昼ごはんを食べ終え、片付けも終わったところで藍里と時雨は店を出た。
清太郎が心なしか暗そうに見えたが
「気をつけてな!」
と声をかけてくれたのを藍里は少しほっとして、ニコッと笑って返した。
時雨とここまで遠出をするのはもちろん初めてである。車でもよかったが夕方からの食事会でさくらはお酒飲むであろうと時雨は電車を選んだ。
土曜日ともあって混み合っている。
大学展の会場はとても広く、これまた人がたくさんである。大学だけでなく企業や学生たちによる出店もある。
「ここで弁当売ったらめっちゃ売れそう」
「時雨くん、お仕事終わったのにまたそんなこと考えてさ」
「ついつい商売柄……昔旅亭の時もこういうイベントで出店したことあるし、学生時代も専門学校だけどやったことあるよ。今度里枝さんたちにこういうイベントに出てみるとか提案してみるよ」
時雨は本来の目的地を忘れて出店をあちこち見回ってる。藍里は彼にはぐれないように追いかける。途中で気づいたのかごめんごめん、と言おうおしたら藍里が遠いところで二人組のハッピを着た男子学生に藍里が声をかけられていた。
「ねぇ、お姉さん。クレープどう? 安いよ、美味しいよ」
お姉さん、と言われて藍里はへっ? と声を出してしまった。
「お姉さん可愛いね。一人? どこの大学? よかったら夜の飲み会来ない? 明日の打ち上げでもいいけどさー」
ニヤニヤと笑う男子学生たちに狼狽える藍里。するも時雨が駆け寄って
「彼女ははまだ高校生だよ。……クレープか。僕クレープ好きだから買うよ?」
と割って入った。すると一人の男子学生が舌打ちして
「なんだよ、彼氏いるのかよ……あっちでやってるんで、どーぞ」
と割引券をぶっきらぼうに渡して男子学生は去っていった。その割引券のサークル名を見て時雨は
「な、なんなんだよ……18歳未満やばいし、彼氏いたらダメなのかよ。て藍里ちゃん、ああいう男たちがいるからすごく心配だよ、大学。テニスサークルとか言って飲み会ばかりして酒飲ませて女の子に意地悪するサークルだよ、きっと」
時雨は割引券をゴミ箱に捨てた。藍里は顔を真っ赤にした。周りから見たら自分達はカップルに見えるのかと。
そもそも自分自身も高校生以上に見られていたのもびっくりしたのだ。
「にしても18歳未満だったら手を出しちゃダメとかなんなんだよ。だったら僕自身も周りからしたら……そう思われてるのかな」
「そんなことないよ。時雨くんが若く見えるし、彼氏だって思われたから大丈夫」
「……てことは高校生に見えるのかな。よく童顔て言われるけど30超えてからもそれってなぁ」
「もう、寄り道してないで大学展見たいんですけどー」
「あ、ごめんごめん……」
二人は大学展の本会場に向かった。
藍里が検討していた〇〇女や△△大学はやはり人気でポピュラーな大学のためごった返していた。
とりあえずパンフレットだけでもと持っていくがほとんど予約がいっぱいになっている。
「やっぱり午前中から行かないとダメか」
「しょうがないよ。オンラインでもかなり前から予約いっぱいだったしさ……」
「〇〇女は内部生が多いだろうなぁ」
「内部生?」
「うん、ここは幼稚園から大学まで一貫校だから大学で入る人と幼稚園からや小学校からの子が多いんだろうなぁ……」
そういえば、と藍里は昨晩さくらに〇〇女は私立で、その中でもさらにお金がかかると言われた。
近いだけで選んだのだが……と頭を悩ませる。
「でも女性の生徒だけだからさっきみたいな合同サークルを断って学校内の単独サークルに入れば安心だな」
「……かなぁ」
会場内を歩いて回ると本当にたくさんの大学があるんだ、と藍里は思い知らされた。
ほとんど家の中にいたし、ネットはあまりしない、人との交流も少ない、テレビもあまり見なかった時期が長く、さくらとの会話もあまりなかったため全く何も分からぬままきたようなものである。
企業も出店している。
「……大学行かずに就職する手もあるのかなぁ」
「まぁそれもあるよね。何もその先を考えれずに四年間いるよりかはもう仕事するという手もある。でもやはり高卒の大卒だと給料差が出るんだ。いくら女の子は結婚して時短になったり退職をする確率が高いかもだけど今は共働きの時代だからね。大学は出たほうがいい。専門学校出の僕でもそれを実感している……」
なるほどねぇ、と藍里は納得した。
今後もし清太郎と結婚するとなったら……清太郎は稼ぐために銀行員になってなんたらかんたらと言っていたことを思い出した。
でも自分も働かなくては……でも何を? とまた頭がぐるぐるとして混乱する。ただでさえ人混みの多い中、バイトも終わって寝不足なのある。
「藍里ちゃん、大丈夫か。休もうか」
「うん……」
と会場内にあるベンチに座る。
「ほんとこりゃ悩むなぁ。こんなによりどりみどり」
「……」
藍里は一点を見つめる。それは会場の外の大きな看板であった。
綾人の映画の看板である。そこにも多くの人がいる。中にはファンなのか写真を撮る人たちも。自然と藍里は立ち上がってそこに向かう。
「藍里ちゃん、会場でるとなったら再入場のスタンプもらわなと。あとで見よう」
「……今見たい」
藍里たちは再入場のスタンプをもらって会場の外に出て綾人の看板の前に藍里は立つ。
「……お父さん」
すると時雨がその看板の前にもう一つつい立があるのに気づく。
「橘綾人娘役オーディション会場……このホールの5階でやってるみたいだよ」
「えっ……」
「募集してたけどいつのまにかオーディション始まってたんだ」
そう言えば二人でテレビ見た時にやっていたなぁと。そしてつい最近クラスで雑誌の応募を見たのも思い出した藍里。
この看板の周りにいる人たちは確かにオーディションを受ける感じも見受けられる。
「もうオーディション、書類選考で受かった子がやるんだろうね……」
「藍里ちゃん、受けるつもりだったの……?」
藍里は俯いた。
「……娘役、だなんて。確かにこの主宰してる事務所は私が昔子役やってた時のだし大手だし。娘役にならなくても他の提携してる事務所からスカウトとか候補生とかに声かけてもらえるんだろうね……でもそこからが大変なんだよ。赤ちゃんの頃から事務所に所属していた私は全くダメだった」
「ダメだなんて……」
「じゃあ私の出た番組とか雑誌とかCMとか知ってる?」
藍里がそう言うが時雨は答えられなかった。
「何にもない……まぁ強いていればその他大勢。名前も載らなかった」
藍里は俯いた。
その時だった。
「藍里! 藍里!」
聞き覚えのある声。あのクラスメイト三人衆であった。アキだけ遅れてやってきた。
藍里は時雨から手を離した。
「……あれ、宮部くんは?」
「今日はお母さんたち連れて名古屋観光」
「そのひとは?」
「あ、その……」
「彼氏?」
「その……」
「えー、宮部くんが彼氏と思ってたけど……年上彼氏かぁ。いいじゃん」
「その……」
否定もできず時雨は藍里の彼氏というテイになってしまった。
するとなつみとゆうかがアキを、押し出した。彼女はさっきからなにか言いたさそうにしていたがなかなか言わない。
「……藍里、ごめん。わたしね、勝手に応募しちゃったんだ」
「えっ?」
アキは綾人の看板を指差した。そしてなつみが代わりにアキのスマートフォンを、差し出した。
「今日、この後1時間後に藍里はオーディションを受けることになってる。本当は本人の同意が必要だったけどアキが勝手に応募して書類審査受かってうちらで同意書類作って送った。ちなみに高校生は担任の同意も必要だったけどうまく誤魔化してもらえた」
「えええっ……」
なつみがオーディションの案内書を差し出した。
藍里は時雨を見る。時雨もびっくりしている。
「もし受かったら推薦金は藍里に渡す。藍里、色々進路悩んでたし。そもそも可愛いから是非受けてほしいなあって」
「……でも、どうしよう時雨くん」
すると時雨がなつみから案内書をつかみ、藍里の手を引っ張った。
「行こう、オーディションに。1時間のだろ? まだ間に合う……昔の君と今の君は違う!」
「ええええっ……」
時雨は藍里と手を繋いで走っていった。
「わぉ、彼氏さんやるぅ」
ゆうかは呆然としている。なつみはアキの肩を叩く。
「……受かるといいね」
「そうだね。でも推薦金全部あげるのはほんと?」
「少しはもらえるよね、たぶん」
「そいや高校生は保護者も付き添いでとか書いてあったけどよかったよねー。彼氏さん下手すりゃあ保護者でも通じるよね」
「……多分さっきの人は見た目30前半くらいかなー年上好きだなんて意外」
「意外かどうかわからないけどね」
ふとゆうかが看板を見つめる。
「ってさ、なんかこの綾人ってさ……藍里が真顔の時に似てない?」
「嘘だーっ、いつものイケメンフェイスじゃない」
「気のせいかー」
時雨は藍里と共に案内通りにオーディション会場に行く。人がたくさんいたためすぐわかったようだ。
すれ違う人たちは
「受かるかなぁ……」
「書類審査である程度落としたとかいう割には1日かけてたくさんの人呼んでるよね」
「にしても生の綾人にはびっくりしたわーびっくりして声ひっくり返ったり泣いてる子いたわー」
と大声で話す人たちは大抵素人だと藍里は察した。芸能事務所に入っている人たちは大抵はオーディション内容を外で明け透けに話すことはほとんどなかったという記憶があるのだ。
時雨が勢いよく会場近くまで走ったため二人とも息を切らす。
「……ここの中に……お父さんがいるのね」
「今日来てるのか……気合い入ってるなぁ」
オーディションも実に数年ぶりである。いつもはさくらが付いてきた。しかし今日は時雨がそばにいる。
綾人がいるという噂を聞きつけた野次馬もいるがスタッフから制止されている。
「オーディションの方ですか?」
スタッフから声をかけられた藍里。野次馬の一人と思われたのだろう。
「はい、書類もあります」
「確認いたしました。時間まであちらで……高校生ということですがお隣の方は」
スタッフが時雨を見る。時雨は顔をシャキッとさせて
「ほ、保護者です」
「はいかしこまりました……親さんの同意書は百田さくらさんになっていますが、あなたはご主人ということですね。藍里さんのお父様」
「……はいっ」
「では、ご一緒に」
通された控室、一人でいるものから親かマネージャーらしき人と一緒にいる人までいろんな女の子がいる。だいたい年代は同じだろう。
静まり返るほどではないが皆緊張しているようだ。
「……マネージャーでもよかったのに」
「そうかもね。だとしたら名刺渡さなきゃいけなかったろうし」
「でも今回は彼氏とは思われなかったのかな」
「やっぱ芸能関係の人はその辺の見極めできるのかなぁ」
藍里と時雨は笑った。
「にしても親の同意書も……どう捏造したんだろ」
「これがなかったら受けられなかったかもしれないからあまり詮索しなくてもいいと思うよ」
藍里はそうかぁ……と思いながらもスタッフから手渡された書類を開いた。
『本日は自己紹介と簡単な演技をしていただきます。次のページの台詞を呼んでいただきます』
「自己紹介……」
子供の頃何度もオーディションをした。自己紹介も最初の頃はさくらが、考えてくれた。小学生に上がると自分で考えて言えるようになってきた。
「あと1時間だけど……」
藍里は頷いた。
「大丈夫。なんとかなる」
「さすがだなぁ、藍里ちゃん。あと……簡単な演技って」
藍里は次のページを開いた。
……藍里はその文字に目を大きく開いた。
『お父さん、ありがとう』
約5年前に綾人が仕事に出た後にさくらと共に市役所の人の車に荷物と共に乗り込み、部屋を出た。その数ヶ月後に電話で震えた声で
『藍里……藍里……』
と聴いたのが最後だった。藍里は何も返す言葉はなく電話機をさくらに返したのを思い出した。
「藍里ちゃん……」
時雨は心配した顔をしている。
「……」
藍里は左手で時雨の手を握る。何も言わない。
時雨も何も言わず手を握り返した。藍里はずっとその一つのセリフを見つめる。
「それではこの列の皆様、お立ちください。今から入っていただきます。もう遅いですが今回のオーディションの内容などはSNSに載せないようよろしくお願いします。また事務所関係者様、保護者様もご入場いただき、後ろの用意された椅子にお掛けください」
スタッフがそう話すと藍里は息を大きく吸って立ち上がった。
「藍里ちゃん……」
「……」
藍里は時雨の手をそっと離した。
順番に入っていく。控室とは違った空気の張り詰めた空間。藍里より先に入った一般の女の子や保護者たちがびっくりした声を出している。
きっと綾人がいたからであろう。
藍里よりも時雨の方が緊張しているのか挙動不審になっている。
藍里も中に入ると目の前に5人席に横に並んで座っている。
中年男性、女性二人、そして……
一人だけ明らかに違うオーラを藍里は感じた。
橘綾人がいた。
5年ぶりに見た綾人。その時よりもすっきりとした顔立ち、きれいに整えられた髪の毛、鍛え抜かれた体型、シャキッとした皺のないブランド服。目元はサングラスではっきり見えない。
だがサングラス越しに藍里は目が合ったのがわかった。そして目が合った後に綾人はびっくりした顔をして藍里のエントリーシートを手元から探したようだ。
そしてそれを見てもう一度藍里を見た。
「綾人さん、綾人さん……」
隣の中年男性に声をかけられて綾人は我に返った。
「は、はい。すいませんね……みなさんがとても魅力的でね」
相変わらず適当なことを言って取り繕う癖は直ってないなぁと藍里は思った。
「オーディションきてくださってありがとうございます。僕の娘役としてオーディション来てくださってありがとうございます。それでは右側の方から自己紹介をお願い致します。演技は全員の自己紹介終わってからになります」
藍里は最後から二人目になった。次々と自己紹介をしていく。事務所所属の人は最初の一名のみであとは一般からのエントリーであるようだ。
後ろに座る時雨も自分がオーディションを受けるかのような感覚で緊張している。
藍里も緊張しているが昔とは違った緊張感がある。自分の父親が5年ぶりに目の前にいるのだから当たり前である。
自己紹介と言いながらも、審査員の5人たちは質問を投げかけている。それを知らず戸惑って頓珍漢な答えをしてしまう人もいた。それを見た他の参加者がオロオロしだす。藍里もである。
他にも色々頭の中を駆け巡る。個人情報が彼の元にあるはずだ。それを見て家に来たりしないだろうか。
このオーディションのことはさくらには知らせてないし、もし綾人がさくらを見つけ出して来てしまったら……せっかく平和だった日常、壊してしまうのでは。と藍里は思った。そう思うと手も震えてきた。
息を整え、気持ちを落ち着かせるものの、さくらが恐怖に震えて怯えている顔が思い浮かぶ。それに自分も空気を察して苦しい気持ちだったことを思い出す。
「では、次の……百田さん。百田、藍里さん」
綾人が藍里の名前を呼んだ。
「……はい……」
藍里は立った。直立不動、綾人のことをじっと見る。
「自己紹介を、どうぞ」
綾人の横の女性が言う。藍里は目線を綾人から変えた。
「愛知県〇〇市から来ました。百田藍里です。生まれは岐阜県〇〇市……」
と言った時、綾人と目が合うがまた目を逸らしてもう一度話し出す。
「生まれは岐阜県〇〇市、実は生まれてすぐ△△テレビアカデミーの子役部門に入り小学5年生までレッスン生として活動していました」
エントリーシートには書いていないことに審査員はざわつく。その中で事実を知っている綾人は冷静に見つめる。
「昔子役をやっていたと、うちの事務所で」
藍里は思い出した。綾人の隣に座っていたのは藍里が事務所所属時にいた事務員の女性でさくらとも認識がある。藍里は名前は覚えていなかったが少し思い出した。
しかし当時は子役の数が多く、彼女は把握できていないのだろう。
「……はい、そちらには書いていませんでしたがいつかはわかるだろうと」
審査員はさらにざわつく。
「でも今は所属されてなくてのエントリーなのですね。この推薦者の方はあなたが子役であることは知ってらっしゃるの?」
「いいえ、転校してきたばかりで知りません。彼女には感謝しております。彼女がこのオーディションに推薦してくれなかったらここにはいません。先ほども会いました」
綾人はジッと藍里を見る。
「転校を2回されたとのことですがご家庭で色々合ったのでしょうか」
かなり突っ込んだことを聞いてくるもんだと後ろで見ていた時雨はやきもきする。
「はい……。岐阜から離れて神奈川に行きました。母と私二人で数年暮らした後、夏に愛知に、東海地方に戻ってきて。少し落ち着いたところです。ああ、岐阜じゃないけど何だか落ち着く……て思えました。幼馴染が偶然同じ高校のクラスが一緒で……」
藍里はなかなか話がまとまらない。
「なるほどね。後ろの方は……彼氏さん?」
時雨はハッとする。綾人が時雨を見る。とても眼光が鋭い。テレビで刑事役をやっていた彼の迫力そのものである。藍里は首を横に振る。
「母の恋人です」
はっきり言った。綾人は表情を変えなかった。時雨は顔を真っ赤にして俯く。
「わたしたちに美味しいご飯を作ってくれて働く母のために家事もしてくれて……次第に私も手伝うようになって、母もここ最近は……」
「もういいですよ」
綾人が遮った。そして微笑みながら
「ここはあなたのアピールする場だ。残念ながらもう持ち時間はない、その辺りも自分で臨機応変に切り替えて自分の話に持ち込むのも技術の一つですよ」
と言った。
そういえば綾人は自分にいう時はきつく言わず回りくどく優しく話してきたことを藍里は思い出した。
こうして久しぶりのオーディション、自己紹介は不本意な結果で終わってしまったが次は演技である。
その頃、藍里がオーディションを受けていることなんて全く知らない清太郎は路子と清香で名古屋の地下街で買い物をしていた。
もうヘトヘトである。近くにあったベンチに座りスマートフォンを見る。
藍里からもメールは来るわけでもない。もともと彼女はメールをしない。
時雨と2人で大学展に無事行っているのだろうか、変な心配をしてしまう清太郎だがそんなところに清香がやってきた。彼女もヒールできたことを後悔し、ふくらはぎが痛いのか座って揉んでいる。
「姉ちゃんは名古屋なめとんのか」
「なめてた。かなり歩いたからもう疲れたー」
「あそこで靴買ったるから変えや」
「いやよ、スニーカーばかりじゃない。このワンピに似合わない」
清香はそう言いつつも踵を見ると靴擦れを起こしていた。
「早よ選ぶぞ」
「……ほんとあんたは優しいねぇ」
『あんたらが女には優しくって叩き込んだからやろ』と言うのを飲み込んで靴屋に行き、なんとか服に寄せたスニーカーと靴下を選び清太郎は清香に渡した。
その後清香はお礼に、とすぐそばのコーヒー屋でコーヒーを清太郎のために買った。
特にコーヒーは好きでもないが清太郎はとりあえず飲む。再びベンチに戻り久しぶりの姉と弟の会話。
大学3年の清香は地元岐阜の大学に家から通い、保育士を目指している。
「清太郎はどうよ、こっちの暮らしは」
「まぁぼちぼち。里枝さんやおじさんも優しい人だし……まぁ里枝さんがかあさんにそっくりで嫌になるけど」
「確かに。似すぎだよねー」
まぁそこまで2人は仲が悪いわけでもない。
「にしてもあんたはずるいよ。こっちに逃げて」
「逃げるってなんなん」
つい姉との会話になると岐阜弁が出てくる清太郎。ずるい、逃げるという言葉に反応してしまった。
「家からでも通えるやん、なのにおばさんちに住み込んでさ。しかもなに、東京の大学に行くとかあり得んし」
「あり得なくない。もう決めたことや……」
コーヒーがほぼ無くなって氷の溶けた水を口に含ませる清太郎。
「私は大学、県外ですら出してくれんかったし。バイトも地元、就職活動始まったやろ、お母さんはうちから通えるところしかダメとか言うのよ」
「……そりゃ今女2人しかいないから姉ちゃんまでいなくなったら寂しいでしょ、母さん」
「……でもさ、このまま県内に骨埋めることになるんかなぁ。相手も県内の、しかも近くの人同士で結婚とか? 嫌だよそんなの」
清香はふくれっつらである。
「だったら姉ちゃんもこっちくればええやん。名古屋からでも電車一本で姉ちゃんの学校行けるし。就活もなんだかんだで本社が実は名古屋とかかなりあるし」
「……まぁでも名古屋もうちから通えるから」
「だよな」
2人ともそういうと黙った。
「あんたがこっちきちゃったからだよ。ほんとずるいよ」
「まだ言うのか」
「……あんたは甘やかされすぎなのよ。うちの問題も全く知らんし」
「は?」
気づくと清香の目から涙が出ていた。
「……お母さん、父さんと仲良くいってなかった」
「そうやったん? てか何泣いてんの」
清太郎がハンカチを差し出すと清香はそのハンカチを清太郎に突き返した。
「ほらわかってない! 殴る蹴るは無かったけどずっと暴言吐かれたり文句言われたり死んだ婆ちゃんにも……いろいろと。あんたはわかってなかったようだけど私は見てたんだから」
清太郎は分かってないようだ。たしかに中学まで父親方の祖母も同居していたが彼にとっては優しい祖母だった。
「それが原因で今も心療内科に通ってる!」
「嘘だ、あの性格で?」
「表はそうかもしれんけど辛さを隠すためなんだよ。あんたはなにもわかってない、お父さんも」
清太郎は絶句した。父もまた彼にとっては優しくて尊敬できる人でもあった。
「でも気に病んでたのって藍里の母ちゃんたちが逃げたからじゃないのか」
「それもあるけど。お母さんは藍里ちゃんのお母さんどころか誰にも相談してなかった……助けて欲しいって。同じようなことで辛い思いしてるって聞いて話は聞いてたらしいけど……先に逃げちゃってショックだったみたいよ。私は逃げられないのに、って……」
「それは知らなかった」
清香は立ち上がった。
「そこよ、そこなのよ!」
周りの人達もびっくりしている。
「お母さんもおじさんのお姉さんの話聞いてたのもあるし、自分の経験もあって……あんたに女の人には優しくしろって叩き込んでたのにやっぱお父さんに似て分かってない」
「いや、その……」
「そんなんだと藍里ちゃんを不幸にする! ああ、私もお母さんみたいになってしまうよ、このままだと。お母さんもそうさせたくないと思ってるけどお父さんが私の一人暮らしとか許してくれてないって……」
清太郎は清香を落ち着かせるために座らせた。
「……姉ちゃんもこっちくればええやん。父さん今単身赴任中だし」
清香は首を横に振る。
「そんなことしたらお母さんかわいそう。ほっとけないよ……」
「矛盾してる」
清太郎はどうすればいいかわからなかった。
「なーにやってんのよー、疲れた? あと少ししかないから清香、もっと買い物しましょー」
と路子がルンルンでやってきた。
「何泣いてるの? 清香。あら靴新しいのね」
「……清太郎が買ってくれて嬉しくて泣いてるのよ。そうね、まだ私買い物したい」
と路子についていく清香。
「はぁ……」
清太郎は大きくため息をついて2人について行った。
「お父さん、ありがとう」
演技審査は一人一人その場で立ってセリフを言う、それだけではない。
いやそれでもよかった。
一番手の女性がタレント事務所に所属してるのもあってか間合いや息づかい、目線を意識していた。
他のエントリー者は事務所に所属してないのもあってその行動によって自分もしなくては、という気持ちで焦り、2人目3人目は緊張のあまりただセリフを読むだけだったり、しどろもどろにうまく言えていなかった。
審査員は特に何も言わず、綾人もジッと見ている。
もう何百人もこの1日で見てきたのだろう。少し疲れもあるようだが綾人はすごく真剣に見ていた。
このセリフひとつでどのような舞台背景なのか、綾人演じる父親との関係性は……? まだストーリーも明らかになってない。だから何に対して感謝を伝えているのか、それはオーディションを受けてる人達それぞれの解釈である。
4人目の人はそこそこ演技ができており、落ち着いていた。そしてその後は藍里である。
静まり返る。時雨も見守る。
藍里の目の前に綾人。
息を深く吸い目を閉じる。
目を閉じるとまだ今よりも若い綾人が立っていた。
優しく微笑む綾人の姿。
目を開ける。
真剣に見ていたはずの彼の目が少し緩んでいる。
「お父さん……」
口から出たその言葉は本当の父である綾人に呼びかけたものであった。
そう言った瞬間、綾人は俯いた。
「お父さん」
藍里はもう一度言う。綾人は顔を上げない。
「あ、そうか……パパって呼んでたもんね。流石に今の歳でパパって言うのも恥ずかしいからお父さんって言うね」
藍里がセリフ以外のことを言い出すと周りがざわついた。
綾人の隣の女性が何かを言おうとしたが綾人が
「……続けてください」
と発した。
藍里はさらに前に行く。
「あまりテレビ見ないけどお父さん昔よりかっこよくなったね。お芝居も続けて……映画やドラマの主役……すごいよ。昔からお父さんの舞台見てたもん」
綾人が項垂れてるのを見て他の審査員が察した。彼らは綾人が離婚して子供がいたと言うことを知っている。
「綾人さん、まさか……」
「……」
顔を上げた綾人は必死に涙を堪えていた。
「あ、このオーディションは私から受けようとしたわけじゃないの。周りの人がすすめてくれたんだ。わたし、お父さんたちが離婚してから自分がなんだかわからなくなって何がしたいかわからなくなって……ずっともがいてた。お父さんが昔ママに言ったように私は可愛いけど不器用で本番に弱くて個性のない子って……」
「藍里……それは……」
「確かにずっと可愛い可愛いって可愛がってくれた、嬉しかったけど……不器用で本番に弱くて個性のない子だっていうのがずっと心に残って……それで今までの私は苦しんでたんだって」
「ごめん、ごめん……藍里」
綾人は立ち上がった。
「本当にお父さんは私たちのために仕事もしてくれたし台本読み手伝ってくれたし……私には優しくしてくれた」
「藍里っ……」
藍里は目から大量の涙を流す綾人をじっと見つめる。
「これからはママのことは私や後ろにいる時雨くんが守る。私にも大切な人がいてみんな幸せ。でも昔の傷はまだまだこの先も……残るけど、それを乗り越えて私たちは生きる。だから気にしないで……気にしてくれてたか知らないけど」
「藍里っ、すまない……すまない」
綾人は床に泣き崩れる。他の審査員が駆け寄る。
「……お父さん、今までありがとう」
ようやくセリフを藍里は言った。
「さようなら」
そう言って藍里は後ろを振り向いて部屋を出る。
「藍里ちゃんっ!」
時雨は慌てて追いかける。
一緒に追いかけたのは時雨だけでなくて綾人もだった。ロビーは一時騒然する。
ただでさえ時間が押してしまい、待たされていた次のオーディションを受ける人たちがたくさんいた。
そこに急に現れた綾人にキャーキャーと声が上がる。周りの人たちはこの二人が元親子だということは知らない。
そしてなぜか泣いている彼。状況がわからない人も多いだろう。
「藍里……芝居をやらないか。また」
藍里は首を横に振る。
「まだこれからのことは考える……大学展やってるし」
「……そうか、でも久しぶりだな。綺麗になった。身長も170近くあるのか。モデルはどうだ? 紹介してやってもいいぞ」
「168センチ。モデルかぁ……中身カッスカスだけど」
「……」
「ママに言ってたもんね、藍里は中身カッスカスて……隣の部屋で聞いてたから」
「……その、それは」
藍里は微笑んだ。
「でも私の時だけは優しくしてくれたね」
「そ、そりゃ、娘だから……当たり前だろ」
「ママは?」
「……勝手にお前連れて会わせずに逃げて養育費だけ請求してきたからな、一応毎月払ってるんだぞ。大学四年までって」
「一応、かぁ。それはありがとうございました」
と藍里は深くお辞儀して去っていく。
「藍里!!」
一眼も憚らず綾人は叫ぶ。そんな彼に時雨が立ち塞がる。
「おい、どけ!」
「どきません。藍里ちゃんは貴方の呪縛から抜け出せたんです。そのまま受け取ってやってください」
綾人は時雨の腕を掴んだのだが時雨がガシッと腕を掴み返す。綾人より小柄だが力が強い。
「一応昔柔道習ってましたから。国体も出ましたし……これ以上やりますか?」
綾人は腕を離した。そして時雨は急いで藍里を追いかけた。
しかしネット社会、すぐにこのことは拡散されて、藍里のこともネットに拡散された。
清太郎はすぐにそのことを知り藍里たちに連絡して少し早めに集合することになった。
特に藍里は飄々としていてどうしたの? という顔をしている。
路子や清香は藍里に大丈夫かと聞かれてもうん、と答えるくらいだった。
「……オーディションって何の話ですか、時雨さん」
清太郎に問い詰められた時雨は事情を話している最中にスーツを着たさくらが駆けつけた。
「藍里っ……」
「ママ」
さくらは藍里を抱きしめた。
「大丈夫よ、ママ」
「何やってんのよ……これから大変よ」
「ママ、もう逃げないよ。私は」
時雨が頭を下げた。
「僕がオーディション受けようって言ったんだ。藍里ちゃんは悪くない……それにすごく頑張ってた」
さくらは藍里を抱き抱えたまま泣いている。
「さくらさん、藍里ちゃん……ほんと頑張ったよ今まで」
路子が2人の元に行く。
「さくらさんも本当によく藍里ちゃんを守ったよ。私はあなたが逃げたと聞いた時ショックていうか裏切られたって思ったよ……」
その言葉にさくらは驚いて顔を上げる。
「……私だって逃げたいのに逃げたのかって。でもここまで本当に守り抜いた。えらい」
「路子さん……」
「藍里ちゃんもだけど一番辛かったのはさくらさん。本当に大変だったね……」
さくらは涙が止まらない。
「まー、でも、藍里ちゃんもすごいわー。さすが元女優さんの娘。でもあんな大舞台繰り広げてネット中大騒ぎ……」
「……ちょっとやばかったかな」
さくらは首を横に振った。
「もしなんかあった時は元彼が弁護士だからその辺は手配してある。何か手出しするようだったら動いてくれるって。あともう1人の元カレも普段は会社員だけど裏のハッカーだし。ネット関連に関しては潰しに入ってもらう……金も愛もない人たちだけど情は残ってるみたいで必要な時だけ助けてもらってるの」
それを知らなかった今彼の時雨は口をあんぐりしてる。
「え、ママの元彼そんなすごい人だったの……」
「……あんたが知らなかっただけよ。養育費も弁護士の元彼が差し押さえとかしてくれたおかげで貰えてるようなもんよ」
「お父さん……ていうか綾人さんは払ってるとか言ってた」
もう藍里にとって彼はもう他人扱いになってしまったようだ。
「強制的に口座から落としてるだけ。そうでもなきゃ今の高校通えなかったんだから……」
「ママ……すごっ」
他のみんなもエッという顔をしていた。
「それくらいしないと藍里守れなかったんだから……また大変よ。学校でもあんたのことバレちゃってそこをどうするか」
すると清太郎が
「それに関しては俺に任せてください。他にも協力的なクラスメイトもいますし」
「そうそう、地元のみんなも綾人さんの素性知ってるしねぇ……変に噂にしないわよ。それよりも藍里ちゃんが生きてる、それだけでほっとするわ」
路子が藍里を抱きしめた。相変わらず押しが強くて抱きしめる力も強い。
「まぁまぁ明日からのことは忘れてまずは再会を祝して予約した店に行くわよ!」
路子がそういうとさくらは藍里に耳元で
「ほんと路子さん変わってなくてホッとしたわ」
「……そうだね」
2人が笑うと清太郎がどうした? と聞くが2人はわらってさぁね、と。
「にしてもなんでママ、スーツだね」
「ああ、あとで言おうかと思ったけど今日面接だったの」
すると時雨がそれを聞いてホッとしてるようだ。
「やめるの? あの仕事……よかったぁ」
さくらは時雨の口を塞ぐ。
「路子さんたちは知らないんだから。業界は同じだけど裏方に回わるの。働いている女の人たちを守るために……監視とあと指導とか」
「じゃあママはもう……」
さくらはうなずいた。時雨もホッとしてるようだ。
「働いてる子たちのパフォーマンス向上させてどんどん稼いでもらう。……辛い環境かもしれないけどそこでしか働けない、輝けない人もいる。わたしたちのように心に傷を受けた人やいろんな事情を抱えた人たちがいる。その仕事を誇りに思ってる子も沢山いる。だから……少しでも働く環境を良くしてあげたい。パフォーマンスしてたからこそ色々見てきたから……それに私はあなたのマネージャーしてた時のように裏方で働くのも楽しかったから。また裏で頑張る」
藍里にとって何がパフォーマンスなのか、どんなことをしてるのか見てはいない。
それなりの覚悟をして自分を守ってくれた母親に対して今日してしまったことを悔いる。
「表も裏もないと思うよ、仕事には……」
藍里もファミレスの裏方と弁当屋ではレジの仕事両方してみたがどちらも大変であり、やりがいもそれぞれあった。でもやはり自分は裏方の方がしっくりくると感じているようだ。
「なに暗い顔して。あんたもそれなりの覚悟して綾人に会ったんでしょ。怖かったね。でももう大丈夫、守ってくれる人は沢山いる……」
「うん……ありがとう」
「あんたも色々恋しなさいよ。時雨くんや清太郎くんに限らず。経験は必要よ」
やはりさくらには見抜かれていた。時雨とのこと。
清太郎と時雨が同時にくしゃみした。2人は自分達のことを言われてるだなんて知らない。
それからと言うものの。
もちろん藍里はオーディションには通らなかったものの、会場に来ていた別事務所の人から連絡があり事務所に入らないかという打診があった。
藍里は悩みに悩んだ。進路はとても悩んではいたし、偶然の出来事でオーディションを受けたこともあり運命であろうと思ったがそのまま流されていいものか? と。
今回は丁重に断った。
オーディションの件は地方でのオーディションで、さくらたちや学校だけでなく綾人側もことを大きくしたくないとのことで流出した写真や動画や情報は大半は消され、オーディションも何事もなく終わり娘役も決まったという。
結局は綾人と同じ事務所の所属の女優が務め、近々映画が上映されるとのことだ。
さくらはというとあんなに強気になっていたのにまた月のものが来ると不安定になり、前とは業務内容が変わったのか家にいる時間が長くなりあんなに温厚だった時雨との口論が多くなってしまい、一ヶ月後には2人は別れてしまったのだ。
バイト先には時雨はいる。時雨はもうさくらの恋人ではないのだが藍里は特に彼に対する恋心は無くなっていた。
反対に時雨に関しては藍里のことは優しく見守ってくれていて、彼が卒業した調理学校に藍里は進学を決めた。
時雨が作ってくれたご飯が美味しかったし、心を満たしてくれた。そして時雨と仕事で一緒に料理をしていくうちにもっと勉強をしたいと思ったのだ。
専門学校に進んでも弁当屋のバイトは続けている。
いつものように藍里は時雨が作ってくれた賄いを食べる。
「さくらさん、最近どうかな」
「……まぁぼちぼちだよ。まだ心配してくれているんだね」
「そりゃ、一度は好きになった同士だもん。それになんかこんなこと言うのもアレだけど情が残っているというか、なんというか」
それを聞いて藍里はさくらの元カレたちがまださくらに対して情だけはあるという話を思い出した。
そう思うとさくらは不思議な女性だ……きっと自分の見ていないところでは自分の知らないさくらでいるのだろう。
藍里は羨ましくも思ったが、そうでもないか……と。
「清太郎くんのところにまた行くのか、今日」
「うん」
「高速バスで月に2回、青春だねぇ遠距離恋愛」
「そうかな。今はネットですぐ話せちゃうしさ」
「便利になったもんだ」
「だから月に2回に減らしたんだ、会うの」
「ええええっ、だってネットと生身は違うと思うんだけどね……」
「だよね」
藍里は食器を洗った。
「……今度、お見合いの話があるんだ」
「お見合い……」
「もう歳も歳だし、地元の30歳の女性らしい」
「そうなんだ」
時雨は藍里をじっと見てた。
「写真を見たらとても聡明そうで綺麗な人だった」
「……地元ってことはこの仕事は」
「その子の家が喫茶店でね。ちょうどそのお店の調理やってる人が若い人に頼みたいって言われてて」
「じゃあ条件よかったら地元に帰っちゃうんだ」
「……」
2人の間は静まり返った。
鳩時計が鳴った。
「藍里ちゃん、時間だよ。今から行かないと間に合わない」
「あ、うん」
時雨は無理に明るく振る舞って藍里に荷物を渡す。
「もう、わたしたち親子のことは気にしなくていいんだよ。時雨くんも35歳になったし、自分の人生歩んでほしいな」
藍里がそう時雨の右手を握ってすぐ離した。
時雨はもう一度手を握ろうとしたが愛理は突き放す。ようやく彼も諦めたを
「うん、わかった」
藍里は夕方には東京に着き、バス停で待っていた清太郎に抱きつく。
時雨の言った通り生身の方がいい、確かにと。
清太郎の部屋に行きもう一度ハグをしてキスをした。まだこの遠距離恋愛生活も一年目である。
最初の頃は毎週行っていたが。メールや電話、ビデオ電話を毎日数分だけでもして次第に落ち着いてきた。
夜ご飯を藍里が作る。今日はポトフだ。肉よりもウインナーが好きな清太郎のためでもある。
料理をしながら時雨が地元でお見合いをする、という話をした藍里。
「きっと止めてほしかったんじゃない?」
「なんでよ。もうママとも別れたんだし、会ってもいないんだよ?」
「違う違う」
藍里は首を傾げた。
「時雨くんは藍里ちゃんが好きだったんだよ」
「えっ……」
「本当はさくらさんよりも、藍里ちゃんのことが好きだったのかもしれない」
藍里は手を止めた。
自分も好きだった時雨が、さくらでなくて自分に恋をしていたのかと。
本当にもし2人で会うタイミングが違ったら……。
ダメだダメだと藍里は鍋の中を頭でぐるぐる必要以上に掻き回す。自分の隣には清太郎がいる。
清太郎はそれに気づいた。
「……藍里?」
「そんなことないよ。絶対」
ふうん、と清太郎。
「でも藍里も時雨くんのこと嫌いではなかったんだろ?」
「デリカシーなさすぎ、清太郎のバカ」
「ごめん、ごめん!」
「ばーか、ばかばかばか」
「ごめん、藍里ー」
清太郎は藍里を抱きしめる。藍里は笑った。
「嘘、そういうバカなところ含めて好き」
でも彼女の目から涙が出ていた。清太郎は拭ってやる。そして火を止め、思いっきり抱きしめた。
終