未来の死神、過去に哭く

「羨ましい? どこが? こんな何もない人生だぞ?」

 楽辺は半笑いで指摘する。
 自分自身を卑下した笑い方だ。
 
「羨ましいさ。結局無い物ねだりなんだ。お前からしてみれば、俺の立場が羨ましい。天音に好かれ、周りからチヤホヤされて注目を集める。だけど俺から見れば逆なんだ」

「そういうもんなのか?」

 楽辺は信じられないとでも言いたげだ。

「俺からしてみれば、物心ついた時に自分の未来が決まっていないのって滅茶苦茶羨ましい。俺はもう決まっていた。下手したら生まれた時から、俺は天才ピアニストとして生きることを強制されていたのかもしれない。俺にとっては普通が特別なんだ」

 俺は正直に打ち明ける。
 普通とは、特別とは、所詮当人たちだけの一つの物差しでしかない。基準でしかない。もっと言ってしまえばただの主観だ。

「そっか……お前も大変だったんだな菅原」

 楽辺は納得いったのか、声のトーンを下げる。

「そりゃそんだけいろいろ背負ってりゃ、早坂さんもお前に夢中になるわけだ」

 楽辺は心底諦めがついたのか、すがすがしい顔で笑う。

「悪いな。俺もアイツなしでは生きていけないんだ」

 これは事実。
 それをまざまざと見せつけられた三ヶ月だった。
 どれだけ俺が天音に依存していたか、どれだけ彼女に負担を強いてきたか。
 しかしその結果、彼女を死なせてしまう未来まで待ち受けているとは思いもしなかった。

「のろけやがって」

「悪い悪い」

 楽辺に突っ込まれ、俺も軽いノリで返す。
 この感覚がそもそも初めてなのかもしれない。
 同年代の男友達自体が、今まで一人としていなかったように思う。

 幼少期もピアノを弾き続けた俺と、他の男の子たちの趣味があうはずもなく、一人でずっとピアノにうちこんでいたのだ。
 
「そろそろ戻るか」

「そうだな。お互い確実に怒られるだろうが」

 楽辺は顔をしかめる。
 確かに普通に一限目サボったからな。

「俺は微妙かな? 天音が上手いこと言ってくれていると信じてる」

「ズルいな~」

「お前も彼女作れよ~」

「余計なお世話だ!」

 俺は叫ぶ楽辺を残して、一足先に音楽室を後にする。
 向かうは教室、清水先生が話をしておくと言っていたがどうだろうか?

 一限目が終わり、チャイムが鳴る。
 休み時間に入れば、廊下を生徒がうろついていても目立たない。
 俺は急いで階段を駆け上がり、二階の自分の教室へと急ぐ。
 


「なんだか緊張するな……」

 俺は自分の教室の前で立ち止まる。
 妙に緊張している。
 なぜだろうか?
 久しぶりだからという訳でもないだろう。
 これぐらいの期間学校に来ないことなどいくらでもあった。

「真希人? 何してんの?」

 気づけば天音が隣りに立っていた。

「天音……なんか緊張しちゃってさ、足が震えるんだ」

 震える俺の足を、天音は静かに凝視する。
 凝視して、軽く笑う。
 軽く笑って背中をさする。

「大丈夫だよ真希人。もう心配するものな何もない」

「心配というより不思議なんだ。どうしてこんなに震えているのか、どうしてこんなに怖いのか」

 俺は恥ずかしげもなく、正直に天音に尋ねる。

 すると天音はまたも微笑みながら、俺の耳元で囁く。

「それはね、真希人がちゃんと向き合おうとしているからだよ。今までは、誰に何と思われようがどうでもいいとか考えてたでしょう? それは逃げなんだよ。今は違うでしょ? 今はなんて思われてるのかが怖くて、どういう反応されるかが怖くて震えてるんでしょ? だったら問題ないよ。それが普通なんだから。真希人がずっと望んでいた普通なんだよ」

 天音は優しく、まるで小さな子供を諭すように囁いた。
 不思議と彼女の声を聞いていると震えが収まる。
 自然と心が暖かくなる。
 勇気が出てくる。
 一歩を踏み出す勇気が、俺の心に小さな炎を灯す。

「ありがとう天音……やっぱり俺は天音がいないとダメみたい」

 お礼を告げて深呼吸をし、教室のドアに手をかける。
 意を決して扉をスライドさせる。
 ガラガラと音が鳴り、扉が開く。
 教室中の視線が俺に集まる。

「お、おはよう……」

 俺は自分でも驚くほど小さな声で挨拶をする。
 消え入りそうな声量で発せられた言葉は、それでもクラス中に行き届いたのか、クラス全員から同じ一言が返ってきた……。

「おはよう!」

 一斉に発せられたその一言を皮切りに、今まで碌に言葉も交わしてこなかった生徒たちが俺に詰め寄る。
 それぞれが思い思いに語る。
 謝る。
 これからのことを話す……。

 俺がふと後ろを見ると、天音は俺がクラスにとけ込んでいる光景を見て微笑む。
 ずっと彼女の望んでいた光景。
 ずっと追いかけた景色。
 俺が普通を享受するために必要な儀式。

「何の騒ぎだ、静かにしなさい」

 遅れて教室に入ってきた清水先生が大きな声でみんなを席につかせる。
 俺は清水先生の正面にたち頭を下げる。
 絶対に先生が上手いこと説明したに違いないのだ。
 だから感謝しかない。

「待ってたよ。さあ授業の時間だ」

 清水先生は耳元で小さく囁いた。
 俺が顔を上げると先生は悪戯っぽく笑い、ジェスチャーで席に着くように促した。
 
 これが普通だと示すように、俺が過ごしやすくなるように、特別扱いはしないぞという意思表示。
 俺にとってはそれが心底ありがたかったのだ。

「昨日の続きをやるぞ。資料集を出しなさい」

 先生はそのまま何事もなかったかのように授業を開始させた。




「久しぶりの学校はどうだった?」

 授業が全て終了したと同時に、天音が素早くこちらに寄ってきた。

「ちょっと疲れたかな」

 正直勉強なんてあんまりしてこなかったから、これはこれで疲れるものだと思った。
 
「そっか。楽辺君とはもう?」

「ああ。修復した。声も聞こえた。それと、天音は俺の物だとも伝えた」

 俺が答えると、天音は分かりやすく赤面して無言になる。
 無言のまま肩パンされた。
 痛くはないけれど、ちょっと驚く。
 まさか天音がこんなに照れるなんて思ってもみなかったから。

「もう! みんながニヤニヤしてる! 早く行くよ!」

 天音は恥ずかしさに耐えられなくなり、俺の手を引いて教室を飛び出す。

「おい天音! 落ち着けって」

 俺の声は届いているはずなのだが、天音の走る速度は一向に収まる気配はなく、一息の間に下駄箱までやって来てしまった。

「早く帰ろう!」

 天音は俺を急かして校庭に出る。
 一緒に手をつないだまま校門に向かう途中、遠くに楽辺と一緒になって歩く西条先輩の姿があった。
 俺と天音が軽く会釈をすると、彼女は一言も発さないまま深々と頭を下げ、手を振ってきた。
 さようなら、ということだろうか?

「あそこはあそこでお熱いようで」

 天音はいやらしく笑う。
 実に楽しそうである。
 さっきまで恥ずかしさで沸騰しそうだった彼女とは随分と違う。

「俺の部屋に来ないか?」

 俺は天音を誘う。
 俺の家の俺の部屋。
 すると、天音はクスクス笑いながら答えた。

「何を今さら、当たり前でしょう? 学校が終わったら、どちらかの部屋に行くって決まってたじゃない」

 そう宣言して、天音は俺の手を引いて歩き出した。


 俺と天音はお互いの手をしっかりと握りしめながら歩き出す。
 向かうは俺の家の俺の部屋。
 あの演奏会で音楽を無くしたのが三か月前の四月。
 あの頃はまだ桜が舞っていたのに、今では見る影もない。
 
 舞い散る桜の花弁の代わりに、初夏の容赦ない日差しが照りつける。
 夕方になってもその勢いは止まらない。
 そんな中俺たち二人は帰路につく。
 何もかもから解放されたような気持ちだ。
 暑い日差しもスポットライトだと思えば苦じゃない。
 生憎とスポットライトには慣れているんだ。

「あんまり走るなって!」

「良いじゃない」

 俺の制止は意味をなさず、いまの彼女を抑えることができる者はこの世に一人としていやしない。
 この三ヶ月間、俺もだけれど天音がここまで無邪気に笑っていたことなんてなかったな……。
 いつもどこか張り詰めたような顔で笑っていた気がする。
 俺を気遣ったような、そんな笑い方。
 どこかぎこちない笑顔だった。

「ただいま!」

 俺と天音は一斉にドアを開けて俺の家に入る。
 中から返事はない。
 たぶん母さんは俺たちの退院のため、書類やら支払いやらで病院にいるのだろう。

「誰もいないね」

「そうだな」

 天音はそう言って靴を脱ぐ。
 靴を脱いで俺を急かし、部屋に連れ込む。
 階段をドタバタと響かせながら登り切り、俺の部屋に躊躇なく突入した。

「遠慮なしだな」

「いまさら遠慮することなんてある?」

 振り返った天音は心から嬉しそうに、満面の笑みを浮かべたまま俺に近づいてくる。
 その雰囲気に、天音の綺麗な表情に見惚れて、俺はその場で硬直するしかなかった。
 徐々に伸ばされた天音の両腕は、俺の体を優しく包み込む。
 彼女の両手は俺の背後で結ばれ、ギュッと俺を締め付けた。
 どこにも逃がす気はないと言わんばかりに、顔を俺の胸に押しつける。
 部屋に充満する初夏の匂いに、まだ枯れない桜の香りが入り込む。
 
「天音?」

「……やっとだ。やっとだよ真希人」

 天音はただそう言った。
 意味のほどは俺でもわかる。
 
 彼女はずっと望んでいたのだ。
 俺がクラスに溶け込むことを。
 俺が周囲の人間の輪に入ろうとすることを。
 そして周囲の俺への評価が覆ることを。
 鼻持ちならない天才ピアニストとしてではなく、ちゃんと周りからその努力を認められた天才ピアニスト、菅原真希人として存在して欲しい。
 それが早坂天音の願い。
 物心ついた時からの願いだったのだ。

「やっとだな……やっと俺は人間っぽく生きていけるんだ」

 俺の独り言に、天音は無言で首を縦に振り肯定する。
 
 全ては天音をはじめとした周囲の人間のおかげ。
 周りの援助がなければ、俺はただのピアノを弾き続けるマシーンと化していたに違いない。
 そりゃ世界も死神をけしかけてくるわけだ。
 人間の在り方とはほど遠いから。
 だけどもう違う。
 俺のちょっとの努力と周りの理解。
 それだけで俺は人間として生きていける。

「天音、本当にありがとう。心から感謝してる」

 俺も天音の背中に腕を回す。
 彼女の香りと夏の匂いが、同時に押し寄せる。
 幸せとはこの時間のことを言うのだろうと、柄にもなくそんな感想を抱いた。

「俺は君が好き。いつも俺を気にかけてくれる君が好き。いつも俺を支えてくれた君が好き。いつも笑ってくれる君が好き。だから俺は死なない。天音も死なす気はない。死神にも世界にも渡さない」

 俺は力強く彼女を抱きしめたまま宣言する。
 彼女の体がピクリとして、俺の背中に指を這わす。
 体を震わせた彼女は、俺の胸に押しつけていた顔を離すと、今度は俺の耳元に近づける。

「それってプロポーズのつもりかな?」

 横目で彼女の顔をちらりと見ると、赤く色を変えた頬が目に入る。
 囁かれた声は冗談っぽくもありつつ、本気の雰囲気もまじっていた。

「どうかな? 受け止め方次第じゃないかな?」

 俺は照れ隠しではぐらかす。
 
「ええ~なんかズルいな~」

 天音は甘えた声を発する。
 押しつけられた彼女の体温が心地いい……。

「そうかな? でも”愛してる”という気持ちは本物だから」

 俺は万感の思いを込めて、告白する。
 好きだなんて生ぬるいことは言わない。
 好きなのは当たり前。
 わざわざ口に出して言うことではない。
 そんなことは彼女にだって伝わっている。
 
「私も同じ。ずっと真希人を見てきた。そしてこれからも一番近くで、君という演奏を聴く。一番の特等席で君を堪能する」

 天音は俺の指先をそっと触る。
 体が反応する。
 ずっとピアノを弾いてきた指。
 ずっと世界に届けていた旋律。
 ここ三ヶ月まったく働かなくなった指。
 天音はそんな俺の指を愛おしそうに撫でた。

「くすぐったいんだけど?」

「満更でもないくせに」

「バレたか」

「当たり前でしょう? 一体何年一緒にいると思っているの?」

 俺たちは笑い出す。
 この幸せな空間を、俺は一生忘れないだろう。
 さんざん笑いあった後、彼女は再び顔を近づける。

「真希人」

「うん?」

 返事は塞がれた。
 天音は笑いながらキスをした。
 突然訪れた感触に驚きつつも、俺はもう一度力強く彼女の体を引き寄せる。
 もう二度と離さないように。
 死神なんかにならないように……。

 世界に奪われないように、しっかりと彼女の体を抱き寄せた。

「良かった……。上手くいきそうだ」

 私は一人、彼の影の中でほくそ笑む。
 影の中から出られないとはいえ、外の状況は彼を通じて伝わってくる。
 彼と彼女、つまり過去の私なんだけれど、この様子なら大丈夫そう。
 彼らは孤独ではなくなった。

 菅原真希人と早坂天音は、今までのような共依存の状態ではない。
 お互いが支えあっているように見える。
 共に生きるにしたって、依存と支えあいは全くの別物。
 
「本当におめでとう。私は心からホッとしているよ。人生は、ほんのちょっとの視点の問題だけで簡単に壊れてしまうし、逆に言えば修復もできてしまう」

 良かった。
 それは本心だ。
 そもそも私は菅原真希人を救いたくて、過去にやって来たのだ。
 だけどこの胸の内につっかえるようなモヤモヤはなんだろうか?

 もしかしたら過去の自分に嫉妬しているのかもしれない。
 私では到達できなかった境地に彼女はいる。
 いま真希人の隣りに立っている早坂天音は、私であって私ではない。
 ちょっとしたことだった。
 ちょっとした歯車のかみ合わせで、私がここで貴女がそっち。

 羨ましい気持ちも当然ある。
 無いわけがない。
 嘘はつかない。
 自分の気持ちに嘘はつけない。

 だからこそいまここで、誰にも届かないこの影の中でなら、愚痴をこぼしてもいいよね?

「私は本当に貴女が羨ましい。貴女がとういう気持ちでいたかも、私は全てを知っている。知っていたはずだった。孤独になっていった過程も私は知っている。だけどここにきて、こんな幸せそうに笑う貴女を私は知らない! だってそれは、今のこの時間は、私の時には無かったものだから……。ズルい! ズルい! ズルい!」

 私は散々愚痴る。
 涙をからしながら、泣き叫ぶ。

 でも、別に良いじゃないか。
 この中でなら誰にも届かない。
 もしかしたら真希人の夢に出てきてしまうかもしれないが、それはご愛敬。
 陰口は陰で言っている分には誰も傷つかない。

「これが本当の影口かしらね?」

 私はしょうもないことに気づいて笑い出す。
 そうだ。
 これは影口なのだ。
 だったら何を言ってもいいんだ。

「でもね。私はこの展開をずっと望んでいたんだよ……。だから最後ぐらい、エールを送って締めたいじゃない?」

 本当に心から望んでいた。
 だからこそ私は決意したのだ。
 影に閉じ込められることになったとしても。
 最高の結末を迎える時、”私が消える”ということも覚悟して過去にやって来た。

 私は影の世界を眺める。
 そろそろお別れの時間。
 視界がぐにゃりと歪む。
 
「もう私は用無しか……結構冷たいんだね、世界って」

 今の真希人と彼女の行く先に、私は存在していない。
 それが私の望んだ道だから、そうでなくては困るから。
 
 彼らの未来の先に私は存在しないが、過去には必要だったのだ。
 この未来を選択する礎として”死神の天音”という存在は必要不可欠だった。
 だからこの時間までは、世界は私という矛盾を許してくれていたのだろう。
 この時間までなら、私は矛盾ではない。

 徐々に体に力が入らなくなっていくのを感じる。
 ここから先は私が存在してはいけない世界。
 存在してはいけない時間軸。
 過去に死神と関わったことで発生した一つの未来。
 その未来こそが、愛する真希人が歩む未来だ。
 そこに私の居場所はない。
 影ながら、ずっと彼の人生を追いかけることぐらいは許されないのかと期待したが、どうやらダメらしい。
 こんな健気な死神の存在すら許してくれないのか……。

 私は薄れゆく意識の中、世界に対して文句を垂れる。
 だけどもうやめだ。
 やっぱり最後に見ておきたいのは真希人の顔。
 となりに貴女がいるのはやや不満だが、許してあげる。
 抱き合っている二人を影の中から眺める。
 至福の時。
 真希人のこと頼んだよ……。

 私は真希人と口づけを交わす早坂天音に願いを込める。
 何様のつもりだろうか。
 私の代わりに見守ってあげてなどと、どの口が言えるのか。
 これから消えようというやつが……。
 
「さようなら……真希人。最後にちゃんと会いたかったけど、もう時間切れみた……い」

 そこで意識はなくなった。
 最後に桜の香りがした。
 知っている香り。
 菅原家とのあいだにずっと立っている桜の木の香り。
 
 私の想いはきっと、あの桜の木が受け継いでくれるから。

 私の代わりに二人を見守っていて……。




「なあ天音」

「なに?」

「ちょっと外に出ないか?」

 俺は天音の体を引き剥がし、提案した。

「どこか行くの?」

 天音は不思議そうな顔だ。
 まあさっき帰って来たばかりでまた出かけようと言うのだから、不思議に思われても仕方ない。

「桜の木を見たいんだ」

 そう思った。
 心の内が軽くなってしまった。
 あったものが失われたような感覚……。

 天音は俺の顔をマジマジと見つめてきた。
 数秒の沈黙の後、天音は大きく頷いた。
 きっと俺の考えていることが伝わったのだ。

「行こうよ!」

 天音と俺は急いで家を出る。
 家を出て左に進めば天音の家。
 そのあいだに立っている桜の木。

 思えば俺と天音の行き来をずっと見守っていたのは、この木だけだった。
 何年も何年も。
 どんな時も。

「死神は消えちゃったんでしょう?」

 天音は桜の木を見つめたまま呟いた。

 やっぱり気づいてたか。

「ああ。いまはこの桜の木に想いを託したってさ」
 
 実は俺には全て筒抜けだった。
 死神の最後の嘆きも、心の内も、夢に出るなんてもんじゃない。
 リアルタイムでダイレクトに、全て聞こえてきた。
 伝わってきた。
 
「死神には悪いことをしたな」

 俺は呟く。
 聞こえないふりをして、全てを(さら)け出させてしまった。
 彼女の最後の嘆きと願いは、確かに俺が受け取った。
 そしてこの桜の木も受け取ってくれたと思う。

「花言葉は”あなたに微笑む”だっけか? 実に優しい桜だ」

 俺は天音とともに桜の木を見上げる。
 初夏の夕暮れ、オレンジ色に輝く夕日に照らされて、あるはずのない桜の花弁がきらりと光った気がした……。

 あれから三年が経過した。
 俺と天音は無事に高校を卒業し、県外の大学に通うからと二人そろって家を出た。
 とは言っても通うのは天音だけで、俺はそうではないが……。

 あの日、全てが終わったあの日。
 全てが始まったあの日。
 ヤマザクラの花言葉のように、俺に微笑むあの死神は、俺の中から姿を消した。
 未来が変わった結果、世界から修正されたのだ。
 そんなことを死神本人が影の中で言っていた。

 天音に聞かれると嫉妬されるので大っぴらには言えないが、あの時俺は死神を抱きしめてあげたかった。
 あまりにも不憫だったから。
 覚悟をもって未来を変えるために過去にやって来て、誰からも祝福されないまま消えていくなんてあんまりだと思ったから。
 
「たまには手でも合わせるか」

 俺は寝室に活けられた桜の木の枝を眺める。
 どういうわけかこの枝葉は枯れる気配がない。
 
「もしかしたら本当にここに宿っているのかい?」

「なんのこと?」

 隣で寝ていた天音が尋ねてきた。
 ベージュのキャミソールを着込み、薄手の毛布にくるまっている。

「何でもないよ」

 俺たちはいま一緒に暮らしている。
 学生が住むには無駄に豪華なマンション。
 オートロック付きの高級マンションの最上階。
 そこが俺と天音の住処となっている。
 どうしてこんな場所に住めるのかと聞かれれば、それは俺の稼ぎが良いからとしか言いようがない。

 死神が消えたあの日から、俺の耳は徐々にピアノの音を取り戻したのだ。
 ピアノの音が聞こえてくるたびに、死神の呪いが解けていくのを感じた。
 大きな喜びと一抹の寂しさと、それらが同時に胸に押し寄せてくる。
 三年前の初夏、死神は去り、呪いも解けて、俺は日常を取り戻したのだ。

「そろそろ行かなくていいの? 今日は大事な演奏会でしょ!」

 気がつけば着替えを済ました天音が立っていた。

「ああ、行こうか!」

 今日は例のコンサートホールでの演奏会。
 季節は同じく桜の舞う春。
 あの日は制服で一緒に来ていた天音も、今日は違う。
 白い長袖のワンピースに、ベージュのサンダルという出で立ち。
 彼女はここ三年間でさらに成長した。
 ただでさえ整っていた容姿はさらに洗練され、大学でも声をかけられることが多いそうだ。

「下に黒井さんが車を回してるって」

 天音はスマホをチェックする。
 マネージャーは相変わらず黒井さんが担当のままだ。
 これは俺と天音からお願いしたことだった。
 彼は常に俺たちと一定の距離を保ち続けた人物だ。
 つまり信用が置ける。
 俺たちに何があっても、彼だけはずっと変わらずい続けてくれるだろう。

「あんまり待たせても悪いし、急ごう」

 俺は天音の手を取り、異様に待ち時間の長いエレベーターのボタンを押す。
 
「大丈夫?」

 天音は心配そうに俺の顔を覗き込む。
 それだけ俺がソワソワしているのだろうか?
 彼女を心配させる程度には、落ち着きがないらしい。

「まあ流石にあれから一度も訪れていないからな」

 俺は音を取り戻してから、再び音楽活動を再開した。
 メディアは復活の天才ピアニストとして俺を取り上げたが、前のような嫌悪感は抱かなかった。
 好きに言わせておこうと思える程度には、俺にも余裕が生まれていた。
 そうして死神に呪われる前の生活に戻りつつあった俺だが、例のコンサートホールでの演奏だけは一度も受けなかった。
 何度もそういう話は来た。
 復活記念の演奏会なら、あの場所ほど相応しい場所はないと、しつこいぐらいにオファーがあったが、俺自身がそれを頑なに断った。

 俺にはまだ覚悟がなかったのだ。
 勇気がなかった。
 再び音を失うのではないかという、漠然とした不安があった。
 頭ではあり得ないことは分かっている。
 だがそれでも、呪いが解けたばかりの俺には恐ろしい場所だったのだ。

「大丈夫だって! また死神が後ろに立ってたら、今度は私が止めに入るから」

「洒落になってないぞ」

 俺たちは二人そろって笑い出す。
 一気に気持ちが軽くなった。
 そうだ。
 冗談でも、彼女が今度は止めてくれるのだそう。
 天音が呪いを止めてくれる。

「ほら行くぞ」

 俺たちはケラケラと笑いながら、エレベーターに乗って下に降りた。
 無駄に豪勢なエントランスを出た俺は、空を見上げる。
 自分たちの住んでいる最上階よりもっと上。

 空は雲一つない晴天、青々とした春のキャンパスに時折桜の花が舞う。
 俺たちが数ある高級マンションの中からここを選んだのは、ここに桜の木が生えているからだ。
 それも大量に。
 エントランスの両側を数え切れないほどの桜の木が覆い、敷地の外からではエントランス部分が見えないほど。
 だから……。

「ねえ真希人?」

「うん?」

 呼ばれた俺は振り向き、彼女に唇を奪われる。
 部屋以外で唯一カメラの届かないこの場所は、天音がよく仕掛けてくる。

「行ってらっしゃいのキスのつもり?」

「本来は玄関でやるんだろうけどね、今回は私も一緒に行くし、春だし!」

 最後のは理由になっていない気がするが、ここでまた指摘するとさらにめんどくさいことになる。
 
「ほら行くぞ。いい加減、黒井さんが怒るかもしれない」

 そう言って俺たちは黒井さんが待つ車に乗り込んだ。




 コンサートホールに到着した俺たちは、そそくさと裏口から中に侵入し、スタッフと挨拶を交わすて控え室に入る。

「真希人、着替え終わった?」

 俺が入って数分後、控室のドアをノックする音と共に、天音の声がした。

「ああ終わったぞ。ていうか別に一緒にいれば良いじゃないか」

 いまさら恥ずかしがる事なんて無いだろう?
 一緒に住んでいるのだから。

「ダメだよ。そういうのはちゃんと線引きしないと、どんどんマンネリ化しちゃうんだからね!」

 天音から随分と大人な指摘が入る。
 まだ高校卒業したばかりのくせに、マンネリの心配なんかするのか。

「そういえばアイツらも来てるんだっけ?」

 天音に確認する。
 
「うん。今日は記念だからって」

「アイツらにとってみれば別に記念でも無いだろうに」

「でもあれじゃない? 私たちが分かりあうきっかけにはなったから」

「まあそうか……」

 俺は納得して演奏の準備に取り掛かる。
 準備と言っても心の準備ぐらいなものだが……。

 今日は当時のクラスメイト数人と、楽辺&西条カップルが聴きに来る。
 彼らにとってみれば、この演奏会は特別な意味があるんだとさ。

「先生は?」

「清水先生は今日来れないって。受け持ったクラスの問題がどうとかって言ってたよ」

 本当は清水先生も来る予定だったのだが、仕事となれば仕方がない。
 あれだけ静観を是とする先生を動かすほどの事態なのだから、問題は根深そうだな。
 俺たちが言えたことでもないけれど……。

 清水先生とは時折会っている。
 どこまでいっても彼は俺たちの恩人。
 文字通り命の恩人なのだ。

 そんなこんなで騒いでいると、演奏会の時間が差し迫ってきた。
 空気を読んでか、天音は一度黙って退出する。
 いつもそう。
 演奏会前は一人になる。
 前までは一人になるのは当たり前だった。
 むしろそれが普通だった。
 だけど今は違う。
 俺が本当に一人になるのはこの時だけ。

「親父、俺はアンタのようにはならなかったぜ? 俺は呪いを破った。一番感謝しているのは清水先生だけどさ、俺はアンタにも感謝してるんだぜ?」

 俺は三年前の清水先生の言葉を思い出す。
 親父が死ぬ間際、まるで誰かに伝えようとするように死神や呪いで死ぬと告げていた。
 もちろんそれを俺に伝えて、行動してくれた清水先生がいなければ何も意味をなさなかったかもしれないが、だけど親父が俺に伝えるつもりで口にしなかったら、この未来は訪れていない。
 親父がそれを口にしなかったら、清水先生は確実に動いていなかっただろう。

 だからなんだかんだ感謝してる。
 アンタは最高の父親だ。

「だからこそ見ててくれ! 決まった死の未来を乗り越えた天才ピアニストの姿を! 復活した天才ピアニストの有志を見ててくれ! このコンサートホールで奏でるから! 親父にもっとも届くこの場所で!」

 待機室で一人、俺は高らかに宣言する。
 親父に成長した姿を見せる時。
 想像を超えて成長した俺を見せる時だ!

 俺は深呼吸をする。
 意識を高める。
 いつもの感覚だ。
 いつものイメージ。
 頭の中に描かれる五線譜には、桜の花が舞って、その隙間隙間に音符が踊っているイメージ。
 幼いころから変わらない楽譜のイメージ。
 
「よし!」

 俺は両手で顔を張り、ドアノブを回して廊下に出る。
 ここからまっすぐ行けばステージだ。
 まもなく本番。

 ステージに向かう途中、舞台袖を通るとそこには三年前のあの日のように天音がいた。
 やや緊張した面持ちで、しかし明らかに三年前よりも凛々しく綺麗だった。

「天音」

「真希人?」

 俺は優しいキスをした。

「こんな時に何すんの!」

「こんな時だからこそだよ。エントランスの仕返しだ」

 顔を真っ赤にした天音に笑いかける。
 壁のすぐ向こう側には何人もの観客がいる。
 
 なんだか気持ちが昂ったままだが、まあ大丈夫だろう。
 それにこんな揃いにそろった大舞台で、緊張しないまま無難に演奏会を終えるというのも味気ない。
 
「頑張って」

 真っ赤な顔のまま、天音がエールを送る。
 俺は黙ってうなずき、ステージの上へ。
 まだ暗いステージの上、三年前と同じピアノの前。
 俺は深呼吸をして背後に手を伸ばす。

「え!?」

 俺は何かに触れた気がしたが、振り返っても誰もいない。

 もしかして……。

 そんなことを考えているうちにブザー音が響き、幕が開く。
 全てのスポットライトが俺に注がれる。

 眩しい中、俺の目線は最前列に座ってこちらを見る母親をとらえた。

 家を出てからは会っていない。
 ずっとどこかで親父の面影を俺に重ねていた母さんと俺にとって、今の距離感がベストな気がした。
 俺が母親と対面するのは、演奏会の時だけ。
 でもそれでいい。
 俺にとっての家族は母さんだけではなくなったのだ。

 俺は深々と頭を下げる。
 拍手が沸き立つ。
 満員の観客席からの拍手と、熱いくらいのスポットライト。
 最高の舞台。
 俺の才能をもっとも活かせる舞台!

 席について鍵盤に指を置くと、歓声は一気に静まり返った。
 これでいい。
 俺はこの未来を生き抜く!

「見ててくれ」

 誰にも聞こえないほどの声で誓う。
 空に行ってしまった親父と死神に誓う。

 俺は会場にいる者たちと、すでにこの場にいない二人を思いながら、指を走らせた……。




  未来の死神、過去に哭く  end

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