翌日、朝一で病院に向かった。
病室に入ると、月野は案外明るそうにしていた。もしかすると、不安を無理やり吹き飛ばそうとしているのかもしれない。僕が彼女に近づいていくと、彼女は「よいしょ」とベッドから起き上がる。
「そういえば昨日、大変だったみたいですね」
昨日の隕石のことをやっと知ったのだろう。
「そうだよ。月野の家の方に落ちたんだから、焦ったよ」
「あそこら辺に住んでた人達、ほとんど死んじゃったみたいです」
彼女は人ごとのように言って、天井を見上げた。
「私の父も妹も、死にました。勝手に死んでんじゃねえよって、思います。夜の窓ガラス、壊す必要なくなっちゃったじゃないですか」
そのままいじけたように寝転がって、僕に背を向けた。
「私達の手で、あのクソ親父は殺したかったんですけどね」
本気で殺したいと思っていたのだろう。月野は悔しそうに、ベッドのシーツを握り締めている。
「でも、死んじゃった方々は可哀想だと思うんです。少しスッキリしたんですよね。あの街が、吹き飛んでくれて」
言いながら、月野は右腕をさすっていた。そこには真新しいアザがある。
「家の近所にある公園も、スーパーも、河川敷も、何もかも、私を苦しめてきました。YouTubeの撮影で使った場所全てが、私の心を抉り取っていました」
「それが全部、跡形も無くなってくれたからか」
「はい。そういうことです。そんなこと思っちゃうなんて私、最低ですよね」
「月野は最低なんかじゃないよ」
最低なのは、死んだ父親だ。
「あいつは、本当に僕達の手で殺してやりたかったな」
「本当ですよね。どうせなら、殺されるために生き返ってくれればいいのに」
彼女は起き上がって、ナイフを振り下ろすフリをする。何度も何度も、それを続けている。
「こうやって、眼球を滅多刺しにしてやりたいです」
「そりゃあいいね」
僕はまじまじと月野を見た。彼女にもう一度会えてよかった。隕石が落ちた時には、もう会えないのかと思ったから。
「でもさ、生きてくれてよかったよ」
「ありがとうございます。色々な呪縛から解き放たれたので、ここからが第二の人生ですね」
「そうだね。だから、さっさと退院しような」
「もちろんですよ」
父親から解放されて、過去の思い出とも決別して、これから僕と月野の人生が始まるのだと思った。
でも、現実ってのはとても残酷にできているらしい。
それから一週間後、「検査結果が出た」と月野から連絡が入った。慌てて病院に向かうと、月野は窓から外の景色を眺めていた。
彼女は振り返って「検査結果、最悪でしたよ」と言った。月野の声は、少しだけ強張っている。
彼女の告げた病名はこの国の死因トップを占める、あの病気だった。
「どうやらかなり深刻なところまで病状が進んでるらしくて、余命宣告されちゃいましたよ」
開け放たれた窓から風が入ってきて、服の間を通り過ぎていった。月野の前髪が、かすかに揺れた。
「余命は、どれくらいあるんだ?」
「二年です」
それで私の命は尽きます。と、彼女は続けた。
僕は、何も言えなかった。頭の中がフリーズして、何も考えられない。
「私、どうすればいいんですかね」
そのとき僕は、あいつの存在を思い出した。星の骸。あいつに、どうにかしてもらうしかない。
「大丈夫だよ。絶対、完治するからさ」
月野のためなら、寿命の五十年くらい安いものだと思った。
その日の夜。病院からの帰り道、タイミングを見計らったかのように星の骸が現れた。
「やあ、そろそろ僕に会いたい頃かと思ってね」
彼は誘蛾灯の明かりに照らされて、佇んでいる。
「お前に叶えて欲しい願いがあるんだ」
「そう言うと思ってたよ」
彼の赤い瞳が、僕を見透かしたように見据えている。
「でもさ、今は願いを叶えるべき時じゃない」
星の骸は軽く微笑みながら僕の横を通り過ぎていった。
「今日はそれを伝えに来たんだ」
そのまま歩き去ろうとする星の骸を「どういうことだよ」と呼び止める。
「そのままの意味さ」
「ちゃんと言葉で説明してくれよ」
彼は振り返って「はあ」と肩をすくめた。
「だから、今君が願いを叶えたら後悔する。絶対にだ。君には、願いを叶えるべき時というのがある。その時まで待ってなよってことかな」
「月野の病気を治すことよりも、その願いは大切なのかよ」
「大切だね。間違いない」
じゃあ、そういうことだから。そう言葉を残して、星の骸は去っていった。
「おい! 待ってくれよ!」
叫んでも、もうそこには誰もいない。夜の街に、僕の声だけが響いていた。
月野の本格的な闘病生活が始まった。
薬の副作用で、彼女の体に異変が起こり始めた。髪は全て抜け去り、腹痛を訴え、嘔吐を繰り返している。正直、そんな風に苦しむ彼女を見ていられなかった。
月野も頑張っているのだ。僕だって、頑張らなくてはいけない。
病気の治療には莫大な金が必要になる。学生のアルバイトだけじゃ、その治療費はまず払えない。月野の父親が遺したものに頼ろうにも、あの父親は死んでもクソだったらしい。遺産も、保険も貯金も何もない。役に立つようなものは一つとして遺っていなかった。
月野の治療費を支払うために、僕は腹を括った。首を括りたくなるようなことばかりだけれど、やるしかない。僕は両親の反対を押し切って大学を辞めて、就職した。金さえ入れば仕事は何だってよかった。
月野の治療費を集めるにはそれしか方法がない。後先なんて考えている余裕はなかった。月野の命を少しでも長引かせることしか今は考えられない。
副作用が落ち着いている時間、月野はノートに何かを書き殴っていた。真っ白な病室で、一心不乱に月野はノートを取っている。ある時、僕は彼女に聞いてみた。
「ねえ、何をそんなに一生懸命書いてるの?」
「これはですね。私の夢なんです」
月野は痩せ細った顔で、力無く笑う。
「誰もが幸せで、悲しむことのない完璧な世界。そんな世界が、あってもいいじゃないですか」
ノートを閉じて、月野は表紙を見せてきた。そこには『Utopia Wonder World』と書かれている。
「理想的で、不思議な世界?」
「そうです。私は最近、こんな世界を空想するようになりました」
終わってますよね、と月野は自虐的に言った。
僕はノートのページをめくってみる。一ページ目にはこう書かれていた。
1. 全ての人が願いを叶えられる理想的な世界であること
「何の苦しみもなく、幸せでいられたらいいじゃないですか。そういう世界を、私は望んでいるんです」
彼女の言葉には重みがあった。きっとそれは、月野にとって切実な願いだったのだろう。彼女は、ずっと何かに押しつぶされそうになりながら生きてきたから。
「後はどんなことを望んでいるの?」
僕がそう聞くと、彼女は顎に手を当てて「んー?」と唸っていた。
「サンタクロースにも会いたいですね」
月野はこれまでの人生で、サンタさんからのプレゼントを貰ったことがないのだという。
「いいね。夜空をサンタクロースが駆け抜けていくところとか、綺麗だと思う」
そんな光景を月野と一緒に見られたら、どれだけ幸せだろう。
「後は人魚姫も見てみたいです。私、アンデルセンの童話結構好きなんですよ」
「人魚姫か。じゃあ、僕はペガサスだな。ユニコーンでもいい」
「お、そういう空想上の生物も見てみたいですね。じゃあ、私は火を吹くドラゴンです」
言ってから、月野はノートに書き足していく。
2. サンタクロースや人魚姫、ペガサス、ユニコーン、ドラゴンなど、空想上の存在がいる世界であること
まだ納得いかないのか月野は「後はそうですね」とペンを回して考えている。
「四季がめちゃくちゃになってて欲しいです」
「その心は?」
「だってほら、私、余命が二年じゃないですか。春も夏も、秋も冬ももう一、二回くらいしか経験できないんですよ。だったら、少しでも沢山の季節を楽しみたいじゃないですか」
確かに、その通りかもしれない。
僕は窓から外を眺めた。この蝉の鳴き声も、入道雲も、木陰の涼しさも、アイスの美味しさも、風鈴の音も、何もかも、月野は後一回体験できるかどうか、というところなのだ。
「絶対に大丈夫だよ」
何の根拠も責任もなく、僕はそう言った。月野は一度黙ってから「ありがとうございます」とだけ返した。
月野はノートに 3. 四季がめちゃくちゃで、短いスパンで春夏秋冬が巡ること、と書いてから、僕を見上げた。
「あと、もう一つですかね。私とサンタさんが、出会ってなかったことにしたいです」
言ってから、彼女は 4.そんな世界で、月野ユキと三田真白はお互いの存在を忘れること、と書き記した。
「なんでそんなこと書くんだよ」
「だって、私はサンタさんに迷惑しかかけてないんですよ。だったらもう、最初から会わない方が良かった」
それから小声になって「治療費だって……」と続けた。
「それは言わない約束だろ」
少し語気を強めて言うと、月野は「ごめんなさい」と塩らしく謝った。
「だからそれを消してくれよ」
「考えておきます」
結局、月野はそれを消してくれなかった。それから、僕達は一言も喋らなかった。気まずい沈黙が続き、逃れるようにテレビを付けた。
テレビではニュース番組が流れており、隕石落下についてのニュースが取り上げられていた。キャスターによると、死者数は千人ほどいるらしい。
月野はぼんやりとニュースを眺めてから、何かいいことでも思いついたように「あっ」と声を上げた。
「そうだ。このユートピア・ワンダーワールドの住民はあの隕石で亡くなった人々にしましょう」
「あの父親も生き返っちゃうよ? それでも大丈夫なの?」
「ええ、別に構いませんよ。私はあのクソ野郎を殺したいんですから、生き返ってくれた方が好都合です」
「まあ、確かにそうだけど」
それから月野は 5.この世界の住民は隕石落下による被害者であること、とノートに記入した。
「ある日突然命が無くなるんです。そんなのって、あんまりじゃないですか。だから、せめて空想上の世界で彼らには幸せであって欲しいんです」
「ああ、その通りだね」と僕は返事をした。
「あと、自分が死んだなんて忘れてた方が幸せだと思うんです。どんなに幸せでも、もう死んでいるって分かったら悲しいじゃないですか。だから、彼らの記憶は曖昧にした方がいいと思います」
6.この世界の住民は記憶が曖昧で、現実世界での出来事を忘れること、とノートに書き足した。
そんな風に人の幸せを願える月野にも、幸せが訪れて欲しいと、僕は切に願った。
それから一ヶ月ほど経った。月野の容体は悪化していく一方だ。薬の投与量が増えて、それに伴い強い副作用が彼女の体を襲った。どうしようもないくらい辛くなった時、月野は音楽を掛けていた。
ヨルシカの『夏草が邪魔をする』『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』BUMP OF CHICKEN の『jupiter』『ユグドラシル』the pillowsの『Please Mr. Lostman』Mr.childrenの『深海』などのアルバムを好んで聴いているようだった。
小さな音量で『八月、某、月明かり』が流れる病室の中、僕は苦しそうに嘔吐する彼女の背中をゆっくりとさする。彼女の体は更に痩せ細り、肌の色は青白く変色していた。手には何本もの管が繋がれていて、見ているだけで胸が痛くなる。
できることなら、彼女の代わりに僕が病気になってやりたい。ただ背中をさすることしかできないのが、もどかしくて堪らなかった。
「もう、こんなにも辛いなら一層のこと死んでしまいたいです」
ある時、月野はそう漏らした。僕は何も言い返せなかった。
「ありがとね。サンタさん」
背中をさすり続ける僕に、月野はそう言った。
「私の隣にいてくれて、凄い嬉しいです」
吐いて少し楽になったのか、月野はベッドに倒れ込んだ。
「最近、よく思うんです。私はどうして産まれたんだろうって、誰に望まれてこの世に産まれてきたんだろうって、考えるんです」
彼女は天井を見上げたまま、続ける。
「最近まで、私はこの世に産まれたくないって泣きながら産まれたんだと思っていました。そして、誰にも泣かれずにこの世を去っていく。そんな人生を送るだろうって、ずっと思っていたんです」
気が付いた時には、僕は彼女の手を握り締めていた。
「でも、違いました。私には、サンタさんがいました。貴方が、私の前に現れてくれたんです。だから私はきっと、サンタさんに会いたいって産まれてきて、サンタさんに泣かれながら死んでいくことができるんです」
彼女はゆっくりと手を伸ばして、僕の頬を触った。
「ほら、こんなにもあったかい涙を流してくれるじゃないですか。それだけでも、この世に産まれてよかったってもんですよ」
目の前の景色が滲んで見えない。彼女の表情を確認することができなかった。
彼女は僕の涙を拭ってから「あははっ」と笑う。それはか細い笑い声だったけれど、僕の胸に深く刻み込まれた。
最近、僕はアパートを借りた。月野との約束を果たすため、半端願掛けのような気持ちで契約した家だ。僕が二人で暮らすためのアパートを借りたと言えば、月野にも元気が出るかもしれない。
そんな部屋で一人、僕は寂しく暮らしている。夜、ベッドの上でユートピア・ワンダーワールドのことを空想するようになった。
誰もが幸せな理想的な世界で、月野が楽しそうに過ごしている。サンタクロースを見上げて、人魚姫を見つけて、声を上げてはしゃいでいる。
その世界では、月野は健康体そのもので病気に苦しめられてなんかいない。僕はそんな彼女の姿を遠くから眺めている。
そんな光景を、僕は思い描くようになっていた。どうにかして、月野を救いたい。薬と病気のせいで、もがき苦しむ月野をこれ以上見ていたくない。
僕に何かできないかと、色んなことを手当たり次第に調べていた。中でも一番馬鹿馬鹿しかったのが、八尾比丘尼伝説について本気で調べていた時だった。
人魚を食って数百年生きたという尼の話だ。
僕は月野を救うため、本気で人魚を探していた。仕事が終わって、月野の面会に行く。その後、海に行って人魚をひたすら探す。
十月の海はかなり寒かった。凍えるほど寒いと言ってもいいかもしれない。
僕はその海の中に私服のまま飛び込んで、人魚を探した。どこまでも潜っていくつもりだった。風邪をひくかもしれない。でも、どうでもいい。僕の体なんていくらでも蝕んでくれて構わなかった。
人間、本当に追い詰められるとこんな伝説も信じるのかと笑った。僕は馬鹿だった。でも、縋り付くしかなかった。というより、本当は人魚がいるとかいないとか、そういうのは究極的にはどうでも良かったのかもしれない。ただ、何か行動を起こしていなければ気が済まなかっただけだ。
結局、人魚はどこにもいなかった。いくら探しても、現れてくれなかった。びちょびちょになって海から上がった時、警察官に職務質問された。海辺を散歩していた人が通報したのかもしれない。
「何をしてたんですか?」
「人魚を探してただけです」
大真面目に答えると、警察官は困ったような顔をしていた。結局ラリってる奴だと思われたらしく、薬物検査を受けた。結果はもちろん陰性で、僕はすぐに解放された。
僕は正常だった。正常でいて、狂人でもあった。一番終わっているタイプの人間かもしれない。
もうお手上げだった。月野を助ける手立ては何も無かった。星の骸に頼ろうにも、あいつはあれ以降僕の前に現れてくれない。僕が願いを叶えるべき時ってのはいつなんだよ。今じゃないなら、一体いつ僕は願いを叶えるっていうんだ。
次の日、僕は月野から病気が別の臓器に転移したという報告を受けた。
「余命、短くなっちゃいました」
月野は、努めて明るく振る舞っているように見えた。元気なふりをしてばかりだな、と思う。
「あと、どれくらいなの?」
「一年だそうです」
「そっか……」
僕は月野に近づいて行って、椅子に腰かけた。後一年で、月野の顔が見れなくなる。もう二度と、彼女と喋ることができなくなる。
彼女が消えてしまった後の人生に、意味なんてあるんだろうか? そんなのなんの価値もないと思った。
もう、待っている暇なんてない。無理やりにでも星の骸を見つけ出して、月野の病気を治してもらうしか方法はなかった。
「でも、大丈夫だよ。絶対、治るからさ」
そう言うと、月野は僕に背を向けた。僕の無責任な発言に嫌気がさしたのかもしれない。
「ねえ、サンタさん」
「なに?」
「私、本当はまだまだやりたいことが沢山あるんです」
彼女は例のノートを抱き締めながら、そう言った。
「夜の窓ガラスだって、本当は壊したいんです。この前は川で花火をしたから、今度は海で花火をしたいです。お酒を飲める年齢になったら、サンタさんと一緒にお酒を飲みたいです。あの、ベンチで会った日の夜みたいに、深夜に一緒にお酒を飲みたい思ってるんです。健康な体を手に入れて、へとへとになるまで散歩したりもしたいですね。隕石の跡地に行って、父親に恨みを晴らすこともやりたいです。家の前に立って、美味い美味いって酒を飲んでるところを見せつけてやりたいです。まだあそこに、彼の魂はあると思いますから。後は、水族館に行きたいですかね。今の私って、水槽の中の魚みたいじゃないですか。ずっと病室の中に閉じ込められて、外に出られない。今なら、魚の気持ちも分かる気がします」
きっと、それらの望みがノートには書かれているのだろう。
僕は彼女を見ていた。月野の瞳は、ふるふると震えている。体も小刻みに震えていて、今にも崩れて無くなってしまいそうに見えた。
「あと、本当は遊園地に行ってヴァイキングにも乗りたいんです」
彼女は右目の義眼に手をやって、ぎゅっと押さえ込んだ。
「小っちゃい頃のことだから、あまり詳しく覚えていないんです。でも、確かヴァイキングに乗る動画を撮った時に、私は右目を抉り取られたような覚えがあるんです」
父親はその動画の出来が気に食わなかったのだろう。怒りに身を任せて、彼女の目にナイフを突き立てた。
「それ以来、ヴァイキングが怖くなっちゃったんです。あんなにも楽しそうなアトラクションなのに、どうしても怖いんです。サンタさんとなら、克服できたかもしれません」
貴方が、嫌な記憶を上書きしようと言ってくれたからです。と、月野は言った。
「でも、もう、全部叶わないんですよね。私は一生、この病室に閉じ込められたままで、ただ死ぬのを待ってる。そんなのって、あんまりじゃないですか」
月野は、泣いていた。鼻を啜って、涙を拭って、声を押し殺して泣いている。
なんとかして、彼女の夢を叶えたいと思った。彼女のために、何ができるのだろう。
「サンタさんが、私を連れ出してくれれば良いのに」
月野がそう言った時には、もう、答えが出ていた。僕はペンを取り出して、月野からノートを貸してもらった。そのノートには彼女のやりたいことが書かれている。
その一番最後に[ヴァイキングに乗りたい]と記入されていた。
僕は消しゴムを使ってその一文を消す。
「何をするんですか」
月野が涙声で抗議したが、僕は止まらなかった。そこに新しく[月野と一緒にヴァイキングに乗りたい]と書いた。
「僕もさ、ヴァイキングに乗りたくて仕方ないんだよ。だから、行こう。一日だけだけど、ここから逃げよう」
僕がそう言うと「いいんですか?」と彼女は笑った。
「怒られるかもしれませんよ?」
「そんなのどうだっていいよ。一緒に、遊園地に行こう。夢、叶えようよ」
良くないことだって分かってる。容体を悪化させる可能性があることも十分理解してる。でも、月野の思い出を上書きすると言ったのは僕だ。その約束だけは、果たしてやりたい。
「それ、最高じゃないですか」
月野が、泣きながら笑っていた。
「じゃあ、一緒に脱走しましょうね」
翌日、僕は車椅子に月野を乗せて、そのまま病院から逃げた。ベッドには、ご丁寧に布団で作った身代わり人形も置いてきた。
逃げている間、月野は「きゃあきゃあ」とスリルを楽しんでいた。
久しぶりの外は、月野にとって新鮮らしい。空を飛ぶ雀とか、自動車の音とか、信号に、いちいち月野は感動の声を上げていた。
季節は既に十一月で、病院服のまま遊園地に行くわけにはいかない。流石に寒すぎるし、目立ちすぎる。僕は一度アパートに月野を入れてから、ベッドに寝かせた。
「おぉー。この枕、病院のと違って超寝心地いいです」
そんな風にフカフカの枕を楽しむ月野の前に着替えを置く。昨日のうちに、準備しておいたのだ。
「おおおおおお」
月野が前にこういうのが好きですと言っていたやつだ。
「私の好み、覚えていてくれたんですね」
それから、一人で着替えができない月野の着替えを手伝った。月野は「きゃー、見ないでください」と騒いでいた。僕は頬を赤く染めながら、なんとか彼女の着替えを終わらせた。
「いやー、どきどきしちゃいましたね。寿命が縮んじゃったかもしれません。責任とってくださいよ」
彼女は照れ臭そうに胸の前で腕をクロスさせている。
「そんなジョーク聞きたくないよ」
まだ心臓がどきどきいっていた。それは健康的な胸の鼓動だった。
それから僕は月野を化粧台の前に連れて行き、彼女にメイクを施していく。ウィッグとニット帽を被せて、準備万端だ。
「ありがとうございます」
月野は鏡の前で、自分に見惚れていた。
「また、こんな風にオシャレできるなんて思ってもいませんでした」
そんな彼女の後ろに立って、僕は言った。
「まだ楽しいのはこれからだよ。じゃ、行こうか」
月野の手を引いていって、車椅子に乗せる。そのまま、僕達は遊園地に向かった。
平日の遊園地は、少しだけ空いていた。人通りの少ないエントランスを抜けて、噴水広場に出る。その奥にはレンガ造りのお土産屋さんが立ち並んでおり、そこを進んで行くと、お姫様が暮らすような大きなお城が見えてくる。
十一月の空は青く澄んでいた。道の端に植えられた紅葉の葉っぱが、風に煽られて舞っている。
「じゃあ、まずはどこに行こうか」
月野に聞くと「あっちですね」とお土産屋を指さした。紅葉で埋まった赤い絨毯の上を、車椅子を押しながら歩ていく。月野はお土産屋さんでピンク色をしたネズミのカチューシャを買った。僕には同じデザインの青いカチューシャを渡してくる。
「ええ、これつけるの?」
「つけるんです」
彼女は無邪気に笑っている。
「楽しんでやりましょう。だって多分、今日が人生で一番幸せな日になると思いますから」
僕はカチューシャを付けながら「奇遇だね。僕も今日が人生で一番幸せな日になるんじゃないかと思っていたんだ」と彼女に伝えた。
「あははっ。ありがとうございます」
月野の嬉しそうな顔を見ているだけで、こっちまで嬉しくなってくる。
「それって、多分一番幸せなことですよね。大好きな人と人生で一番幸せな日が同じって、これ以上の幸福はないと思います」
彼女の言葉の一つ一つを丁寧に胸に仕舞い込みながら、僕達は遊園地を見て回った。
本当はアトラクションに乗りたかったけど、今の月野にはそこまでの体力がない。それでも、月野は満ち足りたような表情をしていた。風船を持ったピエロに手を振って、御伽の国のような建物を見上げて、小さな子どもに車椅子を押してもらったりしていた。
そんな光景を、僕は瞳に焼き付けていた。この思い出を一生の宝物にしようと、月野にバレないところで何枚もシャッターを切った。
僕は楽しかったし、幸せだった。月野も幸せそうだったし、楽しそうだった。楽しくて楽しくて、幸せで幸せで仕方なかった。こんな時間がいつまでも続けばいいと、本気で思っていた。
でも、僕は気を付けなければいけなかったのだ。
幸せな時に限って現実が牙を剥くということを、これまでの経験から、僕は悟っておくべきだったのだ。
カタカタと音を立てて緩やかに車椅子を押していく。
「ほら、ヴァイキングが見えてきたよ」
月野は遊園地内に流れる陽気な音楽に身体を揺らしながら、僕の方へ振り向いた。
「おっ。本当ですね」
大きな船が、空を飛ぶように揺れている。ヴァイキングに乗っていたカップルの叫び声が聞こえる。月野はそれを、羨ましそうに見ていた。
「元気になったら、今度こそに乗りに来ような」
「元気になったら、ですか」
月野は一度俯いてから「そうですね」と僕を見上げた。
「絶対に、もう一度ここに来ましょう」
「ああ、僕は信じてるから」
「はい。私、頑張ります」
僕達はそうやって、未来を誓い合ったのだ。その時、近くから甘い匂いが漂ってきた。月野はその匂いにつられて、香りの方へ視線を向ける。
そこには、クレープの屋台があった。
「食べたいの?」
「はい……でも、食べていいんですかね」
「一口くらいなら、見逃してくれるよ。じゃあ、僕が並んでくるから、月野はここで待ってて」
僕は月野を残して、屋台の方へ向かった。それが、いけなかったのだ。
屋台に並んで、自分のクレープを選んでいる時だった。後ろから、轟音が鳴り響いた。地面が波のようにしなるくらいの衝撃が走り、僕は思わず体勢を崩してしまった。
尻餅を付いたところで、僕はだんだんと現実を認識し始めていた。何が起こったのかを、感じ始めていた。脳みそが、それを拒んでいる。現実を直視することを、拒否している。
僕はそれら全てを押さえ込んで、振り返った。月野の無事を確かめるために、ヴァイキングの方を見た。
「ああ……」
ヴァイキングが、落下していた。先程まで、月野がいた場所に、船が落ちている。
悲鳴が上がった。すぐに係員が救助に駆け付ける。
だが、月野が助からないことは一目で分かった。
落ちたヴァイキングの真下、月野が僕を待っていた場所。そこから、血が流れ出ていた。じわーっと、水溜りのように、血が広がっている。
それを確認した時、僕は生きている意味を見失った。この世界にいる必要性が分からなくなった。
月野のいない世界を、生き続ける自信がない。
その時だ。
世界が、止まった。
そして僕の前に、あいつが現れた。
「やあ、また会ったね」
星の骸は、真っ白な髪を揺らしながら僕の方へ近づいて来る。
「ずっと言っていただろう? 願うべき時は今じゃないって。今がその時なんだよ」
言いながら、彼は後ろの光景を眺めた。そこには、惨劇が広がっている。
僕は縋り付くように言った。今が、その時なのだ。
「なあ、頼むよ。寿命の五十年でも百年でも、命でもなんでもやる。だから、この事故を無かったことにしてくれ」
僕の言葉を星の骸は黙って聞いている。しかし、彼は首を横にふった。
「本当にそれで良いのかい?」
「良いに決まってるじゃないか」
「今ここで事故を無くしても、月野ユキは病気のままだよ」
そんなこと言ったって、どうすればいいんだよ。月野の事故を無かったことにして、尚且つ彼女の病気を治す方法なんて――――
そこまで考えて、僕は一つの可能性に辿り着いた。
「ユートピア・ワンダーワールドだ」
僕がそう言うと、星の骸は指を鳴らした。
「正解だ」
そして僕は、星の骸に願った。
『Utopia Wonder Worldを、作ってください』
「ああ、任せて欲しい」
彼はそう言って、指を一つ立てた。
「ユートピア・ワンダーワールドが存在し続けていられるのは一年が限界だ」
星の骸曰く、それが月野の元々の寿命らしい。それ以上命を伸ばすことは、彼にも不可能なのだという。
「ああ、それでも構わない」
「そうか。なら、始めようか」
星の骸が、僕の頭上に手をかざした。これから僕は、月野のことを忘れてしまうのだろう。僕は堪らなく不安になって「なあ」と星の骸に声をかけた。
「なんだい?」
「僕がもし、月野のことを見つけ出せなかったら、お前が僕達を引き合わせてくれないか?」
「そこまで願いに含めるということでいいのかな?」
「ああ、そうしてもらえると助かる」
「分かったよ」
彼は頷いてから続けた。
「じゃあ、忘れるだろうが言っておこうか。僕は君の友人として、ユートピア・ワンダーワールドに現れる。もしもの時は、隕石のことやヴァイキングの事故についての情報を渡すよ。それでも思い出せなかったら、それは君が悪い」
「ああ、恩に着るよ」
僕がそう言うと、星の骸は意地悪そうに笑った。
「でも、僕がそこまでお膳立てしてやるんだ。最後の最後に、少しだけ君達を試してみようかな」
「試す?」
「ああ、そうだ。最後の最後に君達二人にそれぞれ理想の人だと勘違いしてしまうような存在を与えよう。それを乗り越えて、一緒になれるかどうか。そんなところだ」
性格の終わっている星の骸が考えそうなことだった。
「やってみろよ。僕達なら絶対に大丈夫だ」
「どうだかね。まあ、そろそろ願いが叶うころだよ」
段々と、僕の記憶が薄れていく。月野との思い出が、霞んでいく。
でも、もう一度月野と出会うためだ。
「さあ、準備ができたよ」
星の骸に、背中を押される。
「行ってらっしゃい」
彼が手を振っている。僕は白い光に包まれて、月野の記憶を失った。そうして、あの世界に迷い込んだのだ。
この世界を願ったのは月野じゃない。僕だったのだ。
「そっか……この世界は、サンタさんが私のために願ってくれた世界だったんですね」
思い返せば、ヒントは至るところに転がっていた。月野は、夜空を見上げながら静かに泣いている。
「そうだよ。僕達はさ、遠回りしちゃったけど、願いを全て叶えたんだ」
夜の窓ガラスを割った。深夜に二人でヘトヘトになるまで歩いた。野外飲み会だってした。海辺で花火だってやった。隕石の跡地にも向かった。水族館にも行ったし、父親を殺すことにも成功した。
「私がノートに書いていたこと、ほとんど叶ってるじゃないですか」
彼女は流れる涙を拭うことなく、僕を見ている。鼻水まで垂れていて、その顔は少し面白い。でも、絶対に視線を外すものかと思った。最後の瞬間まで、月野の顔を目に焼き付ける。少しでも長く、彼女を感じていたい。
月野はぐちゃぐちゃになった顔のまま笑い、僕のことを軽く殴った。
「馬鹿ですね。私なんかの願いを叶えるために、寿命を五十年も使うとか、何を考えてるんですか」
彼女はもう一度僕を殴る。彼女の力無い拳が僕の胸に当たった。
「仕方ないだろ。月野のいなくなった世界で、生きていく自信がなかったんだから」
「もう、本当にどうしようもない人ですね。でも、愛しています」
「ああ、こんな人でなしを、愛してくれてありがとう」
「はい。人でなしなのに大好きなんですから、困ったもんです。多分、一生嫌いになれません」
世界の終わりは、着実に迫ってきていた。この世界を覆っていた壁が全て白い光となって消えて、今は海が少しずつ光となって霧散している。
あの光が全てを包み込んだ時、僕達は元の世界に戻る。その時、ぱちぱちぱちぱちと拍手の音が鳴った。
「やっと気が付いたんだね。だから言ったろう。僕と君との中じゃないかって」
その声は、オルゴールのような聞く人の心を落ち着かせるようなもの――――ではなかった。
声のリズムはオルゴールのように穏やかなのに、その声音は酒で焼かれたようにしわがれている。
そこにいたのは、常田だった。
「俺はさ、ずっとお前達が気付くように仕向けていたんだぜ」
「良く言うよ。お前が、まさか星の骸だったとはな。全く気が付かなかったさ」
僕がそう言うと、常田は「はっ」と笑った。そして、ぱちんと手を叩く。彼の姿が、星の骸に変わった。
隣で月野が驚いた後、笑いながら言った。
「やっぱり、サンタさんにはまともな友達なんていなかった」
大きなお世話だ。
「僕はさ、沢山のヒントを出していたんだぜ?」
「ヒントが分かりづらいんだよ」
振り返ってみれば、確かに常田は僕に月野のことを進めていたような気がする。確か『その女、お前に気があるって』だったか。あんなので、分かるわけがないだろう。
「でもなあ、ちゃんと隕石落下の新聞やヴァイキングの事件、分かりやすく[始まりの場所]とまで言ってたんだ。八尾比丘尼伝説だって教えてあげたじゃないか。それでも思い出せないのは、君の怠慢だと思うよ」
言いたいことがないわけではなかった。それでも、僕達はこいつに感謝しないといけない。
「お前さ、一つ、お節介を焼いただろ」
「何のことかな?」
彼はとぼけているが、僕には分かる。月野が父親を殺そうと決心できたのは、こいつのおかげなのだ。自らが常田として行動して、人魚を殺される痛みを演出した。全ては、月野に父親を殺す筋道を用意するための行動だったに違いない。
「まあ、それを言うのは野暮ってものだろう。だから、僕はこのまま行くよ。最後の時間くらい、二人で幸せに過ごしてくれよ」
そう言って、星の骸は去っていった。
白い光が、僕達に迫っている。あと数分で、この世界が壊れてしまう。そうしたら、月野もいなくなる。
僕は月野の手をギュッと握り締めた。一生離してたまるものかと、力強く握った。
「サンタさん、ちょっと痛いですよ」
言いながら、月野が更に強く僕の手を握った。
「痛いくらいが、気持ちいいよ」
「それもそうですね」
僕達は、二人で海を眺めていた。海はもう半分以上が光となって空へ昇っている。
「ねえ、サンタさん」
「どうしたの?」
「結局、私達はヴァイキングに乗れませんでしたね」
上空へと昇った真っ白な光が、夜空を明るく染め上げている。
「それだけが心残りです」
月野はため息を吐いた。
「この世界が消えたら、本当に君はいなくなっちゃうんだよな」
僕はそんな世界を想像してみた。
何をするにも、きっとつまらないだろう。サンタクロースを見たって、月野がいなければ心がときめかない。現実に帰って、どんなに綺麗なものを見ても、どんなに素晴らしい体験をしても、物足りないのだろう。
ぽっかりと空いた心の穴を、埋めることはできない。それは、この世界で過ごした大半の時間が証明してくれている。
「そうだと思います。あー、サンタさんを残して旅立つことを許してください」
「絶対に許せない。だから、死なないで欲しい。君を死なせたくない」
それはもう、心の底からの願いだった。どうせなら一緒に消えてなくなりたい。
海の方へ視線を向けると、光はもう目の前に来ていた。真っ白な光が、僕達を包み込む。
段々と、僕達の体が白い光となっていく。
「サンタさん」
月野が、僕の名前を呼んだ。
「私、本当は死にたくありません」
僕は最後に彼女を抱きしめようと、手を伸ばす。だが、伸ばした右腕が、白い光となって消えた。
最後の時間が、訪れようとしていた。
僕は消えた右手に視線を送ってから、今度は左手を伸ばす。しかし、その手も光となって消える。
「月野……」
彼女が、泣きながら僕のことを見ていた。そして、月野は僕を抱きしめようとした。が、胴体も消える。僕は首だけになって、無惨にも地面に転がった。月野は虚空を抱きしめただけだった。
最後の最後に、僕は月野の温もりを感じられなかったんだ。
「また会おうね」
最後にそう言葉を残して、僕は消えた。
「最後の瞬間まで、一緒にいてくれるって言ったじゃないですか」
月野の声が、僕の鼓膜を震わせる。
ごめんね。その言葉は、彼女には届かなかった。
真っ白な世界で、僕は一人立っていた。きっと、これから僕は元の世界に戻るのだろう。月野がヴァイキングに潰された、あの忌々しい世界に。
これからその世界で、僕は生きていくんだ。一人で、何の希望も見いだせないまま、残りの寿命を悪戯に減らしていく。
そんな人生に、意味なんてない。だから、残りの命の使い方は決めていた。
「やあ、また会ったね」
突然の声。声の方に振り向くと、そこには星の骸がいた。
「来ると思ってたよ」
「君もそろそろ学習してきたみたいだね」
「なあ、僕の願いを叶えてくれないか」
星の骸は、願いを叶える際に五十年の寿命を奪う。しかし、五十年分の寿命がない者からは、最後の一日を除いて、全ての寿命を支払うことで願いを叶えてくれる。
つまり、僕にはもう一度だけ、願いを叶える権利がある。
「今がその時ってやつなんだろ?」
僕がそう言うと、彼は笑いながら拍手をした。
「分かってるじゃないか。その通りだよ」
僕が初めてユートピア・ワンダーワールドで星の骸と会った時のことだ。理想の人に会わせろと願った僕に対して、星の骸は『今はその時じゃない』と言った。確かに、願うべきタイミングは今だった。今以外に、あり得なかった。
「ヴァイキングが落下した事故を、無かったことにしてくれ」
僕は彼に、そう願った。
そうすれば、月野は後一年生きられる。辛い闘病生活が待っているだろうけど、ヴァイキングに潰される結末よりはマシだろうと思えた。
それに、後一日だけ、僕は月野と一緒にいられる。彼女と少しでも長くいられるなら、こんな命、いくらでも投げ捨ててやる。
「分かったよ。それが、君の願いなんだね」
「ああ、そうだ」
星の骸は「うんうん」と頷いてから、僕の頭上に手をかざした。
「ありがとな」
僕がそう言うと、星の骸は照れたように笑った。
「似合わないよ、そういうの。じゃあ、行ってらっしゃい。さようなら」
「ああ。さようなら」
今度は僕が星の骸に手を振る番だった。彼は黙って僕を見送り、そして、元の世界に戻った。
目覚めるとそこは、あの遊園地だった。
僕はあのクレープ屋の前に立って、ヴァイキングをぼんやりと眺めていた。
ヴァイキングは安全に稼働している。大きな船が、空を泳ぐようにして揺れていた。
僕はこの最後の一日を、月野と幸せに過ごす。その、はずだった。でも、ヴァイキングの真下。月野がいたはずのその場所に、彼女の姿は無かった。車椅子もない。
なんで? どうして?
僕は命の全てを使って、星の骸に願ったんだ。あの事故を無くしてくれって。なのに、月野がいない。
気付いた時には、ボロボロと泣いていた。
僕は最後に、彼女を抱きしめられなかったんだ。約束したのに、最後まで月野と一緒にいられなかった。
そのことが、悔しかった。悲しかった。
目頭を覆って泣きじゃくっていると、背後からとんとん、と肩を叩かれた。
こんな時に誰だよ。
そう思う間もなく、そいつは僕の口にクレープを突っ込んだ。
「何泣いてるんですか」
「あははっ」と笑いながら彼女は僕の前に立っていた。
その笑い声を、忘れるわけがない。その笑顔を、見間違えるわけがない。月野が、クレープを持って僕の前にいる。
「どうして」
月野が生きている。そのことが信じられないくらい嬉しい。
でも、疑問が一つだけあった。
どうして、月野は車椅子に乗っていないのだろう。
なんで彼女は、健康そのもので、にまにまと楽しそうに笑っているのだろう。
月野の病気は、いったいどうなったんだ。
「私も、星の骸に願ったんですよ。病気を治してくださいって」
「でも、君には願うだけの寿命がないじゃないか」
言いながら、僕は自分の勘違いに気付いた。
「いや、違うのか」
「はい。そうですよ。サンタさんが、私を生き返らせてくれたからです」
ユートピア・ワンダーワールドが消えた後、月野はヴァイキングの前で意識を取り戻した。自分が生きている事実に気付いて、僕が命を使ったことを悟ったという。
そんな彼女の前に、星の骸が立っていた。
「そうしたら私にだって、願いを一つ叶えるだけの寿命は残っています」
月野はその寿命を使って、星の骸に願ったのだ。病気を治してください、と。
僕と一緒に夢を叶えるために、彼女は命の全てを使って病気を無くしたんだ。
「言ったじゃないですか。今日が人生で一番幸せな日になると思うって」
僕は思わず、彼女を抱きしめてしまった。
「ああ、確かに、僕は今が人生で一番幸せだよ」
「奇遇ですね。私も、今この瞬間が一番幸せです」
月野は右手に持ったクレープを美味しそうに頬張った。
「約束、守ってくれましたね」
「約束?」
「最後の瞬間まで、一緒にいてくれるってやつです」
ああ、確かにそうだ。
僕達は、今から二十四時間後に仲良く消える。その時が僕達の命の終わりだ。
でも、それで幸せだ。
それから月野は、僕の手を引いてヴァイキングの前まで連れて行った。
「さあ、最後の夢を叶えましょう」
「うん。そうしようか」
そうして僕達はヴァイキングのゲートを潜った。