回廊の途中で、リランは足を止めて柱の向こうを見た。
この後宮では、妃のほとんどが石棺の中で眠っている。
後宮を出歩いているのは獣僕と呼ばれる、獣の特徴を持った無性の従者たちだった。獣僕たちは眠る妃たちの部屋の掃除をしたり、飾られた花の手入れをしたりして過ごしている。
白い豹の耳と尻尾を持つ獣僕が、回廊の先でリランに一礼した。
けれど弟のカイに生き写しの顔立ちをした獣僕は、今日もリランと口を利くつもりはないらしい。
彼はぷいとリランから顔を背けると、素早く回廊の先へと駆けて行った。
本を閉じて、リランは窓の外を見やった。
(そろそろ夜かしら)
窓からは月も太陽も見えないが、先ほどから段々と暗くなっているのがわかる。
(大人しくしてなきゃ、部屋付きの獣僕さんたちに恥をかかせてしまうわ)
後宮で目を覚まして一月、リランは本を読んで勉学に励んできた。獣僕たちはほとんどリランと話をしてくれないから、本が友達のようだった。
リランの村には先生となるような人がいたから、リランはかろうじて読み書きができる。新しいことを知るのは何だって楽しいと思う。
妃としての立ち居振る舞い、獣僕への言葉のかけ方、そういったことはひととおり本に書いてあった。
リランはむずかゆそうな顔をしてつぶやいた。
「出かけてみたいわ……」
とはいえリランは体を動かすのが本を読む以上に好きで、どこかへ走り出すときを今か今かと待っていた。
チュンヒが吸い込まれ、リランを吞み込みかけた霧は、外界から流れ込んだものだと後で本を読んで知った。空中楼閣の外はそういった霧が満ちていて、魔鬼の元に連れて行くらしい。
魔鬼への恐ろしさは忘れていない。だからリランは後宮の外に出るのはためらう。
「……一緒にお茶が飲みたい」
それよりチュンヒと過ごしたように、他の妃や獣僕たちと仲良くお茶が飲みたい。
立ち上がって部屋の中をうろうろとしながら、リランはいい考えが浮かばないかと思いを巡らせていた。
そんなとき廊下から誰かの声が聞こえてきて、リランは首を傾げる。
(子どもの声?)
リランがそっと扉を開くと、そこでうずくまっている獣僕の少女をみつける。
「うわぁぁん……」
年齢は七歳程度だろうか。小さな体に紺色の衣装を着て、袖口でごしごしと目を擦っている。
前へ進んだり後ろへ戻ったりしてその場をぐるぐると回っている少女が心配になって、リランはなるべく優しく問いかけた。
「あの、どうされたのですか?」
その瞬間、少女がびっくりして顔を上げる。
「ごめんなさいぃ……!」
「あっ、そっちはだめです!」
少女は逃げるように走り出し、ゴチンと壁に激突する。
壁に沿って倒れこむ少女に慌てて駆け寄って、リランはそっと助け起こした。
「大丈夫ですか? ああ、たんこぶが出来て」
「ううう、ごめんなさい……」
よしよしと頭を撫でて、リランは初めて少女を見つめる。
(まあ……)
彼女は淡く柔らかそうな赤髪に、大きな金の瞳をしていた。
そしてリランの目を何より引いたのは、子犬のように垂れ下がった耳と、ふさふさした長い尻尾だった。
少女は驚いた様子のリランに首を傾げる。
「ふぇ?」
リランはうっとりと少女の姿に見惚れていた。屈みこんで視線を合わせながら、リランは垂れ下がった淡い茶色の耳を撫でて問いかける。
「どうなさいました。迷子ですか?」
「あ、はいっ。そうなのですよ!」
ぱたぱたと忙しく尻尾を動かして、少女はリランに詰め寄った。
「私はメイファというのです。道に迷って、ぐるぐるしていたらこんなところにいたです……」
「そうですね。薄暗くて複雑な廊下ですものね」
リランもこの空中楼閣の中をたびたび歩いたが、時々自分の部屋がわからなくなってしまうくらい薄暗くて入り組んでいた。
メイファは自分を奮い立たせるように首を横に振る。
「でもお仕事、ちゃんとするです。主のお側に行けないようじゃ、獣僕失格です」
幼いながらも必死で丁寧な言葉を使おうとするメイファに、リランは微笑ましくなった。
メイファは耳をぴくりと反応させて、慌ててリランに振り向く。
「……はっ。こうしてはいられないです。あ、アイシラ様の宮はどこですか?」
「アイシラ様?」
リランはその名前を聞いて、チュンヒの言葉を思い出す。
チュンヒは、後宮で暮らしていくには「アイシラ」の怒りに触れてはいけないと言っていた。
(きっと手厳しい大家さんみたいな方なのだわ……)
それを聞いていたから、リランは彼女に近寄るのをためらっていた。
アイシラの宮の場所は一応獣僕たちに教えてもらっている。ちらりとメイファを見下ろすと、金の瞳が期待に満ちてきらきらと輝いている。
リランはくすんと涙を呑んで思う。
(小さい子をがっかりさせるなんて、できない……!)
リランは拳を握りしめると、その手でメイファの手を優しく包む。
「わかりました。一緒に行きましょう」
「ありがとうです!」
手を引くリランに、メイファはもう片方の手を挙げて答える。
ぽてぽてと歩くメイファの歩幅に合わせながら、リランは後宮の深部に下り始めた。
後宮は螺旋を描くように下へ下へと続いている。気まぐれのように廊下が枝分かれしていて、迷路のような構造だった。
リランは入り組んだ廊下を何度も曲がり、それ以上に下って、ようやく一つの扉の前へと辿り着く。
(わぁ……)
そこには城塞の門のような、巨大で重々しい扉があった。鈍色に、幾重にも描かれた紋様が映えている。
メイファはリランの前に立つと、扉を見上げて告げる。
「アイシラ妃の獣僕……メイファが戻りましたですよ。開けてください」
メイファが呼びかけると、扉は内側から開き始めた。
蝶つがいの掠れる音が歪曲した天井に響いた。
けれど開かれた扉の内には誰もいなかった。そこは何もかも黒い鉄で作られていて、壁も天井も黒く塗りつぶされた、重々しい雰囲気の住処だった。
「初めまして、リランと申します。アイシラ様はいらっしゃいますか?」
リランもあいさつをして待ったが、返答はない。
「あ、メイファさん」
そうしているうちに、メイファは慣れたように先に歩いていく。
部屋はずいぶん広いが、何枚もの衝立に衣装が干されていて見通しが悪い。赤、青、金糸、様々な色で縫い取りのされた鮮やかな衣が蝶のように袖を広げているが、窓がどこにもないせいで空気が淀んでいた。
リランは衣の隙間に見えた衝立を見て喉の奥が冷える。衣で覆われてはっきりと見えないが、それは子どもの頃本で見た地獄の光景に似ていた。地底から上りゆく炎に生き物が焼かれる、残酷な絵だった。
どうしてこんなところに迷いこんでしまったのだろう。ふとリランがわからなくなったとき、衝立の向こうでメイファの声が聞こえた。
「メイファが戻って来たですよ。アイシラさま……!」
その声は喜色に満ちていて、リランはそちらに足を向ける。
衣の掛かった衝立は無秩序に並び、辺りはまるで迷路のようだった。その合間をくぐりぬけて、リランはメイファのところに辿り着く。
そこは衝立に囲まれて、小部屋のようだった。食器や茶器が並び、寝台も置かれている。
「いつ見てもアイシラさまが一番お美しいです……!」
……けれどそこに人の姿はなく、メイファは衝立に描かれた女性に寄り添って笑っていた。
絵の女性は華奢でたおやかな手足を持っていて、天女のようだった。元々生きた者ではなかったのか……あるいは生きていけなかった者なのか、リランには見分けがつかなかった。
リランは狂った獣僕の少女を前に、哀しみに包まれる。
「メイファさん……」
獣僕は動物と混じることで肉体を強くするが、そのせいで心を狂わせてしまう者が多くいると聞く。
(眠る妃と狂った獣僕たちの住むここは、螺旋に落ちた世界のようね)
リランは目を伏せて、無理やりに哀しみを呑み込んだ。
メイファまでたった数歩、それなのにずいぶんと遠くに彼女を感じた。この世に存在しない者に目を輝かせ、愛をささやくメイファは、もうこの世の者ではないようにも見える。
それでもリランはメイファに歩み寄って、手を差し伸べながら言った。
「……メイファさん、ここから出ましょう」
メイファは不思議そうに首を傾げる。リランの言葉を理解できなかったのか、問い返すこともしなかった。
「私も百年先の世界に来たと、理解できないでいます。でも少なくとも私は、メイファさんとお茶が飲めますよ」
手を差し出したまま、リランはメイファに言う。
「私とお茶を飲んで、アイシラ様との思い出を私に話してくれませんか?」
メイファはちらりとリランの手に視線を落とした。何かの意図があってそうしたというより、小さな子どもがふいに動きたがるような、そんなささやかな仕草だった。
リランの部屋の前まで迷い込んだように、メイファはまだ小さな命の脈動を持っている。リランはそう信じて、一歩メイファに近づいてその手に触れようとした。
そのとき、鐘の音が響き始めた。夜を告げる重々しい鐘の音は、断罪するように地底から響いて来る。
鐘に重なるようにして、リランの耳に一つの声が飛来する。
「……ワタシの獣僕を盗ムのか?」
リランはその声をどこかで聞いたことがあった。体の芯を凍らせるような冷たい響きには覚えがあった。
(魔鬼と同じ……。この方、魔鬼と混じったのだわ)
けれど声がどこから聞こえるのかがわからない。警告のように鳴り続ける鐘と同じで、それは四方からリランを追い詰めるように降り注いだ。
「嫌イ……嫌イ……綺麗な衣ニハ、虫がツク」
「……アイシラさま」
メイファはその声をそう呼んで、うっとりと聞き惚れたようだった。メイファは手を組んで祈るように告げる。
「アイシラさまはこの世の何者より美しいです……」
「嘘をツクな……獣僕は嘘ばかりツク」
この世の憎しみをすべて詰め合わせたような声で、それはメイファの言葉を切り捨てる。
「汚イ……汚イ……どうシタら綺麗にナル? ……あァ、そうダ」
辺り一面に声は反響し、歪曲して、やがて怒声となった。
「衣ゴト燃えてシマえ……!」
それは一瞬の出来事で、リランは目で確かめる前にメイファを引き寄せて庇っていた。
今までメイファが触れていた衣に、火が灯って燃え上がった。
「……走って! ここから出るんです!」
リランはメイファの手を引いて走り出す。
炎は見る間に他の衣に燃え移って、天井まで焦がし始めていた。
「う……!」
けれど扉の方にも炎は先回りしていた。リランは無理やり足を止められて息を呑む。
炎の中に、黒い蛇がうごめいて衣を食い散らしていた。いつか見た地獄絵図の再来に、リランは百年前も村を襲った恐ろしさを思い出す。
じりじりと壁まで追い詰められて、リランは背中にメイファを庇いながら冷や汗を流す。
鉄の壁には窓が見当たらず、突破できる出口は見当たらない。
けれど一瞬突き上げるような地響きがあって、リランは微かな風の流れを感じる。
「リラン、降りてきて! 受け止めます!」
リランの聞き間違えでなければ、それはたまらなく懐かしい声だった。
「……カイ」
死が目前に迫ったための幻聴かもしれない。けれど今は他に助かる方法が浮かばない。
「えい!」
リランは思いきって衝立を押しやり、微かな風の漏れる壁を蹴り飛ばした。
隠し扉だったのか、そこには地底へ続く風穴が空く。
「メイファさん、下へ行きましょう!」
リランがメイファの手を取ろうとすると、メイファはその手をするりと避けた。
リランはその行為の意味を知って息を呑む。メイファは微笑みながら首を横に振った。
「……メイファはずっと、アイシラさまの側にいます」
「いけません!」
「憎しみも哀しみも呑み込んできた、美しい方のもとに……」
メイファはふっと見えないものを見る目で虚空を眺めた。
「……あなたのことも、アイシラさまの次に好きでしたけど」
リランが手を伸ばすより前に、メイファはリランを穴に向かって突き飛ばした。
虚空をかいたリランの指の先で、メイファは微笑む。
炎の中に包まれて行くメイファの姿を最後に、リランは闇の中に落ちていった。
この後宮では、妃のほとんどが石棺の中で眠っている。
後宮を出歩いているのは獣僕と呼ばれる、獣の特徴を持った無性の従者たちだった。獣僕たちは眠る妃たちの部屋の掃除をしたり、飾られた花の手入れをしたりして過ごしている。
白い豹の耳と尻尾を持つ獣僕が、回廊の先でリランに一礼した。
けれど弟のカイに生き写しの顔立ちをした獣僕は、今日もリランと口を利くつもりはないらしい。
彼はぷいとリランから顔を背けると、素早く回廊の先へと駆けて行った。
本を閉じて、リランは窓の外を見やった。
(そろそろ夜かしら)
窓からは月も太陽も見えないが、先ほどから段々と暗くなっているのがわかる。
(大人しくしてなきゃ、部屋付きの獣僕さんたちに恥をかかせてしまうわ)
後宮で目を覚まして一月、リランは本を読んで勉学に励んできた。獣僕たちはほとんどリランと話をしてくれないから、本が友達のようだった。
リランの村には先生となるような人がいたから、リランはかろうじて読み書きができる。新しいことを知るのは何だって楽しいと思う。
妃としての立ち居振る舞い、獣僕への言葉のかけ方、そういったことはひととおり本に書いてあった。
リランはむずかゆそうな顔をしてつぶやいた。
「出かけてみたいわ……」
とはいえリランは体を動かすのが本を読む以上に好きで、どこかへ走り出すときを今か今かと待っていた。
チュンヒが吸い込まれ、リランを吞み込みかけた霧は、外界から流れ込んだものだと後で本を読んで知った。空中楼閣の外はそういった霧が満ちていて、魔鬼の元に連れて行くらしい。
魔鬼への恐ろしさは忘れていない。だからリランは後宮の外に出るのはためらう。
「……一緒にお茶が飲みたい」
それよりチュンヒと過ごしたように、他の妃や獣僕たちと仲良くお茶が飲みたい。
立ち上がって部屋の中をうろうろとしながら、リランはいい考えが浮かばないかと思いを巡らせていた。
そんなとき廊下から誰かの声が聞こえてきて、リランは首を傾げる。
(子どもの声?)
リランがそっと扉を開くと、そこでうずくまっている獣僕の少女をみつける。
「うわぁぁん……」
年齢は七歳程度だろうか。小さな体に紺色の衣装を着て、袖口でごしごしと目を擦っている。
前へ進んだり後ろへ戻ったりしてその場をぐるぐると回っている少女が心配になって、リランはなるべく優しく問いかけた。
「あの、どうされたのですか?」
その瞬間、少女がびっくりして顔を上げる。
「ごめんなさいぃ……!」
「あっ、そっちはだめです!」
少女は逃げるように走り出し、ゴチンと壁に激突する。
壁に沿って倒れこむ少女に慌てて駆け寄って、リランはそっと助け起こした。
「大丈夫ですか? ああ、たんこぶが出来て」
「ううう、ごめんなさい……」
よしよしと頭を撫でて、リランは初めて少女を見つめる。
(まあ……)
彼女は淡く柔らかそうな赤髪に、大きな金の瞳をしていた。
そしてリランの目を何より引いたのは、子犬のように垂れ下がった耳と、ふさふさした長い尻尾だった。
少女は驚いた様子のリランに首を傾げる。
「ふぇ?」
リランはうっとりと少女の姿に見惚れていた。屈みこんで視線を合わせながら、リランは垂れ下がった淡い茶色の耳を撫でて問いかける。
「どうなさいました。迷子ですか?」
「あ、はいっ。そうなのですよ!」
ぱたぱたと忙しく尻尾を動かして、少女はリランに詰め寄った。
「私はメイファというのです。道に迷って、ぐるぐるしていたらこんなところにいたです……」
「そうですね。薄暗くて複雑な廊下ですものね」
リランもこの空中楼閣の中をたびたび歩いたが、時々自分の部屋がわからなくなってしまうくらい薄暗くて入り組んでいた。
メイファは自分を奮い立たせるように首を横に振る。
「でもお仕事、ちゃんとするです。主のお側に行けないようじゃ、獣僕失格です」
幼いながらも必死で丁寧な言葉を使おうとするメイファに、リランは微笑ましくなった。
メイファは耳をぴくりと反応させて、慌ててリランに振り向く。
「……はっ。こうしてはいられないです。あ、アイシラ様の宮はどこですか?」
「アイシラ様?」
リランはその名前を聞いて、チュンヒの言葉を思い出す。
チュンヒは、後宮で暮らしていくには「アイシラ」の怒りに触れてはいけないと言っていた。
(きっと手厳しい大家さんみたいな方なのだわ……)
それを聞いていたから、リランは彼女に近寄るのをためらっていた。
アイシラの宮の場所は一応獣僕たちに教えてもらっている。ちらりとメイファを見下ろすと、金の瞳が期待に満ちてきらきらと輝いている。
リランはくすんと涙を呑んで思う。
(小さい子をがっかりさせるなんて、できない……!)
リランは拳を握りしめると、その手でメイファの手を優しく包む。
「わかりました。一緒に行きましょう」
「ありがとうです!」
手を引くリランに、メイファはもう片方の手を挙げて答える。
ぽてぽてと歩くメイファの歩幅に合わせながら、リランは後宮の深部に下り始めた。
後宮は螺旋を描くように下へ下へと続いている。気まぐれのように廊下が枝分かれしていて、迷路のような構造だった。
リランは入り組んだ廊下を何度も曲がり、それ以上に下って、ようやく一つの扉の前へと辿り着く。
(わぁ……)
そこには城塞の門のような、巨大で重々しい扉があった。鈍色に、幾重にも描かれた紋様が映えている。
メイファはリランの前に立つと、扉を見上げて告げる。
「アイシラ妃の獣僕……メイファが戻りましたですよ。開けてください」
メイファが呼びかけると、扉は内側から開き始めた。
蝶つがいの掠れる音が歪曲した天井に響いた。
けれど開かれた扉の内には誰もいなかった。そこは何もかも黒い鉄で作られていて、壁も天井も黒く塗りつぶされた、重々しい雰囲気の住処だった。
「初めまして、リランと申します。アイシラ様はいらっしゃいますか?」
リランもあいさつをして待ったが、返答はない。
「あ、メイファさん」
そうしているうちに、メイファは慣れたように先に歩いていく。
部屋はずいぶん広いが、何枚もの衝立に衣装が干されていて見通しが悪い。赤、青、金糸、様々な色で縫い取りのされた鮮やかな衣が蝶のように袖を広げているが、窓がどこにもないせいで空気が淀んでいた。
リランは衣の隙間に見えた衝立を見て喉の奥が冷える。衣で覆われてはっきりと見えないが、それは子どもの頃本で見た地獄の光景に似ていた。地底から上りゆく炎に生き物が焼かれる、残酷な絵だった。
どうしてこんなところに迷いこんでしまったのだろう。ふとリランがわからなくなったとき、衝立の向こうでメイファの声が聞こえた。
「メイファが戻って来たですよ。アイシラさま……!」
その声は喜色に満ちていて、リランはそちらに足を向ける。
衣の掛かった衝立は無秩序に並び、辺りはまるで迷路のようだった。その合間をくぐりぬけて、リランはメイファのところに辿り着く。
そこは衝立に囲まれて、小部屋のようだった。食器や茶器が並び、寝台も置かれている。
「いつ見てもアイシラさまが一番お美しいです……!」
……けれどそこに人の姿はなく、メイファは衝立に描かれた女性に寄り添って笑っていた。
絵の女性は華奢でたおやかな手足を持っていて、天女のようだった。元々生きた者ではなかったのか……あるいは生きていけなかった者なのか、リランには見分けがつかなかった。
リランは狂った獣僕の少女を前に、哀しみに包まれる。
「メイファさん……」
獣僕は動物と混じることで肉体を強くするが、そのせいで心を狂わせてしまう者が多くいると聞く。
(眠る妃と狂った獣僕たちの住むここは、螺旋に落ちた世界のようね)
リランは目を伏せて、無理やりに哀しみを呑み込んだ。
メイファまでたった数歩、それなのにずいぶんと遠くに彼女を感じた。この世に存在しない者に目を輝かせ、愛をささやくメイファは、もうこの世の者ではないようにも見える。
それでもリランはメイファに歩み寄って、手を差し伸べながら言った。
「……メイファさん、ここから出ましょう」
メイファは不思議そうに首を傾げる。リランの言葉を理解できなかったのか、問い返すこともしなかった。
「私も百年先の世界に来たと、理解できないでいます。でも少なくとも私は、メイファさんとお茶が飲めますよ」
手を差し出したまま、リランはメイファに言う。
「私とお茶を飲んで、アイシラ様との思い出を私に話してくれませんか?」
メイファはちらりとリランの手に視線を落とした。何かの意図があってそうしたというより、小さな子どもがふいに動きたがるような、そんなささやかな仕草だった。
リランの部屋の前まで迷い込んだように、メイファはまだ小さな命の脈動を持っている。リランはそう信じて、一歩メイファに近づいてその手に触れようとした。
そのとき、鐘の音が響き始めた。夜を告げる重々しい鐘の音は、断罪するように地底から響いて来る。
鐘に重なるようにして、リランの耳に一つの声が飛来する。
「……ワタシの獣僕を盗ムのか?」
リランはその声をどこかで聞いたことがあった。体の芯を凍らせるような冷たい響きには覚えがあった。
(魔鬼と同じ……。この方、魔鬼と混じったのだわ)
けれど声がどこから聞こえるのかがわからない。警告のように鳴り続ける鐘と同じで、それは四方からリランを追い詰めるように降り注いだ。
「嫌イ……嫌イ……綺麗な衣ニハ、虫がツク」
「……アイシラさま」
メイファはその声をそう呼んで、うっとりと聞き惚れたようだった。メイファは手を組んで祈るように告げる。
「アイシラさまはこの世の何者より美しいです……」
「嘘をツクな……獣僕は嘘ばかりツク」
この世の憎しみをすべて詰め合わせたような声で、それはメイファの言葉を切り捨てる。
「汚イ……汚イ……どうシタら綺麗にナル? ……あァ、そうダ」
辺り一面に声は反響し、歪曲して、やがて怒声となった。
「衣ゴト燃えてシマえ……!」
それは一瞬の出来事で、リランは目で確かめる前にメイファを引き寄せて庇っていた。
今までメイファが触れていた衣に、火が灯って燃え上がった。
「……走って! ここから出るんです!」
リランはメイファの手を引いて走り出す。
炎は見る間に他の衣に燃え移って、天井まで焦がし始めていた。
「う……!」
けれど扉の方にも炎は先回りしていた。リランは無理やり足を止められて息を呑む。
炎の中に、黒い蛇がうごめいて衣を食い散らしていた。いつか見た地獄絵図の再来に、リランは百年前も村を襲った恐ろしさを思い出す。
じりじりと壁まで追い詰められて、リランは背中にメイファを庇いながら冷や汗を流す。
鉄の壁には窓が見当たらず、突破できる出口は見当たらない。
けれど一瞬突き上げるような地響きがあって、リランは微かな風の流れを感じる。
「リラン、降りてきて! 受け止めます!」
リランの聞き間違えでなければ、それはたまらなく懐かしい声だった。
「……カイ」
死が目前に迫ったための幻聴かもしれない。けれど今は他に助かる方法が浮かばない。
「えい!」
リランは思いきって衝立を押しやり、微かな風の漏れる壁を蹴り飛ばした。
隠し扉だったのか、そこには地底へ続く風穴が空く。
「メイファさん、下へ行きましょう!」
リランがメイファの手を取ろうとすると、メイファはその手をするりと避けた。
リランはその行為の意味を知って息を呑む。メイファは微笑みながら首を横に振った。
「……メイファはずっと、アイシラさまの側にいます」
「いけません!」
「憎しみも哀しみも呑み込んできた、美しい方のもとに……」
メイファはふっと見えないものを見る目で虚空を眺めた。
「……あなたのことも、アイシラさまの次に好きでしたけど」
リランが手を伸ばすより前に、メイファはリランを穴に向かって突き飛ばした。
虚空をかいたリランの指の先で、メイファは微笑む。
炎の中に包まれて行くメイファの姿を最後に、リランは闇の中に落ちていった。