言えるんだよ」
「簡単なことですよ。いいですか? 私はこの世界を壊そうとしているんです。五十年もの寿命を払ってこの世界を作った人間が、そんなことをすると思いますか?」
確かに、言われてみればその通りだ。
「ごもっともだな」
反論の余地もない。
「でも、君はどうしてこのノートが星の骸の書いた物じゃないと分かったんだ?」
僕がそう質問すると、彼女はしばらく黙ってから「そんなのはどうでもいいじゃないですか」とはぐらかした。
「貴方は黙って私の言うことを聞いていればいいんです。貴方は私の奴隷だって、約束したじゃないですか」
あれは約束なんかじゃなかっただろうと思ったが、胸の中にしまっておいた。
彼女はリュックを背負って「さあ、行きましょう」と手招きする。
そこで僕は思い出したように口にした。
「そういえばあれはなんなんだよ」
「あれ、とは?」
「夜の窓ガラスを壊したいってやつだ」
話が逸れていたが、元々はこれが聞きたかったのだ。だって、あまりにも意味が分からない。
「夜の窓ガラスを壊せば、この世界が滅ぼせるのかよ」
そんなわけがあるかよ。
「私にも窓ガラスの破壊とこの世界に何の関係があるのかは分かりません」
彼女はリュックからするするとバットを取り出して、続ける。
「でも、従うしかないじゃないですか。わざわざこの世界の壊し方って書いてあるんです。この世界を終わらせるなら、それに従うほかありません」
腑に落ちないことはいくつかあった。気になることも多くあった。だが、それは結局はこちらの世界の問題だ。元の世界に戻りさえすれば、そんな問題はすぐに忘れられるだろう。だから僕は目の前のことにだけ集中すればいい。そう、思った。