どういうことかと環は瞬きをぱちぱちと繰り返す。

「あ、あの」
「まあいい、行くぞ」

 ほどなくして指先が離れてゆくと、周はひらりと身を翻して自動車の運転席に乗り込んだのだった。

  *

 帝都の街に到着し、自動車から降りて石畳の道を闊歩する。

 環の住む地域では道の整備がこれほどまで行き届いていない。そのため、通行人が数人歩いただけでと土埃が舞ってしまったものだ、とかつての生活を少しばかり恋しく思った。

 見上げれば、青々とした空の下に煉瓦造りの建物が競いあうように建ち並ぶ。漢字とカタカナが混ざった看板が軒を連ね、田舎町では検討もつかないほどの往来があった。

 白い女優帽を被った貴婦人や、品格のある燕尾服を着用した紳士、ハンチング帽子が特徴の新聞記者らしき人物、ズボンを履いた職業婦人などさまざまな人で溢れ返っている。

 自動車の往来も多く、排気ガスを吸い込んでむせてしまうほどだ。環は人混み慣れをしていないため、歩いているだけでげっそりした。

 本来であれば、動く写真が観られるという映画館や、ステンドグラスが輝くカフェーなどに目を輝かせるところなのかもしれない。しかし、生粋の引きこもりである環の心にはわずかばかりも響かなかった。

「ひいい……人が……多すぎ、ます」

 周がいったいどこに向かっているのか分からない。マダラに関しては、屋台の匂いにつられて涎を垂らしている始末だ。

「あの角を曲がったところに馴染みの店がある」

 威風堂々と帝都の街中を歩む周が、ちらりと環を一瞥した。環の気のせいでなければ、先ほどから貴婦人の視線を浴びている。なんて綺麗な方なの、だとか。流行りの劇団の俳優なのではないか、と噂をする者まであるほどだ。

「あ、あのう……」
「どうした」
「先ほどから、ご、ご婦人の目が……痛いのです、が……もう少し離れて歩いても、よ、よいでしょうか」

 恐る恐る視線を上げると、月のように冷え冷えとした瞳と合致した。びくっと肩を震わせ、環は慌ててうつむく。

「あなたは私の婚約者なのだから、隣を歩いていてもなにも問題はないだろう」
「で、ででで、でも」

 あくまでも偽物ではないか。
 ただでさえ目を引く周の隣にいることで、環にまで人の注目が集まってしまうとは耐え難い。人の目がまとわりつくあの独特な感覚が恐ろしいのだ。

「――あれ、これはこれは……珍しい」

 ある民間会社の前にさしかかった時、環と周に向けて見知らぬ甘ったるい声がかけられた。
 青ざめながら顔を上げると、周とは対照的な美貌をもつ青年が立っている。

 この国では珍しい亜麻色の長い髪はひとつに編み込まれて、結び目には小洒落た桜の花飾りがついていた。
 ──だが。

(この人……軍人さん、なの?)

 その華やかな見た目に、崇高で実直な民の印である軍服が馴染まない。
 しかも、胸もとのボタンを最後まで止めずに着崩しているではないか。襟章やら肩章が豪華であることからも、それなりの階級の者なのだろうと察するが。

 いずれにせよ、なにかと物騒な軍人とはできれば関わりあいになりたくない。物腰が柔らかそうな男ではあったが、環はこの手の人間がもっとも苦手である。

「九條殿が女性を連れているとは。この方はあたらしい婚約者かな。いやいや、君も隅に置けないね」
「……面倒な男に見つかった」
「ええ? 面倒だなんて悲しいことを言わないでくれよ。僕と君の中じゃないか」
「藤峰、あなたに構っている暇はないのだが」
「君はいつも僕に冷たいよね。そこのかわいらしいレディも、そう思わない?」

 突然環に振られるのだから戸惑った。身をかがめて視線をあわせてくる男――藤峰は、にっこりと笑っているが、どうにもうさん臭さを感じてしまった。

「あ、あの……えっと」
「これは失礼。自己紹介がまだだったね。僕は藤峰静香、軍の特殊部隊を仕切らせてもらっている者だよ。よろしくね」

 気さくに手を差し出されるが、環には即座に応じられるほどの社交性はない。眩しいほどに陽気な男を前にしたら、尻込みせずにはいられない。

 だが、相手は環よりもひとつもふたつも身分の高い軍人だ。挨拶くらいまともにできなくては、あとで殴り殺しにあうかもしれない。がたがたと震えていると、隣からため息が落とされた。

「やめろ。軍人を前にして、怯えているだろう」
「えー、僕はただ、かわいらしいお嬢さんと挨拶がしたかっただけなのになあ」
「余計な問答は不要だ。……行くぞ」

 周は藤峰をあえて遠ざけるように背を向ける。

(藤峰さんは、周さんのお知り合い……なのだよね?)

 周の態度からするに友好的ではないと察するが、藤峰の態度はそれとはまるで食い違っている。

「ああ、それから――令嬢の失踪事件のことだけど」

 いずれにせよ、これ以上他人と関わるのは遠慮願いたい。環が周のあとを小走りで追っていると、藤峰はそれをとくに追いかけもせずに、ただ声色を鋭くした。周は意図せずに足をとめる。振り返らずとも、反応しているようだった。

「君も、これを追っているんだよね。一介のお役人の管轄外だというのに、執心なようで。そんなにこの事件が気になるのかな」

 環は藤峰の張り付けたような笑みに苦手意識を抱いた。表面上は温厚ではあるが、腹の底が知れない不気味さがある。まるで周の意図を探っているようだ。

「なにが言いたい?」
「さあ、なんだろうね」

 藤峰はまたにっこりと目を細めると、環……それからただの猫に変化しているマダラへと視線を向ける。

『にゃ、にゃんごろ~、ごろにゃ』

 何を思ったのかマダラの前に膝をつくと、慣れた手つきで頭を撫でた。

「へえ……君は、不思議な猫を連れているんだね」
『にゃ、にゃ……』

 わずかばかり低い声が聞こえたような気がした。冷や汗をかいたが、藤峰はすぐに立ち上がると、ひらひらと手を振って身を翻す。

「巡回の途中なんだ。上官殿に怒られてしまうから、もう戻るね」
「は、はあ……」
「またね、九條殿。それから……お嬢さんと猫さんも」

 まさに瞬きの間のような感覚だ。颯爽と消えていった藤峰を目で追ったのち、安堵の息をはく。初見の周も恐ろしかったが、表情の意図が読めないという点では、今の男の方が何倍も勝っている気がする。
 猫に化けているマダラを抱き上げると、毛が逆立っていた。

『あ……あいつ、とんでもねえ野郎だぞ』
「え? どうしたの?」
『たぶん、オレが猫に化けた妖だってことに、勘づいてやがる』

 ぶるぶると躰を震わせて、警戒をしているようだ。

「むりもない。あの男には今後も警戒を怠るな」

 いったいどういう意味なのか。あの男からは妖の気は感じなかった。つまりは環と同じ人間だということになるが、マダラが嘘を言っているとも思えない。

 まさか、環のほかにも見識の才のある者がいるというのか。

「あ、あの方は、周さんの御友人……というわけでは、な、ないのですか」
「まさか、友人なわけがないだろう。あれは、帝都妖撲滅特殊部隊の総隊長――藤峰静香。ああやって親密な態度をとって、私の周辺を嗅ぎまわっている」

 周の発言を経て、環は愕然とした。

(妖……撲滅……?)

 そのような機関がこの日の本に存在するとは思いもしなかった。しかも、軍部で特殊編成されているとは。

「帝都妖撲滅特殊部隊は、日の本でも取り分け霊感に長けた者たちで発足された組織だ。帝都を脅かす怪異を取り除くことを任務としているようだが、真の目的はそうではないだろう」

 マダラの怯え具合からして、先ほどの藤峰はかなりの手練れだ。悪意のある妖やモノノケから帝都を防衛する、という点であれば合理的である。
 だが、周の言い方から察するに軍部はよほど信用ならない存在――だとすると。

「あ、妖の、一斉排除を……しようとしている?」

 環は頭の中で方程式を組み立て、解を導いた。

「おそらくは」
「なんでまた、そんな非道いことを」
「人間にとって妖やモノノケは、問答無用で排除すべき、忌々しい存在だ、ということだ」

 環は強く唇を噛んだ。たしかに悪さをしてしまう妖はいる。だが、そうではない妖もいるのだ。
 善人と悪人が存在するように、妖だって同じだというのに。
 幼い頃から妖と近しかった環は、排斥されていく彼らを思うとやるせない気持ちになった。

「あ、周さんは軍部に目をつけられている……ということ、なのです、よね? それなのに、ここまで事件に介入するなんて、き、危険なのではないで、しょうか」
「私のことが心配か?」
「し、心配というか……あなたの正体は……もうすでに、あの方に見破られているのでしょうか」
「いや、あくまでも疑いの範疇といったところだろう。私の気を読んだのは、唯一、環のみだ」

 おどおどと意見を述べる環に対し、周は満更でもない表情を浮かべた。

(わ、私……だけ)