必要――。その言葉が環の胸にしみ込んだ。

 マダラをはじめとした妖に囲まれて暮らしていた頃には得られなかった感情だ。周も鬼であり、妖であるというのに、この違いは何であるのか。

 環と周の間を夜風が抜けていくと、呆れかえったようなため息が聞こえてきた。

『まったく……かゆすぎるったらありゃしねえな』

 マダラだ。
 はっと我にかえると、屋根の上でかったるそうに毛づくろいをしているではないか。

『ようは、オレがついてりゃいいんだろ』
「マダラ……?」
『何も環が出張る必要はねえという気持ちは変わらない。だけど、それだとお前、煮え切らないんだろ』

 マダラは環の心中を察しているのだろうか。本音では気が進まないといった具合ではあったが、あくまでも環の考えを尊重してくれている。

『周、お前もそう癇癪を起すなよ。周りの妖怪たちがびびっていやがる』
「……」
『オレも環と一緒に蜘蛛の巣に潜り込んでやる。それで、攫われた人間の娘も助けるし、土蜘蛛も倒す――万事解決だ』

 えっへんと胸を張っているマダラを見て、環はほっと胸を撫でおろした。

(よかった……一緒にきてくれるんだ)

 だが、それも束の間。周の表情は依然として氷のように冷たいままだった。

『おまえさ……いったい何が不満なんだよ。オレがいるかぎり、こいつに危険はねえってんだから、それでいいだろ』
「ま、マダラ」
『そんで、ちゃちゃっと事件を解決して、環はもとの暮らしに戻る。もう鬼族の婚約者……なんて大層なもんを背負わなくて済むってもんだ』

 すると、ぱりぱりぱり……と凍てつく氷が砕けるような音がする。
 マダラが楽天的に口にする傍らで、周から静かな妖気が立ち上る。

(周さん……?)

『そんな物騒なもんを出すなよ……オレだって、環を守らなきゃならないんだ』
「あ、周さん」
『そういうことだから、いくぞ、環』

 マダラはそう告げると、すたすたと屋敷の中へ戻ってしまう。環は慌てて追いかけようと試みたが、後ろ髪を引かれて後方を振り返った。
 環は結局、己自身の気持ちすら理解できていない。自分が何をしたいのか、どうありたいのか、ぐちゃぐちゃに混ざってしまって、心と体が分離してしまう。

 解が明確である算術とは違うのだ。やはり、意思のある他者と関わりあうことは、環には向いていない。自分以外の他者の心中を寸分の狂いもなく理解できたのなら、苦労はしないのだ。分からないことは気持ち悪い。すっきりしない。だから、環は孤独を好んだ。だが――どうして、説明のできぬ物体が胸の中に居座り続けるのだろう。


  *


 周と顔を合わせる機会がないまま、数日が経過した。起床して広間に降りるといつもは朝刊を呼んでいる周と挨拶を交わしていたはずなのに、その場にいるのはぬらりひょんのみだ。
 腹を空かせて朝食に飛びつくマダラを横目に、環は少しだけ寂しさを抱く。

「ひょっひょっひょっ、若いとは羨ましいことだのう」
「え?」
「生きていれば、思い通りにならないことの方がほとんど。常に悩ましいと感じながら進むしかないのだろう」

 ぬらりひょんは飄々と笑っている。環には何を言っているのかが理解できなかった。

「それに、わしにしてみれば、周殿もまだまだ尻が青い。まるで赤子のようなものよ」
「えっと……」
「あと五百歳若ければのう、わしも助太刀のひとつやふたつ、できただろうに。この老いぼれでは、土蜘蛛の相手はつとまらないのじゃ。すまないのう」

 そう言って、ぬらりひょんは再び茶を喉に流し込んだ。

(ぬらりひょんさんって、いったいいくつなんだろう……)

 今のところ、屋敷に上がり込んでは茶を飲んでいる姿しか見ていない。百鬼夜行の総大将とも名高いぬらりひょんだが、実際に目の前にいる妖は、少しばかり頼りないようにも見えた。

「マダラは、ほ、本当についてきて、くれるの?」
『んあ? だから、ついていくって言ってんだろ』
「つ……土蜘蛛って、かなり、強い、みたいだし。その……う、うまくやれるかなって、急に、し、心配になって」
『ったく、オレを誰だと思ってるんだよ! 土蜘蛛なんて、けちょんけちょんにしてやるさ』

 食事にがっついていたマダラは、不満そうに眉をひそめた。

『白薔薇会のサロンってもんが、明日開催されるんだろ? 栗花落玲子って人間の娘に近づいて、どさくさに紛れて屋敷に潜り込む絶好の機会じゃねえか』
「う……うん、そう、なんだけど」
『こうなったら、はやいところ解決しちまおうぜ。ここの食いもんにありつけなくなるのは惜しいけどよ』

 環はこくりと頷き、黙り込んだ。
 はじめばかりは給金目当てであった。図書室を好きに使用できるという旨味につられてしまっただけだった。しかし、後出しで明かされた華族当主の婚約者という役目は、環には荷が重く、一刻もはやく開放されたい気持ちでいた。
 それなのに、環の心は晴れやかではない。むしろ、周と顔を合わせず仕舞いである事実にやきもきしている自分がいる。

「そうか、この一件が解決すれば、おぬしはここを去ってしまうのか」
「……」
「ここに住まう妖ものたちも、ここ最近は楽しげだったのだが。ふむ、寂しくなるのう……」

 環は静かに席ち、図書室に引きこもった。小難しい学術書を開いては、いくつもの設問を解き明かす。
 いつもは満ち足りる気分になるのに、この日ばかりは靄が晴れることはなかった。

  *

「そ……それで、本当に、雅様も?」
「ええ、もちろんよ」

 翌日。帝都某所にて、白薔薇会のサロンが開催された。華族令嬢たちが話に花を咲かせている片隅で、環と雅は神妙な面持ちで向き合う。

 この日もとうとう周と顔を合わせる機会はなく、環の独断で作戦が決行されるに至ってしまった。

 環の影の中にはマダラが隠れている。いざとなれば、マダラが飛び出してくれるという心強さこそはあれど、結局、了承を得られていないままだ。うじうじと悩んでいると、環のもとへ勇ましいかぎりの綾小路雅が現れたのだった。

「瑠璃子が囚われているのよ? それなのに、何もせずにただ指を咥えて待っていろというの?」
「で、でも……さすがに、き、危険なので」
「そんなことは百も承知よ。でもね、こればかりは譲れない。大事な友達が危険に瀕しているというのに、わたくしだけが安全な場所にいるだなんて。美学に反する」
「美学とか……こだわっている、場合じゃ、ないと思います……」

 環はぶるぶると震えながら、雅と対峙をする。だが、いくら諭しても聞き入れてはくれないようだ。

「いいから、わたくしもついていく。そもそもあなた、玲子さんと接点はないじゃない。わたくしがいなくては、お屋敷に招いてもくれないわ」
「うっ……! た、たしかに」
「爵位などくだらないと思っていたけれど、この時ばかりはこの公爵家という肩書きも役に立つものね」

 ふん、と息を吐き、雅はやるせない様子で両手を広げる。環には分からない世界だが、煌びやかに思える華族にもいろいろと込み入った事情があるのだろう。

「それにしても、栗花落邸に蜘蛛が住み憑いているだなんて……未だに信じられないわ」
「そう……ですね。あの場にいらっしゃる玲子様は、ちゃ、ちゃんと、に、人間のようですので。妖の気配は、少しも感じられない……」
「いずれにせよ、この目で確かめるに越したことはないわ。たとえ、危険を冒してでも。……瑠璃子やほかの令嬢たちのためだもの」

 上品なレコードの音色が響き渡る。可憐な薔薇が咲き誇る場所で、いったい何が潜んでいるのか。
 雅はそう言うと、公爵家令嬢たちが囲んでいる二階席へと上っていった。

「さあ、みなさま、今宵は有意義な時間を過ごしましょう」

 その中心で笑みを浮かべる玲子は、不自然なほどに美しかった。