あれから三年が経過した。
俺と天音は無事に高校を卒業し、県外の大学に通うからと二人そろって家を出た。
とは言っても通うのは天音だけで、俺はそうではないが……。
あの日、全てが終わったあの日。
全てが始まったあの日。
ヤマザクラの花言葉のように、俺に微笑むあの死神は、俺の中から姿を消した。
未来が変わった結果、世界から修正されたのだ。
そんなことを死神本人が影の中で言っていた。
天音に聞かれると嫉妬されるので大っぴらには言えないが、あの時俺は死神を抱きしめてあげたかった。
あまりにも不憫だったから。
覚悟をもって未来を変えるために過去にやって来て、誰からも祝福されないまま消えていくなんてあんまりだと思ったから。
「たまには手でも合わせるか」
俺は寝室に活けられた桜の木の枝を眺める。
どういうわけかこの枝葉は枯れる気配がない。
「もしかしたら本当にここに宿っているのかい?」
「なんのこと?」
隣で寝ていた天音が尋ねてきた。
ベージュのキャミソールを着込み、薄手の毛布にくるまっている。
「何でもないよ」
俺たちはいま一緒に暮らしている。
学生が住むには無駄に豪華なマンション。
オートロック付きの高級マンションの最上階。
そこが俺と天音の住処となっている。
どうしてこんな場所に住めるのかと聞かれれば、それは俺の稼ぎが良いからとしか言いようがない。
死神が消えたあの日から、俺の耳は徐々にピアノの音を取り戻したのだ。
ピアノの音が聞こえてくるたびに、死神の呪いが解けていくのを感じた。
大きな喜びと一抹の寂しさと、それらが同時に胸に押し寄せてくる。
三年前の初夏、死神は去り、呪いも解けて、俺は日常を取り戻したのだ。
「そろそろ行かなくていいの? 今日は大事な演奏会でしょ!」
気がつけば着替えを済ました天音が立っていた。
「ああ、行こうか!」
今日は例のコンサートホールでの演奏会。
季節は同じく桜の舞う春。
あの日は制服で一緒に来ていた天音も、今日は違う。
白い長袖のワンピースに、ベージュのサンダルという出で立ち。
彼女はここ三年間でさらに成長した。
ただでさえ整っていた容姿はさらに洗練され、大学でも声をかけられることが多いそうだ。
「下に黒井さんが車を回してるって」
天音はスマホをチェックする。
マネージャーは相変わらず黒井さんが担当のままだ。
これは俺と天音からお願いしたことだった。
彼は常に俺たちと一定の距離を保ち続けた人物だ。
つまり信用が置ける。
俺たちに何があっても、彼だけはずっと変わらずい続けてくれるだろう。
「あんまり待たせても悪いし、急ごう」
俺は天音の手を取り、異様に待ち時間の長いエレベーターのボタンを押す。
「大丈夫?」
天音は心配そうに俺の顔を覗き込む。
それだけ俺がソワソワしているのだろうか?
彼女を心配させる程度には、落ち着きがないらしい。
「まあ流石にあれから一度も訪れていないからな」
俺は音を取り戻してから、再び音楽活動を再開した。
メディアは復活の天才ピアニストとして俺を取り上げたが、前のような嫌悪感は抱かなかった。
好きに言わせておこうと思える程度には、俺にも余裕が生まれていた。
そうして死神に呪われる前の生活に戻りつつあった俺だが、例のコンサートホールでの演奏だけは一度も受けなかった。
何度もそういう話は来た。
復活記念の演奏会なら、あの場所ほど相応しい場所はないと、しつこいぐらいにオファーがあったが、俺自身がそれを頑なに断った。
俺にはまだ覚悟がなかったのだ。
勇気がなかった。
再び音を失うのではないかという、漠然とした不安があった。
頭ではあり得ないことは分かっている。
だがそれでも、呪いが解けたばかりの俺には恐ろしい場所だったのだ。
「大丈夫だって! また死神が後ろに立ってたら、今度は私が止めに入るから」
「洒落になってないぞ」
俺たちは二人そろって笑い出す。
一気に気持ちが軽くなった。
そうだ。
冗談でも、彼女が今度は止めてくれるのだそう。
天音が呪いを止めてくれる。
「ほら行くぞ」
俺たちはケラケラと笑いながら、エレベーターに乗って下に降りた。
無駄に豪勢なエントランスを出た俺は、空を見上げる。
自分たちの住んでいる最上階よりもっと上。
空は雲一つない晴天、青々とした春のキャンパスに時折桜の花が舞う。
俺たちが数ある高級マンションの中からここを選んだのは、ここに桜の木が生えているからだ。
それも大量に。
エントランスの両側を数え切れないほどの桜の木が覆い、敷地の外からではエントランス部分が見えないほど。
だから……。
「ねえ真希人?」
「うん?」
呼ばれた俺は振り向き、彼女に唇を奪われる。
部屋以外で唯一カメラの届かないこの場所は、天音がよく仕掛けてくる。
「行ってらっしゃいのキスのつもり?」
「本来は玄関でやるんだろうけどね、今回は私も一緒に行くし、春だし!」
最後のは理由になっていない気がするが、ここでまた指摘するとさらにめんどくさいことになる。
「ほら行くぞ。いい加減、黒井さんが怒るかもしれない」
そう言って俺たちは黒井さんが待つ車に乗り込んだ。
コンサートホールに到着した俺たちは、そそくさと裏口から中に侵入し、スタッフと挨拶を交わすて控え室に入る。
「真希人、着替え終わった?」
俺が入って数分後、控室のドアをノックする音と共に、天音の声がした。
「ああ終わったぞ。ていうか別に一緒にいれば良いじゃないか」
いまさら恥ずかしがる事なんて無いだろう?
一緒に住んでいるのだから。
「ダメだよ。そういうのはちゃんと線引きしないと、どんどんマンネリ化しちゃうんだからね!」
天音から随分と大人な指摘が入る。
まだ高校卒業したばかりのくせに、マンネリの心配なんかするのか。
「そういえばアイツらも来てるんだっけ?」
天音に確認する。
「うん。今日は記念だからって」
「アイツらにとってみれば別に記念でも無いだろうに」
「でもあれじゃない? 私たちが分かりあうきっかけにはなったから」
「まあそうか……」
俺は納得して演奏の準備に取り掛かる。
準備と言っても心の準備ぐらいなものだが……。
今日は当時のクラスメイト数人と、楽辺&西条カップルが聴きに来る。
彼らにとってみれば、この演奏会は特別な意味があるんだとさ。
「先生は?」
「清水先生は今日来れないって。受け持ったクラスの問題がどうとかって言ってたよ」
本当は清水先生も来る予定だったのだが、仕事となれば仕方がない。
あれだけ静観を是とする先生を動かすほどの事態なのだから、問題は根深そうだな。
俺たちが言えたことでもないけれど……。
清水先生とは時折会っている。
どこまでいっても彼は俺たちの恩人。
文字通り命の恩人なのだ。
そんなこんなで騒いでいると、演奏会の時間が差し迫ってきた。
空気を読んでか、天音は一度黙って退出する。
いつもそう。
演奏会前は一人になる。
前までは一人になるのは当たり前だった。
むしろそれが普通だった。
だけど今は違う。
俺が本当に一人になるのはこの時だけ。
「親父、俺はアンタのようにはならなかったぜ? 俺は呪いを破った。一番感謝しているのは清水先生だけどさ、俺はアンタにも感謝してるんだぜ?」
俺は三年前の清水先生の言葉を思い出す。
親父が死ぬ間際、まるで誰かに伝えようとするように死神や呪いで死ぬと告げていた。
もちろんそれを俺に伝えて、行動してくれた清水先生がいなければ何も意味をなさなかったかもしれないが、だけど親父が俺に伝えるつもりで口にしなかったら、この未来は訪れていない。
親父がそれを口にしなかったら、清水先生は確実に動いていなかっただろう。
だからなんだかんだ感謝してる。
アンタは最高の父親だ。
「だからこそ見ててくれ! 決まった死の未来を乗り越えた天才ピアニストの姿を! 復活した天才ピアニストの有志を見ててくれ! このコンサートホールで奏でるから! 親父にもっとも届くこの場所で!」
待機室で一人、俺は高らかに宣言する。
親父に成長した姿を見せる時。
想像を超えて成長した俺を見せる時だ!
俺は深呼吸をする。
意識を高める。
いつもの感覚だ。
いつものイメージ。
頭の中に描かれる五線譜には、桜の花が舞って、その隙間隙間に音符が踊っているイメージ。
幼いころから変わらない楽譜のイメージ。
「よし!」
俺は両手で顔を張り、ドアノブを回して廊下に出る。
ここからまっすぐ行けばステージだ。
まもなく本番。
ステージに向かう途中、舞台袖を通るとそこには三年前のあの日のように天音がいた。
やや緊張した面持ちで、しかし明らかに三年前よりも凛々しく綺麗だった。
「天音」
「真希人?」
俺は優しいキスをした。
「こんな時に何すんの!」
「こんな時だからこそだよ。エントランスの仕返しだ」
顔を真っ赤にした天音に笑いかける。
壁のすぐ向こう側には何人もの観客がいる。
なんだか気持ちが昂ったままだが、まあ大丈夫だろう。
それにこんな揃いにそろった大舞台で、緊張しないまま無難に演奏会を終えるというのも味気ない。
「頑張って」
真っ赤な顔のまま、天音がエールを送る。
俺は黙ってうなずき、ステージの上へ。
まだ暗いステージの上、三年前と同じピアノの前。
俺は深呼吸をして背後に手を伸ばす。
「え!?」
俺は何かに触れた気がしたが、振り返っても誰もいない。
もしかして……。
そんなことを考えているうちにブザー音が響き、幕が開く。
全てのスポットライトが俺に注がれる。
眩しい中、俺の目線は最前列に座ってこちらを見る母親をとらえた。
家を出てからは会っていない。
ずっとどこかで親父の面影を俺に重ねていた母さんと俺にとって、今の距離感がベストな気がした。
俺が母親と対面するのは、演奏会の時だけ。
でもそれでいい。
俺にとっての家族は母さんだけではなくなったのだ。
俺は深々と頭を下げる。
拍手が沸き立つ。
満員の観客席からの拍手と、熱いくらいのスポットライト。
最高の舞台。
俺の才能をもっとも活かせる舞台!
席について鍵盤に指を置くと、歓声は一気に静まり返った。
これでいい。
俺はこの未来を生き抜く!
「見ててくれ」
誰にも聞こえないほどの声で誓う。
空に行ってしまった親父と死神に誓う。
俺は会場にいる者たちと、すでにこの場にいない二人を思いながら、指を走らせた……。
未来の死神、過去に哭く end
俺と天音は無事に高校を卒業し、県外の大学に通うからと二人そろって家を出た。
とは言っても通うのは天音だけで、俺はそうではないが……。
あの日、全てが終わったあの日。
全てが始まったあの日。
ヤマザクラの花言葉のように、俺に微笑むあの死神は、俺の中から姿を消した。
未来が変わった結果、世界から修正されたのだ。
そんなことを死神本人が影の中で言っていた。
天音に聞かれると嫉妬されるので大っぴらには言えないが、あの時俺は死神を抱きしめてあげたかった。
あまりにも不憫だったから。
覚悟をもって未来を変えるために過去にやって来て、誰からも祝福されないまま消えていくなんてあんまりだと思ったから。
「たまには手でも合わせるか」
俺は寝室に活けられた桜の木の枝を眺める。
どういうわけかこの枝葉は枯れる気配がない。
「もしかしたら本当にここに宿っているのかい?」
「なんのこと?」
隣で寝ていた天音が尋ねてきた。
ベージュのキャミソールを着込み、薄手の毛布にくるまっている。
「何でもないよ」
俺たちはいま一緒に暮らしている。
学生が住むには無駄に豪華なマンション。
オートロック付きの高級マンションの最上階。
そこが俺と天音の住処となっている。
どうしてこんな場所に住めるのかと聞かれれば、それは俺の稼ぎが良いからとしか言いようがない。
死神が消えたあの日から、俺の耳は徐々にピアノの音を取り戻したのだ。
ピアノの音が聞こえてくるたびに、死神の呪いが解けていくのを感じた。
大きな喜びと一抹の寂しさと、それらが同時に胸に押し寄せてくる。
三年前の初夏、死神は去り、呪いも解けて、俺は日常を取り戻したのだ。
「そろそろ行かなくていいの? 今日は大事な演奏会でしょ!」
気がつけば着替えを済ました天音が立っていた。
「ああ、行こうか!」
今日は例のコンサートホールでの演奏会。
季節は同じく桜の舞う春。
あの日は制服で一緒に来ていた天音も、今日は違う。
白い長袖のワンピースに、ベージュのサンダルという出で立ち。
彼女はここ三年間でさらに成長した。
ただでさえ整っていた容姿はさらに洗練され、大学でも声をかけられることが多いそうだ。
「下に黒井さんが車を回してるって」
天音はスマホをチェックする。
マネージャーは相変わらず黒井さんが担当のままだ。
これは俺と天音からお願いしたことだった。
彼は常に俺たちと一定の距離を保ち続けた人物だ。
つまり信用が置ける。
俺たちに何があっても、彼だけはずっと変わらずい続けてくれるだろう。
「あんまり待たせても悪いし、急ごう」
俺は天音の手を取り、異様に待ち時間の長いエレベーターのボタンを押す。
「大丈夫?」
天音は心配そうに俺の顔を覗き込む。
それだけ俺がソワソワしているのだろうか?
彼女を心配させる程度には、落ち着きがないらしい。
「まあ流石にあれから一度も訪れていないからな」
俺は音を取り戻してから、再び音楽活動を再開した。
メディアは復活の天才ピアニストとして俺を取り上げたが、前のような嫌悪感は抱かなかった。
好きに言わせておこうと思える程度には、俺にも余裕が生まれていた。
そうして死神に呪われる前の生活に戻りつつあった俺だが、例のコンサートホールでの演奏だけは一度も受けなかった。
何度もそういう話は来た。
復活記念の演奏会なら、あの場所ほど相応しい場所はないと、しつこいぐらいにオファーがあったが、俺自身がそれを頑なに断った。
俺にはまだ覚悟がなかったのだ。
勇気がなかった。
再び音を失うのではないかという、漠然とした不安があった。
頭ではあり得ないことは分かっている。
だがそれでも、呪いが解けたばかりの俺には恐ろしい場所だったのだ。
「大丈夫だって! また死神が後ろに立ってたら、今度は私が止めに入るから」
「洒落になってないぞ」
俺たちは二人そろって笑い出す。
一気に気持ちが軽くなった。
そうだ。
冗談でも、彼女が今度は止めてくれるのだそう。
天音が呪いを止めてくれる。
「ほら行くぞ」
俺たちはケラケラと笑いながら、エレベーターに乗って下に降りた。
無駄に豪勢なエントランスを出た俺は、空を見上げる。
自分たちの住んでいる最上階よりもっと上。
空は雲一つない晴天、青々とした春のキャンパスに時折桜の花が舞う。
俺たちが数ある高級マンションの中からここを選んだのは、ここに桜の木が生えているからだ。
それも大量に。
エントランスの両側を数え切れないほどの桜の木が覆い、敷地の外からではエントランス部分が見えないほど。
だから……。
「ねえ真希人?」
「うん?」
呼ばれた俺は振り向き、彼女に唇を奪われる。
部屋以外で唯一カメラの届かないこの場所は、天音がよく仕掛けてくる。
「行ってらっしゃいのキスのつもり?」
「本来は玄関でやるんだろうけどね、今回は私も一緒に行くし、春だし!」
最後のは理由になっていない気がするが、ここでまた指摘するとさらにめんどくさいことになる。
「ほら行くぞ。いい加減、黒井さんが怒るかもしれない」
そう言って俺たちは黒井さんが待つ車に乗り込んだ。
コンサートホールに到着した俺たちは、そそくさと裏口から中に侵入し、スタッフと挨拶を交わすて控え室に入る。
「真希人、着替え終わった?」
俺が入って数分後、控室のドアをノックする音と共に、天音の声がした。
「ああ終わったぞ。ていうか別に一緒にいれば良いじゃないか」
いまさら恥ずかしがる事なんて無いだろう?
一緒に住んでいるのだから。
「ダメだよ。そういうのはちゃんと線引きしないと、どんどんマンネリ化しちゃうんだからね!」
天音から随分と大人な指摘が入る。
まだ高校卒業したばかりのくせに、マンネリの心配なんかするのか。
「そういえばアイツらも来てるんだっけ?」
天音に確認する。
「うん。今日は記念だからって」
「アイツらにとってみれば別に記念でも無いだろうに」
「でもあれじゃない? 私たちが分かりあうきっかけにはなったから」
「まあそうか……」
俺は納得して演奏の準備に取り掛かる。
準備と言っても心の準備ぐらいなものだが……。
今日は当時のクラスメイト数人と、楽辺&西条カップルが聴きに来る。
彼らにとってみれば、この演奏会は特別な意味があるんだとさ。
「先生は?」
「清水先生は今日来れないって。受け持ったクラスの問題がどうとかって言ってたよ」
本当は清水先生も来る予定だったのだが、仕事となれば仕方がない。
あれだけ静観を是とする先生を動かすほどの事態なのだから、問題は根深そうだな。
俺たちが言えたことでもないけれど……。
清水先生とは時折会っている。
どこまでいっても彼は俺たちの恩人。
文字通り命の恩人なのだ。
そんなこんなで騒いでいると、演奏会の時間が差し迫ってきた。
空気を読んでか、天音は一度黙って退出する。
いつもそう。
演奏会前は一人になる。
前までは一人になるのは当たり前だった。
むしろそれが普通だった。
だけど今は違う。
俺が本当に一人になるのはこの時だけ。
「親父、俺はアンタのようにはならなかったぜ? 俺は呪いを破った。一番感謝しているのは清水先生だけどさ、俺はアンタにも感謝してるんだぜ?」
俺は三年前の清水先生の言葉を思い出す。
親父が死ぬ間際、まるで誰かに伝えようとするように死神や呪いで死ぬと告げていた。
もちろんそれを俺に伝えて、行動してくれた清水先生がいなければ何も意味をなさなかったかもしれないが、だけど親父が俺に伝えるつもりで口にしなかったら、この未来は訪れていない。
親父がそれを口にしなかったら、清水先生は確実に動いていなかっただろう。
だからなんだかんだ感謝してる。
アンタは最高の父親だ。
「だからこそ見ててくれ! 決まった死の未来を乗り越えた天才ピアニストの姿を! 復活した天才ピアニストの有志を見ててくれ! このコンサートホールで奏でるから! 親父にもっとも届くこの場所で!」
待機室で一人、俺は高らかに宣言する。
親父に成長した姿を見せる時。
想像を超えて成長した俺を見せる時だ!
俺は深呼吸をする。
意識を高める。
いつもの感覚だ。
いつものイメージ。
頭の中に描かれる五線譜には、桜の花が舞って、その隙間隙間に音符が踊っているイメージ。
幼いころから変わらない楽譜のイメージ。
「よし!」
俺は両手で顔を張り、ドアノブを回して廊下に出る。
ここからまっすぐ行けばステージだ。
まもなく本番。
ステージに向かう途中、舞台袖を通るとそこには三年前のあの日のように天音がいた。
やや緊張した面持ちで、しかし明らかに三年前よりも凛々しく綺麗だった。
「天音」
「真希人?」
俺は優しいキスをした。
「こんな時に何すんの!」
「こんな時だからこそだよ。エントランスの仕返しだ」
顔を真っ赤にした天音に笑いかける。
壁のすぐ向こう側には何人もの観客がいる。
なんだか気持ちが昂ったままだが、まあ大丈夫だろう。
それにこんな揃いにそろった大舞台で、緊張しないまま無難に演奏会を終えるというのも味気ない。
「頑張って」
真っ赤な顔のまま、天音がエールを送る。
俺は黙ってうなずき、ステージの上へ。
まだ暗いステージの上、三年前と同じピアノの前。
俺は深呼吸をして背後に手を伸ばす。
「え!?」
俺は何かに触れた気がしたが、振り返っても誰もいない。
もしかして……。
そんなことを考えているうちにブザー音が響き、幕が開く。
全てのスポットライトが俺に注がれる。
眩しい中、俺の目線は最前列に座ってこちらを見る母親をとらえた。
家を出てからは会っていない。
ずっとどこかで親父の面影を俺に重ねていた母さんと俺にとって、今の距離感がベストな気がした。
俺が母親と対面するのは、演奏会の時だけ。
でもそれでいい。
俺にとっての家族は母さんだけではなくなったのだ。
俺は深々と頭を下げる。
拍手が沸き立つ。
満員の観客席からの拍手と、熱いくらいのスポットライト。
最高の舞台。
俺の才能をもっとも活かせる舞台!
席について鍵盤に指を置くと、歓声は一気に静まり返った。
これでいい。
俺はこの未来を生き抜く!
「見ててくれ」
誰にも聞こえないほどの声で誓う。
空に行ってしまった親父と死神に誓う。
俺は会場にいる者たちと、すでにこの場にいない二人を思いながら、指を走らせた……。
未来の死神、過去に哭く end