藍里は実は赤ん坊の頃から子役モデルとして活動していた。最初は親のエゴであったが、子供の頃から芸能界という中で過ごすのは彼女にとっては当たり前で日常的であってずっとその中で生きる者だと子供ながらに思っていた。
アマチュア演劇で活動する父とその彼と同じサークルの後輩であった、さくらも実は演劇経験者で結婚と同時に役者を諦めて、娘である藍里に全てを託した。そのためマネージャー業も徹していた。
藍里はとある劇団で舞台女優として活躍するさくらの映像を見せてもらった時に
「私も女優さんになりたい」
と言った。裏役に徹して化粧っ気もなく地味になった母親が自分の知らない時に華々しい美しい見たこともない表情や声で活躍する姿は別人のように見えたが、すごく憧れでもあった。
子供だからと多くの大人から可愛い可愛いとチヤホヤされつつも、子役として活躍して成功するのはほんの一握りで、藍里のこれといった大きな仕事はあまりなく、地元のスーパーの広告だったり、ドラマのエキストラや他の有名な子役を引き立てる生徒役だったり、バックダンサーだったり。
唯一、全国区で流れた一つのCMがあるが半年後にその会社が倒産してしまい、終わってしまった。
そして藍里が小学生に上がった頃に同じくして所属事務所が潰れて藍里の芸能人生はあっという間に終わりを迎えるのであった。
それ以来は普通の小学生として過ごしていた。彼女が子役だったことを知る人はほんの僅かで、演劇の時間であっても藍里は目立とうともしなかった。
しかし夢は心の中に残していた。だがじしんの女優の夢も、娘の夢も手放したさくらの前では言ってはいけないと子供ながら思っていた藍里は黙っていた。
「僕のね夢は店を出すことなんや」
過去のことを思い出していた藍里は時雨のその一言で一気に現実に戻った。
「料理屋さん?」
「そう。……実家で母さんが居酒屋やっててそれを手伝ってるうちに料理が楽しいって思えてさ」
「すごく美味しいもん、時雨くんの料理」
「ありがとう。母ちゃんや一緒に働いてたおばさんのを見よう見まねでやっとったんやけどさ、もっと上手くなりたいって思ったから前の料亭に住み込みで10年働いてたん」
「10年も!」
「なんだかんだでね……お金貯まったら、と思ってるうちに居心地良すぎて。店の雰囲気も大将やみんなといるのが楽しいし勉強もなったん」
ニコニコと語る時雨。こんなに愛嬌があったら多くの人に可愛がられるのも目に見える。そんなふうに藍里は思ってた。
「仕事以外でも料理はしてたの?」
「うんうん、住み込みでもあったけどさ。今日は誰が賄い作る? 朝ごはん作る? って。実家の時も忙しい母ちゃんと一緒に家事や料理もしとったんや」
「だから家事もテキパキできる……」
「下に弟おってな。2人で一緒にな」
「男の人なのに家事とか料理するのね」
と、藍里が言うと時雨はン? という顔をした。
「んー、家事料理は男女も関係ないよ」
再びニコッと笑う時雨。
「好きな人がやればいい。僕は好きだった」
「でも好きじゃない人は?」
「んー、それはみんなで協力すればいい。それでもダメならそういうサービスに頼るのもよし」
「お金かかるよ……何回か頼まなきゃいけないことがあってさ、ママが倒れた時」
「ほぉ」
藍里はその時のことを思い出した。まだ離婚する前だった頃か。さくらがメニエールで倒れてしまったのだ。父親は仕事が忙しく、家事は全くしない、近くに彼の両親がいたが当時両方とも体調が悪くその時ばかり助けられないと言われ、藍里もまったく家事も料理ができない小学生であった。
さくらはしかたなくこっそりハウスキーパーを雇うがバレて怒られていた。
「こんな高い金使うな!」
床に落ちていたチラシを見たら確かに数字がいくつも並んでいた、と覚えている。
父親は母親が倒れてどうする、倒れてでも最低限のことをしろと言っていた。
実の所、さくらが結婚と同時に演劇を辞めたのも家事に専念して欲しいからとのことだった。だが父親の仕事があまり軌道に乗らなかったからさくらも仕事をしようとしたが社会人を経験せずに結婚したため上手くいかず、藍里に託したのもあるのだ。
全てをさくらに押し付け家庭を顧みない父親、さくらに家事の不出来をなじる大きな声、さくらの啜り泣く声、そのストレスを藍里にぶつけるかのようにヒステリックに叫ぶ声……。
「藍里ちゃん? どしたの」
「……何でもない」
また現実に引き戻された藍里。忘れたと思っていたがやはりふとした時に思い出す。
「でも誰もやれなかったらお金出してでも誰かに頼ってもいいんだよ。僕はそう思う。てか僕ってそうじゃない?」
そういえば、と。時雨くんはさくらにこの家に住まわせてもらって家事料理全部やっているのだ。藍里は笑った。
「でしょ。でもお金だけじゃないよ。2人が楽しそうにニコニコとしてるのを近くで見られる、それも活力になってる。ありがとう」
ありがとう、家事や料理を全部やってもらい、自分が反対に率先して言わなくてはいけないのに……と藍里はふと思う。
時雨が来てからさくらは笑うようになった。ヒステリックに叫ぶことはなかった。
そして自分も笑うようになった……と。
「ありがとう、時雨くん」
「どういたしまして」
「久しぶりやな」
「だね」
「うわ、喋りがやっぱ都会の人間になっとるわ」
「そう? 神奈川にいたのも三、四年だし」
休み時間、級長である清太郎に学校案内してもらう藍里。
久しぶりの再会である清太郎との会話も弾む。
「まぁここ愛知やからな、名古屋弁移るよ」
「岐阜弁もさ、名古屋弁に影響されとるやん」
「あ、出た。藍里の岐阜弁」
「えへへ」
「えへへはちゃうって……」
2人は何となく照れくさい。それにあまり距離は縮めてしまうと周りからカップルと思われてしまうのも嫌なのか清太郎は少し距離をとる。それを読み取り藍里も少し離れる。
「そいや宮部くん、ここまで電車で通ってるの?」
岐阜から通えない距離ではないし、清太郎と同じく県外からの生徒も多数いる。地元にも高校はいくつかあるのだが、なぜか彼は隣の愛知県に通学しているのに少し藍里は気になっていた。
「あ、一年の途中まではそうやったけどさ。こっちに親戚がおってな。母ちゃんのお姉さん夫婦。一度大雨あった時に泊まらせてもらって、そこから通った方が楽ってわかってさ、夏休み明けからそうしてる」
「え、家族の人はいいって言ったの?」
藍里は清太郎の家族とは顔見知りで、特に母親同士仲良かったが、それでもさくらは清太郎の母親に連絡もしないままであった。
「……まあな。おばちゃんちはもう子供大きいから部屋空いてるし面倒見たがりだから。それに実家から出たかったし」
「お母さん……寂しがってなかった?」
藍里の記憶の中での清太郎の母親は上に女の子、そして次の清太郎の2人の母親で、特に甘えん坊だった清太郎を特に可愛がってるのを覚えていた。
「……べつに。それに父ちゃんは単身赴任中やし、姉ちゃんと女2人きり気楽にやっとるやないの?」
「お姉ちゃん怖いもんね」
「そやそや……うるさいから。ってそれ聞いたら怒るでー」
「ごめんごめん」
するとすれ違った女子生徒2人が藍里たちを見てコソコソ話している。
恋人同士と間違えられたのだろうか。2人は少し話すトーンを抑えた。
「それよりもお前の母ちゃん、元気か」
「えっ……」
「うちの母ちゃん、心配しとるんよ」
「まぁ元気にしてるよ」
「ならええけど。お前たちいなくなってから母ちゃん、しばらく病んだんや」
藍里は言葉を失った。自分達がいなくなったことで心を痛めた人がいるとはと。
「僕も心配やった、めっちゃ……でも母ちゃんはお前の母さんの悩み全部きいとったのに助けてやれんかったって」
「……そうだったんだ。ごめんね」
「謝ることはないし、母さんには言わんといてや。まぁ大人たち同士のことは僕らにはどうもできんけどさ」
学校案内とかいう名目で久しぶりの再会の会話になるが、そのようなことを聞くとは思わなかった藍里。
「……あとこれ言うのもアレやけどさ。お前の父ちゃん、すごいよな……て父ちゃんじゃないか」
「ああ、そうね。いつかは言わなきゃと思ってたし。離婚したんだよね。それからお父さん東京に行って劇団に引き抜かれて……」
「今じゃプライムタイムで主役級、コマーシャルもたくさん」
「たしかに……」
そう、藍里の父、さくらの元夫は地方の劇団員から東京の大手劇団に移り、テレビに引っ張りだこの俳優、橘綾人である。
「地元では有名でお祭り騒ぎ」
「なんかもどかしいというかこっぱすかしいというか」
「……離婚しても父さんは父さんでしかないのか、藍里にとって」
藍里は頷いた。優しくて面白くて背が高くスタイルも良く世間で言うイケメンな父。だが仕事のストレスをさくらに当たる昭和男で、子供の前平気でさくらに対するセクシャルなことを嫌がってるのにも関わらずする一面を目の当たりにしていた彼女は複雑でもある。
「そっか。あ、一応案内は終わりだけど……一緒に帰るか? 部活動は基本自由なんや。塾とかバイトとか行ってる人が多いし、スポーツは優待生メインだしね」
「……私もバイトしてるからもう帰るよ。案内ありがとう」
すると清太郎が藍里をじっと見た。
「なら一緒に帰ろや」
自分よりも少し背が高くなり大人びて声変わりした彼に対してドキドキさせられる。
だがここ最近もこんなドキドキをしたばかりだったのに、と思いながらも
「うん」
と頷く藍里であった。
2人は学校を出る。藍里は男女2人で帰るのは少し恥ずかしさを感じたが、他にも数組ほど男女で帰ってるのを見てまぁいいかと。
それよりも幼馴染との再会が嬉しい。
「そいや家はどっちなん」
「あっ……」
藍里は思い出した。母との約束を。友達やクラスメイトには家を教えないことという。
一応離婚をしたのだが、一度逃げた神奈川の移住先を父や祖父母たちに乗り込まれてさくらは大変な目にあったと。そのとき藍里は地元の小学校に通っていたから話しか聞いていないが。
現に父親や祖父母には今は会っていない。離婚が正式に決まる前に会っただけである。
別にバレても問題はないのだが、さくらはあの時の見つかった時のことをトラウマになっており、時折逃げていた時のように怯えたりフラッシュバックを引き起こすのか鬱になるのを藍里は見たことがあった。
だから極力教えないで、と。そしてバイト先は住んでる所の下にあるファミレスだが、当初はウエイトレスを頼まれたのだが同じ理由でさくらは店に対して店に出る仕事だけはやめてほしい、と頼み込んで渋々調理担当にさせてもらえたと言う。
「ごめん、そういう理由で……教えられないの。途中まで、あそこの角まで」
「……そうなんか。わかった。僕もこう一緒に帰ろうっていうのもあれだったな」
「ううん。大丈夫。クラスでもまだ馴染めないし、知ってる人がいるだけでもホッとするよ」
最初は互いにワクワクしていたのだが事情を伝えていくうちに2人の中は重い空気になる。いつかはわかってしまうことで、隠し事したくても隠せない藍里。
でもそれをしっかり飲み込んでくれる清太郎に、昔と変わらずなんだかんだで優しいとさらにドキッとさせられてしまう。
こうやって女性に優しいのは彼の姉が女の子は大事にしな、という厳しい言いつけがあるからだ。
そしてなんだかんだであっというまに藍里の言った角まで着いてしまった。
「……じゃあ気をつけて帰れよ。ぼくんちはあのすぐそこにある弁当屋、あそこがおばさんたちの店で店舗も構えてる。空いた時間には配達とかしてるから、なんかあったら朝こいよ」
実のところ、藍里もあの弁当屋の前を通る。でもこの角までと言ったからにはそれは伝えられない。
「電話番号だけでもええやろ。何かあったら電話しろ。あと裏には弁当屋の電話番号あるし」
と、その場で弁当屋のフライヤーに清太郎は電話番号を書いて藍里に渡した。
「……ありがとう」
「じゃあ、また明日な」
「うん」
と、清太郎の後ろ姿を見て見えなくなってから動こうと見ていた所だった。
「百田さんー、見てたよー」
藍里は振り返ると数人の女子たちがいたのだ。クラスメイトたちだった。
「ねえねえ、宮部くんとすっごい仲いいけど……幼馴染って本当?」
「あ、うん……」
「ねぇ、あんなに仲良いなら付き合っちゃいなよ」
「いや、それは」
藍里は女子たちに囲まれる。
「ごめん、バイトがあるから!」
と走り去った。すごく顔が真っ赤になってるのはわかる。もうなにがなんだかで、すっかりわすれて清太郎の弁当屋の前を走ってしまった。
「あれ? 藍里?」
声をかけられたのもわからないほど藍里は走った。
そしてマンションまで辿り着くとエレベーターに乗り、べたんと座り込んでしまう。
「……彼は幼馴染よ、ただのっ」
息を切らしてもまだドキドキは止まらなかった。
ピンポン
5階に着く。息も絶え絶え。なんとか部屋にたどりつき、ドアを開けた。
いい匂いがする。きっと時雨が仕事から帰ってくるさくらのためにご飯を作っているのだろう。さくらも走って疲れて食べたいとは思ったが、今日はバイト先で賄いを食べる予定だった。
「あら、おかえり。すっごい髪振り乱して何かあった?」
台所からぴょこんと顔を出す時雨。
「ただいま……美味しそうな匂い」
「ありがとう。エビチリ作ってるんだけど、食べる?」
確かにトマトケチャップの匂い、ニンニクの匂いもする。それらがきっとこの美味しそうな匂いなのだ。
「食べる!」
「少しニンニク多めにしちゃったけど……服着替えたら味見して欲しいな。今日バイトでしょ」
「うん。じゃあ今から着替えてくる」
そのあとエビチリを味見するどころかたくさん食べてしまった。
今まで食べたエビチリよりも全然味が違う、と感動してしまった。少しニンニクの匂いが強いが。
藍里は時雨のことが好きなのはこの彼の料理の腕前もあるかもしれない。
気もそぞろもあってか、バイト中に皿を一枚割ってしまった藍里。
「本当は、君はそそっかしい……」
「すいません」
調理担当の男性社員沖田はいつも一言多く、厳しい。
「せっかく可愛い顔してんだからウエイターの方行ってニコニコ注文とってりゃーいいやん」
それはできない藍里。表に立つ仕事はするなとさくらに言われてる。
「まぁそっちでも注文ミスとか皿割ったりしてもっと迷惑かかるか。そっちの方が会社の名誉に傷つく」
「すいません……」
「謝ってばっかじゃん、もういいよ」
なにがもういいよかわからず、藍里は調理室から離れてスタッフルームに行った。
女優の夢どころか将来の夢も持てず、バイトでは上手く仕事ができず、いろんなことに不器用な彼女はもう苦痛でしかなかった。
そしてあの男性社員が父親と重なる。
母親をなじるあの時の父の声と表情を思い出す。さくらもこんなに苦しかったのだろうか、あの時は全部さくらに当たられていたから感じなかったこの心の痛みが今になってわかっても遅い、と。
「百田さん」
同じアルバイトの女子大学生の岸田理生が藍里に声をかけた。ウエイター担当で他の派手でシャキシャキとした人たちよりも大人しく落ち着いている。
唯一藍里がバイト内で話せる相手でもある。
「さっきみてたけさっき見てたけどまた色々言われてたね。あんなの無視無視。バイトの雪菜と喧嘩してるし少し売り上げ下がってて本部からも怒られててカリカリしてるだけだから」
「ですよね、雪菜さんも機嫌悪くて」
そう、男性社員だけでなく違う高校バイトの雪菜にもネチネチ裏で藍里のミスを指摘されていたのだ。
「雪菜にも言っておいた。私情を持ち込むな、それを人にあたるなって……まぁ百田さんも二ヶ月目だし少しずつ頑張ろうね」
「はい……」
「にしても沖田には気をつけてね。なんだかんだ百田さんにあたってるけど狙われているから」
「えっ」
藍里は驚く。いつもなにかしら言いがかりをつけたり、粗探しして彼女にきつく当たっていたからよほど気に食わないと思われていたのだ。
「裏で他の男子バイトとか絶対百田さんの名前出るんだから。沖田が百田さんのことをベタ褒めしたから喧嘩して、それで雪菜も沖田も機嫌悪いってわけ」
そんなことを全く知らなかった藍里はなんか自分がカップルの喧嘩の原因になってしまったのかと申し訳なさと自分が他の男性からうわさの的になるとは、しばらくはそういう環境でなかったのと自分の中では時雨と清太郎しかいなかったため、他の男からの目の存在は知らなかったことにモゾモゾとしてしまう。
「おい、百田さんいつまで休憩してんの。早く戻ってよ」
噂をしてたら沖田が藍里を呼びに来た。理生は笑った。
「さぁ、行きなさい。……気をつけてね」
なんの気をつけてかわからないが藍里は頷いた。多分世間知らず、とのことだろう。
その後も理生から聞いたことのせいでさらに男性からの目が気になってミスが続き、その夜はヘトヘトで家に帰るハメになったのはいうまでもない。
家に帰ると遅くなるはずだったさくらがリビングのソファーで横になっていた。毛布でくるまっている。スマホを触りながら。
「ただいま、ママ」
「おかえりなさい、藍里」
気だるそうにしているのを見て藍里は察した。きっと生理だ、と。
「おかえり、藍里ちゃん……何か飲む?」
「うん、お茶飲む」
わかった、と時雨は台所に戻った。さくらの口元を見ると少し赤くなってる。あのエビチリを食べたんだろうな、と思いながら藍里は一旦部屋に戻って部屋着に着替えてリビングに戻った。
その頃にはもうお茶が置いてあった。
「ちょっと早く生理来ちゃったー。明日明後日休むわ……」
「わかったよ。無理しないでね」
「ありがとう」
と目を伏せてもスマホには目を通しているさくら。
何を見ているのかはあえて聞かない藍里。
毎月さくらが生理になると大抵休みになる。生理休暇、と言ってて藍里は自分のバイト先にはそんなものが無いから羨ましいと思った。
「ごめん、藍里……薬持ってきて」
顔色が悪いさくらに藍里は頷いて台所に行くと時雨が明日の弁当の準備をしていた。
「どうしたの?」
「ママが頭痛薬ほしいって」
「あー、ここにあるよ」
「ありがとう」
「つきのもの、きちゃったって……」
時雨は「つきのもの」と恥じらいながら言う。藍里とさくらの母娘2人だけだったら「生理」とダイレクトに言うのだが男である時雨の前では流石にそうは言わない。
「うん……」
「辛そうだね、毎回……こればかりは変わってやれないけど出来ることはさくらさんの身体が少しでも楽になるようにサポートするしかない」
よく見ると藍里が高校に持っていくお弁当だけでなく他にも器がある。きっとさくらのためのものだろう。
鍋にはほうれん草、にんじん、コーン、玉ねぎ、鶏肉の入ったシチュー。
「ほうれん草は貧血にいいんだよ。女性は男性よりもより多く鉄分取らなきゃダメだからね。あと温かいスープだと体も温まる……」
「普通に美味しそう」
バイト先でまかないをたべたのだが美味しそうな匂いについ食べたくなる藍里。
「味見する?」
「……え、いいの?」
「食べたい時に食べていいんだよ」
「太っちゃう」
「ははっ」
時雨にシチューを注いでもらい、藍里はフーフーと何度も冷ましてから口につける。
「美味しい」
「でしょ。って市販のルーだけどさ」
「……そうなんだ」
「こだわればルーなくてもいけるけど、ルーがなんだかんだでいいと思う」
「うんうん」
藍里は時雨とのこの時間がたまらなく好きだ。料理をする彼の横顔、こうやってお裾分けしてくれる、そして味見している自分をニコニコしながら見て、こうやって作ったんだよ、と嬉しそうに言う彼の笑顔が堪らなく好きなのだ。
「ねぇ、薬まだなの」
藍里は現実に一気に戻された。毛布にくるまったさくらが台所まで来ていたのだ。
「さくらさん、寝てていいんだよ。さぁ薬飲んで。さっきエビチリ食べたから薬飲んでも大丈夫かな」
時雨はすぐシチューのコンロの火を消してさくらの元に行き、リビングまで間寄り添って行く。それを見るとああ、時雨はさくらの恋人なんだ……と。
苦しい、なぜか藍里は苦しくなった。胸の奥が。時雨に恋をしてから感じた苦しみ。胸の奥というか、お腹というか感じたことのない痛み。
そう、あのときリビングで、まさしくこのソファーの上で2人が愛し合ってたとき、2人仲良く睦まじくしていたとき。
思い出すだけで苦しくなる。
藍里はコップに水を入れてリビングに行く。
「あ、水忘れてたよ。ありがとね、藍里ちゃん」
「いえ……」
さくらが藍里をじっと見ている。元気のないさくらを見ると昔の表情のない彼女に似ているように感じる。
「藍里は生理しんどい?」
時雨のいる前でその会話? と顔をするが答えないわけにもいかず。
「まぁしんどいけど薬飲めば大丈夫かな」
「ここ数年はさ、生理周期安定してたんだけどさぁ……」
と話が進むたびに時雨は居た堪れない顔をしてコップを持っていくついでに台所に行ってしまった。
「ママ、時雨くんの前でこういう話やめようって言ったじゃん」
「ただ聞いただけじゃん」
さくらは高校大学と女子校というのもあり、さくらとの接し方もそれの延長線上なもののようだ。
「……時雨くんと出会ってから生理周期整ったのよー」
「だからその話」
「藍里、高校でかっこいい人見つけたでしょ?」
「なっ……」
それ以前に時雨が好きになったなんていえない。そして、幼馴染の清太郎がいたということも。
「共学なんだからさ、いい恋愛してホルモンあげれば肌艶も良くなるわよ。あ、ただしエッチなことはまだダメよ」
さっきまで具合が悪そうにしていたのにニヤッと笑うさくら。
「さくらさん、横になってください。あとカイロをお腹と背中に貼るといいみたいだよ」
時雨が頃合いを見てか部屋に戻ってきた。
手には貼るカイロ二つ。今は春だというのに。
女の子は冷やしてはいけない、さっきのシチューも……時雨はさくらのために一生懸命に調べたのかと思うと藍里はまた心の中、ちくんとした。
次の日、藍里はハッとして目が覚めた。何かお尻から冷たい感じが……。
飛び上がってみるとお尻の辺りから血が。そう、藍里も生理が来てしまったのだ。幸いまだそこまで大量ではないのだが、ショーツはもちろんズボン、敷布団の上に載っている敷きパッドが血で汚れた。
「最悪」
自分自身も時雨に恋をし、ひさしぶりに幼馴染に会って成長した姿に浮かれてしまったのか? と思いながらも敷きパッドを丸めて持って洗面所に向かう。まだ朝も早い。台所には時雨はいるとして洗面所に向かうまでにお尻の血のシミが見えないよう前後逆にして、制服一式も持っていきこっそり部屋から出て洗面所に向かう。
ちなみに生理用品はさくらが買ってきて、血で汚れた場合は自分達で洗う。もちろん敷きパッドとかと同様だ。それはさくらと藍里母娘が時雨と同棲する時に決めたルールでもあった。
藍里はまず新しい生理用のショーツに夜用のナプキンをつけてタオルと共に置いておく。夜用にしたのもこの数年自分の血液の流出する量が多いとわかっているからである。
全部服を脱いでシャワーを浴びる。髪の毛はしっかり束ねて。
まだ始まったばかりなのかそこまでは出てくることはなかった。
もしかして、と昨日のちくんとする痛みは恋の苦しみではなくて生理前だったからなのかと。
浴室で体をタオルで拭き、ナプキンをつけたショーツを履き、浴室から出る。
ついでにシャツも替えて制服を着る。その時だった。
トントン
扉を叩く音。藍里はびっくりした。
「藍里ちゃん?」
時雨の声だった。きっとシャワーの音が聞こえたからか来たのだろう。今からショーツやシーツに着いた血液汚れを流そうとしたのだが。
「う、うん」
「ごめん……洗濯したいんだけどシャワーならまた後で呼んでね」
「わかった」
藍里は心臓がバクバクと言っているのに気づく。鍵はかけられる洗面所だった。
慌てて血液洗剤を取り出してかけたらたくさん出てしまって慌てる。
しかもいつもよりも朝早く目が覚めて少し眠い。
生理が来るたび女じゃなきゃよかったのにと口走ってしまう藍里。さくらも頷いていた。
でもこの数日辛いだけで乗り越えればなんとかなる、また汚したりしないだろうか。それを時雨に見られてしまったら。恥ずかしい、そんな気持ちばかりだ。
完全には落ちたわけではないかある程度汚れは落ちた。血液洗剤の独特な匂いが鼻にツンと来る。
この匂いだけでも勘付かれやしないか、ましてや洗濯機の中に敷きパッドが突っ込まれていたら……わかってしまうだろう。
いや何か聞かれたらもう替えたくて、といえばいいのか。いつも一週間に一回カゴに突っ込んであとは時雨に任せている自分に反省する。
いつもならこれくらいなのかな、と思う生理の日もなぜか藍里が思ってたのよりも早すぎて事前にナプキンを仕込むこともできなかったと思いながらも、生理はうつる、さくらからうつったんだろうという高校生ながらの安易な考えを思い浮かべる。
ショーツ、パジャマは洗濯機に入れたが一部洗って濡れた敷きパッドはどうすればいいのか。むやみに入れるとパンパンだから時雨に出されてバレてしまうのではないか……。
藍里はぐるぐる悩んでいた。
確かに今入れるのパンパンだと目視して藍里は悩む。
「どうしよう」
すぐ近くには大きなカゴ。藍里は堪忍して洗った部分を折り畳んだ敷きパッドを詰め込んだ。
結局は諦めた。このまま入れてくれるのだろう……と藍里は洗面所を出た。
台所を通ると時雨が朝ごはんを作っていた時雨。藍里の弁当箱はもう保冷バッグに入っている。
「おはよ、早かったね」
「う、うん……あのね」
藍里は洗濯物のことを言おうとするとリビングから音が聞こえた。テレビがついている。そしてさくらが起きていることに気づく。
「さくらさんも、起きてるんだけどさ……」
「ママも早いよね」
「僕が起きたら起きちゃって5時からずっとリビングでテレビ見てたんだけど」
母親が機嫌悪い、それを聞くとひやっとする藍里。機嫌の悪いさくらは少し苦手なのだ。
すると時雨が台所の奥に藍里を手招く。そしてリビングにいるさくらに聞こえないように小声で伝えてくれた。
「さっきテレビで……前の旦那さんが出ててさ」
「パパ……」
「そっから機嫌悪くなってさ」
小声でこそっと話を少しいつもより近い距離でするのにどきっとする藍里。洗濯物のことはいつ言えばいいのか……もどかしくなる。
するとリビングから声がした。
「時雨くーん」
「はーい」
近くの距離でいられた時間はあっという間に終わった。
まだドキドキはしていた。
あんなに近くで話したのは藍里にとっては初めてだった。ほのかに匂うレモンの匂い、正直彼が初めて家に来た頃は女世帯の家に1人の男性が来たのもあってか、家の中の匂いが変わったのを藍里は感じとった。
父といた頃、父はいい香りの香水をつけていた。何と言う香水だったか、レモンの匂い……そして微かに彼の吸っていたタバコの匂い。
タバコの煙は苦手だったが父の匂いは嫌ではなかった。父と住まなくなってから次第に臭いはなくなり、なんか寂しくなった時期もあったが次第に慣れていくのが不思議と感じる。
そして久しぶりの男の人の匂い。そういえば、と藍里は思い出した。父と最後にいた頃の年齢と時雨の年齢は同じくらいだ。
時雨は今はタバコを吸わないが家に来た頃はタバコを吸っていたらしい。今は働いてないからと吸ってはない。きっと彼も香水かなにかレモン系のものを身体に纏っているのだろうか、来た頃にふと香る匂いに藍里は懐かしさを感じた。
さくらは台所に置いてあったお弁当箱をいつも忘れないように玄関に置きにいくと、リビングからさくらの声が聞こえた。
朝からよくもまぁそんな大きな声を出せるなぁと藍里は思いながらもリビングに戻る。
「もう知らないっ!」
「ごめん、さくらさん……あ、藍里ちゃん」
時雨は困った顔をしていた。こういう場面は初めてではなかったが、たった少し部屋を離れただけで怒りの沸点に達するさくらは相当今日はカリカリしている、触れない方がいいと藍里はもうずっと一緒にいるからわかってはいる。だからあえてさくらのもとには行かないようにした。
「食べる? 朝ごはん」
「うん、食べる。ママは食べたの?」
ソファーに毛布をかぶって横になるさくらを横目に椅子に座る藍里。時雨は首を横に振った。
「じゃあ今から用意するから待っててね」
時雨が台所に行っている間にリビングのテレビのチャンネルをザッピングする。
朝はいつも同じ番組を流し、天気予報にメインニュース、芸能情報、最近のトレンド、そして占いを見るころには藍里の出る時間だ。
いつもよりも早く起きたから少し見たことないコーナーが流れる。他の局の番組に変えるのも楽しいものだと変えていくと地元の情報番組に手が止まった。
藍里が岐阜の頃によく見ていたなぁと。父はこの番組を好んで見ていた。愛知出身の男女2人のタレントが朝から名古屋弁を捲し立ててやっていたのだが10年くらい前にアナウンサーがMCとなり、いまだにタイトルも変わらず地元の情報をメインに伝えている。
実は藍里の父は地元のコーナーで素人代表でレポーターをしていたらしい。
最初は野次馬の1人だったがとあるコーナーで目をつけられて、地元の劇団員ともあって柔軟に対応もでき、背も高く顔もそこそこよかったからスカウトされて藍里が生まれる前からの何年か出ていた、と母から聞かされていたのを思い出した。
その番組に出なくなっても父はその番組を見ていた。だから藍里も当たり前のように見ていた。
岐阜から出てようやく神奈川での生活が落ち着いた頃に、朝その番組をつけたが全く違う番組がやっていて落胆したことも。県外で暮らしたことがなかった藍里はあれが東海地方限定の番組であることを知るのは少ししてからであった。
ようやくその番組を見れる地域に戻ったがさくらの前ではつけるのは躊躇したが今日は何の気なしにその局に変えた。
相変わらず番組名は変わってないがMCも出演者もスタジオも変わっていてまるで浦島太郎の気持ちである。
「この番組も長いよね、こないだ何十周年かの特番やっててさ」
「そうなんだ……あっ」
時雨は何かを思い出したかのように番組を変えた。藍里も懐かしさにかまけてすっかり忘れていた。
この番組はさくらにとって過去を、父を思い出すものでもあった。
タイミングが悪かった、そしてさらにタイミングの悪さがかさなる。
『この番組をご覧の皆様、おはようございます。橘綾人です』
この地元の番組のエンタメコーナーに父、桜にとっては元夫の綾人が映ったのであった。
さくらは綾人の声が聞こえるなりビクッと身体を起こした。そして毛布をその場に叩き落として部屋に入っていった。
しまった、という顔を互いにして見つめ合う。テレビには綾人がニコッとして微笑みながら他局のエンタメニュースでも出ていた新CMのこの番組のための宣伝だった。
やはりこの番組にはお世話になってたとにこやかに話す綾人。ちらっと過去の映像も流れる。そして最後はやはりCMの話題に戻って終わった。
「……」
藍里は久しぶりにとまではいかないが意識的にテレビを見た父、綾人の姿に懐かしい気持ちを思い出した。ずっと彼と会っていないのだが、最後に会った時の面影も残しつつもそれから人気になりスターとなり洗練されてさらにカッコ良くなった父に見とれていた。
「綾人さん、かっこいいよね。こんなことはさくらさんの前では言えないけどさ」
「……かっこいいよ、パパは」
2人の間で何ともいえない空気が流れる。さくらの部屋からは啜り泣く声も聞こえる。藍里はテレビの電源を切り、椅子に座って朝ごはんを食べ始めた。
ピザトースト、コーンスープ、ヨーグルト、バナナ、牛乳。
「ママのところに行かなくていいの?」
藍里は時雨に聞く。
「……後で行く。多分今何言ってもダメだし」
「さっきもママに何か言われてたよね」
「僕の言葉がいけなかったから……うん。今は何言ってもさくらさんにはネガティヴに捉えられてしまうから」
と時雨もピザトーストを齧る。いつも2人は一緒にご飯を食べる。朝はさくらが仕事でいない時もあるからだ。
時雨が来る前は1人で食べる時が多かった。今ならいつも時雨がいる。バイト先で食べている時以外、彼の作った温かいご飯をいつも食べられる藍里。
家のこと全てをやってくれている時雨にさくらの機嫌の悪さ、感情を全てぶつけられる時雨に少し申し訳ないと思うが今は彼と2人きりでいられる時間が増えたと思うと少し嬉しい。なんで時雨は複雑な過去を持つさくらと付き合っているのだろう、そしてそのさくらの娘である藍里と一緒にいるのだろうか、と藍里は思ったこともあったのだが。
しかしそれよりも綾人のことが気になる藍里であった。
ご飯を食べ終え、身なりを整えて藍里は時雨の作ってくれて弁当を持って学校に向かった。
「行ってらっしゃい」
「いってきます……ごめんね、ママのこと」
「大丈夫、帰ってきた頃には良くなってると思うから」
ニコッと笑う時雨。
「辛くないの」
「……人間だから……こういうこともあるよ」
「なにそれ、じゃあいってくる」
このたわいもない会話も藍里にとっては幸せである。
「ママじゃなくて、わたしでいいのに」
と呟いてマンションから出た時だった。
「藍里」
清太郎がいたのだ。