翌日、僕は車椅子に月野を乗せて、そのまま病院から逃げた。ベッドには、ご丁寧に布団で作った身代わり人形も置いてきた。

 逃げている間、月野は「きゃあきゃあ」とスリルを楽しんでいた。

 久しぶりの外は、月野にとって新鮮らしい。空を飛ぶ雀とか、自動車の音とか、信号に、いちいち月野は感動の声を上げていた。

 季節は既に十一月で、病院服のまま遊園地に行くわけにはいかない。流石に寒すぎるし、目立ちすぎる。僕は一度アパートに月野を入れてから、ベッドに寝かせた。

「おぉー。この枕、病院のと違って超寝心地いいです」

 そんな風にフカフカの枕を楽しむ月野の前に着替えを置く。昨日のうちに、準備しておいたのだ。

「おおおおおお」

 月野が前にこういうのが好きですと言っていたやつだ。

「私の好み、覚えていてくれたんですね」

 それから、一人で着替えができない月野の着替えを手伝った。月野は「きゃー、見ないでください」と騒いでいた。僕は頬を赤く染めながら、なんとか彼女の着替えを終わらせた。

「いやー、どきどきしちゃいましたね。寿命が縮んじゃったかもしれません。責任とってくださいよ」

 彼女は照れ臭そうに胸の前で腕をクロスさせている。

「そんなジョーク聞きたくないよ」

 まだ心臓がどきどきいっていた。それは健康的な胸の鼓動だった。

 それから僕は月野を化粧台の前に連れて行き、彼女にメイクを施していく。ウィッグとニット帽を被せて、準備万端だ。

「ありがとうございます」

 月野は鏡の前で、自分に見惚れていた。

「また、こんな風にオシャレできるなんて思ってもいませんでした」

 そんな彼女の後ろに立って、僕は言った。

「まだ楽しいのはこれからだよ。じゃ、行こうか」

 月野の手を引いていって、車椅子に乗せる。そのまま、僕達は遊園地に向かった。

 平日の遊園地は、少しだけ空いていた。人通りの少ないエントランスを抜けて、噴水広場に出る。その奥にはレンガ造りのお土産屋さんが立ち並んでおり、そこを進んで行くと、お姫様が暮らすような大きなお城が見えてくる。

 十一月の空は青く澄んでいた。道の端に植えられた紅葉の葉っぱが、風に煽られて舞っている。

「じゃあ、まずはどこに行こうか」

 月野に聞くと「あっちですね」とお土産屋を指さした。紅葉で埋まった赤い絨毯の上を、車椅子を押しながら歩ていく。月野はお土産屋さんでピンク色をしたネズミのカチューシャを買った。僕には同じデザインの青いカチューシャを渡してくる。

「ええ、これつけるの?」

「つけるんです」

 彼女は無邪気に笑っている。

「楽しんでやりましょう。だって多分、今日が人生で一番幸せな日になると思いますから」

 僕はカチューシャを付けながら「奇遇だね。僕も今日が人生で一番幸せな日になるんじゃないかと思っていたんだ」と彼女に伝えた。

「あははっ。ありがとうございます」

 月野の嬉しそうな顔を見ているだけで、こっちまで嬉しくなってくる。

「それって、多分一番幸せなことですよね。大好きな人と人生で一番幸せな日が同じって、これ以上の幸福はないと思います」

 彼女の言葉の一つ一つを丁寧に胸に仕舞い込みながら、僕達は遊園地を見て回った。

 本当はアトラクションに乗りたかったけど、今の月野にはそこまでの体力がない。それでも、月野は満ち足りたような表情をしていた。風船を持ったピエロに手を振って、御伽の国のような建物を見上げて、小さな子どもに車椅子を押してもらったりしていた。

 そんな光景を、僕は瞳に焼き付けていた。この思い出を一生の宝物にしようと、月野にバレないところで何枚もシャッターを切った。

 僕は楽しかったし、幸せだった。月野も幸せそうだったし、楽しそうだった。楽しくて楽しくて、幸せで幸せで仕方なかった。こんな時間がいつまでも続けばいいと、本気で思っていた。

 でも、僕は気を付けなければいけなかったのだ。

 幸せな時に限って現実が牙を剥くということを、これまでの経験から、僕は悟っておくべきだったのだ。

 カタカタと音を立てて緩やかに車椅子を押していく。

「ほら、ヴァイキングが見えてきたよ」

 月野は遊園地内に流れる陽気な音楽に身体を揺らしながら、僕の方へ振り向いた。

「おっ。本当ですね」

 大きな船が、空を飛ぶように揺れている。ヴァイキングに乗っていたカップルの叫び声が聞こえる。月野はそれを、羨ましそうに見ていた。

「元気になったら、今度こそに乗りに来ような」

「元気になったら、ですか」

 月野は一度俯いてから「そうですね」と僕を見上げた。

「絶対に、もう一度ここに来ましょう」

「ああ、僕は信じてるから」

「はい。私、頑張ります」

 僕達はそうやって、未来を誓い合ったのだ。その時、近くから甘い匂いが漂ってきた。月野はその匂いにつられて、香りの方へ視線を向ける。

 そこには、クレープの屋台があった。

「食べたいの?」

「はい……でも、食べていいんですかね」

「一口くらいなら、見逃してくれるよ。じゃあ、僕が並んでくるから、月野はここで待ってて」

 僕は月野を残して、屋台の方へ向かった。それが、いけなかったのだ。

 屋台に並んで、自分のクレープを選んでいる時だった。後ろから、轟音が鳴り響いた。地面が波のようにしなるくらいの衝撃が走り、僕は思わず体勢を崩してしまった。

 尻餅を付いたところで、僕はだんだんと現実を認識し始めていた。何が起こったのかを、感じ始めていた。脳みそが、それを拒んでいる。現実を直視することを、拒否している。

 僕はそれら全てを押さえ込んで、振り返った。月野の無事を確かめるために、ヴァイキングの方を見た。

「ああ……」

 ヴァイキングが、落下していた。先程まで、月野がいた場所に、船が落ちている。

 悲鳴が上がった。すぐに係員が救助に駆け付ける。

 だが、月野が助からないことは一目で分かった。

 落ちたヴァイキングの真下、月野が僕を待っていた場所。そこから、血が流れ出ていた。じわーっと、水溜りのように、血が広がっている。

 それを確認した時、僕は生きている意味を見失った。この世界にいる必要性が分からなくなった。

 月野のいない世界を、生き続ける自信がない。

 その時だ。

 世界が、止まった。

 そして僕の前に、あいつが現れた。

「やあ、また会ったね」

 星の骸は、真っ白な髪を揺らしながら僕の方へ近づいて来る。

「ずっと言っていただろう? 願うべき時は今じゃないって。今がその時なんだよ」

 言いながら、彼は後ろの光景を眺めた。そこには、惨劇が広がっている。

 僕は縋り付くように言った。今が、その時なのだ。

「なあ、頼むよ。寿命の五十年でも百年でも、命でもなんでもやる。だから、この事故を無かったことにしてくれ」

 僕の言葉を星の骸は黙って聞いている。しかし、彼は首を横にふった。

「本当にそれで良いのかい?」

「良いに決まってるじゃないか」

「今ここで事故を無くしても、月野ユキは病気のままだよ」

 そんなこと言ったって、どうすればいいんだよ。月野の事故を無かったことにして、尚且つ彼女の病気を治す方法なんて――――

 そこまで考えて、僕は一つの可能性に辿り着いた。

「ユートピア・ワンダーワールドだ」 

 僕がそう言うと、星の骸は指を鳴らした。

「正解だ」 

 そして僕は、星の骸に願った。

『Utopia Wonder Worldを、作ってください』

「ああ、任せて欲しい」

 彼はそう言って、指を一つ立てた。

「ユートピア・ワンダーワールドが存在し続けていられるのは一年が限界だ」

 星の骸曰く、それが月野の元々の寿命らしい。それ以上命を伸ばすことは、彼にも不可能なのだという。

「ああ、それでも構わない」

「そうか。なら、始めようか」

 星の骸が、僕の頭上に手をかざした。これから僕は、月野のことを忘れてしまうのだろう。僕は堪らなく不安になって「なあ」と星の骸に声をかけた。

「なんだい?」

「僕がもし、月野のことを見つけ出せなかったら、お前が僕達を引き合わせてくれないか?」

「そこまで願いに含めるということでいいのかな?」

「ああ、そうしてもらえると助かる」

「分かったよ」

 彼は頷いてから続けた。

「じゃあ、忘れるだろうが言っておこうか。僕は君の友人として、ユートピア・ワンダーワールドに現れる。もしもの時は、隕石のことやヴァイキングの事故についての情報を渡すよ。それでも思い出せなかったら、それは君が悪い」

「ああ、恩に着るよ」

 僕がそう言うと、星の骸は意地悪そうに笑った。

「でも、僕がそこまでお膳立てしてやるんだ。最後の最後に、少しだけ君達を試してみようかな」

「試す?」

「ああ、そうだ。最後の最後に君達二人にそれぞれ理想の人だと勘違いしてしまうような存在を与えよう。それを乗り越えて、一緒になれるかどうか。そんなところだ」

 性格の終わっている星の骸が考えそうなことだった。

「やってみろよ。僕達なら絶対に大丈夫だ」

「どうだかね。まあ、そろそろ願いが叶うころだよ」

 段々と、僕の記憶が薄れていく。月野との思い出が、霞んでいく。

 でも、もう一度月野と出会うためだ。

「さあ、準備ができたよ」

 星の骸に、背中を押される。

「行ってらっしゃい」

 彼が手を振っている。僕は白い光に包まれて、月野の記憶を失った。そうして、あの世界に迷い込んだのだ。

 この世界を願ったのは月野じゃない。僕だったのだ。