あまりに端麗な(かんばせ)を前に環は逃げ腰になる。ましてや公爵家令嬢などとは、とんでもない。できれば関わり合いになりたくはないのだが、そうもいっていられない実情がある。おどおどと視線を泳がせつつ、環は玲子と向き合った。

(あれ……)

 そこでふと気づく。環は玲子の顔面を凝視した。

「わたくしの顔がどうかなさいましたか?」
「い、いえ……あ、あの」

 あえて聞くべきものではないのかもしれない。そればかりか、身分が格上の令嬢相手に無礼を働くことになるだろう。

「もしかすると……れ、玲子さ、様は、最近お疲れなのでは、なっ、ないでしょうか」

 だが、環は一度気になると、答えを明らかにしなくては気がすまない性分である。背後で時子やよし江があからさまに喉を鳴らしている。しかも、このような公の場で聞くことではないのだ。貴賓室内がざわざわと騒がしくなると、いよいよ不穏な空気が漂った。

「どうしてそう思われたのかしら」

 玲子は眉一つ動かさずに、秀麗な笑みを浮かべているままだ。環はびくびくと肩を震わせ、口を開いた。

「お化粧で、かっ、隠されている、ようですが……おっ、大きな、くっ、隈があるよう、です。そっ、それから、しっ、白目が黄色がかって、いっ、います」

 並の人間ではまず分からないほどには巧みに誤魔化されている。環が告げると、玲子は無言で目尻を細めた。

「目の隈は、生活習慣の……乱れによる、血流不足が原因、です。考えられるのは、過労、精神なストレス、そして、過度な夜更かし――……」

 つらつらと言葉を並べてふと環は思う。下働きをしている女中でもあるまいし、華族の、それも公爵令嬢には縁がないものばかりだ。

「先ほどから何をおっしゃっているのかしら。あなた、玲子様に向かって失礼よ」
「いいのよ。……ふふ、それにしても、なかなかに鋭い目をお持ちなのですね」

 玲子の共をしている令嬢が捲し立てるが、それを制するのは当の本人だった。環はしまった、と慌てて口をつぐむ。

「面白い子が入ってきてくださったようで、嬉しいわ」
「あ、あの……お疲れのようなら、や、休まれた方が、よいと、おっ、思います」
「助言をありがとう。でも、心配は無用よ。これは少し……そうね、小説に夢中になってしまって、夜更かしをしてしまっていたからなの」
「そ、そう……ですか」

 そういうことならば、環にも身に覚えがある。玲子はクスリと微笑を浮かべ、歩みを進めた。

「皆様も、あまり夜が楽しいからといって、羽目を外しすぎてはなりませんよ」

 玲子がわざとおどけるようなそぶりを見せると、令嬢たちの談笑がちらほらと沸き起こった。聴きなれない上品なワルツや、煌びやかな装飾品。夫や婚約者を応援するとは名ばかりで、耳に入るのはどれも自慢話ばかりだ。富や名誉に目がくらんだものは恐ろしい。己の利のために巧に嘘をつき、やがて見境なく搾取しようとするのだから。

 帝都市民の誰も羨む夜会ではあったが、環にとっては窮屈な時間がただ過ぎてゆくばかりであった。




 夜会から帰宅をし、湯浴みを済ませた環は火照った体をさますためにバルコニーを訪れた。綺麗な月が浮かぶ夜であったため、ぼんやりと夜空を見上げたかったのだが、そこには先客がいた。

 麗しい容貌は、月夜によく映える。冷たい双眸が環に向けられると、びくりと肩が震えた。

「こっ……こんばんは」

 邪魔をしてしまったのではないか。令嬢界隈への潜入結果については翌朝に聴取するということで、周からは今夜ははやく休めと命じられていた。慣れない社交場に気疲れをしてしまった分ありがたかったが、こうして居合わせてしまうと気まずい。

「今夜の湯は熱かっただろう」
「え……あ、あ、ああ、そうです……ね。だから、夜風に当たろうと……」
「薪焚きがいつになく張り切っていた。環を気遣ってのことだろうが、熱すぎてはかなわん」
「そ……そうだったん、ですね」

 九條邸には数多の妖が住み憑いている。座敷童子たちのようにただ駆けずりまわっているだけの者もいれば、己の役割に価値を見出しているものもいる。どうやら、妖たちは環を歓迎しているようだった。

「周さんは、どうして、こんなところに?」

 涼しい夜風が環の体をさましてくれる。聞こえてくるのは木々がざわめく音だけだ。

「私が月を見に来てはいけないか?」
「いいいい、いえ! ごっ、ごっ、ごごごごめんなさい!」

 そういうつもりで聞いたのではない。とっさに首を横に振ると、周はくつりと笑った。

「……それはそうと、今日は大義だった」
「え?」
「‟式″からすべて視ていた。上出来だ」

 ため息が出るほどに美麗な笑みだった。指先がするりと環へと伸びると、頭を撫でられる。環は身を強張らせて受け入れたが、不思議な感覚だった。生まれてこの方、誰かに褒められた試しなどなかったからだ。

「視ていた……のですか?」
「言っただろう。‟式″をつけると」
「うううっ……いつのまに」

 式をつけられるのならば、何も環でなくともよかったのではないか。いや、でも、この屋敷を不気味がって逃げ出してしまう令嬢があとをたたないのであれば、困ったものかもしれない。
 環は悶々としつつ、周を見やった。

「も、もし……一連の事件が、本当に妖の仕業だったとするなら……はやく、止めないと。とりかえしのつかないことに、なってしまう」
「おそらく、すでにもう、もとには戻れないだろうがな」

 環はぐっと口を結んだ。そうなってしまっては排除以外の道はない。
 だがそれは環にとっては悲しい選択だった。妖は元来、悪ではない。人間の味を覚えてしまったがゆえに我を失っただけである。
 ただでさえ、この国の民は妖ものやモノノケの類を疎んでいるというのに、そうなってしまってはますます立場が悪化してしまう。

「周さんは、どうして……そこまで」

 夜風が周の艶やかな黒髪を撫でる。そろりと横目が向けられたかと思えば、再び夜空の彼方を仰いだ。

「かつて、私が幼い頃に世話になった人間がいた」
「……人間?」

 ぽつり、こぼれ落ちた回答は、環にとっては意外だった。

「その頃の私まだ幼子であり、一族の責務などまったくもって軽んじていた。いや……恨みばかりがつのっていたか」

 周は月明りに照らされた周の輪郭を見つめた。

「その者は、半場自暴自棄になっていた私に、言った。無念だと思うのなら、憤りを感じるのならば、己が力でこの国を正しく導けと」

 夜のとばりを映す瞳からは、周の言葉の真意を伺えない。
 かつての周が怨恨を抱いていたとは、果たして事実であるのだろうか。

「我が一族は、十年前に滅んでいる」
「え……? 滅ぶ?」
「ああ。屋敷に火の手が上がっていた。轟轟とうねりをあげ、燃えてゆく光景を、私はただ唖然と眺めていた」

 さも昔話のように口にしているが、環にとってはそう簡単には理解しがたい内容だった。

「世間一般では、不慮の事故として片付けられたが、そうではない。あれは紛れもなく殺しだ。私が駆けつけた時にはすでに、惨たらしい光景が広がっていた」
「……そん、な、犯人は、捕まってはいないのですか?」

 環が恐る恐る問いかけると周は寂寞とした表情を浮かべる。

「未だ、犯人が人間であるのか、妖であるのかすら、分かっていない」
「……っ」
「なかなか尻尾を出さん。屋敷を燃やすなどとは、随分と派手な趣向を持っていることは確かなのだがな」

 どうして、そのような凄惨な出来事を経験しているというのに、周はそこまで気高くいられるのだろう。
 環には決して真似ができない。たとえ、恩人となる者が現れたとしても、だ。

「華族連中は私を憐れんでいるようで、腹の底ではどうだったか。財産にでもあやかりたいという魂胆が見え透いていて、余計に辟易した」
「……」
「誰も信じられなくなっていた時、彼に出会った。そして彼は、私が人間ではなく妖──それも、鬼である事実を知っていたようだ。鬼族は古より、人間社会に紛れて生活していたのだが……不思議な人間だった」
「その方は、今は……?」

 環が問いかけると、周は静かに月を見上げる。

「死んだ。……あっけなかった」

 聞いてはいけなかったのではないか。いや、故意に聞かずともよかった。契約上の関係なのであるから、周の身の上話に踏み込む必要もない。それは環だけではなく周も承知しているはずだ。それなのに、何故口にしてくれたのか。

「すまない。つまらない話をした」
「い……いえ」

 これ以上踏み込んではいけない。周の月のような瞳を見ていると、封じ込めている一面までのぞかれてしまうような気すらする。

 とにかく、今は事件の解決が先決だ。そうしてこの荷が重すぎる役目から解放されねばならない。

「とっ、ところで、周さんは、みょ、苗字のこと、ごっ、ご存じだったのでは、ないでしょうか」

 話題を変えようととっさに切り出したが、周は軽く口角を上げているのみだ。周の手のひらの上で転がされているようで、釈然としない。

「だったら、何か問題でも?」
「あ、あらかじめ、おっ、教えてくれても、いいじゃない、ですか!」
「ああ……忘れていた」
「忘れていたって! もう! 私、華族出身なんかじゃないのに!」

 あの時は本当に肝が冷えた。いくら社交場で使い物にならない陰気な娘だとしても、事前情報として共有くらいはしてほしかった。

 分かりやすくむくれる環に、端麗な瞳が向けられる。

「そういった顔もまた、興がある」

 ずい、と距離を縮められる。目と鼻の先に整った顔があるものだから、環の呼吸が止まった。

「臆病なのか、将又肝が据わっているのか……」
「な、な……」
「栗花落の令嬢相手によくもああまで言ったものだ」

 先刻の無礼を思い出し、環の背筋はたちまち凍り付いた。

(令嬢たちからいじめられてしまったらどうしよう)

 玲子の目が気になったため口にしてしまったものの、あの場には適していなかったようだ。何故マダラは止めてくれなかったのか。これから先も、場にそぐわない発言をしてしまうのではないかと不安になる。

「――九重環とは何者なのか」
「へ……?」

 ごくりと生唾をのむ。硝子のようにきらきらと輝く瞳が、緩やかに細められた。

「知りたいと思うほどには、あなたを気に入っている」

 幽玄な月が浮かぶ夜。周はそう告げると、環の頬をするりと指で撫で、バルコニーをあとにしたのだった。