千冬は灯璃に抱き上げられたまま彼の部屋に連れられていく。
 先を歩いていた使用人が足を止めると両手が塞がっている灯璃のために襖を開ける。
 「夕食の準備が出来次第、またお呼びします」
 「ああ」
 使用人は恭しくお辞儀をすると、その場を去っていく。
 灯璃は革張りのソファに千冬をそっと降ろす。
 (ここが灯璃さまのお部屋……)
 少しだけ視線を動かすと本棚には多くの書物が、文机は書類らしきものが整理されて置かれている。
 灯璃の部屋に、そもそも男性の部屋に入るのは初めてで緊張からか思わず身体に力が入ってしまう。
 「緊張しているのか?」
 あまり辺りをじろじろと見るのは失礼だと思い、俯いていると穏やかな声が降ってくる。
 「は、はい……」
 灯璃は隊服の首元のボタンを外しながら千冬の隣に座る。
 そのたったひとつの所作が無垢な千冬にとって刺激的でとっさに見てはいけないと両手のひらで顔を隠す。
 「何故顔を隠す?」
 指と指の隙間からそっと見ると灯璃は不思議そうに首を傾げていた。
 「えっと……」
 自分の口から『貴方の色香で恥ずかしくなった』などととても言えない。
 灯璃は普段通りに振る舞っただけで、これだけで恥ずかしさを抱いていては、この先が心配でしかない。
 「もしかしてボタンを外すのを見て照れたのか?」
 無意識に首元のボタンに目がいっていたのかすぐに気づかれてしまった。
 「ち、違います」
 図星をつかれたのに変な意地を張って誤魔化してしまう。
 このままでは灯璃の調子に狂わされてしまいそうで、座る位置を一人分ずらして距離をとった。
 「嘘はよくないと先ほども言っただろう?」
 灯璃も負けじとこちらへ詰め寄ってくる。
 もう誤魔化すのは無理だと思った千冬はソファから立ち上がろうとしたが灯璃が腕を伸ばして制止させた。
 背中は肘掛けに当たり、逃げ場は無くなってしまった。
 「い、意地悪です……」
 何だか今日は一段と灯璃の雰囲気が違うような気がして、からかわれているようにも思える。
 あまり言い返さない千冬でさえもぽろりと本音がこぼれてしまった。
 「そうむくれるな」
 灯璃は喉をくっと鳴らして千冬の頭に手を置いた。
 それはまるで小さい子をなだめているようで……。
 (何だかわたし、子どもみたい。でもすぐに恥ずかしくなって赤くなるところなんてまだまだ大人の女性には程遠いのだけれど)
 年下の子の方がもっと大人びているのではと思えてしまう。
 このままでは駄目だと千冬は思い切って顔を上げる。
 「わたし、もっと成長できるように頑張ります」
 「どうした急に」
 千冬の突然の決意表明に灯璃は目を丸くしている。
 物静かで冷静沈着な彼がこんな表情を浮かべるなど珍しい。
 「どんなときでも落ち着いているような大人な女性になりたいです」
 「表情がころころと変わる千冬も愛らしいと思うが」
 「そ、それではまるで子どものようではありませんか?」
 灯璃の横に立つ自分の姿を想像するが明らかに不釣り合いだ。
 良妻賢母を目指すのならば、さらに行動のひとつひとつに磨きをかけなければいけない。
 このままではいけないとわかっているのだが灯璃の優しく甘い言葉につい揺らぎそうになってしまう。
 焦りが募って握りしめる拳に力が入る。
 そこに灯璃の大きな手が重なった。
 「千冬には千冬の良さがある。何事にも一生懸命なところも誰に対しても思いやりをもって接するところも私は大好きなんだ」
 「でもこれから先、周囲に心ないことを言われるかもしれないですし……」
 灯璃や使用人たちは親切だが他の者が何というか未知数だ。
 瞳の色のこと、教養がないこと……。
 そんな花嫁に他の鬼の分家やあやかしたちがついていきたいと思うだろうか。
 将来について考えるたび、不安になるばかりでどうしていくべきかわからない。
 灯璃は俯いていた千冬の顔に手を伸ばし顎をすくって持ち上げる。
 「私がいるんだ。何も不安になる必要はない。きっと二人ならどんな壁も乗り越えていける」
 「灯璃さま……」
 決して揺るぐことはないまっすぐな瞳と強い想いが込められた言葉に心が楽になる。
 「つらいこと、悲しいこと、不安なことをひとりで背負うことはないんだ。私は千冬には笑顔でいてほしいから」
 灯璃は優しく瞳を細めると繊細な壊れものを扱うように千冬をそっと抱きしめた。
 (過去のわたしは絶望しか感じられなかったけれど、誰かにこんなにも想われるなんてとても幸せなことなのね)
 あのつらかった日々は一生、記憶から消えないだろう。
 でもその分、自分には明るい未来が待っていたのかと思うと報われたようだ。
 (もう少しこのままでいたい……)
 ときどき灯璃や使用人たちに甘えてほしいと言われることがある。
 でも甘え方がわからないのだ。
 妹の依鈴の方が上手で考えは策士でもそれを誰も疑わずに自然と虜にさせてしまう。
 こういうとき、いつもは灯璃に身を任せているけれどおそるおそる勇気を出して彼の隊服の一部を掴む。
 「……!」
 灯璃は掴まれた感覚に視線を動かすと千冬は耳を赤くさせていた。
 抱きしめ返すまではいかなかったが、自分なりにかなり勇気を奮い起こしたのだろう。
 どうしようもないほど灯璃は千冬が愛おしくなって抱きしめる腕の力を強めた。
 (もう少しだけこのままでいたいと願ってもいいのかしら……)
 この温もりを感じていたくて千冬はそっと瞳を閉じたのだった。
 「今日も少し帰りが遅くなる」
 「仕事がお忙しいのですね。お身体は大丈夫ですか?」
 最近、灯璃は妖特務部隊の仕事が多忙を極めているようだ。
 屋敷に帰宅するのは日付が変わる時間が多く、共に夕食を食べられていない。
 最初は灯璃が帰宅するまで食べずに待っていると伝えたが、気にしないでほしいと何度も言われ、ひとりで食事をすることが多くなった。
 一緒に暮らしているとはいえ、まだ正式に結婚はしていないので部屋も別々。
 大丈夫だとは言うけれど本当に睡眠もとれているのかわからない。
 夜だけでなく、今日のように早朝から出勤することも増えているため灯璃の身体が心配になる。
 玄関で靴を履き仕事先へ向かおうとする灯璃は振り返ると千冬を安心させるようにしっかりと頷いた。
 「私は何も問題はない。それより千冬こそ平気か?今日も早く起きて弁当を作ってくれたのだろう?」
 「わたしにできることと言えばこれくらいですから」
 「千冬の料理はとても美味しくて弁当はありがたいのだが、このあとは部屋で勉強もするのに無理していないか」
 正直、身体は重く眠気もある。
 でも朝から晩まで働き詰めの灯璃の方が疲れているに決まっている。
 そんな彼の前で弱音など吐いていられない。
 「わたしは平気です。きちんとお休みもいただいておりますし」
 「少しでも具合が悪ければすぐに使用人たちに言うのだぞ」
 「かしこまりました」
 笑顔で頷くが、何でも我慢してしまう千冬の性格を知っているからか、まだ彼の中の不安は拭いきれていないようだ。
 「……いってくる」
 「いってらっしゃいませ」
 灯璃は踵を返すと玄関から外へ出て行った。

 見送りが終わり、自室へ戻るために廊下を歩く。
 (灯璃さまはああ言っていたけれど、きっとお疲れよね。お弁当作りの他に何かできることはないかしら)
 彼のためにといったらなるべく早く花嫁修業を終えることだが、それだけではない他の何かもしたい。
 一生懸命、頭を回転させて考えを巡らせると、先日読んだ雑誌の内容を思い出す。
 (そういえば雑誌に贈り物の特集が掲載されていたわ……。日頃からお世話になってばかりだしお店で灯璃さまに選んでもいいかもしれない)
 先日、灯璃が町を案内してくれたおかげで、ある程度お店の目星はついている。
 しかも今日は青空が澄み渡ってお出かけ日和だ。
 勉強は午後から取り組もうと予定を変更させて千冬はお世話係の詩乃の元へ急いだ。

 詩乃に事情を話し、外出の許可をもらった千冬は身支度を整えて自動車に乗り込み、町へ向かっていた。
 外出をする際は必ず灯璃か護衛の者と共にしなくてはいけない。
 それだけ花嫁は大切な存在なのだ。
 この自動車には千冬と詩乃、運転手しかいないが、護衛を担当する男性たちは後ろからついて見守るそうだ。
 建ち並ぶ店が見えたところで自動車が路肩に止まる。
 千冬と詩乃は降りると賑わう町へ歩き出す。
 こっそり後ろを見ると護衛の男性たちは陰から様子を伺っていた。
 邪魔にならないようにしてくれているのかその心遣いが嬉しかった。
 「千冬さまからの贈り物……。きっと喜んでくださりますよ」
 「そうだとよいのですが。灯璃さまはどのようなものがお好みなのでしょう?」
 一緒に暮らし始めてからしばらく経ち、知ったつもりでいるが、いざ贈り物を選ぶとなると難しい。
 深く考えこんでいると詩乃は朗らかな笑みを浮かべながら口を開いた。
 「贈り物をしてお礼をしたいというお気持ちが大切だと私は思いますよ。あまり難しく考えなくとも相手を想えば自然とぴったりの物を選べますわ」
 「……はい!そうですね」
 詩乃はいつも的確に、相手に寄り添った答えを返してくれる。
 いつしか千冬も彼女に信頼を寄せていた。
 談笑をしながら歩いていると、少し先に大通りが見えてくる。
 (町へ来るのも久しぶりね。……あら?)
 どこからか甘い香りが漂い、鼻腔をくすぐる。
 甘いだけではない、薬のようなツンとした変わった匂いだ。
 「この香りは……」
 強く、特徴のありすぎる香りに思わず手で口元を抑える。
 「うっ……」
 隣から苦しそうな声が聞こえたかと思うと詩乃の身体がぐらりと揺れる。
 「詩乃さん!」
 手を伸ばし支えようとするが何故か腕が痺れて動かない。
 困惑しているうちに詩乃は地面にバタリと力なく倒れる。
 付き添いの護衛の男性たちに助けを求めようと振り返るが彼らも同じように倒れ込んでいた。
 「どうして……」
 全員が同時に倒れるなんて、どう考えてもおかしい。
 せめて大通りに行けば助けを呼べるはずだと足を前へ進めようとするが、力が入らず、その場に崩れ落ちる。
 「だ、れ、か……」
 僅かに声が出たが風に掻き消されて誰にも届くことはない。
 だんだんと視界が歪み、どうにか意識を保とうとするが襲いかかる眠気に勝てない。
 (灯璃さま……)
 千冬は薄れゆく意識の中、灯璃のあの優しい表情を浮かべる。
 まるで、このまま離ればなれになってしまいそうで胸が苦しくなった。
 会いたい、その願いも虚しく、千冬は意識を手放したのだった。
 「……ん」
 千冬は身体のところどころに違和感を覚えてゆっくりと意識を戻した。
 瞼も頭も石のように重く感じて、全身が怠い。
 (ここは……)
 ぼやける視界が数秒かけてはっきりすると自分がおかれている状況を理解しようと辺りを見渡す。
 壊れた家具や埃を被った箱などが置かれていて、物置小屋のようだった。
 ふと視線を動かすと大きくヒビが入っている鏡に自分の姿が映る。
 「えっ……!?」
 そこでようやく縄で両手と足首を縛られていることがわかった。
 解こうと動かすが、きつく縛られており、ひとりではびくともしない。
 「誰か!助けて……!」
 小屋の中には詩乃も護衛の男性たちもいない。
 見知らぬ場所にひとりきりで途端に心細くなる。
 声が出たのが不幸中の幸いで必死に大声で助けを求める。
 すると小屋の扉が軋む音を出しながらゆっくりと開かれた。
 (よかった……!誰かが助けに来てくれたのね)
 安堵したのも束の間、小屋の中に入ってきて自分の前に現れた人物に目を疑った。
 「ごきげんよう、お姉さま。随分早いお目覚めね」
 そこにいたのは恐ろしいほど美しい笑みを浮かべた妹の依鈴だった。
 対面した瞬間、蓋をしていたつらい記憶が次々と蘇る。
 「永遠に眠っていてもよかったのに」
 その後ろから目を覚ました千冬を睨みつけながら継母の依里恵が入ってくる。
 「依鈴さん、依里恵さん……」
 どうしてここにいるのか訳もわからず、ぽろりと口からこぼれ落ちる。
 名前を呼んだ瞬間、ふたりは眉をさらに吊り上げた。
 「あなたなんかが気安く名前を呼ばないで!」
 依里恵はずかずかと近づくと扇子を取り出して千冬の頬を叩く。
 「うっ……!」
 じんわりと叩かれた箇所から痛みが広がる。
 嶺木にいた頃は叩かれることなど慣れていたはずなのに久しぶりに感じる痛みに泣きそうになった。
 手で抑えようとするが縄で縛られているため、それも不可能だ。
 そんな千冬の様子に依鈴は何か可笑しいものでも見たかのように、くすくすと笑いを堪えている。
 「何度見てもこの光景は最高ね。お姉さまも懐かしいでしょう?」
 縛られたままだと抵抗もできず、されるがままだ。
 何か喋ったら叩かれるかもしれないと恐怖に怯えるが聞かずにはいられなかった。
 「ここはどこですか?かくりよ國は認められた者しか入れないのでは……」
 話の途中で依里恵が千冬の首を掴む。
 「ぐっ……」
 掴む手に少しずつ力が加わり息が苦しくなる。
 何とか呼吸をしようとするが、緩めようとしない手のせいで一度も酸素が入らない。
 「呪いの子の分際で私たちに質問だなんて生意気なのよ!」
 強烈な怒鳴り声が鼓膜を揺らし、思わず瞳を強く閉じる。
 こんなにも怒りをぶつけられるのは初めてで感じたことのない恐怖心を覚える。
 浮かべていた笑みを消すと依鈴はゆっくりと千冬の周りを歩き出す。
 余裕のある雰囲気がさらに怖さをかき立てる。
 「鬼城さまの花嫁に選ばれて調子に乗ってしまったのかしら」
 「どうしてそれを……!」
 鬼である灯璃の花嫁に選ばれたことは継母たちには伝えていない。
 通常の家族ならば、こんなにも喜ばしい出来事はすぐに報告する。
 しかし虐げてきた彼女たちに報告しようとは一度も思わなかった。
 家を出てきた時点で縁は切ったと考えていたし、鬼城家が与える恩恵を私利私欲のために使ってしまうと思ったからだ。
 このままでは立場を利用されて最悪の事態を招いてしまう。
 青ざめている千冬を見てふたりはにやりと口角を上げた。
 「このまま何もせず、ただ没落するのを待つなんて絶対嫌」
 「こんな出来損ないに誰が謝罪しろって?そんなの死ぬ方がマシよ」
 ふたりの言葉を繋ぎ合わせていくと、ひとつの予想にいきつく。
 謝罪しなければ没落させるなんて言ってくれる相手はただひとりしかいない。
 (もしかして灯璃さまはわたしの嶺木家での扱いを知っていたの?)
 しかも、いつの間にか継母たちに忠告していたとは初耳だ。
 あやかしの最高位である鬼とはいえ、挑発すればどのような危険が及ぶかわからないのに身を挺して守ってくれていたのだ。
 (あえてわたしに話さなかったのは心配させたくなかったから?)
 嶺木家に行って、宣戦布告をしてきたと言えば、千冬が何も手を出されていないか、迷惑をかけてごめんなさいと謝罪して色々と責任を感じてしまうからだ。
 彼の表に出していなかった配慮がとても嬉しく、つらさとはまた別の意味で泣きそうになる。
 (いつもならただ叩かれるのを耐えるだけ。でもわたしも強くならなくちゃいけない。守ってくれた灯璃さまのためにも)
 勇気を出して俯いていた顔を上げるとまっすぐに継母たちを見た。
 「何よ、その目は!」
 「虫唾が走るわ!やめてちょうだい!」
 依鈴は右頬を、依里恵は左頬を思い切り叩く。
 パンッパンッと乾いた音が二回、小屋の中で響いた。
 「うっ……ぐ……」
 うめき声をあげて千冬は床に倒れ込んだ。
 弱めることのない力にもうあと数回叩かれたら意識を失うと確信した。
 すると再び、古びた扉が開く。
 「あらあら。派手に暴れていますわね」
 この状況に似合わないのんびりした上品な声の先に視線を向けると、赤色の生地に蝶々の模様がはいった着物を纏っている女性が倒れている千冬を見ている。
 赤い瞳で精巧に作られた人形のように美しい。
 しかし過去に会った記憶はなく誰だかまったくわからない。
 それにこんなにも綺麗な人に会ったら忘れるわけがない。
 「貴方は……?」
 掠れながらも小さな問いかけは彼女に聞こえたようだ。
 洗練された所作でお辞儀をすると艶やかな唇が開かれる。
 「はじめまして。私は鬼の一族、鬼川薫子と申します。灯璃さまの元婚約者ですわ」
 「こんやくしゃ……?」
 その一文字が脳内を支配する。
 彼女が鬼だから驚いたわけでもない。
 灯璃の元婚約者ということに動転しているのだ。
 一度もそんな話は聞いたことがないし、人間の花嫁が見つかったことでする必要もないのだろう。
 そもそも灯璃は周囲の男性と比べたら結婚をすべき年齢をとうに越えている。
 それに鬼城家の当主で鬼帝ならば婚約者のひとりくらいいてもまったくおかしくない。
 そんなこと簡単に想像できるのに今までしてこなかった自分の方が馬鹿に思えてくる。
 「あの、ここはどこなのですか?それにどうして鬼である貴方さまが依鈴さんと依里恵さんと共にいらっしゃるのですか?」
 嶺木家があやかしどころか鬼の家と関係をもっているなんて聞いたことがない。
 聞きたいことが山ほどあって頭の処理が追いつかない。
 「ここは我が鬼川家が所有する敷地の廃墟同然の小屋。貴方さまを恨んでいたお二人と協力をして誘拐し、灯璃さまから引き離すためですわ」
 「誘拐……?もしかしてあの時の香りでわたしたちを気絶させたのですか?」
 「ええ。私の術を使えば眠らせる香りくらい簡単に作れます」
 身体を痺れさせ強烈な眠気を誘うあの香りは鬼の妖術が込められた香りだったのだ。
 「し、詩乃さんは……!?護衛の方たちはどこにいらっしゃるのですか?」
 特に詩乃の身体は老いているため、あのままでは悪影響を与えるかもしれないと不安に駆られる。
 「今頃、鬼城家の人間たちに助けられていることでしょう。帰宅が遅いことに不審に思って。でも……」
 薫子はじりじりと千冬に近づくと、膝を折って冷酷な瞳で見下した。
 「貴方さまが灯璃さまの花嫁を辞退しない限り、彼らは眠ったままですわ。お返事を聞くために貴方さまの術は解いてあげたの」
 「そんな……」
 幸せだった日常から一気に地獄へ突き落とされたように目の前が真っ暗になる。
 お前の瞳は不幸を招くと言われても、出逢った鬼城家のあやかしたちはそんなこと言わなかった。
 愚かな自分のせいで今も苦しんでいるひとたちがいる。
 詩乃たちを思えば『灯璃の花嫁にはならない』と一言話すだけですべて解決する。
 ただそれだけでいいのに、灯璃の温かな笑顔が脳裏を離れない。
 (以前のわたしだったら、すぐに諦めていた。でも……)
 頬にはまだ叩かれた痛みが残り、床からは冷気が伝わる。
 千冬は重たい頭を必死に起こして薫子を見つめる。
 「……です」
 「え?よく聞こえないわ」
 首を絞められたせいであまり声が出ない。
 早く答えを出さない千冬に薫子は自らの足でトントンと床を叩き、苛つきを隠せないようだ。
 千冬はできる限りいっぱいに息を吸って胸の中の想いを言葉にした。
 「嫌です……!花嫁は辞退しません!」
 「なっ……!貴方のような娘が鬼城家の女主人になれるわけがないでしょう!?」
 薫子にとって予想外の答えに美しい見た目に反して怒号に近い声をあげる。
 傍で聞いていた依鈴や依里恵も続けて声を荒げた。
 「鬼城さまを薫子さまに返せば、私を鬼の一族の男性と結婚できるようにしてくださる約束なのよ!」
 「貴方の未来なんかより依鈴や嶺木家の未来の方が大切なのよ!それくらい考えればすぐにわかるのに、愚かな……!」
 依里恵は草履で千冬の頭を床に押しつける。
 「ぐっ……」
 感じたことのない痛みでだんだんと気持ち悪くなる。
 このまま暴行を受けていれば命が危ないと危機感を抱くが、花嫁を諦める言葉が口から出ることはなかった。
 (依里恵さんたちの言うとおり、依鈴さんと比べたらわたしなんかいなくなっても誰も困らない。ずっとそう思っていた。あの方と出逢うまでは……)
 何もかも諦めていた自分に灯璃は居場所をくれた。
 居場所だけではない。
 愛も希望も与えてくれた。
 大切なことを教えてくれたあの温もりのある場所へこれから先もずっといたい。
 ここで倒れるわけにはいかないと不思議と身体に力が入る。
 草履で押さえつけられるのを必死に抵抗する。
 (ここから出て、詩乃さんたちを助ける……!)
 なお諦めない千冬に薫子は前髪を掴んで持ち上げた。
 「灯璃さまは私と結婚するのよ!さっさと花嫁の座を渡すと言いなさい!」
 千冬は最後の力を振り絞って口を開いた。
 「わたしが鬼城灯璃の花嫁です!」
 人生で初めてこんなにも大きな声を出したと思う。
 小屋の中に響き渡ったあと、僅かな静寂が訪れた。
 薫子は掴んでいた前髪をパッと離すと近くに置いてあった剪定バサミを持つ。
 鋭い刃先がこちらを向くと、すぐにこれからされるであろう彼女の行動がわかってしまって背筋が凍った。
 「もういいわ。貴方がこの世からいなくなればいいだけよ。そしたら灯璃さまはまた私のものに……」
 剪定バサミを持つ手がゆらりと揺れたかと思うと次の瞬間、開いた刃先が喉に向かって勢いよく差し出される。
 (嫌……!)
 恐怖で思わず目を瞑ったとき、バンッと大きな音を立てながら小屋の扉が開かれる。
 おそるおそる目を開けると剪定バサミは喉の直前で止まっていた。
 そして逆光の中、現れたのは……。
 「千冬!」
 隊服を身に纏った灯璃だった。
 後ろには副隊長の蓮司を初めとした妖特務部隊の隊員が数名立っている。
 「と、灯璃さま……。結界を張って位置は隠したのにどうしてここが……」
 薫子は先ほどとはうって変わって顔を青ざめさせている。
 かなり動揺しているのか手から剪定バサミが落ちる。
 「私の力をみくびるな。あのような脆い結界などすぐに解ける。数日前から鬼川家周辺で怪しい動きも察知していた。念のため千冬に式神をつけておいて正解だった」
 灯璃は倒れている千冬の元へ駆け寄るとすぐに縄を解き、抱きしめた。
 千冬の背中からは居場所を特定するための白い紙でできた式神がひらりと出てきて消えていく。
 いくつかのかすり傷ができた頬を撫でて切ない声を震わす。
 「遅くなってすまない、千冬」
 千冬は薄れゆく意識を精いっぱい保ちながら首を横に振った。
 「助けに来てくださると信じていましたから……。わたし、諦めませんでしたよ」
 にっこりと安心させるように微笑む千冬に灯璃はもう一度強く抱きしめると、抱きかかえたまま立ち上がった。
 「彼女らを捕らえよ」
 その指示で蓮司や隊員たちが一斉に三人を捕らえる。
 「いやっ!」
 「離して!」
 依鈴や依里恵は抵抗するが男性の力に勝てるはずもなく、すぐに縛られて連行されていく。
 反対に薫子は何故か落ち着いていてされるがままだった。
 暴れても、もう無理なのはわかっているからだろうか。
 ぐったりとした千冬を灯璃はしっかりと抱きかかえながら小屋を出ていく。
 薫子の横を通り過ぎるとき、弱々しい声が灯璃の耳に届いた。
 「本当にその娘でよろしいのですか?」
 「私の花嫁は千冬だけだ。お前の処遇は後日伝える。厳しいものだと覚悟しておけ」
 氷のように凍てつく言葉に薫子はそれ以上何も言わなかった。
 灯璃は一瞥すると外に待たせている自動車に向かって歩き出したのだった。
 頬を温かな風が撫でるのを感じて千冬がそっと目を開けると、そこは嶺木家の庭だった。
 もう夏も近いというのに庭に植えられている桜の木は満開に咲き誇っている。
 (どうして桜が……。それにわたしは確か……)
 季節はずれの桜に出ていったはずの嶺木家の屋敷。
 今、自分がおかれている状況が理解できずに頭が混乱していると。
 「千冬」
 ずっと聞きたかった懐かしい声が聞こえて、声がした方角に顔を向けると、亡くなったはずの母、千鶴が立っていた。
 「お母さま……!」
 すぐに駆け寄ろうとするが何故か足が鉛のように重く、びくともしない。
 あと少しで触れられる距離なのに、まったく言うことを聞かない。
 「千冬はまだこちらへ来てはいけませんよ」
 「でもわたし……」
 やっと再会できたのに近寄ることさえできない身体に焦りが募る。
 そんな娘に千鶴は切ない眼差しを向けて口を開いた。
 「ずっと寂しい想いをさせてごめんなさい」
 「お母さまは何も悪くない。だから謝らないで」
 会えた嬉しさともうこれ以上近づくことができない悲しさの感情が入り混じって涙が頬を伝う。
 涙を流しながらも母の気持ちに寄り添う娘の姿を見て、千鶴は小さく微笑んだ。
 「千冬……。ありがとう、強くなったのね」
 「昔は自分が強くなるなんて考えられなかった。灯璃さまがずっと傍にいてくれたおかげなの」
 「そう……。大切なひとができたのね」
 「はい」
 頷くと途端に桜吹雪が辺りを舞う。
 僅かな隙間から母が少しずつ遠ざかっていくのが見えた。
 「お母さま!待って!」
 手を伸ばして制止をしようとするが、その想いも虚しく、さらに桜吹雪が強くなって視界が悪くなる。
 「貴方に幸せな未来が訪れることを天から祈っているわ」
 その言葉を最後に千冬は眩い光に包まれた。

 「……っ」
 光が止む気配を感じてゆっくりと目を開けると見慣れた天井の木目が視界に入る。
 「千冬?」
 その声に視線だけを動かすと着物姿の灯璃が心配そうな表情でこちらを見ていた。
 「灯璃さま……。ここは鬼城家のお屋敷ですか?」
 「ああ。千冬は丸一日眠っていたんだ。気分はどうだ?」
 「少しだけ身体が痛いですが、わたしは大丈夫です。あっ!そ、それより詩乃さんや護衛の方たちは……!?」
 辺りを見渡すがお世話係の詩乃の姿が見えない。
 護衛の男性たちも屈強とはいえ、倒れていた光景を思い出すと不安で押し潰されそうになる。
 「落ち着け。詩乃たちなら大丈夫だ。鬼はそんなにやわではない。念のため休暇を与えているが明日には屋敷に戻る」
 「そう、ですか……。よかった……」
 胸を撫で下ろすと涙が出てきた。
 もし何かあったらと、ずっと彼女たちを案じていたので無事だということを灯璃から聞いて心の底から安心する。
 灯璃はそっと手を伸ばすと目尻に溜まった涙を拭ってくれた。
 落ち着いたところで、ふと継母たちや薫子のことを思い出す。
 あの出来事を思い浮かべるだけで怖くなるが、連行された彼女たちは今後どうなるのか興味に近いものが出てくる。
 「あの、嶺木家のひとたちや薫子さんは無事なのですか?」
 「千冬はあのような真似をされてまで彼女たちを心配するのか」
 「……」
 灯璃の言うことはもっともだ。
 継母たちには親愛の気持ちなど微塵もない。
 でも、頭のどこかでこれでも家族なのだと訴えかけているような気がして気にせずにはいられなかった。
 黙る千冬を見て灯璃は一度、目を伏せると口を開いた。
 「彼女たちは今、妖特務部隊が管理する牢屋にいる。花嫁である千冬を誘拐し、暴行を加えた罪は重い。正式な処遇はまだ決まっていないが、おそらく禁固刑になる。嶺木家は没落し、薫子は一族から追放されるだろう」
 「そうなのですね……」
 もう彼女たちに狙われることはないのだと安心すると同時に長い歴史がある嶺木家が無くなってしまうのだと少しだけ寂しくなる。
 ゆっくり布団から身体を起こすと灯璃は慌てて千冬を支える。
 「寝ていなくて大丈夫か?」
 「はい……」
 まだふらつきはあるが彼が肩に手を添えてくれているおかげで幾分か楽だ。
 千冬は胸の前に置いた手を握りしめると灯璃に頭を下げた。
 「灯璃さま、迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
 自分が原因で家同士を巻き込んだ大きな騒動を生み出してしまった。
 鬼の中で三番目に力をもつ鬼川家の娘が捕らえられたとなると、灯璃も対応に追われるだろう。
 それに実家の人間も関わっていると周囲に知られれば、灯璃の花嫁に本当に相応しいのかと疑いの目を向けられ、懸念を抱かれるかもしれない。
 こんな厄介ごとを起こす娘など嫌いになっただろうか。
 愛想を尽かして屋敷から出ていけと言われるだろうか。
 様々な想いが頭の中を巡り、灯璃の顔を直視できない。
 「千冬は何も悪くはないのだから謝る必要はない」
 「でも……!」
 「悪いのは私だ。千冬を守ると言ったのに誘拐された挙げ句、傷を負わせてしまった。本当にすまなかった」
 灯璃は声を震わせ、悔しそうに唇を噛む。
 初めて見る表情に千冬は胸が苦しくなった。
 (違う。わたしは灯璃さまのこんなお顔を見たいわけではない。もっと、いつもわたしを照らしてくれるような……)
 千冬はそっと灯璃の手に自分の手を重ねた。
 普段ならば自分から彼に触れるなど大胆な行動はしないのだが不思議と今は緊張しなかった。
 「謝らないでください。灯璃さまを想えば何も怖くはありませんでしたから」
 「千冬……。花嫁として君を選んでおいてなんだが私のような男にこれからもついてきてくれるか?」
 珍しく弱気な彼に千冬はしっかりと頷く。
 「もちろんです。わたしは恋という感情がこんなにも温かくて幸せなものだと灯璃さまに教えていただきましたから。これから先もずっとお傍にいたいです」
 わからなかった感情も灯璃と過ごすうちにいつの間にか芽吹いていたのだ。
 普通の令嬢ではない自分はこの先も、もしかしたら迷惑をかけてしまうかもしれない。
 でも願わずにはいられなかった。
 (貴方の隣がわたしで良いのなら、どうか……)
 徐々に灯璃の表情に笑顔が戻っていく。
 千冬の細い身体を引き寄せると耳元で囁く。
 「ありがとう。ただこれで満足してはいけないよ。私たちは今よりもっと幸せになるのだから」
 「……!はい、そうですね」
 千冬は灯璃の背中に腕を回す。
 外では少しずつ太陽が昇り、朝日が障子を透かして抱き合う二人を照らす。
 これからも灯璃と共にいられる喜びを噛みしめて千冬は花笑みを浮かべたのだった。

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