(お名前はたしか……藤峰静香さんといったような)

 ふわりと鼻につくのは香水だろうか。品のある、しかしどこか柔らかくて優しい花の香りがする。
 男の、しかも軍人がつけるとは驚いたが、上官に叱られたりはしないのだろうか。

 藤峰はにっこりと目を細め、環の顔を覗き込んでくる。
 余計なことを口走らないうちにさっさと退却すべきだ。

「あ、あああ、あの」
「お嬢さん、白薔薇会ではうまくやっていけているかな?」
「えっ? あ、はい?」
「見たところ、お茶会帰りかな。送り迎えの方はいないのかい? こんなご時世だというのに、ご令嬢を一人で帰らせるだなんて冷たい当主がいるものだ」

 やれやれ、と両手を広げて項垂れる藤峰。違う。誤解だ。周からは、帰りの車も出してやると提案を受けたのだが、どうせなら書店巡りがしたいと思ったがために環が断ったのだ。

「ちっ、違います! 周さんはつっ、冷たい人じゃ……な、ないです!」

 なぜ、咄嗟に弁解してしまったのだろう。周はどうみても冷淡で、合理的な人間だ。環だってそう思っているはずなのに、よく知りもしない他人から一言で片付けられるのは気に食わなかった。

「こ、これは、私が無理をいって、勝手に……」
「おや、必死だ。かわいらしい小鳥のようだね。でも、そうだなあ、年頃の令嬢を一人きりにしておくのはやはり、よくない。たとえば、僕がお近づきになってもかまわないということだからね」

 胡散臭い笑みがずい、と近づく。環はひいっと声を漏らし、二、三歩後ずさった。
 巡回の途中ではないのだろうか。こんな場所で暇を潰していてはいけないはずなのに。

「私に近寄っても、なっ、なにもよいことは、ない、です」
「そうかなあ? たとえば、白薔薇会の令嬢失踪事件について──何か聞けるかもしれないとは思っているのだけれど」
「……え?」

 深淵をのぞくかのように、すう、と目が細められる。環はごくりと生唾をのみ、押し固まった。
 やはり、帝都妖撲滅特殊部隊も、一連の失踪事件の犯人は妖なのではないかと疑っているのだ。

「手がかりについて、お嬢さんは何かご存知ではないのかな」
「そ、そんなもの……し、知りません」
「帝都警察があれほど調査をしているのにもかかわらず、何も証拠が出てこないなんて……有りえると思う? ここまで尻尾を出さないのならば、いっそのこと、神隠しの類なのではないかと考えてしまうよね」

 物腰が柔らかくて飄々としているが、言葉の節々はまるで鋭利な刃物のようだ。
 環はびくびくと肩を震わせ、ひたすらに俯いて黙った。マダラが影の中から出てこないのは、見識の才のある藤峰に悟られてしまうためだ。
 おそらくは、藤峰の出方を伺っているのかもしれない。

「だから、ね。僕とこれから喫茶店でもどうかな。ああ、ミルクパーラーでもいいよ?」

 気さくに誘いかけているが、その先には優しさの欠片もない尋問が待っているような気さえする。
 藤峰が環の手を取った時、辺りに高潔な革靴の音が鳴り響いた。

「──私の婚約者に何をしている」

 この氷のように冷ややかな声の主は振り返らずとも分かる。背後から腕を引かれ、環はすっぽりと何かに収まった。
 それが胸もとであると理解した途端に、慌てて顔を上げる。そこには、洋風のシャツに、濡羽色の羽織りを重ねた周が立っていた。
 血の気の通っていない陶器のような肌は、今にも日光により透けてしまいそうだ。

(ど……どうして、いつの間にいらしていたの)

 環は疑問に思ったが、‟式‟をつけられているのだから、周には環がどこで何をしているのかが筒抜けだった。

「おや、これはこれは、九條殿ではないか」
「私の婚約者に、あまりかまわないでいただきたいのだが」
「君が女性にそこまで執着するなんて、はじめてなような気がするよ。そのお嬢さんは、これまでのご令嬢とは違って――何か特別なのかな」

 藤峰が含みをこめて笑う。

(ど……どうしよう、ただの婚約関係ではないって、見透かされてしまった?)

 周は環の肩を抱いたまま、無言の視線を向けている。

「君の婚約者は三日と持たずに変わっていたけれど、その誰に関しても興味関心は薄いようだったし。僕が彼女たちに軽薄に声をかけても、眉一つ動かさなかった君が、ねえ」

 やはり、疑われているのだ、と環はびくびく震えた。できるだけ怪しまれないように振舞わねばならないというのに、これではまるで信憑性に欠ける。

「おっと、そんな怖い顔をしないでおくれよ。ちょっとからかっただけじゃないか。それにしても、令嬢が頻繁に失踪しているというのに、一人で街を歩かせるなんて危機感が足りていないのではないかな」

 軍人らしくない華やかな男は、微笑んでいるようでも瞳の奥は笑っていないのだ。じっと環を見つめると、ああ、と何かに気づいたように声をあげる。

「……それとも、何か、一連の事件の犯人に、襲われないといえるような確証でもあるのか」
「そっ、そんなことは……ない、です。私が、勝手に」

 環は耐え切れずに反論をしたが、周によって静かに制された。

「もともと、私が迎えにゆくつもりだった。それよりも、あなたの勝手な妄想を押し付けないでくれないか」
「妄想とは、随分と手厳しいね」
「手厳しい? あなたこそ、他人の婚約者をいったいどこに連れてゆく気だったのか。些か行儀が悪いのではないだろうか」
「おやおや、君がそこまで怒るとは……面白いものを見た気がするよ」

 ぴり、と張り詰めた空気が漂う。これは鬼特有の妖力ではなかったが、周のものだ。冷ややかな殺気が向けられると、藤峰は降参とばかりに肩を落とした。

「それじゃあ、僕はおとなしく巡回に戻るとするかな。君に殺されたくはないし」

 亜麻色の長い髪がふわりと揺れる。あの端麗な容姿に世の女たちは骨抜きにされるのだろう、と環は思った。

「それにしても、君はそちらのお嬢さんを大層気に入っているみたいだね。今までにない反応だ」
「……くどいぞ」
「お嬢さんも、一人歩きには用心しなよ。そろそろ逢魔時だ。――人ならざるものに、連れ去られないように、ね」

 藤峰は踵を返して路地裏に入っていった。ほっと胸を撫でおろしたのも束の間、環は自身が置かれている状況を理解して我に返る。
 環の肩を周が抱き寄せ、破廉恥にも胸もとにしなだれかかっているような状態。しかも、このような街中で……だ。通行人の視線が、先ほどから痛いほどに突き刺さっている。

「ああああ、あの!」

 はくはくと唇を開け閉めする環へと、冷ややかな視線が落ちてくる。依然、腕を離してはくれずに。

「ああっ、えっと、その、あの」
「私は、気をつけろと言ったはずだが」
「え?」
「藤峰のことだ。あまり隙を見せるな」

 怒っている――と、環は直感で悟った。役立たず、足手まとい、愚図……などと思われているに違いない。

「ご、ごめんなさい……」

 周の腕の中で環はごみょごみょと謝罪をした。すると、環の影の中からマダラの気配が現れ出てくる。

『それにしても、あいつ……オレは苦手だな』
「マダラ……」
『妙に勘が鋭いっていうか、気が抜けねえっていうか』

 ぴょんぴょんと環の肩の上に乗ると、げしげしと周の手元を踏みつけている。

『おい、いつまでいちゃついてんだよ! あんまり環を困らせんなよな!』
「いちゃ……⁉」

 そんなつもりは微塵もなかったのだが。慌てて周囲を見回すと、貴婦人たちが口元を手で押さえてくすくす笑っているではないか。妖力を抑えているため、もちろん、彼女たちにはマダラの姿は見えてはいない。

「婚約者なのだから、何も問題はないはずだ」
『くうう、きざったらしいぜ! むかつくな!』

 悪びれもなく返答をする周と対し、マダラは悔しそうにむくれている。たしかに問題はないのだが、いや、そういうわけではなくて。

「環、あまりあなたの行動を制限するつもりはないのだが、あまり不用心にいられては困る」
「は……はい」
「分かったのなら、いい。それよりも、茶会ではご苦労だった」

 周は環の肩を抱いたまま、石畳の道を進んでゆく。停車していたタクシーを呼びつけると、環を先に乗車させる。
 運転手を見て驚く。人間になりきっているようだったが、男は河童だった。

『九條の旦那、今日はどちらまで?』
「自宅まで頼む」
『あいよ! 任せときな!』

 周は馴染みの客なのだろう。このタクシーは人間相手でも乗せているのだろうか、と環は気になったが、今は茶会での出来事についてが先決だ。
 帝都の街並みが移り変わり、車窓の景色は閑静な住宅街が映り込む。

「綾小路雅さんと、一緒に事件を追うことに、なっ、なりました」
「ああ、視ていた」
「で、ですよね。説明は、いっ、いらないと思いますが、つい先日失踪した富永瑠璃子さんは、し、白薔薇会の令嬢……たちと、おっ、オペラを見た帰りに攫われたそう、で、今度、お屋敷を調べることに、なりました」

 自動車の走行音を右から左へと聞き流す。周の月のような瞳が向けられ、環はどぎまぎした。

「大手柄だ。よくやった」
「え、えへへ……」

 褒められ慣れていないせいか、少しばかり気恥ずかしくなる。周の言葉は一見すると淡泊のようだが、嘘偽りがない。環がもじもじしていると、肩に乗っているマダラが面白くなさそうにむくれている。

「マダラも、ひと役かっていたようだ」
『なんだい、おまけみたいによ!』

 マダラがぴょんと環の膝の上に飛び乗った。肉付きが言い分、そのまま抱き締めると、抱き枕のようで気持ちがいい。

「富永邸には、先日、帝都妖撲滅特殊部隊も立ち入り調査をしているようだ。だが、これといって妖ものの痕跡は見つけられなかったという」
「そ、そうだったんですね」
「あやつらの目は完全ではない。いくら霊力に優れていようとも、見えるものと見えないものはある。しかし環の目であれば、わずかな痕跡をも見出せるだろう」

 周は淡々と述べると、移り行く景色を眺めた。

「私が直接出向くことも考えたのだが、特段富永家との縁もない。動機付けが足りないと思っていたところだった」
「そ……そうです、よね。何か、見つかるといいの、ですが」
「藤峰がいい例で、軍部もあちこちを嗅ぎまわっているようだ。実際に、疑わしいからという理由で妖どもが消されている」
「そ、そんな!」

 環が声を上げると、運転手の河童も重たげにため息をついた。

『もともと、軍部はもっと寛容だったんですけどねえ。ここ最近は、生きづらいってなんの』

 聞けば、河童は出稼ぎをしに帝都まで下りてきているらしい。化け狐の口入れ屋のようにうまく人間社会に溶け込んでいる類の妖であるようだ。

『軍部だけじゃなくて、危なげな妖もうろついているみてえで。そいつについていった妖どもは、どこかおかしくなって帰ってくるようだから、旦那たちも気ぃつけな!』

 住宅街の角を曲がり、見慣れた風景が現れる。この道を進めば九條邸だ――とほっと胸を撫でおろしたのも束の間だった。

「そっ、それ、小鬼も同じことを言って、いました」
『んあ? 小鬼? あいつらはいつも腹を空かせてやがるからな、うますぎる誘いにひょいひょい乗っちまう』

 マントを被って容姿を隠していたというが、ここまで手の込んだ犯行を企てるとは、それなりに上位の妖であるのだろう。環が眉を顰めていると、隣から視線が向けられた。

「おそらくは、この令嬢の失踪事件はあくまでも手段の一つにすぎないのかもしれない」
「手段?」
「江戸時代より二百年あまり、我が一族を筆頭に築いてきた人間と妖の均衡。それを崩そうと企てている輩と、ゆくゆくは対峙せねばならないということだ」