しばらくすると料理が乗った皿を使用人達が居間に運んできた。
 座卓に並び終え、目の前に広がる光景に息をのむ。
 美しく衣が纏った天ぷら、わかめと油揚げの味噌汁にほうれん草のごま和え、白く輝く白米。
 千冬も基本的な料理なら作れるがここまではできない。
 ふんわりと湯気が立ち放たれる香りから食欲がそそられる。
 嶺木家では酷い心労からか食欲も次第に失っていた。
 いつぶりだろう、空腹を感じるようになったのは。
 「美味しそう……」
 千冬の瞳に光が戻りポロリとこぼれた言葉を聞いて灯璃は微笑んだ。
 「さっそく食べよう」
 「い、いただきます」
 味噌汁の入ったお椀を持ち、一口飲むと出汁の旨味が広がっていく。
 じんわりと温かさが身体に染みわたり、その優しさに何故だか泣きそうになった。
 久しぶりの食事だからなのか理由はわからない。
 ただこの気持ちの名前が明確になる前に瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
 灯璃は料理人が作る料理に自信をもっていた。
 鬼城家ではかくりよ國にある老舗の高級料亭で修業を積んだ料理人が調理を担当している。
 花嫁を迎え入れることになったのは急だったはずなのに、この短い時間でこれだけの出来の料理は流石だと思った。
 料理が座卓に並べられたとき、千冬の瞳の輝きを見てこれは喜んでくれるに違いないと感想を待っていたのだが……。
 「……っ」
 予想とは真逆で千冬は涙を流しており灯璃はぎょっとした。
 近くに控えていた使用人達も顔を青ざめさせ『口に合わなかったのだろうか』『お気に召さなかったのでは……』と冷静さを失いつつあった。
 千冬も意思に反して流れる涙に驚き、すぐにお椀を置いて頬を手のひらで抑えた。
 「どうした、千冬」
 これはきっと周囲に勘違いをさせてしまうと「違うのです」という意味を込めて首を横に振った。
 「美味しくて……、何故か涙が勝手に……。申し訳ありません」
 料理が悪かったわけではないのだと知った灯璃と使用人達は安堵したように息をついた。
 止まれ、止まれと思うほど涙が溢れてしまう。
 (どうしよう)
 泣き止む気配を感じず困り果てたとき、温かさを感じると気づけば千冬は灯璃の腕の中にいた。
 箸を置き食事を中断させてまで寄り添ってくれているのだとわかり、僅かな隙間から灯璃の顔を見上げる。
 「あの、鬼城さま……。せっかくのお食事の時間なのに……」
 そこまで言ったところで言葉が途切れる。
 なぜなら灯璃が自身の人差し指を千冬の唇に押し当てているからだ。
 一瞬何が起きたのか分からず、初めての感覚にぴたりと涙が止まり驚きで身体が固まる。
 「次に謝ったら唇を塞ぐ」
 そっと唇の輪郭を撫でられ熱をはらんだ眼差しと声に煩いくらい鼓動が早鐘を打つ。
 すぐ近くに使用人達もいるというのに。
 ちらりと視線を移すと邪魔をしないようにと静かに居間から出て行くのが見えた。
 見られるのは恥ずかしいけれど、この状況から助け出してほしいとも思う。
 自分では全く意識していなかったのだけれどもしかしたら謝罪しすぎたのかもしれない。
 謝罪の言葉が軽くならないようにこれからは気をつけよう、と思うが自信はない。
 唇に触れられるのは抱きしめられるのとはまた違って耐えきれそうになかった。
 千冬は恥ずかしさの限界に達し必死にこくこくと頷く。
 「そんなに頷かれても私は悲しいけれど」
 灯璃は少し眉を下げ困ったように笑うと人差し指を離し千冬の頬に触れた。
 「涙は、止まったな」
 「は、い……」
 確かめるように涙痕に触れられ、そこで気がつく。
 灯璃なりの慰め方だったのだと。
 泣き虫な千冬はこれからも涙を流すことがあるかもしれない。
 その度にこの慰め方をされたら心臓がいくつあっても足りないだろう。
 でもこれは幸せな悩みなのかもしれない。
 「ありがとうございます、鬼城さま」
 「……!」
 瞳を潤ませ小さく微笑む千冬のあまりの可憐さに灯璃は息をするのを忘れた。
 こちらを見つめたままの灯璃を見てどうしたのだろうと不思議に思い、首を傾げる。
 影が落ちてきたかと思えば灯璃の顔が少しずつ近づいてきて……。
 (あ……)
 もしかしてと、はしたない想像をしてしまい覚悟が決められないまま、ぎゅっと瞳を閉じる。
 しかし数秒経っても唇には何の感触もなく千冬はそっと目を開ける。
 そこには灯璃の端麗な顔があり少し前に動けばもう触れてしまう距離だった。
 下手に動くと自分から口づけをしてしまいそうでその場で固まる。
 灯璃は自分がしようとした行動を反省するかのように目を伏せた後、千冬を抱きしめた。
 「驚かせてしまってすまない。千冬がとても愛らしくて」
 「あ、の……」
 低く甘い声が鼓膜に届き、頬に熱をもつのが分かった。
 居間には千冬と灯璃の着物が擦れ合う音だけ。
 「必ず千冬を大切にすると約束する」
 灯璃とは今日、出逢ったばかりなのにこうして触れられるのは不思議と嫌ではなかった。
 この数時間で少しだけ彼の人となりを知れたような気がする。
 千冬にはまだ灯璃への恋愛は生まれていないけれど、傍にいることが彼の願いなら命を救ってくれた恩返しがしたい。
 鍛えられた逞しい腕に抱かれる中、しばらく二人は食事を忘れ、愛おしい時間に浸っていた。

 数分間、灯璃の腕に包まれていたので案の定、食事は冷めてしまった。
 せっかくの料理なのに悪かった、と灯璃は謝っていたが千冬は気にしてなどいなかった。
 人から愛されることがこんなにも幸せなのだと、もう少しこのままでいたいという思いのまま、身体を委ねていた。
 使用人達は作り直すと言ってくれたが冷えていても十分美味しくて、全て残さずに食べきった。
 嶺木家でゆったりと食事をするなんて出来なかった。
 継母達の機嫌が悪ければ朝から空気を切り裂くような声が屋敷中に響き、手が空いたときを見計らって残り物を口に放り込むような習慣だった。
 今はそれがまるで嘘のように思える。
 空になった食器を見ながら心まで満たされる千冬なのだった。

 食後のお茶を飲みながら灯璃と他愛のない話をしていると詩乃が「失礼致します」と一声かけ、襖を開けた。
 詩乃の後ろには灯璃の秘書、蓮司もいる。
 二人が食事をしている間、詩乃と打ち合わせをしていたそうだ。
 『妖特務部隊』の勤務日程の管理、分家との連絡など定期的に確認しているらしい。
 「灯璃さま、千冬さま。お風呂の準備が整いました」
 「助かる。千冬、先に入っておいで」
 「でも……」
 身体は温かいが手足の末端は冷たいので勧めてくれるのは正直嬉しい。
 しかしこの屋敷のあるじより先に入浴して良いのかと躊躇ってしまう。
 きっと嶺木家に関わらずどの家もそうだ。
 「遠慮はするな。この時間はさらに冷える。風邪をひいたら大変だ」
 確かに灯璃の言うとおりで風邪をひいたら迷惑をかける。
 幼い頃から身体が弱い千冬はよく体調を崩していたので鬼城家で暮らすと決めたときに、これからはさらに気をつけなければと心に誓った。
 「……ありがとうございます。お先にいただきます」
 せっかく勧めてくれているのに断るのは申し訳なくなり灯璃の優しさに甘えることにし頭を下げた。
 「ああ。ゆったり入ってくるといい」
 千冬は頷くと席から立ち上がり詩乃と共に居間から出て行った。

 「こちら長襦袢になります」
 風呂場に着くと詩乃から畳まれた長襦袢を渡される。
 脱衣所は広々としており隣の浴槽から鼻に抜けるような香りがした。
 「ありがとうございます。あの、この香りは?」
 あまり嗅ぎ慣れない香りに疑問を抱く。
 「今夜は薬湯にいたしました。お疲れの身体によく効きますよ。……もしかして薬湯は苦手でいらっしゃいますか?」
 にこやかに説明していた詩乃も話の途中で千冬は薬湯が苦手なのかもしれないと思ったようで不安げな顔をしている。
 詩乃の気持ちを汲み取った千冬はすぐに首を横に振った。
 「いえ、そんなことないです。お気遣いありがとうございます」
 千冬の言葉に詩乃は胸を撫で下ろすと風呂場に視線を移す。
 「こちらにある物は全てご自由にお使いいただいて構いません。では私はこれで、何かありましたらお声掛けください」
 上等な髪洗い粉や粉石けんなど必要な物が揃っている。
 今まであまり髪のお手入れなど気にする余裕がなかったので、とてもありがたい。
 詩乃が脱衣所から出て行くと千冬はお仕着せ服を脱ぎ始めた。

 髪と身体を洗い、薬湯に浸かる。
 「気持ちいい……」
 ちょうど良い温度でじんわりと芯から温まった。
 ふわりと立ち上る湯煙を見ながら怒濤の一日を振り返る。
 (嶺木家を出てきて、川に身を投げ入れて死のうと思ったら鬼城さまに助けられて。美味しい食事にお風呂まで……)
 あやかしの、まさか鬼の花嫁になるなんて今朝には考えられなかった。
 (今日はお食事もお風呂の準備も皆さんにお任せしてしまったけれど明日からはわたしも手伝おう。それに鬼城さまも頼みたいことがあると仰っていたし……)
 自分が何か役に立てることがあるとすれば家事くらい。
 今までの生活習慣が悪かったせいで少しだけ身体がだるいが我慢をしていればそのうち平気になるはず。
 それにもうここは嶺木家ではないのだから。
 (家のことも鬼城さまになんて言えば良いのかしら)
 今日は誤魔化すようなかたちになってしまったがいつかはきちんと伝えなければいけない。
 それにもし継母達が自分たちが虐げてきた娘があやかしの頂点である鬼の花嫁に選ばれたらどのような反応をするのだろう。
 選ばれた花嫁の実家にはあやかしの家から多額の結納金と恩恵が与えられる。
 それに嶺木家は喜ぶのかもしくは……。
 あの人たちなら、どんな手段も問わないだろう。
 最悪の自体を想像してしまい、湯面には怯える千冬の顔が映っていた。