頬を温かな風が撫でるのを感じて千冬がそっと目を開けると、そこは嶺木家の庭だった。
 もう夏も近いというのに庭に植えられている桜の木は満開に咲き誇っている。
 (どうして桜が……。それにわたしは確か……)
 季節はずれの桜に出ていったはずの嶺木家の屋敷。
 今、自分がおかれている状況が理解できずに頭が混乱していると。
 「千冬」
 ずっと聞きたかった懐かしい声が聞こえて、声がした方角に顔を向けると、亡くなったはずの母、千鶴が立っていた。
 「お母さま……!」
 すぐに駆け寄ろうとするが何故か足が鉛のように重く、びくともしない。
 あと少しで触れられる距離なのに、まったく言うことを聞かない。
 「千冬はまだこちらへ来てはいけませんよ」
 「でもわたし……」
 やっと再会できたのに近寄ることさえできない身体に焦りが募る。
 そんな娘に千鶴は切ない眼差しを向けて口を開いた。
 「ずっと寂しい想いをさせてごめんなさい」
 「お母さまは何も悪くない。だから謝らないで」
 会えた嬉しさともうこれ以上近づくことができない悲しさの感情が入り混じって涙が頬を伝う。
 涙を流しながらも母の気持ちに寄り添う娘の姿を見て、千鶴は小さく微笑んだ。
 「千冬……。ありがとう、強くなったのね」
 「昔は自分が強くなるなんて考えられなかった。灯璃さまがずっと傍にいてくれたおかげなの」
 「そう……。大切なひとができたのね」
 「はい」
 頷くと途端に桜吹雪が辺りを舞う。
 僅かな隙間から母が少しずつ遠ざかっていくのが見えた。
 「お母さま!待って!」
 手を伸ばして制止をしようとするが、その想いも虚しく、さらに桜吹雪が強くなって視界が悪くなる。
 「貴方に幸せな未来が訪れることを天から祈っているわ」
 その言葉を最後に千冬は眩い光に包まれた。

 「……っ」
 光が止む気配を感じてゆっくりと目を開けると見慣れた天井の木目が視界に入る。
 「千冬?」
 その声に視線だけを動かすと着物姿の灯璃が心配そうな表情でこちらを見ていた。
 「灯璃さま……。ここは鬼城家のお屋敷ですか?」
 「ああ。千冬は丸一日眠っていたんだ。気分はどうだ?」
 「少しだけ身体が痛いですが、わたしは大丈夫です。あっ!そ、それより詩乃さんや護衛の方たちは……!?」
 辺りを見渡すがお世話係の詩乃の姿が見えない。
 護衛の男性たちも屈強とはいえ、倒れていた光景を思い出すと不安で押し潰されそうになる。
 「落ち着け。詩乃たちなら大丈夫だ。鬼はそんなにやわではない。念のため休暇を与えているが明日には屋敷に戻る」
 「そう、ですか……。よかった……」
 胸を撫で下ろすと涙が出てきた。
 もし何かあったらと、ずっと彼女たちを案じていたので無事だということを灯璃から聞いて心の底から安心する。
 灯璃はそっと手を伸ばすと目尻に溜まった涙を拭ってくれた。
 落ち着いたところで、ふと継母たちや薫子のことを思い出す。
 あの出来事を思い浮かべるだけで怖くなるが、連行された彼女たちは今後どうなるのか興味に近いものが出てくる。
 「あの、嶺木家のひとたちや薫子さんは無事なのですか?」
 「千冬はあのような真似をされてまで彼女たちを心配するのか」
 「……」
 灯璃の言うことはもっともだ。
 継母たちには親愛の気持ちなど微塵もない。
 でも、頭のどこかでこれでも家族なのだと訴えかけているような気がして気にせずにはいられなかった。
 黙る千冬を見て灯璃は一度、目を伏せると口を開いた。
 「彼女たちは今、妖特務部隊が管理する牢屋にいる。花嫁である千冬を誘拐し、暴行を加えた罪は重い。正式な処遇はまだ決まっていないが、おそらく禁固刑になる。嶺木家は没落し、薫子は一族から追放されるだろう」
 「そうなのですね……」
 もう彼女たちに狙われることはないのだと安心すると同時に長い歴史がある嶺木家が無くなってしまうのだと少しだけ寂しくなる。
 ゆっくり布団から身体を起こすと灯璃は慌てて千冬を支える。
 「寝ていなくて大丈夫か?」
 「はい……」
 まだふらつきはあるが彼が肩に手を添えてくれているおかげで幾分か楽だ。
 千冬は胸の前に置いた手を握りしめると灯璃に頭を下げた。
 「灯璃さま、迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
 自分が原因で家同士を巻き込んだ大きな騒動を生み出してしまった。
 鬼の中で三番目に力をもつ鬼川家の娘が捕らえられたとなると、灯璃も対応に追われるだろう。
 それに実家の人間も関わっていると周囲に知られれば、灯璃の花嫁に本当に相応しいのかと疑いの目を向けられ、懸念を抱かれるかもしれない。
 こんな厄介ごとを起こす娘など嫌いになっただろうか。
 愛想を尽かして屋敷から出ていけと言われるだろうか。
 様々な想いが頭の中を巡り、灯璃の顔を直視できない。
 「千冬は何も悪くはないのだから謝る必要はない」
 「でも……!」
 「悪いのは私だ。千冬を守ると言ったのに誘拐された挙げ句、傷を負わせてしまった。本当にすまなかった」
 灯璃は声を震わせ、悔しそうに唇を噛む。
 初めて見る表情に千冬は胸が苦しくなった。
 (違う。わたしは灯璃さまのこんなお顔を見たいわけではない。もっと、いつもわたしを照らしてくれるような……)
 千冬はそっと灯璃の手に自分の手を重ねた。
 普段ならば自分から彼に触れるなど大胆な行動はしないのだが不思議と今は緊張しなかった。
 「謝らないでください。灯璃さまを想えば何も怖くはありませんでしたから」
 「千冬……。花嫁として君を選んでおいてなんだが私のような男にこれからもついてきてくれるか?」
 珍しく弱気な彼に千冬はしっかりと頷く。
 「もちろんです。わたしは恋という感情がこんなにも温かくて幸せなものだと灯璃さまに教えていただきましたから。これから先もずっとお傍にいたいです」
 わからなかった感情も灯璃と過ごすうちにいつの間にか芽吹いていたのだ。
 普通の令嬢ではない自分はこの先も、もしかしたら迷惑をかけてしまうかもしれない。
 でも願わずにはいられなかった。
 (貴方の隣がわたしで良いのなら、どうか……)
 徐々に灯璃の表情に笑顔が戻っていく。
 千冬の細い身体を引き寄せると耳元で囁く。
 「ありがとう。ただこれで満足してはいけないよ。私たちは今よりもっと幸せになるのだから」
 「……!はい、そうですね」
 千冬は灯璃の背中に腕を回す。
 外では少しずつ太陽が昇り、朝日が障子を透かして抱き合う二人を照らす。
 これからも灯璃と共にいられる喜びを噛みしめて千冬は花笑みを浮かべたのだった。