「私は実際に未来の君の枕元に立った。いや、どちらかというと、いま私がこの時間軸にいることがおかしいんだけどね」
死神は語る。
「私はもともと未来の死神、未来から現代にやってきた死神」
「じゃあタイムスリップしてこっちに来たのか?」
「そうなるね」
死神はあっさり肯定する。
「私が眠っている君に初めて会った時、どうしか涙が止まらなかった。殺さなければいけないのに、殺せなかった。初めて会ったはずなのに、君の事を全て知っていた。君がどれだけ苦労して生きてきたのかを知っていた。何故君が孤独になったのか知っていた」
死神は告白する。
しかし謎でしかない。
なんで俺のことを知っていたのか。
「だから私はなんとかしようと思った。死神に唯一許された自由を使って」
「唯一許された自由?」
「そう。私たち死神は一度だけ時間を跳躍できる。過去に行くことができる」
そう語る彼女の声は震えていた。
徐々に見えてきた。
彼女が何故この時間軸にいるのかが。
「君が”唯一許された自由”を使って、現代に来たのは分かった。簡単には信じられないけど、そうとしよう。納得する。だけど一度だけとはどういう意味だ? 何かペナルティでもあるのか?」
俺は”一度だけ”というフレーズが気になった。
「ペナルティは私の現状だよ。元死神だと言ったでしょう? 世界は自我を持つ私たちに一度だけ自由をくれる。だけどその代わり、私という個体は消滅し、奇跡を行使した対象の影となって全てを見届けることになる。それがルールだから……」
ペナルティ。
最後の奇跡。
彼女はそれを駆使して、まさしく命を懸けてこの場にいる。
なんだか申し訳ない気持ちになる。
実質俺のせいで死んでしまったようなもの。
「……どうしてだ?」
「え?」
「どうしてそこまでしてくれる? 俺なんて、それこそ星からしたら命の価値がないんだろう?」
疑問でしかない。
初対面の相手に対してそこまで……いや、彼女の中では初対面では無かったのか?
「さっき言った通り、君の記憶があったの。それも幼少のころからの、だから君が愛おしくて、死んでほしくなくて、私は過去に戻って君を孤立させないようにしようと思った、君が孤立してしまう原因を私は知っていたから」
俺が孤立する原因……。
なんだろう?
俺の性格が歪んでいることぐらいしか心当たりがない。
「君を孤立させていたのは音楽の才能、ピアニストとしての才能だった。この才能が君を孤独にしていった。私は何故かそれを知っていた」
死神は教えてくれた。
俺が孤立した理由は音楽の才能であると。
天才ピアニストとして過ごした人生が、俺を孤独にしたのだと。
言われてみて思い返す。
そうなのだろうか?
でもそうだったのかもしれない。
人間が孤独になるには、他者と違うところがないと難しい。
そして俺が他者と違う点、他者よりも優れている点は、音楽の才能に他ならない。
彼女は何故か知っているという。
俺の半生を、俺が孤独となって死に至るまでの経緯を、彼女は何故か知っている。
そんな彼女が言うのだから真実なのだろう。
音楽の、ピアニストとしての才能が、俺を孤独にした。
「それで、どうしたんだ? 過去に、いまの時代にやってきて何をした?」
尋ねながら半分答えが浮かんでいた。
天音は見ていたではないか。
後ろから俺に大鎌を振り下ろしたと。
「私は現代にやってきて、君から音楽の才能を奪おうと決めた。”人は独りでは生きていけない”から、君を孤独に追いやった、君を輝かせていたと同時に蝕んでいた才能を奪おうと考えた。そうすれば君は、普通の少年として生きていけると考えた。だけど……」
そこで言葉を切った死神は、フラフラと座り込んでしまった。
声は震えだし、最初のすすり泣きとは違って、大粒の涙をこぼしながら泣き始める。
「だけど、それが間違っていた。私が君の才能を、音楽の才能を奪うという行為が、どれだけ身勝手で危険なことかを考えていなかった。死神の大鎌は、確かに命以外も刈り取れる。だけど刈り取られた者にどんな作用が起こるか分からない。死神の特権を使用した死神は、一人残らず影となる、だから誰も答えを知らない。そんな中、私は死ぬよりもマシだろうと安直に使ってしまった。君から奪ってしまった」
死神は恐ろしいほどに整った顔を涙でぐしゃぐしゃにして、俺の足元で蹲る。
「私はずっと影から見ていた。君がピアノの音が聞こえなくなった時から、今までずっと……。それこそ私が見てきた君とは別のベクトルで、しかももっと急速に君は独りに、孤独になっていった……私はそれを影から見守ることしかできなくて、泣き叫ぶことしかできなくて!」
見れば、彼女の目尻は赤く腫れていた。
「ごめんなさい! 謝ってどうにかなることではないけれど、それでもごめんなさい! 音楽の才能を奪ってしまってごめんなさい! 君の全てを奪ってしまってごめんなさい! 君を孤独にしてしまってごめんなさい! 結果的に君を……」
死神は言葉を詰まらせる。
彼女の言葉の続きは、”殺すことになってしまってごめんなさい”だろうか?
たぶんそうだろう。
結果的に、彼女のいうことを信じるのならば、孤独になった俺は死んでいく。
きっと彼女はずっとここで哭いていたのだろう。
叫んでいたのだろう。
自分の犯した罪に、自分の間違った行動に、それによって自分の意図したこととは真逆の方向に向かっていることも、ずっとずっとここで見ていたのだ。
何度か変な夢を見たような、そんな朝があったのも、彼女の号哭が俺にまで届いていたからかも知れない。
この影の中から、この闇の中から、光を生きる俺に向かって。
どうりで体が弱っているわけだ。
風邪でもない、検査結果も正常値。
だけど衰弱している今の状況に説明がついてしまった。
言わば世界の呪いとでも言うべきか。
世界の呪いによって、体は衰弱を始め、死神の呪いによって俺は才能を奪われた。
全くもって奇妙な人生だと思う。
世界と死神から呪われる人間なんて、後にも先にも俺ぐらいだろう。
「もういいよ、事情は分かった。いろいろ謎が解けてスッキリした。確認だけど、俺の耳はもうピアノの音を聞くことは無いんだね?」
「……はい。もう私にできることはない。本当に、ごめんなさい……」
死神は俺の問いかけに静かに答えた。
おそらくもっとも恐れていたであろう問いかけ。
「そうか……まあうすうす分かってはいたけどな」
今度は俺の視界が滲みだす。
何故だか涙が溢れてきた。
なんだろう?
もらい泣き?
それともホッとしたから?
「え!?」
泣き始めた俺を、死神はとっさに抱きしめる。
彼女に包まれた瞬間、微かに桜の香りがした。
思ったよりも暖かいし、それにどこか憶えのある感触。
だけどそれよりも、俺はもう一つの謎を解き明かさなければならない。
「なあ死神、もう一つだけ教えてくれ」
俺は彼女に包まれながら、彼女の耳元で囁く。
「特定の人物の声だけ聞こえなくなったのは、お前の仕業か?」
「それは……たぶん混ざっちゃったんだと思う」
心底申し訳なさそうに、死神は答える。
混ざる……まさか呪いが?
「前例を知らないから確かなことは言えないけど、孤独になった人間を衰弱させる世界の呪いと、私の才能を奪う呪いが重なってしまった。だから心の距離がどうしようもなく離れてしまった者の声が、聞こえなくなっているんだと思う」
死神は俺を抱きしめながら答える。
その声はいまだ震えている。
肩口に感じる体温が、彼女がまだ泣いていることを知らせてくれる。
「そうか……」
これで謎は全て解けた。
ここ三ヶ月間の謎は解けた。
しかし分かったところでどうしようもない。
俺から音楽の才能は失われたままだ。
これが戻らないことには、元の俺には到底戻れない。
いや、戻れたところで死ぬ運命は変わらないのか。
「これからどうすれば良いと思う?」
俺は素直に死神に尋ねる。
「なんで……?」
「何が?」
「なんで怒らないの? なんで私を殺そうとしないの? いまこのまま私の首を締めれば殺せるんだよ? 私はなにも抵抗しない。それぐらいのことを私はしてしまった……」
死神は俺を手放し、両手を広げる。
何も抵抗しないポーズ、覚悟。
なぜ怒らないのか?
そうあらためて問われると答えがない。
心のどこかには、彼女に対しての怒りはきっとある。
俺の音楽の才能を奪いやがって! っと思う気持ちはきっとある。
それが善意からの行動だとしても、仮に音楽の才能があろうがなかろうが、近い将来に俺は衰弱して死を迎えるとしても、その想いはどこかにあるだろう。
理屈じゃない気持ちはどこかにある。
だけど恨む気持ちは不思議とない。
絶対的に恨んでも良い状況なのに、俺にその感情はない。
なんでだろう?
目の前の死神が、俺よりも弱って見えるからだろうか?
それともどこか懐かしい気持ちにさせてくれるからだろうか?
「死神を殺しても仕方ないだろ? それに君を殺しても、もう俺の才能は返ってこない。あのメロディーラインは戻ってこない。音符の煌めきも、小気味良い鍵盤の感触も、スポットライトの興奮も、その全ては忘却の彼方。決して戻ってこない。だからかな? もう怒るという気力さえ俺には残っていないのかも知れない……」
俺は自身の抱く、ぐちゃぐちゃな感情をそのままぶつけた。
答えにはなっていないだろう。
だけど気持ちなんて、感情なんて、一言で伝えられるほどシンプルなものではないだろう?
「そう……なの?」
「そうさ。でもそれ以上に気になっているのは、君は一体何者なのかということさ」
俺は許す許さないよりも、もっと気になっていることがある。
それがこの死神の正体だ。
この死神は未来にて俺と初めて会った際、何故か俺の半生の記憶を持っていたと言っていた。
なんとなく聞き入れはしたが、そのまま流すわけにはいかない。
「私の正体?」
「ああ。君が死神なのは分かったとして、何故俺の半生の記憶を持っている? 死神にはそういう能力でもあるのか?」
死神自体がそういう存在なら分かる。
頷ける。
だけどさっきの彼女の言い方だとそうではないだろう。
「死神にそんな能力はない……私も分からないの、私が何者なのか」
死神は白状する。
死神は死神でしかないと言われるかと思ったが、そうではないらしい。
「死神になる前の記憶はあるのか? それとも死神は死神として生まれてくるのか?」
世界の仕組みとしての存在なら後者だろう。
死神という存在として世に現れる。
だけど彼女を見ていて、とてもそうだとは思えない。
ただの世界の仕組みの一つだと思えなかった。
「私が死神になる前の記憶……分からない。だけど人間ではあったと思う、それだけは根拠も無くそう思う」
死神はそう言った。
元死神は元人間であると言った。
そして半生にわたる俺の記憶を持っていると。
そうなるといよいよ彼女が何者なのかが見えてくる。
正直信じられないが、そうとしか思えない。
さっき彼女に抱かれた時、包まれた時、もしかしてと思ったのだ。あの桜の香りは、俺たち共通の……。
「もしかしてお前、天音か?」
俺は言い当てる。
これには自信があるのだ。
「天音……私が死神になる前の人間だった頃の私?」
死神はキョトンとしている。
こうしてみるとますます天音に似ている気がする。
「大体さ、不思議だったんだよ。どうして天音の目に映っていたのかがさ」
あの日の演奏会の時、誰一人死神の存在に気がつかなかったのに、天音だけが気づいていた、見えていた。
そんなの偶然で片づけられるわけがない。
天音の目に死神が見えるのには、何かしらの理由があるはずだ。
天音が元から霊感があるとかならまだ分かるが、彼女からそういった類いの話は聞いたことがない。
「確かにあの時、どうして彼女と目が合ったのか不思議ではありました。そっか……彼女は私だったんだ」
死神はどこか納得の表情で頷く。
ようやく彼女の目から涙が消えていた。
彼女が自覚した瞬間、まるで鏡が割れたように、死神の容姿が変貌する。
青白い肌は見慣れた色へ変化し、黒く長い髪は肩口で切り揃えられた茶髪へと変わる。
顔つきはやや大人びているが、それでもその顔は天音だ。
早坂天音だ。
俺の幼馴染みで、誰よりも俺を理解してくれる存在。
なによりも、誰よりも大切な存在。
いつの間にか学校では、付き合っていることになっていた俺の彼女……。
「やっぱり天音か」
俺はホッとした表情で、元死神である天音を見つめる。
「真希人……」
潤んだ彼女の瞳に吸い込まれそうになるが、俺は自分の衝動を抑えて冷静になる。
一つ重要な問題がある。
死神の正体が解けたのは喜ばしいことだが、つまりこのままだと天音は……。
「天音、君が死神になってしまったということは、近い将来、それこそ俺が衰弱してしまう前に、君は死んでしまうのか?」
俺は震える声で問いかけた。
だってそうなってしまうだろう?
俺の半生を知っている死神が天音なら、俺の死に際に立っていた彼女はすでに死神だったということになる。
なってしまう。
世界から死を願われている俺よりも早く、最愛の早坂天音は死んでしまう。
そして彼女は、俺を死神の姿で出迎えるのだ……。
「……そうか。私は死ぬんだ。いや、死んでたんだと言った方が正しいのかな?」
天音は、死神は、儚く笑う。
嫌な笑顔だ。
死を受け入れた人間の笑顔。
全てを諦めた者が浮かべる表情。
「何か手段はないのか?」
俺はポツリと呟く。
天音は諦めてしまっているが、そうはいかない。
早坂天音は俺にとってなによりも大事な存在だ。
そう簡単に諦めてたまるか!
「何か憶えていないのか? どうやって死んでしまったのかとか」
俺は縋るように尋ねる。
この返答次第で、俺が助けることができる内容なのかどうかが決まってくる。
もしも突発的な事故などであれば、俺にできることは皆無と言っていい。
「私が死んだ理由……うーん。あんまり話したくないんだけどな~」
天音は懐かしい調子で誤魔化す。
今の彼女は完全な死神ではなくて、生前の人格をある程度取り戻しているみたいだ。
「そこをなんとか。頼む!」
俺は食らいつく。
なんとかして天音の死の運命を変えて見せる。
「どうして私が教えたくないか分かる?」
天音は問いかける。
「なんでだ?」
「あのね、私が死なずに死神にならなかったら、いま私はここにいないんだよ?」
天音は険しい顔で話し出す。
「まあ、そうなるな」
「でもそうなると、未来で君の死を嘆く死神はいなくなる。私が死神として未来の君に対面したからこそ、私がいまここにいるんだよ? だから私が死神にならなかった場合、私はここにいない。だから今からでも頑張って生きて欲しいと伝えられない。君の音楽の才能は無くなることはないけれど、その代わり本来の未来のように君は死んでしまう」
天音は顔をしかめる。
彼女の言う通りだろう。
俺も内心分かっていたことだ。
もしも天音が死ぬことを防げるのなら、死神はここにいない。
彼女が死ななければ、俺を助けようとする死神は存在せず、未来の俺は他の死神の手によって安らかに死んでいただろう。
だから彼女が、死神が現代にいて俺と話をしている時点で、早坂天音の死は確定しているようなものなのだ。
その未来を変えるとなると、今度は俺が死ぬ。
だから天音は話したくないのだ。
俺によって自身の死をなかったことにされて、俺が助かる未来を閉ざしたくないから……。
「だけどさ、それでも俺は君に生きていて欲しいんだ! たとえ俺が死んだとしても」
俺はそれでも我儘を通す。
たとえ俺が死んだとしても、それでも俺は天音に生きていて欲しい。
笑っていて欲しい。
泣いていて欲しくない。
今みたいに、いま目の前で無理矢理笑っているような彼女を見たくない。
それにどっちにしろ俺は死ぬ。
いまの現状がそれを物語っている。
結局音楽の才能を奪われても、俺は死を迎えるだろう。
「どうしても?」
「ああ、どうしてもだ」
これだけは譲れない。
他のことならなんだって差し出そう。
命でも魂でも、音楽の才能だってくれてやる。
だけど天音だけはダメだ。
それだけは認められない!
「じゃあ一つだけ条件を付けて良い?」
「なんだ?」
「真希人が私を救うなら、最後まで救って! 決して自分を犠牲にしないで! 私が過去に戻ってこなくても死なない未来を選択して! 真希人にとっての私が命よりも大事なように、早坂天音にとっての菅原真希人も、同じなんだから!」
天音は叫ぶ。
本音をぶちまける。
そうだ、俺だけじゃない。
俺にとって天音が命よりも大事な存在であるように、天音にとっての俺も同様なのだ。
「……分かった。約束する。俺は早坂天音と、ついでに俺自身も救って見せる」
俺は誓う。
この暗い暗い影の世界で、元死神の早坂天音に誓う。
鼻腔をくすぐる桜の香りに誓う。
俺の返事に満足そうに微笑む君に誓う。
「真希人を信じるよ。いつだって真希人は、やると決めたことは確実にやり遂げてきた。それは側で見ていた私が一番知ってる! 君の本当の才能は、そこなんだから」
天音は再び俺を強く抱きしめる。
その温度とぬくもりにホッとする。
そして天音は口を開く。
重苦しく、耳元で自分の死因を告げる。
「私の死因は衰弱死、未来の真希人と一緒だよ?」
そう言って俺を手放した天音は、悲しい笑顔を浮かべていた……。
「夢?」
俺は病室のベッドの上にいた。
近くのタオルで汗を拭く。
今までもこういうことがあったが、今回は憶えている。
夢の中と言っていいのか分からないが、あの影の世界で死神となった天音と対面した。
彼女は泣いていたのだ。
自分のしてしまったことに、自分が俺の死期を早めたと嘆いていた。
俺はよろよろとベッドから立ち上がる。
なんとか立てる。
ギリギリ歩ける。
時計を見ると朝の五時、カーテンを開けると日が昇り始めていた。
その朝日が照らすベッドの側に視線を移すと、桜の木の枝が飾られていた。
きっと昨日、俺が早くに寝てしまったから、天音は何も言わずにこれだけ飾って帰ったのだ。
俺と天音の家の間に佇む一本の桜の木。
確か種類はヤマザクラだったかな?
天音との思い出に常に映りこむ存在。
ああ、だから夢の中で桜の香りがしたのか。
でもお陰であの死神が天音だって気づけた。
だからこそ、天音の死因を知ることができた。
今の俺の状態は、世界からしたら反則なのだろう。
なにせ未来を知っているのだから。
「天音の死因が衰弱死か……」
俺は体を伸ばし、大きく息を吐く。
彼女が衰弱死する原因までは聞けなかった。
普通、若い人間が衰弱死することなどあり得ない。
少なくとも現代の日本においては考えにくい。
何か重大な病気か、もしくは俺のように孤独になることぐらいでしか……。
考えた結果、俺は苦笑する。
もうこれは笑うしかない。
天音の衰弱死の原因なんて簡単だった。
全てが俺の死から始まっているように、天音の死だってきっと俺が起点だ。
そう考えた時、もしかしたらという考えに至る。
ここまでの天音の行動を考える。
彼女は俺を優先し過ぎた。
俺を庇って周囲と衝突してしまった。
浮いてしまった。
だから……。
「彼女を殺したのは俺か」
朝日を眺めながら、結論にたどり着く。
ほとんど間違いない。
彼女、早坂天音が衰弱した原因は俺。
俺を庇うがあまりに、俺に構うがあまりに、彼女は周囲から浮いた。
孤独になっていったのだ。
「一体どこまで、俺は人を巻き込むんだろうな?」
俺は一人、病室で呟いた。
朝の検温が終わった後、暇を持て余した俺は考える。
どうやったら天音を孤独から解放できるか。
真っ先に思いついたのは、俺が天音の前から潔く消えること。
一時的に病むかも知れないが、時間の経過とともに次に進むだろう。
天音は俺と違って人間的に強いから。
しかしそのアイディアを一瞬で却下する。
影の中で約束したから。
俺も生きて天音も生きる道を探すと、彼女にそう約束したのだ。
そうであるならば一つしかない。
簡単な話だ。
本来これができていれば、こうならなかったのだから。
「俺が周囲に馴染むしかない」
出た結論はそれだった。
非常にシンプルで当たり前な結論。
だが出来ていなかった部分。
人にとっての当たり前は、俺にとっての当たり前ではないのだ。
口にするのは簡単。
だけど実際にどうすればいい?
上辺だけ上手く付き合ったって、世界は簡単に見逃してはくれない。
心のやり取りをするにはどうすればいい?
俺は一人、病室で悩む。
問題は声が聞こえなくなった者の声をどうするかだ。
はたして復活するのか、それとも聞こえないままなのか。
なんとも難しい。
一人で解決できる気がしない。
そもそも一人でどうにかできるのなら、いまこんな状況には陥ってはいないのだ。
そうして悩んでいると、あっという間に時間が流れていき、気がつけば午後になっていた。
「面会の人が来てますよ」
ノックして開けられたドアには看護師と、清水先生が立っていた。
一体どうしたのだろうか?
「元気そうだね。安心したよ」
清水先生は笑顔で部屋に入ってくる。
看護師は俺たちの様子を見て、部屋を出て行った。
こうして部屋には俺と先生だけになる。
「この前来たばかりですよね? どうしたんですか?」
謎で仕方がない。
別に学校に関わることでそうそう進展などないだろうし、話なんてあるのだろうか?
「まだ知らないと思ってね。今日学校で早坂さんが倒れて、それで僕も付き添いで来たんだよ。あの子の家には誰もいないからね」
俺は背筋が凍る。
今朝の夢の直後でこれだ。
心臓の鼓動を感じる。
内臓が冷えていく感覚……。
頭が真っ白になった。
あの元気な天音が倒れた?
なぜ?
どうして?
学校で?
「あ、天音は……どうなんですか?」
俺の声は思っていたよりも震えていた。
「とりあえず、命に別状はないよ。ただ倒れ方が不思議でね。突然倒れたというより、徐々に力が抜けていくような感じだった。だから検査も兼ねて、この病院ってわけさ。今は検査も一通り終わって結果待ちの状態だ。早坂さんは別室で眠っているよ、安心してくれ」
先生の説明に安堵する。
ようやく空気が吸えたような気がした。
しかし不思議というか、徐々に力が抜けていくような倒れ方だと先生は言っていた。
つまり気絶というより衰弱だろうか?
天音が衰弱なんてどう考えたって呪いだろう。
病気だとは思えない。
影の中で、死神は衰弱死としか言っていなかったが、ここまできたらそれしかない。
俺が、天音を衰弱死させるという未来は現実のものになろうとしている。
それも思ったよりも早い段階で……。
「僕は心配だったんだよ。最近、早坂さんもちょっと孤立気味だったからね」
清水先生は語りだした。
「君にこのことを話すのは良くないとは思うけど、早坂さんは君に関することでクラスから浮いていた。特にここ三ヶ月は顕著だったね。彼女は明るい性格だから大丈夫だと思っていたけど、ああやって孤立していって命を落としてしまった人間を僕は知っているからね」
清水先生はクラスをよく見ている。
そういう先生だと思う。
ある程度把握したうえで、深く突っ込み過ぎない。
こうしてアフターケアはしっかりするタイプの教員だ。
「やっぱり俺のせいか……」
俺は学校にいない時間の方が長い。
だから俺がいないときの天音の様子は見えなかった。
知らなかった。
天音が俺を心配させるようなことを言うはずもないから、余計に彼女の隠れた部分は見えなかった。
俺に余計な負担をかけまいと、そうやって背伸びをし続けた結果がこのざまだ。
俺と天音、二人そろって背伸びして、意地を張って拒絶して、そうした二人がそろって病院にいるというのは偶然ではない。
「決して……決して君のせいではないよ真希人君。そして早坂さんのせいでもない。どちらかと言えばここまで介入しなかった僕の責任だ」
先生は俺の言葉を否定し、自分を責め始めた。
「だから話そうと思う。僕は明日クラスのみんなに話す。いまの現状を、いま二人が陥っている現状を、君のことを」
「俺のことを?」
俺は耳を疑った。
せいぜいが俺や天音の状態の説明と、クラスの状態を軽く注意するぐらいかと思っていたから意外だった。
「そうだよ。僕はね、君のお父さんとは同期でね、君が小さいときに何度か会っているんだけど憶えていないかな?」
先生は優しい表情に変わり、俺を見守る。
ああ、知っている。
どこか憶えがある。
この見守るような視線を知っている。
確か親父の葬式の時に……。
「……親父の葬式の時にもいましたよね。いま思い出しました」
そうだ。
どうして忘れていたのだろう?
ほんの数年前に会っているじゃないか。
俺が小さい時に限らず、もっと最近で。
「ああそうだね。当然僕も出席していたからね」
忙しくて、考えることが多すぎて、俺はたくさんの大事なものを、あまりにも多く取りこぼしてきたのかも知れない。
「だから話そうと思う。僕が前に来た時に、これ以上独りになってはいけないと言ったのを憶えているかい?」
確かに言っていた。
妙に強調するように言っていた気がする。
「僕はね真希人君。信じてもらえないかもしれないが、君のお父さんが亡くなった原因を知っている」
俺は目を丸くする。
驚きのあまり咳き込む。
親父の死因を知っている?
あり得ない。
あれは原因不明の不治の病とされて……。
「その様子だと信じられないみたいだね」
清水先生は一度大きく咳き込み、深々と息を吐いた。
「君のお父さん、菅原琴雅。若いころから並々ならぬ音楽の才能に溢れ、それでいて努力を怠らなかった天才。稀代のピアニスト、世界的音楽家……僕は常にそれを横で見ていた。そして彼の周囲に、どんどんと人が増えていく。著名な音楽家や富豪、芸能関係等々、実に多彩な人脈が構築されていった。彼の周りにはいつも人が溢れ輝いていた」
清水先生の語る親父はまさに俺が追いかけていた存在そのもので、懐かしさすらある。
こうなりたくて、俺はピアノを始めたのだ。
「だがそれと同時に、周囲の人間が増えるのと反比例するように、彼が心から信頼できる人間はいなくなっていった。おかしな話だ。集まってきた人の数だけ、彼は孤独になっていった。その理由は、僕より君の方が詳しいだろう?」
先生は悪戯っぽい笑みを浮かべて俺を見る。
先生の言う通り、俺には容易に想像できる。
誰もかれもが利害で寄ってくる。
弱みを見せればそのまま食われるようなヒリついたような感覚。
表舞台特有のあれだ。
そして近しい者たちとの別れだ。
一般人である友人たちとは物の価値観や話が噛み合わなくなり、時間もないせいでどんどん疎遠になっていく。
まさしく今の俺そのもの。
「僕は言ったよね? 君のお父さんの死因が分かると。君のお父さんの病気は医者では分からない。仕方ないと思う、琴雅が死の間際口走っていたのを聞いていなければ、誰だって分かりやしないんだ」
親父が死ぬ間際に口走っていたこと……?
俺はその時ちょうど学校に行ってて知らない。
その場にいなかった。
親父の訃報で、俺は病院に駆けつけたのだ。
「親父は、なんて言ってたのですか?」
俺は尋ねる。
聞くのが怖い気持ちもあったが、ここは逃げるべきではないと思った。
なぜなら、今の俺の現状を打破してくれそうだったから……。
「死神が見える。俺の死因は孤独死だ。孤独な人間には死神がやって来るのかって。そう言って息を引き取った」
俺は絶句する。
親父の死因はつまり未来の俺と同じ。
世界の呪い、言うなれば孤独死。
まさか親子二代にわたってそんな死に方とは……。
母さんも大変だなと、他人事のように思ってしまった。
「琴雅は意識があった。そして言っていた、体の力が入らないと。そして最後の最後、琴雅は僕に伝えるためにわざと口にしていたと思う」
当時を思い出したのか、清水先生の目元は潤んでいた。
夕焼けが差し込む病室で、俺と先生は黙ってしまった。
お互いに言葉が見つからないのかも知れない。
なんて言ったらいいのか、言葉を探しているような、そんな時間……。
「そうか……親父はそうやって死んだのか」
暫くののち、俺はポツリと呟く。
ギリギリ先生に聞こえる程度の声量で口にした。
確かめるように、噛みしめるように。
「真希人君……」
「ありがとうございました、先生。ちょうど迷っていたんです。どうしようかって。今の俺と天音の状態をどうしようかって……」
俺は正直に話した。
今朝からのこの話は、俺の頭に混乱をもたらしつつも、覚悟を決めさせた。
どっちみち逃げられないのだ。
あの親父でさえ世界の呪いからは逃れられなかった。
人からは逃れられない。
他人からは逃れられない。
人は独りでは生きていけない。
「君が入院した時、もしやとは思った。だけどまさかとも思った。しかし今日早坂さんまでもが倒れてしまった時、僕は確信した。琴雅と同じ症状に違いないって。だから今日君にこの話をした」
先生は一度考え込み、やがて再び口を開く。
「もしかしたら琴雅の死に際の言葉は、僕を通して君に語っていたのではないかと思うんだ」
「どういうことですか?」
俺は先生に聞く。
親父の遺言のようなことだろうか?
「たぶん琴雅は危惧したんだと思う。自分と同じ道を歩むであろう真希人君が、同じ結末を迎えないように警告したかったんじゃないかな。なのに僕はついさっきまで、彼の考えに気付かなかった……もっと真剣に考えるべきだった」
清水先生は重苦しい空気を纏い、後悔を述べる。
だけど俺は、先生は悪くないと思う。
実際に体験しないと、先生から伝えられていたとしても信じていなかっただろう。
相手にしていなかっただろう。
下手したら真っ先に関係を切っていたかもしれない。
「先生……。話してくれてありがとうございました。親父の遺言を五年越しに聞けました。それに今の俺と天音の状況を理解してくれる人が、一人でもいるだけで本当に心強いです。俺と天音しか理解できないと、俺たちの方から周囲に壁を張っていたので、先生が知ってくれているというのが分かっただけでも、気持ちが楽になりました」
俺は安堵から泣きそうになる。
だけど泣いている場合じゃない。
俺は天音を救い、俺自身を救わなければならない。
「先生、天音の部屋は分かりますか?」
「ああ、隣りだよ。病院側が早坂さんを憶えていたらしくて、隣りにしてくれた」
それを聞いてちょっと笑ってしまった。
なんだまたお隣さんか。
どんだけ一緒にいたいんだ俺たちは……。
「行くのかい?」
立ち上がろうとする俺を見て、先生は尋ねる。
「ええ、ちょっと様子を見に行きます。先生はどうしますか?」
「僕は遠慮しようかな。君に任せる。学校の方は、僕に任せなさい」
そう言って清水先生は席を立つ。
「本当にありがとうございました」
俺は病室を出ていく先生に頭を下げる。
本当に助かった。
救われた気持ちだ。
天音をここまで連れてきてくれたのもそうだし、なにより俺たちの事情を察して行動してくれた。
それが今の俺たちにとってなによりの助けとなる。
「じゃあ俺は俺のやるべきことをするか」
俺はまだふらつく足元に喝を入れ、ゆっくりと歩き出す。
向かうはまたもお隣さんになった天音の元へ。
行って今朝のことと親父のことを説明しなくちゃ……。
ふらふらと歩く俺はようやく隣りの病室までやって来ると、ノックをした。
もう間もなく夜を迎える時間帯、面会時間も過ぎ去ろうとしているせいか、廊下は恐ろしいほどに静かで閑散としていた。
「はーい」
天音の思いのほか元気そうな声が返ってきて、俺は内心安堵しつつ扉を開ける。
「大丈夫か?」
「うん! 真希人こそ大丈夫?」
俺と目が合った天音は目を輝かせ、案の定自分のことよりも俺の心配をする。
「平気だよ。もう歩けるし」
そう言ってゆっくりと天音が寝ているベッドに歩いて行き、近くの椅子に腰を下ろす。
「こっちに来てよ!」
天音はどこか甘えたような声色でベッドを叩く。
「しょうがないお隣さんだな」
「こっちでもお隣さんとはね」
渋々彼女のベッドの空いたスペースに移動した俺を、天音はニヤニヤしながら眺めている。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
そう言って天音は起き上がって勢いよく抱きついてきた。
「お、おい……」
「いいから。お願いだからこのまま……ね?」
さっきまでのふざけた雰囲気はどこへやら、急にトーンダウンした掠れそうな声を発し、天音は腕の力を強める。
心地いい。
素直にそう思った。
当然同年代の女子に抱かれているのだからドキドキもあるのだが、他人の体温というのはここまで人を安心させるものなのかと実感する。
いつもの天音の匂いと桜の匂い。
今朝の夢の中で抱かれた死神から香った匂いと同じ。
「やっぱりあれは天音か……」
俺はあらためて確信を持った。
女子の匂いで完全に判別するというのは、他人から見たら相当気持ちが悪いのだが事実なのだから仕方がない。
「他の女の匂いがする……」
俺の独り言の直後、天音が恐ろしいことを口にする。
「マジ?」
「マジよ?」
どうやらマジらしい。
俺を抱いた女の子なんて、天音か死神ぐらいのものなのだが……。
「俺を抱いたことがあるのは天音だけだぞ」
嘘は言っていない。
だって死神は天音の未来の姿なのだから。
「へ~」
天音の声が心なしか冷たい。
俺が匂いで確信したように、天音も匂いで他の女の存在を察知したらしい。
なんて恐ろしい能力なんだ……。
「わ、分かった。お話します」
「最初からそうしてよね」
天音は悪戯っぽく笑うと、俺の背中に腕を回したまま寝転がり、俺ごとベッドに倒れこむ。
「ちょっと天音!?」
「いいから黙って」
天音は俺を抱きしめたままベッドの上、俺の唇を奪う。
俺は何の抵抗もせずにされるがまま。
こういうのって普通は男からするもんじゃないのか?
そんな疑問が一瞬巡るが、すぐに天音の匂いと感触に支配され、ぼんやりとし始めた。
前はこんなに積極的じゃなかった気がする。
どちらかと言えば俺の方が依存気味で、天音の方は見かけ上は俺にべったりだが、精神的には自立していた。
何故なら天音には俺以外の人間関係もあったし、学校というコミュニティーもあったから。
だけど今の天音はどうだろう?
俺から唇を離し、ベッドで俺を締め上げる天音を見て思う。
きっと学校でまた揉めたのだろうか?
先生の話が本当だったとするならば、天音はもしかしたら誰かと心の距離が離れすぎて倒れたのではないだろうか?
だから妙にここ最近スキンシップが激しい。
俺に依存してしまっている証拠だ。
「それで、他の女の匂いがするのはなんでかな?」
散々俺をベッドの上で締め上げた後、満足そうに俺を手放した天音が問いただす。
俺は彼女の隣で正座中である。
「夢の中の話なんだけど……」
「ほぉ……そういう逃れ方をしてくるんだ」
天音の表情がこわばった気がして、俺は焦って訂正する。
「違うから。最後まで話を聞いてくれ!」
違うからと言いつつ、何も違わない。
何故なら本当に夢の中で抱かれただけなのだから。
でも抱いたのは未来の君だけどね?
「わかったわかった。話してよ」
天音は今度こそ話を聞く姿勢になった。
「夢の中で例の死神に会ったよ」
俺がそう切り出すと、天音は目を大きく見開いた。
「それってどんな格好だった?」
天音が答え合わせをするように尋ねてくる。
俺は見たまんま。
ありのままの死神の姿を伝えた。
「……全く同じだ。記憶の中の死神と同じ。三か月前に演奏会で見た時と同じ」
天音は腕を組んでブツブツと独り言のように繰り返す。
しかしこれで確実になった。
あの死神は天音が見た死神と同じ存在だ。
「死神といろいろ話したよ。彼女は後悔していた」
俺はそのまま今朝の話を全て伝えた。
死神が後悔していることも。
未来の世界で俺が孤独になって死んでしまうことも。
世界の呪いのこと。
死神が俺から音楽の才能を奪ったせいで、その死が、世界の呪いがより早く発現してしまったことも。
「それじゃあ死神は真希人を助けようとして、結果的に悪化しちゃったってこと?」
静かに聞いていた天音は、ただそう結論付ける。
確かに客観的に聞いていればそうなる。
いわゆる善意のお節介。
死神が行動を起そうが、そのまま未来で俺の命を刈り取っていようが、結局俺が死ぬ未来は変わらない。
現状のままではそうだろう。
だけど俺は死神に、未来の天音に約束してしまった。
絶対にこの俺、菅原真希人と早坂天音を救うと。
どちらかしか生かせない選択はしないと。
未来を変える。
そう約束したのだ。
「まとめてしまうとそうなるな。だけどここでもう一つ最大級の秘密がある」
俺は一度深呼吸をする。
俺の様子を見て、天音は真剣な表情を浮かべる。
「演奏会の時、お前だけが死神を見ただろう?」
「うん……他の人に見えてたなら騒ぎになっているからね」
天音は思い返すように答える。
「そう。答えから言うとさ、あの死神は未来の天音なんだ」
俺の答えを聞いて天音は硬直する。
固まってしまう。
そりゃそうだ。
まさか自分が未来で死神になっているなんて、信じたくもないし信じられない。
「死神の言い方的に、おそらく死神を見ることができるのは、その死神と深い関係にある人間だけなんじゃないかな? だから天音は演奏会の時に見ることができた」
天音は半分思考停止してしまったのか、ゆっくりと頷く。
数分間待ってから、俺は一度に説明をし始めた。
その死神と接触した際に桜の香りがしたこと。
その匂いと感触で天音かと問いかけたら、姿が変わり、やや大人びた天音が出てきたこと。
「そしてこのままだと天音も死んでしまう。今日倒れたのだってそれだ」
俺は天音にもっとも言いたくないことを宣言する。
半分死刑宣告のようなものだ。
貴女は近い将来人間ではなくなる。
記憶も自我もなく、ただただ命を奪う装置として生まれ変わる。
そんな残酷な宣言をしなければならなかった。
これからのために。
そんな未来を回避するために。
「事情は先生から?」
天音は俯きながらそう言った。
「ああ。天音が俺のことで、クラスで孤立してきているって」
俺は正直に話す。
重苦しい空気が病室に蔓延する。
「そっか……。清水先生って普段は何も言わないけど、見てるところは見てるよね」
天音は気まずそうな顔で窓の外を見る。
すっかり日が暮れて夜の時間。
電気もつけていないから、部屋を照らすのは月明かりぐらいのもの。
ちょっとの沈黙。
「真希人が死ぬ理由は、さっき言ってた世界の呪い? このまま孤独のままだとどんどん衰弱していって、死神が遣わされる」
沈黙を破ったのは確認だった。
俺の死因の確認。
「そうなるな。そしてそれは……」
「私の死因でもあるのね」
天音が言葉を引き継ぐ。
彼女も自分が弱っていて、俺と同じ状態だと思っていたのだ。
本当に今のままだと、二人で孤独死という訳の分からない状態になってしまう。
何とかしなければならないが、どうしていいのか分からない。
頭では分かっている。
孤独にならないようにすればいい。
正解は分かっているが手段が見つからない状態というわけだ。
「そして俺の親父の死因でもある」
俺はこの流れで、ついでに話しておくことにした。
実は清水先生と親父は親交があって、親父の最後の時に一緒にいたこと。
親父がまるで誰かに伝えようとしているかのように、死神や世界の呪いについて説明していたこと。
そして俺はそれをさっき初めて聞いたこと。
あの時の清水先生の目は本気だった。
本気で何かを変えようとしている人の目だった。
学校は任せろと言っていたけれど、一体どうするつもりなのだろうか?
当事者なのであまり偉そうにするのも違うのだが、俺たち二人と他の生徒たちの関係は修復不可能なほどに壊れていた。
溝なんていう生半可なものではない。
特に吹奏楽部の連中とは絶交という段階にまで来ている。
それに俺にはもう彼らの声は聞こえないのだから。
「そう。やっぱり天才って薄命なのかな?」
天音はさらっと口にする。
特に深い意味はなさそうな、何となくの疑問なのだろう。
「どうだかな? 長生きしている天才もいるからなんとも……結局のところ周りの理解があるかどうかじゃないのか? それに……」
「それに?」
「自分と周囲の違いを理解をしようという姿勢とか?」
俺はそれを口にして自分で笑い出した。
釣られて天音も笑い出す。
俺の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
いま一番俺に欠けているもの。
足りないもの。
ある意味、俺にとっての死因となる思考。
生きるために必要な要素だった。
「まさかあの真希人からそんな言葉を聞くなんてね」
天音はしみじみと語る。
ずっとそばにいた天音なら、よりいっそうそう思うのかも知れない。
俺の半生を共にした彼女だからこそ、俺の欠点には当然気がついている。
「そうなると私もちゃんとしないとな……。真希人が生き延びてくれるなら、私は死神になんてなっている場合じゃないもんね」
その通りだ。
影に囚われた死神の最後の願いは、俺と天音が無事に生き延びる未来を掴むこと。
だけどどうなるのだろう?
もしも天音が俺と共に生きる未来があったとしたら、そもそも死神は来ていないわけで、その場合は時間の流れが変わるのだろうか?
「天音はどう思う? もしも天音という死神が来なかった場合の未来。音楽の才能を奪われなかった世界。死神はそっちの世界で俺が死ぬから、未来を変えるために来たと言っていたけれど、もしも死神がきたことで未来が変わって、天音が死神にならなかったら、その未来はどうなるんだろう?」
自分で話しながら頭が混乱してきた。
一体どうなるのか?
死神が言っていたのをまとめると、Aルートでは普通に死神がやって来て命を刈られて終わり。
Bルートだと死神がそれを嫌がって過去にタイムトラベルをして、未来を変える。
今のところBのルートの真っ最中な訳だが、このまま上手くいったとしても、Bルートの始まりとなった死神がいなくなる。
そうなった場合、時間の流れはどうなるのだろうか?
いま俺たちが歩むルートはどこになる?
「難しいこと言い出すね……」
天音はそのまま考え出す。
天真爛漫な彼女だが、意外と何かを考えるのは好きなタイプではある。
そのまま考え込んでいる様子だったので、俺は立ち上がる。
「どこ行くの?」
「ちょっと自販機」
不安そうに尋ねる天音は、俺の返事を聞いてホッとしたのか、軽く手を振って再び思考の海に沈んでいった。
そういうところが不安なんだけどな。
俺は心の中でそう呟き、病室を後にした。
病室を抜け出した俺は自販機でカフェオレを二つ買う。
買ってから気づく。
流石に人の気配が無さすぎる。
当然ながら就寝時間などではなく、廊下の電気もしっかりと点いているのだが人の声はもちろんのこと、足音も物音もしない。
まるで無人のようだ。
無人の病院など怖すぎるので止めて欲しいのだが、どうにもおかしい。
どこかの異空間に飛びこんでしまったような感覚。
それこそ夢の中のような錯覚に陥る。
「ここは病院であっているんだよな?」
廊下で呟くと俺の声がどこまでも木霊する。
寒気がする。
どう考えても普通じゃない。
何かおかしなことが、それも超常的なことが起こっている。
足がすくむ。
だけどここで固まっている場合ではない。
ここには天音がいるのだから!
「天音!」
俺は何故か軽やかに動く足で病室に向かって走りだした。
「天音!」
俺は息も絶え絶えに、勢いよく病室の扉を開ける。
「真希人!」
帰ってきた返事は天音の声。
しかし視界には二人いる。
人が二人。
俺も含めれば三人か。
俺と天音と……死神?
「なんでここに……」
俺は呼吸を整えながら尋ねた。
今朝夢で会ったばかりだ。
間違いない。
いまここにいる死神は、俺を救おうとした死神。
天音の未来。
変えて消さなくてはならない未来。
「ここは夢の中。私の最後の我儘で二人にはこっちに来てもらったの」
死神はそう微笑んだ。
確かに寒くも暑くもない。
俺が走れるということはそういうこと。
ここが夢の中だからだろうか?
さっきまでは無かった椅子が増えていて、そこに死神が座り、やや怯えた様子の天音がベッドに座っている。
俺はトボトボと天音の横に座る。
「いま現実の俺と天音はどうしてる?」
夢の中に引きずられたとはいっても、それは精神だけだろう。
「大丈夫よ。君たち二人はいま同じベッドで一緒に眠っているわ」
死神は安心させるように教えてくれたが、全然大丈夫ではない。
もしも途中で誰か来たらどうしてくれる。
病院で盛り上がっていると思われるではないか。
「ま、まあ良いか。それより天音に何もしてないだろうな?」
俺は一応警戒する。
今朝の様子だと天音に危害を加えるとは思えないが、一応だ。
「やっぱりこの人だよ。私が演奏会で見た死神は」
天音はそこまで驚きもせずに指摘する。
彼女は一度本物を見ているだけあって、すんなり受け入れている。
「それにしても本当に桜の香りがするんだね」
天音が呑気にそんな感想を述べる。
確かにいまも桜の香りが漂っている。
「ええ、この香りは君たちの家の間に生えている桜の香りよ。きっとうつってしまったんだね」
死神が答える。
ちょっと説明になっていない気がするが。
「分かりにくかった? これは未来の真希人のベッド脇にずっと活けられていたんだ」
そう言う彼女の顔は愛おしそうに微笑んでいた。
今も俺の病室のベッドの横には、桜の木の枝が活けられている。
この頃からずっとなんだな。
あんまり桜の木の枝をお見舞いで持ってくる人はいないと思うが、これが天音のセンスだろう。
「でもそのお陰で、俺は君が天音だと気がついたんだ」
俺と天音の家のあいだにそびえ立つ桜の木。
種類はヤマザクラ……。
「ヤマザクラだよね」
天音も俺と同じことを考えていたらしい。
「ヤマザクラの花言葉は”あなたに微笑む”。実に二人にお似合いの花言葉ね」
死神はクスクスと笑う。
反面、天音は顔を真っ赤にして俯いている。
初めて死神が笑っているのを見た。
過去の自分をからかうという遊びを覚えたらしい。
しかしそうか。
花言葉なんて気にもしていなかった。
天音が照れているところを見ると、花言葉を知ってて持ってきていたようだ。
「良いから! 本題に入ろうよ!」
天音は顔を真っ赤にしながら話題を変える。
今の本題は確実に花言葉だったのだが、ここは大人しく従っておこう。
「それで、なんでまたこっちに引っ張りこんだんだ?」
単純に疑問だ。
今朝話したばっかりだというのに、一体何なのだろう。
「ちょっと我儘かなと思ったんだけど、最後にもう一度だけ会っておきたかったんだよね」
死神は不穏な言葉を口にする。
最後と言ったか?
つまり死神はもう影の中にすらいられなくなってきたと?
「真希人の予想通りだよ。私はもうじき消える。その前にもう一度二人の顔を見ておきたかった。まあ天音の方は知っている顔だけどね」
死神は最後とは思えない雰囲気で陽気に喋りだす。
まるで失っていた時間を取り戻すかのようだった。
「そういえばここに引きずられる前に話していたことがあるじゃない?」
天音が切り出す。
そうだ未来の話。
この先どうなるのかの仮定の話。
この死神がこないルートを進んだ場合の未来。
「それもあって二人には来てもらったの。話はなんとなく聞いていたから、しっかりと自分の耳で聞きたいの」
死神は覚悟の決まった顔で天音を見る。
「じゃあ私の考えというか想像なんだけど、貴女には耳の痛い話になるかもしれないけどそれでも聞く?」
天音はそう前置きする。
死神は黙ってうなずき、話の続きを促した。
「私の考えだと、貴女の勘違いなんじゃないかって思うの。というよりそういう可能性が無ければ、未来が絶望的なのよね」
つまり今から天音が話す内容は、可能性の一つであると同時に希望的観測であり、それが死神にとってはあまり好ましくない話であるという。
一体何だろうか?
「事実かもしれないけれど、実際は分からない話ってことか」
「そうよ」
天音が答える。
でもそれで良いと思う。
どうせ未来のことなんて分かりやしないのだ。
唯一知っているのはこの死神だけ。
そこまで考えて思い当たった。
天音が語ろうとしているもう一つの可能性。
AルートでもBルートでもない、三番目のルート。
このルートを進むことができれば、全てが丸く収まる。
なるほどこれは希望的観測をだいぶ含んでいるうえに、死神にはあまり聞かせたくない話ではある。
「じゃあ教えてくれ天音」
俺はそれらもろもろを覚悟のうえで、話を進めた。
話を促された天音は一度大きく深呼吸をする。
今から語るのは理想だ。
酷い現実だ。
特に死神にとってみれば、酷い話に聞こえるだろう。
「いろいろ話しながら、いろいろ考えて到達したもう一つの可能性。死神が過去に干渉せずそのまま世界の呪いで死んでいく未来。死神が過去に干渉した結果、本来の未来よりも早くにその命を落とす未来。今まではこの二つのどちらかで考えていたし、実際私もそうに違いないと踏んでいた。だけどさっき気がついた。可能性はそれだけじゃないって」
これはほとんどトリックのようなものだと思う。
人間、提示された条件下で物事を考えて判断しようとしてしまう。
それを鵜呑みにしてしまう。
信じてしまう。
そしてそれは実際に未来を見てきた死神にも当てはまる。
死神は自分が実際に見た分、その罠に陥りやすい。
「そして私が見つけたもう一つの可能性、もう一つの未来。希望的観測も含めながらも、現実的にあり得ない話ではない未来。それはね……」
天音はここで一瞬止まる。
目を見開いて、一度だけ俺を見た。
俺は無言のまま首を縦に振る。
死神には申し訳ないが、この未来しかない。
「それは……死神が未来で見た衰弱している真希人が勘違いだったという未来」
「……か、勘違い?」
流石に死神も狼狽える。
自分の両手を見つめたまま声を震わせ、やがて口を開く。
「勘違いも何も、どっからどう見たって真希人は……」
「違うわ! そうじゃないの」
死神の言葉を天音が遮る。
「貴女が見たベッドの上で横たわっている真希人は正しい。それ自体は何も間違っていないと思うし、実際に世界の呪いにかかっていたからこそ、死神である貴女が派遣されたのだろうからそこは正しい。だけど……」
死神は説明を続ける天音を見つめる。
何を言われるのか、皆目見当もつかない様子だ。
「だけど、貴女が弱っている真希人を見た未来が問題なの」
「未来が問題?」
死神は意味が分からないと、首を何度も横に振る。
「ここで問題なのは、貴女が観測した真希人が一体どの未来の真希人なのかってこと」
いよいよ天音の言いたいことが見えてくる。
そうなのだ。
死神は何も間違っていない。
世界の呪いは発動していたし、その結果死神が呼ばれて俺と彼女は対面している。
その未来は正しくてどこも間違っていない。
だけど問題は、その未来がどの未来なのかということだけだ。
「私たちは思い込んでたの。貴女が見た未来の真希人の話が、貴女という死神が過去に干渉しなかった未来の結果だと、無意識にそう思いこんでいた」
死神の言い分では、未来で死ぬ運命にある俺を見て、その運命を変えようと過去にやって来た。
そして俺から音楽の才能を奪い、俺自身の生き方を変化させようとした。
未来を変えようとした。
しかし今朝夢の中で懺悔していたように、実際は上手くいかなかった。
俺から音楽の才能を奪ったせいで、俺はより孤独を強め、死神が干渉する前の俺よりも早くに死を迎えるかもしれない。
そう言っていた。
確かに死神から見たらそう見えるのだろうし、そう考えるしかないのも分かる。
だけどもしその前提が間違っていたとしたら?
もしもその考え自体が、見たものの解釈が、すべて勘違いだったとしたら?
「つまり貴女が最初に見た真希人の姿が、すでに”死神が過去に干渉した結果”なのだとしたら?」
天音が口にする第三の可能性。
起きている状況自体は正しい。
何も間違っていない。
しかし、その見ている状態が一体どの結果の未来なのかは誰にも分からない。
知りようがない。
だからこれはあくまで可能性の話。
俺と天音からしたら、未来に対して前向きになれる話だが、死神からしたら残酷な話だ。
なにせ死神が、彼女が、何もしなければ”菅原真希人は死ぬことは無かった”のだから。
これはそういう話だ。
「……う、嘘。そんなの信じられるわけ」
死神は取り乱す。
両手で頭を抱え、その美しい顔を歪ませる。
「だって私が見た未来が違ったら、そんな、でも……」
死神はなんとか否定の材料を探すが、何も見つからないので焦る。
だってこれはあくまで仮定の話。
否定の材料なんて転がっているはずがない。
「だからあまり貴女の前では言いたくなかった。貴女の行動がまるっきり無駄なことだったなんて言いたくなかった。実際にそうかは分からない。確証はない。未来のことなんて誰にも分かりはしないから」
天音は、狼狽える死神に言葉を投げかける。
死神はそのまま床に突っ伏して涙を流す。
「それじゃあ、私のしたことって……。というよりも、私が真希人を殺したことになる。音楽の才能を奪うというもっとも残酷な殺し方。かつて好きだった人を死に追いやった。追いやってしまった……」
彼女は大粒の涙を流しながら悲痛な胸の内を吐露したが、それ以上喋れなかった。
言葉を失った。
俺も天音も何も口に出さない。
この場に響くのは死神の悲痛な号哭だけ。
俺はひたすら泣き叫び続ける死神の背中をさする。
流石に可哀想に思えてくる。
彼女は死に際の俺を見て、なんとかしようとした結果、いまこの場にいる。
だけどそれ自体が間違いだった可能性が見つかってしまった。
それも確率の高い可能性だ。
「……私が、真希人を……こ、ころし……」
「え?」
掠れそうな死神の声に俺は聞き返す。
しかし返事の代わりに、死神は自責の呪いを発し始めた……。
「私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が……」
死神は壊れたカセットのように、同じ言葉を繰り返す。
一言ごとに床を叩き、自分を傷つける。
「ごめんなさい」
壊れたように繰り返す死神の言葉を遮ったのは、天音だった。
天音も目尻に涙を浮かべながら、そっと死神を抱きしめる。
ただそれだけ。
天音は万感の思いを込めて、ただその一言だけを、死神に手向けた。