それからしばらく、僕は月野のことを見守っていた。彼女は幸せそうな顔をして眠っている。命に別状は無さそうだし、吐く気配もない。そろそろ帰っていいだろう。
僕は月野のリュックの中に余った酒を押し込み、胸の前にかけた。それから、眠ったままの彼女を背負う。ふわりとアルコールの匂いがした。
この帰り道はきつい道のりになるぞ。そう思いながら、家を目指して一歩一歩進んでいく。
その間、僕は月野が言っていた言葉の意味を考えていた。
『せめて、死ぬ前にもう一度彼に会いたかった』
あんな言葉、これから死のうとしている人間は言わない。あれは死のうとしている人間の言葉じゃない。あの言葉は、これから死ぬ運命から逃げられない人間が発する言葉だ。
そんなことを考えながら歩いていた時だ。僕は視界の端に灰色の紙切れを見つけた。それは倒れかけた家のポストの口から顔を覗かせている。こんな誰も住んでいない廃墟のような場所に、誰がこんなものを持ってきたのだろう。まさか、ずっと前からあのポストに挟まっているわけじゃあるまい。近づいてみると、その紙切れの正体が分かった。
風にひらひらと揺れるその紙は、新聞の切り抜きだった。
その時、僕は常田のことを思い出した。遊園地にあるヴァイキングについて書かれた新聞の切り抜きだ。
あの時の会話が、僕の脳内で渦を巻いていた。嫌な予感がして、僕は月野を桜の木陰に座らせた。
「ここで少し待っていてくれ」
眠り続ける月野に声をかけて、僕はそのポストの前まで向かった。そして恐る恐る、新聞を手に取る。
「ああ、やっぱり」
それは確かに、新聞の切り抜きだった。そして常田の新聞と同じように、この新聞も所々黒く塗り潰されている。これも向こうの世界で発行された新聞だというのか? でも、いったいなぜここに?
そう思い、僕は新聞記事に目を通していった。幸い、この記事も内容は掴めた。だが、やはり所々情報を消そうと塗り潰されている。
内容はこうだ。
ある日、直径約六十mの隕石がとある街に落下してきた。クレーターは二kmに達し、周辺の住宅は消し飛んだ。更には広範囲に渡り衝撃波が飛び、多くの建造物が破損。死者は五千人に及び、負傷者は更に多くいる。
やはり、隕石衝突の日付が黒く塗り潰されていた。更に、落下した市町村にあたる所も黒く塗り潰されていた。
「やあ、また会ったね」
背後からオルゴールの音色のような安らかな声がかけられる。ついさっきまで話していたかのようなその安心感が、余計に僕の心をかきむしった。振り返ると、そこには赤い瞳をした人物が立っていた。
「なんでお前がここにいるんだよ」
僕がそう問いかけると、彼は信じられないとでも言いたげに顔をしかめた。
「それを言いたいのは僕の方だよ」
星の骸はやれやれと肩をすくめて見せた。
「君こそ僕の住処で何を好き勝手にやってくれているんだ」
ここが星の骸の住処だと? この隕石の跡地が?
「それはどういうことだよ」
「そのままの意味だよ。僕はここで産まれたんだ」
星の骸は余裕のある笑みを浮かべている。
「もっと言えば、君と初めて会ったのもこの場所だ。と言っても、君は忘れているようだけどね」
その時、ズキンッと脳が痛んだ。
「うっ」と呻き声を出して、僕は頭を押さえた。そうして、微かな記憶が脳裏を駆け抜ける。
僕は絶望に近い感情に駆られながら、隕石が衝突した街へ向かっていた。警察や消防の静止を振り切り、燃え盛る街の中に向かって走り出していく。その時だ。赤黒く燃え続ける火炎の中から、誰かが現れた。その人物は確か、白髪で赤目をした――――あれは確かに、星の骸だった。
僕はかつて、この場所に来たことがあるのかもしれない。あの時感じた絶望に似た思いというのは、まさか。最悪の想像が頭の中で暴れ回っていた。
「僕はそこで、君に何かを願ったのか?」
その隕石の衝突で、僕の理想の人は死んでしまったのだろうか。あの時の絶望は、焦りは、それに近いほど深いものだったはずだ。
一度そう考えてしまうと、身体中の震えが止まらなかった。だって、そうしたら、この世界から抜け出す意味も無くなってしまう。
「色々と考えているようだけど、残念ながらそれは不正解だよ。君が僕に願ったのはその時じゃないな。もう少し後のことだ」
星の骸は笑っていた。明らかに僕を嘲笑するように、腹すら抱えてしまいそうなくらいだった。
「少し落ち着いて冷静に考えてみなよ。その場所で君が願っていたら、理想の人は生き返ってるだろ? それか、隕石の衝突自体を無かったことにしてる」そこで星の骸は一度息をつき「まあ、隕石の衝突を無かったことにはしないけどね。僕が産まれなくなってしまうから」と語った。
それは確かに、星の骸の言う通りだった。笑われたって仕方ないかもしれない。少し冷静さを取り戻した僕は、星の骸に向き直った。
こいつに問いただしてやりたいことは沢山あった。月野のノートの作者、もといこの世界の考案者について、僕が願った内容について、新聞の切り抜について、そしてなぜ、月野ユキが死ななければならないのかについてだ。
「おい。少し良いか」
そんな僕の発言を、星の骸は手を使って妨げた。
「いや、ダメだな。今回僕が君の前に現れたのには理由がある」
そうして、星の骸はニヤリと口角を上げた。
「今回はね、罰について話すために君達を探していたんだ」
「罰?」
「ああ、罰だ。君達さあ、この前僕の世界を荒らしただろ?」
世界を荒らした? 何のことだろうかと考えて、すぐに思い出した。
「七日くらい前かな、君達、商店街の窓ガラスを壊したよね」
背筋が震えた。完全に、僕達の行動が星の骸に筒抜けになっている。
「だから残念だけど君達には罰を与えないといけないな。この世界の平穏を乱した罪だ」
何をされるのだろうか。星の骸のことだ。本当に何らかの罰を下すだろう。それをできるだけの力が、こいつにはある。すぐに逃げないと。月野を背負って、今すぐにこの場から立ち去るべきだ。彼女を背負って、逃げ切れるだろうか? 一人でも逃げ切れる自信がない。いや、逃げ切るしかないんだよ。
「そんなに焦らなくていいよ。そんなに身構えることはない。むしろ、これは返って君達の道標になるかもしれないな」
「道標?」
「そう。道標だ。これは君達の願いでもある」
僕達の願い? そんなのが罰と呼べるのだろうか。そんな僕の思考を見透かしたように、星の骸は話した。
「ただ、これはあくまでも罰だ。君達は嘆き悲しむことになるだろう。そして、結果として行動を起こす。その結果に当たるところが、君達の願いに繋がっているというわけだ」
星の骸は楽しそうに両手を広げた。
「ここはユートピア・ワンダーワールドだ。罰を与えるといっても、救いの一つや二つくらいないとつまらないだろう」
彼は指を一つ立てる。
「ヒントは、そうだな。八尾比丘尼だ」
「八尾比丘尼?」
どこかで聞いたことのある言葉だ。だが、何のことかは忘れてしまった。僕の反応を見た星の骸は、少し寂しそうに目尻をさすった。
「もちろん忘れているよね。それは仕方ないことかもしれない。でも僕はね、君達の力を信じていたんだ。もう、時間は思ったよりも少ないんだよ」
彼は心底失望したように、据わった目でこちらを見ている。
「伝えることはもうないよ。じゃあね」
そう言い残し、星の骸は背を向けた。
ダメだ、今こいつを逃してはならない。聞かなくちゃいけないことは沢山あるのだ。
「おい! 待てよ!」
その叫びに星の骸は足を止め、こちらに振り返る。
彼は思い出したように「ああ、そうだ」と顎に指を当てた。
「一つ言い忘れてたよ。君にこの世界の総人口を教えてあげよう」
なぜそんなことを教えるんだという質問をする間も無く、彼は告げた。
「約七千人。この世界には約七千の人が住んでる」
「だからなんだって言うんだよ」
「話はまだ途中だよ。約七千人のうち、二千人が労働を義務付けられているんだ。この意味が、分かるかい?」
僕は何も答えられなかった。色々なことが頭の中で渋滞していて、思考が追いついていない。
「仕方ないな。もう少しだけヒントをあげようか。この二千人の労働者は、僕が作った架空の人間だ。残った五千人の人間がこの世界で何不自由なく暮らせるように、労働を強いられることのないようにするために、僕がちょっとだけ願いに手を加えたんだ」
「五千人のために、手を加えた?」
「そうそう。五千人のために、というより誰もが幸せな、という願いを叶えるために手を加えたという感じだね。ユートピア・ワンダーワールドの作者は、労働のことまで頭が回らなかったみたいだよ。まあでも、仕方ないことのような気もするけどね」
その時、真っ白な部屋が脳内にフラッシュバックした。でも、それ以上は何も思い出すことができず、その記憶は霧のように霞んで消えた。
「そうしてできたのがユートピア・ワンダーワールドなんだよ」
そう言い残して、今度こそ星の骸は僕に背を向けた。そのまま、奴は桜の森の中へと消えていった。
それからいくら頭を振り絞っても、真っ白な部屋についての記憶を思い出すことができなかった。
そのかわり、はっと閃いた。僕はようやくそれに思い当たりむしるように新聞を開いた。食い入るように記事を読み、その一文を見つけた。
[今回の隕石による死者数は、約五千人に登ります]
「やっぱり」
その文章を読み、思わず声が出た。なんで忘れていたんだ。先程、新聞を読んだばかりじゃないか。
五千人の人間が何不自由なく暮らせるように生み出したのが、二千人の労働者。
あの機械的な労働者達は、星の骸が作った偽物の人間。じゃあ、逆に考えたらどうなるだろう。残りの五千人の人達は、本物の人間だ。
この世界の本当の人口は約五千人。そして、隕石による死者数も約五千人。これは関係しているのだろうか。それとも、ただの偶然の一致だというのだろうか。
わざわざ星の骸が言ってきたんだ。何か意味があるに決まってる。
じゃあ、この世界に住んでいる住民というのは――
ということは、僕も……月野も……
そこまで考えて、頭を振った。それはあり得ない話だ。だって僕は、星の骸にまだ願う権利があると言われている。僕にはまだ、寿命が残っている。ということは、少なくとも僕はその被害を受けていない。
じゃあ月野はどうなるのだろう。
そこで、考えるのを辞めた。どうせ、月野はその命を終わらせるのだから。終わらせる必要があるのだから。
それなら後の人間はどうなったっていい。
そう思った時、乾いた笑いが込み上げてきた。それはあまりにも自己中心的な思想だったからだ。でも、世界を壊したいというのは究極的に自己中な願いなのだ。僕達がやろうとしていることはそういうことだ。
ただ問題なのが、月野の死について考えている時に、胸の中で燻っている感情の正体に気づいてしまいそうなことだった。
あの後、僕は月野を背負ってなんとか隕石の跡地から抜け出した。途中でタクシーを捕まえて、家まで向かった。
タクシーの運転手は泥酔した月野を見ても嫌な顔一つしなかった。記号的な笑みを浮かべながら、一人でずっと喋っていた。
アパートに着き、彼女をベッドに寝かせてからソファに沈み込む。頭の中は多くの情報が絡まったコードのようにぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
こんな時はすんなり眠りにつけないと覚悟しながらソファに倒れ込んだが、気が付いた時には眠っていた。
程よく酔っていたのが良かったのかもしれない。
★☆★☆★☆
翌日、僕は嘔吐の音で目を覚ました。
二日酔いに悩まされてゲェゲェ吐いているどっかの誰かさんとは違い、僕の体調は好調だった。のそのそとソファから起き上がり、ベッドに誰もいないことを確認する。
そのままリビングを出て廊下に向かうと、やはりというか、案の定というか、月野がトイレで嘔吐していた。昨日の出来事を忘れるように、自分の中にわだかまった思いを全て吐き出すように、彼女は何度も何度も吐いていた。
トントン、とノックしてから反応を待つことなくトイレのドアを開けた。
「どうやら便器と親友になったみたいだね」
便座に抱きつくようにして、月野はぐったりとしている。
「ええ、トイレが私に離れて欲しくないそうで、もう大変ですよ。ていうか、勝手に入らないでください。不法侵入で通報しますよ」
「できるもんなら通報してみろ。連行されるのは君の方だ」
僕はトイレの扉を閉じた。どうやらそこまで深刻な二日酔いというわけではないようだ。ドア越しに「少し出掛けてくる。十五分くらいで帰るから」と伝えた。
身支度を整えてから外に出る。どうやら今日は冬日のようで、いつも着ているロングコートを羽織った。近くのドラッグストアでロキソニンとポカリスエットを購入し、次にコンビニで朝食を買った。こいつらは人間じゃない、ロボットだと思うことで少しだけ買い物が楽になった。
家に戻ると、月野は枕に顔を埋めて亡霊のように唸っていた。彼女が顔を押し当てているのは、僕の枕ではない。いつの間にか僕の家にあった、あの身に覚えのない枕だ。
「体調、大丈夫か?」
彼女はのそりと顔をあげて、ゆるやかに首をふった。あまり強く頭を動かしたくないのだろう。
「大丈夫じゃありません」
言ってから、彼女はまた枕に顔を埋めた。そんな彼女を横目に、朝食の準備をしようとキッチンへ向かう。インスタントのしじみ汁にお湯を入れ、リンゴの皮を剥いている最中に、くぐもった声が聞こえた。
「サンタさん。私、変態かもしれません」
枕に顔を埋めたまま、月野がそんなことを口走った。
「どうして?」
「もうしばらく、こうしていてもいいでしょうか?」
それは、枕に顔を埋めていても良いか? ということだろうか。
「なんだかよく分からないんですけど」と前置きして「この枕、凄く気持ちがいいんです。これを使っていると、とても気分が落ち着くんです」
「そうか。なら良かった」
「ええ、人の枕を捕まえてそんなこと言うなんて気持ち悪いとは思うんですけどね」
そんな弱気なことをほざいてる月野の前を通り過ぎて、テーブルに朝食を並べる。
「おら、元気出せ。君の大切な奴隷がクリスマスプレゼントを持ってきてやったぞ」
月野は顔をあげてテーブルにおかれたロキソニンに目を輝かせる。
「おぉ、流石は私のサンタさんですね。奴隷とサンタの両立、ご苦労様です」
「サンタクロースは子どもの奴隷みたいなもんだ。大したことないよ」
「夢も希望もないことを言うんですね」月野はジッと、机に並べられた朝食を眺めながら「まあ実際に、夢も希望も私達の前には転がってませんからね」とため息をついた。
それから彼女はふーふーとしじみのみそ汁を冷ましてから一口飲む。
「あー、二日酔いの体に染み渡ります」
「今度からは酒の飲み方には気をつけろよ」
その言葉に、彼女は表情を曇らせる。
「今度から……」そこで一度言葉を区切ってから、月野は努めて明るい表情を作ったようだった。
「ええ、そうですね。今度からは気を付けます」
その表情を見て、僕は自分の失言に気が付いた。
『せめて、死ぬ前にもう一度彼と会いたかった』
昨日のあの言葉が、脳内に反響する。彼女にとって、今度が本当に来るのかは分からない。恐らく、そういうことだろう。
だが、僕は彼女のそんな些細な変化には気が付かないフリをした。それを月野は望んでいるようだったし、僕は彼女との「忘れてください」という約束を守りたかった。
月野はシャリッとリンゴを齧りながら、棚に並べられたCDを見ていた。
「驚くほど音楽の趣味がいいんですね。私の好きな曲が沢山あります」
「どうも」
褒められたところで、別に嬉しくともなんともない。これは僕のCDじゃないからだ。このCDだって、恐らくは理想の彼女が残していったものだ。
「何か聞く?」
綺麗に並べられたCDに視線を向けながら、月野に聞いた。
棚の中には、ヨルシカの『夏草が邪魔をする』『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』BUMP OF CHICKEN の『jupiter』『ユグドラシル』the pillowsの『Please Mr. Lostman』Mr.childrenの『深海』などのアルバムが入っている。
月野は棚の中を見て「うーん」と首を捻ってから「Mr.Childrenの『新海』も捨てがたいですが、ここはthe pillowsの『Please Mr. Lostman』にしましょう。『ストレンジカメレオン』が聞きたいです」
今時『ストレンジカメレオン』を聞きたがる女の子がいるなんて思ってもみなかった。
ディスクをCDプレーヤーに入れて、スイッチを押す。少し音質の悪い、くぐもった音が流れはじめた。でも、僕はこの音が好きだった。スマホから流れる高音質な音よりも、断然良い。
僕達はそれからしばらくの間、心地よい音楽に体を預けていた。昨日のことは詮索しなかったし、お互い完全に無かったことにした。
月野にも僕にも、今は休息が必要な気がした。一度現実から目を逸らして音楽に没頭するべきだと思う。
しばらくして、月野お待ちかねの『ストレンジカメレオン』が流れ出した。
「とても健康的な歌です」
月野はこの悲壮感漂うどこか優しいメロディーに体を揺らしながら、そう呟いた。
それは恐らく、一般的な感覚ではないのだろう。でも、その気持ちは痛いほどよく分かる。
「確かに、僕達みたいな奴らにとっては健康的な歌かもしれないね」
「ですよね」彼女は笑ってから「君といるーのーが好きで」と歌い始めた。僕も彼女に続けて歌い出す。
「あとはほとんどー嫌いで」
歌っていて、不思議な感覚に包まれた。
音楽とは全く関係ないはずなのに、手持ち花火をやっているシーンが、頭の中に浮かんできた。
「まわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン」
「優しい歌を唄いたい」
「拍手は一人分でいいのさ」
そこで僕達は一度お互いの顔を見た。なんだか照れ臭くて、それ以上は歌えなかった。
あれから二日後、月野から連絡が入った。この時、僕は自分の心境の変化に驚いていた。月野からの連絡が入った瞬間、やっと来たかと思ったからだ。
信じがたいことなのだが、僕は彼女から連絡が来ることを心待ちにしていたようだった。これはなんとも、良くない状況だと思う。だって、僕が今まで散々恋焦がれてきた理想の女の子と会うためには、この世界を壊す必要がある。あの壁から抜け出せない以上、そうするしかない。だが、この世界を破壊するためには月野を死に追いやる必要があるのだ。
そのことを考えるたびに、僕は彼女のあの言葉を思い出す。
『せめて、死ぬ前にもう一度彼と会いたかった』
彼女の死について考えている時、僕は押し潰されそうになる。胸の中の感情に名前を与えてしまいたくなる。
恥ずかしい話、僕は月野ユキの術中にはまってしまったらしい。
『貴方には私のことを好きになって貰わないといけないってことなんです』
これは始めて会った日、月野が僕に向けて言った言葉だ。今思えば、月野が僕をよく分からない遊びに連れ回していたのは、僕に自分自身を好かせようと思っての行動なのかもしれない。
だとしたら完敗だった。僕は理想の彼女と同じくらい、月野ユキのことを大切だと思い始めている。
彼女に死んで欲しくない。そんな感情に、押しつぶされてしまいそうだった。
★☆★☆★☆★
約束の場所に行くと、いつも通り月野が先にいて煙草を吸っていた。
彼女は涙目でケホケホと咳き込んでいたが、僕は何も言えなかった。
「今日は何も言わないんですね」
月野は苦しそうに喉元を抑えながら、軽く睨んできた。「忘れたフリをしろ」と訴えているのだろう。
「まあな。ちょっと、僕も吸いたくなったから」
「そういうことですか」
仕方ないですね、と言いながら彼女は僕にピアニッシモの箱とライターを渡してきた。
ピンクの箱から煙草を取り出すのは少し恥ずかしかったが、別にいい。煙草を咥えてから、僕はライターの火を付けようとした。だが、どうやらオイル切れらしく、いくらやっても火が付かない。
「残念だけど今回は諦め――――」
そこまで言ったところで、口が止まった。
「ん」とだけ呟いて、月野が咥えたままのタバコの先端を僕のタバコに押し付けたからだ。
僕は唖然としてしまって、タバコを咥えたまま固まった。
ジジ、と音を立てて、月野の火が僕のタバコに広がっていく。それを確認した彼女はまたゲホゲホと咳き込んでタバコを口元から離した。
「これで吸えますね」
ぶっきらぼうに言って、月野はぷいっとそっぽを向く。
「ああ、ありがとう」
「ええ、感謝してください」
明後日の方を向いてムスッとしている月野を見て、思った。
ああ、やっぱりよくないな、と。
僕はどうしようもないくらい、彼女に死んで欲しくないらしい。
それから僕達は水族館へ向かった。月野が「今日はこれをやります」と言って見せてきたノートに[水族館へ行きたい]と書いてあったからだ。
今日は不幸なことに夏日で、少し歩くだけで汗が滝のように流れてくる。
海辺にある水族館へ向かう為、海岸線を歩いていく。僕と月野が始めて会ったあの砂浜だ。
どこまでも続く蒼穹に、背の高い雲が浮かんでいる。生ぬるい風が泳いで夏の匂いを運んでくる。
汗だくになってたどり着いた水族館は、まさに天国だった。チケットを買って、エントランスで息をつく。
「あー、生き返りますね」
僕達はエントランスのベンチに座って、売店で買ったラムネを握りしめていた。
クーラーから吐き出されるカビ臭い冷風が、ほてった体に染み渡っていく。館内は飲食禁止なので、ラムネを飲み干してからゲートをくぐった。
水族館の中はいくつかのエリアに分かれており、僕達は順番に回っていくことにした。まず初めに現れたのは、真っ暗な部屋だ。光の届かない世界で暮らしている深海魚達が、それぞれの水槽で泳いでいた。
見たこともないような形をした魚や、毒々しい色をした魚達が、青い光に照らされて泳いでいる。このエリアには人はあまりおらず、いるのは僕達と老夫婦と、若いカップルが三、四組だけだった。
月野は暗闇の中をホタルのように発光している魚を見て「おぉ」と歓声をあげていた。
次のエリアは二階にあり、エレベーターで向かわなければならない。エレベーターに乗り込み、二階に付いた。
扉が開いて、僕達は思わず息を呑んだ。視界いっぱいに、雄大な水槽が広がっていたからだ。その中を大きなジンベイザメがゆらゆらと泳いでいる。
エレベーターから抜け出した月野は、その光景に目を奪われていた。全長三十メートルは超えているであろうアクリルパネルの内側には、大小様々な魚が踊るように泳いでいる。その光景は、自分がまるで海の底にいるようで、幻想的な眺めだった。
二階の隅にあるお土産屋で、月野はマリンドームに興味を示したようだ。しかし、彼女の右手には既に購入済みのジンベイザメのぬいぐるみが抱えられている。
「知ってますか?」
彼女はそのマリンドームを手にとって、僕の方へと視線を向けた。そのマリンドームの中には人魚が座っており、その周りを魚達が泳いでいる。
「いい歳こいて君が可愛いものが好きだってこと? 意外だったよ」
「違います」
彼女は鋭い目で僕を睨んだまま続ける。
「この水族館最大の売りです」
「知らないな」
「ここには人魚がいるんですよ」
人魚……その言葉に、一瞬だけ嫌な予感がした。何か最近それに関連する言葉を聞いたような気がする。
「ええ、どうやら半年ほど前に捕まえたそうです」
「そうなのか」
この世界にはサンタクロースだっているんだ。人魚の一匹や二匹いたところで何も驚かない。
「次はその人魚のエリアに行ってみましょう」
二階には外へと続く出入り口があり、その出口の先に人魚エリアがあるらしかった。
人魚エリアは一階と二階合わせて一つのエリアとなっており、二階にあるのは岩場エリアだ。一階は深海魚エリアの壁の反対側にあり、人魚の水槽エリアとなっている。
月野に連れられて二階の外に出ると、燦々と輝く太陽に肌が炙られ、気が滅入った。だが、すぐにそんな気持ちも吹き飛んでしまった。
人魚エリアにはかなりの人だかりができており、彼らの視線の先――――そこには一匹いや、一人寂しそうに岩の上に座る人魚の姿があった。
赤茶色のショートボブに、病みきったように据わった目、貝殻でできた胸当て、その上半身はどこからどう見ても人間のそれだ。だが、下半身は青く澄み切った美しい鱗に覆われていて、尾ヒレが付いている。
彼女は確かに、人魚だった。
その時、隣に立っていた月野が目を細めて呟いた。
「ああ、私と一緒だな」
それは本当に声を発したのかどうかも分からない、消え入りそうな声だった。僕の勘違いだと言われれば信じてしまえそうなくらいには、小さな声だ。
「今、なんて?」
僕がそう聞くと、彼女はポカンとした表情で首を捻った。
「何がですか?」
「私と一緒って」
「何のことですか?」
彼女は不機嫌そうに眉を寄せる。
「意味の分からないことを言わないでください」
「はあ……」
意味が分からないのはこっちの台詞だ。声を大にして言ってやりたかったが、彼女の機嫌が悪くなっても困るのでグッと堪えた。
「それにしても、なんだか可哀想ですね」
幸いにもこれ以上機嫌が悪くなることもなく、月野は人魚に視線を向けた。
「確かに、見ていていい気になるものではないね」
狭い水槽の中に閉じ込められて、自由を奪われて、人に見せ物にされる。そんなのってあんまりじゃないかと思う。
その時、僕はふいに思い出した。
『ヒントは、そうだな。八尾比丘尼だ』
確か、星の骸がそんな話をしていた。目の前の人魚がトリガーになったのかどうかは分からないが、八尾比丘尼伝説についての記憶が、唐突に甦った。
理由までは覚えていないが、僕は向こうの世界で、食い入るように八尾比丘尼伝説について調べていた。それにまつわる文献や資料を図書館に籠もって読んでいた。
その内容は確かこうだ。大昔、とある村に十七から十八ほどの若い娘がいた。彼女は誤って不老長寿とさる人魚の肉を食してしまい、八百年近く生きたという。
なぜ僕はそんなものを真剣に調べていたのだろうか。
僕のそんな思考を他所に、視界の端をある人物が通り過ぎていった。
あの茶色に染められた髪には見覚えがある。あれは、常田だ。僕の唯一の友人である、常田真夏。
彼が、たった一人で人魚エリアに入ってきた。だが、明らかに様子がおかしかった。
いつもは無造作にとっ散らかっている髪の毛が、綺麗に整えられている。ぽつぽつと生えていた髭も、全て剃られていた。彼の麻薬中毒者のようだった風貌が、好青年に変わっている。
そんな彼を眺めていると「どうかしたんですか?」と月野が訝しむように聞いてきた。
「あ、いや……」
ほとんど上の空で返事をしてしまう。
常田が死んだような表情で人魚を見つめ、下のフロアへと降りていったからだ。
まさか……。
ここで、一つの仮説が僕の中で生まれた。それとほぼ同時に、「おお!」と、岩場エリアの中からどよめきが起こる。
「どうやら人魚さんが笑ったみたいですね」
人魚を見ると、確かに彼女は表情を綻ばせていた。そして、僕の仮説を裏付けるように、人魚は勢いよく水槽の中へ飛び込んでいく。
「どうしたんでしょうか」
「多分、好きな人でも見つけたんだよ」
人魚を追いかけて下のフロアへと向かう客達に続き、僕達も一階にある人魚エリアへと向かった。一階の水槽は先程のジンベイザメのエリアのようになっており、横幅十メートルほどのアクリルパネルに囲まれていた。人魚は水槽の底付近を何度も行き来している。
「あれは誰かを探しているんでしょうか」
「ああ、多分そうだな」
やがて目的の人物が見つからないと諦めたのだろう。彼女は水槽の真ん中くらいまで上がって、表情を輝かせた。
彼女の視線の先、そこには綺麗におめかししやがった常田がいる。彼は人魚エリアの壁に寄りかかりながら、呆然とした表情で人魚を眺めていた。
水槽の前にへばりついている人間どもは、人魚がなぜ笑っているのかに気付いていない。人魚を見るという自分の欲を満たすことで頭がいっぱいだからだ。
「あの人魚さん。彼のことが好きなんですかね?」
僕の視線を追って気が付いたのだろう。月野も常田を見つけたようだ。
「ああ、どうやら両想いみたいだぞ」
人魚は緩やかに泳いで、水槽に両手をつけた。そうして、安らかな表情で彼を見つめている。ちらりと常田に視線を送ると、彼もまたふっと口元を微かに緩ませていた。
「ええ、そのようですね」
それはきっと、彼らにとって幸せなひと時なのだろう。常田の言っていたことの意味が、ようやく分かった。あいつの言っていた絶対に報われることのない恋というのはこのことだ。彼の愛する相手はこの水槽で飼育されている人魚だったのだ。そりゃあ、絶対に叶わない恋だとヤケになっても仕方ない。
それから常田は、一度俯いて諦めたように笑った。ふらりと体を揺らして二階の岩場エリアへと戻っていってしまう。慌てて人魚も彼を追って岩場へと戻る。
後から僕達も二階へ向かったが、そこに常田の姿は無かった。
彼が消えた後、人魚は表情を曇らせ、しばらく常田を探していたが、完全に彼が消えてしまったことを悟ったのだろう。彼女は岩場の奥へと引っ込んでしまった。
「ああ……なんだか切ないですね」
「多分、彼らは僕達の愛すべき仲間だ」
「仲間?」
「この世界で幸せになれない者同士ってことだよ」
僕がそう言うと、月野は納得したように「確かにそうですね」と頷いた。
「なんだか不思議な気分です」
「どうして?」
「だって、意味が分からないじゃないですか。今まで私は散々幸せそうにしている連中を憎んできたんです。でも、いざ不幸な人々を見ていたら彼らの幸せを願ってしまった」
彼女は目線を下げてから、人魚を見る。
「きっと、人魚と自分を重ねてしまったんだと思います。私は昔、向こうの世界にいる時、小さな部屋の中で誰かが来るのをずっと待っていました。その誰かが来てくれるのが、私の心の支えになっていた。そんな記憶が、微かにあるんです」
月野の言う誰かというのは、以前彼女が言っていた理想のあの人、という奴だろう。
「そうか」
「ええ、だからじゃありませんが、私は彼らをどうにかして救いたいと思ってるんです。私が幸せになれないなら、せめて彼らに幸せになって欲しい」
私が幸せになれないなら、そうした彼女の言葉一つ一つに、僕の中の感情が蠢くのが分かる。
名前を与えていなくても、正体に気づかないふりをしていても、彼女の言葉が栄養になって、僕の中でその気持ちが育っていく。
彼女を幸せにしたい。彼女の願いを、叶えてあげたい。どうしようもなく、そう思ってしまう。
「じゃあ、あいつに会いに行こうか」
僕がそう言うと、月野はぽかんとした顔をした。
「あいつ?」
「ああ、あいつだよ。人魚に想いを寄せられてる男だ」
「彼の居場所が分かるんですか?」
「もちろんだ。だって、あいつは僕の友人だからな」
彼女は今度、驚いたように目を剥いた。
彼女は馬鹿にしたように笑ってから「サンタさんに友人がいるなんて」と言った。
最悪の場合、常田の家に押しかけなくちゃいけないと思っていたが、幸いにも水族館内で彼を見つけることができた。彼は水族館に設置された喫煙所で、死んだ目をしていた。
「よう」
喫煙所に入りながら声をかけると、彼は顔を上げた。蒸気機関のように吐き出した紫煙が、常田の周りにまとわりつくように揺れた。
「相変わらずDHAの高そうな目をしてるじゃないか」
彼は僕の軽口をものともせずに「悪かったな」と返す。
「それで、何の用だよ?」
「水族館でたまたま見かけた友達に声をかけちゃ悪いか?」
「いいや、悪くないな」
「だろ? 回りくどいことをするのは嫌だから直接言う。お前が恋をしている相手っていうのは、あの人魚のことだろ」
わずかな沈黙が流れた。常田は一度煙草を吸い、ため息でもつくように煙を吐き出した。
「なんだ。バレちまったのか。そうだよ」
彼は隠す素振りも見せず、頷いた。それから、僕の隣に立つ月野に視線を向ける。
「それで? もう一度聞くがなんの用だよ。お前ら二人揃って俺を馬鹿にしに来たのか? 身の程も弁えない恋だって笑い者にするつもりかよ」
彼は少し苛ついているようだった。頭をガシガシと掻きむしっている。身体にこびりついたヤニの匂いがした。
「まさか、そんなわけないじゃないですか。だから、ここに来たんです」
「ああ、この子の言う通りだよ」
「あんな風にずっとガラスに閉じ込められてて……一生檻の中なんて、そんなのあんまりじゃないですか。きっと、あの人魚さんにとって常田さんは救いなんですよ」
まるで自分のことのように、人魚について語る月野の表情には熱がこもっていた。
救い、という言葉に常田は反応したようだった。落ち窪んだその目が救いを求めてるように見えたのは錯覚だろうか。
だから、彼は続く月野の発言に驚いてしまったのだろう。
「ねえ常田さん。私達は今から寝ます」
「は?」
月野の意味不明な言葉に、常田が声を出した。彼は顔をしかめている。
僕は思わず笑ってしまった。
「サンタさんも眠いですよね?」
「ああ、僕もすごく眠い。場所などお構いなしに眠っちまいそうだよ」
月野のやりたいことを察した僕は、彼女の案にのることにした。
「サンタさんも眠いそうです。というわけで、私達は今から寝ます」
僕がその話に乗ったことにより、ますます混乱した常田は「おい三田。どういうことだ」と問いかけてくる。
「だから私達は、今から常田さんが何を言っても聞こえません。何を吐き出したとしても、私達は夢の中です」
常田はようやく理解したようだ。
彼女は常田の様子を伺ってから、喫煙所のベンチに座った。僕もその隣に腰を下ろして、目を閉じる。
しばらくの間、常田は黙っていた。目を瞑っていても、彼の葛藤が手に取るように分かる。常田はしばらく悩んでから、喋り出した。それはどこにでも有りそうな、平凡な男の恋の物語だった。
あるところに、幸せの意味について考えている男がいたんだ。
そいつはその半年くらい前から、全ての理想が叶う最高の世界に迷い込んでいた。何一つ不自由はなく、何の悲しみを背負うことの無くなった彼は、自分が酷く貧相な男になった気がした。
得ていく幸せの価値が、日を追うごとに減っていったからだ。美味い飯を食っても、いい女を抱いても、どれだけ金を得ても、絵画で名声を得ても、何も感じなくなっていた。いつしか彼にとって、幸せが普通に変わっていた。つまり、幸せに慣れてしまったというわけなんだな。胸に穴が空いたように、虚しさを感じるだけの日々を送っていたんだ。満たされることが幸せに繋がるわけではない。彼はその真実に気がついてしまった。
そんなわけで、彼は幸せの価値について考えるようになった。幸せについて考えて、天井を眺めていたら一日が終わる。そんな毎日。
眠れない夜に、海辺を歩くようになった。明け方まで歩き続けて、疲労が溜まった頃に度数の高い酒を一気にあおり、そのまま弾けたように眠る。
そんな生活を彼は送っていたんだ。
空っぽの心を抱えて、なにもせずとも湧き上がってくる虚しさを背負って、その日も彼は海辺を歩いていた。淡い月明かりすら目に染みる。そんな時、ザブン、と静かな海から飛沫が上がった。
音の方へ視線を向けると、そこには美しい人魚がいた。彼女は緩やかに泳いでいき、海の中にぽつんとある岩場に座った。彼女は憂いを帯びた目で、島の方を呆然と眺めている。
彼女を見た男は、それはもう心を奪われたみたいなんだ。その日は帰ってから一睡もできなかった。いつものように酒を煽っても良かったのだが、それもしない。酒によって記憶の中の人魚が穢れることを恐れたのだ。
次の日も、男は海辺を歩いた。久しぶりに気分が高揚していた彼は、瓶に詰まった手作りサルサソース片手に、トルティーヤチップスを持って出かけていた。
桟橋付近を歩いている時に、声をかけられた。
「ねえ、お兄さん」
そこにいたのは、昨日見かけた美しい人魚だった。緊張しているのだろうか、彼女の声は微かに震えている。それでも、驚いてしまうくらいに美しい声だった。
「お兄さんは、いつも浮かない顔をしてるよね」彼女はふふっと笑ってから「私と同じだ」と言った。
どうやら人魚は、海の底で生活するのに飽き飽きしていたらしい。人魚には人魚の世界があるらしいが、一度海面に上がって外の世界を見たら、その世界に心を奪われたのだという。
人魚は唇に指を当てて、物珍しそうに男の持つトルティーヤチップスを見る。
「食べたい?」
男が聞くと、人魚はごくりと喉を鳴らした。
「食べたい、な」
「分かった」
海にはきっと違う文化が広がっているんだろうな。そう思いながら、男はサルサソースの瓶を開けた。
「ちょっと辛いけど大丈夫?」
人魚は頷いた。彼女は桟橋に腰掛けると、恐る恐るといった様子でトルティーヤチップスを受け取った。
それを口へ運び「美味しい!」と叫んだ。
「ねえ。もし良かったらなんだけどさ」
人魚は幸せそうにトルティーヤチップスを食べてからいった。
「私に外の世界を教えて欲しいんだ」
その日から、男は幸せを取り戻した。男にとって、幸せの価値が再び上がった瞬間だった。
彼は日中、画用紙と絵の具、筆を持って外に出かけた。
「君の目に映った世界が見たいな」
人魚はそう言っていた。彼は一日中絵を描いていた。この世界に来て、才能を与えられて良かったと、初めて思った。
「うわあ。外の世界にはこんな景色があるんだね」
彼女は男の描いた絵を何度も何度も見ていた。その絵が自分の力で描いたものじゃないことくらい男には分かってる。この世界から与えられた才能で描いたものだということは彼が一番理解していた。でも、それでも、人魚が笑ってくれるのが嬉しかった。
人魚にとって、外の世界は新鮮そのものだった。どんなにつまらない景色でも、食事でも、その全てを楽しそうに受け取ってくれる。
ああ、俺はきっと、彼女に会うために産まれてきたんだ。
人魚と共に過ごす時間は、とても素敵なものだった。どれだけ一緒にいても、決して満たされることはない。幸せが底をつきない。幸せに慣れることがない。ああ、これが本当に心地よい生活なんだと、彼は思った。
だが、そんな生活にも、終わりが訪れてしまう。
「そこから先は、想像に任せるよ」
常田は語り終えてから、煙草を吸った。
「それは有り触れた悲劇にすぎない。当人にとっては辛いが、それ以外の奴が聞いたところで大した感情は抱かないからな」
それから先の話を、彼は本当に話さなかった。つまり、噂通りの出来事が起きたのだろう。半年ほど前、人魚は人の手によって捕らえられた。
もう言うことはないと思ったのか、彼は僕の肩を揺すって起こした。隣に眠る月野のことも同様にして起こす。
「あ、どうやらぐっすりと眠ってしまったようです」
月野はわざとしらしく眠たそうに左目を擦ってから、伸びをした。僕も彼女を真似て素晴らしい演技をしたが、大根っぷりに磨きがかかっただけだ。
ふわぁ、とあくびをしてから、月野は言った。
「一つ、夢を見ていました。そこで改めて思ったことがあります。やっぱり、この世界は終わってます。ユートピアを謳うくらいなら、もっと完璧で全員が幸せになれる理想郷を作れって思います」
彼女の言葉に、常田は笑った。
「そうだな。その通りだと思う」
「ええ、その通りですよ。人魚を水族館に幽閉している世界が、正しいわけがない」
僕達はそんな風にこの世界に対する悪口を言い合いながら、喫煙者から出た。
常田は煙草の箱を胸ポケットにしまいながら呟く。
「人魚が水槽の中に閉じ込められてるっていうのに、この世界の連中は何にも疑問を抱いていない」
彼はギュッと右の拳を握り締める。
「せめて、誰か一人でもいい。一人でもいいから、あの人魚を救――――」
そこまで言いかけた時だ。僕達の後方から、声が聞こえてきた。
「あの人魚さん。可哀想だったな」
それは小さな男の子の声だった。彼は友達と二人並んで、指を咥えながら人魚エリアから歩いてきた。
「いつか、助け出してあげたいね」
そんな彼らの姿を常田は黙って見ていた。彼の背中は、なんだか少し、震えている。僕は彼の隣まで歩いていって、口を開いた。
「もしかするとだ。本当に、もしかしたらの話だ」
そう前置きして、僕は続けた。
「この世界は何らかの理由で僕達にだけ冷たいのかもしれない」
僕は月野と常田を交互に見た。この世界の住人で僕は彼ら以外に理不尽な目にあった人を知らないからだ。
「そうなると、だ。人魚はいずれ誰かが救い出してくれるんじゃないか?」
そう言って、僕は先ほどの少年達を見た。
「人魚を救いたいと願ってる人がいる限りさ」
「ああ、確かにそうかもな」
常田は震える声で続けた。
「ここはユートピア・ワンダーワールドだ。奇跡の一つや二つくらいないとつまらないもんな」
彼はどこかの誰かが言っていたような言葉を吐いた。
あれから僕達は、水族館内のカフェで食事をとってから別れた。常田はもう一度人魚の顔を見るからと言って人魚エリアに向かい、月野は「では」とだけ言い残して僕の前から消えた。
家に帰ったら虐待を受けるのではないか。彼女が家に帰るたびにそう思うが、彼女はそのまま家へと帰っていった。
家に帰る前にスーパーに寄って買い物を済まし、部屋に戻ってからシャワーを浴びた。
汗でベタベタと汚れた体が溶けていくようで夏のシャワーは気持ちよかった。風呂からあがり、体を拭く。洗面所から出ると、既に日が暮れかけており季節が変わっていた。
窓を開けると、ちょうどよく涼しい風がほてった体を撫でた。秋日だ。どうやら今日の夜は秋らしい。
それから僕は簡単な夕食を作って、ウィスキーをちびちび飲みながら一人で食事を摂った。
最近はどういうわけか、昔よりも孤独を感じなくなっている。洗面所に立っている時、あの白いコップが視界に入っても胸を締め付けられなくなった。朝起きて、隣に誰かがいないことに悲しみを負わなくなった。
僕は間違いなくこの世界から抜け出したいはずなのに、抜け出したいと思い込もうとしている自分に気が付いた。
これはとても良くない。僕の中の信念が揺らぎ始めている。こんなことでは、過去の僕に殴られてしまう。それらの考えを押し出そうと、ウィスキーをロックでぐいっと飲んだ。煙草が吸いたいと思った。
★☆★☆★☆
その日の夜のことだ。僕は突然目が覚めた。悪夢を見たとか、嫌な予感がしたとか、そういうわけじゃない。理由もなく起きてしまった。強いて言えば、何か音がしたような気がしたのだ。時計を確認すると深夜の一時過ぎ、というところだった。
完全に目が冴えてしまった僕は、口の中がアルコール臭いことに気がつき、蛇口ですすいだ。そのまま、なんとなく小腹が空いたので冷蔵庫を開けた。
中にはパックに詰められた肉や、剥き出しの野菜しか入っていない。すぐに口に詰め込めそうなものは、魚肉ソーセージ程度だった。
そのソーセージに手を伸ばし、袋を剥いて食べた。このピンク色のソーセージが元は魚だったなんて、言われなければ想像すらしないだろう。
そこまで考えて、僕は思い出した。
『君達には罰を与えないといけないな』
星の骸は、数日前に確かにそう言った。そして星の骸はこう続けたはずだ。
『ヒントは、そうだな。八尾比丘尼だ』
それを思い出した瞬間、背筋が凍った。どうして僕は今までそのことを忘れていたのだろう。
八尾比丘尼伝説――人魚の肉を誤って食べて、不老長寿を得た尼の物語。星の骸は、罰を受けた僕達が嘆き悲しむことになると予言していた。
彼がやろうとしていることは――――まさか。
その時、ドンドンドンドン!! と部屋の扉が鳴り出した。
急に鳴り響いた音に、思考が断絶される。太鼓を叩いているようなその異音に、僕は肩を弾ませた。
震える膝に力を込め、僕は玄関に向かう。リビングにたどり着いた時、もう一度激しくドアが叩かれた。
こんな夜中にいったい誰がなんのようなんだ。とにかく、何が起きているのか確かめたくちゃいけない。恐る恐る限界に向かおうとしたところで――ヴーーー、ヴーーー、とスマホが鳴った。
どちらに向かうべきなのか。その答えはすぐに決まった。
「サンタさん! 起きてるなら早く開けてください!! お願いです!」
扉の向こうから、月野の悲鳴に近い声が聞こえた。喉が裂けそうなくらい、必死な声だ。
急いで玄関に向かい扉を開けると、雪崩れ込むようにして月野が僕にしがみ付いた。
「サンタさん! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい……」
彼女は壊れた機械みたいに、繰り返し繰り返し「ごめんなさい」と言い続けた。どう見ても、普通の精神状態ではない。
「おい。どうしたんだよ。落ち着けって」
僕は月野の両肩を掴んで、彼女の顔を真正面から見た。
月野は、泣いていた。左目を真っ赤に腫らして、ぽたぽたと涙を流していた。だが、本当に驚いたのはそこではない。
「月野、その、右目はどうしたんだよ」
彼女は、外では絶対に眼帯を外そうとしない。なのに、彼女は眼帯を付けていなかった。月野は夏の空のように澄んだ青い目で僕を見る。
「そ、そんな余裕なんてなかったんです。もう……無我夢中でここまで来ました」
そこでまた思い出してしまったのだろう。月野は「ああ……」と頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「だ、大丈夫か? とにかく中に入って。話はそれから聞こう」
「いや、そんな時間はないんですよ。常田さんを呼んでください」
月野は真に迫るような表情をしていた。その表情に、僕の中で嫌な予感が芽生え始める。
「常田? なんで常田なんだ」
その想像を否定したくて、答えは分かりきっているのに、質問してしまった。だが、それが決定打となった。
「だって! 人魚さんが殺されたんです! 私の、最低な父親のせいで……」
今すぐ来てくれと連絡すると、常田はすぐに僕の家にやって来た。スマホを確認すると、月野から大量のメッセージが入っている。寝る時に通知を切っていたのが良くなかったらしい。着信履歴を確認すると、案の定月野から何度も電話がかかってきていた。どうやら僕はこの電話で目覚めたらしい。だが、起きると同時に鳴り止んだのか気が付かなかった。
常田は深刻そうな表情で椅子に腰掛け、コーヒーの入ったマグカップを両手で包み込んでいる。手に持っているだけで、口は付けなかった。
「それで、急用ってなんなんだよ」
泣き腫らした月野の顔を見てから、常田は僕に視線を移した。
「良くないことが起こったんだろ」
「ああ、そうだよ。単刀直入に言うとだな――――」
「私が説明します」
僕の言葉を遮って、月野が声を出した。彼女はそれから、機械のように平坦な声で話し出した。
月野は僕と別れた後、家に帰らずに当てもなく歩いていたという。
彼女の話によるとそれはいつものことで、大した問題じゃなかったらしい。だが、それがいけなかった。
月野は図書館や飲食店で時間を潰した後、家に帰った。その頃には既に二十三時ごろだった。クリフ・エドワーズの『When You Wish Upon a Star』が流れていたことから、それは間違いない。彼女は、その曲が流れ出すと家に帰ると決めているらしい。
そうして家に帰ったところで異変に気が付いた。家の中にいつも以上の異臭が漂っていたからだ。恐ろしくなった彼女は、初め自室にこもって毛布にくるまっていた。その際に、眼帯を外したらしい。
その異臭は明らかに血液の匂いだった。なぜ血の匂いが自宅からするのか、彼女は考えたくもなかった。想像すらしたくなかった。
やがてギィギィと階段の軋む音が聞こえてきた。それは父親か妹が月野の部屋に来る合図のようなものだという。ノックもせずに部屋が開けられ、血まみれの父親が口元を釣り上げて立っていた。
「お前に素晴らしいものを見せてやるよ」
そう言って彼はベッドに座る彼女の髪を引っ張って無理やり風呂場へと連行した。そこに広がっていた光景を見て、月野は家を飛び出したらしい。
「そこには、無惨に殺された人魚さんの姿がありました。彼女は、私の父親に殺され、食われたんです」
月野は涙ながらに語った。その話を、常田は目を瞑りながら聞いている。
「そうか」
言いながら、彼は指を一つ立てた。
「お前らに一つ聞きたい」
「なんだ?」
「お前ら、この世界を壊そうとしてるんだよな」
その質問に、僕は素直に頷けなかった。だって、この世界を壊すには月野の命を捧げなくてはいけない。その勇気が、今の僕の中では揺らいでいる。
「そうですね」
僕の代わりに、月野が答えた。嫌にあっさりとした声だった。
「だったら、だ」
常田は考え込むように目を閉じ、覚悟を決めたのだろう。
「これから俺達がどんな罪を犯したとしても、この世界はいずれ無くなる。証拠もなければ何も残らない」
彼は大きく息を吸い込んで、吐き出した。
「殺そう。その、親父ってやつを。復讐してやるんだ」
常田のその発言に、月野は一度固まってしまった。
常田はそんな彼女を眺めてからすくっと立ち上がる。台所へ向かい、戻ってきた。
彼の手には、刃渡り十五センチほどの包丁が握られている。月野はその刃物を見て、手を震わせた。足だって、心配になるくらい震えている。
でも――――
「やってやりましょう」
そう言った彼女の右目は、爛々と美しく輝いていた。
それからの行動は早かった。僕達は家を出て真夜中の静かな道を歩いた。
常田が手を下すつもりなのだろう。彼は包丁を握り締めながら確かな足取りで進んでいく。
僕はといえば、一応護身用にウィスキーのボトルを一本持ってきただけだ。いざ反撃されそうな時にはこれで殴る。
先頭を歩く月野は、一度振り返り、常田の持っている包丁をぼんやりと眺めた。彼女の瞳に、その包丁はどのように映っているのだろう。
その心中を察することはできない。彼女の家族に対する憎しみの深さを、僕は推し量ることができなかつた。だって、月野がこれまでされてきたことを考えれば、それは当然のことだ。
僕はさっき、月野の口から彼女の日常について聞いた。彼女の毎日は一言で言えば「地獄」だった。
月野はそんな地獄のような日々を、常田を待っている間、僕に語り聞かせてくれたのだ。